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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (6)

んでやはり警察という組織の内部でのキャラハンの地位みたいなのが問題になるわけなんですよね。これは時代も国もちがうからわかりにくいですね。

市長と警察所長はキャラハンに法を遵守しない、あるいはギリギリのところで活動する傾向があることははっきりわかっているわけで、それなのにキャラハンにスコルピオに金を運んでいけ、それも一人で、武器ももたずに、と命令する。これ、まずキャラハンが苦しめられるだけでなく殺される可能性は相当あるわけだし、 キャラハンに「死んでこい」って言ってるようなもん ですわね。ひどい。そうでなければ、逆に「うまくできるんだったら スコルピオを始末してこい 」という暗黙のメッセージも入ってるかもしれない。キャラハンが人殺し平気なのはわかってるんだから、スコルピオ一人ぐらい殺してきてもらって、うまくいったら警察の手柄、うまくいかなかったらキャラハンの暴走っていう形にしたらいいし、キャラハン死んだら名誉の殉職にしてもいいし馬鹿の犬死あつかいにしてもいい。その場合、 少女一人ぐらいの犠牲の追加はしょうがない 、ぐらいの態度なのかもしれない。これはさすがにキャラハンも特攻隊するわけにはいかんし、なにより 自分としては死んでるとは思ってるけど万が一生きてるかもしれない罪のない少女の命を救わないとならん ので、上司に内緒で信頼できる相棒になってるチコを連れていくわけですね。ここらへんいろいろ困難や矛盾をかかえてなんとか職務(それ自体犯罪者の逮捕や殲滅と人命の保護という矛盾を含んでる)を果たそうとする姿がまあ感動的というかかっこいいわけです。チコとの師弟関係とかなしい別れはもうちょっと描いてほしかったなあ。

北村先生はリアリティに何度も言及するし、プロットの穴にはいろいろヒントがあるとおっしゃるわけで、まあリアリティは大事なときは大事かもしれんけど、昔の映画ってのは娯楽性重視で穴だらけ、みたいなのはよくある話じゃないですかね。ミステリとかホラーとかSFとか、首尾よく主人公たちが悪役に勝利しても、いったいこれどういうふうに法的に処理すんの?みたいな話って山ほどあると思う(たとえば『ダイハード』の主人公は法的にはどうなるんじゃろか)。むしろ映画はリアルじゃないところがあってこその映画だって話さえありそうだしねえ。まあ映画にどの程度の「リアリティ」を求めるか、っていうのはジャンルによってなかなか微妙なところがありますね。ってんで前に書いた鑑賞する態度としての「ジャンル」の話にもどることになるけど面倒なのでもう戻りません。

まあ、てな感じでまったくの映画素人が、北村先生の感想/批評とそれに対するコメントを見てから『ダーティハリー』をはじめて見て適当に考えたこと、反芻していることを書いてみました。『ダーティハリー』はおもしろいけど、超A級作品、不滅のS級作品にあるような時代を越えた普遍性みたいなのはいまいち足りないかもしれなくて、まあA級アクション映画ですわね。おそらくのちの同種の作品に与えた影響はものすごくでかいのもわかりました。そういう影響力も考えにいれると単体ではA級作品だけど歴史的にはS級、みたいな評価もありですかね。まあ50年も前の作品ってのはそういう歴史的理解も含めて楽しみたい気もします。

まあなんにしても、映画の感想とかっていうのは勝手なことを言ったり書いたりして楽しみたいですね。そういう意味では、北村先生がいろいろ好きなことを言うという企画はそれはそれでいいのではないかと思うし、みんなも見習って好きなことをどんどん書いたらいいんじゃないですかね。私自身は先生の記事をきっかけにして出てきた解釈その他にいろいろ学ぶところがありました。北村先生自身の感想も、「え、そう見るものなの?」みたいな驚きがあってよかった。『ダーティハリー』、同じ初見で見てこれほど印象や解釈がちがうなら、みんなでいろいろ語りあう価値がある。我々は、本当に基本的な映画の見方さえわかってないのかもしれないし、見方もぜんぜんちがうのだろう。そういう意味で、先生のあのシリーズはとても興味深いものです。『猿の惑星』は見てないし見る予定もないので評価できませんが、私が中学生か高校生ぐらいのときに見た『酔拳』の感想も実はすごく驚きました。それにしても、映画ってほんとうにいいものですね、それでは、さよなら、さよなら、さよなら。

