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よっぱらいセックス問題いったんまとめ

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よっぱらってセックスするのが好きな人々がいるようですが、危険なのでやめましょう。

 

「性暴力の原因は性欲ではなく支配欲」は単純すぎてよくない考え方です

一部のフェミニスト学者先生たちが主張する「性暴力の原因は性欲ではなく支配欲」は単純すぎてあまりよくない考え方です。過去記事から一部だけ抜きだしました。

セックスの哲学

牟田先生たちの科研費報告書を読もう(8) 牟田論文誤読のおわび

去年の今ごろ牟田科研費についてシリーズ書いてしまって、なぜか最近になってはてなブログなどで有名な法華狼先生からお叱りを受けているのですが、実際わたし牟田先生の論文をまったく誤読してました。ほんとにお恥かしいのでどう誤読してたのか書いて反省します。

牟田先生の論文の第3節「性暴力として買春をとらえる」の部分で台湾台北の元公娼館の文萌楼の話が出てきて、そこでなくなった元公娼の白蘭さんの話があって、もとのエントリーでそこの部分を読んだときに気分悪くなってしまっておかしなことを書いてしまった。そもそも私この部分読みまちがえてました。

法華狼先生がこのブログを紹介してくれました。 → xiaoTANYAのブログ「文萌樓 かつて公娼のいた場所」
中国語で読めませんが、オンライン新聞記事もある → 自由時報「公娼白蘭頭七追思會 恐是文萌樓最後一場活動」

牟田先生が慰安婦とか公娼とかの話をしているので、わたしてっきり白蘭さん(「バイラン」だと思う)が働いていたのは、台湾が帝国下の植民地であった戦中か戦後はやい時期だと勝手に思いこんでいたのですが、白蘭さんは亡くなった2017年にまだ55才だということなので、1962年ぐらいのうまれで、公娼館にいたのは22才だか23才ぐらいかららしいので1984〜5年ぐらいからの話です1)13才で売られて商売をはじめさせられたのは1975年ぐらいから。そこから10年。これはつらい。。そこから90年代後半ぐらいまで働いていたというわけですね。私とほぼ同世代の人の話なのか!

ていうか、そもそも「白蘭さんの通夜」っていう表現のを見てるはずなのに白蘭さんに直接話聞けなかったのかな、とかへんなこと考えてるし。まだ生きていたと思ってるわけよね。瀕死で帰ってきた、とかって表現印象に残ってるのに。ものすごく混乱してました。

おそらくその私の混乱と馬鹿な誤読の遠い原因として、牟田先生が白蘭さんについても、現在元公娼館を事務所として使っていたCOSWASについてもほとんど情報をくれないので誤解していたと思うのですが、COSWASは売春の非処罰化や合法化を主張している団体2)日本のセックスワーカー支援団体SWASHとかと連係して運動しているようですね。、白蘭さんもまたワーカーの立場から、90年代の台北の廃娼・浄化政策に対して強く反対し非難していた人だったわけですね。

先の『自由時報』の中国語記事をGoogle翻訳(中→英がいいです)とかにかけてみると、1997年に33才だった白蘭さんが浄化政策に激怒した、のような文面があるようです。「うちの店はみんな親切だ、わたしたちは悪い人間じゃない」とか「廃娼政策は人を殺す」みたいな意味の文章も見えるような気がするので、中国語できる人が訳してくれたらうれしい。

白蘭さんはその界隈では有名人だった形跡があって、この本に収録されているChen Mei-hua先生の論文 “Sex and Work in Sex Work: Negotiating Sex and Work among Taiwanese Sex Workers“に、41才のころのインタビューの一部が掲載されています。Google Booksでも中身が読める。

Chen先生の論文は実はacademia.eduからダウンロードできます。

この論文はおもしろくて、売春やセックスワークの問題は、売春はセックスかワーク(レイバー)か、という二分法で考えられるけど、インタビューにもとづいて、実際のワーカーの視点からするとそういう二分法にはなってない、労働でもあるしセックスでもある、客と恋人の間の境界もぼやけている、というような議論をしています。まあそうだろうなと思う 3)インタビューされているワーカーには10代も多くてちょっと気になりますが。

そのなかで白蘭さんが紹介されていますが、彼女はかなりさばけた感じの話をしていますね。他のワーカーも男性の欲望とかをコントロールするためにいろいろしていて、言うなりになったり組みしかれたりしているわけではない。

白蘭さんはたしかに13才のときに売られて十代を非合法の売春施設で働かされて悲惨といってよいと思います。でも公娼(ライセンスもちセックスワーカー)としては、自分がどんなサービスを提供するかコントロールすることができた、ということのようです。お客とのセックスとボーイフレンドのセックスにもたいしたかわりはないし、愛してるからといってセックスしなければならないわけでもない、という形で、Chen先生の解釈では、セックスと恋愛とを切りわけてる感じ。

白蘭にとって、セックスは、「チープな獣」〔男〕がみなもっている自然的な衝動であり、愛の表現などといったものではない。こう考えることで、白蘭はセックスの呪縛から逃れており、恋人の性的活動を監視する手間をかける必要もない。一方、相互の尊敬とケアは、愛として、あるいは親密さの土台として理解されている。それゆえ愛は脱セックス化されているのだ。

のような形ですね。

こういうの、私は説得力があるなあ、と思って読むわけです。日本でもこうしたインタビューや手記その他は、書籍でもオンラインでも大量に読むことができると思います。ネットでは風俗嬢の人とか大量にいますが、そうした人々もふつうに彼氏その他の親密な人間関係もってるし、仕事がセックス関係だという以外にそれ以外の人々と違いはないように見える。

でも牟田先生は、台北の旧公娼館を調査に行ったのに、白蘭さんがどういう人であったかを教えてくれず、またその元公娼館を運営していて、白蘭さんについての情報をくれたCOSWASという組織がどういう主義主張でどういう運動をしているか教えてくれないまま、そしてそのさまざま主張を黙殺したまま、その部屋が狭いことをもってしてそんなところで短時間でやるのはセックスではなく性暴力である、セックスワーカーの同意は心からの同意ではなく擬制である、という話をしているわけで、ここでやっと私が一年前に感じた違和感がなんであったのかがはっきりわかったわけです。そういう情報がはっきり述べられていないために、私混乱していました。違和感にとどめて、ちゃんと質問したり調査したり考えたりしなかった自分がはずかしい。それに情報を教えてくれた法華狼先生に感謝します。

 

References   [ + ]

1. 13才で売られて商売をはじめさせられたのは1975年ぐらいから。そこから10年。これはつらい。
2. 日本のセックスワーカー支援団体SWASHとかと連係して運動しているようですね。
3. インタビューされているワーカーには10代も多くてちょっと気になりますが。

北田先生から怒られてしまった (7) 少し好意的に解釈すると

まあそういうしだいで、北田先生の論文は細部も全体もよくわからないんですが、一箇所補足しておくところがある。

北田先生のやつを最大限好意的に解釈しようとしたときにがんばりたいのは、北田先生の見るバトラー様の「準拠問題」なわけですが、その(2)の方、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」をもうすこし好意的に考えてみたい。

これ、よくわからないと思うんですが、ものすごく好意的に解釈すると、だいたい次のようになります。

「浪速大学教授は助平だ」のような発言は、浪速大学教授に対する中傷的・侮蔑的発言であり中傷・侮蔑行為であるとします。言語行為です。よろしいですね。「助平である」という記述によって、侮蔑しているわけです。

オースティン先生は言語行為を発語行為(locution)、発語内行為(illocution)、発語媒介行為(perlocution)に分類しました。発語行為はそのまんま発語するという行為、発語媒介行為は発語によってなにか結果をひきおこす行為、発語内行為は発語においてなにか発語とともに別のこともしているっていう感じ。

言葉をつかって(たとえば自分とセックスするよう)「説得する」っていう言語行為がありますが、説得する(persuade)っていうのは、そうするように相手を納得させ同意させないと「説得する」とはいえない。「説得する」っていう言語行為は、発語内行為というよりは発語媒介行為と考えられます。

んじゃ、「侮辱する」はどうだろうか。「お前は助平だ」と発言すると、それですぐさま侮辱していることになるのか(発語内行為)、それとも、聞き手が侮辱されていやな気分にならないと侮辱したことになならないのか(発語媒介行為)、これが(一部の人々にとって)問題なわけですわ。

バトラー様とそのフォロワーは、「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる(攪乱可能性が奪われてしまう)」と考えるらしい。これがわかりづらい。っていうか私は発想がまちがってると思いますが、これまた解説します。

もし「おまえは助平だ」を侮辱という発語内行為として理解するとします。侮辱であるためには、発言者が相手を侮辱しようという意図が必要かもしれず、また助平であると指摘されることはその人の価値を下げることになるというような慣習的理解が必要であり、助平であるのは悪いことだとかそういう通念も必要になるわけです。まあ助平であることを指摘されるだけで、自分は劣った存在にされちゃうわけね。

これ認めたくない人がいるわけですわ。「助平」と呼ばれても「おう、おれは助平だ。そしてそれにプライドを感じている!(I’m proud of it!)」とか言いたい人がいるわけですわ。助平優位主義者。助平イズビューティフフル。

