中里見博先生のポルノグラフィ論 (3)

第2章「性売買としてのポルノグラフィ」

それほど問題なさそう。現在のAVポルノ制作は売買春を含んでいる。まあ前貼りつかってたころの日活ロマンポルノも広い意味では売買春含んでたのかもしれないけど基本的には「うそんこ」の演技だったわけだが、現在では実際のオーラルセックスや本番なしのAVなんて考えらんないしね。

バクシーシやバッキーに代表される暴力ポルノAVが問題なのは、演技じゃなくてほんとに人間を殴ってそれを撮影してたわけで、そういうのが犯罪を構成しないっては私には信じられん。

そりゃどんな映像も「リアル」なのはおもしろいわけだが、リアルさを追及するためにリアルなことをしちゃうってのがね。現代の広い意味のポルノ(エロチカも含む)の特殊性がここにある。

銃撃戦はおもしろいが実際に銃撃戦することはできない。映画で「誰かが青痣つくほど殴られる」ってのを表現したいときに殴って青痣つけるなんてのはありえない。

本番ポルノ女優としては愛染恭子が有名だけど、ポルノ映画界主流派にとってはやっぱりキワものだったろう。そういやかわぐちかいじの漫画『アクター』でも本番やるってのがあったが、そういう形での「リアルさ」の追求はフィクション作家としては志が低いのはほとんどのフィクションファンは認めるんではないかと思う。ドキュメンタリー作家なら別かもしれんが、ドキュメンタリー作家が人殺しを取るためにおかしな奴に実際に人殺しさせたらやっぱり犯罪だろうよ。(なので私はバクシーシもバッキー栗山もやっぱり犯罪者だと思うし、そういうのをもてはやしていた馬鹿たちはほんとうに馬鹿だと思う。バクシーシもてはやしていたAERAとかそろそろ一回自己批判してみたらどうか。)

どの論者にも、このポイント(「AVはリアル」」)はあんまり指摘されてないんだよな。中里見先生は書いてくれるんじゃないかと思ったけど、ちょっと足りないみたい。自分でもロンブン書くか。

第3章 「性売買批判の論拠」

性売買がだめな理由。

  1. 性売買の強制(経済的なインセンティブも中里見先生にとっては強制)
  2. 現場で被る暴力
  3. 買春する男が女を対象物化するようになり、他の女性に被害を加える
  4. 女性差別の再生産、女性の地位低下

まあよく主張されるポイント。議論しつくされている感じがある。

気になったのは「3 「性=労働」論をめぐって」と題されている第3節。うーん、このイコールは曖昧なので勘弁してほしいんだけ どな*1。イコールで結んでいるのが内包なのか外延なのかはっきりしない、その意味内容や範囲が同じなのかどうかあいまいなまま進んでいっちゃうのは困る。「セックスの一部は労働としてみることができる」「セックスはぜんぶ労働」「労働としてのセックスもOK」「セックスとしての労働もOK」とかいろんな読み方ができるような気がすんだけどね。あきらかにセックスと労働は違う概念なので、そのセックスの一部と労働の一部がかさなりあうことがある(そしてそれもOK)ってぐらいの意味なんだろう。

セックスワーク

中里見先生の主張は

性売買は性の支配をつうじて人格(尊厳)を侵害するという主張は、性(セクシュアリティ)と人格の結びつきに対する積極的な評価を前提にしている。人にとって性が人格と深いところで結びついているという事実を直視し、人の尊厳を尊重し保護するには、性を労働と同等に扱うのではなく、労働以上に篤く保護する必要があると考える立場である。(p. 52)

まえにもやったけど、この「人格」の概念というか意味はかなり曖昧で取り扱いに苦しむ。 と のうしろの方。これ本気でちゃんと分析するとけっこうオリジナルなロンブンになってしまうなあ。

