実は今年はここ20年ぐらいで一番本読まなかったんじゃないですかね。なんか気があせって余計な本とか読む余裕がなかったです。まあしょうがない。 続きを読む
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ゼミとかではいろんな本のおもしろいところを紹介してもらったりするのですが、最近赤川学先生の『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書、2005)ってのを紹介してもらいました。10年近く前でかなり古い感じですが、「データをちゃんと見よう、自分で分析してみよう」みたいな感じでよい本だと思ってました。
でもその発表ではなんかへんなところがあって、気になるのでメモ。
p.81から赤川先生は「産みたくても産めない仮説」に疑問を呈しているのですがここの議論どうなんですかね。女は産みたくても経済的理由や仕事と子育ての両立の困難さから産めないのだ、という議論というか仮説というか通念があるけれども、この本の執筆時の2004年ごろにはそれを直接検証するデータはない、と(p.82)。そこでまあ岡山市の調査を使ってみていている。何年の調査かわからないんだけど、 これかなあ。 http://www.city.okayama.jp/contents/000053197.pdf ……あ、注を見ると2000年の調査ってことです。(岡山市はその後も調査継続してみるみたいですね http://www.city.okayama.jp/shimin/danjo/danjo_s00092.html )
この調査の質問のなかに、「最近、女性が一生の間に産む子どもの数が少なくなっていると言われていますが、あなたはその原因をなんだと思いますか」っていうのが含まれてるのね。学生様はこれを紹介してくれた。
私それ聞いて、これってひどい調査だなと思いましたね。「その原因をなんだと思いますか」って聞いていったい何がわかるんだろう?少子化の原因がわかるんではなく、一般の人が少子化の原因について「どう思いこんでいるか」ってのがわかるだけですよね。そんな調査してどうすんだ、と思いました。もしそういう調査をしたいのであれば、希望する子どもの数を聞いて、実際の子どもの数を答えてもらって、もし少なかったら「なんでもっと産まないんですか?」って聞けばいい。これならちゃんとした答が得られそう。んで学生様にはそこらへんどう考えてるのかつっこんでしまったんですが。
赤川先生の本を読んでみると「これらの質問は、回答者に「少子化の原因を何と考えるか」をたずねたにすぎず、「少子化の原因」を直接検証するものではない」(p.82)ってちゃんと書いてる。偉い。まあ社会学者だったらもちろんこう書きますわよね。安心しました。「このような調査結果をもとに、「少子化の原因はかくかくで、だから、しかじかの対策が必要だ」と主張することは、大衆迎合的なポピュリズムではあるかもしれないが、社会政策設計としては邪道である」とおっしゃっておられます。正しい。
しかしこっから先がわたしわからんのよね。回答では「経済的負担がでかいから」みたいなタイプのがかなりの数を集めてるんだけど、赤川先生によれば、こう答えた人がどういう人かをちゃんと分析しみると、既婚者や子どもが多い人の方が、未婚者や子どもがいない・少ない人よりも統計的に有意に多い、ってことになる。こっから赤川先生は次のように推論するわけです。
仮に「産みたくても産めない」仮説が正しいとするならば、子育ての経済的負担や、仕事と子育て両立難を感じる女性は、既婚者よりも未婚者に、子どもが多い人よりも少ない(ないしいない)人に多いはずである。なぜならそれが、結婚や出産をためらわせる理由だからである。しかし事態は、まったく逆である。未婚者よりも既婚者が、子どもがいない人よりいる人が、子育ての経済的困難をより感じている。育児ネットワークの多い有配偶女性のほうが、両立難を感じている。」(pp. 85-86)
あれ、なんかおかしいですよ。質問は「(一般の)少子化の原因は何だと思いますか」ってな感じなんだから、自分が経済的負担や両立難を感じているかどうかではなく、一般の人はどう感じていると思ってるかを答えているはずなので、こういうことは言えないんじゃないかな。
赤川先生はここからさらに、子育て支援したり両立支援しても、「子どもがいない人が出産を選択するっていう効果をもつとは言い難い」(p.86)、みたいな結論にもってっちゃってる。なんだかなあ。
これを言うためには、たとえば「もし経済負担が問題なのであれば、子なしの人の方が子ありの人よりも「社会全体の少子化の原因を経済的負担と答える傾向が高いはずだ」ってことが言えなきゃならんけど、これはどっから出てくるんだろう?
