セックス同意年齢の問題(8) 同意能力には何が必要か

このブログの同意の話では、ワートハイマー先生(Alan Wertheimer)の本や論文とりあげることが多いんですが、私がおもしろいと思って読んでるのに、David Archard先生って人のSexual Consentっていう本があります。法哲学者のワートハイマー先生はなんかへんなこと考えながルールをあれこれ模索してるけど、基本的には人間理解がのっぺりしているところがあるんですが、アーチャード先生は法学というよりは哲学や倫理学系の先生で、いかにも人文系哲学者っていう感じの繊細なところを見せてくれるので好きですね。

社会や親が保護するのをやめて、他人とのセックスを許容するに値する当人の成熟とはどういうものであるべきだろうか、みたいなのはいかにも哲学的な雰囲気があってこういうのはやっぱり哲学者にやらせた方がいい。

セックスは身体的なものなので、 身体的な成熟 が必要なのは当然。思春期がはじまり生殖が可能になる年齢をセックスOKな年齢にしよう、みたいな考え方が以前にはあったかもしれないけど、それだけじゃ足りませんね。ちなみに女子の初潮みたいなのは100年前の欧米だと16才ぐらいが平均だったみたいですが今は12〜13才ぐらいとか。日本でも身体的な成熟はおそらく早まってますよね。だから同意年齢まで早めるべきだということにはならない。

やっぱり 認知的な成熟 が重要だろう。ここはちょっと訳出してみたい。

〔性的な〕成熟の年齢について、〔肉体的な成熟より〕もっと見込みのある個人の特徴は、ジョン・スチュワート・ミルが「諸能力の成熟」と読んだものだ。私の解釈では、これはあるレベルの認知的な発達を含むものだ。それには、関連する重要な事実をある理解すること、あるレベルの知識を獲得すること(事実を理解する能力は、まさにその事実がもたらす将来の見込みなしには意味がない)、そしてあるレベルでの人格的・気質的な成熟、つまり、事実を適切に評価し、その評価にしたがって適切な選択の決定をおこなう能力などが含まれる。ある人物が性的な活動についての関連する重要な事実を単に知る、ということだけでは十分ではない。彼女は、セックスするということが何を意味するのかを評価し、その評価の結果にもとづいて分別ある選択ができなければならない。こうした「諸能力の成熟」の特徴づけは必然的に漠然としたものにならざるをえないが、しかし我々が正しい特徴づけを見つける上での方向を示してくれるはずだ。(p.124)

ここのところ、「人格的・気質的な成熟」って訳した temperamental maturity っていうのがなかなか哲学者らしくていいですね。単に知的に成熟して、「セックスすると妊娠します」とかそういうのを学んで理解するだけでは、まだミル先生が「諸能力の成熟」1と呼ぶ段階、他人(親や世間)に干渉されずに自由に行動する自由を手に入れられる段階には到達していない。おそらく、そうした事実を知りその上で「セックスしたい」「大人な恋愛がしたい」という欲求をもつだけでもまだ足りない。セックスや恋愛が人間の生活や自分の人生にとってどういう意味をもつものであるか、という一般的な知識と、それに対して自分は個人としてどういう価値観をもつか、ということについてのある種の好みや傾向性や価値判断をすることができるまでもが、性的に成熟していると判断されるために必要とされる能力に入るのかもしれない。しかしこれ、ずいぶん高級な能力っすね。高級すぎる気がする。っていうかそんなのもってない大人たくさんいそう。でも単に「セックスすると妊娠します」とかっていう知識を手に入れただけではまだ十分に成熟したことにはならない、というのはなんか説得力がある。たしかにそれぞれ自分の内的な過去をふりかえってみたとき、同意年齢を13才というのはちょっと早いと思う人はけっこういるだろうと思わされます。

まあこうしたミル的な高級な能力は、性欲や恋心そのものとはちがって、人々が 自然に 獲得できるものとは限らない。というより、文化やある種の教育を通して獲得される能力ですわね。恋愛やセックスを自分たちの人生や自分自身の「人格」にとって非常に重大なことがらだと考えたりするのは、実は人類に普遍的なものでもなければ、それほど深い歴史はないかもしれない。たとえばフーコーみたいな哲学者なら、そうした考え方はまさに西洋近代に成立した恣意的なものにすぎない、みたいなことまで言うかもしれない。でもとりえあず我々は恋愛やセックスにそうした価値づけをおこなっていて、同意年齢その他の制度を考えるときにもそうした我々の価値観を意識しながら議論しなければならないわけです。少なくともそれと整合的でありたい。

アーチャード先生はさらにいくつか興味深いことを指摘しています。まず、セックス(性的活動)についての知識を得るということは、セックスについてのなんらかの傾向性(好みや欲求)をもつことだ、と言います。セックスとはこういうものだ、ということを知れば、それをぜひやってみたいとか、いつかはやってみたいけど今じゃなくていいとか、そんなことは絶対にしたくないとか、まあそれぞれのひとがそれぞれの欲求を形成するわけです。

ところがこれは「子供は(性的に)無垢なものであってほしい」っていう一部の親たちの願いに反することになるかもしれない。実際には思春期のずっと前から子供は性的に無垢なんかじゃないわけですが、無垢であってほしいと思う親というのは少なくないみたいですね。性教育をするということはけっきょくは子供に性的なものについての(ポジティブであれネガティブであれ)興味を植えつけることであって、具体的でまともな性教育は性的な無知と、性的な無関心の両方をおわらせることになる2。これが具体的な性教育に対する(英語圏の)親世代の嫌悪感や忌避感につながってるのかもしれないみたいなことを言っています。

まあ性教育したらいいですよね。抽象的な形ではなく、具体的に人々はどういうことをしているのか、どういう危険があるのか、男女のあいだにはどういう(統計的な)違いがあるのか、偉そうな顔をしている人々が裏でどんな面目がつぶれたり後ろ暗いようなことをしているかもしれないのか、とかそれぞれちゃんと知ってもらったらいい。もちろん、子供たちが実際にどんなことをしていてどんなことを考えているのか聞いてみるのも大事です。

本当に子供たちを未成熟による危険から守りたいのであれば、単に人々を法律で威嚇し罰するだけではまったく足りない。その上で、同意年齢をひきあげるべきだという発想をもつ人がいれば、なぜそうあるべきなのかとか(おそらく搾取から若い人々を守るためだろうと思うけど)、それによってどういう副作用がありそうなのかとか(それは人々の自由に対する制限を拡大することなのでかなり慎重に考えなければならない)、ちゃんと議論したらいいと思います。

同意能力については他にもいろいろおもしろいネタがあるんですが(特に知的・精神的障害を負っている人々の性的な自由の問題は興味深い)、まあこれくらいで。

(いや、まだ終りじゃなかった。まだ続く)

脚注:

1

ミルの『自由論』第1章の言葉です。「たぶん、いうまでもないことだが、この理論〔他者危害原則、個人の行動の自由〕は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだけ適用されるものである。われわれは子供たちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちは、外からの危害と同様、彼ら自身の行為からも保護されなければならない」(中公世界の名著)

2

子供としての性的な無垢が知識によって破壊される、という話はキェルケゴールが『不安の概念』で気にしている話で、それについては大昔になんか書きましたね。 https://yonosuke.net/eguchi/archives/6725 ここらへんから。

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