『フェミニストの法』続き(おしまい)

メモだけ。今日のはあんまり重箱ではないはず。

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

フェミニストの法―二元的ジェンダー構造への挑戦

法において身体の具体性を考えるとき、具体的な身体を有する者として我々の頭に真っ先に浮かぶのは誰であろうか。女性、障害者、中間的セックスの人びと、性同一障害者、ゲイ・レズビアン、子ども、老人として名付けられた人びとではないだろうか。 (p. 166)

  • 私の発想とはずいぶん違うけど。法学者はそうなのかな。中年男と若くて健康な女性を思いうかべる。これはすでにスケベオヤジだから。
  • 「中間的セックス」。だいじょうぶ?
  • なんかへんな二分法やカテゴリーにとらわれてるのは若林先生じゃないのか?っていう疑問が。

そうした人びと〔ゲイ、レズビアン、中間的セックスの人びと*1〕は自身がヘテロセクシスト的なジェンダー規範を内面化しているがために、自己評価が低く、ともすれば、自己の身体、欲望、活動、人生設計を価値のないものとして捉えてしまうことになるのである。(p.167)

  • ほんとにだいじょうぶ?
  • セクハラ関係で裁判で使われる「合理的な人間」という基準を、「通常人(=男性)」でも「通常の女性」の基準でもなく、ドゥルシラ・コーネル風の「自己と他者の性的な自己想像を尊重する人間の基準」として解釈しよう(pp.169-170)ってのはわからんでもないが、実質的にどういうことかはっきりさせてくれないと。自分と相手の「両方」の性的な自己想像なるもの「平等に」配慮する人はどういう判断をするのよ。そんな基準があるの?それ自体が正しいセックス*2、あるべき性的人間像、正しい性的自己想像のありかたをを人びとに押しつけることにはならないの?
  • p.170下の方。これがふつうのリベラルな理想でなくていったいなんなのかわたしにはわからん。

こうして既にジェンダー化された女性が、自由な人格となるプロセスに従事する条件が与えられることによって、性的な欲望も含めて繰り返し自分自身を解釈し、肯定し、また自己のあり得る姿を想像することができるる。それによって、女性は自尊心を育て、自己の選択にも自身をつけていくだろう。このことは、男性、ゲイ・レズビアン、トランスジェンダー、トランスセクシュアル、中間的セックスの人びとの自己解釈と自己肯定にもつながると思われる。(p.170)

  • たとえばポルノマニア、ロリコン・ペドフィリアの人とか真正サディストの人とか、共依存する人びととかどうよ。ドンファンや風俗マニア、痴漢実存、穿き古しパンツフェチ、女子大生ゴミフェチはどうよ。そういう人びとは繰り返し自己解釈し自己肯定するべきじゃない?*3やっぱり結局危害原則みたいなもので線ひきするんだろうな。でもそういう人びとのことを本当に考えているかな?若林先生の頭に一瞬でも思い浮かんでいるだろうか?
  • 自由な人格。若林先生が思っている「自由」ってだけ?それとも「本当の」自由があるの?積極的自由?消極的自由と福祉リベラルで十分じゃないの?
  • 自尊心重要。でもそんなに若林先生以外の女性は自尊心を奪われてるのかなあ。「本当の」自尊心を奪われてるの?
  • 「「女性の仕事」の価値を正当に評価する」p.171。この表記だいじょうぶ?女性女性ってそういうのが二分法なんじゃないのかいな。ここの節のむすびはこんな感じ。

以上のような想像的な議論から、これまで女性と関連付けられ、賃労働と比べて低い価値評価しか得られなかったケア労働が、重要な基本財として正当に評価され得るのではないだろうか。それによってまた、女性が—そして将来的にはジェンダー、セクシュアリティにかかわりなく人びとが—ケア労働にかかわりつつ、自己の善の構想を「自律的に」追求していくことができるようになるのではないかと思われるのである。(p.181)

