格闘中。てごわすぎ。
ベンタムが残した厖大な著述を見ればわかるように、彼にとって功利主義は何よりもまず統治の原理であった。それはあるべき統治、あるべき法を指し示す理論として構想されていた。
(p. 3)
good。しかし、
しかし、ミルを経てヘンリー・シジウィックに到ると、功利主義の理論的課題は第一義的には、統治の原理ではなく個々人が従うべき道徳の原理とされたのである。
(p.3)
こっちはどうかな。ミルの『自由論』『女性の隷属』、や、シジウィックの『政治学原理』Elements of PoliticsやPrinciples of Political Economyを過小評価してる?いや、そんなことはあるまい。
他メモ。
- 私とはなんというか概念の理解の解像度のようなものが段違いだね。こういう人に世界はどう見えてんのかなあ。思考のスピードもぜんぜん違う。こういうタイプの人ってはじめて見るよなあ。
- 統治功利主義の「名宛人」は公務員とか。
- ベンサム以来の功利主義の魅力の一つは、個人道徳から世界制服までぜんぶ一貫した原理で行けるぞってのだから、話を統治に限定しちゃうのは「ずるーい」と言いたくなるのだが、まあ戦略としてはいいよなあ。うらやましい。
- 「統治」だけ分離するってのについてはGoodinはどう考えてるのか見てみる必要がある。この人の重要性は安藤先生から教えてもらうまで知らなかった。以前から某君とか時々言及してくれてたんだけどね。
- まあ安藤先生の関心からして当面それで十分ということだから、文句つける筋合いはない。
- 統治に限定することについては、Y君からもらった覚え書き参照。ミルのベンサム批判。濱先生の思想論文「リベラリズムの再定義」のやつ。
サンキュ。 - でも安藤先生の「方法」はどんなものなのかな。天下り式に功利主義を採用している、あるいは、統治の究極的原理の候補の一つとしての功利主義を所与とみなし、それを洗練させようとしていると見ていいんだろうか。そして洗練された功利主義が、競合する他の理論と少なくとも同じ程度にはよさげ、と言えればよい、のか。まあ、どっかに書いてるだろう。あ、本人に聞けばいいか。正月あけに聞こう。
- シジウイックの『政治学原理』のやり方との違いは重要そうだ。
- 2章と3章は私には読めんな。あきらめ。「間接功利主義」をちゃんと理解するのは重要なのはわかってるんだけど。
- 功利の指標説。厚生(幸福)以外の価値が厚生に還元されるとまで言う必要がない。価値の対立を調整する際の指標としての厚生。
- 内在的価値を例示するときにハイドンの「絃」楽四重奏をひきあいにだすp.95。しびれるなあ。しぶすぎ。
- 4.1.1.2 内在的価値は個人的(personal)か。personal/impersonalを個人的/非個人的と訳すか人格的/非人格的と訳すかは微妙だな。あとで人格personをパーフィット風にばらしていく話をするわけだが。ここではとりあえず「ひとに依存するか」なんだろう。
- 不偏性impartialityと非個人性impersonalityを混同してはいけません。そうですよね。p.99
- 仁愛それ自体は功利主義によっては論証されない。
理論的レベルでは、仁愛の採用は一種の決断である。もちろん、統治の場面で統治者がエゴイズムを採用することを推奨すればろくなことにならないのは明らかなので、統治理論を求める立場からは実践的にはエゴイズムが排除できるかもしれないが、それは功利主義の外部にある問題であるというしかない。(p.99)
これでいいのかなあ。もちろん「論証」はされないだろうが、こういう片付けかたでよいのかどうか。よくあるベンサムに対する批判だと、事実として心理学的利己主義が正しいなら、なんで統治者が功利主義を功利主義を採用するべきだとされるのはなぜか?そもそも統治者は(事実として)自己利益を最大化しようとするのではないか?おそらく安藤先生のやり方は、だからこそ統治される人民が、法と各種サンクションによって統治者に不偏性を強制するのが重要なのじゃってことになるんだろう。「統治功利主義」の問題意識からすればこれで問題をパスできるのか。 うーん。でも人民が何組かに分かれて、力に差があったらどうなるかな。これもうしろで議論されてるはずだからそのとき考えよう。
- 道徳判断と動機付けについては外在主義を採用。はい了解。
- 「演奏会に行ってモーツァルトのオペラを実際に聞いてみたら、・・・ハイドンの室内楽に比較してそれがあまりにも凡庸なので・・・落胆を覚えるとしよう」p.101。うははしびれる。こういう例を書けるだけで凡人ではないのがわかる。ハイドン聞かないといかんですかー。
