動物倫理で有名な田上孝一先生の『99%のためのマルクス入門』が出て、いまどきのマルクス主義者が具体的にどういうことを考えているのかというのがわかっておもしろいのでみんな読んであげてください。以下ツイッタに殴り書きしたのを並べただけ。ほんとは書きなおすべきなんだけど。
おそらくマルクスについてあんまり語られてない部分をつついていておもしろいのでゆっくり読んでみたい。 全部は読めないので、104頁の 「自由恋愛をきっぱりと否定したマルクス」あたりから。
マルクス主義哲学が、セックスとか結婚とかにの理解についても非常に重大な貢献をしているのははっきりしています。マルクスについては昔でたらめな話を書いてて各方面から怒られが発生しているんですが、いずれはちゃんと勉強したいけど時間がない。
共産主義っていうといろんなイメージがありますが、田上先生によれば、マルクスはだめな共産主義思想とよい共産主義思想をちゃんと弁別して、だめなのを排撃してます、みたいな文脈。そのよいやつと悪いやつの違いでけっこう大きいのが結婚や家族制度に関する違いです。これはとてもおもしろい論点だと思う。現代的な意義もでかい、というか、マルクス主義者からして恋愛とか結婚とか生殖とかはどういう扱いになるのですか、という話。田上先生のがどれくらい正調マルクス主義かというのは考えないことにして。
悪い共産主義みたいなのは悪い理想みたいなのをもつものですが、それの一つが「自由恋愛」と「女性共有」です。「女性共有」はWeibergemeinschaftで、田上先生は「「女の共同体」という感じになる」(p.206) ってんだけど、これはどうなんだろうなあ。この訳語だと「女」が主語っぽい印象だけど、「女を共有する社会」みたいな感じ?「ブルジョア的結婚制度」(現在の先進国でも基本的な一夫一婦制のことだと思う)vs. 「女性共有社会」みたいな対立、だけどマルクスはそんなこと考えてません!ということです。
田上先生は「マルクスには恐らく、フーリエが主張したような、ユートピア的に理想化された自由恋愛社会のようなものが念頭にあったのだろう」ってんだけど、まあふつうの人にはフーリエも「自由恋愛」もわからんからねえ1。日本語で「自由恋愛」っていったら、まあお見合いとかじゃない自由に相手を選ぶ恋愛(とそれに続く結婚)を考えるわけで、これは説明不足すぎると思う。
実際には、「特定のパートナーと永続的な関係を結ばない」(p.207)という恋愛とセックスの理想を指していて、この英語だと「Free Love」って表現されるやつは「自由恋愛 主義 」とか「フリーセックス 主義 」とかそういう表現の方がいいんじゃないかと思う。まあとにかく「ブルジョワ的」な結婚が、一対一の永続的・身体的かつ精神的性的関係を指すのに対して、自由恋愛(フリーラブ)はそんなものにこだわりません。フーリエ先生とかがいろいろ奇っ怪なことを言うわけですが、マルクスはそういうのとは距離とってますよ、と言いたいっぽい。まあここはたとえばフーリエがどんなおかしなことを夢想したのか、っていうのは説明してほしかった。
さて、マルクスはどうなの、という話ですが、これは田上先生は非常に重要な指摘をしています。(そしてふつうのマルクス理解とも違うと思う)
……マルクスにとって、「女の共同体」は理想的な男女関係どころか 、「普遍的な売春」であり、他人のパートナーを羨ましがって我が物としたがるという悪辣な所有感情の隠れ蓑となった「普遍的な嫉妬」だとされる。その意味で、この女性共有思想は私的所有の否定としての共産主義であるどころか、私的所有原理の首尾一貫した表出に他ならないとされるのである。
ただ私はこれは普通の読者にはわからんと思う。
田上先生が言いたいのは、おそらく、フーリエ先生とかは「ブルジョワ的」(一対一の永続的)結婚制度を否定して、毎日相手を変更するとか、くじびきするとか順番とかなんでもいいから本能的な欲求を満足できるような社会を夢想して、それを「女性を共有する」って言いあらわしましたが、それはけっきょく女性が誰かれなく男性のセックスの相手をしなければならないという意味で「普遍的な売春」です、と。この「普遍的」もわかりにくくて、これは「女性全員が」の意味だと思う。(そしてその相手の男性全員でもある)まあマルクスがそういうの書いたときは新婚ほやほやハッピーな時期だったのでそんなことは考えてません、と。そんなのは、他人がいい女とセックスしているのをうらやましいものだから俺にもやらせろ、いい女をひとりじめするのは許さない、と言っているようなものですよ。というのが「普遍的な嫉妬」だと思う。
んで、ポイントの「私的所有」「所有感情」が出てくる。ここはものすごいポイントで、セックスと恋愛の哲学の要とさえいえるところ。セックスや恋愛の哲学をやろうとする男性の先生たちは、ほとんどみんなこの「所有」の話を大きくとりあげる傾向があり、これはものすごくおもしろい。藤田先生も鈴木先生も、「所有」論が議論の核になってる。まあ現行の結婚制度が、「男性による女性の所有である」っていうのは基本的なアイディアで、まあそういう話の筋の上で読まないとならない。
