剽窃を避ける

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剽窃とは

剽窃・盗用 (plagiarism プレイジャリズム)はアカデミックな世界では非常に重大な犯罪です。大学生はすでにアカデミックな世界の一員であって剽窃は絶対に行なってはなりません。「なぜ剽窃をしてはいけないのか」については「なんで丸写しじゃだめですか?」ってページを書いてみました。

このページの冒頭にあげているインディアナ大学の Plagiarism: What It Is and How to Rocognize and Avoid It というすばらしいガイドでは「剽窃」を「情報源を明示することなく、他人のアイディアや言葉を利用すること」として、剽窃を避けるため次のことに注意しなければならないと言っています。

次のものを利用するときはいつでもクレジットをつけなければなりません。

  • 他人のアイディア、意見、理論
  • 他人が発言したことや他人が書いた文章のパラフレーズ
  • 多くの人が共通に知っていること(common knowledge)でないような事実、統計、グラフ、図など

この「多くの人が共通に知っていること」はなかなか微妙です。なにが「みんなが知っていること」でなにが「オリジナルな主張・発見」かは、その分野をよく知らないとわからないですからね。別の大学のサイトで、「5冊以上の本などで出典なしに挙げられている」ということを目安として提案されているのを見たことがあります。あちこちで出典なしであげられているのは「周知の事実」なので典拠はいりません。

パラフレーズ

なかでも「パラフレーズ」はなかなか難しい問題です。パラフレーズとは、ある表現を他の表現で置きかえることなのですが、どの程度違う文章にしなければならないのかをはっきりと示している文章を、国内ではほとんど見かけたことがありません。私は、それが大学におけるレポートの剽窃の横行につながっているのではないかと思います。

つい最近、この件をよく考えてみなければならない出来事がありました。それを利用して、上のインディアナ大学ガイドのような形で問題を指摘してみたいと思います。

次の文章はソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(高哲男訳、ちくま学芸文庫、1998、p. 129-130)の一部です。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。したがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣──あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の規範体系のなかでも、きわめて重要な特徴──が生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている出生率の低さは、同様に、顕示的消費にもとづいた生活水準をみたす、という必要性に起因している。子どもの標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。

非常に示唆的な洞察ですが、こういう硬い文章に慣れない人にはちょっと歯応えがあるかもしれませんね。翻訳調だし。何を言っているかわからない、と思うひともいるかもしれません。

これをある学生さんがレポートで次のように書いていました。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果、他者から見られる生活の公開部分に比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということが言える。また、派生的な結果として、人々は自らの個人的な生活を他人の目に晒されることから守る、と言う習慣を身につける。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになるのである。そして、間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣も生じることになった。顕示的消費に基づいた生活水準を満たすことを考えた際に、子どもの養育に要する支出の増加は極めて大きく、面目を保つための支出に追われているような階級での出生率の低下も考えられる。現代日本の出生率の低下に関しても、原因の一つとして当てはまるのではないだろうか。

この文章を書いた学生さんは、たしかに、レポートの冒頭で一応、

本稿はヴェブレンの『有閑階級の理論』(1998年、ちくま書房、ソースティン.ヴェヴレン著、高哲男:訳)をもとに、この顕示的消費と、顕示的消費における(略)

と書いているのですが、それでもこれは剽窃になります。

一つには、 ヴェブレンの『有閑階級の理論』のどのページにあるのか明記していない からですが、もっと重要な問題もあります。ヴェブレンの文章とレポートの文章を比べてみましょう。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる他者から見られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということであるということが言える同じ差別のまた、派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目他者の目に晒されることから守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになるのであるしたがってまた、かなり間接的な派生物ではあるが、プライバシーと遠慮という習慣──あらゆる社会の上流階級がもつ礼儀作法の規範体系のなかでも、きわめて重要な特徴──がも生じることになった。なんとしても面目を保てるような支出を実行しなければならない羽目に陥っている出生率の低さは、同様に、顕示的消費にもとづいた生活水準をみたすことを考えた場合、という必要性に起因している。子どもの標準的な養育に要する顕示的消費や結果的な支出はきわめて大きく、強力な抑止力として作用する。おそらくこれが、マルサスが言う思慮深い抑制のうちで、最も効果的なものであろう。面目を保つための支出に追われているような階級での出生率の低下も考えられる。現代日本の出生率の低下に関しても、原因の一つとして当てはまるのではないだろうか。