既婚者子ありの方が経済的負担や両立難を感じているからといって、未婚者や子なしの人々が未婚や子なしでいる理由の大きなものの一つに経済的負担や両立難が入ってないともいえない。まあだめな調査からはなんもわからん、としか言いようがないんではないか。
私これわからんですよ。おかしな調査をもとに勝手な推論をしてしまってるんじゃないんかな。まあ細かいところだけど、慎重なよい本だと思ってたのに残念です。余計なこと書かないで、「こういう調査じゃまともなことわからんよ」ぐらいにしておいてほしかったです。赤川先生ぐらい大物になると、学生様が読んでいろいろ信用しちゃうので困ります。(っていうか私が「赤川先生だったら安心だよ」みたいなん言ってしまったのがいかんかったです。)
まあ私こういう社会調査やデータ扱うのはぜんぜん勉強したことないのでおかしいこと考えちゃってるのかもしれないので、まちがってたら教えてください。
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進化と道徳の関係について、いろいろ本があるなあ、とか思ったり。いっぱいありすぎてわけわからんわね。学生様になにをおすすめすりゃいいのか。私もずいぶん読んだんですが、特におすすめのやつ。
超基本書。読んでない人は読書人としてモグリ。
偉い先生の。内井先生の名著だと思う。いまとなってみるとつっこみというか情報が不足しているかもしれないけど、その状況で書いたものとしてはすばらしい。でもまあ倫理学者向けだわね。
これは古いか。
おもしろかった。孤独な人は読みましょう。孤独は健康に悪いです。ははは。
読みやすい一般書。
ハイト先生は2000年代で倫理学にとって一番重要な人々の一人。
道徳の問題考えるときに進化心理学とか社会心理学とかちゃんとおさえておかないとならん時代。
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ひさしぶりに学生様用お説教ネタ。
卒論を恋愛関係で書きたいっていう学生様はけっこういるわけですが、最低限おさえておく心理学系の本。ゴミみたいな本が多いので、まともな学問的な心理学の本を読むのがコツです。 続きを読む
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この本が一番衝撃的だったかなあ。「わたくしは自分の価値観で生きています。いろいろなことを言われているのは知っていますけれども、それによってわたくしの価値観や生き方を変えるつもりはありません。たとえ、そのことによって誰からも好かれないとしても、かまわないのです。」という最初の文章にぶっとばされて鼻血出そうでした。わたくしは、とにかく、自己肯定がなによりたいせつなのだということを、まなんだのです。
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ちょっと興味があって、「知的仕事術」の系譜を見てみたり。
昭和にはやった「知的生産」とかってで流行になったのはどんなもんなのか、とか。 東谷暁先生の『困ったときの情報整理 (文春新書)』を参考に*1。
まずどうもとにかくここからはじまるらしい。未読だと思う。
川喜田先生登場。ブレインストーミングとかも流行る。一応読んだけど理屈っぽいばっかりで。
とんでもない影響力をもった名著なのか怪書なのか。読みやすいのがアレだ。B6カードは大学生のときに1袋だけ買ったことがある。
これも流行したらしい。読んでないと思う。いや、読んだかな?印象にない。
渡部先生のは高校生のときに読んで、ちょっとあこがれたりした。恥ずかしすぎ。まあでも「教養」ってのはいつでもよいものだ。「書斎」なんてばかげたものに男たちがあこがれはじめる→おそらく現在まで続く。ホットミルクはいまだに時々飲んでる。
ここらへんからは同時代。立花先生が川喜田先生批判したりして。「ああいうのは無能な連中がやること。賢い奴は違うぞ」
もっとプラクティカルになって。システム手帳ブームが来たけど私はお金
なくて買えなかった。買っても使えなかった。ここらへんバブル時代の印象と
結びついている。山根先生の下の2冊は読んでないと思うけど、週刊誌ではよく
見かけていた。
傑作シリーズ。失なわれた10年でもがんばる。「整理法」より「ToDoボード」の方が印象強い。
(超整理袋システムはだめ)
続「超」整理法・時間編―タイム・マネジメントの新技法 (中公新書)
あと「ワープロ活用」の系譜が80年代後半~90年代前半にあるはずだよな。
んで、梅棹先生の読書論。
田中美知太郎氏は、材料の配合をかんがえてバランスのとれた健康的な
食事を用意する一種の料理法のようなものが、読書についてもかんがえられるであろうとのべている。(p. 98)
ふん、おもしろいね。なんかギリシア的だ。