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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (5)

実際この『ダーティハリー』のおもしろさは、キャラハンというヒーローかつアンチヒーローの造形が魅力的なところにあるわけで、映画の主な感想はそこらへんに集中するのが普通に思えますわね。プラスとマイナスが極端。エピソードをひろっていってどういう人物なのかを考える必要がある。

  • 刑事として有能なのは前のエントリで書いたとおり
  • 最初の銀行強盗のエピソードからわかるのは、犯罪者に先に発砲させて、大砲みたいな拳銃で反撃して殺してしまう、というキャラハンの危険な戦略。警察の方から先に撃っちゃだめなわけですわね。そういう最低限は一応守ってる。銀行強盗も無力化されてる場合にわざわざ殺そうとはしない(いちおう残弾はちゃんと数えてるんしょ)。まあ犯罪者を殺しそこねて残念ぐらいは考えてるかもしれないけど。
  • 足を撃たれて出血したときに、ズボンを切るのはやめろ、もったいない、みたいな会話があり、お金はあんまりない質素な生活をしていることが伺える。まあ基本ぼろぼろの服装だしね。安い給料でなんで自分の生命を危険にさらしているのだ。
  • 飛び降りを救助するとき侮辱して自分に飛び付かせてるけど、あれも危い。自分の命を大事にしましょう。あんなおっさんの生命にどんな価値があるというのだ……
  • 覗き魔と勘違いされるあたり、実はああいうのが好きなのではないかという感じがしてダーティー
  • 勘違いされて街のタフなおじさんたちにボコボコにされるんだけど、反撃はしない(すりゃできたろうに)。自分を殴ったおっさんたちに「もう行け」とか言うもんだから、部下のチコが困惑している。勘違いとはいえ、捜査中の警官を襲撃してきたんだから少し反撃したり逮捕したりしてもよいのかもしれないし、チコは最初はそのつもりだったんだろうけど、そうじゃないわけですわ。これがキャラハンの自警団みたいな人々に対する共感によるものなのか、あるいは実は覗きも楽しんでいたから罪悪感があるからなのかはよくわからない。 深みがあるエピソード よねえ
  • 新人刑事のチコの教育もちゃんとやってるっぽい。最後の方は一人前の刑事っぽくなってるけど、チコはおそらく辞職しちゃうわけよね。あそこのまわりの描写はもうすこし見たかったけど、時間の関係でなにか省略されちる感じ。チコはキャラハンの無謀なやりかたを認めながらも、妻のある自分には無理だ、って悟ったわけよね
  • 誘拐された少女のブラジャーがどうのこうの、ってやってるシーンがあって、ちょっと派手めな感じで、派手目な女子だったのかな、みたいな印象がある。ポルノ街の描写とかもあり、キャラハン自身はそうしたロサンジェルスの性的な放埒みたいなのに対して微妙な態度をとってるように見える。最初に殺されたのも富裕層女子だったりするし、まあスコルピオとキャラハンはなにか共通にもってるものがあるんじゃないのかなあ
  • アイルランド系警官、カトリック、っていう設定はアメリカ内部でいろいろありそうでよくわからんですね。まあ警官ごときはアメリカの支配者層とは言えないのだと思う
  • 抜かれた歯を見て、キャラハンは誘拐された少女はもう死んでるだろうって言うわけだけど、それでもほんのすこしの可能性にかけてスコルピオを殺さず確保しようとするわけよね
  • スコルピオに 電話であちこち移動させられるところが名場面 だわねえ。あれはイライラする。サスペンスを求める観客はあそこに十分サスペンスがないって感じるかもしれないけど、あれはサスペンスじゃなくて、スコルピオの悪辣さと、キャラハンとチコの 我慢、辛抱 、そういうのを見せている。私だったら「もういいや、女の子一人ぐらい殺してもらったら次逮捕できるし、こんだけやったら証拠も集まるっしょ」とか考えちゃうけど、人命第一なのよねえ。えらい。チコが来たときにスコルピオは殺せるわけだけど、少女のために殺さない
  • 北村先生は、動けなくしたスコルピオにミランダ警告しなかったのは政治行動じゃない、って言うんだけど、そりゃ政治行動なんかじゃなくて、少女の居場所をなんとかして聞き出すためになんでもする気だからですよね。 罪のない人命がかかっている緊急の場合には 、犯罪者の 人権なんか認めません 、被疑者の人権より人命が優先されます、っていうはっきりした立場だと思う。ここを単に無能だから、職務怠慢だから、って解釈しちゃうのは 私には理解できません
  • この件についてはアンコレ先生がブログ書いてますね → https://www.anlyznews.com/2024/09/blog-post_7.html 。アンコレ先生はミランダ警告しないのが合理的だからだ、っていう解釈で、それはそれでいいんですが、私はそもそもキャラハンは拷問さえするつもりなので(そして実際にしている)、もう罪のない人命のためならなにをしてもしょうがないと考えてるわけですね。狂信者です。警察やめてもらってください。
  • (追記)「あいつはまた人を殺す」「なぜわかる?」「あいつはそれが好きだからだ」っていう会話があるんですが、おもわず「お前も犯罪者殺すの好きだからわかるんだよな」ってつっこみたくなりました。
  • 最後、少年を人質にとられているのに発砲する、これが最大の謎で、いくら射撃がうまくたって巨大拳銃ぶっぱなしたら狙い通りに飛ばないことはあるわけで、っていうか狙いが少々はずれても殺せるのが44マグナムなわけで、少年に向けて発砲したっていうのは少年を自分で殺すことになる可能性も考えていたはずなのよね。私はこれが最後に警察バッジを捨てた理由の一つなんじゃないかという気がするんだけど、みんなどう解釈しますか?(銃の腕前に絶対の自信があるスーパーマン、という設定なのか)

