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「ジェンダー論と生物学」 (7) 性暴力、性欲、ドーキンスの麻薬患者

加藤先生は一応、原因と理由が切り離せないという話を、性暴力の話をつかって説明しようとしているように見えます。しかしここも私にはわからない。

ここで改めて性暴力(と呼ばれる人間の行動)について考えてみよう.性犯罪を犯した少年たちの治療教育に長らく携わった藤岡淳子によれば,性暴力とは「性的欲求によるというよりは,攻撃,支配,優越,男性性の誇示,接触,依存などのさまざまな欲求を,性という手段,行動を通じて自己中心的に充足させようとする」行為であるという(藤岡2006: 15). (pp. 156-157)

ここで挙げられている藤岡淳子先生の『性暴力の理解と治療教育』は国内ではよく読まれている本のようです。私はちょっと問題があると思っているのですが、ここでは触れません。「性的欲求によるというよりは」を、「性的欲求だけではなく」ぐらいに解釈してよいならとりあえずOK。

「性的欲求」が性暴力の一要因ではないというわけではないが,それだけには収まらないさまざまな欲求, しかも対他者関係的な欲求が複雑に絡み合うことから性暴力が引き起こされるという事実を,性犯罪者の証言という具体的なデータをふまえて,藤岡は明らかにしている.

これもOKです。ただ、「具体的なデータをふまえて〜明らかにしている」というのはちょっと言い過ぎだと思う。藤岡先生の解釈は、おもに海外の古めの文献の解釈にもとづいているもので、現代の犯罪学者の人々がまるっきり賛成するものではないと思う。でもそれはよい。問題はそれにもとづいた加藤先生の議論。

ここで,分析を簡略化するために,百歩譲って「性的欲求」がヒト以外の生物種(の雄)にも通底する何物か,たとえば主体的にはコントロール不能な衝動であると仮定したとしても―ドーキンスのいう「無力な麻薬中毒患者」のメタファー(Dawkins 1976=:389) を想起してもよい一一それ以外の諸要因まで同じように片づけるわけにはいかない.

まず、「ドーキンスの「無力な麻薬中毒患者」」なんて、その文脈や意味の説明なしにいきなり出してくるのが私は気にくいません。こういう、「当然知ってるよね?」みたいなのやめましょうよ。ハッタリはやめてください。、私は、そういうことする人々とは人生かけて戦いたいと思います。この一文で、加藤先生もその憎いリストに入りました[1] … Continue reading

ドーキンスの出典は、『利己的な遺伝子』の1992年の方の翻訳なら399頁(翻訳数種あるので頁がちがう)。話は、カッコウは他の鳥の巣に卵を産み付けて、そのヒナの赤い口が、(他の種の「里親」となる)鳥にとって麻薬的に作用する、っていう文脈ですね。

カッコウの雛の大きく開けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。……突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛び込んでくる。鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子どもの口の中に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。……カッコウの開いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているのかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。……その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者でもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。(ドーキンス『利己的な遺伝子』p.399)

加藤先生、現実世界での性暴力や性欲について、これ本気で想定するんですか?つまり、鳥がついカッコウ雛の口にエサを投げ入れてしまうのと同じように、神経系が刺激されて、ほとんど不随意の運動として、男性が女性をレイプしてしまったり、電車で痴漢してしまったりするのだと(議論のためにさえ)認めてよいのですか?もしそんな「麻薬」「悪癖」「超刺激」が与えられてたら、「他の要因」なんか考える必要ないじゃないですか。選択の余地ないんだし。なにを言ってるのですか。こんなことになるのは、ドーキンスちゃんと説明しないからじゃないですか。いいかげんにしてください。

とりあえず、性欲やそれを引き起こす刺激がこんなものではないと想定して、加藤先生の文章に戻ります。

藤岡が挙げる他の諸側面は,男であるならば性的に活発であるべきであり,女を従わせることは正しく,また女が男の欲求を満たすことは当然であるといった正当化文脈と切り離して理解することはできない.

なぜですか。私にはわからない。「正しい」とか「べき」とか、加藤先生自身はなにも説明してないじゃないですか。「(男が)女を従わせることは正しい」というのは、一部の加害者の証言にあるのかもしれないけど、それ抜きでは性暴力を理解できないのは藤岡先生や加藤先生じゃないのですか。なにか客観的に、そうした正当化の文脈と切り離しては、性犯罪者の動機やその行動の原因を説明できないのでしょうか。それならそれなりに論証してもらわないとならないと思う。(もちろんそれは不可能ではないと思うけど、なされていない)

そして「性的欲求」さえも, こうした文脈と関連することで初めて性暴力を駆動する一要素になることができるのであり(人間が何をどこまで我慢するかという基準が当該社会の規範によって変わることは自明である),かくのごとく性暴力とは深く〈正当化の回路〉に属する現象なのである.

わからない。加藤先生自身はさっき性的な刺激と性欲は麻薬のように強力だと想定しているんだからなおさらわからない。その麻薬としての想定は抜きにしても、なにも社会的な正当化や規範と関係なく、強制的なセックスや性的な暴行をおこなう人々というのを私はなんの苦もなく想像できるし、じっさいそうした見境のない人や半道徳というよりは道徳をまったく気にしない「アモラル」な人々もいると思う。なぜ、ある人々の行動の至近的/究極的原因を解釈するために、道徳的あるいは社会規範的な正当化が必要になるのか、私には理解できない。

以上の考察からも,人間以外の生物に見られる強制的交尾を人間における性暴力と同一視する進化心理学的な「レイプの自然史」といった試みがかなり根本的に的はずれであることが示唆されるだろう.さらに言えば,おそらく以上のような特性は,性暴力に限らず,およそ人間における「性」と呼ばれる現象全般に通底する特質であろう.

ぜんぜんわかりません!

References

1 実際のところ、この一連の悪口書かないと気がすまない気分になったのは、この「麻薬患者」への言及を見てのことです。私こういうのほんとに許せない。加藤先生はそういうのしない人だと信じていたのに。でも、実は前にもなんかへんな言及や参照は見つけていたのです。でもそれを「そんなはずはない、まちがいだろう」ぐらいで否定していたのです。

「ジェンダー論と生物学」 (6) 理由と原因は切り離せないとはどういう意味だろう?

さて、次の文章がおそらく重要なんだけど、読みにくいんですよね。

……ここで注意すべきは,性的二型という自然史的事実が性役割・性差別という規範的制度と関係する回路は二重であるということだ.一つは性的二型の現象それ自体が性差別をもたらす原因(cause) となる一一逆に性役割・性差別は性的二型を生じさせることもある―という〈因果関係の回路〉であり,もう一つは,性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉である.人間においても前者の水準と無縁であるわけではない.人間は自らを記述し規範性によって自らの行動を律するという性能を有する特殊な生物ではあるが,それでも生物の一種なのだ.しかし,〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである.(p.156)

前で指摘したように、「性的二型」だの「性差別」だのが具体的に何を指すのかが明確になってないのに加えて、「回路」だの「水準」だの見慣れない言葉が出てきて、社会学者以外の人々にはかなり困難な文章だと思う。がんばって読む。

一つ言われているのは、(1) 「性的二型(男女の身体的・行動的な違い)が、性差別の因果的な原因となる」ということだと思う。具体例一つぐらい出してくれればいいのにね。それに、「性差別」というのが、個別の人物がやってしまう性差別なのか、社会規範としての性差別なのかわからない。まあおそらく社会規範なんだろうけど、性差別、というのでどういうものを指しているかもわからない。たとえば、性的二型(たとえば女性におっぱいがあること)が、過去に女性が参政権をもっていなかったことの因果的な原因となっているだろうか?なってませんわね。だから、「性的二型が性差別の原因になる」とか抽象的なことを言うときには、少なくともいくつか例を示してほしいものだと思う。たとえば、「女性は男性より体力がないことが多いので、力仕事は男性にまかせて体力の必要ない作業をする傾向を持つ」とかですわね。社会学者には性的二型が性差別の原因になっている例はあまりにも多すぎて自明なのかもしれないけど、いちおう確認してほしい。でもまあがんばってそういうことがあると認めることにする。

もうひとつ言われているのは、(2) 「性役割・性差別が性的二型を生じさせることもある」。ここで混乱するのは、まえに指摘したように「性的二型」が何をさしているのかはっきりしてないからよね。おそらく体の大きさや生殖器の構造・機能とかではなく、行動の違いまで指しているはずだ。おそらく、「人々の社会的な通念や思い込みが、人々の性に応じた振る舞いや他人の扱いに影響を与える」ぐらいなんだと思う。「男は仕事、女は家事」っていう思い込みがあるので、人々はそういうふうに振る舞うようになる、ぐらいの話だと思う。まあOK。

「性差をめぐる意味づけが性差別を正当化する理由(reason) になるという〈正当化の回路〉」はものすごく理解しにくい。この文章、「性差」じゃなくて「性的二型」じゃだめなんかな。それに「意味づけ」が社会学者以外にはわかりにくい。ふつうの人々の言葉づかいなら「解釈」ぐらいのはず。つまり、言われているのは、(3) 「性的二型をどう解釈するかということが、社会や個人の性差別を正当化する(当人たちにとっての)理由になる」ぐらいだと思う。

ここまで読むのでぜいぜいっていう感じですね。そしてやっと問題の「〈因果関係の回路〉を〈正当化の回路〉から切り離し,独立に論じることはできない.前者はつねに後者に包摂され,後者を構成する一つの水準としてしか把握することができないのである」が来る。

あれほどがんばっても、私はこの文章を理解することができない。加藤先生の言いたいことをふつうの書き方でいけば次のようになるはずだ。

人間の男女の 性差(性的二型)が存在することから、因果的に、社会での性役割分業や性差別が生じることがある。また、社会にすでに存在している性役割分業や性差別から、因果的に、男女の行動の差が生じることもある。さらには、そうした性差/性的二型が、性役割分業や性差別の正当化の理由とされることもある。

ここまではOK。しかし、続きがわからない。因果関係の話と、正当化の話が切り離せないのはなぜだろう?どういう意味で切り離せないのだろう?なぜ切り離せないのだろう? それはなにか概念的に必然的な話なのか、人間の心理的で偶然的な話なのか、どちらなのだろう?因果関係の話は正当化の話に「包摂される」とはどういうことだろう?因果関係の話が正当化の話を構成する一つの水準としてしか把握することができない、というのはどういいうことだろう?「把握する」のはいったいだれだろう?学者?

こういうの私わからんのですよね。私だけが読めないわけではないと思う。社会学者の先生どうしもよくわからず読み書きしてるんじゃないかと疑ってるんですが、どうですか。

「ジェンダー論と生物学」 (5) 「レイプ」という語を人間以外に使えるか?

進化心理学者たちの擬人法的な言葉づかいについて、前のエントリに書いた、ソーンヒル先生たちの『人はなぜレイプするのか』での言い分を引用して紹介しますね。わかりやすい文章なので解説はなにも必要ないと思う。

ごく初期の論文(Thornhill 1980)を批判するなかでゴワティやハーディングは、「この論文中では進化的機能を含めて“レイプ”を定義しているが、そうした定義は、この用語が人間についての出来事に関して一般的に用いられるのとは、異なるものである」といったことを述べている。しかしながら、定義に進化的要素を含めているからといって、その著者が、レイプは進化によってもたらされた自然なものであることを根拠にそれを正当化しようとする隠れた意図を持っていると考えるべき合理的な理由は、どこにもない。(p.224)

なにを指しているのかはっきりしていて、またそれを単純に人間の行動の道徳的な価値判断とかに利用しないならば問題はない。

自然主義の誤謬があくまでも誤謬であることを理解している人にとっては不合理きわまりなく思えることだが、レイプを“正当化”することへの恐れから、進化的説明に反対する多くの批判者が、レイプは人間だけのものだと考えようとする。これまで数多くのひはんしゃたちが、レイプは人間だけにしかないという意味をこめて、「どのような状況下においても、人間以外の生き物については“レイプ”という言葉を使うべきではない」と強硬に主張してきた。しかし現実には、この言葉を聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのが人間についての例であるせよ、それを人間以外に当てはめていけない理由はない。たとえば“セックス”という言葉にしても、それを聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは人間のことだろうが、それとともに他の生き物についても、この言葉はごく日常的に用いられている。(p. 226)

これおもしろいですね。ハエのセックスとかタコのセックスとか、人間のとはずいぶんちがうかもしれませんが、まあそれなりにどういうことかわかるし混乱もしない。タコやイカが触手つかってセックスするからといって、そうしない人間が道徳的に不正だということにはなりませんしね。

……レイプは人間独自のものだと定義してしまうと、人間のレイプの要因について参考になるかもしれない、それ以外の生き物たちの行動を、最初から除外して考えることになってしまう。実際、要因を理解する上で生物学の基本的な手段となっている比較分析の重要性を、そうした限定的な定義は否定することになってしまうのだ。(pp. 226-227)

レイプを、かならずしも物理的に暴力的であるとはかぎらないなんらかの意味で強制的な(あるいは強制的に見える)交尾と定義してみると、いろんな生物でそういうのは見られて、そういう行動がどういう条件下で起こるかそれぞれの動物の特性や環境や条件など考え合わせるとおもしろいことがわかってくる。人間もそういう研究の対象になりうるわけです。「浮気」も同じですね。

    「ジェンダー論と生物学」 (4) たしかに鳥は「結婚」しないかもしれないが……

    なぜ、つがいになっているメス鳥が、オスの配偶者防衛をかいくぐって他のオスと交尾して卵を産もうとすること、そしてオス鳥が他のオスとつがいになっているメス鳥と交尾することを「浮気」と呼んではいけないのだろうか。

    これは加藤先生の文章を読んでも私にはピンとこない。というわけでズック先生のを見なければならないのだけど、ズック先生が言いたいことも実はよくわからんのですわ。

    鳥たちは、「浮気している」のではなく、ただするべきことをしているにすぎない。(ズック p.120)

    これ読むと、「鳥は浮気をするべきなのか!」と読んでしまう人がいるかもしれないけど、原文は ‘The birds aren’t “cheating”, they are just what they do’ なので、鳥というのはそういうことをするものだということですわね。べつにしなきゃならんとか、しないと道徳的に非難されるとかそういうことではない。

    まあよく読むと、ズック先生が言いたいのは、加藤先生が引用していない次の箇所。

    もし鳥たちの行動を、私たち自身の行動のためのモデルや正当化の手段として使用しようとするなら、私たちは自分たちのモラルについてきわめて不確実な根拠に基づいて決定を下す危険を冒すことになる……(p.120)

    これはまったく正しい主張ですね。つまり、鳥が「浮気」と呼べる行動をする、そしてそれは我々人間の行動とよく似ているとしても、だからといって我々人間が鳥と同じように「浮気」することが道徳的に正当化されるとか、当然のことだとか、許容されるべきだということにはならない。当たり前のことです。しかし、「浮気」という言葉を鳥の行動に適用してしまうと、鳥では許されるのだから人間でもゆるされるべきだ、と考えるやつが出てくるということだろうか。まあそういうことを考える人はいるかもしれないけど、それは生物学の専門用語や比喩としての「浮気」を批判するよりは、鳥と人間の区別がつかないような人々の考え方を非難した方がいいのではないか。

    まあでも、言葉づかいによるバイアスが、生物学研究や、人間社会研究に影響を及ぼすということは十分ありえるので、どんなに注意しても注意しすぎることはない、ぐらいは認めてもよい。

    しかし加藤先生の続く箇所はまた別の意味でわかりにくい。

    同じ理由から,ズックは『ネイチャー』誌に掲載された論文の一つが鳴禽類のヒナたちを「婚外子」(“illegitimate”)と呼んだことについて,「鳥の親たちが鳥用の小さな結婚証明証でも持っていて,誓いの言葉でもさえずったかのよう」だと批判している(Zuk 2002: 71=2008: 121) .言うまでもないことだが,鳥ーーだけでなく人間以外のすべての生物—は「結婚」などしない.かれらは自らの行動を「結婚」という規範的制度に結びつけて意味づけたりはしないからである.鳥類の一部が「一夫一妻」風のつがいを形成するのは,進化の結果としてそのような行動上の傾向性を獲得した結果であり,そしてそれがすべてであって,人間のように,それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているからではない.

