『妊娠中絶の生命倫理』

江口聡編監訳、『妊娠中絶の生命倫理』、勁草書房、2011のサポートページです。英語圏の哲学者たちによる妊娠中絶の問題を扱った有名論文を収録しました。(2022年、10年以上経過してやっと重版してもらえました!)

編者から

  • 編者の無能と怠惰のために誤植・誤訳など大量に含まれていると思います1ので、 eguchi.satoshi@gmail.com やtwitterID: eguchi2018 などにお気軽にお寄せいただければ幸いです。このページに反映させます。表記の不統一は許してください。
  • 実践的な問題より哲学的・理論的な問題に焦点を当てていますが、実践的な問題を等閑視しているわけではありません。今回はこういうものが必要であると判断しました。
  • また力及ばず、障害の問題についてほとんど触れることができなかったのが残念です。この訳本での一部の論者の障害に対する見方には問題があるかもしれません。実際のところ、障害の問題が英米の哲学者・倫理学者たちによって真剣に考えられるようになったのは1990年代以降のように思われます。
  • フィニスの論文は難解なので最初は飛ばして読んでください。
  • ロー対ウェイド判決文(Roe v. Wade)も訳出する予定だったのですが、果たせませんでした。こういうものが(おそらく)存在していないことが、国内で妊娠中絶の議論が十分おこなわれていない証拠でもあると思われます。→ 神戸大の山﨑先生が2013年に訳出してます。山崎康仕「翻訳: 人工妊娠中絶をめぐる規範の形成 — Roe v. Wade」、神戸大学大学院国際文化学研究科紀要『国際文化研究』第40号(2013)。解説もついてますので必読です。(追記:小竹聡先生の『アメリカ合衆国における妊娠中絶の法と政治』(2021)にも抄訳が収録されています)

収録論文

  1. ジョン・ヌーナン、「歴史上ほぼ絶対的な価値」(抄)(太田徹訳)。典型的なプロライフです。胎児も人間であり、人間の命には平等な絶対的価値がある、と主張しています。
  2. ジュディス・ジャーヴィス・トムソン、「妊娠中絶の擁護」(塚原久美訳)。紹介さえ不要な超超有名論文。応用倫理学で一番有名な論文でしょう。ただし『バイオエシックスの基礎』では抄訳でしたが、今回は全訳しています。抄訳しか読まないでこの論文に言及していた人は 必ず 読みなおしてください。読みなおさずに生命倫理学の議論する人は今後インチキ生命倫理学者と認定される可能性があります。この議論は「ヴァイオリニストの議論」と呼ばれるよりも、「サマリア人の議論」と呼ばれるのが正しいはずです。
  3. バルーク・ブロディ、「妊娠中絶に関するトムソンの議論」(藤枝真訳)。トムソンの議論を自己防衛の議論ととらえて批判しています。
  4. ジョン・フィニス、「妊娠中絶の是非:ジュディス・トムソンへの応答」(小城拓理訳)。カトリック倫理学を背景にした立場からトムソンを全力で批判しています。難解ですが、「権利」と「二重帰結の教義」に関する非常に重要な分析を含んでいます2
  5. マイケル・トゥーリー、「妊娠中絶と新生児殺し」(神崎宣次訳)。「パーソン論」の超有名論文。これも紹介不要でしょうが、今回は全訳です。これも抄訳しか読んだことのない人は必ず読んでください。「胎児は人格を持つか」という旧訳のタイトルを使うのは非常にミスリーディングなので今後お控えください。
  6. メアリ・アン・ウォレン、「妊娠中絶の道徳的・法的位置づけ」(鶴田尚美訳)。トゥーリーより一般に受けいれられた「パーソン論」。おそらくこっちの方が標準的な「パーソン論」です。
  7. ジェーン・イングリッシュ、「妊娠中絶と「ひと」の概念」(相澤伸依訳)。「パーソン論なんか意味ないよ、重要なのは感情だよ」とすでに1975年に主張しています。日本では知られなかった早逝の秀才。
  8. R. M. ヘア、「妊娠中絶と黄金律」(奥野満里子訳)。トムソンもフィニスもトゥーリーも権利など曖昧な概念を使って直観で考えてるだけだからぜんぜんダメだよ、と主張しています。ところがちゃんと考えると、「潜在的なひとびと」や「可能的なひとびと」をめぐる異常に難解な問題が生じることがわかってしまう。ヘアの有名な二層理論が本格的に使われはじめた重要論文です。またおそらくパーフィットの『理由と人格』などにつながる複雑な問題の出発点の一つになっています。
  9. ドン・マーキス、「なぜ妊娠中絶は不道徳なのか」(山本圭一郎訳)。現在のところ、しばしば「最善の世俗的反中絶論」と評価されている問題論文です。中絶は殺人とまったく同じくらい悪い、と主張しています。おそらくこの論文が「死の悪さ」をめぐる形而上学的な議論の流行の出発点になっています。
  10. ロザリンド・ハーストハウス、「徳理論と妊娠中絶」(林誓雄訳)。義務論も功利主義もそもそもの考え方の枠組みがまちがっておる、倫理学者はもっと徳とか悪徳とかどういう人物であるかってことに注目するのじゃ!とカツを入れています。徳倫理学の魅力を広く知らしめることになった好論文です。
  11. スーザン・シャーウィン、「フェミニスト倫理学のレンズを通して見た妊娠中絶」(江口聡訳)。標準的なフェミニスト的議論と言えると思います。フェミニストの議論は他にもいろいろ重要なものがあるのですが、今回は紹介しきれませんでした。