まあ他にもいろいろキャラハンという頭のおかしい魅力的な人物の描写はあって、そういうのいろいろ反芻しながら楽しみたいですね。

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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (4)

んで、北村先生の4つめのポイント、キャラハン刑事が無能ポンコツである、というやつ。ここが最大のポイントですねえ。(「ポンコツ」っていう言葉には私自身はちょっと違和感があるんですが、それはここでは問題にしません)

キャラハン刑事が刑事として無能ってことはないですよね。そりゃおかしすぎる。だって、冒頭から(1回しか見てないので不正確ですが)、(1) 冒頭の狙撃現場にいち早く到着し証拠を集めてる、(2) 3人組銀行強盗をホットドッグかなにかをもぐもぐしながら、御自慢の44マグナムで一瞬で片づける、ついでに生き延びた犯罪者を脅してからかう、(3) 飛び降りをひどい方法で阻止する、(4) スコルピオと象も倒せるライフルで銃撃戦する、(5) 町内会自警団にぼこぼこにされながら抵抗しない、(6) スコルピオに電話でいびられながら身代金を運ぶ、途中でチンピラを撃退する、スコルピオにボコボコにされながらいったん倒す、(7) スコルピオの住居をあばく、(8) スコルピオを痛めつけて人質の所在を明らかにする、(9) バスに飛びのり誘拐を阻止する、(10) スコルピオをおいつめる、(11) 子供を人質にとられてもなんとかする、とか延々大活躍、もちろん、被疑者の人権を尊重しないのは警察としてはぜんぜんだめだけど、その他の点では めちゃ有能 ですわよ。キャラハンは 有能な狂信者 なわけですわ。たいへん危険な人物であり、警察で働くには適当でない。有能でもクビにしてください。そしたらもうはっきりした犯罪者候補ですわ。

