性=人格論とか

セックスやセクシャリティまわりの社会学や哲学まわりというのはほんとうに難しい。私の頭が悪いからなのだろうが、よくわからない議論が多くて困る。

今日は「性と人格」まわりの議論を見てみようとしたのだが、これがまた泥沼。自分用にちょっとだけまとめを作っておく。

「性=人格論」という言葉がある。この「=」をどう発音するのかが非常に気になるのだが、まあそれは置いといて。華やかな人々がこの「性=人格」論をやっている。重要なものだけあげると

1992 (1995)松浦理英子「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」
1994 → (1998)上野千鶴子「『セックスというお仕事』の困惑」
1995赤川学「売買春をめぐる言説のレトリック分析」
1998浅野千恵「『性=人格論批判』を批判する」
1994 (1998)上野千鶴子発情装置―エロスのシナリオ
1999赤川学セクシュアリティの歴史社会学
2003杉田聡*1『レイプの政治学』

とか。瀬地山・角田対談(1998)とかもあるんだが、まああとで。

赤川先生の言説分析

この「性=人格論」という「=」のはいった形の言葉を造語したのは、どうも赤川学先生のようだ(と浅野千恵先生が言ってる)。

売春が「人格」や「人間性」との関わりにおいて問題化されている。
こうしたレトリックの前提になっているのは、「性そのものが人格や人間性の中心に位置する」という認識である。これを性=人格論のレトリックと呼ぼう。
(江原由美子編『性の商品化』勁草書房1995, p175 )

これだな。

赤川先生は、その後超労作『セクシャリティの歴史社会学』の第11章でさらに詳しく性=人格論の源流をさぐっていらっしゃる。1995年の論文では「レトリック」と呼んでいたが、1999には「レトリック」ではなく「言説」と呼んでいる。(おそらく「レトリック」という言葉が与える「単なる表現上の修辞や工夫」といった印象を嫌ったのだろう)

んで、この赤川先生の研究は私にはけっこう問題があるように見える。

まず赤川先生は「人格」の概念を知るために佐古純一郎の『近代日本思想史における人格観念の成立』という本を参照して、ほとんど無批判に信用しているように見える。(佐古先生の本は持ってないのでわからん)

p.275で赤川先生は、

佐古によれば、「人格」という言葉がPersonalityの訳語として用いられるようになったのは明治二十年代前半

だという。これはもちろんOK。

それは当初は心理学の訳語として使われていたが、やがて中島力蔵・井上哲次郎らによって哲学・倫理学上の用語として定着していく。

ということらしい。これもOK。ただし、そっちの意味の「人格」はpersonalityの訳語ではなく、personの訳語のはずだ。これについてどういうわけか赤川はまったく触れていない。(そしてそれを柳原良江先生は博士論文でそのまま援用してしまっている。おそるべき劣化コピーの連鎖。)

この混同をしたのが佐古先生か赤川先生かははっきりとはわからん(おそらく佐古先生)が、非常に重大な混同だと思う。赤川先生はp.276でこう言う。

まとめると、近代日本において「人格」という観念は、(1)人間の中核にあるものであり、(2)「物」や「器械」ではなく、(3)手段として利用してはならないもの、という含意を持つ記号として生まれた。その意味で「人格」という観念は、現在私たちが通常の意味で使っている以上に、哲学的・倫理学的な負荷の高い概念であったようである。筒井清忠が論じているように、その事情は、「人格」概念が、「人格の向上」を旗頭とし明治末期に登場した修養主義=人格主義とも密接に関わっていたことで一層、強化される。

佐古先生はおいといて、これはとりあえず赤川先生の解釈と受けとめていいのだろう。(赤川先生は「=」が好きなのね。たしかにこの人が造語したように見えるな。)(あと赤川先生が「記号」や「観念」や「概念」をどう使いわけているのかも興味あるが、まあいいや)

