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ラッセル先生のセックス哲学(4) ばんばん不倫しましょう

ラッセル先生にとって、家族は子供を作りそだてる、っていう目的のために重要なわけっすわ。そしてそれはお金もち以外は一夫一婦制になる。子供への投資と養育はびっちりやりたいからですわね。教育とか、とにかく他の子供との比較で有利な方がよいのでびっちりやりたくなるのだと思う。さらにコンパニオンシップっていうか、男女ともに信頼できる相手と結婚しているのには心理的な利点がある。ラッセル先生にとっても結婚は基本的にはよいものです。

しかしここで問題です。でも、あんまり長くいっしょにいると性的には飽きちゃうのです。どんなカップルも、結婚して数年するとセックスレスになってしまったりする。少なくとも回数減る。ラッセル先生にとって恋愛やセックスは非常に人間の健康と幸福にとって非常に重要なので、奥さんに性的な魅力を感じなくなってしまうと困ります。

だいたいそもそも禁欲は心身の健康に悪いんですわ。

完全に性を断つことは、特に結婚生活ですでに性になれている人にとっては、非常に苦しいことだ。その結果、男性であれ、女性であれ、早く年をとってしまうことが、ままある。神経障害を引き起こす恐れもないわけではない。ともかく、無理な努力をするために、えてして感じの悪い、ねたみ深い、怒りっぽいタイプの性格になりやすい。(p.218)

神経障害っていうのは、19世紀後半から人気だった神経症、ヒステリーやメランコリー(鬱)ね。セックスすれば直りますよ。ここらへんもフロイト先生を念頭に置いてるっぽい。性的欲求不満がいろんな問題をひきおこす、っていう推測はこのころ一般的になるんですね。ほんとかどうかわからないけど、現在の幸福研究でもセックスの頻度と幸福度のあいだには強い相関があると言われてます 1)もちろんセックスすりゃ幸福になる、っていう単純な因果関係ではないかもしれない。幸福な人がたくさんセックスするんでしょうな。

それに、不倫は絶対だめだ、っことにしておくと、いざ欲望に負けてしてしまうときに、過剰にやばい行動をとってしまう。

男性の中には、自制心が突然くずれて、残虐な行為に及ぶという、由々しい危険がつねにひそんでいる。というのも、もし婚外の性交はいっさい邪悪である、と心から信じているなら、実際にそういう性交を求めるとき、毒をくらわば皿までという気持ちになり、その結果、いっさいの道徳的な抑制をかなぐり捨ててしまう恐れがあるからだ。(p.218)

そうなんすか先生。やばいっす。ジキルハイドっすね。昼は温厚な大学教授、夜は性獣って人がけっこういるんすかね。

でも、コンパニオンシップは重要ですので結婚は大事です。ではどうしますか。

答:姦通しましょう。

ははは。

私の考えでは、姦通そのものは、離婚の根拠とするべきではない。人間、抑制や強い道徳的なためらいに抑えられないかぎり、おりふし姦通への強い衝動をおぼえることもなく一生を過すというのは、まずありそうもないことだ。……たとえば、ある男性が、ぶっ続けに数ヶ月も、所用で家をあけなければななくなったとしよう。もしも、彼が肉体的に精力旺盛であるなら、どんなに妻が好きでも、この期間中ずっと性欲を抑えていことはむずかしいだろう。彼の妻が因習的な道徳は正しい、と信じきっているのでないかぎり、このことは、彼の妻にもあてはまる。(p.221)

まあ男女とも、数ヶ月セックスできないと他の人とセックスしてもしょうがない、っことですね。こういうの、ラッセル先生が男女のセックスに対する心理にあんまり違いがないと想定しているのが読める気がする。

というわけで、とりあえず結婚して生殖をすませたら、お互い浮気とかしまくりましょう、ってのがラッセル先生の提案。

そういう事情のもとでの浮気は、その後の幸福にとって少しも障害にはならないはずだし、夫婦がメロドロマじみた嫉妬騒ぎを起こすには及ばないと考えている場合は、事実、障害にならないのである。(p.222)

姦通の心理は、因習的な道徳のために曲げて伝えられてきた。というのも、この道徳は、一夫一婦制の国では、ある人に惹かれる気持ちは、別な人への真剣な愛着と共存できない、と決めてかかっているからだ。これが誤っていることは、だれでも知っているが、嫉妬に駆られて、だれもがこの誤った理論をよりどころにして、針小棒大に言うのである。だから、姦通は、離婚の十分な根拠にならない。(p.222)