この助平を誇る人々は、「助平という発言によって侮辱する」ということは必ずしも成立しない、それは発語内行為ではない、助平と呼ばれることによっていやな気分になることによってのみ侮辱は成立するのだ、それは発語媒介行為なのだ、って言いたくなるわけです。

まあこれがバトラ〜北田先生の発想や問題意識だと思う。

でもこれって、私よくわからんのです。だって、ある言語行為が発語媒介行為ですか、それとも発語内行為ですか、みたいな問いが、「これこれの発言が侮辱になると困るから発語媒介行為にしておこう」とかそういう判断によって決まるっておかしな話だし。つまり、上のような発想はわからんではないけど、それって言語行為論における発語内行為/発語媒介行為とかにかかわる理論的な話ではないはずだと思う。そんな自分たちの都合によって言語使用の分類が決まるなんておかしいと思う。バトラーの文章も、よく読むと、「こうすると困るからこう解釈することにしよう」のようにはなってないと思う。

「言葉によって侮辱する」という言語行為が、発語内行為か、発語媒介行為かという問題はたしかにおもしろいけど、その解決は「発語内行為だと「転覆」できなくてこまるから」のような形であってはならない。なんらかのもっと理論的な区別にもとづくものであるべきだと思う。それに発語内行為/発語媒介行為の区別がそんなはっきりしたものであるべきかどうかも議論したらいいとおもう。まあむずかしいっすね。わたしはよくわからない。「侮辱する」とかっていう行為で我々がなにを指ししめそうとしているのかよく考えてみるべきだと思う。その意味に応じて、発語内行為とみるべき側面と、発語媒介行為とみるべき側面があるかもしれない。あるいはもっと具体的に考えて、「助平である」が侮蔑になるような慣習もあれば、そうでない慣習もあるだろうし、助平よばわりが即侮蔑になるような社会もあれば、そうでない社会もあるだろう、みたいな形になるのかもしれない 1)鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

この件はオースティンの『言語と行為』を訳しなおした飯野勝己先生なんかも、バトラー使って北田先生と同じような議論していて、これまたよくわからん(飯野勝己 (2016) 「侮辱と傷つけること」、『国際関係・比較文化研究』第14巻第2号)。北田先生もこの文献は目を通してるんではないかと思う。

しかしこいう面倒だけどそれなりにおもしろいかもしれない話と、定義も説明もできない「パフォーマティヴ」の話はちがう問題よ。中傷や侮辱にまつわる話はおもしろいけど、かならずしもバトラー様の曖昧な文章によっかからなくてもできるはずだから、興味ある人はがんばってほしい。

(いや、この件まだ続けないとならんですな……)

 

 

References   [ + ]

1. 鋭い読者はもうわかってると思うけど、実はこの件は、しばらく前に別の場所で怒られを発生させてしまった「尻軽」slutと関係があるんよね。

北田先生から怒られてしまった (6) 言語使用の適切さと道徳的な適切さは別よ

あともう蛇足っていうか、文章読みなおしたりするのも面倒なんでこれ以上書きたくないのですが、発話行為の言語学的というか、会話の上での適切さの基準と、その発話行為の道徳的な善悪の基準はまったく別です。会話の上、あるいは言語の使用においてはまったく問題ないけど、道徳的に悪徳的であるような発言はたくさんある。一方、言語使用において問題だったらそれそもそも(発語)行為として適切じゃないのでその道徳的な善悪とかあんまり言う意味がない。

たとえば、ヨットの命名式があるとします。私がその船を発注したオーナーで(超富豪!)、私が名前をつける権威をもっている。よくしらないけど、船オーナーの儀礼上、ワインだかシャンパンだかを船に命名するのがそうした筋での慣習らしい。(いまでもそうなのか知りませんよ。)

んでその命名式の当日、私は朝からよっぱらっており、命名式の2時にはかんぜんに酩酊状態。「では、命名式です」「某さんがシャンパンぶつけながら命名します」「じゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃじゃっじゃ〜〜ー〜ー〜じゃーん」「わたすはこの船をちんぽろすぴょーん号と命名するぅ!」ってやったら、この船ちんぽろすぴょーん号になっちゃう。言語行為としてはまったく適切でも、道徳的にちょっと問題があるかもしれない。

これ、しゃれにならないのは結婚式とかで、特にカトリックで神父さんが「〜と〜はここにおいて結婚した」とか宣言しちゃうと結婚しちゃって原則的に離婚というのはできないので、あとで離婚するときに「あの結婚はなんか不備があってじつは以前から成立してない」みたいな議論しなきゃならないとかそういう話は聞いたことあります。

さっきの船も、私の個人の所有船だったらちんぽろすぴょーん号でもいいかもしれないけど、みんなで乗るものだったら具合わるいから、「あのとき江口は心身喪失状態だったので命名行為は成立していない」とかそういう議論しなきゃならないかもしれない。そこでは権威とか意図とか正常な心理状態とかそういうのが問題にされるでしょうな。

まあ話ずれちゃったけど、こういう言語行為の適切さと、その言語行為が道徳的に問題ないものかどうかは別ですわ。

サイレンシングやトーンポリシングを記述的にどう定義しようと、つまりどういう条件のときにそれがサイレンシングだとか、あれはトーンポリシングだとかって規程しようが、その定義のたびに、それがなぜ悪い行為なのかの説明はしなおさないとならない。当然でしょ。サイレンシングにおいて意図が重要であるならば意図はサイレンシングの悪さに関係しているだろうし、意図と関係なくサイレンシングと言えるのであれば、サイレンシングの悪さと意図はあんまり関係ない、とかそういうふうになるかもいれない。なんにしてもこういうのは言葉をはっきりさせ、それの道徳的価値についてしっかり議論するしかない。「パフォーマティヴィティー」とかって概念について誰かの文献を研究したり、あるいはバトラー様の真意とか意図とか準拠問題とかが理解できたらかといって、サイレンシングやトーンポリシングの倫理的問題が解決するわけではないのです。

 

 

北田先生から怒られてしまった (5) 瀬地山先生を非難するには

あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。

どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。

先に示したように、まずはサイレンシングなりトーンポリシングなり、そうした行為(その一部は発話行為かもしれない)がどのようなものであるかを明示してほしい。つまり、その記述の条件を明示する。どサイレンシングもトーンポリシングも、日常語ではなく、はっきりとした人工的な術語のはずなので、明晰化するのはさほど難しくないだろうと思う。もっとも、まあ日常的なレベルで使う語としてぼんやり定義するのでもとりあえずかまわん。さらに、それがなぜ不正だったり悪だったりするのかも可能なら説明してほしい。これもさほど難しくないと思う。

手段もそれほどむずかしくない。まず、その言葉で言いあらわしたい事例を二つ三つ考えてみて、それに共通する特徴を考えて記述してみる。さらに、その言葉にはあてはまらないことにしたい例も考えてみて、それがさっきの「共通の特徴」にはまらないことを確認する。共通の特徴がみつかったら、それがなぜ悪だったり不正だったりするのかを、一般的な原則(たとえば功利主義だとか権利論だとか)から説明してみる。

たとえば、「サイレンシング」という非難したいと思ってる行為をまとめあげる言葉を思いついたとする。それに含めたいのは、「私たちはいつもセクハラされている」という学生様の意見を封じこめる大学教員や組織のふるまい、「おれたちも苦しいんだよ」っていう男性の言い分を「男は特権階級!」とかって一言で片づけてしまうような人々のふるまい、などなど考えていく。

その結果、サイレンシングとは、弱い立場の人々の発言や訴えや非難を、(1)文字通り物理的に他の人々に聞こえなくしたり、あるいは(2)その人々の信用や名誉を損うことにって発言の信頼性を落したり、あるいは(3)その人々の倫理的・道徳的な欠点をあげつらうことによって、その人々の訴えや非難はさほど社会が配慮したりする必要はないように誤認させる、みたいなタイプの特徴づけで十分だってことになるかもしれない。

安倍首相が沖縄基地について好き勝手言うのを黙らせるのはサイレンシングにしたくないかもしないけど、そこらへんも上の(1)〜(3)の特徴づけにはまってないことを確認すればよい(今回は面倒なので確認しない)。

適当に特徴づけたら、それを非難したい理由をじっくり考える。こうした他人の発言の効力を下げるさまざまな策謀は、それ事態不快で不正なものであるのはわかりやすいし、また、自由な言論による自由な討議による社会の改善をめざす立場からも非難したい。ね。簡単っしょ。

そこまでやってもらったところで、さて瀬地山先生がやったことはそうした(非難されるべき)サイレンシングなりトーンポリシングなりであるか、という議論になる。これもがんばってやってください。ここで重要になるのは、実際に瀬地山先生がなにを発言したかとか、小説家の人が何を発言したかとかなんだけど、北田先生はそれがはっきりしてないうちに瀬地山先生を非難するこの論文を書いてるように思えます。まあ証拠がそろわなくてもなんか発言しなきゃならないときがあるのはわかるんだけど、瀬地山先生を非難するほどの材料が揃ってるとも思えなかったですね。(現在はいちおう全文書き起しが公開されている)

ある小説家が、現実の事件と現実の人々の集団を背景にして小説書いた場合、あるていどの取材とか迫真性(リアリティ)とかほしくなるものだと思う。とくに誰かを非難するような作品であれば、それが十分に考えぬかれているかは気にななる。単に「東大生はプライドがたかくて、挫折をしらず、女性をモノのように扱うことが平気な連中である」という想像だけから作品が描かれていれば、そら問題があると思う。今回はそういうした話がなされたわけでもなく、三鷹寮の広さがどうのこうのっていうのは誰にとってもどうでもいいけど、主人公たちの心理はもっとつっこんでみてほしい、みたいな話が中心だったんじゃないかと思う。これってサイレンシングやトーンポリシングなの?