このまとめは、(1)の心理学でのpersonalityと、(2)と(3)の(カント的な)倫理学でのpersonを混同してしまっているため、使いものにならないように見える。たしかにカント先生は、価格をもつ「物」と、尊厳をもつ「人格」をはっきり区別しているし、

「あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性を常に同時に目的として扱い、決して単なる手段として扱わないようにせよ。」

のような形で人格を単なる手段として利用することを戒めている。

でも、カント的な意味では、「人格person」は(1)人間の中核にあるものではない。カント的な意味だったら、それは人間性Menschheitだ。さっきの1995年の論文では正しく「人間性」にも触れているのに、なぜ『歴史社会学』では落としたんだろうか。

「まとめ」の(1)や、修養主義で言われるのは性格特性character traitや人間性や道徳性をさす「人格」で、けっきょく赤川先生の「人格」は日本語で同じ訳語になる複数の概念をごっちゃにしたものでしかない。

赤川先生は日本の社会学者のなかでも抜群に明晰な方なので、もちろんそんなことには気づいている。大正~昭和の恋愛至上主義と性教育を概観して、次のように言う。

性=人格論とは、恋愛至上主義のフィールドにおけるカント的用法、つまり「人格である性を、道具・モノ・機械のように扱ってはいけない」という倫理命令と、性教育のフィールドにおける性の重要性の強調、つまり「性は人間生活の中核に位置する重大なものである。」というフロイディズム的用法との二つの要素からできあがっている。

これは、非常に重要な主張だ。ただしカントが恋愛についてどう考えていたかというのはおもしろい問題で、カント自身は恋愛至上主義からはもっとも遠い場所にいるはずだ。赤川先生は「恋愛至上主義」がカント議論の流れにあるというが、カントというよりはゲーテ→ショーペンハウエル→トルストイ→ロマン・ロランとか続くロマン派からヒューマニズムの議論なんじゃないだろうか。文学上の自然主義に対する反動もあるわけで、ここらへんもっと難しい対立があるように見える。

まあそこらへんの細かい議論はおいといて、問題は、こういうまったくちがった源流から来ている(原語が違うはずの)「人格」という訳語が、いっしょくたに議論されてしまっている点にある。赤川は少なくとも源流が違うのだからこれらの「人格」がまったく違う概念であることも理解しているはずなのに、それをはっきり述べない。むしろ積極的に混同してしまう。上で引用した文章に続いてこう言う。

そしてこの二つの要素は、戦後の純潔教育において合流・合併することになる。

このようなところに、赤川の「性に関する言説の歴史社会学的記述」という方法論そのものの重大な欠点があるように見える。心理学的なpersonalityと倫理学的なpersonが混同されたのは歴史的な必然ではなく、偶然にすぎない。ぶっちゃけて言えば、personalityとpersonが混同されたのは、どちらの派閥も日本語で「人格」という訳語をつかってしまったために、頭の悪い人々がその二つを混同してしまったからにすぎない。しかし赤川の方法論では、「とりあえずこの時代にはこういうふうに言われていたのでこうだったのだ」としか言えず、批判することができない。赤川先生は、ここで混同があったことを指摘し批判するべきであって、同じ「人格」という日本語を使っていたからといって、それを無批判に受けいれてしまうのが非常に奇妙に見える。彼の方法でわかるのは、せいぜいのところ、「混乱した思考のなかで日本人の文筆家たちが「人格」と性のつながりについてどう考えていたか」でしかない。そしてそれはふつうの人々の生活や意識からも乖離してしまっているかもしれない。(あら、うまく表現できない。私の頭が悪い。)

なんかだめ。わからん。赤川先生はp.286-7で吉本隆明まで持ちだしてごちゃごちゃやるのだが、わたしには理解できない。うう。

上野千鶴子

赤川先生の方法論については上の記載はなんかおかしいので考えなおすです。

で上野先生なんだが、上野先生が『発情装置』の序文でやっていることは、赤川先生や加藤秀一先生の研究に影響を受けているんだと思う。(90年代後半から上野先生は親分になり、子分たちの研究を十分参照するようになった。これは「フェミズニムの社会学」があるとすれば非常に重要な一面なんだけど・・・*2上野先生は、