    たしかに、結婚証明書を作る、という意味では鳥は「結婚」なんかしない。しかし、同じように結婚証明書を作らないでカップルになったりセックスしたり子供をつくったりした人々は世界中にたくさんいたし、いまもたくさんいる。というか結婚証明書を作るという意味で結婚した人々など、人類の歴史のなかではほんのわずかにすぎないだろう。では、結婚証明書を作らなかった人々は結婚しなかったのか?

    そうではない。加藤先生が言いたいのは、自分たちの行動を「結婚」という規範的制度なるものに結びつけて意味づけている人々だけが結婚したといえる、ということだろう。これは社会学者らしいものの見方だと思う。社会学者にとっての関心事は、こうした再帰性というか自己意識的というか、そうした性質をもつ社会制度が現在の社会でどのように機能しているかとか、歴史的にどのようにして成立してきたかとか、今度どうなっていくかとか、そういうことであるというのはよくわかる。

    しかし、人間社会の結婚制度を考えるときに、生物として、哺乳類としての人間がもっているさまざまな生活や繁殖の上での条件制約を考慮に入れることは当然必要であるように思われる。人間の生殖に関しても、他の動物、他の哺乳類や、特に鳥のようにつがいになって繁殖する傾向のある動物との類似や対比から学ぶことことは多いはずであり、鳥のつがい行動を、それは結婚証明書を作ってないので、あるいは自分たちが結婚しているとは理解していないので、「結婚」ではないのだ、と一蹴してしまう必要があるだろうか。また、人間が性的なペアや集団になる傾向をもっているのは、単に「それに違背すればサンクションを受けるようなルールに従っているから」と考えて十分だろうか。もちろん、人間は現在どの文化においても「結婚」という排他的制度をもっているわけだけど、そうした制度をもっているのは単なる偶然ではないはずだ。そして、結婚関係をむすんでペアやグループになるのは、それにしたがわないと社会的なサンクション(制裁)を受けるからという理由だけではないはずだ。そんな単純な話になっているはずがない。私の読みが悪いのかもしれませんが、かなり不用意な文章になってるんではないかと思うのです。

    「ジェンダー論と生物学」 (3) なぜ鳥に「浮気」を使ってはいかんのか

    まえのエントリの最後、加藤先生の見解では、人間以外の生物には性別役割や性差別が存在しないので、性的二型が性役割や性差別にどう関係するかという課題は、生物学ではなく人文社会系のジェンダー研究の課題だ、ということになる。

    これは見た目よりも複雑な主張ですよね。性差別は人間社会以外には存在しない、っていうのはありそうな話だってのはみとめてもよい。なぜなら性差別は(おそらく定義からして)性によって人々を不適切に、差別的に扱うことであり、人間以外の存在者について、「道徳的に不適切な振る舞いだ」などということが言えるとはおもえないから。

    「性別役割」の方はそれに比べるともっと面倒になる。オスとメスがちがった行動をとったりすることは人間以外の生物について認められる。もちろん、「ネコのメスはこうするべきだ、そうしないと不道徳なメス猫だ」などということはありえないが、たとえば鳥のつがいや、ゴリラやオットセイのハーレムのなかでなんらかの役割分担があるというのは事実だろうし、生物学者が好むネタでもある。

    だからここで加藤先生が言いたいのは、「オスは道徳的にこうあるべきだ」という判断は人間以外の生物については言えないし、生物学者がそういうことをいうのはおかしいということだろう。こう読めばOK。しかし、「人文社会系のジェンダー研究」なるものも、「オスは道徳的にこうあるべきだ」などということを主張することも同じように怪しいと思うのだがどうだろうか。とりあえず倫理学はそんなに偉くないとおもう。なぜ社会学はそんなに偉いのか。

    「おしどり夫婦」という日本語すらあることが示唆するように,生物学にくわしくない人々は,鳥類がいわゆる「一夫一妻」の結びつきを長期にわたって維持すると信じている。しかし近年の研究から,そうした鳥たちも実際には繁殖期ごとに相手を変えていたり,雌がつがい相手とは別の雄たちと交尾することが明らかにされている.問題は,生物学者や科学ライターたちが,そうした「つがい外交尾」行動を「雌の乱婚」と表現したり「浮気」と表現したりすこの点について,進化生物学者のマーリン・ズックがきわめて的確に批判している.

    鳥たちは「浮気している」(“cheating”)のではなく,ただするべきことをしているにすぎない.それに鳥たちは,雄と雌の間で夫婦の絆についてルールを発案したりしなかった.発案したのは私たち人間である.違反になるルールがないのなら,それは浮気なのではない。(Zuk 2002: 70=2008:120)

    この部分、私ものすごく理解しにくいのですわ。

    なぜ、オスメス1羽ずつのつがいをつくり、そのつがいのなかでだけ子孫を作ると思われていた鳥(ここではハゴロモガラス)のメスが、実はつがいの外のオスの卵を生んでいることが判明したときに、それをとりあえず「浮気」cheatingと呼んではいけないのだろうか。進化的に考えた場合、つがいのメスが他のオスの卵を生むことはつがいのオスにとっては非常に大きな適応的な損失になるので、メスがそうした「浮気」をしないようにさまざまな努力をするように進化していると推測され、実際そうした活動の傾向が発見されるわけだ(いわゆる「配偶者防衛」)。そして、人間社会でもそうした婚姻・カップル外の男性の子どもを育てているカップルや男性が少なからずいることが推測され、一部確認されている。こうした発見は生物学(動物行動学)では20世紀後半のものすごく大きな発見であり、ハゴロモガラスのメスの行動を「浮気」と呼ぶことにさほど不適切なものがあるとは思われない。なぜ、生物学者たちがやっているように、問題をはっきりした理解を容易にするために、はっきり定義した上で言葉を使うことに不適切なことがあるのだろうか。

    っていうか、前にも書いたけど、加藤先生がたとえばバラシュ&リプトン先生たちの『不倫のDNA』や、他のよくある進化心理学本を読むように読者に促してくれたら、もっと問題がわかりやすくなるだろうに、なぜそうした本を紹介しないのだろうか。読んでないってことはないだろう。(まだまだ続く)

    「ジェンダー論と生物学」(2) 性的二型とか

    んで、加藤秀一先生のに関するエントリの続きもしばらくだらだら書きたい。私、よくわからない文章を見ると、それにつてなんか書いておかないとものすごく気持ち悪くて、ずっとそれについて考えちゃうんよね。

    ジェンダー研究と生物学研究がすれ違いつづける理由の一つは、実は関心の対象が異なるのに、そのことがしばしば理解されていないということである。

    まず、「生物学」っていう学問のくくりについて先生がどう考えてるのかよくわからんのよね。フェミニズム/ジェンダー論などとバッティングしているのは、生物学そのものというよりは、社会生物学、そして 進化心理学と呼ばれる分野 だと思う。まあウィルソンの「社会生物学」とトゥービー&コスミデス組やデヴィッド・バス先生たちの進化心理学は同じものだ、っていう話もあるわけだけど。とにかく基本的に問題になるのは、心理学や人間行動学という分野で扱われるような人間の行動の話が中心であるということは認めてあげないとならないと思う。そうした学問(心理学)が1990年代以降、急速に「人間の進化」という発想を背景にした学問に組み替えられている。単に身体や臓器の問題を扱ってるんではなく、心理や行動を扱っている実証的な学問が、社会学系のジェンダー論に襲いかかっているわけよね。そして社会学系のジェンダー論はそうした批判や攻撃に耐えられるだろうか、というところがポイントだと思う。

    生物学者はヒトを含む生物における性的二型の実態や由来に主たる関心を向ける。それに対して、ジェンダー研究者にとって生物学者の言う性的二型は固有の研究対象ではなく、それとは異なる水準の社会現象としての性役割規範や性差別の実態や由来を明らかにする際に留意すべき要素の一つとして注目されるにすぎない。(pp.154-155)

    ここで先生が「性的二型」っていうのでなにを考えてるのかが問題だ。たしかに、体の大きさや生殖器の機能とかはまさに生物学的な性的二型と呼ばれるものだ。しかし、この加藤先生の論文全体では実はそうではないはずだ。先生がわざわざひっぱりだしてきた古い古いシュルロ編の『女性とは何か』に収録され、先生自身が批判の対象にしたビショフ先生でさえ、「性的二型」という言葉にはいくつかの意味があることを指摘している。性別に固有の行動や能力みたいなものもビショフ先生の文章では「性的二型」に含められてる。

    ビショフ先生によれば、性的二型という語は、(1) 精子と卵子という配偶子二型、(2) 卵子を作る個体と精子を作る個体という意味でのオスメス、(3) 生殖器官の分化、(4) 狭い意味での性的二型、オスメス、男女の解剖学的な差。これには性器だけでなく、声の音域とか、平均的な体の大きさとか、筋肉の付きやすさとか、いろんなものが挙げられる。そして、(5) 性別に固有の行動のちがい、行動パターン、感知・応答するシグナル、能力、動機づけなど。

    上で加藤先生があげている「社会現象としての性役割規範」といわれている性役割規範、男女の振る舞いや行動についての社会的な通念や理想、期待、要求などの一部は、社会的・文化的に恣意的なものなのかもしれないけど、一部は人類に共通のものかもしれず、また我々のもつ期待や欲求の背景には生物学的な基盤をもつものも多くふくまれているだろう。

    もちろん、人間の心理や行動についてそんな簡単に生得的だとかそうでなく文化的だか、そんなことはいえない。我々は文化や環境の影響がまったくない人間なんてものを想像することさえできないからだ。そんなのはミルの『女性の隷属』の時代から誰だってわかってることだわいな。だから、私が思うに、自然科学者たちが、「生物学」とかって言葉を使ってもっぱら身体的な特徴だけを問題にしていると思いこむのをやめて、彼らは文化的側面や心理的側面まで考えようとしていると認めるべきだと思う。加藤先生の文章のタイトルが「ジェンダー論と生物学」ではなく「ジェンダー論と進化心理学」だったらぜんぜん印象がちがうっしょ?もう心理学はそういう学問になってしまったと思う。

    ここで何よりも理解しておかなければならないポイントは、ヒト以外の生物についてはもちろんのこと、ヒトにおける性的二型の研究も第一義的には生物学に属する課題であるのに対して、生物学の言う意味での性的二型が人間における各種の性差や性役割や性差別にどのように関係するかという課題は生物学には属さず、本質的に「人文社会系のジェンダー研究」、たとえば社会学に固有の課題だということである。(p.155)

    なぜそんな社会学に固有といえるのだろうか。心理学にも、哲学や倫理学にも、経済学にも、政治学にも関係すると思う。生物学がヒトという生物種とその社会について考えたいならやはり生物学にも関係するだろう。ここらへんものすごく難しいですね。

    なぜそう言えるのか。最も簡潔な答えは、人間以外の生物にはそもそも「性別役割」や「性差別」は存在しないから、というものである。これらの現象にとって構成的な規範性が、他の生物種には見出されないからである。(p.155)

    社会学者が関心をもつのは「規範性」であり、それは単なる事実ではないので社会学者のものである、ってな話になるんだと思う。しかしここで「規範性」が未定義あるいは未説明なのが気になる。多くの哺乳類では雄と雌の行動はずいぶんちがっているはずで、われわれホモサピエンスが属する霊長類も例外ではない。男女にかかわる多くの性別役割やら性的な規範やらは、歴史のある時点で誰か偉い人が思いついて命じたようなものではなく、長い歴史のなかで形成されてきたものであり、その一部は我々の遠い先祖たちがはっきりとは自覚せずにつくりあげてきたものだろう。われわれ人間の「性別役割」も、そうした生物としての人類の歴史的・生物学的ありかたと密接に結びついているだろうと予想される。

    まだまだ難しいけど今日はこれくらい。

    読んでる加藤先生の論文は下に収録されているもの。「ジェンダー論と生物学」

    途中で引用したのは下の。

    加藤秀一先生の「ジェンダー論と生物学」は問題が多いと思う (1) まずは細かいところ

    年末、このブログでも何回か取り上げている加藤秀一先生の文章を読む機会がありました。(社会構築主義を中心にした)フェミニズム/ジェンダー論と、生物学の間の葛藤と、その調停の試みの思想と歴史という感じの論説なのですが、なんかいろいろ違和感があってしょうがないので、メモだけ残しておきます。論文は下のに収録されています。

    まずそもそもこのネタで論文や論説書くときに、当然あがってくるべきだと思う文献が出てこないのでおどろきました。ピンカーの『人間の本性を考える』はさすがに文献としてとりあげられていますが、社会生物学/進化心理学側の人々の言い分を十分に展開したものが言及されていない。特に、オルコックの『社会生物学の勝利』セーゲルストローレの『社会生物学論争史』はそのまんまなのでなぜまったく出てこないのか理解しがたいです。ソーンヒルとパーマーの『人はなぜレイプするのか』バスの『女と男のだましあい』なども重要。まあこの4冊あげてくれれば文句はないし、オルコックとソーンヒル組の2冊でもいい。ぎりぎりしぼってオルコック1冊でもなんとかします。(あげたのはごく古いものばかりで、最近はよい本が増えてる)

    (特に、加藤先生が応援しているゴワティ先生についてはソーンヒル先生たちの本でも触れれてるよ。特にpp.224ff

    ビショフ先生

    p.135で加藤先生は、ビショフという生物学者の引用を使って、「「文化規範」は「人間の本性」の「言い換え、解釈、解明」にすぎない──、。これはきわめて強い意味における還元主義の表明である」(p.137)とする。しかし「すぎない」は先生の勝手な付け加えですね。

    このビショフ先生という方の主張はたしかに解釈が必要なのですが、あとまわしにします。

    あとp.139のシュルロ先生が「苦言を呈している」という加藤先生の解釈にも疑問がある。

    遺伝子決定論なんて信じてる人はいません

    メイナードスミス先生が「実際に遺伝子決定論を信じているまともな進化生物学者などいないと主張している」と紹介しながら、注の12で斎藤成也先生ひきあいにだして「それは事実か否かはなんともいえない」とか言っちゃって、大丈夫なんですか。まさか斎藤先生がまともじゃない進化生物学者ではないと言いたいわけじゃないと思いますが。そら、ナスからはふつうナスの味がするだろうし、それはナスの遺伝子が環境の影響を受けてナスの味するんでしょよ。キュウリを同じ環境に植えてもナスの味がするようにはならない。それに、ナスの遺伝子もってても、ちゃんとナスの苗に育って、花が咲いて実がならないとナスの味にならない。必要な栄養とか不足しがらちゃんとしたおいしいナスの味がしないかもしれない。でも適切な環境で花が咲いて実がなったら、その実にナスの味を発現してくれる遺伝子なかったらやっぱりナスの味はしないだろ、これが斎藤先生が言いたいことでしょ?

