立岩真也先生とアイザイア・バーリン

北田先生の立岩先生評

立岩真也先生は『自由の平等』(岩波書店、2004) のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。

幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。……本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)

ふとしたことから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。

立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。

とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、

(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、

(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、

というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(pp.113-4)

まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。

私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。

立岩先生はバーリンを読んだか

立岩先生の本を議論しているとキリがないので、今日は私がそういう印象を抱いている根拠を一箇所だけ指摘しておく。

『自由の平等』の第1章では第1節では主にノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』→森村進先生のリバタリアニズムと、アイザイア・バーリン『自由論』での「消極的自由」/「積極的自由」の区別が取りあげられているのだが、ここが何度読んでもわからん(ので先を読む気にもなれない)。おそらくどちらも(少なくともちゃんと)読んでないんじゃないのかな。

((a)~(d)は私が勝手につけた)

(a)このように述べてくると、親切にも、「あなたは「消極的自由」と「積極的自由」の後者の方を言っている。それは評判のわるいものだ」と教えてくれる人がいるだろう。素朴には、積極的自由は「何かをする自由」であり、それが現実に可能であるための手段の提供が権利として求められる。消極的自由は「何かを妨げられない自由」だとされる。この対比において、私有派は消極的自由を優先すべきだとし、積極的自由は危ないと言う。(p.44)

ここに得意の注がつけられる。

(b)この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin [1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという —- なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。 (p.298)

「だということになっている」は気になるフレーズだ。また出典の好きな立岩先生がこのバーリンのフレーズに出典をつけてないのは気になる。まあ注の注はいやなのかもしれんが。

もうひとつ。

(c)消極的自由を積極的自由からはっきりと区別することができるだろうか。そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。「したいことを妨げらられない」のが消極的自由である。ここでは、したいことをする「能力」が欠けていてそれができない、選べない「事情」があるとしよう。それはどうなるのか。実際には実現不可能であっても、その不可能が他人の意図的な妨害によってもたらされない場合には、それについてその人は既に自由であると主張されるかもしれない。しかしこれはおかしい。(p.45)

これにも注。

(d)バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。(……)最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれくらい多くのドアが開かれているか」(Berlin [1969=1971:58)という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています」(井上[1998:23]) (p.299)

これもバーリンに出典がついてないのが気になる。「ドア」の比喩は私の知るかぎり、『自由論』のなかでこの一箇所しかない。またこのp.58は序文で、有名な「二つの~」ではない。それを補足訂正している文章。そもそもなぜ(a)でバーリンは関係ない、と言いつつ、ここでバーリンが出てくるのだろうか。

これから何が読みとれるか

私はこの二つの文章と注から、立岩先生はバーリンの『自由論』を本当に読んでない(!)と推測する。『自由の平等』とかって本を書き、消極的自由と積極的自由を論じるためにバーリンを読んでないというのはほんとうに驚くべきことだが、おそらく立岩先生は正直なのである。信じられないほどのことだが。

消極的/積極的自由

まず、ふつう言われている消極的自由と積極的自由の区別は、たいていの場合バーリンの『自由論』に由来する(バーリン自身はその区別がオリジナルなものではないと言う)。バーリンの『自由論』は序文と四つの論文(「二十世紀の政治思想」「歴史の必然性」「二つの自由概念」「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」)からできていて、序文は四つの論文より後に書かれており、特に「二つの自由概念」については序文で自説の部分的訂正と誤解の解消が行なわれている。

「二つの自由概念」でのバーリンの区別は、立岩先生の最初の引用に挙げられているようなものではない。(b)の注に出てくる形が正しい。「「積極的自由」の概念は評判が悪い」「危険だ」と言われるのは、この「自己実現」としての積極的自由の概念についてであって、「それが現実に可能であるための手段の提供」の権利としてではない。たとえば最低限の教育を受ける「権利」や最低限の文化的生活を送る「権利」(この権利をある種の人は「自由」と言う)をバーリンの立場の人が否定するはずがない。そういう権利(や「自由」)は政府が保証しなければならないという立場と、バーリンの立場はまったく矛盾しない。こんなのはバーリンの「二つの~」を直接読めばすぐにわかる。

バーリンが分析したのは、政治的な文脈における「自由」の概念が、さまざまな論者によって混乱されて使われており、そのうち特に二つ(上の区別であげられるもの)が特に重要な概念だということ。たとえばルソーやヘーゲルやマルクスその他の人々は積極的な意味で自由を使い、結果的に個々人の欲求や感じる幸福とは独立に全体主義的な社会を構想してしまう、それが「危ない」と言われるんだと私は理解している。

立岩の(b)

(b)で立岩は「なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない」と書くが、そりゃもし読んでいなければわからない。少なくともバーリンが(a)の形の区別をしたと思いこんでいるならわからないに決まっている。調べてみようと思わなかったんだろうか?