セクシュアリティの歴史的研究があきらかにするところによれば、性と人格の結びつきは、「近代パラダイム」というべきものです。もちろんここには男にとっては性と人格の分離が可能だが、女にとっては性と人格との分離は不可能だ、という「性の二重基準」が組み込まれています。(p.23)

とかって言ってしまうわけだが、ここで上野先生が「人格」という言葉で何を言おうとしているのかが曖昧でわからん。少なくとも赤川先生のいう(1)の意味か、(2)(3)の意味かをはっきりさせる必要があるんだろうが、これではどうしようもない。社会学者でこれほどまでに自分の使っている概念に無批判な人はめずらしい。おそらく、とりあえずただ書いてみたのだろう。

そもそもカントからロマン主義的な「人格」が近代的なものだってことはそうなのかもしれないが、もっと注意が必要に見える。セックスははるか古代から重要だったと思うのだが。

浅野千恵先生の「性=人格論批判」批判」

浅野先生というひとは上野先生とかと比べるとずいぶん真面目な人のようだ。深刻すぎて困ってしまう。「『性=人格論批判』を批判する」という論文は腰のすわったフェミニスト的意識に根差したよい論文だと思う。(私はこの人が書くものを非常に高く評価している。論文は先生のホームページから手に入るのだが、浅野先生、ディレクトリが丸見えですよ。 )

浅野先生は(1)赤川流の「性=人格論は近代固有だ」」という見方を否定。フーコーはインチキ。(2) 「性=人格論」批判は、たんなるレトリックである「性=人格論」を実体化してしまっているのでダメだ、(3) 「性=人格論批判はフェミニスト的でない。」の三点を主張したいようだ。ここでは議論しないけど、(1)と(3)はその通りだと思う。問題は(2)が何を主張しているか。

私がとりあえずの疑問として提示しておきたいのは、「性=人格論批判」の言説が、むしろレトリックレベルで提出された議論~を実体視するところに成り立っているのではないかという疑問である。

と言うわけだが、この周辺の部分が読みにくくてよくわからない。もし非常におおざっぱな解釈をしてもよいのなら、浅野先生が主張したいのは、「性と人格が結びついているなんてのは、売買春を非難したり規制するためのたんなるお話。だから、そんな議論をまじめに受けとって議論するのはだめだ」ということになる。これでいいのだろうか。

浅野先生も「人格」ということでなにを言おうとしているのかはっきりせてくれないから、せっかくの気合の入った論文もだいなし。もったいない。

杉田聡先生の上野批判。

んで、「性=人格」論者の代表が杉田聡先生なわけだが(NHKビジネス英会話の先生とは別、のはず)。

あんまり好きな人じゃないけど、とりあえず上野先生の「性と人格のむすびつき」が多義的であることを正しく指摘している。さすが哲学専攻(というか、そういう分析ができないようでは哲学勉強している価値がない)。杉田先生によれば、上野先生の「人格」概念は少なくとも

  • 人となり
  • 尊厳を有する人たるペルゾーン
  • 愛もしくはそれに類する心情・内面

の三つの意味で使われているという。最初のが赤川先生の言う(1)のpersonality、二番目が赤川先生の(2)、正しい。三つ目を「人格」と呼ぶのはかなりむずかしいのだが、上野先生が斎藤美奈子のインタビューに答えたものなどを見ると(浅野論文参照)、たしかにそういうルーズな使いかたをしているようだ。「愛」や「親密性」が基本的に「人格的なまじわり」なので、そういう使われかたをするようになるんだろうな。ルーズすぎるが。

わたしだったらこれに加えて「人間の価格」という意味を付け加えたいと思うけど。たとえば貞操を失なうことによって失われると考えられていたのは、私には女性の市場価値そのものに見える。「売春すると人格が損われる」「強姦は女性の人格を損なう」とかって発言で意味されているのは、「売春する女/強姦された女は価値が下る」のように見えるし。(言うまでもないが、私はこの判断にコミットしない。)