中里見さんのような人がこういう主張をするばあいの「人格」はかなり多義的で、私の目には少なくとも

  1. 「「そのひとがどういうひとであるか」という意味の「人格」のなかで性欲やセックスや性的アイデンティティはかなり重要な部分を占めている」」
  2. セルフアイデンティティと呼ばれるもののなかでセックス関係は重要。
  3. 他人からある人を見た場合に、その人のセックス関係はその人を評価する上でけっこう重要。
  4. 人間関係を円滑に営む上でセックスはとても重要。
  5. 誰にたいしても性的な自由は尊重されるべきであり、この尊重を要求する権利は、人間が人間である以上普遍的に保持している(べき)ものだ。
  6. 人間の成長発達するなかで性的経験はたいへん重要。
  7. もっとある

とかってのの集合なんだよな。あ、1と2をうまく書き分ききれてない。あとで考える。

さて、セックスワーク論に対する中里見先生の批判は、一部非常に重要な点をついている(っていうか触れつつある)。これは高く評価されるべきだと思う。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。(p.53)

私はこれは非常に有効なポイントだと思う。労働ってのはふつうは技術なり労働力なりを売るものなわけだが、売買春や本番AVで女優や男優が売っているのは技術なのかどうか。加藤鷹は技術を売っているかもしれんが、相手の女優は技術ではなく生理的な反応を売っているんではないかという感じがある。中里見先生偉い。このタイプのものを売る商売ってのはなかなか 近いものが見当たらない。マッサージ師も身体を使って仕事をするわけだが、彼らははっきりとした技術を売っていると思う23。

ただまあ、売買春において「身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供される」ってのはほんとうかな。児童買春とかはそうかもしれんが、ふつうの街中にあるような風俗とかでもそうなんだろうか?マッサージ師が技術者であるなら、風俗嬢も技術者として評価される可能性は十分にありそうにも見える。そういう技術者として自分を認識している風俗嬢は、技術を磨くこともできれば、その技術と仕事に誇りをもつことも可能かもしれん。まあわからん。キャバクラとかで、自分ただ若い女であることを武器に、しょうもない話術と胸チラとかで商売しているひともいれば、日経新聞とプレジデントとかを毎日読んで努力して自分を磨いている高級クラブのホステスもいるだろう。前者のなかにも、そして後者の多くは自分の仕事にかなりのプライドを持っているような気がするし、それが風俗嬢に不可能かどうか。わからん。

中里見先生のよくない点は、「完全に受動的に」性的使用されるというようなケースのセックスワークがある(かもしれない)ってことから、

「そういった状態に置かれ、性的使用に供されることがサービスや演技の内容なのだ」ということはできる。だがそれはいいかえると、虐待を受け入れることを 「サービス」や「演技」と称して、金の力で強要することを正統*4化することにほかならない。(pp. 53-4)

と進んでしまうことだわなあ。たしかに児童買春は虐待だろう。でもそれをふつうに誇りをもって働いている(かもしれない)セックスワーカーの人たちにまで拡大するのはダメだし失礼でさえあるかもしれない。

性売買の現実をみれば、そこで常に売買されているのは「労働」でも性的「サービス」「演技」でもなく、それらに名を借りた、一定の範囲における、女性の身体の性的使用権である。・・・(売買春・ポルノの場では)売買される女性の身体の性的使用権は、女性の身体の性的濫用=虐待権と実体的に区別がつかない。(p. 54)

「性的使用権」。うーん、そんなもんがあるんかいな。まあ言いたいことはわかるんだけど、なんか根本的にまちがっているような気もする。わからん。

第4章 「ポルノ被害とはなにか」

いろんなポルノ被害を列挙。とくに鬼畜バッキーヴィジュアルプランニングの例が使えているので迫力がある。ここ、読むとウツになるし、トラウマあるひとはフラッシュバックおこしたりする人もいるかもしれないのでその傾向あるひとは注意。