この立証は北田先生がやるべき作業であって、そのときにバトラー様の議論がどれだけ役に立つのかわたしにはさっぱりわからない。「パフォーマティブ」だの発語内行為/発語媒介行為とかの区別したって、特に役には立たないのではないか。たしかに、サイレンシングやトーンポリシングっていう行為があるとしたら、それは発語内行為か発語媒介行為か、っていう話は哲学や言語学に興味ある人にはおもしろいかもしれないけど、北田先生がやりたい瀬地山先生に対する非難にはあんまり関係ないんじゃないのかな。関係ありますか?

まあそれより前にやっとかないとならない作業が大量にありそうに思う。たとえば、瀬地山先生の発言は小説家の先生や被害者の人々に対する中傷になっているか、なっているとすればそれはどのようにしてか、とか。こたえられます?

 

 

北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。

前にも書いたけど、この「パフォーマティブ」はオースティン先生たちの意味ではない。それはありえない。んじゃ、ある行為が「パフォーマティブである」っていうのはどういうことか?一番素直なのは「パフォーマンスである」ですね。パフォーマンスとしての行為。この「パフォーマンス」はふつうは演技とか楽器の実演とか、そういうのですわね。でもそれじゃおもしろくない。

たとえば私が学会懇親会で、浪速大学教授たちが性的に活発なことを指摘したら、その「パフォーマティブな行為」の意味はなにか。ていうかそれじゃパフォーマティブじゃない行為っていうのはどういう行為なのか。

こういうのぜんぜん説明してくれないからわからんけど、北田先生みたいなルーズだけどかっこいい言葉づかいする人々は、おそらく、「直接やっているように見える行為と別の行為が同時におこなわれている場合に、その行為はパフォーマティブだ」とかそういう感じになるんだと思う。

浪速大学教授の性的活発さを記述するのは、それによって浪速大学教授たちを貶めたいという江口のパフォーマティブな行為だ、とかそういうふうになるんちゃうかな。

でもこれってほんとにつまらない。だって、われわれの行為って、別に二つ三つの意味とか意義とかがあるのってふつうのことじゃん?誰かとセックスするとき、コミュニケーションしたり射精したり愛を確かめたり、性器を接触させたり、オルガズムスを経験したり不快を経験したり、労働したり、男性優位社会を確認しつつ女性の優位を推定したり、まあいろんなことしてるじゃん。「一つの動作に一つの行為の意味」みたいなふうにはなってないし。行為においても発話においても。だから「パフォーマティブ」っていうのが指摘するのがおもしろい概念や特徴であるとしたら、たんに二つ以上の行為をどうじにやってるってことじゃないと思う。

んじゃなんなよ、って話になるとこれまた面倒ですわなあ。もうちょっとつめられるとは思うけど、もう面倒だからやめ。ヒントだけ書いておくと、字義どおりの発言や行為と、それによって目指されてる全体的な(他者への)影響の違い、とかになるんだろうけど、そういうことになったときに、北田先生とかがなんかやってる「意図にかかわらず」みたいなの可能なのかどうかよくわからん。でもそういうのも、まじめに考えたきゃバトラー様の難解すぎるか、さもなくば無内容であるか、あるいは難解で無内容かもしれない文章いっしょうけんめい読むより、ふつうの行為の哲学とかそういうのやった方がいいんちゃうかな。とにかくバトラー様はうんざりしたし、北田先生のおかげでほとんど理論的なことも具体的なことも考えてないのがはっきりしたと思う。まあでも好きな人はがんばってほしい。

 

 

北田先生から怒られてしまった (3) 具体例がないとわからない

そもそも、北田先生の、バトラー様(や北田先生や小宮先生の)「準拠問題」(=問題設定?)を認めるとか精査するとか、そういうのっていうの抽象的にはよいことだと思うけど、具体的にどういうことなのか考えてみるとよいと思う。

北田先生はバトラー様が二つの「準拠問題」を立ててるといっている(と思う)。一つめは、(1) 「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」とからしい。

しかし、ふつうの読者はここまでで、ポルノグラフィは中傷的表現である、っていう立場があることを十分説明してもらってないから、話がわからないはず。そもそも「ポルノグラフィ」の定義ももらってないし、「中傷的発言」もどういうのが中傷的なのかはっきりとはわかってないと思う。たとえば「お前は馬鹿だ」みたいなのが一般に中傷的発言かどうか……罵倒ではあるだろうけど、これ中傷(「根拠のないことを言って他人の名誉を傷つける」)なの?なんか具体例考えてくれないとわからん。

さらに、北田先生の「中傷的発言の発言者の意図によらずに、その行為を理解し、利用・転用する実践はいかにして可能か」という定式化は曖昧すぎて使い物にならない。(a) 「理解する」の主語が誰かわからない。私?北田先生?我々?、(b)「意図によらずに」がわからない。「発言者の意図を考慮せずに」ってこと? (c) 「いかにして可能か」はよくつかわれるみたいだけど、「実際やってるけどその理論的背景はどうなってるの」っていう意味と、「どうしたら可能になりますか?」っていう意味が曖昧。このままでは使いものにならない。こんな曖昧で自分たちが書いてる意味さえわからないようなのが「準拠問題」であるとは思えない。

「中傷的発言の発言者の意図によらずにその行為を理解する」は実際わからんでしょ。「中傷的発言の発言者が、どのような意図にもとづいたものかにたよらずに、我々がその発言の内容や発言全体の意味を理解する」、だったら少しまし。

具体的に考えましょうか。たとえば、たとえばですよ、学会懇親会で「浪速大の男性教授たちは性的に活発で偉いですなあ、繁華街でとんでもないお金をつかったりとお聞きしましたし、複数の学生様とも交際したりしているらしいですなあ、いやあすばらしいことです」とか私が発言したとするじゃないですか。そういうとき、私はいったい何を言おうとしているのか、って問題になるときがあるかもしれない。

でもまあおそらく私が浪速大学の男性教授個人、あるいは集団に対して、皮肉とか侮蔑とかの意図がなければ皮肉や侮蔑ではないといえるのかどうか、微妙ですな。また、この発言に根拠がないなら中傷かもしれないけど、十分な根拠があったらどうだろう。つまり、根拠がしっかりしていて侮蔑中傷の意図がある、根拠がなくて侮蔑中傷の意図がない、根拠があるけど侮蔑中傷の意図はない、根拠がなくて中傷の意図がある、みたいなの考えたいわけかね。

北田解釈でのバトラー準拠問題はいったい、こういう具体例にしたときにどういう問題なのですか。別の問題でいいから具体的に説明してください。まあ具体例は、東大の社会学教授が、現実の性暴力を題材にとった小説家に対して、小説が事実とちがっていることを指摘することとなにか関係があるとわかりよい。

なんかわからなくなってきた。私がいいたいのは、北田先生が「江口はわれわれの準拠問題に興味をもたない」とか非難しているように見えるんだけど、その準拠問題だかなんだかがそもそもわけわけわからんし、そんなものにつきあってる時間はない、みたいな。もっと具体的な問題を考えるのと、主語とか目的語とかはっきり書くっていうのを大事にしたらどうだろうか。しかしこれ、私が北田先生におねがいするようなことなのだろうか。あいまいでわけわからん文章で質問されたり非難されたりしても、困ってしまうだけです。

バトラー様の準拠問題(2)は「発語内行為として中傷的発話を理解することは、発話者の意図や、その意図が位置づく文脈の適切さを、認めてしまうことになる」なんだけど、これももう最初からわからんし、やっぱりこういうの文章で書くの無理ですわ。北田先生の頭のなか想像するのも苦しいし。いっておきたいのは、まず具体例を出してほしい。「浪速大学の先生は助平だ」という発言があったとして、それを発語内行為として認めるとは?私が浪速大学の先生は助平だとして侮辱した、でいいですか?助平であることを指摘するのが侮辱することならそれでいいのではないか。私が浪速大学の先生が助平であることを指摘して、その発言において浪速大の先生を侮辱していることを認めたら、私の意図やその文脈の適切さを認めることになるのですか?なにを言ってるのかわからない。こんな準拠問題だか問題設定だか認められるわけがないではないですか。具体的に考えましょ。

 

というわけでおしまい。話になりませんでした。

 

 

 

北田先生から怒られてしまった (2) 「準拠問題」ってなんですか

これ、たずねられたり怒られたりしていることじゃないから書く必要ないのかもしれないけど、そもそもこの北田先生の論文で何回も使われてる「サイレンシング」とか「トーンポリシング」とか、いったいどういう概念で、ある人の発言や行動がサイレンシングだったりトーンポリシングだったりする基準はなんですか。それにそれは常に不正なことや悪いことなんですか。そういう説明なしに瀬地山先生は小説家や性暴力の訴え(?)をサイレンシングしている!それはバトラー様の準拠問題のもとでわかる!とかっての、ほんきですか。

そもそも、バトラー様の準拠問題ってなんですか。たとえば論文だか著書だからしらないけど、「アセンブリ」まわりの話で、「そこに人間が集るだけでたむろするだけで行為になる」みたいな話があるみたいだけど、そらそうでしょう。別に難しい言語行為論もパフォーマティブもいらんのんちゃうかと思う。必要ですか?