杉田先生の分析によれば、上野先生は、(I)性が「人となり」に重要だという考え方と、(II)性(の自由)は人権の一部だという考え方の二つを混同してしまっているという。さらに杉田先生は、上野は(III)ある種の性は人となりを汚す という考え方を採用してしまっているという。

あとで議論するけど実は杉田先生は上のIIIを受け入れているはずで、これが問題を複雑で泥沼にしてしまっているのだが、今日はまあよかろう。

まとめ(られん)

飽きた。上野先生も赤川先生も浅野先生も、「人格」の意味をちゃんととらえておらんというかなんか混同しているというか、明晰化しようという努力のあとが見られない。杉田先生はそこらへん努力している(が、ぜんぜん自分ではダメな議論をしていると思うが、それについてはまた後日)。

おまけ。加藤秀一先生のショッキングな主張

ついでにメモだけ。加藤秀一先生の『性現象論―差異とセクシュアリティの社会学』はよく書けていると思っていたのだが、よく読むとなんかあやしいところがたくさんある。性差や性の商品化についてはおもしろいことを言っているのに、性暴力についてはいきなり議論の質が落ちていると思う。たとえば次のような文章(「性/暴力をめぐって」という節)。

ごく基本的な事柄から確認していこう。強姦が被害者の女性に屈辱感を与え、また社会的にも彼女を汚れたものとして扱わせるということ、すなわちそれが単なる暴力ではなく、同時に辱めるという行為としても成立することは、ある時点での強姦がそれでは終わらないといいうことを意味している。 (p.326)

「性暴力」の被害者が辱められるということ、それはいわば「強姦された女」という不本意な名 — カテゴリーの名 — が彼女に強いられるということであるが、通常そのような名は暗黙の領域にとどまっている。むしろそれは、自らは姿を顕わさず、被害者の本物の名、かけがえのない実存と結びついた名にとり憑き、それを汚染するというやり方で、外傷的経験を反復させるのである。「誰々」は強姦されたんだって? — 可哀相に — もう処女じゃないのか….でも自分も少しは感じたんじゃないの?—-それは「強姦された女」というスティグマが彼女の唯一性を侵食しつくしてしまうという事態であり、ほとんど彼女の存在そのものの否定に等しい。 (pp. 329-330)

なんかすごいな。バトラーとかの悪い影響がある。

  1. 「屈辱感」とはどのような感覚か?男性も暴力的な犯罪の被害者になったときに強い屈辱感を味わうと思うが、それと強姦の被害はどう違うか?
  2. 強姦の被害者の女性はいまだに「汚れたもの」と扱われているのか?
  3. 加藤先生が「汚れたもの」と思うだろうってだけではないのか?
  4. 処女とか貞操とかっていうのはこの本が出た90年代にはこういうふうに扱われていたのか?
  5. 強姦された女というスティグマを貼るのはまさに加藤先生のような考え方じゃないの?「社会がそう思う」は往々にして「私はそう思う」しか意味していない。上の文章で加藤先生が「存在そのものの否定に等しい」とするのは、たんに「社会が一般にそう考えている」という記述には読めない。
  6. 「少しは感じたんじゃないの?」と加藤先生の言う「屈辱」との関係が、往々にして見逃されている巨大なポイントだ。今すぐには議論できないけどそのうち書く。

この節は性暴力と「辱める」ことの関係をキーにして考察を進めているのだが、加藤先生はほんとうに強姦とかその他の性暴力の核にあるものが女性を辱めようという欲求なり意図だと思っているのだろうか。

