『性現象論』

浅野千恵のかなり優れた論文「『性=人格論批判』を批判する」(『現代思想』第26巻11号、1998)を読んでいたら、加藤秀一の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』にぶつかった。あれ、性暴力について書いてたんだ。でちょっと『性現象論』該当個所を読んでみるが、なんだかすごい。
性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?
  2. 男も暴力的な犯罪の被害者になったときに非常に屈辱感を味わうが、それとは違うか?
  3. 強姦の被害者の女性はいまだに汚れたものと扱われているのか?
  4. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって?……可哀相に……もう処女じゃないのか……でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。明日ちょっと批評書きたいのでメモだけ残しておく。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為であるはずがない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

性暴力を他の暴力から区別するものはなにか。私には答は明白に見える。それは性欲だ。

性現象論―差異とセクシュアリティの社会学
加藤 秀一
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