ほとんどヴェブレンの記述の順番そのまま、細かいところを自分で入れかえただけです。語順さえも直っていません。このように、このレポートを書いた人は、ヴェブレンの文章の重要な語句のまわりにある細かい語句を変えているだけなのです。 これも剽窃とみなされます。

インディアナ大学のガイドは次のようなパラフレーズは剽窃であるとしています。

  • オリジナルの文章の一部の語句を変更しただけか、あるいは語順を変更しただけである
  • アイディアや事実の出典を示していない

ふつうの大学生なら、「出典を示せ」は耳にタコができるくらい聞かされていると思いますが、パラフレーズの件についてはあんまり指導されていないんではないでしょうか。しかし私も上のヴェブレンの件は剽窃だと考えます。

それではどう書けばいいのか

んじゃどう書けばいいのか、ってのはなかなか難しい問題です。インディアナ大学のガイドでは次に注意したパラフレーズは正当だと述べています。

  • オリジナルの情報に正確に依拠する
  • 自分自身の言葉を使う
  • 読者が情報源を理解できるようにする
  • オリジナルの文章を正確に記録する
  • 文章におけるアイディアにクレジットをつける
  • 引用記号をつけることで、どの部分がオリジナルのテキストからとられたもので、どの部分が自分で書いたものか判別できるようにする

インディアナ大のガイドは、剽窃を避けるためもっと具体的に次のような方な方策を次のように述べています。

  • テキストから直接に書き写したものには常に引用記号(「」)を付ける。
  • パラフレーズする。しかし、いくつかの単語を書きかえただけではだめ。次のようにします。
  1. まずパラフレーズしたい文章をよく読む。
  2. 手でその部分を隠したり、本を閉じたりしてテキストが見えないようにする(テキストをガイドにしちゃだめ)。
  3. 覗き見せずに自分の言葉でそのアイディアを書いてみる。
  • 最後に、オリジナルの文章と自分の文章をつきあわせてみて、まちがった情報を書いてしまってないか、同じ言葉を使ってしまってないかの二点をチェックする。
  • (インディアナ大のには書いてないけど)忘れないうちに出典をつける。

さっきのヴェブレンの文章の前半を、実際に上の方法1と2にしたがってやってみました。

ヴェブレンの『有閑階級の理論』によれば、プライバシーという規範は顕示的消費と関係がある。ひとびとが他の人々に見せつけるために消費するのであれば、他人に見えない部分ではそれほど消費する必要がない。むしろ、顕示的消費を行なうため、見えない部分に費す費用はより少なくなる。そのため、生活の他人に見えない部分は相対的に貧弱でみすぼらしいものになる。そういう貧弱な部分を他人に見せないために、プライバシーを守るという習慣が発生するのである。(ヴェブレン『有閑階級の理論』高哲男訳、ちくま学芸文庫、p. 129)

あんまりうまくないですね。あはは。まあ平凡な大学教員の読解力、記憶力、文章力なんてこんなもんです(私ヴェブレンほとんど勉強したことないしとか言い訳したくなる)。でもここまで来れば、まあ「自分の文章だ」ってな感じでもあります。

さらに教員の側から

まあ私自身が拙いパラフレーズの腕を見せたのは、それが ほんとうに難しい ということを示すためでもあります。私の考えでは、学者の腕のよしあしの大きな部分はパラフレーズの巧拙によって決まります。まあそればっかりやっている業界もあるわけで。