もともとのジェンダーのパフォーマティヴィティとかだって、われわれは社会で男らしいとされている服装したり、そうしたふるまいをすると、男らしいと思われる、ってなぐらいの話でしょ?そこで使われる慣習みたいなのを尊重することもできるし、ちょっとひねりくわえたりするとおもしろかったりする。こんなわかりやすい話のどこに、ラカンだのアルチュセールだの必要なんですか。関係ないじゃないっすか。

私が思うに、傷つきやすさは大事だとか、人権が大事だとか、連帯がだいじだとか、そういうバトラー様が言ってるかもしれないことはそらみんな最初からわかってるわけですわ。問題は、卵が壁に次々にぶつかって割れていくようなとき(そして、壁の向こうがわではその衝撃でやっぱり卵が割れてしまってるとき)に、私らどうしたらいいかってことでしょ? 卵が壁にぶつかって無駄に割れるの気の毒だから、壁に少しヒビでも入れといた方がいい?卵が動けないようにもっと監視した方がいい?それに対してバトラー様やそのフォロワーの先生たちはどうしたらいいか具体的な方策や考え方本当にしめしてくれてますか?

ていうか、そんなシビアな話までいかなくても、北田先生はバトラー様が『触発する言葉』でポルノグラフィーと中傷的発言や差別発言を社会的にどうしたらいいと主張していると考えてますか? 暴力的なポルノもそのまんま制作・流通させてOKなの?中傷的発言そのまま流通させてていいの?それともなんか法的規制をしてもかまわないって言ってると思いますか?どういう規範的判断しているの?そしてその規範的正当化どうしるの?それ紹介できますか? 私あの本何回読んでできませんよ。ふつうできないと思う。

 

 

北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか

『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。

どうも北田先生がやりたいのは下のような議論らしい。

  1. 東大の瀬地山角先生は東大でおこなわれたトークショーで小説家の先生に対してトーンポリシングだかサイレンシングだかをおこない、そしてそれは悪いおこないである。
  2. 瀬地山先生の行為がそうした悪いものであるという北田先生自身の問題意識は、バトラー様の問題意識と重なる。
  3. ところでバトラー様の「パフォーマティヴィティ」について、江口とかいう倫理学チンピラがなにかいっているので叩きつぶすしておく。
  4. ちゃんとしたバトラー様の「パフォーマティヴィティ」やそれに関連する問題意識を理解すれば、瀬地山先生が悪人なのが理解できます。

とかそういう感じの話なんだと思うけど、全体も細部もよくわからない。あちこちわからなくすぎてどうしようもない。

しょうがないので、とりあえず怒られてるあたりだけコメント返しておきますが、そもそも日本語がわからないところが多い。たとえば「意弁」とか『日本国語大辞典』にも出てきませんよ。「準拠問題」もどういう問題なのかわかりません。主語や目的語などを省略されるとわかりにくくなります。こういうの困るので今後は推敲おねがいします。

  • 一番問題のバトラー様「パフォーマティビティー」なんですが、これ、北田先生自身が「パフォーマティヴィティ」をどういう意味で使っているのか説明してくれないから何を言ってるのかわからないです。私が「パフォーマティヴィティ」について説明しているまともな論文は国内に1本もない、っていってるのを北田先生はどうも非難しているみたいだけど、だって実際まともに思えるものは存在しないんだからしょうがないじゃないっすか。小宮先生の『実践のなかのジェンダー』にだって「パフォーマティビティ」がなんであるかはっきり書いてある個所ないでしょ? あるならいったいどこにあるんですか。どっかに書いてあるならはっきりページだしてくださいよ。なんでページぐらいつけてくれないんですか。1冊ぜんぶまた確認しろって話ですか?
  • んな言葉の説明も出典の表記もできないのに、他の問題設定だか準拠問題だかに興味もてないのあたりまえじゃないっすか。「パフォーマティヴィティーをちゃんと説明してくれてる論文がない」っていってるのに、先生自身が簡単な説明さえしてくれないっていうのはもういじわるなのかなんなのかわからない。
  • そもそも北田先生、「言葉がなくても達成されるパフォーマティブな行為」とかって書くじゃないっすか。パフォーマティヴな「発話」とか「発話行為」とかならまだ理解できますが、パフォーマティヴな行為ってなんですか。それにパフォーマティブじゃ*ない*行為っていうのもなんですか。それは、(言語行為論での意味で)「行為遂行的な行為」じゃないですよね? だって行為が行為遂行してるのはあたりまえだから馬から落馬したりしてしまう。つまり先生の「パフォーマティブな行為」は、そもそも、言語行為論とかとはまったく無関係ですね?しかしこういうのひどくないっすか?説明してください。無関係なら無関係でいいんですわ。そしてそれが私が10年まえからずっと言ってることだし。無関係なのに関係あるかのようなほのめかしはやめてほしい。
  • 江口が「間接発話行為についてどのように解釈」しているか聞いてみたいってんですがなにを聞いてみたいのかわからないです。「塩とれる?」っていう疑問文で、塩を渡してくれるようお願いしているって話でしょ。「マヨネーズありますか?」っていってマヨネーズもってきてもらうんでしょ。なにが問題なのかしら。サール先生はそれなりにうまく説明してくれてると思う。なにが「苦闘」なのかわからんし、サール先生の枠組みのなかで間接発話行為を説明するのにそれなりに手間がかかるからといって、サール先生の枠組みがだめなわけじゃない。複雑で精妙なことを説明するのに複雑になってしまうのはあたりまえっしょ。それとバトラー様のフォロワーの先生たちのよくわからない説明はぜんぜんちがうはなし。
  • ていうか、「マヨネーズある?」ってのを、サール先生的な言語行為論ではなく、お得意のエスノメソドロジーだかなんだかで説明するとなにがちがうのよ。同じようなことしてるっしょ。
  • ツイッタにもごちゃごちゃ書いたけどもういいや。とにかく「パフォーマティブな行為」っていったいどんな行為かぐらい説明してくれたらどうですか。

(続くかどうかわからない)

 

 

 

セックスの哲学マストハブ

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古典アンソロジー & テキスト


現代アンソロジー

 

若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

そのわかってた人、メアリ・ウルストンクラフト先生についてはこのブログでほとんど何も書いてないみたいで驚きました。関連する授業ではけっこう大きく扱ってるし。っていうか女性思想家が表舞台に出てくるのはこの先生からぐらいですよね。

ルソーは次のように言明する。女性は、瞬時といえども、自分は独立していると感じてはならないと。そして、女性は、生まれつき持っているずるさを発揮するためには恐怖によって支配されるべきであり、自分を欲望の一層魅惑的な対象にするために、すなわち、男性がくつろぎたいと思う時にはいつでも彼のもっとも優しいお相手になれるように、コケティッシュな奴隷にならねばならないと。彼は更に議論を進め──自然の命ずるところに従ったふりをして──次のことをほのめかす。誠実と不屈の精神は、すべての人間的美徳の基礎であるが、女性の性格については、服従を厳しく叩きこむことが大事な教育なのだから、誠実や不屈の精神はほどほどに教えるべきだと。

これに対応するルソー先生の著作はもちろん『エミール』。

女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気にいり、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼ないときは育て、大きくなれば世話をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子供のころから教えなければならないことだ。(『エミール』)

かっこいいっすね。ウルストン先生はこれを思いっきり張り倒します。

何と馬鹿げたこと! 男性の高慢と好色のために、この問題の上には、こんなにもひどく煙が立ち込めてしまった。これを吹き払うに足りる程の知力を持った偉大な男性が、いつの日にか出現するであろうか! たとえ、女性には生まれつき男性には及ばない点があるとしても、彼女たちの美徳は、程度においてはともあれ、質においては男性と同じでなければならないのだ。(pp. 55-56)

この「男性の高慢と好色のために」がいいっすね。ウルストンクラフト先生『高慢と好色』ってフェミニスト小説書けたかもしれませんね。原文はどうなってるんだろう。

What nonsense! When will a great man arise with sufficient strength of mind to puff away the fumes which pride and sensuality have thus spread over the subject!