まじめな恋愛や愛情は排他的なはずだ、という考え方はまちがっているというわけです。

避妊法のおかげで性交そのものと、生殖のための協力としての結婚とを区別することが、以前よりもずっと楽にできるようになった。この理由で、いまや、姦通は、因習的な道徳律のもとで見たときよりも、はるかに重要視しなくて済むようになっている。(p.223)

というわけで、子供作る気がなかったりできなかったりしたら離婚したらしいし、飽きたたり物理的にしばらく離れてたり、他に魅力的な人がいたらばんばん浮気したり不倫したり姦通したりしましょう。

「根底にある愛情が無傷のままであるなら、つねに起こりがちな、こんな一時の浮気は、お互いに辛抱できるようでなければならない、と言ってもよい。」(p.222)

ここらへんまで説明すると、学生様は「うわぁ」とかって反応しますね。前にリチャード・テイラー先生のLove Affairって本を紹介したんですが、ラッセル先生の影響下でのものなんね。まあそうでないにしても偉い哲学者は同じようなことを考えるわけです。まあラッセル先生にしても、テイラー先生にしても「おたがいに嫉妬しなければ結婚生活は続けられるよ」みたいなことを言う。

というわけで「オープンマリッジ」とかそういうのの提唱のさきがけ。結婚はしてるけど、浮気はおたがいにOK。ただし浮気してないと嘘つくのはやめましょう、ぜんぶ正直に話せば大丈夫です、みたいな。サルトルとボーヴォワールのが有名だけど、おそらく元はラッセル先生のこういう提案なんすわね。ラッセル先生は隠しごとしないでおおっぴらに浮気して、奥さんに嫉妬しないことを求めたけど、当然トラブルになる。結局3回離婚して4回結婚してるけど、結婚してるあいだも、妻の目の前でガールフレンドと電話してたとかって話読んだ気がする。あと特にやばいのが息子の嫁に手を出したとか。これはいかんですね。

「「公然たる不倫」の生活をするのは、それが実行できる場合は、個人にとっても、社会にとっても最も害の少ないものであるが、たいていの場合、経済的な理由から不可能だ。公然たる不倫の生活をしようとする医者や弁護士は、患者や依頼人をそっくり失うだろう。どの分野でもいい、学問的職業にたずさわっている人は、即刻、地位を失うだろう。」(p.219)

そしてこれに注がつく。「ただし、たまたま古い大学の一つで教えており、近い親戚に閣僚経験のある貴族がいる場合は、話は別である。」はははは。憎い憎い。ラッセル先生の場合は「近い親戚」はおじいさんね。でも他にもいたかも。そらこんな人、性的にまじめなウィトゲンシュタイン先生は許せなかったっしょな。

しかしまあ、これが20世紀のノーベル賞級の名著の一つであって、20世紀後半のフェミニズムとかはこれとどう戦うか、ってのからはじまってる、と考えていいと思う。


References   [ + ]

1. もちろんセックスすりゃ幸福になる、っていう単純な因果関係ではないかもしれない。幸福な人がたくさんセックスするんでしょうな。

ラッセル先生のセックス哲学(3) ワンチャンはいかんのじゃ

んで実際に「性の解放」ってのはどうすんのかですわね。どうするんですか、先生。

まあ今では愛し合う若者たちはすぐにセックスしちゃって、セックスしないと童貞だとか草食系男子だとか添い寝系男子だとか言われちゃうわけですが、1928年当時っていうのはジャズエイジとは言え、そんなエッチなことをめちゃくちゃしている人々はそんな多くなかったみたい。前にも書いたように、中上流の女性はしてなかったみたい。でも下層とかはあれだし、男性は買春とかするのが普通、ってところかなあ。やっぱりちゃんとした家の女子とおつきあいするのはむずかしかったっぽい。そんでも20世紀に入ると避妊手段が入手しやすくなって、女子の活動も変わってきた。

ラッセル先生が女性の性的欲求なり性的衝動なりをどう考えてたかっていうのはよくわからない。どうも男性とたいしてちがいがないんちゃうか、単に教育のせいで性欲とか表に出さないようになってるだけでしょ、みたいに考えてたんではないかという雰囲気はある。

「私が若いころ、ちゃんとした女性が一般にいだいていた考えは、性交は大多数の女性にとっていやなものであり、結婚生活では義務感から耐えているにすぎない、というものであった。」(p.85)