    そもそも加藤先生が「遺伝子決定論」っていうので言いたいことはいったいなんですか。

    「フェミニスト認識論」については話がよれている

    p.145からのハーディングに代表される「フェミニスト認識論」についての中途半端な議論(中途半端なのは、加藤先生自身がこの問題については判断しないことを宣言して途中で放り出すから)は、筋がよれていて読みにくい。なぜガワディ先生が開いたシンポジウムとその成果の書籍の話をしているのに、ハーディングやグロス先生やソーカル先生たちや、いわゆる「サイエンスウォーズ」の話に流れていってしまうのかよくわからない。もちろん関連があるのはわかるのだが、ガワディ先生たちはどこいったのよ。時代が前後していてわからん。アナクロニズムだ。

    日本学術会議の「学術とジェンダー」公開講演会記録

    ジェンダー論者と生物学者の対話として、三つめに加藤先生がとりあげるのが2005年の日本学術会議の公開講演会ですが、まあこれいまとりあげる意義がよくわからなかった。昔ぱらっとめくっただけだけど、ごく簡単なものだし、学問的な意義がそんなあったのかどうか。

    まあそれはともかく、加藤先生は「ジェンダー論者(社会学者)も、生物学者も、おたがいに勉強不足だった」ってことにしたいようですが、これどうなんですか。

    少なくともこのとき、「セックスはジェンダーである」とかわかりにくいことが社会学者の先生たちを中心に提案されて、生物学者その他の自然科学者たちは「はてなー?」ってなってた時期ですよね。んで加藤先生の分析によれば、そのときの上野先生の講演にはなにほどかの理論的な問題があるという。でも加藤先生は、問題のジュディスバトラー様の主張を放っておいて(!)、「いずれにしてもこれはバトラーのテクストからの正確な引用ではなく、上野による要約である。そしてその要約のプロセスには、上野によるかなり強引な解釈が入りこんでいる。」(p.152)とかってことにしちゃうんですが、この前数年から2010年代に至るまで、社会学者の先生たちの本みたら「セックスはジェンダー」とか頻出じゃないっすか。いったいそんなわけわからん状態で、社会学者の先生たちの話をもっと勉強しろ、とかよく言えたものだと思うのです。

    バトラー様なんて、パフォーマティビティその他、すみからすみまで、なにを読んでもなに言ってるかわからないじゃないですか。加藤先生自身がバトラー様の本や論文使ってけっこうな知的生産した人であり、そんな人が「「バトラー自身がそのような乱暴な主張をしているのかどうかは措くとして」(p.152)とかよく言えますね。私はこれ本気で批判したいです。

    せめてここで、2005年の「セックスはジェンダーだ」なんて不思議なこと(あるいは読みようによってはとても瑣末なこと)を社会学者の人々がみんな一様に言いはじめたときに、社会学者自身はなにをしなければならなかったのか、それを考えるべきなんではないでしょうか。生物学者その他の人々に向かって「ジェンダー論を勉強不足だ」と言う前に!いまでも遅くないので、「セックスはジェンダーだ」について、社会学者の先生たちの本で読むに値するものを教えてくださいよ、と言いたくなる。生物学者たちの本で読むべきなのは上にあげました。たとえば『社会生物学の勝利』と『人はなぜレイプするか』です。加藤先生は同じくらい読みやすく、ためになるものあげられるだろうか。

    加藤先生は、p.153で学術会議の講演会に出てきた長谷川真理子先生は勉強不足だと言う。しかし先生はその時にはすでにオルコックの『社会生物学の勝利』の翻訳出してたんですよ!

    先生の本論であるところの第3節、「ジェンダー研究と生物学の生産的な関係をつくりだすために」は丁寧にやる手間かかるので別エントリにします。

    (続く)

    日本学術会議でのシンポの様子は下の本でわかるはず。

    海外の論争の様子は下。

    宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

    宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう」からの続き。
    その後、ポロック先生たちの「記号」やら、ゴフマン先生の「コード」やら、ちょっとだけ原文めくってみたんですが、よくわかりませんでした。

    「記号」と「スザンナと長老たち」

    まずポロック先生たちの「記号」はsignですね。codeではない。

    一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

    「文化的、社会的記号について熟知している」は familiarity with the signs of the culture or societyなので、まあ翻訳どおり「熟知してる」でもいいけど、学者みたいに熟知しているってことではないとおもう。むしろそれに慣れ親しんでいる、ぐらい。マンガ読むひとはフキダシやいわゆる漫符の意味について慣れ親しんでいるのですぐにその意味がわかるわけです。コマ割りや視点の移動その他の技法についてはあんまり意識してない可能性もある。

    とりあえず(西洋)絵画というのは、構図や人物の描きかたにくわえて、画面に登場するいろんな物品や動植物がなにかのシンボルである場合が多いので、そういうのの知識まで含めて鑑賞しないとならない。

    正体不明自称プログラマのuncorrelated先生が、小宮先生の論説に一連の批評を加えているのですが、そのなかでティントレットの「スザンナと長老たち」がとりあげられてます。これ、それのとてもよい題材になってますよね。wikipedia記事に、登場するカササギや鹿や鏡その他について簡単な解説がある。これ詳しくなると図像学っていう学問になってしまいます。

    ジョン・バージャーの『イメージ:視覚とメディア』って本めくってみたら、このティントレットの絵について解説があって、それもおもしろかった。ティントレットは「スザンナと長老」のタイトルの絵を数点描いてるんですね(そもそも私がティントレット知らなかったのは秘密にしておいてください)。

    絵画がしだいに世俗的になっていくと、他のテーマもヌードを取り入れるようになる。そしてそのほとんどが主題(つまり女性)が鑑賞者に見られていることを意識しているという雰囲気を絵のなかに暗示した。……「スザンナと長老」が好む主題のように(ママ)、多くの場合、このことが絵の実際のテーマなのだ。我々は入浴中のスザンナを盗み見ている長老と一緒になる。そして彼女はふりむきながら彼女を見ている我々を見る。

    ティントレットの別の「スザンナと長老」では、スザンナは自分を鏡のなかに見ている。そしてこれによって彼女自身も、彼女の鑑賞者の仲間入りを果たす。

    まあこういうの、スケベイハゲじゃなくて薄毛の長老さんの描き方とかも含め、ものすごい批評性があっておもしろいですよねえ。さすが名画!って感じです。私は、これくらいのレベルになると、単純な女性のモノ化とか客体化とかそういうんではないと思う。

    鏡は女性の虚栄心のシンボルとしてしばしば用いられてきた。しかしそうした道徳的観点はほとんど偽善的なものだった。(下のメムリンクのやつが「虚栄」3枚組。バージャー先生は真ん中の女性像(女性「表象」!)について書いてる)

    メムリンクの「虚栄」(中央)

    画家が裸の女性を描くのは、画家が彼女の裸を見るのが好きだからである。しかし、画家は彼女の手に鏡を握らせ、その絵を「虚栄」と名づける。このようにして画家が自らの快楽のために描いた裸の女性を道徳的に非難するのである。しかし実は鏡の本当の役割は別のところにある。それは鏡の存在により女性に彼女自身を光景として扱うことを黙認させるということなのである。

    まあ名画というのはいろいろ工夫に工夫が重ねられていて、小宮先生が参照しているポロック先生たちやイートン先生みたいなフェミニスト的な読みももちろんあるんですが、もっといろいろ批評の道はあるかもしれない。美術おもしろいですね。私、「美術も勉強しよう」とか「エッチな絵からギリシア神話を学ぼう」とか書いてるけど、ぬるすぎ。人生をエッチに豊かにするためにこれから勉強します。

    ゴフマンの「コード」

    一方、ゴフマン先生のGender Advertisementもめくってみたんですが[1]入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。、こっちでは「ふるまいのコード」っていう語はほとんど見つかりませんでした。けっこう難しい文章で読みにくくて、見つけにくい。”encoded”ならある。私の下手な訳だとこんな感じ。

    まちがいなく、(広告が)表示するもの(ディスプレイ)は、表示されているもののなかで、複数の社会的情報が記号化されているという意味で、多声的で多義的でありうる。

    とかそういう感じ。これは社会的関係(優位/劣位とか支配/従属とか、親密さとか、愛情とか)そういうのが広告ポスターとかのなかでわかりやすく表示されてるってことですね。これは小宮先生の説明がほぼ正しいと思う。

    しかしそうなると、「ふるまいのコード」っていうのは、「ふるまいの規則」だっていう私の解釈はなんかあやしくなってしまう。でも記号っていう意味のコードと、規則っていう意味のコードは別のものだと思うんですけどね。ここらへん曖昧なのはあんまりよくないと思う。これがゴフマン先生に由来するのか、その解釈者に由来するのかはまだよくわからない。いずれにしても、私が考えるべきことではない気がします。専門に近いひとがんばってください。

    副産物として、是永論先生の論文でのゴフマンの引用が微妙に問題あるんではないかということにも気づいた。先生はこういう感じで訳してるんだけど、

    このnegative statementは「否定的な意味合いをもったコメント」ではないような……よくわらんけど。私が訳すとこうなる。

    端的に言って、ここで示されている写真たちは、現実生活でのジェンダー的ふるまいを代表しているものではないし、また特に広告一般や、個々の広告出版を代表するものでもないが、おそらくこれらの写真について否定形の言明を提出することは可能であるだろう、すなわちすなわち、*写真としては*特にかわったところも不自然なところもない、ということだ。

    まあそれはさておいて、ゴフマン先生の指摘が、こういうふうに、広告では、現実ではそうでないものがいかにも自然であるかのように受けとられる、みたいな話だとすると、アニメやマンガを使った広告というのは、非常にデフォルメが効いているし、あきらかに現実では成立しないようなセリフや状況が多いですよね。たとえば最近の問題の日赤の献血ポスターとか、カイジとかが「倍プッシュだ!」とかいってるのはあきらかに現実からかけはなれてるし、『働く細胞』とかもあれだし、宇崎ちゃんもなんか少なくともステロタイプはない。

    とか考えると私ぜんぜんわからなくなってきました。まあここらへんの非実在人物をつかった広告の美的・倫理的問題ってやっぱりおもしろいと思う。

    まあ前のエントリで、小宮先生の論説は哲学的な思考を刺激してくれるって書いたんですが、実際に美学・美術史の問題とか、ゴフマンの解釈とか、そういうかなりアカデミックな興味をそそらせてくれるっていうのでとてもよかったっすね。ゴフマン自身の文章を読むと、とても繊細でありながら、「そんな簡単には規範的な主張は提出しませんよ!」みたいな意思も感じられてとてもよい。公共広告の道徳性みたいな話も、いきなり規範的な話に突入しないで、とりあえずみんなで勉強しながらいろんな意見交換してみたらいいと思うのです。

    まとまりがなにもないけど、こういうの適当に書いていきたい。

    References

    1 入手が困難ですが、google様に向かって強く祈ると手に入る。

    宇崎ちゃん問題 (10) 小宮先生の論説についてはおしまい

    というわけで、もう疲れたのでおしまい。ちょっとだけ書き残したことを。

    「性的」

    これあんまり小宮先生の文章とは関係ないのですが、宇崎ちゃんその他の表現に関するネットでの騒動では「性的だ」「たいして性的でない」とかそういうやりとりがあったようですが、「性的」自体が曖昧なので「性的に魅力的」とか「性的に露骨」とかそういう表現をつかった方がまだましな気がします。女性や男性を描いたら、そりゃ一つの意味では性的ですからね。そして、魅力的とか露骨とか書けば、それが感受性とかと関係していることがわかりやすくなると思う。

    小宮論説全体について

    小宮先生の2本の論説には、いろんな混乱があると思うんですが(そしておもしろい指摘や、なんか哲学的な思考を刺激してくれる論点もある)、もう面倒なので細かいところをつっこむのはやめます。最後に、思ったことだけ簡単に。

    先生が言おうとしている規範的主張自体は非常に弱いものだと思うのです。私がその難解な文章表現にタックルして理解したいくつか(すべてではない)をあげてみます。

    先生の主張の一つは、(1) 「フェミニストやポスター等を批判する人々にも一理あるのだから、ちゃんと言うことを聞きましょう」。賛成ですね。異議なし。

    (2) 「表現物からはいろんなことが読みとれます」。賛成ですね。ただ、「表現物には(一つの)正しい読みがある」、とか、「みんな〜と読むべきだ」って言われたらノーです。でもそうは言ってませんね。あと「表象(表現)の意味」みたいな書き方には注意してほしい。それは作品というよりは、我々がなにを読みとるか、の問題だと思う。