いかにもエッチな感じ

こうですか。「ナンセンス!」。まあルソー先生の好色と高慢を見抜いているのはさすがです。

このあと、とにかく人間の「美徳」っていうのは強弱の違いはあってもどの美徳も男女ともに求められるものなのだから、男女同じように教育するべきだ、というまったく正しい主張を先生はなさっておられます。

でもこの時代、「でもやっぱり女の子って恋愛に興味あるっしょ?サインコサインより目の大きさ、アインシュタインよりディアナアグロン」っていう人はいたわけですわね。それに対して先生はこう言うわけです。

恋愛に重きを置かずに論を進めるのは、情操や繊細な感情に対して大逆罪を犯すものであることは承知している。だが私は、真理の持っている単純な言葉を語りたいし、心よりもむしろ、理性に話しかけたい。この世から恋愛をなくそうと説得に務めることは、セルヴァンテスのドン・キホーテを追い出すことであり、ドン・キホーテと同じように常識に背くことを行うことになろう。しかし乱れ騒ぐ情欲(パッション)を抑えようとする努力は、そしてまた、次元の高い能力を下位に置いてはならぬことを証明しようとする努力は、あるいは、知性が常に冷静に保持すべき大権を奪い取ることは許されないことを証明しようとする努力は、それ程暴論とは思えない。

そりゃ恋愛とか性欲とかは強いもので、そういう感情や欲求を抑えるってのはむずかしいけど、パッションばっかじゃだめですよ、と。ここらへん啓蒙時代を感じますね。恋心やエッチな好奇心にふりまわされてはいけません。

青春は、男性にとっても女性にとっても、恋愛の季節である。けれども、思慮に欠けるこうした享楽の時代においても、人生のもっと重要な時代——その時には、熟慮が興奮に代って登場する——のために、準備がなされなければならないのだ。それなのに、ルソーや彼を見習った大抵の男性著述家たちは、女子教育の趣旨はひたすら一つの点——男性を喜ばせる女になること——に向けられるべきである、と熱心に説いてきた。

人生って、現代の女性にとっては80年以上あるけど、恋愛とかに頭いかれてる時期っていうのはそれほど長くないはずだ、青春とかってのよりもっと大事な時期、もっと大きなことをなしとげる時期があるので、教育っていうのは若いときの恋愛とか就活を目指したものではなく、もっと先の(仕事も仕事以外のも)キャリアを考えた教育をしなければならない、というわけですな。まったくお説もっとも。

このような意見の支持者で、人間性について何らかの知識を持っているような人と議論しよう。彼らは、結婚は生活習慣を根こそぎ変えうるものである、と想像するのであろうか?ただ男性を喜ばせることだけを教えられてきた女性は、彼女の魅力が落日の夕日の如く沈むことを、いずれ知るであろう。夫と毎日鼻を突き合わせてばかりいる時には、また女盛りが過ぎ去った時には、自分の魅力が夫の心をあまりつかむことができなくなるということを、やがて知るだろう。その時になって女性は、他人に頼らず自分で楽しみを見出していくために十分な、また自分の潜在能力を磨くためにも十分な、本来のエネルギーを持てるであろうか?持てないとなると、別の男性を喜ばせようと試みると考える方が、もっと合理的ではないであろうか?そして新しい愛を獲得する期待から生まれた感情の中で、彼女の愛や自尊心が受けた屈辱を忘れようと考える方が、もっと合理的ではないであろうか? 夫が自分を愛してくれる人ではなくなった時——その時は必ずや来るであろう——には、彼を喜ばせたいという彼女の願いは暗礁に乗り上げるか、あるいは、悲嘆の源となるであろう。そして恋愛、恐らく、あらゆる情熱(パッション)のうちで最も移ろいやすい愛は、嫉妬や空しさに席を譲るのである。

ここがいいんですよね。誰かを喜ばせることだけを教えられた人は、その誰かあんまり喜ばなくなってしまったら、しょうがないから別の誰かを喜ばせようとするだろう。これは行動分析学とかで言う「強化」の原理ですね。誰かに喜んでもらのはよいことであり楽しいことであり満足いくことですから、喜ばせましょう。ただ、美貌やエッチな能力だけで他人を喜ばせつづけるのはかなり難しいので、いろいろ工夫も必要でしょうな1)ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。。それに次々に相手を変えて喜ばせていく、というのもありかもしれんし。少し前にうしじまいい肉先生が、「私はいつも上の世代と遊んでいるから、50才になったら老人ホームの70才の男性を喜ばすつもりだ」(大意)というのを書いていて、これはこれですばらしいと思いました。ただちょっと出典見つからんな。

私は今、何かの信念、もしくは偏見によって抑制された女性について語る。このような女性は不義密通というようなことは大嫌いであろうが、それにもかかわらず、彼女たちだって夫からひどく冷淡にあしらわれているのがはっきりした時には、他の男性からちやほやされることを望むのだ。そうでなければ、夫と意気投合した魂が享受した過ぎし日の幸福を夢見ながら、毎日、毎週を過ごし、ついには、彼女たちの健康は蝕まれ、精神は不満のために傷つくのだ。そうだとすると、男性を喜ばせるという大変な技術を学ぶことは、そんなに必要な学習でありえようか?それは、ただ情婦にとって役に立つだけである。清純な妻や、真面目な母は、人を喜ばせる能力は彼女の美徳を磨くことによってのみ生まれる、と考えるべきであり、夫の愛情を、彼女の仕事を容易にし彼女の人生をより幸福なものにするための励ましの一つとしてだけ考えるべきである。——しかも、愛されていようが無視されていようが、彼女の第一の望みは、自分自身を尊敬に値するものに成長させることであって、幸福のすべてを、彼女と同じように弱さを持っている人に賭けてはならない。(pp.58-60)

てな感じですばらしいっす。

まあこの時代、女性向け小説とかすごく流行ってたんですわ。ルソー先生だって『新エロイーズ』っていう当時のベストセラーもってたし。これは身分の差恋愛ありの不倫よろめきかけありの小説ですね。(岩波の古い訳がありますが普通の人は読んでもおもしろくないと思う)

ウルストンクラフト先生は、小説とかエッチなことや人間の感情みたいなのしか書いてないから読書としてはあんまりよくない(だめだとは言わないが)、だから哲学書(ここでの哲学は学問全部、物理学とかも含む)と歴史書を読め、みたいなことを言ってます。

ていうわけで、ディアナアグロンじゃなくてアインシュタインしますか2)でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html 。まあそうもいかんですかねえ。


これ書いてみたいのは、最近中公新書の『マリー・アントワネット』を読んで、ウルストンクラフト先生が指摘している女子教育の問題というというのはまさにマリアンさんたちの問題だったのだな、と気づいたから。人を喜ばせることを学び、それが自分にできるなら、人を喜ばせたいっていうのは当然の欲求な気がします。そしてそれしかできなかったら、なんとかして喜ぶ人を見つけたい。世界で一番喜ばせがいがあるはずの王様が喜んでくれなかったら、貴族仲間喜ばせたいだろうし、国民も喜ばせたいだろう。もし自分がいるだけで喜んでくれるなら、フェルセンも喜ばせたいですよね。ウル先生はマリアンさんのこととかある程度知ってたろうしね。それはまわりにある問題だった。まあウル先生はそうとうキレてる人だったのであれだったですが。そういうの考えつつ読むとおもしろいです。


 

References   [ + ]

1. ルソー先生も嫁は美人でない方がいい、って言ってるし。
2. でもこういうのもこれはこれでどうだろう。https://lite-ra.com/2016/04/post-2157.html

MeToo本家の「はじまり」と「歴史とヴィジョン」を訳してみました

MeToo運動が一部で話題になっていて、まあ話題になるべきだと思うのですが、その運動の創始者たちがどういうことを考えているのか日本語で読めるものが少なかったので、おそらく元祖・本家であるところの https://metoomvmt.orgの文章を訳してみました。著作権とかクリアしていませんが、運動の宣言文なのであんまり文句は出ないだろうと判断しています。もちろん私はなんのクレジットも主張しませんので、誰か手を加えてまずいところ修正するなりして彼女たちに送ってもらえれば、日本語ページを作るときに役に立つかもしれませんし、立たないかもしれません。

まず創始者ダラナ・バーク先生による「そのはじまり」。力がある文章で正直感動しました。やはりかざりのない実感のこもった言葉には力があると思います。ぜひ読んでほしい。 https://metoomvmt.org/the-inception/

MeToo、そのはじまり

「Me Too運動」™1)TMついてるんですね。は、私の魂のもっとも深く暗いところからはじまりました。

ユースワーカーとして、おもに黒人と非白人(of color)の子供たちを世話をするなかで、私は胸が引き裂かれるような物語を私なりに見聞きしてきました──崩壊家庭から、子供を虐待的する、あるいはネグレクトする親まで──そういうなかで、私は少女ヘブンに出会ったのです。

ユースキャンプでの女子だけのセッションのあいだ、クラスに参加した少女たちが、自分の人生についてごく内密な話をわかちあいました。その一部はごくふつうのティーンの不安についての話でしたが、なかにはとてもつらいものもありました。それ以前に何度もやっていたのと同じように、私は座ってその物語に耳を傾けました。そして、必要とするように少女たちをなだめました。そのセッションがおわったあと、大人たちが若い女子たちに、もし話すことが必要だったら、あるいはもし他のことが必要だったら連絡するように、とアドバイスしました──そして私たちはまた別々のことをしはじめたのです。

次の日、ヘブンは──ヘブンは前夜のセッションに参加していました──私にプライベートに話したいと言ってきました。ヘブンはかわいい顔をした少女で、キャンプのあいだ中私にまとわりついていました。しかし、ハイパーアクティブで時々怒りに満ちた彼女の振る舞いは、彼女の名前にも軽くてハイピッチの彼女の声にもふさわしくないもので、私はある種の場面ではよく彼女をふりはらってしまっていました。

その日彼女が私に話をしようとしたとき、彼女の目から、その会話はいつもとはちがったものになることがわかりました。彼女は深い悲しみをかかえていて告白したいと思っていて、私はそれをすぐによみとれたので、かかわりあいになりたくないと思いました。