ポルノグラフィと性犯罪の因果関係

たいていの場合ポルノは読んだり鑑賞したりするものではなく使うものであることを正しく指摘。オナニーで使うわけだがそれによって、

ポルノグラフィの内容は、性的快感と生理的反応をつうじて全体で肯定されることによって、その男性に文字どおり身体化され、血肉化される。(p. 75)

こういう大袈裟な書き方が私にはちょっとアレだが、 ここらの問題はちょっと古いけどアイゼンク*5の『性・暴力・メディア』新曜社1982あたりでも詳しく議論されているので興味のあるひとは読むべきだと思う。また、ここらへんは国内におけるポルノ利用の権威 id:kanjinai 先生にも評論してほしいところ。私にはよくわからん。

その次のパラグラフはおかしいと思う。

この事実を踏まえたうえで、なお一部の論者のいうように、「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」としたら、その論者はこういわねばならない。ドメスティック・バイオレンスを減らしたければ、妻を殴り、虐待し、拷問することを娯楽に仕立てる本やビデオを社会に大量に流通させ、世の夫全員が妻の虐待映像を自らの身体的・心理的快楽として消費するようにすればよい、と。また子どもの虐待を減らしたければ、子ども虐待を娯楽にする商品を社会に溢れさせて親がそれを好んで使うようにし、外国人差別をなくしたければ、当該外国人を拷問するビデオを人々の楽しみにすればよい、と。「ポルノグラフィが性犯罪を減らす」という議論が、いかに逆立ちした議論かわかるはずである。(p. 75)

これがどうおかしいかを指摘するのは難しい。けっこうよく考えてみないとわからん。とりあえずここでの「ポルノグラフィ」の定義をもういっかいたしかめておく必要がある。中里見先生の定義ははっきりしている。

性的に露骨で、かつ女性を従属的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物 (p.18)

おろ、「現に女性に被害を与えている」っていう一節が目新しい。それは本人も認めている。マッキノンたちはこの表現は使ってなかったと思うから、中里見先生のオリジナルだな。うーん。この新奇な定義の正当化はどこでやってるんだろう。それ見つかるまで保留。

で、もとにもどって、DVへらすならDVビデオ見せろ、ってのはたしかにおかしいよな。でもなんかおかしい。中里見さんが何を見失しなっているのかというと、それは性欲が人間の欲望のなかでもかなり特殊な欲望だってところなんじゃないだろうか。性欲のやむにやまれぬさ、「自然」さってのはほとんどの人に強く感じられるものなんだろうけど、それに対応するようなDV欲とか虐待欲とかってのがあるのかどうか。「だれでもいいから女を殴りたい」「誰でもいいから若い女のパンツを盗撮したい」とかってのはわからんでもないが(あんまりわかりたくはないが)、「誰でもいいから妻を殴りたい」「誰でもいいから子どもを虐待したい」「外国人ならだれでもいいから拷問したい」とかって形の欲望をもつってのはなかなか想像しにくい。私の根拠のない思弁では、そういう人びとの心のなかは(私の想像では)「言うこと聞かない妻をやむなく殴る」「しつけだから」「~人は~だから我が国から追い出さなきゃならん」とかそういう状態になっているんじゃないかと思われる。つまり、DVや児童虐待や外人拷問は、直接に殴ったり虐待したり拷問したりすることを目指す欲求はもってないんじゃないだろうか。いろんな認知の歪みと自己コントロールの喪失が、DVや虐待や外人嫌いの原因であるように見える。これに対してポルノ好きはどうなんかな。性欲は日々生産されつづける生のエネルギーだ、とかってのは、フロイトやユングの理論が滅びた(滅びろ!)いまでさえ、けっこうよさげな仮説なんじゃないかな。わからん。まあとにかくそこらへんかなり大きな違いがありそうだ。中里見先生のはレトリックとしては強力だが、あんまり論理的には見えない。