初出

  1. Noonan, John T., Jr. (1970) “An Almost Absolute Value in History,” in John T. Noonan, Jr. ed. The Morality of Abortion: Legal and Historical Perspectives, Harvard University Press.
  2. Thomson, Judith Jarvis (1971) “A Defense of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 1.
  3. Brody, Baruch (1972) “Thomson on Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 1, No. 3.
  4. Finnis, John (1973) “The Rights and Wrongs of Abortion,” Philosophy & Public Affairs, Vol. 2, No. 2.
  5. Tooley, Michael (1972) “Abortion and Infanticide,” Philosophy & Public
    Affairs
    , Vol. 2, No. 1.
  6. Warren, Mary Anne (1973) “The Moral and Legal Status of Abortion,” The
    Monist
    , Vol. 57.
  7. English, Jane (1975) “Abortion and the Concept of a Person,” Canadian Journal
    of Philosophy
    , Vol. 5, No. 2.
  8. Hare, R. M. (1975) “Abortion and the Golden Rule,” Philosophy & Public
    Affairs
    , Vol. 4, No. 3.
  9. Marquis, Don (1989) “Why Abortion Is Immoral,” The Journal of Philosophy,
    Vol. 86, No. 4.
  10. Hursthouse, Rosalind (1991) “Virtue Theory and Abortion,” Philosophy &
    Public Affairs
    , Vol. 20.
  11. Sherwin, Susan (1991) “Abortion Through a Feminist Ethics Lens,” Dialogue, Vol. XXX.

はしがき(原稿段階のもの)

妊娠中絶は身近で深刻な問題である。中絶が女性(そしてそのパートナー)に与える心理的・身体的な悪影響が非常に深刻な問題であり、いかにしてその数を減らすか、各種のケアをどうするかが重大な社会問題であることは言うまでもないが、そもそも中絶が道徳的に許容される行為であるのかという問題も難しい。中絶は殺人に等しいため、規制されるべきであると主張する人々もいる。中絶は道徳的に非難されるべき行為なのか、あるいは許されるべき行為なのか。またどのような条件のもとでなら許されるのか、そしてその哲学的根拠はどのようなものか。こうしたことが問題になるのである。本書は妊娠中絶をめぐる英語圏での哲学的議論から、代表的な論文をとりあげて翻訳・紹介するものである。

日本国内では1950年代には100万件を越える数の中絶が施行されていた。その後次第に減少してはいるものの、21世紀に入っても年間25〜30万件ほどの中絶が行なわれている。出生数は100万件程度であるので、妊娠した女性の5分の1程度が中絶を選択していると考えられる。さらに、これは厚生労働省に届出された公式の件数であって、薬剤の使用量などから推測すると、ヤミで行なわれている中絶の実数はさらに多いだろうと言われている。また若年層の妊娠中絶が増加していることも指摘されている。