しまいには、その日遅くに彼女は私をつかまえて、聞いてほしいとほとんど懇願するかのようでした。私はしぶしぶそれを認めました。そのあと数分間、このこども、ヘブンは、なんとかして私に「ステップダディ(義理のパパ)」──正確にいえば母親のボーイフレンド──が彼女の発育途中の体にあらゆるひどいことをしている、と伝えようとしたのです。私は彼女の言葉がこわくなり、私のなかの感情はあれくるいました。

私はもう聞くことができなくなるまで耳を傾けました/それは5分にも足りていませんでした。そして、彼女のそばで痛みをわかちあっているとき、私は彼女をつきはなしてしまい、すぐに、「もっとうまく助けることのできる」女性カウンセラーのところに行くように言ったのです。


私は彼女の表情を忘れることはぜったいにできないでしょう。

私は彼女の顔の表情を忘れることができないでしょう、それはずっと私につきまとっているのですから。私は彼女のことをいつも考えています。拒絶されたことのショック、傷を開いても突然むりやりそれをまた閉じられることの痛み──それが彼女の顔に表われていました。私は子どもたちをとても愛していて、子どもだちをとても気づかっているのですが、私は彼女がもっていた勇気をもつことができなかったのです。

私が彼女を愛していたのですが、私は、私が理解していること、私は彼女とつながっていること、私も彼女の痛みを感じることを使えるエネルギーをふるい起こすことができなかったのです。私は彼女の恥の感覚を解放することもできず、起こったことはなにも彼女のせいではないことを彼女に納得させることもできなかったのです。私は自分の頭のなかで何回も何回も鳴りひびいている言葉を声に出して言う強さをもっていなかったのです。彼女は自分が耐えていることを私に伝えようとしたのに。

私は彼女が私から歩き去るのをみました。彼女は自分の秘密を拾いなおして、またそれを隠れた場所にもどそうとしました。私は彼女がまた仮面を被りなおし、ひとりぼっちの世界に戻るのを見ました。そして私は一人でつぶやくことさえできなかったのです。「私もなのよ」と。

– Tarana Burke
Founder, The ‘me too.’ Movement

歴史とヴィジョン。https://metoomvmt.org/about/#history

歴史と展望

「MeToo」運動は、2006年に性暴力の被害者(サバイバー)、特に黒人女性と少女たち、そして他の恵まれないコミュウニティの非白人の若い女性たちが、回復への道を見つけるのを支援するためにはじめられました。そもそもののはじまりから、私たちのヴィジョンが向けられているのは、性暴力の被害者のためのリソース不足と、被害者自身たちによって主導される支援者のコミュニティを建設することでした。支援者たちは、いずれ自分たちのコミュニティでの性暴力を阻止する解決策を作りあげる最前衛で働くようになるでしょう。

6ヶ月にも満たないうちに、ウィルスのように広がった #metoo ハッシュタグのおかげで、性暴力についての活発な談論が、国をあげての対話へ入り込んでいきました。地元の草の根作業としてはじめられたこおが、被害者たちのあらゆる界隈でのグローバルなコミュニティへと届くまでに広がり、世界中でおこなわれている性的暴力の広範さと衝撃を表に出すことで、性暴力被害をサバイブするという行為のスティグマをとりはらう助けとなりました。

私たちの課題は、それを必要とする人々に、個人個人の回復のための入口を見つけること、そして、性暴力の世界的な増殖を生みだしているシステムを打破するために、サバイバーのための大規模基地にエネルギーを供給することに向けられています。

私たちのゴールは、幅広いスペクトラムのサバイバーたちの必要に答えるために、性暴力にまつわるグローバルな会話を再編成しつつ拡大することです。少年少女、クィア、トランス、障害者、黒人女性・少女、そしてすべての非白人(of color)コミュニティ。私たちは、加害者の責任が問われることを求めており、長期的な体系的な変化を維持できるような戦略を求めています。

「MeToo」運動は、性暴力の被害者とその連帯者を支援します。それは、被害者をリソースに結びつけ、コミュニティに組織化のためのリソースを提供し、「MeToo」政策のプラットフォーム建設に従事し、性暴力の研究者およびその研究を集積します。「MeToo」運動の作業は、性暴力を阻止する草の根の組織化と、被害者をリソースに結びつけるデジタルコミュニティーをブレンドしたものになります。

「MeToo」運動は、共感とコミュニティベースの行動を肯定するものであり、その作業は被害者主導によるもであり、各種のコミュニティの必要に応じて特定されたものになります。

タラナ・バークは「MeToo」運動を、貧困コミュニティー出身の黒人女性・少女とともにはじめました。彼女は、黒人コミュニティおよび広い範囲の社会のなかで性暴力についてディスカッションするため、その文化をふまえたカリキュラムを開発しました。同じように「MeToo」運動はそれぞれのコミュニティーで、そのコミュニティの特定の必要を満たそうと運動している人々を支援しようとします。たとえば、非白人で障害をもつトランスのサバイバーが、他の障害をもつトランスのサバイバーとのイベントをもったり、ツールキットを作ったり、そうしたことをするのを支援します。いっしょになれば、私たちは性暴力を阻止するグローバルな運動を強化するため、おたがいを励ましサポートすることができるのです。


こうして読んでみると、もちろんよく読めばコメントしたいことも出てくるのですが、がんばってほしいとも思います。また、現在日本のネットで流通している#MeTooの発想とのあるていどの距離も感じてしまうわけですが、それは専門家の人々がいろいろ検討しているところでしょうから、私がここでコメントするのはさしひかえたいと思います。

References   [ + ]

1. TMついてるんですね。

『犯罪学ハンドブック』を読もう!

やっぱり知らん分野はハンドブックとかから勉強する、っていうのが、私のような素人が他の分野の研究とかを鑑賞する(勉強するんじゃなくて鑑賞ですなあ)ときの王道だと思うのです。

最近『犯罪学ハンドブック』っての出てて、これアメリカのその分野の大学テキストの翻訳ですね。この翻訳は第2版をもとにしたものだけど、英語では第3版まで出てて、おそらく定評あるテキストなんだと思います。

修復的司法とかについてどういうふうに扱われているかというと、そうした話は第8章の「批判理論とフェミニズム理論」というところで扱われてます。あんまり好意的じゃないですね。

おそらく世界中で社会主義社会が崩壊したことが影響したと思われるが、Lilly, Cullen, & Ball (2011)は、至る所で葛藤理論が頓挫し、それが「仲裁犯罪学という形式に変化した」と述べている。仲裁犯罪学とは、近年急増する多数の犯罪学理論のなかでごく最近の理論であり、衰退したマルクス主義が包摂されている。まさにポストモダン様式であると断言できる。(pp.226-227、ちょっと語句いじってる)

とかそんな。

仲裁犯罪学の基本理念とは、1960年代のヒッピーの金言、Make Love, Not Warに共通しているが、性的含意はない。現況の「犯罪との戦争」という表現は考えただけでもぞっとするので、「犯罪における平和」を目指そうとしている。(p.227)

 

犯罪者を監禁するかわりに、平和構築犯罪学者らは修復的司法を提唱している。これは基本的に調停と紛争解決のシステムである。修復的司法とは主に犯罪によって生じた損害を修復することを目指し、そして基本的に関係する当事者が一堂に会し、被害者と加害者が、犯罪が起こる前の状態に「修復する」ために、双方にとって合意妥当な解決案に到達することである(Champion, 2005) (p.227)

みたいな紹介になる。

Lainier & Hennry (1998)は次のように指摘している。「ポストモダニズムは、次のような理由から主流派の犯罪学者に厳しく批判されてきた。(1)言語の問題ではなく、非常に理解が困難でであり、(2)虚無主義的かつ相対主義的で、善悪を判断する基準がなく、(3)被支配者層から見ると、非現実的で危険でさえある。(p.285) 平和構築犯罪学は、我々に犯罪における平和を構築するよう迫るが、一体これに何の意味があるのだろうか? 多数の評論家が指摘しているように、犯罪者に対して「紳士的である」ことが犯罪を止めさせることに十分効果的とはいえない。人間苦を低減させることや、犯罪を減少させる公正な社会を実現することは明らかに正しい。この立場に立つ主唱者はそこを目指して闘っている。しかしながら彼らは、「他罰的でなく、犯罪者の視点を理解すべきだ」という提言に一歩踏みこんで、どうやってそのような社会を実現できるかについては何の具体策も提供していない。(pp.229-230)

ずいぶん厳しいけど、主流派から見るとこうなのだな、ってところをふまえて、「それでもなお」って感じで話がはじまるのだと思う。だから研究者には実際の実践とか、その結果のデータとかが重要になるわけだし、私のような鑑賞者は、そういうのをどうやってくれるかに注目して鑑賞することになる。

フェミニスト犯罪学についてもおもしろいんですが、こっちはもうすこし好意的ですね。

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(おわります)

もうしわけありませんが、途中だけどもう終ります。デイリー/カズンズ論争の紹介をしたかったのと、全体の構成その他についてちょっと書きたいことがあったのですが、どのページをひらいてもいやなものを見つけてしまって、もう私は心理的に耐えられないです。ずっとあれやこれや重箱の隅をつついているような感じになってしまう。でも本当に重要な箇所もそういうのが起こっていると思います。

たとえば、第5章第1節、p.165。

例えば、性暴力被害者のジョアンナ・ノディングはRJを通して「対話」に参加した。その中で、ノディングは加害者に「あなたを赦す」と宣言した。そして、「対話」の中で次のように語っている。

私は彼がしたことを許容することも、矮小化することも言いませんでした。なぜなら、私は自分自身を恨みの重荷から解放したかったし、彼にとって大事なことは、彼が自分自身について学び、行動し、赦すことを望むことだからです。(p.165, 下線江口)

下線部、なんかおかしいでしょ。この文献が https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story  これのことならば、原文は

“As the meeting was finishing I was asked if there was anything else I wanted to say, and I gave him what I’ve later come to think of as a ‘gift’. I said to him, ‘What I am about to say to you a lot of people would find hard to understand, but I forgive you for what you did to me. Hatred just eats you up and I want you to go on and have a successful life. If you haven’t already forgiven yourself, then I hope in the future you will.’