原子論的「因果関係」論の問題性

でも批評した論文に関係する部分。同じ論旨になっちゃうけど、こっちももういっかいやるか。勝手におつきあいしちゃう。粘着粘着。

ポルノ消費と性暴力の関係性を否定する立場の想定する「ポルノグラフィと性暴力の間の因果関係」なるものは、いかなるものであろうか。それは(1)あるポルノグラフィ消費者すべてが性暴力を実行に移すこと、(2)そのポルノグラフィを消費したことが、その性暴力の唯一の原因となっていること、という二点を暗黙に想定しているようである。 その二点が同時に、あるいは少なくとも一方が証明されなければ、ポルノ消費とその後に続く性暴力との間に「因果関係」はない、そして「因果関係」が存在しない以上、ポルノグラフィは存続しなければならない、というように。(p.77-8)

以前の論文とはちょっと書き方がかわっているが、実際にこんな奇妙な想定を置く論者がどっかにいるのかな。もう1回書くけど、(1)「唯一の」原因なんてものはどういうものについても存在しないし、(2)通常言われる因果関係は統計的であってまったく問題がない。これら誰でも認めるはずだ。この直後のパラグラフもおかしい。

しかし、この原因-結果関係論はあまりにも厳密すぎる。上記のような因果関係が立証されれば、そのような商品・製造物を社会に流通させることは危険すぎるため直ちに禁止されるであろうが、現在の公害責任や製造物責任はそのように厳密な原因と結果(損害)の関係性の立証を要求してない。ポルノグラフィという「製品」は「表現」にかかわることだからという一点だけでは、そのような厳格な因果関係の要求を正当化できないであろう。 (p. 78)

「禁止されるだろうが、」の「が」があいまい。逆接「だろう。しかし」か?

公害責任や製造物責任が原告側に原因と結果の間の詳しい因果関係のメカニズムの証明を求めていないのはその通り(そしてそれはよいこと)だが、それとポルノグラフィと性暴力の関係は同じものだろうか?無過失責任を企業に課すのはさまざまな(たとえば功利主義的)正当化が可能なわけだが、それはやっぱり製造物と被害のあいだに(正確にはどういうメカニズムかはわからんにしても)一定の因果関係があることがわかっているときに限られるのはとうぜんのことだ。私の人生が今失敗していることが、子どものころに『宇宙戦艦ヤマト』を見たからだ、なんて主張されたら困るでしょ?だから、メカニズムの分析はともかく、なんらかの因果関係の推定はどうしても必要なのよ。法律学者が法律についてなんか書いたらわれわれは(特別な事情がないかぎり)それを信頼するのだから、ここらへんはわかりやすくちゃんと書いてほしい。この手の本を読むひとが法律に精通しているってことはないだろうから、せめて因果関係は刑法でも民法でもけっこう難しい哲学的大問題として議論されているぐらいのただし書きつけておいてほしい。

民法だったらふつうは相当因果関係説か。製造物責任について 自由国民社『図解による法律用語辞典』*6では次のような解説している。

化学物質・薬品あるいは一定機械器具を永年使用したことと身体障害との間の因果関係の問題は、高度の専門的知識を必要とし、また現在の科学の水準をもってしては証明できないこともしばしばである。これについても、裁判官の革新を必要としたのでは、証明の不可能または至難となる。そこで、一応の因果関係があるとの蓋然性の証明がなされたときは、製造者の側で因果関係がないという反対の証明をしなければならないものと解される。(『辞典』p. 347)

まあ蓋然性の証明は必要なんよね。ポルノと暴力の関係が現段階の研究でそういう蓋然性さえ示せているかどうかどうか。また、それを規制した場合に、表現の自由やポルノ愛好者の快楽を抑圧するに見合うだけの社会的な利益や効用をもたらすのかどうか。わたしはいまのところ、うたがわしいと思っている。