立岩の(c)

「そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。」こういう素人くさい文章が立岩先生のウリなのは認める。しかし「よい」「いけない」がどういう意味が考えたことがあるのだろうか。バーリンも(おそらく立岩先生に積極的・消極的の区別を指摘した人も)さすがに「よい」とかいきなり使わない。もしまともな人なら、「なぜ消極的自由は政治的に保護するべきで/保証されるべきで、それ以上は社会は保証するべきではない/保証しなくてもよい/干渉すべきではない(のどれ?)」と問うべきだろう。もしちゃんとそういう形で問えば、たとえばバーリンがどういう根拠でどう主張しているか調べようという気になるはずだ。むしろ、バーリンを一度でも読めば、「よくて~はいけないのか」なんて乱暴な問いは立てられない。

立岩の(d)

結局バーリンを読んでないから、こういう意味不明な問いが出てきてしまう。バーリンはまったく関係ない。(井上達夫先生の論文は未読)最低限の選択肢や他者からの承認(p.360ff)が人間が生きる上で必要なことはバーリン自身認めているし、必要なパターナリズムも認める(p.350)。バーリンの主張は、それが社会が保証するべき狭い「自由」ではないってこと。

リバタリアン vs 功利主義

ふつうに理解すれば、立岩先生が議論しようとしていることはリバタリアンと功利主義(そしてロールズ流の中道路線)の間で延々とやられている議論の一バージョンで、もちろん立岩先生は功利主義の方。(でも立岩先生はベンサムの「序説」もミルの「功利主義論」も読んだことがないだろう。文献表にも出てこないし。)

立岩先生がバーリンを読めば

立岩先生が問題にしている弱者の「することのできぬ状態 inability」については、バーリンは消極的自由の観念を論じている一番最初に出てくる。

ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だと言われる。この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができるしかしながら、強制とはすることのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。……単に目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。
……自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられているからなのである。いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているというのは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。」(pp.304-6)

もちろん「自由」と「できない状態」の区別は難しいかもしれない。しかしわれわれの多くはイナバウアーのポーズをとることはできないが、それがイナバアウアーする自由を妨げられているわけでもなければ、誰かが私にイナバウアーできるよう手配する責任を負っているわけでもないのははっきりしている。

もっと立岩先生の問題意識に近い文章もある。

ここでの問題に対する歴史的に重要なもう一つのアプローチがある。それは、自由の対立概念である平等と博愛を自由と混同することによって、同じく自由主義的でない結論に到達するものである。 (p.360)

おそらく立岩先生はこの混同の餌食になっている。もちろん、平等や博愛は非常に重要だし、バーリンの言うことが正しいかどうかはいろいろ議論の余地があるのはたしかだ。ある種の意味では、自由と平等や博愛は対立する概念ではないかもしれない(特にバーリンの言う「積極的自由」の意味では)。

しかしこんな立岩先生の論点にとって非常に重要なものを、もしバーリンを読んだことが一度でもあればふつうの学者なら無視できるはずがないと思う。バーリンのように優れた学者の書くものは明確で一定の訓練をすれば誰にでも理解しやすいものになる。ふつうの読者はそういう優秀な人がその鋭いナイフでいったん切り分けてくれたものをまたくっつけて議論しようなんて思わないものだ。すくなくともいったん切られたその切り口を意識せずにはいられない。

バーリンの『自由論』は本当に名著中の名著の一冊で、何度読んでも目からウロコが落ちるような思いがする。(学問的・政治的な立場を共有していなくても)一回でも真面目に読んでいれば立岩先生の本はまったく違う本になっていただろうと思う。訳文も立派だし。

もちろん、バーリンを読むか読まないかは立岩先生の自由だし、「関係ない」と言っているのだから本当に関係ないのだろう。彼は読んでないものを読んだと言っているわけではないので別に不誠実なわけではない。しかしいったい、まともな学者として、この手の問題をバーリンをまったく読まずに議論することができるか私にはわからない。(すくなくとも政治学とか真面目に勉強している人間にはそうだろうと思う。)

たしかに「まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。」のはたしかで、学者は常にその問題に悩まされつづけている。しかし、まともな学者である一つのポイントは、どこに豊かな思考のためのリソースがあるのかを知っていること、ある主題を論じるのに最低限どうしても読んでおかねばならない文献を知っていること、少なくともそれを嗅ぎわける嗅覚のあること、それを自分で確かめてみる労力と時間をかけてみる意欲があることだ。そしてそれは学者社会の伝統が教えてくれる。引用(a)の「親切」なひとたちは伝統にしたがって立岩先生にそれを教えてくれたのだろう。そういう伝統に敬意を払うことができない者は学者ではない。そういうひとに文献リストにバーリンの名前をあげたのは大学院生のこれからの仕事に役立てようと言われても、呼びかけられた大学院生は困ってしまうことだろう。(少なくとも政治学者の卵はあきれ、哲学者の卵は冷笑し、法学者の卵は律儀に怒るだろう。社会学者の卵はわからん。)

北田先生の文章に戻れば、立岩先生は正直に自分で認めているように、北田先生が言う「(2)+オレ流」で『自由の平等』を書いたのだろうし、北田先生は読んだのにたしかめもせず「(1)+オレ流」と判断したのだろう。少なくともバーリンに対する立岩先生の言及はただの儀礼だ。この調子でいちいちやってると1年かかるが、同じような個所は山ほどあるように見える。

北田先生は「引用学」とか唱える前に、『私的所有論』の権威(北田先生は他の「学者」の評価とは独立に自分でも評価しているのだろう)によりかからず、いったん立岩先生の引用が実際にどのように行なわれているか確かめるべきだったろう。馬鹿げている。とにもかくにも正直でたしかに(先例にこだわらないという意味で)オリジナルな(これは重要)立岩先生より、北田先生の方が問題が大きいかもしれない。

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