立岩真也先生『自由の平等』その後

立岩先生については、内容的にもけっこう難しい問題がはいっているので、内容について少し真面目に考えてみる必要があると思うようになった。時間がかかりそうだ。とりあえず

では他にこの規則を正当化する理由があるか。考えてみると、実はこの主張は「私の働きの結果は私のものである」という結論以上、以外のことを述べていないことがわかる(注6)。この主張はそこで終っている。その底抜けの原理を最初に立てている。そもそもその所有権をどのように正当化するのかが問題なのだが、それについては語らない。だからその主張をそのまま受け入れる必要はない。それ以外にこれの正当性を言う言い方があるかというと、この規則をとった方がうまくいくことがある・・・という理由以外にない。(pp. 41-42)

ここに付いている注。

(注6)このことを言ったのはロックだが、ノージック(Nozick [1974=1992:271-273])がこの立場を引き継ぐ。

彼の議論はゲームの展開のように見えるが、少なくともいくつかそれだけで進行していない部分がある。ゲームの「あがり」のように私には思える私的所有論は、論の最初に置かれる。ゲームから私的所有には行けず、そこで結局権利を最初に置くしかない。利口なノージックはそのことに気づいていて、そのような論の構成になったのだし、次の著書以降でこの種の議論がなされることがなかったのかもしれない。 (p.298)

これが非常に奇怪な注であることだけ指摘しておく。pp.271-273はバスケットボール選手のチェンバレンがどうのこうの、というけっこう有名な部分ではあるが、ノージックが彼の原権理論のアウトラインを提出しているのも、ロック流の労働所有説を提出しているのもここではない。

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