    (3) 「表現物が、差別その他の問題を含む場合がある」。これも強く同意します。そして、その読み方はさまざまありえるので、おおやけの評論や議論が必要だ。これも同意。

    小宮先生の「現実の(たとえば統計的な)人々への影響とは別に、表現自体の道徳的評価ができるはずだ」という発想は私も同意するところです。街中で「XX人は殺せ!」とか叫んでいる人がいると仮定して、それに現実には誰も従うことがなくても(そして賛同する人が増えるということもないとしても)、やっぱりそうした発言は悪しきものであり邪悪なものである。そうしたものの道徳的悪さ、邪悪さ、思慮のなさ、というのは、現実的な影響がほとんどないとしても考慮されるべきだと思う。

    ただし、前にも書いたけど小宮先生が「悪さ」という言葉を選択したのはやっぱりあんまりよくなかった。私だったら、そんなに差別などの不正さがはっきりしないものは「道徳的に悪い」ではなく、「(道徳的に)問題がある」「問題含み」problematicぐらいにしておくんじゃないかと思います。

    (4) 「性的な関心をより満足させるためのさまざまな表現方法がある」。これはOKなんですが、ただ、そうした表現方法を使っているからといって、性的な関心をより満足させるためにその表現方法を使っているとはいえない。

    小宮先生とふくろ先生は、どういうわけか例にあげた手法を「これは〜のための表現だ」って強く主張しているように見えますが、それは主にふくろ先生とかがそういうふうに「理解」している=考えてるっていうだけの話かもしれません。ポルノ作者もマンガ作者も、つねにさまざまな手法を学び、開発し、より満足のいく作品をつくろうとしているわけであって、クリエイターに共通のできあいの「記号」みたいなのがあり、それを組合せて作品をつくり、その記号そのものに鑑賞者が反応している、なんてことになっているとは思えない(そうしたことを主張しているのかどうかはむずかしいのでよくわからない)。

    たしかにポロック先生たちやイートン先生は、絵画表現におけるさまざまな技法をもちいていますが、そうした技法を使うことはすなわち性的なモノ化であるとか、それ自体に問題があるとか、そうしたことは主張していないと思う。

    (5) 「これからいろいろ議論しましょう」。そうですね、みんな好きなことを言って批評すればいいと思います。でも、簡単に電凸とか不買運動の呼び掛けとかするのはやめてほしい。みんなでよく考えて議論してからにしましょう。

    (6) あ、目玉の「累積的経験」の話ももちろんOK。えらい。ただし、もっとわかりやすいふつうの表現にはできそうだと思う。個人的な経験のなかで、Aにいやな思いをさせられたら、Aに関連するいろんなものに対して嫌悪感や反発や問題意識を抱くことになりやすい、っていうことよね。累積的経験なるものによって一部の表現物に対する感受性が変化するのだとか、それはふつうは連想と呼ばれるものだ、ってところまではっきりさせてほしかった感じはある。

    もうひとつ、こうした累積的経験というか個人的な経験からさまざまな問題意識をもつこと(そして嫌悪感や反発の傾向を身につけること)自体は悪いことではないかもしれないが、そうした経験から偏見を育てあげてしまったり、過剰に攻撃的になったりすることはよくないことかもしれない、っていうことにも触れてほしい。(累積的なネガティブな経験はフェミニストだけがもつものではない)

    さらには、一部の表現に対するフェミニスト的反発が累積的経験なるものから説明できるからといって、そうしたフェミニスト的反発や問題意識が正当化されることにはならない(他の人々についても同様)。小宮先生が、累積的経験の話から、どのような規範的な判断を導こうとしているのかよくわからない。「だからフェミニストの言うことをそのまま聞け」ではないだろうと思う。それとも、単にどのようなメカニズムで論争が起こるのかを記述的に分析しているだけなのだろうか。

    小宮先生の主張は弱すぎる

    むしろ小宮先生の論説の問題は、おそらく、その主張が弱すぎることなんですわ。上のような先生の主張は、私だけでなく、一連の論争みたいなのになにかコメントしている人々は皆同意すると思う。論争みたいなのはむしろ個別の作品(ポスターや雑誌表紙等)が、そうした問題含みのものになっているか、という点でおこなわれていて、それが長く続いているので、小宮先生の論説が出た時点では、「問題含みの「可能性がある」」というだけでは満足しない雰囲気が形成されていたと思う。そこに「問題がある可能性がある、道徳的に悪いものである可能性がある」っていう主張をもってきても、「んじゃ悪いっていうんだな!なんで悪いんだ!」っていうふうに読まれちゃったのだと思う。よく読むと先生はそうしたことはなにも言ってないんですよね。ふくろ先生の模範作品しか言及されないし。

    せめていくつかの作品について、それが実際に小宮先生が指摘するような「悪さがある」って主張するようなものなのかどうか判断してみてもらえればよかったんではないかと思います。でもそれは先生のような立場(どういう立場かわからないけど)の人が書くことではないのかもしれない。でもそれでいいのかなあ。

    でも、やっぱり我々が関心をもっていることに、学者として(あんまり人気がないかもいしれない立場から)コメントするっていうのはやっぱり偉いし、この件についてはずいぶん議論が深まったと思います。えらい!特に、マンガやアニメなどの非実在人物のあつかいみたいな話は、もっと若い世代の人々もいろいろ勉強しておもしろいことを言ってくれそうな気がします。そうした議論をすすめていくのはやっぱり対立とかないとならないので、矢面に立ったのはほんとうにえらい。私も書くべきだと思ったことを、ブログていどでもいろいろ書いていこうと思います。

    てなわけでおしまい。

    後記:この一連の記事、「誤謬推理と詭弁に気をつけよう」というタイトルのシリーズにしてたのですが、実際にはそういう話にはならなかったし、そもそも小宮先生のやつが詭弁だとか誤謬推理だとか言いたいわけでもなかったので(実は牟田先生のやつも)、タイトルあらためました。(1)だけはそのままにしておきます。いずれ誤謬推理についての(2)も書くと思う

    宇崎ちゃん問題 (9) 「意味づける」を意味づけることに疲れました

    もう疲れてきたので途中でおわってしまいたいのですが、まあはじめてしまったものはしょうがない。「意味づけ」です。小宮先生のこの言葉の典型的な使いかたはこんな感じ。もちろんこれまで同様「意味づける」ということがどういうことかはほとんど説明がなく、手掛かりもありません。

    「表象の中で女性がどのように意味づけられているのか」
    「女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。」
    「「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっている」
    「「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけ」
    「女性に対する抑圧的な意味づけ」
    「女性のみを一方的に性的客体として意味づける」
    「「女性」というカテゴリーを性的客体として意味づける」
    「相手の身体や経験に勝手にエロティックな意味づけをする」

    「意味」も曖昧だけど「意味「づけ」」てなんでしょうね。英語にするとどうなるんかな、とか思いましたがあんまり思いうかばない。「attribute A(性質) to B(対象)」かなあ。「意味」を「つける」って日本語の語感だと、レッテルみたいな「意味」を対象(ここではおもに女性)にくっつける感じなわけですが、私が宇崎ちゃんという実在の女性が魅力的だと考え、その意味で宇崎ちゃんに「魅力的」っていうレッテルをペタっと貼ったとしても、そのレッテルは私にしか見えないし、私が関心を失なったり、死んじゃえば剥がれちゃいますよね。なんてメタファーでお話をすすめたりして。ははは。

    でもまあとにかくこの「意味づける」は「〜と考える」で十分なんじゃないっすか。「意味づける」っていう難しい表現をつかってなにを得するんだろうか。

    私が宇崎ちゃんを魅力的だと考えてそう意味づけしたからといって、私には権威も権限も超能力もないので、他の人が宇崎ちゃんを魅力的だと考えるようになるとは思えない。でもまあ有力な作家が、宇崎ちゃんというこんどは創作キャラクターをつくりだし、性的に魅力的な格好やポーズをさせたら、「宇崎ちゃんに性的に魅力的な意味づけをした」、ということになるかもしれない。これはさっきの単なる私がある人物を魅力的だと考えるのとはちがいますね。こっちの方がおそらく小宮先生の本意に近い。

    しかし、これは宇崎ちゃんに性的に魅力的だという意味づけをしたのであり、まだ「女性」に意味づけしたわけではない。なぜ宇崎ちゃんを性的に魅力的に描き性的に魅力的だという意味づけをすることが、「女性」に意味づけすることになるのだろうか。

    答は、宇崎ちゃんが(仮定により)女性だから。宇崎ちゃんは女性だから、宇崎ちゃんに意味づけすることは、女性に意味づけるすることになる。

    しかし、これは宇崎ちゃん「という」特定の女性(あるいは女性キャラクター)に意味づけしただけで、女性全部に意味づけしたわけではない。女性一部に意味づけしたとは言えるが、女性一人(宇崎ちゃん)だけだ。

    そこで、解釈としては、クリエイターが魅力的な女性を描くことは、女性の一部/多く/全部に魅力的というレッテルを張るということだ、ってことになるけど、これはダウトだ。いくら魅力的な女性を描いても、さほど魅力的でない女性はいるだろう。

    したがって、もうひとつの解釈、「クリエイターが一人の魅力的な女性を描くことは、女性はみな魅力的であるべきだという主張をすることだ」っていうのになる。これが「意味づけする」ってのの小宮先生の言いたいことだろうと思う。しかしこれはかなりあやしい主張ですよね。私は簡単には認めないです。

    宇崎ちゃん問題 (8) しかし、「理解を生む」だけは許さん!

    まあ「理解」を理解するのはむずかしい。私もよくわかっていない。

    でもぜったいに許せない表現があるわけです。「理解を生む」これは許せない![1] … Continue reading

    「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えますが、同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いているという理解も生むでしょう」

    理解を生む、って誰が生むのよ。主語は「こうした技法」ですか?「こうした技法」が「理解も生む」の?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

    「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いているわけですが、あからさまではないがゆえに、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているという理解を生むでしょう。」

    「こうしたメタファー」が「理解を生む」の?誰が生むの?どこに生むの?とりあえず主語はなんなの?

    「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているという理解を生むでしょう。」

    「エロティックなものとして描くことは」「理解を生む」の?主語はいったいなんなの?

    こんなのおかしいっしょ。誰のものでもない「理解」とかって抽象名詞つかってるからこういうわけわからん文章になる。「Aさんは〜と理解するようになる」ってふつうの文章で書けばこんなわけわからんこと言う必要がない。こんな文章を「明晰」「わかりやすい」とかって評価している人はいったい何を見てるのですか!

    こんなふうになるのは、「理解する」っていうことがどういうことかよく考えないままに、抽象的な「理解」っていう言葉をひとりあるきさせ、それが誰の理解や思考であり、何が誰の思考にどういう影響を与えるかも考えたことがないからじゃないんですか。あるいは、もしこういうのが意識的で意図的なものであるならば、はっきりふつうの言葉で書くと、奇妙なことを主張しているのがはっきりしてしまうから、抽象的で曖昧な書き方しているんではないですか。これでいいんですか。これは小宮先生ではなく、あの文章読んで、なにがしかのコメントができると思ったひとびと全員に聞きたい。

    好意的に、好意的に、最善の相で

    泣きべそかきながら好意的に読むと、最初の一文は、「こうした技法はやはり性的な鑑賞のために女性を用いていると言えます。同時に商品や物語とは関係のないところでそれをおこなっている点において、こうした技法は、商品や物語を単に装飾するためだけに女性を用いていると私たちに理解させるようになるでしょう」かな?でも技法が主語になってるの気になるから「技法を使う人々は」とか「技法を使うことは」ぐらいにしてほしい。

    そして、こうしてはっきりしてみるとここで、そうした技法や、その意味に気づかない人は、「そうした技法が女性を単に装飾のために使っていると理解するようになる」ということはないはず。おかしいじゃないですか。おかしいっしょ?

    ふたつめは、「こうしたメタファーは、あからさまではない仕方で女性を性的な鑑賞のために用いています。そして、あからさまではないがゆえに、こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされていると私たちに理解させてくれるでしょう」かな。これでも正確ではなく、できれば、「メタファーを利用する作家は女性を性的な鑑賞のためにもちいています」あるいは「メタファーの利用は、〜」と表現してほしい。これもさっきと同じようにおかしい。メタファーに気づかないひとはそういうものだと理解できないはずだから。

    だから「こうしたメタファーには、性的ではない(あるいは性的である必要がない)状況においても「性的客体としての女性」という考えが前提とされているといえるでしょう」ぐらいなわけだ(先のも同様)。んじゃ、キーワードの「理解」はどこいくのよ。

    三つめは「もちろん現実には、「意図しない/望まない性的接近」はそれを受ける女性にとってはエロティックであるどころか侮辱的で侵害的なものです。にもかかわらず、それをエロティックなものとして描くことは、女性の自律性、主観性を無視して性的な鑑賞のために用いているといえるでしょう」か?