「われわれの祖父の時代には、夫は妻の裸が見られるとは夢にも思わなかったし、妻は妻で、そういうことを言われただけでぞっとしたことだろう。」p.126

写真とったりする、とかスマホで自撮りを送ってもらう、なんてのは信じられないっしょね。

でも最近はちがうよ、みたいな。まあこういうのは禁欲的な教育の結果だから、ちゃんとした性教育をすればよい、と。まあラッセル先生自身いろいろ女性との情事をもった人なので、「女性というのはそういうもんじゃないだろう」ぐらいの実感あったんだと思う。マリノフスキーとかマーガレットミード先生のをまにうけて、ラッセル先生はそもそも未開の社会ではみんな楽しくセックスしまくってんだから、西欧の女性が性的なものを嫌っているのは文化的な抑圧のせいだと考える。文化的な抑圧がなくなれば、女性も男性と同じようにセックスしたいっていう衝動を認めて、それにしたがって活動するようになるだろうし、女性自身も性的に満足してハッピーになるだろう、と。なんかラッセル先生はけっこうフロイト先生の議論も好きみたいですね。

我々のような非モテが見ると、女性というのはとても選択的で、「ただしイケメンに限る」みたいなのをごくごく自然にやってるわけだけど、ラッセル先生はそういうのを意識した形跡がないっていうか。まあそりゃ若いときからあのそこそこのルックス、いや人によってはかなりイケる、むしろイギリス貴族の典型イケメンみたいな見方もあるだろうしねえ。首相を祖父にもつ貴族であり、金もあり、当然のことながら世界でトップの知性のもちぬしであり、ユーモアもあり、まあラッセル先生とお話できるだけでハッピー、スイッチ入る、なんて女性はたくさんいたっしょね。というわけで、非モテのことなんかラッセル先生なにも考えてなかったと思う。

んでまあとにかく、彼の考える性の解放は、結婚と関係して語られる。西欧の伝統では、結婚はふつう当然一夫一婦の性的に排他的な永続的な関係、ぐらいなわけだけど、ラッセル先生は、その機能のコアの部分だけが本当の結婚である、って考える。

「合理的な倫理の立場では、子供のない結婚は、結婚の名に値しないだろう。子供の生まれない結婚は、容易に解消できるようにしなければならない。なぜなら、ただ子供を通してのみ、性関係は社会にとって重要で、法律上の制度によって認められる価値を持つものとなるからだ。」(p.154)

ラッセル先生によれば、第一次世界大戦のあとに避妊手段が入手しやすくなったみたい。まあそうなんしょな。それが人々の性行動を変えた。これはよく指摘されることだわね。

「アメリカ、イギリス、ドイツ、スカンジナビアでは、〔第一次〕大戦後、大きな変化が生じている。堅実な家庭のじつに多くの娘たちが、自分の「純潔」 1)「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。 を守ることが価値のあることだと思わなくなり、若い男たちは、娼婦にはけ口を求めるかわりに、もっと金があれば結婚したいと思うような娘たちと情事をもつようになった。この過程は、イギリスよりもアメリカのほうが進んでいるようであるが、その原因は、禁酒法と自動車にある、と私は思っている。禁酒法のために、どこの楽しいパーティーでも、だれもが多かれ少なかれ酔っ払うことがぜひとも必要になった。大多数の娘が自分の車を持っているために、両親や隣人の目を盗んで恋人と会うことが容易になってきた。

これおもしろいね。なんで禁酒法のせいで酔っ払いが増えるかっていうと、禁止されてることはやりたくなるもんだから。みんなで「法の裏をかく」みたいなのは楽しいものだ。ラッセル先生に言わせばセックスも同じで、法に反して酒を飲み、道徳に反してこっそりセックスするのは楽しい。というわけで若者たちはセクロスセクロスになってしまう、と。こういうの、60手前のラッセル先生アメリカ行ったときに、「行きずりの旅行者にできる範囲で、……骨を折って若い人たちに質問してみた。若い人たちは、何ひとつ否定する気もちがなかった」とか。“I took pains to test 〜”みたいで、そういうことを若者たちに聞くのはラッセル先生には苦痛だったようだ。「こんなことを、君たちのような誇りの高い若者に質問するのはまことに心ぐるしいのだが、哲学者として私は社会に関心があって、率直にこうした質問をするのを許してほしいのだが……」みたいな感じだろうか。ほんとはあれなのに、まあいいでしょう。