刑法だと(1)条件説「その行為がなかったらその結果は生じなかったろう」、(2)原因説「条件のなかからなんらかの標準だけを選択し「原因」とする。たとえば一番有力な条件となったものが「原因」)、(3)相当因果関係説(だいたいその行為からその結果が生じるのが経験上通常)の三つぐらいの立場があって、相当因果関係説が主流、と。どれも中里見先生が洞察するような主張は含んでいないように見える。せめてポルノと性暴力のあいだに相当因果関係があることぐらいは示したい。そこらへん法律学やっているひとはどう考えるのかな。っていうか法律学者や哲学者には、知識に加えてここらへんの分析の腕を求めたいところ。(もちろんいろんな分析や立証の方法があると思う。)

アメリカでは、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。 (p. 79)

だからそれ以前からいろいろあるっちゅーに。まあ狭い「(暴力的)ポルノ」の影響という形ではじめたのは70年代後半だからそれでいいのか。でもなんかあれだぞ。厖大ってほど厖大にはない。60年代からメディア暴力と現実の暴力の研究があるわけだし。ここらへんの経緯について私が見たなかで一番詳しいのは上であげたアイゼンクの本。必読。

ミーズ委員会の問題についてはやっぱり触れてくれないのね・・・ここらへん一方的なのは、本気で運動しようとしているのなら逆効果になるのになあ。

第5章 「二つの凶悪事件」「インターネット時代のポルノ」

バッキービジュアルプランニングと「関西援交」。それに各種特異な嗜癖の人の掲示板の書き込みなど。ここらへんいろいろ詳しくしらべてあってご苦労さま。そういうのが好きじゃないのに見たり読んだりするのはたいへんだったろう。ここらへんが「喜びよりも苦悩をもたらした」の一部かなあ。私にはできん。へんな掲示板まよいこむとトラウマになるよ。偉い。

今日はこれくらいかな。ちなみに、Hustler誌 1978年6月号の有名「女体ミンチ」表紙がp. 132にあげられている。この号は入手してない(超高価で入手できない)けど、この表紙は、フェミニストたちがHastler誌が「女を肉のピースのようにして吊りさげている」として攻撃したのに対する編集者ラリー・フリント流の皮肉な反撃のはず。だから「We will no longer hang women up like pieces of meat. — Larry Frynt”」となるわけだ。フェミニストに対する宣戦布告。もちろんフリントは「俺らは女性の美とセックスの快楽を賛美してるんだ!」「言論の自由を守る!」とか言うわけだ。ハスラー読者がこういうのを好んで見ていたわけではない(と思う)。まあたしかにひどくdisgustingではあるが、そういう前後の文脈を説明せずに写真だけ載せちゃうのはあんまりフェアじゃない。まあ米国のフェミニズム関係の本でも同じ扱いをされているカバー写真なのだが。(「ポルノ好きはこんなのでまで萌えてるんですわよ!」「まあ!」)

70年代後半のHustlerがどんな感じだったかは あたりからわかる。そのころPlayboyは(今から見ると)ちょっと上品な保守的なブロンド美人ピンナップと上質の読み物、Penthouseはもろセックスもありのエロ中心、Hustlerはお下劣おもしろいならなんでもあり、っていう方向だったんじゃないだろうか。(そういうのお嫌いな方は見てはいけません)フリントは奇矯で魅力的な人物なので、興味あるひとは映画『ラリー・フリント』見てみるとよいと思う。(ポルノではない。脇役のコートニー・ラブがよかった)wikipedia (en)から調べてみるといろいろおもしろいと思う。

*1:まえに赤川学先生に発すると思われる「性=人格説」とかって表現についても攻撃したけど

*2:まあでも手の温度とかそういう生理的なものも重要かもしれん。

*3:教員とかカウンセラーとかってのはかなり特殊な商売で、技術というよりは「人格」そのものを商売道具にしているような感じがするのだが、まあ生理的な反応を売っているわけではない(はず)。

*4:ママ。おそらく「正当化」の誤植。

*5:心理学者。条件づけとか学習とかの権威。行動療法を発展させた人。

*6:この本はいろんな法律用語が素人にもよくわかるように書いてあるので、いろいろ法律問題も考えてみたい素人はとりあえず必携。

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