    技法やメタファーが理解を生む、っていうのはほんとうにわかりにくい。「それらを使うことが〜という理解を生む」ぐらいだったらまだましかもしれないけど、けっきょく抽象名詞を主語にした無生物主語みたいなのをたくさんつかうと文章はどんどんわかりにくくなっていき、なにを主張しようとしているのかわからず、したがってなにを確かめたり反駁したりしたらいいのかもわからなくなる。

    とにかく、ここのところの「理解を生む」はほんとうに混乱させられてものすごく不愉快でした。私がおかしいのでしょうか。

    はあ、メタファーが、理解を、生みましたか、はあ、そらおめでたい、いや近所の猫もね、猫を生んで、まあその、それと似たものですか。


    追記(12/21)

    しばらくして、小宮先生の「理解」が可算名詞のunderstandingに対応するということに思いあたりました。Cobuildだとこう

    この意味だと、同義語に出てる「信念」とかの方が日本語では適切ですね。誰の信念であるかという問題はまだ解決されないけど。

    References

    1 「誤解を生む」はもちろんOK。「共通理解を生む」はありえるけど、それならそうと書くべきだと思う。「〜という理解を、社会に生む」とかならぎりぎりOK。誰がなにをしているのかわからない、っていうのは許せない理由です。また、「通念を生む」「偏見を生む」でもいいのかもしれない。しかしそうなると「理解」の意味も考えなおさないとならない。

    宇崎ちゃん問題 (7) 「理解」を理解するのはむずかしい

    んで一番面倒なのが、「理解」とか「意味づける」って言葉で、この二つにはほんとうに苦しみました。

    「理解」

    まず「理解」から。小宮先生の典型的な表現を抽出してみるとこんな感じです。

     「表象に対する理解の齟齬」
    「「悪さ」の理解」
    「表象の理解」
    「表象はその抑圧の経験との繋がりの中で理解される」
    「女性差別の歴史と現状に照らしてその表象が理解される可能性が出てくる」
    「女性の描き方の中で「女性は性的な客体……である」という女性観が当然の前提とされていると理解できるかどうかだ」
    「具体的にどのような描き方をするとそうした理解が生じるのでしょうか」
    「「性的客体としての女性」という考えが前提にされているという理解を生みやすい表現」

    表象つまり表現物・作品を「理解する」っていうのはどういうことなのか、「ある絵画がどういうメッセージを伝えているかを解釈する」ぐらいだと、まあ絵画がメッセージを伝達するものとして解釈を必要とする、というのはわかります。でもこれも難しいですよね。

    ふつうに「理解する」とは

    まず、ふつうの意味で理解するってどういうことなのか。

    • 「太郎は地球が丸いと理解した」

    これはOKです。地球は(おそらく)事実として丸いので、それを把握するということです。地球上を一方向にまっすぐに歩いていくと、いずれもとの場所に戻るであろう、ということもわかります(あれ、どっちに行っても戻ってくるよね)。

    • 「太郎は地球が平らだと理解した」

    これはなんか微妙。「太郎は地球は平らだと誤解していて、そのため皆からフラットアーサーと呼ばれている」ならわかる。「古代人は地球は平らだと理解していた」は微妙だけどOK。

    まあこういうふうに「理解」や「誤解」を使えるのは、「地球が丸い」という事実があるからですわね。それがわかってれば理解しているし、わかってなければ誤解している。

    単純な文章の場合は、理解とか誤解とかっていうのはわかるわけですわ。

    「意図を理解する」のようなものになるともうすこし複雑になる。

    • 「花子が「あなたのことは人間としては好きよ」と言ったのを、太郎は交際の拒絶として理解した」

    まあ花子さんは太郎さんに人間的な魅力を感じてはいるものの、性的な魅力は感じないので、交際やセックスをおことわりする意味で「人間としては好き」と発言し、太郎はそれを正しくセックスの拒絶として理解した。こういうのはよくわかる。

    表現物(表象)を理解するというのはどういうことか

    でも、こうした発言や文ではない表現(表象)を理解するっていうのはどういうことだろうか。だって、絵や写真がなにか文あるいは命題に相当するようなものを表現しているかどうかっていうのは、かなり難しい問題ですもんね。

    前エントリで例にあげた、フラゴナールの「ぶらんこ」が、助平な若い貴族男子と若くて陽気な既婚女子の浮気やセックスを描いていて、陰になっている貧相な年老いた旦那らしき人物も公認、みたいなフランス貴族社会を描いている、ぐらいは私にもわかる。しかしどういうメッセージなのか、とかいわれると難しい。フラゴナールは「どんどん浮気してセックスしましょう」っていってるのか「若い嫁さんもらったらブランコぐらいこいであげないといけません」と言ってるのか、「助平な貴族が偉そうにして人妻に手をつけているいるこの貴族社会を打倒せよ」って言ってるのかよくわからない。なにを理解したときに理解したと言えるのだろうか。フラゴナールの絵の寓意を理解することが「理解する」なのか、たんにその美や技巧を味わうだけでも十分なのか。

    ある絵画や写真が何を伝えているかを「正しく」理解する正しい方法というのはあるのだろうか、とかそういう疑問が浮かびます。小宮先生は「表象の理解」とかって簡単に書くわけですが、図像表現をそんな簡単に理解できるものなのか。なにをすれば理解したことになるのか。「着衣のマハ」やベートーヴェンの第五交響曲(ジャジャジャジャーン!)理解するというのはどういうことなのか、わたりにはよくわからないのです。

    ピカソの「草上の昼食」の意味を理解するとは?

    「理解」じゃなくて「解釈」ならわかる。「ぶらんこ」を解釈するというのは、あの絵から、いろんなメッセージや諧謔や皮肉や美や快楽を読みとることだろうと思う。それらそれぞれはかならずしも命題(平叙文)の形にはならないかもしれず、単に「経験する」という表現しかできないかもしれない。

    まあ、「「ジャジャジャジャーン」は運命が扉を叩く音である」とかって通俗的な解釈を知り、それに納得することが、あの曲を「理解する」ことだなんて立場には立てないし、また「ぶらんこ」は貴族社会での浮気の肯定を意味している、なんて解釈もくだらないと思う。んじゃ「表象を理解する」ってなんなのよ。

    「裸のマハ」や「ウルビーノのヴィーナス」はいったいなにを「意味」してるんですか。絵にそんな「意味」なんてあるんですか?私がどういう状態になったら「理解した」ことになるのか、そういうのさっぱりわからず、そうした疑問を抱くことなく「表象を理解する」みたいな文章を書く、っていうのには反発をおぼえます。(似てるのは「人生の意味を理解する」みたいなやつですね。こういうのはけっきょくなんらかの比喩的な表現にすぎないのではないかと思う。人生の意味ぐらい私が教えてあげます。それはタンパク質です。理解しましたか?ははは。)

    好意的に読むようにがんばりましょう

    でもがんばって好意的に解釈しましょう。社会学者の先生たちは、「理解」っていう言葉をかなり独特に使う傾向があるみたいなんですよね。私はよくわからないんですが。

    どうもunderstandというよりは、ドイツ語のVerstehen、みたいな印象。単に知的に文を理解するというよりは、「了解する」とか「十分な意味で理解する」とかそういう言葉をあてないとならんような。

    たとえばまだ地球が丸いという事実を知らない部族が存在していて、その部族のメンバーは「大地は平らであり、ずっと行くと滝のようなところがあって落ちてしまう」と信じていて、旅をするのを恐れているとする。これを「彼らは地球は平らだと誤解している」のように表現するのはなんか、我々地球が丸いことを知ってる人々の特権的な判断であって傲慢だ、みたいな発想はあるわけですわ。彼らにとっては大地はまさに平らなものであり、そうした世界観とともに彼らの大地は平らだという信念を「理解」しないとならない、みたいな形になるんですかね。

    つまるところ、われわれが「事実」と(個々の人々、あるいは社会全体での)「解釈」、みたいに分けちゃうのはあんまりよくない、みたいな発想。我々の知識や信念のすべては「解釈」なのだから、そうしたものはすべて「理解」と呼んでかまわんのだ、みたいな感じの発想はあるかもしれない。

    実は、ミル先生の『論理学体系』第5篇第4章におもしろい個所があるのです。

    (訳文は久木田水生)

    漢方薬屋は病気や症状を漢方の理論にあわせて記述し理解し治療しようとする。ふつうわれわれは見たものをそのまま信じているのではなく、感覚に与えられたものを、自分がすでにもっている理論のようなもののレンズを通して経験する。見たままではなく、すでに推論(思考)が入ってるわけです。

    この画家の訓練の話とかも、いま扱ってる話題と関係していておもしろいですね。

    まあ小宮先生の「理解」って言葉の使いかたから離れてきてしまってますが、そんな簡単に、制限つけないで「理解理解」ってくりかえしたり、「理解可能性」っていう聞きなれず、それだけでは門外漢にはどういう意味かわからない言葉や概念をふりまわされるととても困りが発生するわけです。

    追記。次のエントリに書きましたが、小宮先生の「理解」は可算名詞のunderstandingかもしれない。つまり「信念」とか「意見」とか「解釈」とか、そういうの類義語。「誤解」と対になる「理解」ではない。とすると、日常的な「理解する」っていう動詞と、こうした特別な「理解」=信念、解釈をいっしょに使われると混乱しますよね。

    宇崎ちゃん問題 (6) 「コード」ってなんだろう

    小宮先生の岩波『世界』の方の論説では「コード」が出てきます。これもわたしわからん。

    ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。

    この文章はとても読みにくい。「私たちは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを瞬時に読みとる。ゴフマンはそのために用いられるある種のふるまいのコードをここから読みとっている」かな?悪文です。

    まあそれはおいといて、この「コード」わかりにくいと思うんです。わかりにくくないですか?「コード」はふつうは(1) 規則、慣例、法典、(2) 記号・暗号、(3) 符号体系の三つぐらいの意味があると思うんです。ゴフマンの『ジェンダー広告』のcodeは、はっきり(1)のふるまいの「規則」のはずです。「記号」ではない。(『ジェンダー広告』も原書Gender Advertisementも入手しにくいので、ちゃんとした論拠はちょっとまってね[1]たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of … Continue reading。)

    ツイッタでのジェンダー関係の話になると「〜コード」とか言う人々がいるんですが、そういうの見たら「それって規則?それとも記号?」って聞いてみてください。

    小宮先生の『世界』の文章に戻ると、「コード」の前にポロック&パーカー先生の「記号」の話が出てきててさらに混乱しやすいんじゃないかと思います。先生はポロック先生とゴフマン先生の話が同じようなことを言ってる、って主張しているように見えるから。でもそんなに同じだろうか。

    小宮先生が引用しているポロック先生のを再引用すると、

    ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち、かつ文化的・社会的記号について熟知している、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。

    でもこれ、実はこうです。わかりやすいように、前後もちょっと拡大しますね。

    芸術作品のなかに描かれた女性のイメージには、現実社会の女性が、よし悪しは別としてそのまま反映されていると見るのは、われわれが陥りやすい罠である。ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち(つまり画面上の線と色彩を、描かれている対象物をかたちづくるものとして読解できる)、かつ文化的・社会的記号について熟知している(つまり描かれているものがもつ象徴的レベルの含意を読解できる)、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。芸術は社会を映す鏡ではない。社会の諸関係をいくつもの記号からなる図式にして伝え、提示しなおす(re-present 表現する)のが芸術であり、それらの記号が意味あるものになるには、読解力をもち、一定の条件を備えた読み手が必要である。このような記号が含意する、多くの場合意識されない意味のレヴェルにおいてこそ、家父長的イデオロギーが再生産されるのである。(翻訳 p.184)

    ポロック先生たちの「記号」が、英語でなんであるのかまだわからないのですが(手配中)、「象徴的レベルの含意」を含むような描かれている物、人物、服装、持ち物(アトリビュート)、背景、構図、その他ですかね。

    たとえばフラゴナールの「ぶらんこ」[2]実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。ではいろんなものが描きこまれていて、たとえばスリッパ(左上)、たとえばイルカとキューピット像(中央下)、それらの物がどれもエロティックな含意を伝える「記号」になってるわけですわね。こういうのを解読できるようになると楽しい(中野京子先生の『怖い絵』とかどうぞ)。しかし、これって、ゴフマン先生の「ふるまいの規則」としての「コード」とはずいぶんちがうもんなんちゃうんかなあ。これ、最初から「コード」じゃなくて「ふるまいの規則」って書いてたら、読者は「あれ、それって同じ話なの?広告とかに描かれるふるまいの規則と、絵に描かれる記号って、たしかに近い話みたいだけどちょっとちがうもんじゃないかな?」って思うと思うんです。どう思います?ていうか、せめて「ふるまいのコード、すなわちふるまいの規則が」とか書いてくれてもいいと思うんです。

    (この話は続きがあります→ 宇崎ちゃん問題(11) 「コード」と「記号」のその後

    References

    1 たとえば、英語版の”codes of gender”のwikipediaで、ゴフマンとともに何回か参照されている Morris & WarrenのThe Codes of Genderだと、codeっていうのはみんなが共有しているもの:規則のセット、ふるまいのコード、の短縮形だってはっきり書いてある。
    2 実はこの前ゼミで学生様がレクチャーしてくれた。

    宇崎ちゃん問題 (5) 「表象の「悪さ」」の「悪さ」がわかりにくい

    小宮先生の文章(『世界』のと『現代ビジネス』のの両方)では、「表象の「悪さ」」とかそういう表現が頻繁に出てくるのですが、この「悪さ」っていう表現にも私はひっかかってしまう。これはかなり面倒な事情があって、ちょっとここでは簡単には説明できないのですが、いくつか私の「困り」を説明しておきたいと思います。

    どういう種類の「悪さ」か:それは「道徳的な悪さ」か?

    「表象の悪さ」っていわれたときに、ある表象(つらいので、以後表現とか表現物とか書くことにします)が悪いことがある、ってことを言ってるのはもちろんわかる。問題は、その悪さというのはどういう種類の悪さかということです。人を殴るのは悪い。これは道徳的に悪い。道徳的に悪いというのがどういうことかというのもこれまたむずかしいのですが、人を殴るのは悪いので、殴るのをやめるべきだというのは当然として、さらに、人を殴るのは避けるべきだ、人を殴った人は罰されるべきだとか、非難されるべきだとか、被害者にあやまるべきだ、場合によっては賠償するべきだ、反省するべきだ(自責の念に苦しむべきだ)、とかまあそういうことを意味しているとここでは解釈することにします。道徳的に悪いというのは、単に「悪さ」という性質がその対象の物や行為に付随している、といっているだけでなく、それが上のような指示・指図・命令や、非難や罰と結びついている、と私は理解しています。

    でも「悪い」からといって、そうした命令や非難や罰と(それほど強くは)結びついていないタイプの「悪い」という意味もあります。

    たとえば、「このワインは悪くなってる」ってときは、ワインがすっぱくなっていることを意味しているかもしれない。「これは悪いワインだ」ってときは値段のわりにおいしくないのかもしれない。 “I am a bad pianist.”って私が言うとき、私はピアノを弾くけど下手だということを意味していて、それを非難されたりピアノ弾いたら非難されたり罰されたりしなければならないっていうことを言おうとしているわけではない。「悪い絵」っていうのも、まあ下手な絵にすぎないかもしれない。罰を与えたり、非難しないであげてください。「あたなって、悪い人……いじわる……」「ワルい子だーっwww」っていうのはむしろモテてる。機能的に悪いっていうのもある。コンピュータのマウスの効きが悪いっていうのは別に罰を与えられたり非難されたりするって話ではないし、もちろんマウスに向かって「お前は悪い奴だ!罰を与えてやるっ!」って言う人はあんまりいない。ブレーキの効きが悪い車運転して人ハネてしまったら当然非難されますが、それはまた別の話。

    っていうわけで、「悪い」っていう言葉を使う場合は、「道徳的に悪い」とか「宗教的に悪い」とか「美的に悪い」「道具として悪い」とかそういう限定をつけてほしいわけですわ。小宮先生の文章はまったくそういうのがないので(実は小宮先生だけでなく、社会学系統の人々の文章にはそういうよく見かけるのですが)、非常に困りが発生しつらみが増加するわけです。

    とりあえず「表象の道徳的な悪さ」とかそういう表現の省略形だと読むことにします。だって道徳的な評価をしようとしているように見えるから(あとで議論するかもしれません)。「政治的な都合の悪さ」「フェミニストにとっての都合の悪さ」の可能性があるけど、おいておきます。

    「悪さ」と「不正」

    悪い、ていうと英語だとbadだろうと思うんですが、英語ではbad(悪い)とwrong(不正な)っていうのはちとちがった概念・観念なんですよね(概念とか観念ってなんであるかは尋ねないでくださいすみませんすみませんよくわかってません)。「よい」 goodはgood – better- best って中学校で習ったように比較できる。bad – worse -worstです。badderとかbaddestとかだめですからね!