まあそういう苦しい努力のすえに、「ちゃんとした女性も最近は結婚もしないでけっこうな人数とやりまくっているらしい」ということをラッセル先生は確信する。

「最高に立派な身分に納まる娘たちの大多数が、しばしば数人の恋人と性体験をしているというのが、アメリカ全土に及んでいる実情のようだ。」p.155

完全なセックスしなくても、ペッティングとかネッキングとかしているらしい、許せん、それは倒錯ではないか、みたいなことも言ってる。まあ許せんとは言ってないけど。

しかしラッセル先生は、若者が酒飲んでよっぱらってワンチャンセックス、とかっての、これも気にいらないのね。うらやましいから気にいらないわけではないと思う。

「若い人たちの性関係は、からいばり(bravado)から、しかも、酔っ払ったときに結ばれるという、愚劣きわまる形をとりがちになる。」p.156

「からいばり」って訳語だと感じがわからんよね。なんか「虚勢をはって」「見栄はって」みたいな。禁酒法下で密造ウィスキー飲むのがかっこいいように、純潔教育のもとでセックスするのは一見かっこいいんだけど、それはあんまり自発的じゃないしホンマもんのよいセックスではない、みたいな感じ。

「全人格を挙げて協力する、品位ある、理性的な、真心のこもった活動としての性関係」っていうのがラッセル先生の考えるところのグッドセックス。よっぱらってワンチャンではだめだ、と。あと、ペッティングとかネッキングとかだけして、「完全なセックス」を避けると「これは、神経を衰弱させ、後年、性を完全に楽しむことを困難ないし不可能にする恐れがある」とか。

これがラッセル先生が若者のセックスについて心配している問題。先生は親切なので若者のことを気にしている。ほっときゃいいのではないかと思うのだが、先生は超インテリの社会の指導者なのでほっとけないわけです。んじゃどうするか。

ラッセル先生のこの問題に対する回答は、「試験結婚」trial marriageやあるいは友愛結婚 companionate marriage と呼ばれるやつ。

まあ1920年代、すでに法律家の人々がそういう結婚制度を提案してたんですな。形式的には結婚してお互いにいろんな権利と義務をもつけど、(1) 子供を作ることを考えないでちゃんと避妊する、(2)妊娠してない場合には離婚できるようにする、(3) 離婚しても女性には金をやらない。っていう形の結婚生活を社会的に認めたらどうかってわけだ。

でもラッセル先生はもっとつきつめて、結婚という形もとる必要ないと考えてみたいね。

「私としては、友愛結婚は正しい方向への一歩であり、大きな利益もたらすものである、と固く信じているけれども、これではまだ不十分であると考える。私見によれば、子供を含まないすべての性関係は、もっぱら指示とみなすべきであり、したがって、かりに男女が子供を作っらないで、いっしょに生活しようと決心したとしても、それは、当事者自身の問題であり、余人の感知するところではない、と考える。

つまり、まあ「「結婚」とか公的な形にたよらないで、同棲とかしたきゃしたらいいじゃろう、世間はとやかく言う必要はないじゃろ。」だな。そしてラッセル先生はこれはおすすめだ、って言うわけね。

「私の考えでは、男にせよ女にせよ、あらかじめ性体験をしないままに、子供を作るつもりの結婚という重大な仕事を開始するのは望ましいことではない。性の初体験は、予備知識のある人とするほうがよいことを示す証拠はふんだんにある。人間の性行為は、本能的なものではないし、a tergo(後背位)からおこなわれなくなってからは、明らかに、そうでなくなっている。」(p.162)

『2001年宇宙の旅』の話っすね。

「この議論は別にしても、お互いの性的な相性について少しも予備知識なしに、人々に終生続けるつもりの関係に入ることを求めるのは、不合理であると思われる。それは、ちょうど、家を買おうとする人が、購入が完了するまではその家を見ることを許されないのと同様に、不合理である。結婚の生物学的な機能が十分に認識されたなら、妻が最初に妊娠するまでは、いかなる結婚も法的な拘束力をもたないとするのが、適切な方針であろう。」p.163

というわけで、若者もばんばんセックスしてください、って感じね。酒飲んでワンチャンとかしてないで、ちゃんとしたおつきあいをしてください、と。ステディな関係でセックスすんのは許されるどころかどんどんやりましょう。