…… マルクスは、男性の女性に対する関係こそが、人間の自然な、それ故に本質的な関係だとする 。(p.208、強調江口)
これは非常に重要な一文です。ただし、これは私が見るところたいへんよろしくなくて、「男性の女性に対する関係」がなんだかわからない。これ、訳の問題なんじゃないかと思うんだけどどうだろう?もちろん原文(『経済学・哲学草稿』かな?)は見てないけど、「 一人の男の一人の女に 対する関係」≒ 「 一夫一婦関係 」じゃないのかなあ。粗雑共産主義の乱婚的セックス的理想に対して、マルクスは一夫一婦関係こそが自然で本質的で望ましいと言ってました、とかそういうんではないのか。
……マルクスは、男女関係は人間にとって自然であり、両性がお互いに魅かれ、永続的なパートナーシップを結ぼうとするのは自然な心の働きであり、自由恋愛はその言葉に反してむしろ不自然で人間の本性に反していて、人間がそれを目指すべき価値という言葉本来の意味では自由ではないとしている。
ここも「男女関係」では説明というか記述が不十分で「一対一の」ってつけるべきだと思う。「両性」も単に男女っていう意味ではなく、 一人 の男と 一人 の女の関係ではないだろうか。いやもちろん私マルクスなんか全然知りませんよ?でもそうだろうと思う。
乱婚的・みさかいのない・軽薄な「自由恋愛」が実は自由ではない、というのは、人間は本性的に一対一のツガイになるべきものであるからして、それに反していろんな相手とセックスしたりするのは自然に反していてむしろ不自由です、とかそういう理屈ね。まあ話としてはおもしろいので、それが一般読者に伝わるようになってるのかどうか、というところが残念な感じがある。わかる人はすぐにわかるのかもしれないけど、私はしばらく文章を見て考えないとたどりつかない。
それだからマルクスにとっては、男性の女性に対する関係は、「人間の人間に対する最も自然な関係」だとされるのである。
ここもまあ、一夫一婦の男女の関係は、二人の人間どうしの関係としてはもっとも自然的なものですよ、同性の友人関係とか同僚とか戦友とか同志とかそういうのよりずっと自然的・本性的です、みたいな。
男女関係のあり方において人間の精神的な発達水準が測れるし、「人類の全発展段階が判断できる」
ここがなかなか微妙なところで、一夫一婦の永続的ロマンチックな関係というのは、いろいろ微妙なところがあるのですが、それほど自然的ではないというか歴史的にはわりとあたらしいヨーロッパ的理想だって言われてるわけだけど、マルクス先生はロマンチック一夫一婦こそ自然的であり、 かつ 先進的である、みたいなけっこう逆説的な議論をしているわけで、ここもなかなかおもしろい。そういう議論をする余地はあるだろうとは思う。古代や中世的な社会では、まだ人間の「真の本性」みたいなのが十分実現されてないなかったけど、いま次第に実現しつつあるのです!、みたいな感じになるんかな。当然ヘーゲルっぽい感じもある。
田上先生の評価としては、
「これまでの研究では強調されることが少なかった「愛」という要素が、マルクスの中にあっては実は重要な位置を占めるという点に注意を促す必要があるということである。」(pp.208-209)
これはたいへんおもしろい指摘で、おそらくオリジナルでもあり、たいへん高く評価したいところなんだけど、ここまで「愛」っていう言葉使われてないからあれなのよねえ。どっかでマルクス自身の文章を見つけて入れといてほしかった。それが出てこないと、「一夫一婦関係を称揚しているのはわかりましたが、それあ本当に(我々が考える意味での)「愛」ですか、っていうか田上先生はそもそも「愛」ってどんなものだと思って書いてるのですか、みたいなことになってしまう。
ああこういう感じで、田上先生によれば、マルクス先生は、「自然的家族の解体を求めるどころか、むしろ自然的な家族的人間関係の重要さを強調」していました(p.212)。まあ言わんとするのは一夫一婦の核家族、だと思う。ここから田上先生はマルクス思想の現代的意義にジャンプする。
我々が否定すべきなのは男女平等の理念に反し、子供の人権を軽視する家父長的な家族関係や、金銭的つながりを愛情に優先させるようなブルジョワ的家族観であって、家族そのものではない。
まあいいんだけど、「自然的」なのが「男女平等」だったり、「家父長制」が自然に反するのかというのはまあ他に論証なり論拠なりが必要なんちゃうかと思う。でもまあこれでいいんかな。
「永続的パートナーシップを結婚制度という形で保障するというのはどうなのか」(p.213)
現代的な問題の核にせまりつつあります。「永続的」っていうのがここまでちゃんと規定されてないのはちょっと気になるんよね。「一定の期間続く」なのか「ずっと続く」なのか問題。永続的ってんだから(両方が生きてる限り)永遠に続く、だとすると、それって本当に自然的ですか、という話になっちゃう。ほんとに自然的ですか?