「本というものは、はじめからおわりまでよむものである。」そうですか。
前の文章もそうだけど、梅棹先生は日本語表記にも一応の影響を与えてるよな。
(第7章でいろいろ提案している。私は賛成できないけど。)
読書記録(確認記録と読書カード)つけなさい。
そうですか。「はてな」でもそういう人は多いですね。
本は「一気に読む」。そうですか。
「傍線をひく」。最初はノートをとらずに「心おぼえの傍線をひくほうがよい。とりあえずこうして印をつけておいて、かきぬきもノートも、すべて一度全部をよみおわってからあと、ということにするのである。」そうですか。
「線をひくのに、赤鉛筆や青鉛筆をつかうひともすくなくないようだ。・・・
わたしは2Bの鉛筆で、かなりふとい線を、くろぐろといれる。」そうですか。
森口先生もそうしているようです。まあボールペンとかのインク類より鉛筆が優秀ですよね。
これは先生のこの本で一番同意できる点です。
他に「読書ノートをつける」「本は二どよむ」「本は二重によむ」とか
まあここらへんは言いたいことはわかります。
全然予想してない文章に出会ったのはここ。
たくさん本をよんで、それから縦横に引用して何かをのべる。いかにも
学問的で、けんらんとしているようにみえるが、じつはあまり生産的なやりかたとは
おもえない。わたしのやりかたでいけば、本は何かを「いうためによむ」のではなくて、
むしろ「いわないためによむ」のである。つまり、どこかの本にかいてあることなら、
それはすでに、だれかがかんがえておいてくれたことであるから、わたしがまたおなじことを
くりかえす必要はない、というわけだ。自分のかんがえがあたらしいものかどうかを
たしかめるために本をよんでいるようなものだから、よんだ本の引用がすくなくなるのは
あたりまえなのである。こういうふうにかんがえると、引用のすくないことをはじる
必要はない。むしろ一般論としては、引用のおおいことのほうが、はずかしいことなのだ。
それだけ他人の言説にたよっているわけで、自分の創造にかかわる部分がすくないということになるからだ。(pp. 116-7)
なるほど、これか!ちょっと目が覚めた。
霊長類研や人文研の気高く美しい伝統。独創性。
ちょっと前の京都新聞で、今西錦司先生あたりを中心にした研究会では
「文献調査はいらん、オリジナルのデータとオリジナルな考察を出せ」とかってのが
標語だったとかいう主旨の記事を読んだのだが、それを思いださせる。
梅棹先生の言うことはわかる。
しかしこれが(志の低い学生には)なんか悪影響を与えていたかもしれないとも思う。けっこう微妙。
梅棹先生たちはそれでOKだったわけだし、非常に創造的な仕事ができた。
でもそれはその前の世代がちまちまいろいろやってたおかげだろう。
そのちまちまが共有されている間はそれでよかったろうが、
梅棹先生たちを読んで育つ人びとは
けっきょく同じ発明を二度三度くりかえさなきゃならなくなったんじゃないかな?
そんなことはないか。私自身は引用が多かったり、他人の言説にたよったりすることはなにも恥ずかしいと思わないし、恥ずかしいと思うべきでもないと思う。さっきの田中美知太郎先生の文章も どこに書いてあるのかわかんないしね*2。まあ新書だからあれだけど。
「京大人文研的なものの功罪」ってのはなんかありそうな気がする。
*1:この本自体はあんまり強い印象を与えるわけではないけど、歴史的概観が役に立つ。
*2:おもしろいと思っても調べようないじゃん。手前の手間はぶいて生産性とやらを上げて、それでどうした?とか言いたくなるところがある。もちろん梅棹先生にそんなこと言う気はない。
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訳文は読みやすくていいんだけど、ちょっと文学臭が薄くなってしまっているような気がする。まあしょうがないかな。
たとえば
At first I hoped that the cloud would pass away of itself; but it did not. A night’s sleep, the sovereign remedy for the smaller vexations of life, had no effect on it. I awoke to a renewed consciousness of the woful fact. I carried it with me into all companies, into all occupations. Hardly anything had power to cause me even a few minutes oblivion of it. For some months the cloud seemed to grow thicker and thicker.