    一方、正しい right や 不正な/(道徳的に)まちがっているっていう意味のwrongは、right – righter -rightestとか、wrong – wronger- wrongestとかならない。「よい/悪い」と「正しい/不正な」はちがうのです。(morally) rightや (morally) wrongは、ある(道徳的な)基準を適合しているか否かについての判断なんですね。

    小宮先生が参照しているイートン先生の論文のタイトルは、 What is wrong with (female) nude? で、ヌード絵画の不正さについて考えているのであり、その単なるよしあしではない。

    でもまあこの「よい/悪い」と「正/不正」のちがいっていうのはかなりむずかしいもので、先年おなくなりになった高名な倫理学者の大庭健先生の『善と悪』っていう岩波新書とかでもちゃんと区別されてなかったですね。。でも倫理学者にとってはけっこう大きな区別なので、そういうのないのにはがっかりしました。だからまあ、倫理学者以外の人にはなおさらしょうがないのかもしれない

    悪さはどれくらい悪いのか

    よしあし、善悪っていうのはさらになかなか面倒なんですわ。機能的なよさ悪さ、美的なよさ悪さ、道徳的なよさ悪さ、宗教的〜っていろんな種類があるのと同時に、よし悪し、善悪には程度の問題もあります。さっき「悪い(下手な)ピアニスト」bad pianistの例を出したけど、このbadは道徳的なバッドではなく芸術的あるいは技術的なバッドで、誰かと比較するための形容詞ですわね。下手なピアニストでも弾くのを禁止するべきだってなことにはならないし、上手いピアニストがいなければ下手なピアニストで我慢しなければならないときもある。そういうときは「しょうがないからお前が弾いて」って頼まなきゃならないときもあるでしょう。

    これ、単に比較の問題っていうのでもないのです。問題は、「悪い」が、我慢できる/あるいは中立の水準(仮にレベル0とする)よりも上での高低の問題なのか(+10と+3の比較)、あるいは中立の水準以下(-20)を指すのか、っていうのが曖昧であることですわね。「この表現物は悪い」というとき、それはその表現物が存在しない方がよいということなのか(-20)、それとも期待されるものほどには到達していないということなのか(期待が+20だとしたら+5しかない)、ってことですわ。

    小宮先生の「表象の悪さ」っていう書き方からすると、なんかマイナス表現があると言ってるように見えるんだけど、それでいいのかどうか。道徳的にマイナスの表象ってのがあるとすれば、そういうものは存在しないほうがよく、ポスターが貼ってあったときに(可能なら/他の条件が同じなら)はがした方がいいし、場合によっては焼いた方がいいかもしれない。

    「一応悪い」と「いろいろ考えた上で悪い」

    仮に、小宮先生たちが主張しているのが「ある表象が道徳的に悪い」「道徳的な悪さ」であるとすると、またちがった解釈の問題もあります。それは、「一応悪い」(prima facie bad)(「とりあえず悪い」「他に特段の事情がないならば悪い」)のか「いろいろ考えた上で悪い」(bad all things considered)なのか、ってな区別です。悪い行為があるとします。たとえば、ふつうは人を縄でしばりつけることは悪い。こういうのを倫理学者は、「一応のところ悪い prima faicie bad 」と表現します。prima facieはラテン語で、「表面的には」って意味ですね。

    でも、夜に暴れてベッドから落ちそうな老人が言うことを聞いてくれないときに、ケガを防ぐために拘束することがやむをえないときもあるかもしれません。「一応悪い」ことも、状況によっては許されることがある。この場合、上の話とからめると、縛りつけないでベッドから落ちないのは+20で、縛りつけてベッドから落ちないのは+2ぐらい、ってこともある。しばりつけるのは一応悪いえけどしょうがない、ってこともあるわけです。

    一方、いろいろ考えたうえでやっぱり悪い、ってこともありえます。息子が犯罪を犯すかもしれないから殺す、とかっていうのは、いろんな状況を考えにいれても悪い。実際には殺さないかもしれないし、ちゃんとケアしたり、施設に入れたり、最善のことをすれば、殺す必要はないだろう。こういうふうに言えるなら、すべてのことを考えたうえで、総合的に悪い all things considered、って言えるわけです。

    小宮先生がとりあげているポスターとかの話に関しては、これはわりとはっきりしてますね。仮に、女性をモノ化することが悪いことであるとしても、それはとりあえずは「一応悪い」にすぎない。他に考えるべきことがあるかもしれない。すべてを考えにいれるというのは、たとえばポスターの目的とか、それの社会的な効果や影響とか、ネットの騒動やら、もろもろを考えに入れた上で「悪い」ということなわけですが、小宮先生たちがそこまで考えているとは思えないから[1]つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。、以後は「悪さ」は「一応の悪さ」であると解釈することにします。

    引用符に囲まれているのは意味があるか

    小宮先生の文章で「悪さ」「悪い」を検索すると、ほとんど引用符(「」)に囲まれているわけです。この引用符には意味があるのかどうか。

    上で書いたように、ふつうは「悪い」という言葉には禁止、非難、不承認、非推奨(おすすめできない)とかの意味があると広く信じられているわけです。もちろんその程度はさまざまだけど。素の「よい」「わるい」という言葉には、人の行動を指図しようとする力があるというか、まあ広いいみで推奨や命令を含んでいるわけです。

    これは「よい」「わるい」だけでなく、価値や規範を含んでいる他の言葉についてもいえます。たとえば「下品」とか「野蛮」とかって言葉は、そういう形容されるふるまいとか行動とか表現はやめなさい、もっとちゃんとしなさい、っていう含意がある。

    でも、人の言葉というのはおもしろいもので、ののしり言葉みたいな言葉でさえほめ言葉に使えたりする。「あいつはバッドな奴だ!」っていうのは道徳的に悪いやつだ、つきあうな、って意味なく、かっこいい、すごい奴だ、友達になりたい、ってことだろう。

    それに単に「他のやつらはそう言ってる」っていう意味で「」にくくることもある。「あいつは「ヤクザな奴」だ」っていうのも、「」にくくってしまえば、ヤクザの特徴をもってはいるけどかっこいい、すてきな奴だという意味になるかもしれないし、他のやつはあいつを「ヤクザ」と呼ぶけど俺はよくあいつのいいところをわかっている、ってな意味になるかもしれない。

    こういう「他人はそういうふうに言う」とか、あるいは特別な意味をこめて「」にいれるやつを倫理学者は「引用符用法」って呼んだりします。もともとの価値的な意味を失なってるんですね。まあ現代思想とかでも「」つけて特別な意味につかってて混乱するわけですが、あれですわ。

    小宮先生がある種の表象とか表現の「悪さ」、表現が「悪い」ということについて、多くの場合「」をつけているのを見ると、私は小宮先生はその表象を本気で悪いと思っているのか、悪さがあると思っているのか混乱するわけです。なんで「」をつける必要があるのか。それはフェミニストが「悪い」って言ってるだけなのか、小宮先生もそれが悪いと思っているのか、そしてわれわれにそれが悪いものであることを説得しようとしているのかよくわからないのです。

    さらに

    さらに、小宮先生のように「Aは悪い」という表現でなく、「Aには悪さがある」みたいな表現を使うと、「悪さ」という独特の性質があるように感じられるわけですが、これはかなりあやしくて、われわれの思考を混乱させます。

    プラトン先生なんかは、この世にあるものごとやおこないの「よさ」を説明するのに、それはイデア界という奇っ怪な世界に「よさそのもの」が存在していて、この世にあるよいものやよいおこないは、そのイデア的な「よさそのもの」を分有している/あずかっているのだ、みたいなことを言うわけですが、これは奇っ怪な発想だと思います(議論はしないけど)。

    「A(たとえばある表象)の悪さを考えよう」っていわれると、「Aには悪さという特別な性質があるのだなあ」とか思ちゃうけど、実はたんに、我々が「Aは悪い」って思ってるだけかもしれない。そうなるとPさんとQさんがAについて悪さがあるとかないとか、そういう争いになるのかもしれない。

    まあここまで来ると本当に面倒なメタ倫理学っていう面倒でテクニカルな分野の話になってしまい、たとえば佐藤岳詩先生の『メタ倫理学入門』とか読んでもらわないとならなくなるわけですが、そんな面倒なことをしなくても、とりあえず「Aの悪さを考えよう」とかっていう混乱しやすい表現をやめて、「なぜ我々はAを悪いと考えるか考えましょう」って表現してくれたら回避できるはずです。

    すると「悪さ」について私はどう表現してほしかったのか

    けっきょく、小宮先生の「悪さ」とかっていう表現について、そのまわりで「読みにくみ」みたいなのが存在していて、私のまわりで困りが発生しているわけなので、いっそのこと「読みにくみ」「困り」というもの(実在?)や性質が存在しているかのような表現はやめて、「私は小宮先生の文章が読みにくいと感じる」「私は小宮先生の文章が読みにくくてこまっています」とかそういうふうに表現すればいいわけですね。

    同じように、「ある表現が道徳的に悪いと考えられるべきなのはなぜでしょうか」とか「ある表現が道徳的に不正だと我々が判断すべきなのはどのような場合でしょうか」と表現してくれればいいわけです。でもこういうのは私の読者としての好みだからそんな強くは要求できない。できればそういうふうに表現してほしかったなあ、ぐらいです。

    でも、もし私と同じようにつらみや困りが大量に発生してしまった人々がいるなら、それはこうしたなにかを名詞の形であらわす表現自体に問題がある、ってことを理解してもらえれば、このエントリは成功が成立しているという理解が存在することになり、私にもうれしみが発生します。

    長くてつかれました。ここまで読んだ人はごくろうさま。すぐさま忘れてください。

    References

    1 つまり、ポスターの宣伝効果その他の文脈を総合的に見て悪いと主張しようとしているわけではない、と解釈している。

    宇崎ちゃん問題 (4) 「モノ化」は「客体化」でもやむをえない

    ちなみにここで小宮先生にはあんまり責任がない「客体化」もむずかしいって話もしとかないとならんかな。

    牟田先生が「客体化」って使ってんのに私は「モノ化」にして、小宮先生も「客体化」にしてて、まあどうせ専門用語だからobjectificationっていう英語に対応する訳語だってわかってりゃそれでいいでんですが、私「モノ化じゃなくて客体化だろ!」「モノ化という訳語はだめではないか」って言われちゃってるので、ちょっとだけいいわけ。

    これ実際カタカナ使っていいんだったらオブジェクト化でもよかったし、あるいはさらにさかのぼって「物象化」「物件化」とかそういう訳語も可能だったかもしれないわけです。十数年前に論文モドキ書いたときはかなり悩んだ末に「モノ化」にしたんですが、今思えばもう「モノ扱い」でもよかったくらいだと思ってます。その方がわかりやすいでしょ。日常的だし。

    あの論文ではとにかくヌスバウム先生の分析・解釈にしたがうつもりで、ヌスバウム先生やそれ以前のフェミニスト学者の先生たちは、objectificationというのは人をモノ(thing)として扱うことだ、reify (ラテン語のres「モノ」にする[1]reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。)でありthingify(そんな言葉は辞書にはないけどマッキノン先生が使ってる)、って言ってるはずなんで、モノ化にしたわけです。

    実際、ヌスバウム先生は「道具化」「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」ってのをあげるんだけど、これらは全部、自発的・能動的・自律的etc.な「人」と対比される上での「モノ」の特徴なのよね。モノだから、道具にするし、自律しないし、自分では動かないし、同じように作られてたらどれでも同じだし、壊してもいいし、自分のものにできるし、感情とか考えなくていい。

    これを「客体化」って訳してしまうと、客体と対になるのは「人」ではなく「主体」になるんだけど、客体であるってことだけからは「道具性」「自律性の否定」「不活性」「交換可能性」「毀損可能性」「所有性」「主観性の否定」も出てこない。

    そしてそれだけじゃない。太郎は花子を愛する、っていう文では太郎が主体で花子は客体ですが、だからといって太郎が意識不明の花子さんとセックスしてよいわけではない。太郎は花子にキスしたってとき、やっぱり花子はキスする客体(対象)だけど、花子の感情を無視していいわけじゃないし、「キスされる」からといって主体性がなにもない、ってわけでもない。実は花子さんがキスされることを期待していることもあるだろう。そしてキス「する」んじゃなくてキス「されたい」って思うことさえあるだろう。愛されたりキスされたりする対象・客体になりたい、っていう欲求は、男女ともにときどきあるんじゃないっすかね。そういう人を愛したりキスしたりする対象にするのはまったく問題がないどころか、ピューピュー、モテるねー、やけるねー、おしあわせに、ってなものではないですか。

    だから「モノ化」の方が適切だと私は判断したわけです。

    まあもともとのマッキノン先生以下さまざまなフェミニスト学者の先生たちは、オブジェクトという言葉を多義的につかってるので「客体化」でもまあしょうがないのではあるのですが(実はmen fuck womenという文での目的語の意味もある)、以上のような次第で私は「モノ化」の方が適切であると判断したわけでありまーす。

    References

    1 reifyは普通は「具体化する」なんですが、まあマッキノン先生も難しい人なのです。

    宇崎ちゃん問題 (3) 「表象」はわかりにくい

    正直小宮先生の書くものはある種の魅力があって、それが多くの人を惹きつけるんだと思うんですわ。私の文章とかぜんぜんだめよね。なんか華がないというか、もってまわってわかりにくいし。あはは。

    さて、私はそもそも「表象」がよくわかりません。いきなりタイトルで「性的な女性表象」ってガツーンとやられて、「あ、難しい文章だ!」って思って身構えてしまう。だって「表象」なんて私らめったに使わないじゃないですか。ショーペンハウアー先生に『意志と表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung っていう有名な本があるんだけど、あれの「表象」っていったいなんだか私いまだにわかってないです。あの本の前半はとてもむずかしい。カントわかってないと読めないんすよね。(ちなみになかば以降は楽しい)

