ナカニシヤ出版「愛・性・結婚の哲学」を読みましょう (3)

愛 (愛・性・家族の哲学 第1巻)
藤田尚志 宮野真生子
ナカニシヤ出版
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藤村安芸子「古代日本における愛と結婚:異類婚姻譚を手がかかりとして」

いわゆる「海幸彦・山幸彦」の話つかって、女の本当の姿を見て逃げちゃう男の話。『崖の上のポニョ』の主人公宗介は半魚人でもOKなので愛があるが、ホヲリ(山幸)は、子供までつくったのに、出産のときに見るなって言われてたのに本当の姿であるサメを見て逃げちゃったから愛がない。ははは。

この論文は全体に難しい。古事記やポニョを読み解くってわけなんだけど、その読み解きの正当性みたいなのはどうやって保証するのかな、みたいなのとか。まあ解釈としてはもっともに読めるかもしれないけど、それって文学とかの領域だなあ、みたいな。「なぜ古事記はこういう物語・記述を採用しているのか」みたいな問いにちゃんとした答があるのかどうかよくわからない。

「暴力性」、「〈本当の姿〉」とかイメージはわかるような気がするけどわからないような気もする。古事記なんかの叙述が、「自然と人間が出会うということと、男女が出会うことを重ね合わせている」みたいなののもわかるようで共通しているのは「出会う」ってことちゃうか、みたいなつっこみも入れたくなるし。まあ物語、特に古事記のエピソードのような断片的でディーテイルが薄いやつを使ってなにか言うのは難しいな、と思ったり。

私なんかだとこの論文で使われている古事記のエピソードとか見ながら、次のようなことを考えた。

・出産とかのときはやっぱり見てはいかんのではないか。なんにしても本当の姿みたいなのは見ない見せない、ってのでいいのではないか。

・ホヲリさんが「驚いて逃げた」っていったって、ヒメが次の日平気な顔出して「いやー、たいへんでしたたいへんでした、はい、これ赤ちゃん、いやー昨日はサメにもどっちゃってたいへんだったわー」とかやればよかったのではないか。出産とか特別なときなのでサメになってもしょうがないのではないか。トヨタマビメは見られちゃって恥ずかしくて実家に帰ります、とかする必要ないんちゃうか。むしろ約束やぶったのが問題なんちゃうか。なぜそれに触れてないのか。

・ホヲリさんはイケメンだからトヨタマビメたちにモテたようなので、やっぱりイケメンは大事だ。イケメンに対抗するためにきれいになりたいっていうトヨタマビメの気持ちはまあわかる気はする。

・トヨタマビメとイザナミは、まあ「恐しい姿」だから美人に姿を変えている。化粧その他は大事だ。

・本当の姿っていうのはまあ男女問わずおそろしかったりやばかったり滑稽だったりする。大物主さんはヤマトトトビモモソビメに「朝の光のなかで本当の姿を見せてください」って言われて、「んじゃ見せる」って答えて見せたら本体は「小蛇」で驚かれたので恥ずかしくて怒ってしまった。大蛇だったら放っておいても「見ろ見ろ」ってやったかもねえ。わあ、神様、罰あてないでください。それにしてもなんで古事記で女性は陰部を突いて死んじゃうのか。やっぱり実際にあったさまざまなレイプ殺人とかが反映してるんかねえ。ちょっとわからん想像ではある。

・古事記の時代で「恋愛」と「結婚」みたいなのを区別する意味がどれくらいあるかっていうのは微妙よね。「恋う」っていうのはやっぱりエッチなことをしたかったりいっしょにごろごろしたり、そういうのができない状態で近づきたいって思うことだろうし、セックスしちゃうのはそのまんま結婚っしょ。どっから結婚か、みたいなのはあんまり考える必要がない気がする。