北村先生は「比較的ぬるい展開」って言うけど、こんな大活躍を2時間ぐらいにつめこんでるんだからなにもぬるくない。「ぬるい」っていうもは現代的な撮影・映像技術や音響技術が超進歩して最初っからガンガンギラギラで刺激だらけにされてる現代のアクション映画と比較したらぬるいっていう話であって、展開はぜんぜんぬるくないっしょ。50年前の映画と現代の刺激ばっかりの映画くらべるのはそりゃちょっとどうなのか。『サイコ』や『鳥』や『裏窓』だって、今の感覚からしたらたら刺激が足りないかもしれない。でも映画の世界に没入したらそうでもないんじゃないかな。この没入できない、っていうのはそれぞれいろんな事情があるんだろうけどねえ。

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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (3)

北村先生のポイントの三つめ、実在の犯罪者ゾディアックに比べると映画の犯人スコルピオは無能でいきあたりばったりだ、という話なんですが、まあこれはそうなんでしょうね。私はゾディアックについてほとんど知らないですが。まあしかしゾディアックを娯楽映画に反映しなきゃならないわけではない。特にゾディアック事件はまだ継続中の時代の映画ですしね。

映画を見るときには、犯罪者はでたらめで無秩序な人物であってほしい、みたいな欲求はあるんじゃないかと思います。その方が意外でおもしろいというか、冒険活劇みたいなのものにはしやすいですよね。私はバットマンシリーズのジョーカーさんがけっこう好きなんですが(特にプリンスが音楽をやった映画のジャックニコルソンが演じるやつが好き)、あの人は無秩序ででたらめなのか計画性があるのかよくわからない、でたらめなんだけど最終的になかなか死なないおもしろい悪役ですよね。

『サイコ』の犯人もなんかでたらめ。『羊たちの沈黙』の犯人もでたらめ。レクター博士は非常に知的だという設定で我々には知的すぎてまったく理解できなくてかえってでたらめに見える、みたいな(私映画見てないので陳腐な例しか出てこない……)。

『ハリー』の犯人スコルピオが、罪のない人々を簡単に殺すのに、ハリーにちょっと痛めつけられて「ひどい」「痛い!」とかおおげさにやるのとかわざわざお金払って殴ってもらって「おれは被害者だ」とか勝手なことを言うのとか、おそらくバットマンのジョーカーさんにまで影響している犯罪者造形、とてつもない自分勝手、自己中心で素敵ですわよね。最高。見てる方としては、もうあんなでたらめな奴はさっさと殺してしまえ!ってなるわけだけど、事情があってキャラハンは簡単には殺せない。ここがおもしろい。

だから、スコルピオがでたらめでいきあたりばったりだからつまらない、ということはないと思うのです。むしろおもしろいじゃん。あれをつきつめると私の好きなジョーカーさんになる。

他もまあスコルピオはベトナム戦争と関係ありそう、みたいな話はけっこう重要なはずで、冒頭であんな長距離狙撃一発でキメるんだからそうとうの腕の狙撃兵だったはずで、狙撃兵は基本的には非常に秩序があり忍耐力と集中力がある人々のはずで、それがあんなでてらめになってしまってるってのに戦争の爪痕を感じますよね。彼のベルトのバックルがピースマークだったりして時代背景が強調されている。他にもいろいろ暗示や痕跡があるみたいですね。私にはよくわからないけど。映画っていうのは画面にいろんなものが詰めこまれていて、それが優秀な映画は何度も見ることができる理由ですわね。見てあげてください。