強姦が「辱める」行為の場合もあるだろうが、必ずしもそうでなければならないわけではない。いかに男性の視点から性暴力を考えることが難しいかがわかる。

松浦理英子先生の「嘲笑せよ」論文の影響力が90年代にいかに強かったのかがわかる。あとブラウンミラーやエストリッチ。私にはレイプ犯の内面を見ることは難しいけれども、想像することはできると思う。私の内省によれば、彼らが「女性を侮辱しよう」なんてことを第一の目的にしているはずがないと思う。たとえば京大ギャングスターズのギャングレイプ犯は、女性が寝ている間にセックスしようとしたんだし、気づかなきゃそのままにしようとしてたんだろうから、直接に「侮辱」しようとしたなんてことはないだろう。(文字通り侮辱するためには相手がそれを意識する必要があると思われる。)彼らに「女性を侮辱するつもりだった?屈辱を味あわせるつもりだった?」とたずねても、「そんなこと思いもしなかった」と答えるんじゃないかな。(もちろん、それが問題なのだが)レイプは暴力でもあるが、とりあえずはセックスだ。性暴力を他の暴力と区別するのは、その動機の性欲にほかならない。この点でも杉田聡先生は正しい。

感想

まあ今日あげたような華やかな人びとの研究ってのは、ちょっとおかしいところがあるような気はするがインチキではない。偉い。攻撃しているわけではないつもり。

杉田聡先生の人格論アゲイン

杉田先生の『レイプの政治学』の議論は、全体としてよくできていると思う。80年代のフェミニストたちによる「レイプはセックスじゃなくて暴力」という議論を叩く。これはOK。人格は尊厳を持っていること、性的な自由は人格の尊厳の維持のためにも、個人の幸福の追求ににとっても核心的部分であることを主張、これもOK。上野千鶴子の反「性=人格」論を曖昧だとして叩く、OK。

新レイプ神話や上野を攻撃しているときは明快なのだが、彼自身の立場を擁護する肝心の部分になるととたんに歯切れが悪くなるのが難点だ。

杉田が自分の立場を弁護しなければならない点として (1)強姦被害をどう見るか、性的インテグリティのようなものをあまりにも人格の中心部分とみると、強姦被害者は回復不可能な傷を負ったことにされてしまうのではないか、 (2)売春も性的自由の一部ではないのか、というのがありそうだ。杉田先生は明晰な方なのでもちろんこれに気づいてる。

強姦被害の問題

まあそもそも上野が松浦の尻馬に乗って「性と人格を分けよう」と主張したのは、やっぱり強姦被害の問題がある。なぜ強姦は特別な種類の犯罪、人格に対する犯罪とみなされなきゃならんのだ、他の犯罪とどこが違うのだ、というのはもっともな疑問に思える。

杉田先生は、まず、松浦→上野の「意味づけ」を変更しようとする試みは役に立つことはあるかもしれんが社会的にダメだという。p.234-236。たとえば息子が自動車に轢き殺されたときに、「それはたいしたことがないことだと考えよう」なんてのはナンセンスだ。OK。よい議論。また、「レイプは女性を侮辱するために行なわれるのだから、性と人格を切りはなしてしまえばよいのだ」という上野の議論がレイプ被害を少なくする戦略にはならないという指摘も正しい。でもこれだけでは杉田先生は「性犯罪のなにが特別か」に答えていない。これに対するこたえがどこにあるか私は見つけることができない。もしあるとすれば、

たとえば、強力な貞操モラル・・・が成立しているところでは、強姦被害は貞操を破るものとして、女性にとってたしかに「特別な侵害」となっているであろう。・・・弱化したとはいえ「貞操」モラルの残渣、あるいはそのある種の変種・・・でさえ、依然として強姦が女性にとって特別な侵害となる原因になる。人権が意識された社会っではことのほかそうであろうが、そうした意識がなくてもまた同様なのである。
だから、性と人格とを切り離したとしても、そうした根強いモラルが生きる社会では・・・強姦が女性にとって特別な侵害になるという事実は、何ら変わらないのである。(p. 243-4)