  • わかるんだけど、二分法うたがうってのなら、やっぱりこの「女性が」ってのがまず出てくる書き方は不用意すぎるんじゃないのか。まあフェミニズムだからそれでいいんだけど。
  • 「自律的」が引用符でかこまれているのはやっぱり「本当の」自律とそうじゃない自律があるのかもなあ。
  • (若林先生の議論とは直接関係ない自分用メモ。ケアが基本財だってのは当然だし、「ケア」を労働ととらえるってのはわかるんだけど、それって大丈夫なんかなあ。もちろん、「ケア」って呼ばれてるものの物理的な側面が労働になりえるのはわかる。でもたとえば「愛情労働」ってのはありえるのかな。ここらへんは私が「ケア」まわり勉強してないからわかってない。)
  • やっぱり若林先生の本もミル、セン、バトラー、アイリス・ヤング、アーレント、ベンハビブ、ロールズ、ロナルド・ドゥオーキン、マリ・マツダ、コーネル、ナンシー・フレイザー、井上達夫、岡野八代と華々しい名前がどかどか出てきてけっこう肯定的に評価されてるけど、これらの相互に矛盾するように見える考え方をどう整合的な筋にまとめているかってのがわからない。こういう人びとの議論の結論だけが使われていて、その議論の中身を捨象しちゃってるから。これはすごく不満。ヌスバウム*4もこういうのは不満だと思う。

〔多田富雄先生が同性愛にも生物学的基盤があるようだという見解を紹介していることについて〕同性愛が人間の意志によってどうにもならないことであると想定されることは、裏返してみれば、意志によって自由に選んだことについては非難可能性が高いということを意味する。二元的なジェンダー構造にあてはまらない人びとの中には、トランスベスタイト、トランスジェンダー、トランスセクシュアルの人、ホモセクシュアル、バイセクシュアル指向を有する人、相手の身体にではなくジェンダーに性的欲望を抱く人……と様々であり、その中には生物学的な要因が見つからない場合もあれば、自分で選択する場合もあるだろう。(p.16の注)

  • だいじょうぶ?不用意すぎる。この手の話をしようとするにはあまりにもナイーブすぎるんじゃないの?
  • 生物のどんな欲望も生物学的な要因をもっているはずです。そうでないなんて考えられない。
  • だから、上のような「逸脱的」な人びとについて「生物学的な要因が見つからない場合もあるだろう」なんて考えることそれ自体が、若林先生が実はそういうのがなにか説明を要する異常だ(ホモにはなんか「特別な原因」があるはずだ)と考えていることを暴露しちゃってます。だめすぎ。
  • 生活様式や行為についてはたいていの人は自分で選択しているでしょう。
  • 若林先生はなんらかの欲望を意志できますか?ライフスタイルは選択できるとおもいますが、性指向を「選択」できますか?
  • ある物理的動作について、それが「意志」によって選ばれたものであるばあい(そしてそれが人びとに危害を加えるものである場合)非難可能性が高くなるのは当然だと思います。
  • 誤解のないように書いておくと、私は上にあげられてるのはどれも非難に値するものではないと思います。ヘテロセクシュアルな欲望がいくら生物学的な要因にもとづいたとしても、それにしたがって強姦したらそりゃ非難されるべきだとも考えてる。
  • この部分で参照されている伏見憲明先生の本(『ゲイという経験』)は未読だけど、伏見先生はこういう不用意なことは言わないんじゃないかと思う。あとで読んでみよう。
  • 全体を通して、若林先生はもっと性的マイノリティーについて真面目に考えてみるべきなんじゃないかと思う。いまのところ多数派女性のため*5の「フェミニズム」を、もりあげたり修正したりして政治的に正しいものにするための道具に使っている印象を受けちゃって、どうしても厳しい読み方しちゃう*6。これが誤解であるとよいと思う。最近のフェミニズムまわり読むと不快な気分になることが多い。いやもちろん私は常にマジョリティーの一員であることをめざしているので詳しくは知らんのだけど、この本で書いてあるようなものではないんじゃないかという印象はある。よくわからん。
  • あと若林先生が典型なんだけど、法学・政治学関係の人が自然科学的な知見*7の引用に、自然科学者じゃなくて社会学・人文学者参照するのがぜんぜんだめだめ。社会学関係の人はあやしげな一昔前の自然科学を根拠にしてるわけで、それの孫引きみたいな形になっちゃうから。自然科学の発展は人文社会系よりはるかに速いので、そこらの社会学者なんかをその手の話の権威としている場合ではない。もちろん社会学者の知見を導入するのはとてもよいことだけど、直接自然科学の知見もとりいれてほしい。法学者は法学者として法学の伝統をもうちょっと教えてほしい。
  • 正直なところ、フェミニズムにはまたさらにちょっと距離を感じ、それに批判的な立場に近づいてしまった。まあ私凡庸なオヤジだからなあ。