有名なこの「危機」 [3] … Continue reading の箇所は次のようになってる。
はじめのうち私は、すぐに抜け出せると思っていた。だがそうはならなかった。日々の小さな悩みを忘れさせてくれる一夜の眠りも、このときばかりは効き目がなく、朝になればたちどころに自分の惨めな状態を思い出す。友といるときも、仕事をしているときも、逃れられない。ほんの数分でいいから忘れさせてくれるものがあればよいのに、それもなかった。数か月の間、私はますます深みにはまるように感じられた。
岩波文庫の西本正美先生の訳だとこんな感じ。(戦後の版のやつが見つからないので戦前のやつの表記を変更して引用。みつかったら入れかえる)
最初私は、こうした心の雲はひとりでに消えるだろうとたかをくくっていた。ところが中々そうはいかなかった。人生の些細な煩悶を医するにはこの上もない薬である一夜の安眠も、私の悩みには何の効き目もなかったのである。私は目を覚ますと、新たにこの痛ましい現実に対する意識が更生するのを覚えた。いかなる友と交わるにも、如何なる仕事をするにも、この意識は私に常につきまとっていた。せめて数分間でもそれを私に忘れさすだけの力をもったものはまずなかったのである。数カ月間は、この雲はますます濃くなって行くのみであるように思われた。
この暗い雲 [4]リストに”Nuages gris”っていう曲があるね。あら、International Music Score Library Projectって閉鎖したのか。 っていうイメージは大事だと思うんだけどね。陳腐だけど、陳腐さはミルの魅力の一部文学作品だとやっぱり残さないわけにはいかないだろう。でも村井先生の訳し方もありだな。装丁とか悪くない。このシリーズはけっこう楽しみだ。けど、2000円以内に収めたかった。無理か。
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References
↑1 | 生前は出版されなかったし、養女のヘレン・テイラーがいろいろ手を加えた部分がある。ミルが自分の性生活について書いてるのが残っていればおもしろかったのにね。ハリエットテイラーとはずっとプラトニックでした、とか。 |
---|---|
↑2 | そりゃAutobiographyに決まってるけど。 |
↑3 | どうでもいいけど、ミルの「危機」の時代にインターネットがあったらどうだったろうとか考えちゃう。やっぱり2ちゃんねるメンヘル板や半角板に出入りしたかな。 |
↑4 | リストに”Nuages gris”っていう曲があるね。あら、International Music Score Library Projectって閉鎖したのか。 |
だいたい同じような話だろうと思っていると、ちょっとづつ進んでるのね。この手の学問やってる人はたいへんだろうけどやりがいもあるだろうなあ。ただ、たしかにこの本はかなり誤解されやすような気がする。
的確な書評は http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080116#1200490717 。もう私は shorebird さんが紹介してくれたものを順に読んで生きていくわけだ。
個人的におもしろかったのは、この人たちが金髪碧眼嗜好をわりと普遍的なものと考えている様子なところ。私自身の内観ではそういう嗜好をさっぱり見つけられないのでなんか愉快。さすがにバイキングたちの息子は違う。風に飛ばされてきた髪の毛一本から、「金髪のメリザンドよ」とやっちゃうに違いない。きっとわたしのご先祖にはそういう淘汰がかからなかったのだろう。南方系? カナザワ先生もブロンド好きなのかなあ。あ、ブロンドの女は馬鹿偏見の説明 [1]それは若いから。 もよかった。 でもニキビ面馬鹿 [2]若いから 仮説とか背の低いのは馬鹿 [3]若いから 仮説が成立しなかったのはなぜか?他のところも、この人々独自の説明はなんかちょっと甘いんだよな。
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立岩真也先生は『自由の平等』(岩波書店、2004) のあとがきですばらしくクールな文章を書いている。
幾名かの名があげられ、何冊かの本が引かれてはいるが、わかる人ならすぐ分かるように、これは本を読み勉強して書いた本ではない。まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。まず書いてしまって、こんなことはとっくに誰かが言っているといったことは知っているひとに教えてもらえばよいと思った。……本文の流れからは必然的でない注記があり、読んでもいない文献があがっているのは、これからの仕事をその人たちに呼びかけるのに役立てよう、そして役立ててもらおうと思ったからだ。(pp.348-349)