“I didn’t say it to excuse what he did, or to minimise it, but because I wanted myself to be free of that burden of grievance, and as importantly for me, I hoped Darren could learn, move on, and forgive himself.”

この部分だと思う。「私が「赦す」と言ったのは、彼がしたことについて免責するためでもないし、それを矮小化するためでもない。そうではなく、私自身を恨みの重荷から解放したかったからです。そして私にとって同じくらい重要だったのですが、私は、ダレン〔加害者か〕が学び、先に進み、そして彼自身を赦すことができるようになることを望んでいたのです。」

細かいように見えるけど、そうではないです。これも被害者が加害者に対して「赦します」と言い、それをあとでそれが「ギフト」であったのだ、と理解するという感動的な話ではあります。でもそれがわからん話にされちゃってる。私こういうの見つけるたびに「うっ」となってもう不快になってつらい。大事なことですが、これは英語能力の問題ではないと思う。

最後の章にデリダ先生が大々的に登場するのは象徴的で、ああしたむずかしくてなにを言ってるのかはっきりわからないこと言われてしまえばもう何も言えなくなるし。著者のまわりの人々にもそういうことは起こっていなかったろうか。

あとは専門に近い人や、性暴力やその対策に興味ある人が検討してほしい。でも本気で検討してほしい。特にジェンダー法学会関係者の人は本気で検討して、評価を教えてほしいです。あなたたちは本当にこの本を読みましたか?

 


(追記)このシリーズでは部分をかなりしぼって、一般読者にもわかりやすいと思われる誤訳の問題を中心にとりあげましたが、この本は事実確認、資料の扱い、そして全体の議論の構成など問題は多く、問題が性暴力とその被害に対する対処という重大な問題であるだけにいろいろ危惧しています。しかしそれらを検討することは私の仕事ではないとも思います。性暴力や性犯罪、その対策などは、各分野の人が協力してオープンな議論することによって改善されることを本当に願っています。(2018/11/12)

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

  • これはちょっと細かいのですが。

私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

私は彼にちゃんと「聞いて」hear ほしいのです。そんな無力な立場におかれたときにどんな感じがするのか、それがどんなひどいトラウマになるのかを。私がいま「聞く」って表現したのは、彼は気にしないかもしれないし、こういうことを完全には理解しないかもしれないからです。それでも私は私の口から出る言葉を直接聞いてほしいのです。だって他の誰もほんとうにそういう立場に置かれなかったら説明できないのですから。表面的なレベルでしか受け止められないにしても、加害者(すべての加害者)はそれがどういう感じであるかを聞く必要があると思います。私にとって一番大事なことは、少なくとも私から直接それを聞くことです。」

これはこの被害者が、意味の理解とかそんなのより、とりあえず物理的に聞くのでいいから自分の声を聞いてほしい、と求めている文章です。listen to じゃなくてhearっていう言葉をつかうのは「とにかく物理的にでいいから聞いて!」っていう感じがでていて、このVSSRさんはほんとうによく自分の体験について考えてる感じがします。最後の would have at least the heard thisのところはわかりません。誤植かなあ。まあこの文章の訳は軽い問題がある、ぐらいです。

ちなみにこのVSSRという記号をつけられた人はけっこう話してくれる、意見のはっりしたしっかりした方で(前のエントリはVSC3さんで、この人もよい)、小松原さんは何回か使っているのですが、同一人物であることを把握しているのかどうか気になりました。読者にはそうしたことがわからないのです。それで大丈夫なのだろうか。正直ななところ、このKeenan先生の報告書にん記録されている30人ぐらいの人のなかの数人の言葉は非常に魅力的で、私は、kenan先生の報告書から、「被害者」としてばらばらにされてしまいひとからげに「被害者」とされたの人々のインタビューの中から、その個人像を再構成してみたいという欲求さえ感じました。こういうのを「〜という被害者もいた」みたい匿名化してに証言をバラしてしまうのは私は好きではない。

修復的司法っていうのはかなりマイナーな研究分野であるだろうし、勉強しにくかったり理解されにくかったりするのはわかるんですわ。それの研究を続けたり、いろいろ読んだりしているのはえらいと思う。語学とかは得意不得意とかあるし、他国の司法制度なんかも、まわりに詳しい人がいないと学びにくいものだとは思う。そういうんで、小松原先生自身を訳程度の問題で非難する気はあんまり強くないのです。私が気にしているのは、こうしたいろいろ穴があるのはまわりの人、特に博論の指導教員とか研究仲間とかはすぐに理解しただろうから、なぜ適切なアドバイスをしてあげてないのだろうかとか、ジェンダー法学会はなぜこれくらい基本的な問題があるのを承知で賞を出すのだろうか、とかそういうことです。それともそうした問題があることに気づかなかったのだろうか。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

    • 第4章第3節も見ておきたい。
    • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
    • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
    • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
    • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
    • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
    • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
    • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

(f) 虐待を告発する際に教会の権威者を問題にすること
教会内の事例においては、被害者陳述のように、RJを通して加害者の責任を追求したいと考える性暴力被害者もいる。(p.154)

  • これは読みちがえているように思う。

f) Dealing with Church Authorities when Abuse Disclosure handled Badly
One victim of clerical abuse whose abuse disclosure was poorly handled by the church was keen to meet a priest to whom she had disclosed through a restorative meeting as she thought there would be healing in it for her.

  • ということなので、加害者の責任も問いたいが、教会当局の問題の処理も問題にしたい、ということだと思う。加害者以外の人物に被害にあったことを打ち明けたのにちゃんと対応してもらえなかった、あるいは不適切な対応を受けたのでそれについて自分で苦情を言いたいということではないか。

(引用)私は彼に聞きたいのです……私は、普遍的な問題として、彼の動機を本当に理解したいと思っています。
(小松原)この性暴力被害者は、性暴力という問題を「個人的な問題」ではなく「普遍的な問題」だと考えている。

  • 原文は “I would truly like to understand his motivations for it in general.” なので、微妙だが、〔女性や社会にとっての〕「普遍的な問題」と読むのは読み込みすぎかもしれない。「彼のそうした動機一般を知りたい」ぐらいではないか。

しかし、私は〔問いの〕答えを得られませんでした。私は〔今も〕動けずにいるし、問いを抱えたままです。被害者として〔加害者に言いたいことは〕、あなたはあなた自身を責め、恥やうんざりした気持ち、ストレスを抱えることになりました……でも私はそれぞれの〔加害者は〕個別で違っていると思います。だから、私は「なぜ、私なのか(Why me?)だったのか知りたいのです。

これは非常に痛切な告白でもあるわけですが、これほど大事なものも誤訳していると思います。

But I haven’t got answers. I’m stuck and I still have questions – as a victim you blame yourself for a lot of things, a lot of the time. You do blame yourself and you suffer a lot of shame and disgust and a lot of – you know, a lot of stress… … But I think each individual is different, I think. So I’d just – I need to know why me?

このas a victim you blame yourselfってときのyouは、被害者になってしまったときのあなた、我々、そして私自身。

「被害者として、私たちはいろんなことについて、すごく長い時間自分を責めてしまいます。ほんとに自分を責めて、恥や嫌悪感、そしてすごい……わかるわよね、すごいストレスに苦しみます。でも人はそれぞれちがうものだと思うんです。だから私は、なぜそれが私だったのか、を知る必要があるのです」だと思う。

  • この”Why me?”というのは、節だけでなく、本書全体を通してつらぬかれる基本的な被害者の声であるわけです。これほど大事な部分で、こういう読みちがいをしてしまうっていうのはどういうことかと考えてしまうわけです。これは英語読解能力の問題だけなのだろうか。前の節でデータと論文を粗雑にあつあっているだけでなく、この節では被害者の言葉さえもまじめに受けとめていないのではないだろうか。
  • これはちょっと書きすぎたかもしれません。でもこの誤訳らしきものは本当に大きいと思うのです。当然専門家が読めばおかしいと思うはず。誰かが草稿段階でこの原稿を読んだらおかしいと思うはずだし、学会賞を出そうという人々が読んでたら、なにかへんだとおもわないはずがないと思うのです。そしてこうした疑念が、わたしをいらいらさせるのです。いまも書きなおしてて、やっぱりいらいらしてしまいました。読んでる人々が不快になったらもうしわけない。でも私はこうしか書けないのです1)それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

 

References   [ + ]