私がやった授業ではこれ説明したあとに、上村一夫先生の『同棲時代』1972とかぐや姫の「神田川」コンボを決めた。まあここらへんの世相とラッセル先生がどのていど関係あるか、っていうのには興味がある。ラッセル先生をみんなが読んでたとは思えないけど、間接的な影響はあったろうなあ、みたいな。もっとも、この前当時そこらへんの人々にちょっと聞いてみたんだけど、「読んでない、関係ないんちゃうか」とかだった。まあ本人たちが関係ないっていうんなら関係ないんだろうと思う。でも上野千鶴子先生なんかが、一見ラジカルそうなのに実は恋愛みたいなのにけっこう思い入れがあって、ラジフェミの主張を受けいれたわけではなく、むしろラッセルっぽいのはなんかありそうな気がしているんよね。

まあとりあえずラッセル先生のおかげで、とりあえず「つきあって」いればセックスできるようになり、したいひとは同棲もできるようになりました。めでたしめでたし。(まだ続く)


References   [ + ]

1. 「純潔」って訳されてるのは’Virtue’なのね。女子がセックスすると失なわれる「美徳」。まあこの文章、基本的にrespectableな家で育った男女に向けて書かれてんのよね。それにまあ、男女は基本的に同じクラスどうしでおつきあいしたり結婚したりする、っていうのがあまりにも当然視されてる感じ。まあ実際話も通じない感じだったんだろうな。上と下が出会うのは、売買春の場だけだったのだろう。

ラッセル先生のセックス哲学(2) 女性の性を解放するのじゃ

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実は若いときはけっこうイケてる。 コメディアンのようでもある。

まあラッセル先生はそうしたキリスト教、特にプロテスタント的な性的禁欲を捨てちゃおうってわけです。でもラッセル先生は売買春とかには大反対。前のエントリでも書いたと思うけど、19世紀〜20世紀のイギリスとかって、表はヴィクトリア朝的な禁欲的な雰囲気でセックスの話なんてジェントルメンやレディーズはしないわけですが、ジェントルメンも夜になるとへんなところで下層の女性を安くあれしていた。中上流の女性は岩よりも堅い貞操を求められてた。そしてそれはみんなで守らねばならぬ。

ちゃんとした女性の貞操は、非常に大切なものだと見るかぎり、結婚の制度は、もうひとつ別な制度で補われなければならない。この制度は、実は、結婚制度の一部とみなしてさしつかえないものである——私が言おうとしているのは、売春の制度である。(p.44)

これは、前エントリのエリス先生もいってて(実はラッセル先生の議論の元ネタの多くは前年出版されたエリス先生)、そのまえには「売春婦は、家庭の神聖と、われわれの妻や娘の純潔の防波堤である」っていうレッキー先生の有名な言葉もあって、ラッセル先生も引用している。この手の、「ちゃんとした女性」を誘惑や暴力から守るために売春婦が必要だって議論は昔から多いんよね。

18世紀のマンデヴィル先生という方は、『蜂の寓話』って有名な本で、自由市場にまかせた方が公益につながるよ、っていう古典経済学者が言いそうなことを言ってるんだけど、売春についてこんなことを言う。

もし売春婦や女郎が愚かな人々の主張どおり過酷に告発されるべきだとすれば、われわれの妻や娘の貞節を守るのに、どんな錠前なり閂(かんぬき)があれば十分だというのであろうか。というのも、女性全体がいままでよりもはるかに大きな誘惑に会い、無垢な乙女をわなにかけようという企てが、まじめな人間にさえ現在よりずっと許せるものに思えるだろうからである。そればかりか、ある者は乱暴になり、強姦がありふれた犯罪になるだろうからである。アムステルダムでしばしば起こるように、何ヶ月ものあいだ男しか見ていない船乗りが六、七千人ぐらいどっと着くようなところでは、ほどよい値段で売春婦が得られないなら、貞淑な女性がだれにもわざらわされずに通りを歩くことなど、どうして考えられるであろうか。……一方の女性たちを守り、ずっと凶悪な性質のわいせつ行為を防ぐために、他方の女性たちを犠牲にする必要があることは明白だ。

これほとんど似たような表現をラッセル先生も使っている。もっと昔からあって、アウグスティヌス先生は「公娼を圧迫するならば、熱情の力はすべてのものを破壊するだろう」、トマス・アクィナス先生も「都市における売春は宮殿における下水道と同じだ。下水道を取りのぞく時は、宮殿は悪臭ふんぷんたる不潔な場所となるだろう」、ってなことを言ってるらしい。これはたしか、ドイツ社会民主党開祖のベーベル先生の『婦人論』(1879)からの孫引きだけど(この本の売春論もおもしろい)。

