まあラッセル先生はそうしたキリスト教、特にプロテスタント的な性的禁欲を捨てちゃおうってわけです。でもラッセル先生は売買春とかには大反対。前のエントリでも書いたと思うけど、19世紀〜20世紀のイギリスとかって、表はヴィクトリア朝的な禁欲的な雰囲気でセックスの話なんてジェントルメンやレディーズはしないわけですが、ジェントルメンも夜になるとへんなところで下層の女性を安くあれしていた。中上流の女性は岩よりも堅い貞操を求められてた。そしてそれはみんなで守らねばならぬ。
ちゃんとした女性の貞操は、非常に大切なものだと見るかぎり、結婚の制度は、もうひとつ別な制度で補われなければならない。この制度は、実は、結婚制度の一部とみなしてさしつかえないものである——私が言おうとしているのは、売春の制度である。(p.44)
これは、前エントリのエリス先生もいってて(実はラッセル先生の議論の元ネタの多くは前年出版されたエリス先生)、そのまえには「売春婦は、家庭の神聖と、われわれの妻や娘の純潔の防波堤である」っていうレッキー先生の有名な言葉もあって、ラッセル先生も引用している。この手の、「ちゃんとした女性」を誘惑や暴力から守るために売春婦が必要だって議論は昔から多いんよね。
18世紀のマンデヴィル先生という方は、『蜂の寓話』って有名な本で、自由市場にまかせた方が公益につながるよ、っていう古典経済学者が言いそうなことを言ってるんだけど、売春についてこんなことを言う。
もし売春婦や女郎が愚かな人々の主張どおり過酷に告発されるべきだとすれば、われわれの妻や娘の貞節を守るのに、どんな錠前なり閂(かんぬき)があれば十分だというのであろうか。というのも、女性全体がいままでよりもはるかに大きな誘惑に会い、無垢な乙女をわなにかけようという企てが、まじめな人間にさえ現在よりずっと許せるものに思えるだろうからである。そればかりか、ある者は乱暴になり、強姦がありふれた犯罪になるだろうからである。アムステルダムでしばしば起こるように、何ヶ月ものあいだ男しか見ていない船乗りが六、七千人ぐらいどっと着くようなところでは、ほどよい値段で売春婦が得られないなら、貞淑な女性がだれにもわざらわされずに通りを歩くことなど、どうして考えられるであろうか。……一方の女性たちを守り、ずっと凶悪な性質のわいせつ行為を防ぐために、他方の女性たちを犠牲にする必要があることは明白だ。
これほとんど似たような表現をラッセル先生も使っている。もっと昔からあって、アウグスティヌス先生は「公娼を圧迫するならば、熱情の力はすべてのものを破壊するだろう」、トマス・アクィナス先生も「都市における売春は宮殿における下水道と同じだ。下水道を取りのぞく時は、宮殿は悪臭ふんぷんたる不潔な場所となるだろう」、ってなことを言ってるらしい。これはたしか、ドイツ社会民主党開祖のベーベル先生の『婦人論』(1879)からの孫引きだけど(この本の売春論もおもしろい)。
でもラッセル先生はこういうのある程度認めるものの、かなり強硬な売春反対論者なんよね。売買春は、公衆衛生上の問題を起こすし、女性にも男性にもそれぞれ心理的な損害を与える、と。まず「保健上の危険が最も重要である」(p.148)とかて公衆衛生が一番に上がるっていうのはまあ今見るとあれだけど、まあ当時は抗生物質とかもないし、梅毒とかで脳病になって死ぬし、淋病で兵隊さんや水兵さんが数ヶ月使いものにならなくなるしでたいへんだったみたいね。(ここらへんの歴史での女性運動家の活躍もおもしろい。興味あるひとはジョセフィン・バトラーとかで検索してください。)
女性に対する悪い心理的影響ってのは、売春でお金稼ぐようになると、怠惰になったり、酒を飲みすぎたりしてどんどん堕落してしまう。また人々からさげすまれてしまう(p.149)。これは社会の偏見とかあるからだろうけど、まあ売春する女性に対する風あたりは強い。男性も、「ちゃんとした」女性も「売春婦!」みたいな感じになってたみたいね。
男性に対する悪い心理的影響ってのは、「性交するために相手を喜ばせる必要ない、とい考える癖がつくだろう」(p.150)みたいな。まあ一説によると、女性は尊敬して褒めてプレゼントして甘いこと言わないとセックスしてくれないものらしく(でもそうしたからといってセックスするわけではない)、「金払うんだからしのごの言うな!」みたいになっちゃうってことですね。いやですね。
だから、ラッセル先生はセックス肯定論者だけど、どんなセックスでもよいっていってるわけではない。
性関係は、相互的な喜びであるべきであり、さらには、もっぱら両者の自然な衝動から始まるものでなければならない。そうでない場合は、価値あるすべてのものが失われる。このように親密な形で他人を利用することは、あらゆる真の道徳の源泉となるべき、人間そのものに対する尊敬の念を欠くことになる。…性関係における道徳は、……本質的に、相手を尊敬すること、および、相手の気持ちを考えずに、自分一人を満足させる手段としてのみ相手を利用するのを潔しとしないことから成り立っている。(p.151)
これが正しいセックスです。いいですか。まあ「相手を単なる手段としてではなく、尊敬するのだ」とかっての、雰囲気カント的でもありますわね(実際には考えてることはぜんぜん違うと思うけど)。