ちゃんと内容を理解しないと適切にパラフレーズすることはできません。逆に言えば、パラフレーズを見ればその人がどの程度内容を正しく理解しているのかがわかる。学生にレポートを書いてもらうのは、授業内容を理解してもらうためなわけで、つまり「適切にパラフレーズ」させることによって内容を把握させたいと思っているわけです。だからそれは一所懸命やってほしいのね。

パラフレーズだけでなく、剽窃一般についてもちょっと書いておきます。レポートを書かせようとするときに一番頭が痛いのが剽窃です。正直、採点するのがいやでいやでしかたがないくらい教員にとって頭痛のタネなのね。

教員の側からすれば、どの大学の何回生がどの程度の文章を書くことができるのかははっきりわかっています。文章がうまい、難しい言葉を平気で使う、斬新な発想がある、なんてのはたいてい剽窃なのね。そんなのに点数出したくない。さっきのレポートでは、一目見たときはどっかのwebからのコピペに違いないと思いこんでしまいました。その発想の豊かさと、奇妙な翻訳調が、勉強不足の大学院生あるいはかなりあやしい大学教員の文章に見えたのです。

べつにうまい文章、きれいな文章、すごい発想なんていらないから、とにかく自分で書いてみてください。

もっとプラクティカル

日本の大学生レベルでは、インディアナ大のような注意をする前の段階の学生が多いと思います。私はもっとプラクティカルなノウハウが必要ではないかと思います。やってみましょう。

さっきのヴェブレンです。

人目につく消費を支持するこのような差別化の結果生じてきたこと、それは、衆目の前で送られる生活の公開部分がもつ輝かしさに比べて、ほとんどの階級の家庭生活が相対的にみすぼらしい、ということである。同じ差別の派生的な結果として、人びとは自らの個人的な生活を監視の目から守るという習慣を身につける。何の批判も受けず秘密理に遂行しうる消費部分に関して、彼らは隣人との接触を完全に断ち切ってしまう。こうして、産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる。

たいていの学生はこれだけの文章もけっこう歯応えがあると思います。どうすりゃいいんだろう?そこでまず、次のように書きはじめてみます。

市民社会でのプライバシーの問題について、ヴェブレンはどう考えているのだろうか。

まず自分で疑問文を書く。次に、ヴェブレン本人の文章を引用する。さらに疑問文をつける。

彼は「産業的に発展した大部分の共同社会では、個人の家庭生活は、一般的に排他的なものになる」(p. 119)と述べる。しかしなぜ産業的に発達することと、家庭生活が排他的なものになることが関係しているのだろうか。

ここまで来ると、ずいぶん書きやすくなってくる。これなら答えられるかもしれないと思ったら次のようにすればよい。

ここで重要なのがヴェブレンが注目した「顕示的消費」である。顕示的消費とは〜

「顕示的消費」とかってのを一応説明するわけね。

ヴェブレンの指摘によれば、近代的な共同社会では、顕示的消費のために他人に見えないところに費す費用を抑えるという動機がはたらく。したがって、家庭の内部での生活はみすぼらしい。

さらに、自分の体験から例を加えられればよりベター。読者は、「この人実感でわかってるな」と思います。

たとえば、驚くほど華美な服を着ている女子大生が、アパートに帰るとケバだったジャージ姿でカップラーメンをすすっている、などという光景はいまでも見られるだろう。しかしそういう格好は他人には見られたくない。だからプライバシーが重視されるようになるのである。

もちろんこうして自分の頭で書いていくと、結果的にできるのはヴェブレンの高尚な文章から遠く離れたしょぼいものになる。しかしそれでいいんです。それが文章を書くということなのです。それがなにかを学び理解するってことなのだと思います。


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コメント

  1. 匿名 より:

    引用のやり方で勝手に文章を変えるなとありましたが、ここでは自分自身の言葉を使うとあります。どのような違いでしょうか。

  2. 江口 より:

    「」や段落しして、「引用である」ということを明示した場合は文章を勝手に変えてはいけません。

    一方、「」などで「そのままの引用である」ことを明示しない場合は、自分の言葉でパラフレーズしなければなりません。もとの文章をそのままつかってはいけません。

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