- 「問題は、理想的自己がなにゆえ蒙昧なる私のことを思い煩うのか、が明らかではない点にある。」p.104。ここわからん。逆じゃないのかな。なぜ蒙昧なる私が理想的自己のことなんか考える必要があるか。あれ、私ここのわかっとらんな。その前の「事実的情報と合理性に於いて理想化された主体が現実の我々に持たせたいと思うだろう欲求の充足と内在的価値を同定する」p.102を読みそこねてたからだ。でもそれでも問題がよくわからんな。むずかしいです。ここらへん、もうちょっと頭悪い読者に親切に書けるような気がするな。
- おそらくこの4.1.2.2の議論は、問題設定自体が安藤先生のオリジナルでその分読者にわかりにくくなってるんじゃないかな。なんか重要なところを見ているようだが、 私にはまだわからん。注意しつつスルーしなければならんなあ。しくしく。
- 4.1.2.4。「快楽は常に正確なのである。自分が快楽を感じているか否かを間違うなどということは殆ど考えられない。」p.112。こういうのをさらっと書けるのがこのひとが問題をよくわかっているのを知らせてくれる。でもこれ、ほんとうかな。「苦しみ」ならそうだと思うんだけど、快楽/喜びもそうかな。苦痛だとどうか。sufferingのようなそれに対応する欲求が必ずともなっているものと、快楽や苦痛のような感覚についてもそういうことがいえるかな。言えるるか。ある意味では言えそうだな。快を感じていればそれはまちがいなく快だ。でも快を感じているときにはつねにそれを意識しているかな。あれ、そういう意味ではないのか。んじゃ「殆ど~ない」と限定する意味はなにか。「絶対に~ない」じゃないのか。安藤先生はなにを考えてるんだろうか。めずらしく腰ひけた表現だから気になってくるな。快楽と苦痛の非対称性にも注意。私は正義とかそういうのにはあんまり興味ないんだけど、こういうのはおもしろいねえ。私にとって功利主義が魅力あるのは、むしろこういう価値の理論を含まざるをえないからだ。
- 4.1.2.5の議論が成功してるかどうか。「善の功利説は、個人的な非道徳的価値と厚生が概念的に等価であるといっているのではない。・・・善の功利説が主張するのは、個人的な非道徳的価値と厚生とが特質に於いて等しい、ということである。」p.113。「特質において等しい」かあ。例は熱と分子の運動エネルギー。この両者の「特質」とはなんだろうな。あったかいと感じることの原因になっていることかな?
- 4.2.1でやってる卓越主義批判「卓越主義を含む客観的リスト説一般はある主の個人に対して自己論駁的であるか、或いはその個人を異常者扱いして自らの大将とすることを拒むかの二つの道しか採ることができない」(p.116)は、まあ実践的な含意は、よくわかるけどちょっとポイントが違うような。わからん。
- 安藤先生の卓越主義に対する厳しい態度ってのは、あれだよな。生身の本人としてもさっぱりなんにも魅力感じないのかなあ。ここらへんが人間として著作家としてすごい。平凡な中年男としては、いやそれはそれで魅力があってね、とか言いたいとこだが、説得どころか耳をかしてもらえるように説明するのさえ無理だろう。
- 安藤先生の方法(2)。4.2.1のところで「我々はそういった陥穽を避けるためにこそリベラリズムを採用したいのである。」やっぱりこういうのが前提にあって、その理論的基盤として功利主義を採用するっていう順番なのかな。常識的な道徳の分析から功利主義に辿りつくミルやシジウィックとはずいぶん違うように見えるな。できればシジウィック流のハードラインをとってほしいんだけどな。まあここはおそらく書きすぎなのかもしれない。まあそういうのがぽろっと出てくるのはいい感じだよね。
- この前別の研究会でもJames Griffin話題になったし、卓越主義についてどういう議論をしているかちょっと目を通したいけど見つからん。コピーしかもってなかったような。
- それにしてもこういう本を読むと、どういう問題についてもぼんやりとしか理解してないのが自覚されてつらい。人生短かすぎるよ。
- 正直私もコンテナ扱いされるのはいやだし「人間はそんなに情けないものではないはずだ」とか思っちゃう。この「情けない」という形容詞の選択がいいよなあ。まあコンテナでもしょうがないねえ。ははは。せめてもっと大きいコンテナだったらよかったなあ。はは。
- 時点主義もなあ。言いがかりだと言われるのは承知の上で、理論的困難によってではなく、なんか心理的障壁のために、ふつうの人間にはそういう理論は採用できんのですよ、とか言ってみたい。勘弁してくださいと泣き付くか、採用しにくさをなにも感じないのか手前は!と殴りかかるかどっちか、そういう感じ。でもまあシジウィックもすでにアレですけどね。ヒュームも?