でもラッセル先生はこういうのある程度認めるものの、かなり強硬な売春反対論者なんよね。売買春は、公衆衛生上の問題を起こすし、女性にも男性にもそれぞれ心理的な損害を与える、と。まず「保健上の危険が最も重要である」(p.148)とかて公衆衛生が一番に上がるっていうのはまあ今見るとあれだけど、まあ当時は抗生物質とかもないし、梅毒とかで脳病になって死ぬし、淋病で兵隊さんや水兵さんが数ヶ月使いものにならなくなるしでたいへんだったみたいね。(ここらへんの歴史での女性運動家の活躍もおもしろい。興味あるひとはジョセフィン・バトラーとかで検索してください。)

女性に対する悪い心理的影響ってのは、売春でお金稼ぐようになると、怠惰になったり、酒を飲みすぎたりしてどんどん堕落してしまう。また人々からさげすまれてしまう(p.149)。これは社会の偏見とかあるからだろうけど、まあ売春する女性に対する風あたりは強い。男性も、「ちゃんとした」女性も「売春婦!」みたいな感じになってたみたいね。

男性に対する悪い心理的影響ってのは、「性交するために相手を喜ばせる必要ない、とい考える癖がつくだろう」(p.150)みたいな。まあ一説によると、女性は尊敬して褒めてプレゼントして甘いこと言わないとセックスしてくれないものらしく(でもそうしたからといってセックスするわけではない)、「金払うんだからしのごの言うな!」みたいになっちゃうってことですね。いやですね。

だから、ラッセル先生はセックス肯定論者だけど、どんなセックスでもよいっていってるわけではない。

性関係は、相互的な喜びであるべきであり、さらには、もっぱら両者の自然な衝動から始まるものでなければならない。そうでない場合は、価値あるすべてのものが失われる。このように親密な形で他人を利用することは、あらゆる真の道徳の源泉となるべき、人間そのものに対する尊敬の念を欠くことになる。…性関係における道徳は、……本質的に、相手を尊敬すること、および、相手の気持ちを考えずに、自分一人を満足させる手段としてのみ相手を利用するのを潔しとしないことから成り立っている。(p.151)

これが正しいセックスです。いいですか。まあ「相手を単なる手段としてではなく、尊敬するのだ」とかっての、雰囲気カント的でもありますわね(実際には考えてることはぜんぜん違うと思うけど)。

これ、同趣旨の強硬な売買春・ポルノ反対派の杉田聡先生の非常に印象的な一文を思い出させますね。先生はこんなこと言ってる。

売春が、抱擁・性交・射精などを含む点においてセックスを模した営みと見えたとしても、それが経済行為・サービスとして金銭を媒介に行われるとき、そこで行われる営みはすでに愛し合う者同士の、あるいは互いに性行為そのものへの自発的な意思を有する者同士のセックスでないのはもちろん、それを模してもいない。金銭を媒介にしているという事実、したがって売春者にセックスそのものへの欲求と同意がないという事実は、その性的営みそのものに投影されざるをえない。金銭的動機にもとづく性行為においては、セックスにあるべき女性の自主的な興奮も反応も、それに伴う性的な喜びも存在しないのである。(杉田聡、『男権主義的セクシュアリティ』、青木書店、1999、p.174)

正しいセックスでは、お互いを愛しあい、女性が自主的に興奮して自主的に反応して自主的に性的な快感を味わうものです。ははは。そういうんじゃないのはそもそもセックスですらないよ!とかって感じですね。まあ杉田先生ははっきりラッセル読んでると思う。

まあこれがたとえば「おっぱい募金」に対する反感の根っこにあるものでもある。性的な関係は互いが尊敬しあい楽しいものじゃないとならない、しかるにおっぱい募金でおっぱいもまれても気持ちよくないどころか痛いかもしれない、したがっておっぱい募金は性道徳に反する。

さて、こっからのラッセル先生の議論がたのしい。セックスはしたい、でも売買春はだめ。どうしますか。

(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。

エリス先生はなぜ男性は買春するのか、っていうのをいろいろ書いてるんだけど、基本的に(1)若いときはお金なくて結婚できないから、(2)結婚してからは奥さんとセックスできるけど、「ちゃんとした女性」はセックスに消極的でいやがったりするし、しても楽しくないし、(3) フェチとかそういう特殊な趣味もってる人は奥さんから怒られるのを恐れて買春するのだ、ということらしい。だからまあ売買春はあるていどしょうがない、撲滅はおそらく無理、みたいな話になる。しかしラッセル先生は哲学者で旧来の性道徳に対してもっと批判的なので、もっと過激な解決法を提案する。