(追記)あと、これから見る人の味消しになるから詳しくは書かないけど、スコルピオさんが登場している最高のシーンは酒屋さんですね。無秩序で衝動的な傾向のあるスコルピオがああするのはともかく、その前の酒屋店主さんの挙動がとてもよかった。あれはすばらしい。絶賛。あれが私にとっての映画です。あとバス運転手さんの役柄や演技もすばらしい。ザ・ハリウッド。あそこらで私は映画おもしれーってなりました。

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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (2)

んで感想の本論、というか筋についての検討、ダーティハリーがつまらなかった理由の説明になるわけですが、北村先生の指摘は大体つぎのような感じでしょうか。(1) お爺様が治安維持法につかまったり、北海道警が不祥事起こしたりしているので警察は信頼していない(ので警察ものは見ない、あるいは嫌いである、あるいは主人公たちに不信感をもちやすい?)、(2) しかしそれとは別に、そもそも(ミステリ映画やサスペンス映画として)十分スリリングじゃない、(3) 犯人像がモデルになったと思われる実在の犯罪者よりずっと無能(ポンコツ)でいきあたりばったりである、(4) 主人公キャラハンも無能で犯人とのポンコツ頂上対決である、(5) 他にもリアリティに疑問がある。

(1)は見る側の個人的な背景や経験によって映画の評価は変わってくる、ってことを明確にしているのかもしれませんね。読書にしても映画鑑賞にしても、最初に他の人に自分の経験や背景を説明するのはよい方法だと思います。読書会なんかでも、参加者がその物語に近い経験をしたことがあるかとか、それぞれが同種のものをどれだけ読んだり見たりしているのか、そういう 各自の鑑賞の背景を話しあうのはよいことだ と思います。ここの部分は文句がない。

(2) ミステリやサスペンスとしてスリリングじゃない、というのはこれはおもしろい論点を含んでいて、記事の最後でもポイントの一つとして、

たぶんみんなあまりこの映画をミステリとか実際の事件をヒントにしたサスペンスとしては見ていない……のかもしれませんが、その観点から見るとなんだかダメな犯人とダメな警察がダメダメな対決をしているだけの作品みたいに見える

と強調されています。ここはこの記事へのツイッタ民の反応でも頻繁につっこまれているところだと思うのです。

『ダーティハリー』を高く評価する人は、このたしかにこの映画をミステリー(謎とき)とは見てない。この映画では、最初っから犯人が出てきてて行動もほぼ明らかで、謎らしきものはほとんどないですからね。犯人の動機は謎のままというかはっきりしてませんが、まあ動機がわけわからん頭おかしい凶悪なやつを警察の側がどうするか、という映画ですな。

また、普通はサスペンス映画とも見られていないはずですね。サスペンスものというのはおそらく普通は犯罪の被害者の観点から描くものだと思うのですが、この映画は捜査する刑事の側から見てるのでサスペンスにはなりにくい。

ファンたちはこの映画をまずはアクション活劇として、そして特に西部劇の保安官ものとして見ているのだと思います。そういう観点からすると、まずはアクション(殴りあいや鉄砲やバスへの飛び乗り)がかっこよく撮れているかとかそういうのが気になりますね。

それに保安官ものとしては、「正義」みたいなのの複数の解釈やしがらみをどう扱うか。警官や保安官は当然のことながら正義の側に立たねばならず、悪を倒しその悪行の報いをもたらさねばならないわけですが、そこでは法の秩序を守り、法律の縛りにきちんと従うことが求められるわけですが、一方では緊急の際になによりも被害者や弱者を保護しなければならない。保安官は権威と大きな権限をもっているけど無法な暴力を使うことは許されないので、けっこうあちこちで殴られたり苦しめられたりする。

この法の厳しい縛りと、罪なき人々の生命の保護の対立っていうのが保安官ものとかのテーマですよね。1971年の警官ものの『ダーティハリー』はそういう西部劇の伝統に根ざしているもののように私には見えます。さらに、西部劇から時代が下って、警官の権限や裁量の範囲もごく小さくなっているけど、罪のない人々の生命の価値は変わらない。むしろその価値はさらに大きくなっている。ここにドラマがあるわけですわな。