これ、同趣旨の強硬な売買春・ポルノ反対派の杉田聡先生の非常に印象的な一文を思い出させますね。先生はこんなこと言ってる。
売春が、抱擁・性交・射精などを含む点においてセックスを模した営みと見えたとしても、それが経済行為・サービスとして金銭を媒介に行われるとき、そこで行われる営みはすでに愛し合う者同士の、あるいは互いに性行為そのものへの自発的な意思を有する者同士のセックスでないのはもちろん、それを模してもいない。金銭を媒介にしているという事実、したがって売春者にセックスそのものへの欲求と同意がないという事実は、その性的営みそのものに投影されざるをえない。金銭的動機にもとづく性行為においては、セックスにあるべき女性の自主的な興奮も反応も、それに伴う性的な喜びも存在しないのである。(杉田聡、『男権主義的セクシュアリティ』、青木書店、1999、p.174)
正しいセックスでは、お互いを愛しあい、女性が自主的に興奮して自主的に反応して自主的に性的な快感を味わうものです。ははは。そういうんじゃないのはそもそもセックスですらないよ!とかって感じですね。まあ杉田先生ははっきりラッセル読んでると思う。
まあこれがたとえば「おっぱい募金」に対する反感の根っこにあるものでもある。性的な関係は互いが尊敬しあい楽しいものじゃないとならない、しかるにおっぱい募金でおっぱいもまれても気持ちよくないどころか痛いかもしれない、したがっておっぱい募金は性道徳に反する。
さて、こっからのラッセル先生の議論がたのしい。セックスはしたい、でも売買春はだめ。どうしますか。
(ハブロック・)エリスの説では、多くの男は、束縛や、礼儀正しさや、因襲的な結婚という上品な限界の中では、完全な満足を得ることができない。そこで、そういう男たちは、ときどき娼婦のもとを訪れることに、彼らに許された、ほかのどんなはけ口よりも反社会性の少ないはけ口を見いだすのだ、とエリスは考えている。
エリス先生はなぜ男性は買春するのか、っていうのをいろいろ書いてるんだけど、基本的に(1)若いときはお金なくて結婚できないから、(2)結婚してからは奥さんとセックスできるけど、「ちゃんとした女性」はセックスに消極的でいやがったりするし、しても楽しくないし、(3) フェチとかそういう特殊な趣味もってる人は奥さんから怒られるのを恐れて買春するのだ、ということらしい。だからまあ売買春はあるていどしょうがない、撲滅はおそらく無理、みたいな話になる。しかしラッセル先生は哲学者で旧来の性道徳に対してもっと批判的なので、もっと過激な解決法を提案する。
しかし、この議論は、形式こそ一段と近代的ではあるが、根本的にはレッキーの議論と変わらない。抑圧されない性生活を送っている女性は、男性と同様に、ハヴェロック・エリスが考察している衝動に駆られやすいので、女性の性生活が解放されたなら、もっぱら金目当てのくろうと女とのつきあいをわざわざ求めなくても、問題の衝動を満足させることができるだろう。これこそ、まさに、女性の性的解放から期待される大きな利点の一つなのだ。(p.152)
これはすごい。この文脈での「エリスが考察している衝動」てのは、前回エントリでの「刺激への衝動」ではなくて、「性的衝動」そのもの。つまり、(1) 売春はよくないです。(2)でもセックスはしましょう、したいです、それはよいものです。(3)だから、女性の性を解放すれば、女性は性的衝動を素直に実行するようになります。もっと簡単にセックスしてくれるようにしましょう。避妊手段が手に入りやすくなったんですから、どんどん解放しちゃえばいいじゃないですか。そして、実際1920年代後半ってのはいわゆる「ジャズエイジ」で、人々が楽しくセックスしはじめた時期でもあった。
以前は、ときどき娼婦のもとを訪れることを余儀なくされた青年も、いまは、自分と同類の娘と関係を結べるようになっている。──その関係というのは、どちらの側も自由であり、純粋に肉体的な要素に劣らず心理的な要素も大切であり、しばしば、どちらの側にもかなりの程度の情熱的な愛が含まれているものである。いかなる真の道徳の立場から見ても、これは、古い制度に比べて、すばらしい進歩と言わなければならない。(p.153)
「若い人々はセックスできていいねえ。わしもまだまだこれからじゃ!」という感じですね。まあ「ジャズエイジ」なんで酔っ払ってみさかいなくセックスする男女も当然いた。それほどあれじゃない人々も、実際ここらへんから、とりあえず「婚約」という形をとってセックスしちゃう人々が出てきたみたい。
この『結婚論』でラッセル先生は1950年にノーベル賞もらうことになる。みなさん自由にセックスできるようになりましたとさ。いったん、めでたしめでたし。(まだ続くよ)
- ラッセル先生のセックス哲学(1) キリスト教とかディスる
- ラッセル先生のセックス哲学(2) 女性の性を解放するのじゃ
- ラッセル先生のセックス哲学(3) ワンチャンはいかんのじゃ
- ラッセル先生のセックス哲学(4) ばんばん不倫しましょう
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