二日前のに対する追記

バトラーのクラスの怪文書事件がなんでこんなに気になるのか考えてみた。あの文章は、ダートマス大学に対する誹謗中傷になってるからなのだ。あれほどなにが起こったかわからない文章にもかかわらず、とりあえず読者にはダートマス大学というのがレイシストやセクシストのスクツであるように見え、学生の質は小学生なみに見え、さらに、大学当局の対応を書かないことで、なにも対応できない無能な当局であるような印象を与える。これやっぱり明らかな不正な行為だろう。

そんな事件が起こったらクラスで真面目なミーティングしなきゃならんし、当局に相談もしてそれなりの対応をとらなきゃならんだろう。シャレですまんよ。ダートマス大学と学生に対する名誉毀損じゃねーの?

これが民主主義に必要な遂行的矛盾とやらなのだろうか?すくなくとも、言論や表現の自由とその規制について真面目に考えている人間がやることではない。

そしてそこを素通りする若林先生も、ほんとうに表現
について真面目に考えたのか疑わしくなっちゃう。(いや、考えていると
は思うんだけど)

おそらくあそこの記述は、中傷的表現のパロディーになってんのね(ちなみに全体はおそらくデリダとサールとの論争のパロディー)。とにかく国内のジェンダーまわりの研究者はまじめすぎて、そういうのが見えなくなってしまうのかもしれんなあ。パロディーパロディーとか言うんだったらもっと軽く笑わせてくれ。とにかくもっとクリティカルにいってほしい。私も真面目にクリティカルにやりたい。*8

二分法に関するメモ

あんまり否定的なことばっかり書くのはあれだから、読者にちょっとだけ情報提供してみよう*9。(どうも誰でも知ってることだろう、とも思えないので)

諸概念に関する二元的指向は二つの作用を内包しており、それらの作用によって女性は差異化されている。一つは性別化(sexualization)であり、もうひとつは階層化(hierarchization)である。能動/受動、文化/自然、精神/身体、理性/感情、論理/直感、仕事/家庭、公/私などの二項対立的諸概念は、前者が男性、後者が女性に結び付けられるという性別化と、価値的に前者が高く、後者が低いという階層化を同時に伴う*10。(p. 165)

とかまあそういう話。第一章とかでも男性/女性とかっていう二分法はやめたらどうかっていう話が出てきていて、まあそれはそれでわかる。

問題は、それに替えるべき対案としてどういうのを用意するか。90年代のジェンダー論とか、こういう「二分法や二項対立を捨てよう」ってときに、「中間もあるから」とかって話になっちゃうのがだめなんだよな。たとえばそれはセクシュアリティと性自認の関係とか考えるとわかる。

80年代ぐらいまではそういう一元的スペクトルが流行ってたみたいね。片方に女性的なんがあって、片方に男性的なんがあって、それぞれの人はそのどっかに位置すると考えられたりする。しかしこんなナイーブな考え方はもう多くの分野で捨てられていると思う。残ってるのはフェミニズム関係ぐらい。身体にしても性欲にしても、そんなきれいなグラデーションになんかなってないじゃん。ポピュレーションにちゃんと山があってかなり明確に分かれているのは誰だってはっきりわかってるはずだ。そもそも男っぽいとか女っぽいとかってそんな単純が概念じゃないっしょ。性欲とかってのはもっと複雑でしょ。性同一性障害の人とか身体的に半陰陽の人とか、「中間の人」とかじゃないっしょ。それなのに古くさいグラデーションだの中間だのっての言ってるのがもうだめだめ。

私がセクシュアリティとかジェンダーとかについて可能性がありそうだと思っているのは因子分析的多元的理解(これ自体古くさいけど・・・なんかはずかしいなってきた)。性格心理学なんかでもパーソナリティーをいくつかの主要な因子に分解して理解されているはずだし(現在はbig5とか)。