しかし、この議論は、形式こそ一段と近代的ではあるが、根本的にはレッキーの議論と変わらない。抑圧されない性生活を送っている女性は、男性と同様に、ハヴェロック・エリスが考察している衝動に駆られやすいので、女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(p.152)

これはすごい。この文脈での「エリスが考察している衝動」てのは、前回エントリでの「刺激への衝動」ではなくて、「性的衝動」そのもの。つまり、(1) 売春はよくないです。(2)でもセックスはしましょう、したいです、それはよいものです。(3)だから、女性の性を解放すれば、女性は性的衝動を素直に実行するようになります。もっと簡単にセックスしてくれるようにしましょう。避妊手段が手に入りやすくなったんですから、どんどん解放しちゃえばいいじゃないですか。そして、実際1920年代後半ってのはいわゆる「ジャズエイジ」で、人々が楽しくセックスしはじめた時期でもあった。

以前は、ときどき娼婦のもとを訪れることを余儀なくされた青年も、いまは、自分と同類の娘と関係を結べるようになっている。──その関係というのは、どちらの側も自由であり、純粋に肉体的な要素に劣らず心理的な要素も大切であり、しばしば、どちらの側にもかなりの程度の情熱的な愛が含まれているものである。いかなる真の道徳の立場から見ても、これは、古い制度に比べて、すばらしい進歩と言わなければならない。(p.153)

「若い人々はセックスできていいねえ。わしもまだまだこれからじゃ!」という感じですね。まあ「ジャズエイジ」なんで酔っ払ってみさかいなくセックスする男女も当然いた。それほどあれじゃない人々も、実際ここらへんから、とりあえず「婚約」という形をとってセックスしちゃう人々が出てきたみたい。

この『結婚論』でラッセル先生は1950年にノーベル賞もらうことになる。みなさん自由にセックスできるようになりましたとさ。いったん、めでたしめでたし。(まだ続くよ)

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ラッセル先生のセックス哲学(1) キリスト教とかディスる

 

実は今年度後期、教養科目とかって授業で、「西洋思想史での愛と性」みたいな話やってんですわ。女子大でセックスを議論する、セクハラすれすれ、いやむしろすでにセクハラ、セックスセックス、素人にはおすすめできない、みたいな感じですね。いろいろ古典とか読みなおしてみてて、やっぱりこの分野おもしろいなあ、みたいな。内容的には、さっと恋愛心理学での恋愛タイプ 1)ここらへんでやってる。 の話してから、サフォー、プラトン、アリストテレス、オウィディウス、初期キリスト教、宮廷風恋愛、モンテーニュ、ラロシュフコー、ヒューム、ルソー、カント、ダーウィン、クラフトエビング、フロイト、みたいにすすんでる 2)トマスもやりたかったが今年は無理。 。もちろんまあ表面かすってるだけだけど、自分ではそれなりに楽しくやってます。

最近はバートランド・ラッセル先生の『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)読みなおしてたんですが、これやっぱりすごい影響力もってたんだな、みたいなの確認したり。ラッセル先生に与えられた1950年のノーベル文学賞の対象はこれとかって話ね。

もう90年近く前の本なわけだけど、恋愛・セックス・結婚について巷でよく聞くような発想や知識や表現はぜんぶこれなんね、みたいな。ほんとおもしろいので、読んでない人は必ず読みましょう。

 

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たとえば「人間の性行動は本能じゃないよ」みたいなのが本を開くとすぐに出てくる。

「性関係の中の本能的な要素は、普通考えられているよりもはるかに少ない。」(p.18)

「本能」ということばは、性にかかわる人間の行動のおうに、まるで厳密さのないものに使うには、適切なことばとは到底言えない。この領域全体の中で、厳密に心理学的な意味で本能的と呼べる行為は、ただひとつ、幼児期における乳を吸う行為である。未開人の場合どうなっているのか、私はつまびらかにしないが、文明人は、性行為をおこなうすべを学ばなければならないのである。」p.19

こういうのよく使われるじゃないですか。もちろん内容的にもまあそんな問題はない。こういう文化人類学っぽいのはマリノフスキー先生やマーガレットミード先生が参照されていて、70年代〜80年代のジェンダー論とかでここらへんの人々が頻繁に言及され援用されてたのは、文化人類学の人々がこうした先駆者の研究を高く評価していたからというよりは、むしろこのラッセル先生の本が影響してるんじゃないですかね。