国内ではいまだに刑法上の堕胎罪が有効であるが、1948年の優生保護法(1996年に母体保護法として改正された)によって、妊娠や出産が身体的・経済的理由によって母体の健康に大きな害を及ぼす恐れのある場合や、強姦による妊娠の場合に、胎児が母体外において生命を保存することのできない期間の中絶が許容されている。このため国内では中絶の問題が大きくとりあげられることはないが、いまだに中絶が非合法とされている国も多く、米国をはじめとして各国で哲学的にも政治的にも非常に激しい論争のテーマであり続けている。こうした中絶に関する論争は宗教的な背景によって説明されることが通例だが、本書で見るように哲学的にもかなりの難問を含んでいる。また国内でも、近年障害児の出生を避けるための出生前診断と選択的妊娠中絶や、胚や胎児組織を利用した再生医療などに対して強い倫理的懸念が表明されており、中絶に関する哲学的問題はより広く理解されるべきであると思われる。

ほとんどの生命倫理学の入門書・研究書では中絶の問題が必ずとりあげられているものの、反対派・許容派の双方の議論を十分に紹介したものはなかなか見あたらない。ジュディス・トムソンの「妊娠中絶の擁護」とマイケル・トゥーリーの「妊娠中絶と新生児殺し」は、日本の生命倫理学黎明期に出版された加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』(東海大学出版会、1988)に収録されているが、どちらも抄訳であったために偏った紹介と理解がなされてきたように思われる。またトムソンの議論やパーソン論(「人格とは何か」という問いをめぐる議論のこと)に対する代表的な批判や、1990年代以降の議論が紹介されていないことも国内の生命倫理学の発展を妨げているように思われる。

そこで本書では1990年代初頭までの重要な論文をできる限り全訳して収録した。まず胎児は人間であり、他の人間と同じ権利をもつとする立場の代表としてジョン・ヌーナンをとりあげる。次に、「母親の身体に対する権利」を主張したジュディス・ジャーヴィス・トムソンの有名な「妊娠中絶の擁護」と、それに対する批判としてバルーク・ブロディのものとジョン・フィニスのものの2本を収録した。代表的な「パーソン論」としてマイケル・トゥーリーとメアリ・アン・ウォレン、そしてこれらの立場に対する批判としてジェーン・イングリッシュの論文を掲載した。加えて、功利主義的観点から「潜在的なひと」の問題を議論したものとしてR. M. ヘア、1990年代以降「最善の非宗教的反中絶論」と評価され続けているドン・マーキス、徳倫理学という新しい立場にもとづいた応用倫理学の功績の一つと数えられているロザリンド・ハーストハウス、フェミニスト的視点からの問題のとらえなおしとしてスーザン・シャーウィンの論文を収録した。

本書の刊行を通して、日本でも中絶をめぐる哲学的問題がより広く公開され、議論が深まっていくことを願っている。(江口聡)

あとがき(原稿段階のもの)

本書の企画を行なったのは、2007年のことである。きっかけとなったのは、脳死臓器移植法の改正問題、出生前診断と選択的妊娠中絶、胎児組織やES細胞の利用といった問題に関する国内の活発な議論を見聞きするうちに、本書にも収録したトムソンやトゥーリーの歴史的な議論が国内ではあまり正確に理解されていないことに気づいたことだった。彼女たちの議論は生命倫理学の入門書や研究論文において頻繁に紹介され批判されるものの、トムソンの議論の一番のポイントが、けっきょく女性は胎児に対して「善きサマリア人」でなければならないのかという問題であるということ、また、トゥーリーの議論は、ひと(パーソン)の概念を分析したものではなく、むしろ「権利をもつ」という概念の分析であるという理解が国内のほとんどの研究文献から欠落していた。私の見るかぎり、印象深いトムソンの「サマリア人」やトゥーリーのSF的子猫に言及しているものも一編も存在しなかった。またトゥーリーらの議論が「胎児は人格をもたないために生存権をもたない」といった議論であると紹介されることも頻繁であった。こうした表現は、本来「ひと」という意味であるpersonを「人格」と訳したために「パーソナリティー」や「キャラクター」という意味の「人格」と混同してしまったものであると思われる。

