ラッセル先生のセックス哲学(1) キリスト教とかディスる

実は今年度後期、教養科目とかって授業で、「西洋思想史での愛と性」みたいな話やってんですわ。女子大でセックスを議論する、セクハラすれすれ、いやむしろすでにセクハラ、セックスセックス、素人にはおすすめできない、みたいな感じですね。いろいろ古典とか読みなおしてみてて、やっぱりこの分野おもしろいなあ、みたいな。内容的には、さっと恋愛心理学での恋愛タイプ [1]ここらへんでやってる。 の話してから、サフォー、プラトン、アリストテレス、オウィディウス、初期キリスト教、宮廷風恋愛、モンテーニュ、ラロシュフコー、ヒューム、ルソー、カント、ダーウィン、クラフトエビング、フロイト、みたいにすすんでる [2]トマスもやりたかったが今年は無理。 。もちろんまあ表面かすってるだけだけど、自分ではそれなりに楽しくやってます。

最近はバートランド・ラッセル先生の『結婚論』(Marriage and Morals, 1929)読みなおしてたんですが、これやっぱりすごい影響力もってたんだな、みたいなの確認したり。ラッセル先生に与えられた1950年のノーベル文学賞の対象はこれとかって話ね。

もう90年近く前の本なわけだけど、恋愛・セックス・結婚について巷でよく聞くような発想や知識や表現はぜんぶこれなんね、みたいな。ほんとおもしろいので、読んでない人は必ず読みましょう。

たとえば「人間の性行動は本能じゃないよ」みたいなのが本を開くとすぐに出てくる。

「性関係の中の本能的な要素は、普通考えられているよりもはるかに少ない。」(p.18)

「本能」ということばは、性にかかわる人間の行動のように、まるで厳密さのないものに使うには、適切なことばとは到底言えない。この領域全体の中で、厳密に心理学的な意味で本能的と呼べる行為は、ただひとつ、幼児期における乳を吸う行為である。未開人の場合どうなっているのか、私はつまびらかにしないが、文明人は、性行為をおこなうすべを学ばなければならないのである。」p.19

こういうのよく使われるじゃないですか。もちろん内容的にもまあそんな問題はない。こういう文化人類学っぽいのはマリノフスキー先生やマーガレット・ミード先生が参照されていて、70年代〜80年代のジェンダー論とかでこのあたりの人々が頻繁に言及され援用されていたのは、文化人類学の人々がこうした先駆者の研究を高く評価していたからというよりは、むしろこのラッセル先生の本が影響しているんじゃないですかね。

授業ではキリスト教の性的禁欲主義みたいなのもパウロとかアウグスティヌスとかヒエロニムスとか使ってやったんですが、ラッセル先生に言わせると「聖パウロの脳裡では、私通が舞台の中心を占めていて、彼の性倫理は、すべて私通と関連して展開されているのである。」(p.49)とか。そうなんですよね。パウロ先生は結婚における生殖の話はしていない。まあ当時のパウロ先生たちにとって、「裁きの日」はほんとうにすぐ間近で、子供なんか産んでいる場合じゃなかった。やばい。「男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」だもんね。単にいろんな人とエッチしたり、人妻に手を出したりして罪を犯さないために、結婚してその中でだけしなさい。それなら先生許しますよ、と。

しびれたのは次ですわ。

聖パウロの見解は、初期教会によって強調され、誇張された。独身は神聖なものとみなされ、人々は世を捨てて砂漠へ行き、サタンと戦ったが、その間、サタンは人々の想像力を好色な幻影でいっぱいにしたのだった。教会は、入浴の習慣を攻撃したが、その根拠は、肉体をいっそう魅力的にするものは、すべて罪を生むというものであった。

(p.50)とかってやってて痛快。笑える。これはヒエロニムス先生のことですね。この頃のキリスト教の偉い人たちは、修行のために砂漠に行き、超禁欲生活、というかもう人間とは言えないくらい貧しく厳しい生活を送っていたんですね。ごはんを最小限にするだけでなく、風呂に入らないとか布団を使わないとか。ひどい。

砂漠のあの寂しい荒野で、隠遁者に荒々しい住まいを備える灼熱の太陽に身を焼かれながら、わたしはどれほどしばしば、ローマのもろもろの快楽に取り囲まれている幻想を見たことか!わたしは独りで座っていたものだ。苦々しい思いに満たされていたからだ。わたしの汚れた四肢は形もない袋のような衣服に包まれていた。わたしの皮膚は、長いこと手を入れていなかったので、エチオピア人のように荒く黒くなっていた。涙と呻きが日ごとの業であった。そして眠りに抗しきれず、瞼が閉じられると、わたしの疲れた骨は裸の大地で傷ついた。食べ物や飲み物については語るまい。隠遁者には、病んでいるときでも、水しかない。料理されたものを食するなど罪深い贅沢である。だが、地獄を恐れるがゆえに、この独房なる家に自ら居を定めたにせよ——ここでの仲間といえば、蠍と野獣だけなのだ——わたしはしばしば踊る少女の群に取り囲まれているのを見た。わたしの顔は断食のゆえに蒼白であり、四肢は氷のように冷たかったが、わたしの心は欲情に燃え、肉体は死んだも同然であったのに、欲望の炎は燃えたぎり続けていた。(ヒエロニムス『書簡』22)

食べるものも食べてないのに、エッチなことだけは忘れられない。がんばれヒエロニムス先生。

若くて健康な乙女であるお前、たおやかで、ふっくらとした、バラ色の乙女であるお前、贅沢のなかで燃え盛っているお前、ブドウ酒や風呂につかり、既婚の女性や若い男たちと並んで座っているお前は、いったい何をしようというのか。彼らがお前に求めるものを、お前が与えるのを拒むとしても、求められること自体が、お前の美しさの証拠だとお前は思うかもしれぬ。まさにお前の衣服すらが・・・見苦しいものを隠し美しいものを見させるようなものであるならば、お前の隠れた欲望を顕にさせるのだ。お前が音を立てる黒い靴を履いて歩き回れば、若い男を誘うのだ。……お前は、公衆の間では、淑やかさを裝って顔を隠すのだが、売春婦のような巧みさで、男が見たならば、より大きな快楽を感じるような特徴だけを見せるのだ。(『書簡』117)

もうほとんど女性憎悪ですわね。いや気持ちはわかりますよ。

ヒエロニムス先生とかのはこれに入ってたやつだったと思う。

ラッセル先生のこういうのは、ウィリアム・レッキー先生という19世紀後半に活躍した思想史家の先生によっかってんですけどね。この本すごくおもしろくて、誰か翻訳してくれないかなと思ってる。実は昨日、明治時代に翻訳されてたのを発見したんだけど。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754837

続きます。

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References

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1 ここらへんでやってる。
2 トマスもやりたかったが今年は無理。

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