『ウンコな議論』 ISBN:4480842705 に品川哲彦先生が
書評を書いている。
うーん、品川先生は山形先生の出典や解説その他の問題についてはぜんぜん触れていないな。いろいろ指摘していただけるのではないかと思っていたのだが。やっぱり私の勘違いなのかな。
あと、
フランクファートはウンコな議論の横行に対抗する術を説いているわけではないが、本書のなかに引用されている、友人のちょっとした不用意な表現についてもひとこと文句をつけずにはいられなかったヴィトゲンシュタインの厳格さは参考になるだろう。評者は本書を読んでこんなことを考えた。たとえば、一時期、日本の政治家が口にした「人の命は地球より重い」というフレーズ。もし、このフレーズを耳にしたら、「その重さは物理的な意味の重さか。もしそうなら、命の重さをどうやって測定するのか。たとえば、死の直前直後の体重の変化を調べるのか」などと反問すべきだろう。真実への配慮のみがウンコな議論にまみれることを逃れる術だからである。
これは品川先生自身どの程度本気で書いているのかわからん。品川先生もブルシットしようとしているのかどうか。
こんな奇妙な文章を読むと、しばらく前にある方が、「あのフランクファートの論文はブルシットも時には意味があると読むべきなのだ」とおっしゃっていたのだが、そっちの方が正しいような気がする。少なくとも私は上の品川先生のような返答をするのはウィトゲンシュタインと同じくタイプのガイキチとみなすべきだと思し、真実への配慮ってのはそういうもんではないような気がする。少なくともそれはふつうの人間の会話ではない。哲学者というのはたいへんな人々だ。
ウィトゲンシュタインの逸話は下。
ウィトゲンシュタインはその哲学的なエネルギーを、もっぱら狡猾で破壊的な「ナンセンス」と考えるものの発見と阻止に費やしていた。私生活でもどうやらそうしていたらしい。これは一九三〇年代にかれとケンブリッジで知り合いだったファニア・パスカルの語る逸話に現れている。
扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車にひかれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう。」(『ウンコな議論』、 p.21)
どうでもいいけど、この「訪ねて参る」は日本語としてどうか。「訪ねていらっしゃった」ではないのかな。筑摩の編集者は日本語直さないのかな。
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