こうした奇妙な欠落や混同の原因を探るうちに気づいたのは、トムソンとトゥーリーの論文が国内では抄訳の形で紹介されたままになっていることだった。国内の生命倫理学の立ち上げの時期に飯田亘之先生と加藤尚武先生が中心となり千葉大で編集された『バイオエシックス最新研究資料集』や『バイオエシックスの基礎』(東海大学出版会)の学界に対する貢献は絶大だった。本書に掲載したトムソンやトゥーリーの論文も『バイオエシックスの基礎』に掲載されることによって広く知られるようになった。しかし残念なことに、おそらく紙幅の都合上これらは抄訳としての掲載だった。また、彼女らの議論に対して提出された各種の批判や、それ以降に発表され現在活発に検討されつづけている議論もほとんど紹介されないままに20年近くが経過していることにも気づいた。

妊娠中絶のような生命倫理学の基本中の基本と言える問題について正しい理解がなければ、生命倫理学が健全に発展するはずがない。こうして、私は編者として、トムソンやトゥーリーの論文を訳しなおすとともに他の重要論文を訳出し、ある程度まとまったアンソロジーとして出版することが中絶の問題に関心をもつ多くの読者のためにも、また学界のためにも有益であろうと考えた。

訳出する論文の選定を終え作業を開始しようとした時点で、当時金沢大学大学院に所属し妊娠中絶の問題を研究していらっしゃった塚原久美氏がすでにトムソンの「妊娠中絶の擁護」論文の全訳を終えていることを、氏が公開しているブログで知ることになった。氏に訳文を拝見させていただき、収録をお願いしたところ快諾を得ることができたのは幸いだった。氏にはまた、当初の計画ではフェミニスト倫理の観点から中絶をあつかっている論文が不足していることを指摘していただき、相談の結果氏の提案通りシャーウィンの論文を掲載することとなった。適切な示唆を感謝している。

訳文は訳者と監訳者の間で数回のやり取りを行ないつつ進めた。解釈や訳語、表現等については監訳者の意見を通させてもらった部分も多く、無理を聞いていただいたことを感謝している。当初の期限までに草稿を作成していただいたにもかかわらず出版が大幅に遅れたのは、ひとえに監訳者の怠惰と力のなさの責任であり、訳者の方々には深くお詫びする。また一人一人お名前を挙げることはできないが、訳文の検討にあったって京都生命倫理研究会のメンバーから数々の示唆をいただいたことを感謝する。
訳文はできるかぎり正確を期したつもりではあるが、私の力量では及ばぬところも少なくなかった。読者諸氏が誤訳その他のお気づきの場合は、eguchi@kyoto-wu.ac.jp までメールをいただければ幸いである。正誤表等はインターネット上に用意するつもりである。

最後になるが、勁草書房編集部の土井美智子さんには企画から訳文の内容に至るまで種々の示唆を頂き、また粘り強く励ましていただいた。感謝するとともに、お約束の期限から大幅に遅延してしまい、たいへん御迷惑をかけたことをおわびしたい。

オンラインリンク等

  • 訳者の一人である塚原久美さんのブログもご覧ください。中絶に関するさまざまな実践的問題が指摘されています。
  • 編者の江口が個人ブログで時々「パーソン論」について書いております。

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『妊娠中絶の生命倫理』」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    神崎訳、p.87, 本文下から10行目, 「胎児が人間であるか否か」は文脈上「胎児がひとであるか否か」でないとおかしいのではないでしょうか。実際、英語を見てみますと、「a person」となっています。

    また、p.88, 3段落, 4-5行目, 「その有機体は「ひと」であるという性質を備えるのだろうか」で、日本語だと「ひとであること=その性質」に見えますが、英語では「does the organism possess the properties that make it a person?」ですので、意味がおかしくなってきています。ある人間について「ひと」であるということを認めることができる必要十分条件はなにかということなわけですから、多少固くても「その有機体を「ひと」とするような性質」ぐらいでいいのではないでしょうか。

  2. 江口 投稿作成者

    ありがとうございます。もし再版があれば反映させていただきます。

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