    「表象」Vorstellungとか英語でrepresentationとかっていうのは、哲学で使われるときには、非常に単純にいえば、外界にあるものを我々が感覚器官(典型的には目、でも感覚器官は他もありますね)を通して認識だかなんだかして、頭のなかに浮べたあれです。頭の外にある(かもしれない)外的な事物、それの印象とかイメージとか対応する観念(アイディア idea)、そういう頭のなかにあるのが表象。でも小宮先生のはこの意味ではない。

    2000年ごろから文学とか美学とか映画学とかマスメディア文化論とか、そっちの大学関係の方面で「表象」っていうのがよく使われるようになってるみたいで「表象文化学会」とかそういうのもありますね。こういうのでいわれる「表象」っていうのは、もっとふつうの言葉でいえば「表現」とかなんだと思う。「文学」っていうと文字で書いてる小説とか戯曲とかになるけど、アニメとかマンガとかだと「文学」ってのとはちょっと違うし。絵画とか映画とか、まあそういう人間が作り出したイメージとか作品とかを「表象」って呼ぶんだと思う。しかしこの意味では、まだ辞書にもなかなか載ってない感じですよね。

    それにそもそも、この「表象」っていう言葉をどう使うのかっていうのは、そっち方面の学者先生たちのあいだでもさほど合意がないんじゃないかと思う。たとえば私のbooklogから「表象」ていう言葉をタイトルに使ってる本をあげてみると、「特集=ジェンダー 表象と暴力」「視覚表象と音楽」「 “悪女”と“良女”の身体表象」「無垢の力—「少年」表象文学論」「少女マンガジェンダー表象論」「セクシュアリティの表象と身体」「オトメの行方—近代女性の表象と闘い」「イーストウッドの男たち—マスキュリニティの表象分析」「欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象」「ひとはなぜ乳房を求めるのか: 危機の時代のジェンダー表象」とかになってしまう。

    どれも難しそうでかっこよさげなのは置いといて、「表現」におきかえられるようなものだけではないですね。「イメージ」ぐらいが妥当なんだろうか。

    小宮先生の「女性表象」は「女性のイメージ」(頭のなかにあるもの)なのか、「女性を描いた作品」(頭の外にあるもの)なのかあんまりはっきりしない。がんばって読むと、おそらく後者の、作品、表現されたもの、だと思います。「表象は必ず「誰かが作る」ものだ」って言ってますからね。我々の頭のなかにある女性のイメージは、必ずしも誰かが作るものだとはいえないように思う。私の目の前にあるウィスキーの瓶の私の頭のなかにあるイメージが、「私が作ったもの」かというとちょっと自信がないし。

    でもこんな難しい言葉、学者先生なら一言ぐらい説明してくれたっていいじゃないかと私は思うわけです。マンガやポスターの「描かれたもの」「表現物」を「表象」って呼びますよ、ぐらいなんで説明してくれないんですか、ぐらいのこと思ってしまうわけです。んな、最初っから「表象」って言われたら、われわれ一般読者は腰がひけちゃうじゃないですか。すごく高度っぽいからもう話聞くしかなくなっちゃうし。でもそんなにはっきりした言葉じゃないと思うのです。「表象」で苦しんだみなさん、そういうの要求してかまわんのです。

    宇崎ちゃん問題 (2) 単なるいいわけ

    前の「宇崎ちゃん」に関するエントリ書いたあと、すぐに続きを書くつもりだったのですが、当の『現代ビジネス』からそれについての原稿書いてみないかというお誘い受けてしまって、考えてることを書いたりして、時間がたってしまいました。ちなみにタイトルとか見出しとかは編集者の方につけてもらい、細かい表現なんかも草稿見てもらった数人の先生と編集者先生に直してもらいました。名前は出しませんが感謝感謝あめあられ。

    前のエントリについて言い訳を追加しておくと、牟田先生のあの文章が詭弁だとか誤謬推理だとかっていうことを書こうとしてのではなかったのです。むしろ、他人の文章を読んでそれが詭弁だとか誤謬推理だとか判断するのがとても難しい、ってことを書きたかった。省略三段論法みたいなやつは日常生活では非常に頻繁につかわれる論証の形で、三段論法みたいに前提を明示した論証なんてめったに見ることがない。そして、どういう前提が隠されているかっていうのは、読者がいろいろ考えてみないとならんわけで、それは対象となっている論者が考えている前提とはまったくちがったものかもしれない。最終的には「どういう前提なんですか」って聞いてみないとわからんと思う。そして、そんなふうに前提を明示してしまえば、形式論理的な誤謬推理をすることはめったにないし、詭弁の余地もものすごく狭くなる。まあ、結果的にそもそもの基本的な前提について同意できないってことがはっきりするということになるかもしれません。たとえば「ポスターに大きな胸を描くことは女性差別だ」っていう前提について、AさんとBさんが同意しないってことは十分にありえるわけです。

    まあそんなことを考えているうちに、知らん学会で知りもしないことを発表したり、私生活でもちょっと忙しくなったりして時間過ぎてるうちに、これまた同じメディアに小宮友根先生の「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか」っていう論説が発表されてけっこうもりあがってたみたいですね。忙しくてキャッチアップするのけっこうたいへんでした。なんかみんな飽きてるのはわかってるけど、ちょっとだけコメントしないとならんかな、とか。

    実は小宮先生がそれ以前に『世界』に書いた「女性表象はなぜフェミニズムの問題になるのか」っていうのはずいぶん前に紙で読んでて、私が『現代ビジネス』に書いた文章でも言及してコメントしようと思ってたんだけど、一般向けの文章としては煩雑になるかもしれないし、オンラインのものでもないからカットしたんですわ。特に、私は「累積的経験」という表現自体は使ってないけど、同じような内容になったところには先生のクレジットつけたかった。原稿書きあげて数日してからオンラインになって「あらー」って思ったり。ははは。

    小宮先生の文章を読んでいると、勉強にはなるんだけど「言葉」について考えこまされることが多くて、そうしたつらつらを書いてみたいと思います。詭弁だとか誤謬推理だと言いたいのではなく、また批判というのでもなく、むしろ文章を読むというのが私にとってどれくらい難しいことか、っていうのを説明してみたいのです。私は本当に文章を読むのが下手なのよね。そして、そういう悩みをもっている人は私の他にもいるんじゃないかと思う。そうした人々、特に学生様とかに、私も読めないので(それほど)心配しなくていい、みたいなことを示して、悩みを共有したいというわけです。

    あら、言いわけと前置きだけで長くなってしまった。

    詭弁と誤謬推理に気をつけよう(1) 宇崎ちゃんポスターの場合 (宇崎ちゃん問題(1))

    『宇崎ちゃんは遊びたい』とコラボした献血ポスターについて、フェミニストの牟田和恵先生が、各自治体のガイドラインを示して、ポスターはガイドラインに反した性差別であると主張しています。それに対してはすでによい論評がいくつか出ているので [1]「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」 私が書くべきことはほとんどないのですが、一つ、大学での教育的な点から書いておきたいことがあります。これは続きものになるかもしれない。

    ゲンダイの文章は改ページが多くて見通しが悪いので、冒頭から、途中の、ガイドラインに反しているのは明らかだと主張しているところまで引用しましょう。

    日本赤十字社が献血を呼びかけるためにweb漫画とコラボで作成したポスターがネット上で論議を呼んだ。今回使われたのは写真の通り、幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調するもの。「宇崎ちゃん」という名のキャラらしい。

    日本事情に詳しい米国人男性が英語で、過度に性的な絵で、赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信(10月14日)、日ごろから女性差別問題について活発な発信をしている女性弁護士がそれに同意し「環境型セクハラ」と批判を続けたところ、「表現の自由だ、表現を規制するのか」「自分の基準で勝手なことを言うな」「たかが絵なのに文句を言うな」等々の、ほとんど罵倒と言ってもよいようなものも含めて、非常に多くの反批判を受けた。

    私自身もこの件で複数回ツイートしたが、いずれもリツイートや「いいね」を多数いただいたものの、上記と同趣旨のリプライも山ほど浴びた。

    改めて、何が問題なのか

    結論から言えばこの件は、議論する以前に答えは出ている。

    女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。

    たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。

    男女共同参画社会基本法(1999年制定)の下で策定された「男女平等参画基本計画」(2000年)でも「メディアにおける女性の人権の尊重」が盛り込まれ、2003年には内閣府の「男女共同参画の視点からの公的広報の手引き」でこれを「地方公共団体、民間のメディア等に広く周知するとともに、これを自主的に規範として取り入れることを奨励する」としている。

    同じ趣旨で各地方自治体でもガイドラインを策定しているが、たとえば、東京都港区は、

    「目を引くためだけに『笑顔の女性』を登場させたり、体の一部を強調することは、意味がないばかりなく、『性の商品化』につながります」「(性の商品化とは)体の一部を強調されたり、不自然なポーズをとらされることで、女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われること」(東京都港区「刊行物作成ガイドライン「ちょっと待った! そのイラスト」、2003年)

    としている。

    最近のものでは埼玉県が、自治体のPR動画やイベントポスターなどで過度に性的な「萌えキャラ」等が問題となっている事態を踏まえて、女性を性的対象物として描くことに注意喚起し、「人権への理解を深め、男女共同参画の視点に立った表現をすることが一層重要となっています」(埼玉県「男女共同参画の視点から考える表現ガイド」(2018年))としている。

    今回のポスターはこうしたガイドライン等に抵触することは明らかだろう。

    「明らかだ」っていうんですが、本当に明らかでしょうか。私こういうタイプの文章見ると混乱してしまうんですよね。

    牟田先生の上の引用での主張を、簡単にまとめると、「宇崎ちゃんは幼い顔でおっぱいが大きく描かれている」「宇崎ちゃんは過度に性的だと米国人男性が言った」「国連はメディアのジェンダーステレオタイプの是正を求めている」「男女平等参画基本計画ではメディアにおける女性の人権の尊重を求めている」「自治体がいろいろガイドラインを定めている」ぐらいですよね。最後の埼玉のを使うと

    a. 埼玉のガイドラインは女性を性的対象物として描くことに注意喚起している
    c. それゆえ今回のポスターは埼玉のガイドラインに抵触している

    とかって形になっているわけです。なんかおかしいですよね。大学の授業なんかでは、論証というのは三段論法が基本だ、みたいな話を聞いていると思います。

    a. 人間は死ぬ
    b. ソクラテスは人間である
    c. それゆえソクラテスは死ぬ

    こういう形ですよね。実は上の牟田先生のやつは、省略三段論法とか隠された三段論法といわれやつで[2]省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。、本来は、

    a. 埼玉のガイドラインでは女性を性的対象物として描くことは不適切だ[3]実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
    b. 宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている
    c. したがって、埼玉のガイドラインでは宇崎ちゃんポスターは不適切だ

    という形になっているはずなのです。牟田先生が「明らかだろう」っていってるのはぜんぜん明らかではなく、「宇崎ちゃんポスターは女性を性的対象物として描いている」という牟田先生自身の論点や主張が明示されておらず、暗黙に了解されているにすぎない[4] … Continue reading。そしてこれこそ本当の論点のはずなのです(性的対象として描くことが不適切なこと、あるいは悪いことであることを認めるとして、ね)。

    国連の「女性の過度な性的描写」の方を見ても同様ですね。

    a. 国連は女性の過度な性的描写には問題があると主張している
    b. 宇崎ちゃんポスターは過度な性的描写である
    c. 国連は宇崎ちゃんポスターには問題があると主張する(だろう)

    という形になるはずなのに、宇崎ちゃんが過度な性的描写であるという指摘がない。牟田先生は、あちこちのガイドラインが過度な性的描写には注意をうながしている、ということを列挙しているにすぎず、そのガイドラインの根拠についてもはっきりしない[5]そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。。宇崎ちゃんは過度に性的なのだろうか。

    これ、注意深く読むと、冒頭で「米国人男性が(宇崎ちゃんポスターは)過度に性的な絵で赤十字のポスターとしてふさわしくない、とツイッターで発信、女性弁護士がそれに同意」ということが言われていますが、牟田先生自身は「ポスターは過度に性的な絵だ」ということを主張・立証していません。

    もしかしたら

    a. 米国人男性と女性弁護士が共に言うことはなんでも正しい
    b. 米国人男性と女性弁護士は共に「ポスターは過度に性的だ」と言った
    c. したがって「ポスターは過度に性的だ」は正しい = ポスターは過度に性的である

    とかそういう三段論法も隠されているのかもしれない。こうなるとすごいっしょ。まあ隠された三段論法の隠された前提にどんなものがはいっているかは推測するか質問するしかない。

    『自由論』や『功利主義論』で有名なJ. S. ミル先生は、論理学者でもあって(というか、こっちの方が本職で重要)、『論理学体系』という非常に立派で重要な本を書いてます。いま、論理学っていうとA → B、A、したがってB、とかそういう記号でやるやつを連想する人が多いと思うんですが、ミル先生の「論理学」はそういうのも含んでますが、科学的推論というのはどのようにしてなされるべきか、とかそういうもっと広い範囲を扱った本ですわ。まあいまでいう科学哲学みたいなのも含んでる。ていうかまんま科学哲学。

    この本の第5巻がまる1冊分「誤謬推理」(Fallacy、虚偽、詭弁、誤謬的思考)[6] … Continue readingにあてられていて、ここはちょっと難しいけどとてもおもしろい。いろんなタイプの誤謬推理が分類されて、大量の哲学者やら科学者やら迷信やらがその実例としてあげられてます。そのうち新しい翻訳が出るらしいので楽しみにしておいてください。

    そのなかで、一般の議論では三段論法ははっきり明示されることはごくすくないということも指摘されてます。日常的な議論でも科学的な議論でも、三段論法みたいなのを明示する必要はさほどないんですわ。たいていの場合には二つの前提のどっちかは明白だし、いちいち書いてたら煩雑だし。そもそも三段論法というのは新しい知識を生みだすものではないのです。ソクラテスが人間だからいずれ死ぬのはだれでもわかっていて、わざわざ三段論法の形にする必要はない。

    ミル先生に言わせると、

    三段論法の規則というものは、人に自分の結論を主張しつづけるために弁護しなければならないこと全体を自覚させるための規則である。人は、ほとんどどんなときでも、三段論法に勝手に偽の前提を入れ込んで、自分の論証を妥当なものにすることができる。したがって、ある論証が妥当でない三段論法を含んでいるということをはっきり確かめることが可能な場合はほとんどない。しかし、こうしたことは三段論法の規則の価値を失わせるものではない。推論する人が、どのような前提を主張する用意があるかをはっきり選択させられるのは、この三段論法の規則によるのだからである。