授業ではキリスト教の性的禁欲主義みたいなのもパウロとかアウグスティヌスとかヒエロニムスとか使ってやったんですが、ラッセル先生に言わすと「聖パウロの脳裡では、私通が舞台の中心を占めていて、彼の性倫理は、すべて私通と関連して展開されているのである。」(p.49)とか。そうなんよね。パウロ先生は結婚における生殖の話はしてない。まあ当時のパウロ先生たちにとって、「裁きの日」はほんとにすぐ間近で、子供なんか生んでる場合じゃなかった。やばい。「男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」だもんね。単にいろんな人とエッチしたり、人妻に手を出したりして罪を犯さないために、結婚してそのなかでだけしなさい。それなら先生許しますよ、と。

しびれたのは次ですわ。

聖パウロの見解は、初期教会によって強調され、誇張された。独身は神聖なものとみなされ、人々は世を捨てて砂漠へ行き、サタンと戦ったが、その間、サタンは人々の想像力を好色の幻影でいっぱいにしたのだった。教会は、入浴の習慣を攻撃したが、その根拠は、肉体をいっそう魅力的にするものは、すべて罪を生むというのであった。

(p.50)とかってやってて痛快。笑える。これはヒエロニムス先生のことだわね。このころのキリスト教の偉い人は、修行のために砂漠にいって超禁欲生活、っていうかもう人間とは言えないくらい貧しく厳しい生活おくってたんですね。ごはん最小限にするだけでなく、風呂入らないとか布団使わないとか。ひどい。

砂漠のあの寂しい荒野で、隠遁者に荒々しい住まいを備える灼熱の太陽に身を焼かれながら、わたしはどれほどしばしば、ローマのもろもろの快楽に取り囲まれている幻想を見たことか!わたしは独りで座っていたものだ。苦々しい思いに満たされていたからだ。わたしの汚れた四肢は形もない袋のような衣服に包まれていた。わたしの皮膚は、長いこと手を入れていなかったので、エチオピア人のように荒く黒くなっていた。涙と呻きが日ごとの業であった。そして眠りに抗しきれず、瞼が閉じられると、わたしの疲れた骨は裸の大地で傷ついた。食べ物や飲み物については語るまい。隠遁者には、病んでいるときでも、水しかない。料理されたものを食するなど罪深い贅沢である。だが、地獄を恐れるがゆえに、この独房なる家に自ら居を定めたにせよ——ここでの仲間といえば、蠍と野獣だけなのだ——わたしはしばしば踊る少女の群に取り囲まれているのを見た。わたしの顔は断食のゆえに蒼白であり、四肢は氷のように冷たかったが、わたしの心は欲情に燃え、肉体は死んだも同然であったのに、欲望の炎は燃えたぎり続けていた。(ヒエロニムス『書簡』22)

食べるものも食べてないのに、エッチなことだけは忘れられない。がんばれヒエロニムス先生。

若くて健康な乙女であるお前、たおやかで、ふっくらとした、バラ色の乙女であるお前、贅沢のなかで燃え盛っているお前、ブドウ酒や風呂につかり、既婚の女性や若い男たちと並んで座っているお前は、いったい何をしようというのか。彼らがお前に求めるものを、お前が与えるのを拒むとしても、求められること自体が、お前の美しさの証拠だとお前は思うかもしれぬ。まさにお前の衣服すらが・・・見苦しいものを隠し美しいものを見させるようなものであるならば、お前の隠れた欲望を顕にさせるのだ。お前が音を立てる黒い靴を履いて歩き回れば、若い男を誘うのだ。……お前は、公衆の間では、淑やかさを裝って顔を隠すのだが、売春婦のような巧みさで、男が見たならば、より大きな快楽を感じるような特徴だけを見せるのだ。(『書簡』117)

もうほとんど女性憎悪ですわね。いや気持ちはわかりますよ。

ヒエロニムス先生とかのはこれに入ってたやつだったと思う。

砂漠の師父の言葉―ミーニュ・ギリシア教父全集より
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ラッセル先生のこういうのは、ウィリアム・レッキー先生という19世紀後半に活躍した思想史家の先生によっかってんですけどね。この本すごくおもしろくて、誰か翻訳してくれないかなと思ってる。実は昨日、明治時代に翻訳されてたのを発見したんだけど。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754837

続きます。


References   [ + ]

1. ここらへんでやってる。
2. トマスもやりたかったが今年は無理。