ここしかない。つまり杉田先生は、社会のモラルがそうだから強姦は女性にとって特別な侵害なのだ、と主張したがっているように読めてしまう。もしこの読みが正しければ(あんまり自信がない)、松浦や上野の議論と大きな距離があるわけではないように見えてしまう。おかしすぎる。杉田先生はもっとはっきりと性犯罪が特別な犯罪である根拠を提出しなければならないと思う。

私だったら、性的な侵害を受けることは文化とは独立に、実際に被害者にとって心理的に特別な経験なのだ、それは人間に共通の経験だ、と主張して終わりにするんじゃないかな。それで十分なはずだ。誰でも頭を殴られればいやなのと同じように、レイプされることはそれよりイヤなことなのである。(そして進化心理学もそれを支持するはずだ。Randy Thornhill and Craig T. Parmer, A Natural History of Rape: Biological Bases of Sexual Coercion, The MIT Press, 2000やDavid M. Buss, The Evolution of Desire: Strategies of Human Mating, Basic Books, 2003とか。)

これに対して社会構築主義とかって馬鹿な立場を原理主義的に採用すると、強姦を受けた女性の嘆き悲しみも社会的な条件づけや文化に依存することになってしまうから、「女性が現にそう感じるから」という主張の威力が薄れてしまう。まったく馬鹿な立場だと思う。

売買春は?

杉田先生のもう一つの弱点は、売買春の自由のようなものをどう扱うか。性的自由が認められるんなら、なんで売買春しちゃだめなの、というのはもっともな疑問だ。これで非常におかしな議論をしている。

「ある種の性的自己決定は、法的な厳しい制約を課されるべきである。・・・自己決定権は、それ自体尊重されるべきであるとしても、その行使は他者を害するかぎりはっきりと制限されなければならない。」

これはまともな議論である。危害原則。また、

「他者を害する」とはいかなる事態を指すのか。他者に対する身体的危害はもちろんだが、精神的危害を加えることもここに含まれるであろう。またより広く、他者の有する権利・・・に対する侵害も含まれるだろう。」(p.180)

これもOKである。しかし杉田はここから次のように論を進める。

ある人が、他の人と比べて不当に差別され、それによって「同等に扱われる権利」(平等権)を侵害されたとき、たとえその人が精神的苦痛をこうむらなかったとしても、それは他者を害する行為とみなされなければならない。(pp.179-180)

ここでかなり異常な議論になってしまっている。

言論の自由—これはふつう「精神の自由」として公権力による侵害を受けない権利であるが、一方でより積極的な行動の自由を含意している—の行使の結果、たとえば黒人やユダヤ人、さらには同性愛者、「内縁」者といったマイノリティ集団に対する偏見や憎悪が助長されるとき、そうした自由の行使は無制限ではありえない。(p.180)

上は主張はわからないでもないのだが、かなりホットな議論の対象となっている問題である。少なくとも自明だと言えるような事例ではない。

次に問題の多いパラグラフが続く。

「自己決定権」は、前記のように結婚の自由を含むと理解することができるが、これがたとえば同性愛者や「内縁者」に対する差別をもたらしうることは、明らかであろう。

「明らかであろう」と言うがまったく明らかではない。

人はそれぞれ個人として現われるが、多かれ少なかれある種の規定性を背負った類(たとえば異性愛者、制度的結婚の肯定者として現われる。そして私たちは、その種の規定性を理由に、しばしば人を差別しがちである。差別(平等権の侵害)は、ふつう個人に対する行動にうちに現われるとはいえ、その実差別は、ある種の類的規定をもつ人々に、したがって集団に、向けられるのである。だから「他者」に対する侵害は、個人を越えて集団に及ぶと言うのである。

非常にわかりにくい文章だが、言いたいことはおそらくこうだ。われわれはもちろん個人ではあるが、同時に常になんらかの特徴をもったグループの一員でもある。たとえば私はkalliklesという偽名を持つ個人であるが、同時に「男性」であり「京都市民」であり「日本人」であり「血液型B型」であるように、特定の特徴によってあるグループに入れることができる。