    つまり、「三段論法が基本だ!」みたいなのは、「いつも三段論法を明示しろ!」とかそういう要求ではない。むしろ、自分がなにかを説得しよう、立証しよう、あるいは主張しようとするときに、自分と他人のあいだの前提の違いを意識して、自分がなにを言わなければならないかを自覚し、また他人にへんな説得されたり騙されたりしそうなときに、相手からなにを聞いておかねばならないかを意識するための規則なのです。

    こういうのを見ると、わかりにくい文章やうたがわしい文章を読むときに、その文章の主張をリストアップしてみるのはよいことですよね。そしてうたがわしい文言があったら、それを主張するための三段論法をいくつか書きだしてみる。著者は(暗黙にせよ)その結論の前提をきちんと説明してくれているだろうか、そしてまた、その明示的な、あるいは隠された前提にあなたは同意できるだろうか。

    私が見るところでは、牟田先生は宇崎ちゃんが過度に性的であることを立証しなければならなかった、あるいは、少なくとも自分で宇崎ちゃんは過度に性的であるということを主張しなければならなかった。その場合、「見ればわかる」「私の主観だけどみんな共有できるはずだ」という形でもかまわないかもしれないけど、一言主張するべきだったのです。もちろんそうすると、性的であるとはどういうことかとか、「過度に」性的であるとはどういうことかを説明してほしくなりますよね。宇崎ちゃんは魅力的なおっぱいのでかい女子なので「性的」であるとしても「過度に」性的であるっていうのは過度に魅力的であるのか過度におっぱいがでかいのか、とかそういう話になります。

    a. おおきなおっぱいは過度に性的である
    b. 宇崎ちゃんはおっぱいが大きい
    c. それゆえ宇崎ちゃんは過度に性的である

    まあこういうことになるのかもしれませんが、この場合多くのひとはbは認めると思うけどaは認めないと思う。私は同意しません。同意しませんよ!ははは。するとまた別の論証が必要になるわけです。

    とりあえず牟田先生は「幼い表情で、巨大といってもいいような乳房を強調」している描写は過度に性的だとか女性を性的対象物として描いているとかそういうことをもっときちんと言ってくれればよかったのだろうと思いますが、あれが過度に性的だとか性的対象物だとかというのはかなり議論の余地があるように見えて、「明らかだ」というほどではないように思います。だからこれを論じてもらわなければならない[7] … Continue reading

    ちなみに本当の論点とはちがう論点を「論証」してしまうのも詭弁・誤謬推理の一つのタイプで、「論点相違(の誤謬推理)」Ignoratio Elenchiという立派な名前があり、また「過度に性的なのはいかん」という言明を「性的なのはいかん」のように「過度に」という限定があり、それを論証しなければならないことを忘れてしまうのには「限定あり言明から限定なし言明への誤謬推理」Secundum quidという名前がついてます。われわれが非常によくやる詭弁と詭弁的思考なので、ちゃんと昔から名前があるわけです。

    References

    1 「「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンの絵は過度に性的なのか?」「宇崎ちゃんを採用した赤十字は現実的」
    2 省略三段論法自体は特に詭弁でも誤謬推理でもないです。
    3 実際の文言では「注意喚起」しているにすぎません。
    4 この「性的対象物」が難しいのは、たいていの男女は性的対象物というか鑑賞物になりうるからです。たとえば同時に献血コラボしていたと思われる乃木坂ははっきり鑑賞物。あれの方がずっと性的対象だろう、とか言いたくなってしまう。性的対象にならないように、メイクで全員ゾンビにしてしまえばいいのに。ははは。しかしそれだと乃木坂である必要はないことになってしまうだろうか、それとも乃木坂ならゾンビでも性的対象になりアイキャッチに使えるだろうか。他にもたとえばスケートの羽生選手などのスポーツ選手もとてもセクシーだと思うわけで。性的対象にしてますね!先生わかってますよ!みたいな。ははは。
    5 そもそも献血ポスターと自治体のガイドラインの関係もよくわからない。 https://togetter.com/li/1425063 参照。
    6 正しくない推論にはまってしまうと誤謬推理・誤謬的思考と呼ばれ、それを意図的にあるいは意図せずして説得に使うと虚偽や詭弁と呼ばれる、ぐらいの理解でよいと思います。
    7 つまり、どんなときに過度に性的だと判断されるのかとか、どんなときに性的対象物として描いていることになるのかというのをざっくりとでも説明し、可能ならば他のOKな表現と比較したりする必要がある。ひょっとしたら、なぜ性的対象物として描くことが不適切であるのかも説明してもらわなければならない。こういうのは手間がかかるので誰もがいつでもできるわけではなく、また今回牟田先生にとってそこまで必要なのかどうかはわからないわけだけど、説得や議論というのはそうしたものだし、世の中はそうしたお互いの努力によって進歩するのだと思います。「議論するまでもなく結論が出ている」のようなものではないと思う。

    セックス哲学史読書案内:エッチが大好きローマ人

    当時のエッチな絵を見ながら、オウィディウス先生その他のエッチな文章を大きな文字で読みましょう、みたいな。まあ図書館にあったら眺めたらいいぐらいの本。もうすこしまじめに読みたい人は下。

    上は火山の噴火で埋もれたポンペイの街の発掘が進むと、いろいろエッチな絵や娼館の落書きが出てきたので紹介します、な本。

    ↑グッドな本でした。

    この本、生活一般についていろいろ述べられていてとても楽しい。

    法制度とか細かいこと書いてて私には途中まで退屈だけど、詩人や哲学者が登場する第6章や第8章は勉強になる。

    いろいろ読んでると、人間のやってることはどこでもいつでもたいして変わらない、とか言いたくなるんだけどどうだろう。

    『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (11) 個人主義ってなんだろう

    んで最終の第8章、「現代日本の恋愛」ですが、ここは私ほとんどわからないです。村上春樹の『1Q84』、土居健郎の『甘えの構造』、「キャラ萌え」、西野カナ、椎名林檎といろんな論者や作品や風俗やらが出てくるのですが、それらがどうむすびついているのか、私のあたまのなかでうまく像を結ばない。とくに「キャラ萌え」のあたりは、それが恋愛とどういうふうに結びついているのかさえわからない。

    その原因はわりとはっきりしていて、「個人主義」とか「自我の確立」とかっていう言葉が私にはどういうことだかはっきりしてないからですね。個人主義ってなんだろう?自我の確立とはなんだろう。実はまちがってKindle版も入手してしまったので(あ、逆だ。Kindle版もってたのにまちがって紙版も入手してしまった)ので「個人主義」や「自我」で検索かけてみたりもしたのですが、あんまりはっきりしない。

    この「個人主義」とかっていう言葉は、言葉は文学系の人はわりとよく使うのですが、哲学系の人々はさほど使わないし、使うとしてもわりと狭い文脈で使うのでまあ我慢できるんですが、恋愛というとてつもなくでかくて曖昧な言葉と、個人主義という言葉がいっしょにつかわれるともうだめ。

    まあ、日常的な意味で「自我の確立」っていうか「はっきりとした自己意識をもつという」ことはわからんでもないのです。たとえば「リンダ、困っちゃうナ!」とか「ジェームズブラウンはそんなのが好きだと思うか?」とか自分の名前を一人称にしたりする人々がいると、「この人たちは自分と他人の区別がついてないのではないか」みたいに不安になったりするわけです。「このひとは自我が確立してないなあ」みたいなの感じたりもする。でも鈴木先生が言いたい「自我の確立」ってその程度の話じゃないですよね。それが具体的にどういうことかっていうのを説明してもらってない気がする。

    「個人とは……サングリーによれば、キリスト教的伝統と、中世宮廷恋愛によって生まれた制度です」(p. 317)とかっていうの、これは定義ではないと思う。個人というものは、歴史的に形成されてきました、ならわかるような気もしないでもないけど、我々が個人と呼ぶものが制度なのか(ありそうにない)、「個人」という発想、個人と呼ぶものがあると信じているのが制度なのか(こっちかなあ)もわからない[1] … Continue reading。「個人「主義」」になると、個人をどう考えたりするとその主義になるのか、もわからない。

    個人主義と対立する発想がなんであるのかもわからんのですよね。「集団主義」かなあ。まあ意地悪せずに、もうすこし素直に読むと、鈴木先生は、日本は同調圧力の強い文化(集団主義的?)で、それはけっきょくキリスト教やヨーロッパ的恋愛をちゃんと理解してないからだ、ってな話になりますが、しかしまあいまどきヨーロッパ人だってキリスト教なんかよくわからんと思うし、そんなすごい恋愛してるわけではないんではないかと思う。まあ個人の欲求や要求を主張する強さや頻度みたいなのにはたしかに文化的な差があるかもしれないけど、それってそんなにキリスト教や恋愛と関係あるんだろうか。キリスト教が個人主義的とかっていうのもなんかおかしくて、隣人愛みたいなのは義務だし、地獄に落ちそうな連中がいたら説教して救ってやるか、あるいは邪教にそまってたら火炙りとかにして救ってやる、っていう発想もありそうだし、「俺は俺、他人は他人だからほうっておこう」みたいなのはあんまりキリスト教的ではない気がする。そこらへんもどうなってるんだろうか。

    まあ「個人主義」を好意的にとって、「自分を自分だと意識して、自分で判断して自分で行動するのだ!主義」ぐらいに解釈するとして、その場合、そもそも「日本の文化では同調圧力が強い」みたいなのっていうのはどうでもいい話ではないか。いくら同調圧力が強かろうが好き勝手にやるのが「個人主義」ってのだろうから、同調圧力が強いってのは個人主義者にとってはどうでもいい話で、むしろ同調圧力が強い方が「俺は俺だ!」って思いやすいから同調圧力強い方が個人主義的社会だ、むしろ「同調しろ」とか要求してこない社会は他人に関与しないようにする社会で、それはそこに住んでる人々が人の意見を気にする人々だからだろう、とかっていう詭弁を思いついたけどどうだろう。

    19世紀なかばにキェルケゴールなんかは「現代人は自己をもっていない」「自己をもってる人間はごく一握りである」みたいな話してたんだけど、あれから170年ぐらいたってヨーロッパ人はみんな自己をもっているのだろうか。キェルケゴールさんだったら「自己をもつということはそんな簡単なことではなく、キリスト教世界に生まれたから、ヨーロッパに生まれたから自己をもつなどといったものではない、ましてや恋愛文学を読んだり恋愛したりすることによって自己をもつことになるなどということはありえない、そんな奴らは自己をもっていると思いこんでいるだけなのだ」とか言いそうだ、とか考えはじめちゃうと難しくてよくわからない。まあ文化論をするまえに、まずは「自我を確立する」とか「自己をもつ」とかっていうのいったいどういうことであるのかとか、現実世界の話をするなら、どれくらいのひとがそういう発達課題みたいなのを達成しているか考えてみたほうがいいのではないかとか思ったりします。


    ていうわけで、いったんおしまい。最終章は私はぜんぜんわからなかったのですが、全体としては話題が豊富な本で、そのままそういうものだと信じてしまうと問題はあるかもしれませんが、こんなふうにいろいろつっこみ入れながら読むと楽しい本だと思います。紹介されている作品も並べて読みたい。とくに、『饗宴』と『恋愛指南』『宮廷風恋愛の技法』あたりは、さほど読みにくくはないし、紹介されているのとはちがった印象になるはずなので、鈴木先生のとあわせてぜひ読んでほしいです。私も『青い花』は入手したし、スタンダールの古典は読み直したい(ぜんぜんおぼえてない)。プルーストも死にそうになったらベッドで読もう。


    (ツイッタでの追記)

    • 個人主義っていうのが、他人がどう言おうが自分の信じることをするっていうことなら、同調圧力があろうがなんだろうが好きなことをすればいいので社会の同調圧力があろうがなかろうが、どうでもいい話。 一方、個人主義ってのが他人のことにはかまいません、口出ししませんってことなら、やっぱり他の人々が同調圧力をかけてこようがそれに口出しする必要はない。というわけで他人様たちの同調圧力とやらは個人主義なるものとはなにも関係ない。
    • 個人主義というのが、自分は自由であり、よくも悪くも自分がやることは自分で責任をとるのだ、ってのならこれまたそうすりゃいいだけの話で、社会が同調圧力のつよい社会だろうがなんだろうが自分で好きなことをして自分で責任をとればいい。責任をとるというのがどういうことかはさておいて。日本社会や日本の他人様がなんであろうが関係ないわけで、まあ早い話が、同調圧力がどうのこうの、と言いたくなるひとはあんまり個人主義的ではない、ということを報告しているだけではないか。
    • 漱石先生の『それから』とか、それの森田監督による名作映画とかていうのは十分個人主義的なんちゃうかな。ああいうのに個人主義が描かれていなければ、いったい個人主義とはなんであるのか。主人公はちゃんと勝手にエッチなことをして俗物から非難されているではないか。
    • ありそうなのは、「そうじゃなくて個人主義というのは他人の人格を個人として尊重することなのだ、他人をそれぞれ別個のものと見て、それぞれの意思や自由を尊重することなのだ」というのなら、話はだいたいわかってくるんだけど、この「他人を尊重する」っていう側面があんまり強調されてない。なぜかというと、自分以外を(というか自分自身と恋愛相手以外を)「同調圧力を加えてくる社会」みたいな抽象的な存在としてとらえているからだ。あるいは「日本人」「ヨーロッパ人」とかそういうくくりで見てるから。 これは人々をぜんぜん別個のものとみてなくて、ぜんぜんそういう意味での個人主義的ではない。そうした他人を個人として尊重するという意味での個人主義ならば、あれもこれもだいたいおなじだ、みたいなごくおおざっぱな話はしにくくなるっていうこと。
    • そういうわけで、個人主義のところは許さん。
    • でもまあ漱石先生的な、「われわれの文明開花はうわすべりなんちゃうか」「本当のところをとらえてないんちゃうか」「本当はもっとちがうもんじゃないのか」みたいな神経症的懐疑みたいなはわからんでもないし、まあ西洋哲学や文学をあつかう人々にかけられた呪いみたいに残ってるわけよね。「いやー、漱石先生、そういう懐疑って西洋近代的で、十分合格点っす。あっというまに習得しましたね。えらい!」とか誰か言ってあげる人がいればよかったのに。

    References

    1 藤田尚志先生の文章をちょっと読んだときに、(それ以上分割できないという意味での)個人じゃなくて(一人の人間はさらに部分に分けられるので)分人、とかっていうへんな話が出てきましたが、それとなんか関係ありそうだけどよくわからない。