まあある作品をどの「ジャンル」に分類するかということによって、鑑賞の態度や評価の基準が変わる、という話はたいへん興味深いことで、春先にあった応用哲学会というところで、銭清弘という美学などを専門にしている先生がそういうご発表をされていて、たいへん興味深く聞いたことをおもいだしました。深刻なホラー映画としてみるとぜんぜんだめだけど、あちこち穴のあるB級ホラーとして見るとおもしろい作品、とかそういうのがあるとかそういう話だったかな。まあ映画を鑑賞するときに、それを 適切にジャンル分けして適切な鑑賞態度をとるべき である、とまで言えるかどうかはわかりませんが、考えてみたいテーマですね。

まだ続く。

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『ダーティハリー』の感想についての私の感想は最高ではないだろう (1)

8月下旬に、北村紗衣先生の『ダーティハリー』(ダーティーハリーではない)のweb批評あるいは「感想」が話題になって、局所的に私にはおもしろい議論になっていました。私の最初の印象は「なんかたしかにポイントはずしてる感じの映画批評だなあ」だったみたいです(ツイッタに書いてた)。

でも私は映画は人生でほとんど見てこなかったし、「批評」っていうものがどうあるべきかもわからないし、そもそも『ダーティハリー』も見てないのでなにも言うべきことはなかったのですが、その後『ダーティハリー』を1回だけ見たので1その「ポイントはずしている感じ」がどこに由来していたのか考えてみたいです。

北村先生のこの連載は、「映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために」、なにか言えるようになれるような見本を示す、ってものだと理解しています。なにか「よかった」「つまらない」以上のことが言えるようになりたい人のため、あるいは、私のような大学教員が、なんらかの作品について学生様「よかった」「つまらない」以上のことを語ってもらえるようになるための手引きみたいなものですね。これは理解できる。私も学生様にはそういうスキルを身につけてほしいので、参考にしたいです。でも違和感があったのよね。

最初、「すんごく面白くなかったです!」のはこれはこれでよいと思います。学生様にもおもしろくないものはおもしろくないとはっきり言えるようになってほしい。そういう意味でつまらなく感じたものをつまらないと断言するのはとてもよい。ぜひ学生様にもそうしてほしい。

でも先生は音楽はよかった、って評価する。これもいいですね。私もこの作品を見て一番に気づいたのは音楽を担当したシフリン先生の音楽のよさでした。でも違和感があったのは、いきなり、同じシフリン先生が担当した『スパイ大作戦』(≒『ミッションインポッシブル』)の音楽が5拍子で珍しい、みたいな話になるところ。強い違和感がある。なぜか。

一つには、『ダーティハリー』の音楽がよいと言ってるのに、そのよさがどこにあるのかまったく触れないままに、音楽担当者が他にどんな作品を担当しているかとか、スパイ大作戦のテーマ音楽が5拍子だとか横にそれちゃってるからですね。そりゃそういうマメ知識もおもしろんですが、まずは「音楽がよい!」って主張したら、映画のどの部分の音楽がよいか、その音楽のどこがよいか一言は言ってほしい。

冒頭のドラムかっこいいっすね。しびれました。サウンドトラックはこんなの。オリジナルサウンドトラックだと、PrologueやScorpio’sのドラムがよい。これはすばらしい。ファンク/16フィールでいかにも1971年!同時期のマイルスデイビスのバンドのドラムなんかを連想しますね。たいしたメロディーはなくて、ドラムの疾走感だけで音楽ができてます。ドラマーはJohn Guerin先生。名前は聞いたことある気がするけどよく知らない先生でしたがいろんなロック有名作品に参加してますね。かっこいいです。ドラムがチキチキ演奏したり止まったりするのも緊張感があって「サスペンス」(宙吊り)な感じ。事態の進行と停止・停滞、これが映画だ!ってなもんですね。ドラム以外のピアノの内部奏法(鍵盤弾かないで中の弦をざーってはじいたり)、その他「現代音楽」っぽいかっこいい音楽というか音響は使われてますが、これはこの時代の映画音楽の特徴っていうかそれほど新奇なものではなかったなじゃいですかね。(他、それぞれの曲について簡単なコメントをあとで書くかもしれません。)