・スサノオさんに襲われてアメノハトリメさんやっぱり陰部を突いて死んじゃうわけだけど、これスサノオさんの「性的交渉の結果、相手に死をもたらす身体」が直接に畏怖の対象となってるわけではないんではないか。さすがにスサノオさんでもエッチなことをしたら相手が死んじゃうような体ってことはないだろう。まあスサノオさんはすごく乱暴で邪悪ではあったろう。

あら、本論からぜんぜんずれてしまった。やっぱりこの手のは慣れてないから難しい。すみませんすみません。ちなみに文献リストにあげられている『歴史のなかの家族と結婚』は私は評価しないです。


宮野真生子「近代日本における「愛」の変容」

とりあえず「愛」っていう語がどういう経緯で使われているか、っていう話だと思う。
中国語の「愛」は慈悲心である「仁」にもとづいて他人を大切にすることです。古代日本では「愛」をつかって「いとし」「かなし」「うるわし」「めず」なんかにあてた、と。ものに対する愛玩とかも含むし、人間でも小さくて弱い者に対するポジティブな感情です、ぐらいか。これに対して明治以降に西洋から導入された「愛」は、loveとかamourとかで、キリスト教の愛はアガペーとか隣人愛とかで、どういう語をあてるか困りましたが、けっきょく「愛」をあてることにしました、と。

まあこれはよく知られている話。んで西洋語のloveやamourにはエロティック、あるいはロマンティックな意味でのloveもあるわけだけど、これも「愛」「恋愛」にしますた、と。宮野先生のよると、「明らかに異なる意味内容をもつ「恋愛」と「愛」がloveの訳語として使用され、しかも両者が混在した意味合いで用いられたことから、近代日本の愛をめぐる混乱は始まった」ってことになるけど、まあlove自体がいろいろあるわけだからしょうがないっすよね。

明治になると西洋の文物入れて、19世紀のヨーロッパの恋愛とかそういうのの文化も入れちゃって、坪内逍遥先生とかが書生の間で「ラアブ」とかが流行ったのとかあれしてこれして。そのあとキリスト教団体が女子学生をあれするために雑誌作って、それで恋愛賛美とか恋愛結婚賛美とかする。前の佐藤先生が書いてるプロテスタント的な結婚観がおもいっきり導入されてるわけですねえ。(バルトは20世紀の人だけど、あれに近い19世紀のプロテスタントのものだと思う)

まあこのシリーズでは、西洋での「恋愛」の変遷がちょっとわかりにくいんであれよね。騎士道恋愛とかゲーテとかスタンダールとかフロベールとかそういうのもコラム程度でもいいから必要だったんちゃうかと思うです。西洋でも恋愛の考え方がずいぶん変わってるのがわからないと、明治期の日本でそれらを一気に入れたときにどう困ったのかっていうのがわかりにくいかもしれない。特に19世紀なかばの西洋、特にイギリス・アメリカでのの考え方は必要な気がする。

 

透谷先生。おそらくモテない。

論文では透谷先生登場。なんでこの人この手の話すると必ず出てくるんすかね。若死にしてるしたいした作品残してない気がするんだけど。

んで、この論文では私自身はけっこう発見があって、漱石先生を読みなおしたい気になりましたね。『行人』で一郎は弟二郎に「うちの嫁を誘惑してみてくれないか」みたいなの頼むのよね。嫁は見合い結婚で弟はイケメンなのだろう。少なくとも明朗快活な青年ってことになってるみたい。これはすごくキモいですね。宮野先生は『行人』の方の、「自分はどうあっても女の霊というか、いわゆるスピリットを攫まければ満足が出来ない」とかって発言をとりあげて、二郎さんや漱石先生は、明治キリスト教の影響を受けて「結婚とは相手の魂を掴むという「心の結びつき」でなければならない」と考えてるって読むんだけど、私はもっとキモいものを感じますね。そうじゃないんじゃないか。