ふとしたことから、北田暁大先生がこの文章を使って気の利いた文章を書いていることを知った。『ユリイカ』2004年3月号。「引用学」。
立岩氏は現代社会学界を牽引するとびっきりの気鋭である。だからくれぐれも、ここで述べられていることを「僕はあまり勉強しないで、とにかくオレ流に考えた」という風に勘違いしないでほしい。彼は、一躍脚光を集めたデビューの著『私的所有論』で、おそろしいぐらいの分量の「注」「文献表」を提示し、文体の独特さに由来する読みにくさにもかかわらず各方面で高い評価を得た。その勉強量たるや、並の「偉い」学者が及ぶところではない。
とはいえ、たんなる謙遜ともいえないところに右の引用の面白さがある。つまり、自分の引用・参照にも二通りあって、
(1)自分が内容的に示唆を受け本気でリファーした=紳士的・儀礼的に関心を顕示した(civil attention)、
(2) 自分の論を書いた後に「関係があるらしいので」リファーした=関心を儀礼的に示した(ritual attention)、
というのが混在している(そして自分は基本的に(1)の路線+オレ流でこの本を書いた)、というのが立岩氏の隠れた主張なのだ。(pp.113-4)
まあ北田先生がこのエッセイ全体で議論していることがどういう内容なのかはあんまり興味がないが、この引用個所にある北田先生自身の判断は正確だろうか。
私自身は、立岩先生というひとは非常に正直な人だと思うので、彼の「勉強していない」「読んでいない」は本当に勉強していないし読んでいないという事実を述べているに過ぎないんじゃないかと思う。
立岩先生の本を議論しているとキリがないので、今日は私がそういう印象を抱いている根拠を一箇所だけ指摘しておく。
『自由の平等』の第1章では第1節では主にノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』→森村進先生のリバタリアニズムと、アイザイア・バーリン『自由論』での「消極的自由」/「積極的自由」の区別が取りあげられているのだが、ここが何度読んでもわからん(ので先を読む気にもなれない)。おそらくどちらも(少なくともちゃんと)読んでないんじゃないのかな。
((a)~(d)は私が勝手につけた)
(a)このように述べてくると、親切にも、「あなたは「消極的自由」と「積極的自由」の後者の方を言っている。それは評判のわるいものだ」と教えてくれる人がいるだろう。素朴には、積極的自由は「何かをする自由」であり、それが現実に可能であるための手段の提供が権利として求められる。消極的自由は「何かを妨げられない自由」だとされる。この対比において、私有派は消極的自由を優先すべきだとし、積極的自由は危ないと言う。(p.44)
ここに得意の注がつけられる。
(b)この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin [1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという —- なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。 (p.298)
「だということになっている」は気になるフレーズだ。また出典の好きな立岩先生がこのバーリンのフレーズに出典をつけてないのは気になる。まあ注の注はいやなのかもしれんが。
もうひとつ。
(c)消極的自由を積極的自由からはっきりと区別することができるだろうか。そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。「したいことを妨げらられない」のが消極的自由である。ここでは、したいことをする「能力」が欠けていてそれができない、選べない「事情」があるとしよう。それはどうなるのか。実際には実現不可能であっても、その不可能が他人の意図的な妨害によってもたらされない場合には、それについてその人は既に自由であると主張されるかもしれない。しかしこれはおかしい。(p.45)
これにも注。
(d)バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。(……)最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれくらい多くのドアが開かれているか」(Berlin [1969=1971:58)という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています」(井上[1998:23]) (p.299)