たとえばLoftus et al., Human Sexuality (Peason) *11 っていう性科学の教科書では、ホモセクシュアリティに関しても、キンゼー流の一元的スペクトル的理解(かたっぽにホモがいて、かたっぽに異性愛がいて、その中間にバイセクシュアルがいる)に替えて、異性愛傾向と同性愛傾向の二つの尺度によるマトリックス的な理解が紹介されている。異性愛傾向と同性愛傾向は独立で、両方好きな奴(性の巨人?)もいればどっちにも消極的なやつ(アセクシュアル)がいる。私自身はこれ見たときにはたと膝を打ちたくなった。ほんとは二次元じゃなくて、もっと詳しく見れば他にも「犬好き」「ストッキング」「コップ」とかいろんな次元があるんだろう。性欲は難しい。まあやっとそういうレベルに性科学が進んできたということでもある。

「男らしさ」なんてのは多様な因子のクラスターのようなものにすぎん。「スケベ」とかだって、おっぱい好きとお尻好きとクビレフェチとかもそれぞれ独立かもしれんぞ。レズっ気あんまりなくてもおっぱい好きな女性とかも多いだろう。

こう見ると、以前に逸脱的と思われていた傾向がよりよく理解できるようになるかもしれん。とにかくこういう理解ってのはずいぶん見通しをよくしてくれるのがわかる。「性自認」と「性的指向」もまた分けて考える必要があるし、ここらへん昔ながらのジェンダーもセクシュアリティーもごっちゃにしている理解は時代遅れなわけだ。

まあそういう心理的・社会的な欲求その他を要素に分けてみると、いくつかは伝統的な見解と一致したクラスターをなしている可能性も十分にあるんだろうけどさ。でもいったんこういう分析的な視点を手にいれれば、なんかいいことがいろいろありそうだ。最近とあるブログで話題にされていた「男と女は相互補完的で」とかって馬鹿げた発想のどこが馬鹿げているかもこういう視点を手に入れれば理解しやすくなるんじゃないだろうか。

でまあ「中間が」とかって話を見るたびに、なんかそういう理解自体が二分法/一元的理解やタイポロジーにもとづいているのがわかってしまい、もう古くさくて使えないだろうと言いたくなるわけで。

で何が言いたいかというと、フェミニズムもそろそろ古くさい「二分法は卒業しましょう」とかってスローガンだけじゃなくて、それに影響されて発達しているもっと実質的な研究をとり込んで刷新するべきなんじゃないかなとかそういうこと。若い人にはがんばってほしい。あら、まとまらなかった。まあこの項はただの与太話。

*1:女性も入るのかもしれない。

*2:それはどんなものか。

*3:フェミニストの多くがよくわかってないのは、上に書いたような人びとってのは「男社会」のなかでもなにも肯定されてないってことなんだけど、わかってもらいにくいみたいね。

*4:あ、昨日から敵だったんだ。

*5:あるいはエリート女性のため。上野千鶴子が「ゲイとはいっしょに戦えん」とかっていってたのは、ある意味正直で好感もてないわけではない。

*6:いや、かわいそうなマイノリティをダシにしてはいけません、ってんじゃなくて、もうちょっと調べてみたいものだ、と。うまく説明できない。ただのとおりすがりに言及するだったらとくに気にならないんだけど。なんか表層的な理解のまま重要な論点(あるいは中心的な論点)に使っている場合が多い印象がある。もっともマイノリティを自称する人びと自身が書くものもいろいろ問題があるような気はする。これ難しいやね。

*7:ここでは心理学も自然科学の組に入れましょう。

*8:おそらくアメリカのその手の業界の人びと(学会ホッパー)は学会だのなんだので顔会わせて、いろいろ個人的なこと(たとえば飲み会でなに喋るか、どういう冗談を言うか、誰を連れて二次会から消えるか)とか知ってんだよな。狭い世界だし。それを本や論文とかでは婉曲的な表現でいろいろやってる。国内にいて真面目に本だけ読んでるとそういうのわからず真面目に読んじゃったりして。かっこわるい。後進国。参考文献はデビッド・ロッジの一連の大学ものとか?

*9:稲葉先生からトラックバックいただくといきなり読者が増える。

*10:この若林先生の文章は、「二分法」と「二元論」の区別をちゃんとしていないかもしれない。

*11: ISBN:0205406157 高いよ。でもそれだけの価値がある。


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