「差別」は常にあるグループに対してなされる。「差別」は私が理解している意味では、「当の問題に無関係な特徴を根拠として扱いを変えること」である。企業が新入社員を採用する際に重要なのは、「その新入社員がその企業にとって有用な人間であるか」であるはずで、そこでは男女の差はとりあえず重要な違いではない。だから「女性だから」という理由で入社を認めないのは「差別だ」と言われる。同様に「生まれた地域」もまたふつうの企業にとっては重要ではない特徴のはずだ。

もちろん、銭湯の女湯に男は入ることができない。なぜなら、われわれは一般に異性に裸を見られることを恥ずかしいと思うことが多いので、銭湯での性別は重要だからである。

さて、差別はある特徴をもとに扱いを変えることなので、ある特徴を共通にもつグループに対してなされる。「おまえはノビタだから仲間に入れない」という「差別」は考えられない。むしろ、差別は「おまえは男だから」「おまえは北海道出身だから」という形になる。「女だから~」という差別は女性というグループに対して、「アジア人だから~」はアジア人に対してなされる差別である。つまり、差別は常にグループに対するものである。ここまでは杉田の言うことはわからないわけではない。

一般に行動は、それが担いうる意味・・・に対して、即自的(無自覚的)でも対自的(自覚的)でもありうるが、ここで問われるべきは、即自的な行動であるよりは対自的な行動である。いま「同性愛者」差別にふたが、たとえば異性との結婚は、即自的な行動として、自らを異性愛に—サルトル流に言えば—アンジガジェ(拘束)するが、それは同時に世界全体を異性愛にアンガジェすることであり、したがって時として同性愛差別を招きうる。しかし、仮にそれを招いたとしても、その差別は、源泉が即自的な行動であるだけに、ふつうは暗示的implicitなものとして許容しうるであろう。

ここから議論は泥沼に入る。こういう難解な文章や独特の術語が出てきたときは用心しなければならない。下敷になっているのはサルトルの『実存主義とは何か』の悪名の高い個所。

「異性との結婚はみずからを異性愛にアンガジェする」。サルトル自身がこういうことを言っているのだが、この文章が何を言おうとしているのは非常にあいまいである。「アンガジェ」に説明されていないさまざまな意味が含まされており、文章の意味を画定することが非常に難しい。「異性愛に拘束する」と解釈しても不明瞭である。異性との結婚が自分を異性愛に拘束するとはどういう意味か?「拘束する」という言葉を文字通りに解釈すれば、おそらく「異性と結婚したら、それからずっと異性を愛するということに自分を拘束し約束したことになる」と解釈するべきなのかもしれないが、いったい結婚することのどこにそういう意味あいがあるのだろうか。なぜひとが異性と結婚したらそれ以後ずっと異性を愛さねばならないということになるのだろうか。わたしにはさっぱりわからない。

さらに悪いことに、そういう異性との結婚は「世界全体を異性愛にアンガジェ」することになるらしい。「世界全体を異性愛にアンガジェ」することがなにを意味しているかわたしにはまったく見当がつかない。「他人も異性を愛するよう拘束する」のだろうか?このようなタワゴトにつきあっている暇があるひとはそれほど多くないだろう。

好意的に解釈すれば、「異性と結婚することは、そのひとの「私にとっては異性との結婚が価値のあることに思える」という価値判断を表明することになる」ということだろう。しかしこれのどこが問題なのだろうか。

さらに、これが「同性愛差別」になる理由がさっぱり見当がつかない。なぜ私が異性と結婚することが同性愛差別と関係があるのか。杉田は差別を招き「うる」としているが、どういう場合にどういうタイプの差別を招くのかわからない。

さらに「ふつうは暗示的なものとして許容しうるであろう」の根拠も明白でない。たんに杉田がそう思いこんでいるだけである。

全体としてこのパラグラフはひどい文章である。意味不明。

だが、対自的な行動から発する差別はそうではない。一般に対自的な行動は、即自的な行動に対してはもちろん、単なる言葉の使用・・・よりもはるかに明確に、自らを、そして世界全体をある方向にアンガジェし、それを通じてより明確なマイノリティ差別を生むのである。」

自覚的な行動は世界全体をアンガジェする力が強いらしい。しかしアンガジェとはなにか?