これもバーリンに出典がついてないのが気になる。「ドア」の比喩は私の知るかぎり、『自由論』のなかでこの一箇所しかない。またこのp.58は序文で、有名な「二つの~」ではない。それを補足訂正している文章。そもそもなぜ(a)でバーリンは関係ない、と言いつつ、ここでバーリンが出てくるのだろうか。
私はこの二つの文章と注から、立岩先生はバーリンの『自由論』を本当に読んでない(!)と推測する。『自由の平等』とかって本を書き、消極的自由と積極的自由を論じるためにバーリンを読んでないというのはほんとうに驚くべきことだが、おそらく立岩先生は正直なのである。信じられないほどのことだが。
まず、ふつう言われている消極的自由と積極的自由の区別は、たいていの場合バーリンの『自由論』に由来する(バーリン自身はその区別がオリジナルなものではないと言う)。バーリンの『自由論』は序文と四つの論文(「二十世紀の政治思想」「歴史の必然性」「二つの自由概念」「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」)からできていて、序文は四つの論文より後に書かれており、特に「二つの自由概念」については序文で自説の部分的訂正と誤解の解消が行なわれている。
「二つの自由概念」でのバーリンの区別は、立岩先生の最初の引用に挙げられているようなものではない。(b)の注に出てくる形が正しい。「「積極的自由」の概念は評判が悪い」「危険だ」と言われるのは、この「自己実現」としての積極的自由の概念についてであって、「それが現実に可能であるための手段の提供」の権利としてではない。たとえば最低限の教育を受ける「権利」や最低限の文化的生活を送る「権利」(この権利をある種の人は「自由」と言う)をバーリンの立場の人が否定するはずがない。そういう権利(や「自由」)は政府が保証しなければならないという立場と、バーリンの立場はまったく矛盾しない。こんなのはバーリンの「二つの~」を直接読めばすぐにわかる。
バーリンが分析したのは、政治的な文脈における「自由」の概念が、さまざまな論者によって混乱されて使われており、そのうち特に二つ(上の区別であげられるもの)が特に重要な概念だということ。たとえばルソーやヘーゲルやマルクスその他の人々は積極的な意味で自由を使い、結果的に個々人の欲求や感じる幸福とは独立に全体主義的な社会を構想してしまう、それが「危ない」と言われるんだと私は理解している。
(b)で立岩は「なぜ「自己実現」と言わなければならないのか私にはわからない」と書くが、そりゃもし読んでいなければわからない。少なくともバーリンが(a)の形の区別をしたと思いこんでいるならわからないに決まっている。調べてみようと思わなかったんだろうか?
「そしてなぜ消極的自由はよくて、それ以外・以上のことはいけないのか。」こういう素人くさい文章が立岩先生のウリなのは認める。しかし「よい」「いけない」がどういう意味が考えたことがあるのだろうか。バーリンも(おそらく立岩先生に積極的・消極的の区別を指摘した人も)さすがに「よい」とかいきなり使わない。もしまともな人なら、「なぜ消極的自由は政治的に保護するべきで/保証されるべきで、それ以上は社会は保証するべきではない/保証しなくてもよい/干渉すべきではない(のどれ?)」と問うべきだろう。もしちゃんとそういう形で問えば、たとえばバーリンがどういう根拠でどう主張しているか調べようという気になるはずだ。むしろ、バーリンを一度でも読めば、「よくて~はいけないのか」なんて乱暴な問いは立てられない。
結局バーリンを読んでないから、こういう意味不明な問いが出てきてしまう。バーリンはまったく関係ない。(井上達夫先生の論文は未読)最低限の選択肢や他者からの承認(p.360ff)が人間が生きる上で必要なことはバーリン自身認めているし、必要なパターナリズムも認める(p.350)。バーリンの主張は、それが社会が保証するべき狭い「自由」ではないってこと。
ふつうに理解すれば、立岩先生が議論しようとしていることはリバタリアンと功利主義(そしてロールズ流の中道路線)の間で延々とやられている議論の一バージョンで、もちろん立岩先生は功利主義の方。(でも立岩先生はベンサムの「序説」もミルの「功利主義論」も読んだことがないだろう。文献表にも出てこないし。)
立岩先生が問題にしている弱者の「することのできぬ状態 inability」については、バーリンは消極的自由の観念を論じている一番最初に出てくる。
ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だと言われる。この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができるしかしながら、強制とはすることのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。……単に目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。