1. それが堅い論文書けない理由でもある……ははは。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

  • デイリー先生の文章の引用

私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

私が訳すると「私は、カンファレンス、より一般的には修復的司法が、性犯罪裁定の問題に対する「解決」になるとは〔カズンがわたしになすりつけているようには〕考えていない。私が信じているのは、犯罪と被害に対応することについてもっと革新的に考えてみることには価値があるということであり、修復的司法はそうした潮流の一つだ、ということである。そうした各種のアプローチが、被害者や加害者に対して有効な司法のなかで邪魔になると考えるのはむずかしい。」

  • ここまで、主にほぼ4章2節の英語の訳の問題だけ見てきたのですが、どれもいわゆる「意訳」や「わかりやすい訳」やケアレスミスだけではない。構文がとれないために意味がとれてないないか、知識がないためか、検討する論文全体を読んでいないため理解できていない、という感じだと思います。こうなると、この本に出てくる日本語の翻訳が出ていない文献からの引用・参照はすべて疑わねばならないことになる。しかしそれはしょっぱなから論文タイトルがまちがっているのを見れば誰でもわかる話でもあると思います。
  • まだ続きます。

 

 

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

p.149

刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

  • まず、イギリスやオーストラリアの裁判制度のなかでの「有罪の答弁」guilty pleaの制度を紹介してもらう必要がありますわね 1)おそらく本書にそうした説明はない。。http://www.courts.sa.gov.au/RepresentYourself/Offence/Pages/Pleading-guilty.aspx こういうんですか。っていうかオーストラリアの裁判所制度がどうなってるかはここらへんからたどればわかるはず。まあそこまでしなくてもGoogle様が教えてくれる
  • んで、この有罪答弁では「被害者が質問して加害者が答える」なんてことになってるのでしょうか。まさか!原文は

The court’s guilt plea process can change (Combs 2007). Rather than ‘perfunctory affairs [in which] questions are mechanically posed, answers are monosyllabically provided, and all of the participants seek to get the proceedings over with as quickly as possible (p.14), Combs propses a ‘restorative justice guily plea’ that would have greater disclosure of the offending by defendant and greater involvement of victims in describing the effects of the offense.

  • デイリーではなくコーム先生の意見であるのはともかくとして、「審問が機械的におこなわれ、それに対してはイエス・ノーだけ(monosyllabically、一音節で)で答えられ、関係者はみな手続をできるだけ早く終らせようとするおざなりな手続き」ぐらいですか。現行で被害者が直接加害者に質問するなんてあるわけない。ここらへんになってるくると、著者はまったく知らないことについて語っている可能性が出てくるわけです。

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1. おそらく本書にそうした説明はない。

『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います 1)この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。


第4章第2節

  • 書誌情報、author-yearの形 (Daly (2006), p.339の形)をつかっているのに、Ibid. も使うのは奇妙な印象があるけど、こういう書き方をする分野があるのだろうか。

p.143

  • デイリー論文タイトルを「歪曲のない記録の位置付けとラディカルな変更への要求」している。原題は“Setting the Record Straight and a Call for Radical Change” なので、「事実を明らかにすること、ラディカルな変化をもとめること」かなあ。set the record straightはほぼ慣用語句。
  • どこか別の場所で『修復的司法─どう実践するか(Restorative Justice: How It Works)』というのも見たのですが、ページ失いました。How it worksは「それはどう機能するか」、くだいて「それはうまくいくか」だと思う。
  • デイリー論文の紹介 https://www.researchgate.net/publication/31045901_Restorative_Justice_and_Sexual_Assault_An_Archival_Study_of_Court_and_Conference_Cases

小松原p.144

「裁判に参加した226例(59%)の少年のうち、118例(31%)がRJのカンファレンスに参加し、41例(10%)が訓告を受けた。その結果、再犯率は裁判が66%で、カンファレンスは48%だった。また「(執行猶予も含んだ拘留などで)〔少年に対して〕責任を追求して脅す「青年脅迫(Sacare Youth)の試みは、最も高い再犯率を示している(80%)。(強調江口)

  • デイリー先生の原文によれば、扱われてるのは385事件の少年365人、そのうち226は裁判所に送られ、別の118はカンファレンスに、41は訓告formal cautionを受けた、ということだと思う。226+118+41=365よね。「裁判に参加した226例の少年のうち」はまったくのあやまり。これ以降、そのまま信じることはできない。
  • 原文によれば、再犯したのは80%ではなく81%。ここのところは、オーストラリアの裁判制度の説明が必要だとおもいます。
  • Scare Youthには脚注がついていて、

「Scared Straight Programのこと。1970年代米国に非行少年に対して行われた犯罪抑止プログラム」

云々という脚注がついているが、これは1995〜2001年の南オーストラリアの話なのでまったく関係がないと思う。原文はThe court’s effort to ‘scare yourth’ with threat to further liabilityということなので、米国の話とは少なくとも関係がないように見える。

「こうした結果を見ていくと、性暴力事犯において、少年が裁判を受けたり、厳しく罪を問われたりすることは、再犯防止にならないということがわかる。」

  • これはこんなに簡単にはいえない。「「もっと厳しく責任を問うぞ」として法廷が若者を脅す」というのは、i.e. detention, including suspended sentencesということなので、裁判所に送られてけっきょく拘留しただけとか、起訴猶予などの処置にされた少年たちが81%再犯におよんだわけだけど、これはカンファレンスや訓告ですまされた少年たちより悪質と考えられて裁判所に送られた少年たちであって、カンファレンス送りの少年たちとは簡単に比べることはできないと思う。

「さらに、裁判はカンファレンスよりも集結までに2倍の時間がかかり、被害者は平均6回も裁判所に足を運んでいた。被害者の負担は大きいのである。それにも関わらず、最終判決に出席しても半分近くの事例は訴訟棄却または訴訟取り下げになるとデイリーは指摘している。」(下線江口)

  • 原文はvictims would have had to attend court an average of six times to lean the outcome of their case。これは、「もし被害者が裁判結果を聞こうとすれば、6回ぐらいは行かねばならなかったろう」ということだと思う。
  • If they appeared in court on the day of finalization, nearly half would find the case was dismissed or withdrawn. 「その日に傍聴にいけたとしても、半分ぐらいは起訴猶予やら起訴とりさげやら」ということ。被害者が裁判所に行こうが行くまいが判決は同じ。これは下のような感じ。
  • 先生書いてないので1パラだけ紹介すると、41の訓告(formal cautions)処分措置にされた全員が罪状を認め終結した。118のカンファレンスのうち、ほとんど(94%)が性的暴行を認めて終結した。裁判所送りになった226件のうち、51%が性犯罪が立証された。4%は非性的犯罪とされ、残りは棄却、起訴取り下げ。226件のなかで公判にかけられたのは18件、8%。Guilty pleaはあとで問題にするけど、さっさと有罪を認めれば裁判短縮してあとは量刑を考えるだけになるというもの。残りのうち14人が罪状を否認、その結果、8人が棄却、3人は無罪。けっきょく、 226件の裁判所ケースのうち、115件は性犯罪が立証された(ほとんどすべてGuilty Plea)、8件は非性的犯罪、100は棄却または起訴取り下げ、3は無罪、ということだと思う。こうした情報を示さないで一部の数だけを示しても意味がない。(あんまり自信ない。オーストラリアの(少年犯罪の)裁判制度の説明が絶対に必要のはず。)

「被害者が証言したのは14例のみで、有罪判決が出たのは3例だけだ」

  • 原文によれば、「裁判所送りになり、さらに公判にかけられた14例のうち、何件で被害者が証言したかはわからないが、仮に14件で被害者が話をするのを許されたとすれば〜」
  • 1ページでこれほどあやまりと思われるものが多いとかなり苦しい。

  • Daly先生の引用

SAASの結果は性暴力への対応における公式の裁判過程の限界をあらわにしている。この限界は〔被害者と加害者を〕対立させる〔刑事司法〕制度に内在している。それは〈告訴された人が加害を否認する権利をもっていること〉と〈法律的な罪を確定する中では証拠を集めるハードルが極めて高いこと〉である。

  • 「被害者と加害者を対立させる刑事司法制度」というのが謎。“The limits inherent in an adversarial system in which accused persons have the right to deny offending and the evidentiary hurdles are especially high in establishing legal guilt.” であって、「〔容疑者に対して〕敵対的な制度」であって被害者と加害者を対立させるわけではない。刑事司法というのは基本的に「国vs容疑者(被告)」だと思いますが、私がまちがっているのか。被害者と加害者の対立は二次的であるはず。(もちろんそれではだめなのかもしれないので、被害者が裁判に参加できる形を模索しているわけだが)

pp. 147-148でのデイリー先生の引用

  • ここは長くいろんな不正確な訳が含まれているので、下に私の訳を示します。
    > 私が思い描いている重大な変更目標は、次の三つの要素からなる。犯行の自白(理想的には、当初からの自白)の増加、(裁判での)事実認定の必要の減少、そして性犯罪と性犯罪者に対する強すぎるスティグマづけの最小化である。弁護士たちは依頼者の権利を擁護するだけでなく、「法的」には有罪ではないとしても事実上有罪であるような依頼者が、その罪を認めることの価値を見出すことにも役目を負っている。私はこのような変更目標がすぐに実行されるとは期待していない。

  • まだ続きます。

 

References   [ + ]

1. この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。