買春は、対自的な行動である。・・・買春は、ふだんなら望んでも容易に手に入らない女性の身体を、金の力により自由にし、玩弄する行為である。それは、明確な女性支配の行動である。・・・また買春によって男性は、女性を(個々の女性のみか類・集団としての女性を)、男性の欲望に奉仕すべき性的モノ(セクシャル・オブジェクト)であり、金で支配してよい対象であるとする見方の方向に、己れを、したがって世界全体を明確にアンガジェ(拘束)する。それ故、買春者が実勢に女性一般(類・集団としての女性)を差別視する蓋然性は、非常に高い言うべきであろう。ある女性たちを、金で支配してよい存在と見るなら、そもそも一般に女性を、したがって他の女性を支配すべき存在と見ることは、彼にとって正当なのである。(p.182)

この何度も繰り返されるサルトル流の「世界全体をアンガジェする」の意味が明確でない。ある男性が買春するかどうかで世界全体が変化するというのはわかりにくい。おそらくもっとふつうの言い方をすれば、「買春することによって、その男性は女性を支配すべき存在と見るような世界観を手に入れることになる」ということだろう。

構造的・集合的な関係においてみたとき、買春は(ポルノ視聴とともに)「男権主義的セクシュラリティ」や同パーソナリティを作り、女性の性的モノ化、女性に対する支配・統制・差別を生み出さずにはおかない。・・・買春が右のような行動であるとしたら、買春は女性の平等権を侵害する営みであると言わなければならない。それ故、仮にそれが自己決定権の行使とみなされようと、買春はこの故にまったく権利性を主張できない。 (p.183)

これまた難解な文章だが、おそらく言いたいことは、「買春やポルノ視聴は女性に対する支配や差別の心理的原因になるからだめだ」ということなのだろう。

よくわからんよな。たとえばある女性が、留学するためのお金をためるため、一時的に風俗嬢として生きることを主体的に選択し、自分のセックスとひきかえに男性から金を要求することを決断したときに、この女性はいったい何にアンガジュするんだろうか。この女性の決断によって世界はどうなるんだろうか。この女性はおそらく、自分の実存のために、自分の性的な魅力を金銭的な価値に還元し、男性をたんなる財布とみなし、できるかぎり客から金をむしりとることにしたのかもしれない。男性を「モノ化」することによって、この女性は主体性を獲得するのかもしれない。これは杉田先生の言う「平等権」についてはどういう影響をもたらすんだろうか。そういう選択は主体的でも実存的でもない、とか言うんだろうか。

自由と平等のどっちが優先するのかってのはたしかに難しい問題だけど、杉田先生のようになんでもかんでも平等が優先する、というような主張をするのは難しいだろう。

こんな曖昧で怪しい議論をしなければ売買春を非難することができないのは、杉田先生としても無念であろう。

気になるのは、このような文章で杉田は男性あるいは人々の心理や思想を直接に統制しようとしていることである(これに杉田がどの程度自覚的であるかはわからない)。われわれは人々の行動を制限することがあるが、人々の思想をコントロールすることはつつしむべきであるということが近代社会の大原則の一つである。杉田はそのような内面や思想の自由にたいした価値を認めていないのかもしれない。(そうではないと思うのだが)

まあよくわからん。むずかしい。

*1:はてなキーワードになってないのがかわいそうだからブレースでくくってみた。

*2:もし上野先生にあれほど強力な弟子筋(特に赤川先生と加藤先生)がつかなければ、上野先生はカミル・パーリアの路線に乗ってたんじゃないかと憶測している。ラジフェミ路線やフーコー路線より、パーリアのラインの方が上野らしい。でもただの憶測。

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