スパイ大作戦のテーマが5拍子である、というのはこれはもうどうでもいい話で、5拍子の曲なんか死ぬほどあって別に珍しくない。クラシックだったらチャイコフスキーの交響曲第6番の第2楽章が5拍子だし(私の好きなメロディー)、ジャズだと1950年代のデイブブルーベックの「テイクファイブ」が5拍子で、それ以降ジャズは1960年代とか5拍子とか7拍子とか11拍子とかはたくさんあって、それの影響受けてる映画音楽はそういうの使いまくっていて、むしろ主流っていう感じなのでねえ。20世紀なかばは、もっと奇妙な拍子のいわゆる「現代音楽」とか映画音楽に使われまくってたし。なんかそういうのがピントはずれてると思う。「何拍子であるか」のようなことは映画音楽としてはまったく本質じゃなくて、そういうのをわざわざ言及しているのが奇妙だったのです。

もとの記事はさらにエンリコモリコーネ先生の話になって、まあモリコーネ先生の名前と業績知ってる人はクリントイーストウッド〜『荒野の用心棒』〜「マカロニウェスタン」〜エンリコモリコーネっていう連想やつながりはぼんやりわかるけど、読んでる人の何割がわかるか……奇妙な感じがしました。まあここらへんは出だしだからどうでもよい。先生がとりあえず、対象になってる映画にうっすら関係している自分が知ってることについての知識を披露している、ってことなんだと思う。

ダーティハリーの銃声のサウンドが頻繁に再利用されている話はどうも有名みたいですが(あとで出典つけます)、これは聞き手の人がが話をふってるんですね。まあ効果音の使い回しはよくあるんだろうけど、この銃声については、前々から録りためているというより、このダーティハリーの銃声の録音がものすごく秀逸だったから使いまわされたんじゃないのかなあ。小さな鉄砲だとパンパン!、もうちょっと大きくなるとガンガン!な感じですが、大砲みたいな44マグナムともなると「ドッキューン!」そっちの話になるならわかるんだけど。まあよく知りませんが違和感。言及するんならちょっとつっこんでほしかったけど尻つぼみ。

こういうの、私はけっこう違和感があるんですよね。「ダーティハリーよかったです」「ほう、どこがよかったの?」「音楽がよかった」「(ほう、いいじゃないか)どこらへん?」「作曲してるシフリン先生はスパイ大作戦のテーマも担当していて、珍しい5拍子です!」「(うーん)」「アカデミー賞もらっててもふしぎないです。それにエンリコモリコーネ先生も苦労して〜」とかになると、「いや、ダーティハリーの音楽のどこがよかったのよ」とか会話がギクシャクしちゃう。それでいいのかどうか。

記事の構成方法の問題かもしれませんが、たとえば「音楽担当しているシフリンさんが好きで、彼は私が大好きな『スパイ大作戦/ミッションインポッシブル』のテーマも作ってて、あれは5拍子でおもしろいんですよよね!」とかならこれはこれでシフリン愛をもっと語ってもらうきっかけになるので悪くないんですが、そういうふうにも話が発展しないんですよね。愛がある対象についてはぜひたくさん語ってほしい。

「44マグナムの銃声とかよかったねえ、あれは他の映画でも使われてるらしいねえ」「それ映画会社が蓄積してるのかもしれませんね」の方は大丈夫だけど、できたらそれをきっかけに音楽以外の音響について語りあいたい……でもまあ何も感想言えないよりはずっといいですね。

さて、次はやっと「つまらなかったところ」です。

脚注:

1

これはアニメの『PSYCHO-PASS』を見た直後で、関連する作品をいくつか見てみるつもりだったのでタイミングがよかった。

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