そうではなく、もっと女のわけわからなさ、女性の恋愛や性欲や貞操に潜む謎、みたいなのをなんか困ってるんちゃうかと思う。まあただの思いつきだからあれだけど、漱石先生はこういうキモいところがあって、そういや『三四郎』の冒頭の方でもなんか知らない女性といきがかりで同宿することになって、なんかわけわからない女で手を出さなかったら次の日度胸がないってなじられた、みたいなへんな話がある。

必ずしもモテないわけではなかったろうけど性格が意固地だからどうか。

元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。

まあこういう女性が何を考えてるのかわからないっていう恐怖は漱石先生の思考の底流にある感じがしますわね。佐伯順子先生なんかも一郎は「夫婦愛」を手にいれたいともがいているのだ、ってみるんだけど、そうかなあ。『行人』や『三四郎』については、おそらく尊敬する小谷野敦先生あたりもいろいろ分析してると思うからあとで読みたい。

漱石のあとは高村光太郎・智恵子先生の純愛っぽいやつがあれされて、でも実は光太郎先生は邪悪で近代的な「愛」みたいなのを使って智恵子先生をあれしたんちゃうかみたいな説とか検討されたり。議論はかなり難しくて長くて 1)実はこの論集、どの論文も私には長すぎる印象がある。 私にはうまく紹介できないけど、言いたいことは、我々は近代的な「愛」とか、「愛をともなった結婚による合一」みたいな魅力的だけど不可能な理想をもってしまっていて、それでいろいろ困ってます、みたいな感じなんですかね。おもしろいので読んでみてください。分野としての「日本思想」は「西洋哲学」に比べて文学解釈に近いところがあって自由度が高くてなんかうらやましい。

あと余計だけど、「近代日本に成立した「愛」」とかっての、近い表現を見るたびに違和感があって、「それって主に小説家とか文化人とかのお話のなかに描かれた「愛」ですよね」みたいなつっこみいれたくなるんよね。思想史やっている人々はあんまり違和感ないかもしれないけど、私はすごくある。だって19世紀ヨーロッパで言われている「愛」だって、その当時の人々がやってたいろんなこととは別のなんらかの理想、悪くいえばお話だろうって言いたくなるわけだしねえ。思想は私たちではない、みたいな。特に透谷先生みたいなまだなにもしないくらいのうちに死んだ人とかが書いたものってどう評価していいのかわからない。そういう「愛」についてのいろんなあれって、基本的に女子(あるいは男子)を口説いたり喜ばせたりするためのテクニックやレトリックやロマンチックなお話かなんかちゃうなかな、みたいな印象はあるわけよね。こういうのはどう言えばよいのかちょっとわからない 2)古代ギリシアでは女性の地位は低かったし自由恋愛みたいなのかなかったから口説くなんてことは考える必要なかったけど、古代ローマでは高級な女性を口説くのに必要だった。そして吟遊詩人とかが宮廷風恋愛物語っていうヒット作を作って爆発的に女子にウケまくった、みたいな。さらに18世紀の小説の時代にルソー先生あたりがよろめきドラマと恋愛における精神性みたいなのを発明して、みたいに見てる。。まあ文化人の人々は「愛」についてそういうことをいろいろ考えていた、っていうのはそうなんだろうけど、ふつうのひとはそういうのとは違う世界に生きてたんちゃうんかなあっていうのはいつもひっかかってますわ。


References   [ + ]

1. 実はこの論集、どの論文も私には長すぎる印象がある。
2. 古代ギリシアでは女性の地位は低かったし自由恋愛みたいなのかなかったから口説くなんてことは考える必要なかったけど、古代ローマでは高級な女性を口説くのに必要だった。そして吟遊詩人とかが宮廷風恋愛物語っていうヒット作を作って爆発的に女子にウケまくった、みたいな。さらに18世紀の小説の時代にルソー先生あたりがよろめきドラマと恋愛における精神性みたいなのを発明して、みたいに見てる。

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