- あ、そうか、安藤先生の本では、パーフィットがやってるタイプの常識道徳に対する攻めがちょっと足らんかもしれんのだな。
- やっぱりおそらく「密教的道徳」のところ3.2.1はいろいろ考える必要がある。統治の理論だから、と逃げることは本当にできるのかな。統治の理論だからこそ、となっちゃわないのかな。わからん。
- おっと、時点主義と現在主義を混同しちゃだめなんだな。ちゃんと理解しよう。
- アリストテレス~ヌスバウムの機能主義批判。まあたしかに機能主義はおかしいところがあるが、ちゃかしすぎかなあ。思考実験は笑える。それにしてもこの本誰に向けて書いてるんだろうな。それが知りたいような気がしてきた。
- あ、児玉先生の博論や戒能先生の世界の支配者ベンサムも読まなきゃならんのかな?いやそりゃ無理だな。
- 快楽。自分が快楽を味わっていると意識している時は必ず快楽をあじわっている。うむ。OKだ。しかし一方で、快楽を味わっているとはっきりとは意識していないけど快楽を味わっているってこともありそうだな。これが安藤先生の「ほとんど~ない」の意味なのかな。苦痛だとどうなんだろうか。安藤先生の用語法では、快楽と苦痛がいりまじっている状態というのはあるのかな。それは(用語法として)ありえないんだろうか。おそらく快楽を広い意味で使いたいだろうから、苦痛といりまじった快楽なんてのはないという意味で使うってるんだろうな。やっぱり快楽はふつうに「望ましい意識状態」や「望ましい心理的状態」だろうなあ。でもこのときの「望ましい」ってのはどういうことなんだろうな。それは「(合理的な?)欲求の対象になっている」なのか、他になんかあるのか。あれ、おかしいか。ここはいろいろトリックかけられちゃうところなんだよなあ。慎重にチェック。
- それは5章で扱われるのです。
- まず記述的快楽説と規範的快楽説を分けます。問題は規範的~の方。さらにまず感覚的快楽説と分けましょう。さらに残りを内在的快楽説と外在的快楽説に分ける、と。
- こういう分類好きがベンサム主義者たちの真骨頂だよな。ついていくのがたいへん。なんか認知のあり方が違うんだと思う。あとベンサム的な人々の造語癖みたいなんとかも苦手。安藤先生にもその一面がかいま見えるなあ。informed disireに「知悉的」をあてたり、sufferingに「艱苦」あてたりね。「艱苦」の方は辞書に載ってますけど。どっちも好きな人は好きみたいね。まあ言葉に敏感じゃないとこの手のはできないもんなあ。
- hedonic tone。ふむ。これがさっきの「特質」に対応するんだな。いや、ちがうか。
- へえ、外在的快楽説とかってもの(「様々な心的経験それ自体ではなく外在的な要素が関して初めてそれらの諸経験が快楽となる」)を採用するのか。これは斬新そうだ。安藤先生の議論のミソなんだんだろう。
- fall-back。後退戦線。ここらへんが安藤先生の著述方針の斬新なとこだ。あえてつっぱらない(ように見せかけて実はつっぱる。あるいは誘いこんで戦う)。へんなやつだ。
- あら、外在的な要因とは、「我々がそれ(感覚経験)に肯定的態度を取れば「快楽」であり、否定的態度を取れば「苦痛」である」p.145とかってことなのか。なんか肩すかしくらった。
- 「外在的快楽説を採る場合、そういった態度の対象は狭義の感覚経験だけに限定されるわではない。」p.145そうですか。
- 「その対象は欲求の対象の場合と同様に、命題或いは命題相当物である。それゆえ、外在的快楽説は命題的態度の一種として「快苦」を考えることになる。」p.145。なんか怪しげな雰囲気がたちこめているように思う。わからん。
- 「このような快楽説に於いて「欲求」が快楽の定義に出てこないことに注意しよう。」。ってことでブラント先生の欲求概念をもちいた「幸福」の定義を批判する。勇気ありすぎ。すげー。
- 「「肯定的態度・否定的態度」は欲求とは異なった原始的概念である」p.146か。ふむう。欲求を離れて態度が言えるってわけか。理解しにくいな。
- 態度的快楽。猛烈にあやしい。わからん。やっぱり昼間から気になっている問題がここに集約されるんだわな。Fred Feldmanとか読んだことないですよっと。国内で何人ぐらい目を通してるんだろう。ここのあたりは最後までひっかることになりそうだなあ。でもとにかく野心的な奴だ。
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