……自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられているからなのである。いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているというのは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。」(pp.304-6)
もちろん「自由」と「できない状態」の区別は難しいかもしれない。しかしわれわれの多くはイナバウアーのポーズをとることはできないが、それがイナバアウアーする自由を妨げられているわけでもなければ、誰かが私にイナバウアーできるよう手配する責任を負っているわけでもないのははっきりしている。
もっと立岩先生の問題意識に近い文章もある。
ここでの問題に対する歴史的に重要なもう一つのアプローチがある。それは、自由の対立概念である平等と博愛を自由と混同することによって、同じく自由主義的でない結論に到達するものである。 (p.360)
おそらく立岩先生はこの混同の餌食になっている。もちろん、平等や博愛は非常に重要だし、バーリンの言うことが正しいかどうかはいろいろ議論の余地があるのはたしかだ。ある種の意味では、自由と平等や博愛は対立する概念ではないかもしれない(特にバーリンの言う「積極的自由」の意味では)。
しかしこんな立岩先生の論点にとって非常に重要なものを、もしバーリンを読んだことが一度でもあればふつうの学者なら無視できるはずがないと思う。バーリンのように優れた学者の書くものは明確で一定の訓練をすれば誰にでも理解しやすいものになる。ふつうの読者はそういう優秀な人がその鋭いナイフでいったん切り分けてくれたものをまたくっつけて議論しようなんて思わないものだ。すくなくともいったん切られたその切り口を意識せずにはいられない。
バーリンの『自由論』は本当に名著中の名著の一冊で、何度読んでも目からウロコが落ちるような思いがする。(学問的・政治的な立場を共有していなくても)一回でも真面目に読んでいれば立岩先生の本はまったく違う本になっていただろうと思う。訳文も立派だし。
もちろん、バーリンを読むか読まないかは立岩先生の自由だし、「関係ない」と言っているのだから本当に関係ないのだろう。彼は読んでないものを読んだと言っているわけではないので別に不誠実なわけではない。しかしいったい、まともな学者として、この手の問題をバーリンをまったく読まずに議論することができるか私にはわからない。(すくなくとも政治学とか真面目に勉強している人間にはそうだろうと思う。)
たしかに「まず時間をどう配分するかという問題がある。人が考えたことを知るにも時間のかかることがある。」のはたしかで、学者は常にその問題に悩まされつづけている。しかし、まともな学者である一つのポイントは、どこに豊かな思考のためのリソースがあるのかを知っていること、ある主題を論じるのに最低限どうしても読んでおかねばならない文献を知っていること、少なくともそれを嗅ぎわける嗅覚のあること、それを自分で確かめてみる労力と時間をかけてみる意欲があることだ。そしてそれは学者社会の伝統が教えてくれる。引用(a)の「親切」なひとたちは伝統にしたがって立岩先生にそれを教えてくれたのだろう。そういう伝統に敬意を払うことができない者は学者ではない。そういうひとに文献リストにバーリンの名前をあげたのは大学院生のこれからの仕事に役立てようと言われても、呼びかけられた大学院生は困ってしまうことだろう。(少なくとも政治学者の卵はあきれ、哲学者の卵は冷笑し、法学者の卵は律儀に怒るだろう。社会学者の卵はわからん。)
北田先生の文章に戻れば、立岩先生は正直に自分で認めているように、北田先生が言う「(2)+オレ流」で『自由の平等』を書いたのだろうし、北田先生は読んだのにたしかめもせず「(1)+オレ流」と判断したのだろう。少なくともバーリンに対する立岩先生の言及はただの儀礼だ。この調子でいちいちやってると1年かかるが、同じような個所は山ほどあるように見える。
北田先生は「引用学」とか唱える前に、『私的所有論』の権威(北田先生は他の「学者」の評価とは独立に自分でも評価しているのだろう)によりかからず、いったん立岩先生の引用が実際にどのように行なわれているか確かめるべきだったろう。馬鹿げている。とにもかくにも正直でたしかに(先例にこだわらないという意味で)オリジナルな(これは重要)立岩先生より、北田先生の方が問題が大きいかもしれない。
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