田上先生は、国家や社会がパートナーシップ(結婚・恋愛・家族)を制度的に裏打ちする必要ありますか、不要ではないですか、と問う。なぜなら「二人を結びつけているのは制度ではなくて愛という私的感情だからだ」(p.213)と。
もう一回書くけど、「愛」はマルクス先生自身の言葉では出てきてないし、人間どうしの(このタイプの)「愛」がどういうものかというのはあんまりはっきりしていない。ただし、「 愛 を広く理解し、それを 打算に拠らない信頼に基づく人間関係の原理 とするならば」(p.209)っていうのはある(強調江口)。これはちょっと広すぎるというか、少なくとも男女や家族を緊密に結びつける「原理」としてはもっと限定や明細化が必要だと思う。「恋愛」とかだと、スタンバーグ先生なんかは情熱、親密さ、コミットメントの三つが主要な要素です、みたいな理解をするんだけど、田上先生の「愛」はおもに親密さの話になってんのかな。まあスタンバーグの図式ではうまく理解できない。相互の信頼と互恵的な関係、かなあ。でも「打算抜き」だしねえ。まあとにかくそうした打算抜きの好意的関係みたいなのが、永続的なコミットメント(たとえば約束・契約)とそれを強制する社会的な圧力なしに維持できますか、というのが問題の核にあると思う。
まあ戻ると、マルクス先生はそこらへんの問題をどう考えてましたが、社会制度としての一夫一婦結婚制度は必要なんですか、という話。
現行の社会では結婚制度によって親子関係を安定化したり、税制等で様々な優遇措置を取ったりすることで、次世代の再生産を利することが目論まれている。しかしこうした社会の安定と個人の安寧の保障は、結婚しようがしまいが社会成員全体に与えられるべきもので、結婚制度で優遇化すること自体が、社会保障の不備を意味するものである。当然共産主義のような理想化された社会では、婚姻の有無に関係なく個々人の社会権は高い水準で実現されている。なおさら結婚制度の存在根拠はなくなっているだろう。(p.213)
ここは重要なんだけど、わかるようでわからない。まず結婚制度の利点なり機能なりをちゃんと列挙なりなんなりするべきだ。(1) 親子関係の安定、はOK。もう一つは、(2) (子育てする上での)経済的な安定、安寧かな? (2) の方の生殖の話はどのていど限定的なのかよくわからない。本当の問題は、この二つだけで結婚制度の目標・機能として十分ですか、ってところなんだけど、十分ですか?相互扶養の義務、はわかりやすいけど、特に 性的な排他性の保障 みたいなのは必要ないですか?
結婚制度がないと子供の親権等で混乱するのではないかという意見もあるだろう。だがこれは親である二人が一人の市民同士としてどのような人間関係を築けるかという個人的な問題であって、結婚制度とのかかわりは非本質的である。p.213
まあそうなんだけど、ていうか結婚制度による(少なくとも女性の方の)性的排他性が保障されないと「父性の不確実性」も保障されないので親権どころの話ではなくなるのではないか……でもまあとりあえず親権の話。
実際現行の結婚制度が仲違いした二人の子供の処遇を安定化させることなどない……全ては親である二人の個人としてのパートナーンシップのありように左右される。(p.214)
まあこういうのは甘いんじゃないかと思うけどどうなんでしょうね。親権というよりは子供の扶養義務、親にちゃんと子供の面倒を見させるにはどうするか、みたいな話が重要だと思う。たとえば離婚したカップルの片方にも扶養義務を課して養育費を払わせる、みたいなの、理想的共産主義社会では必要ありません、というのならまあそうだろうけど、それって夢すぎると思う。
大きな問題として、そもそものマルクス先生の「 永続的な 一夫一婦」はどこにいったのだ。男女の関係が「永続的」ではなく、「適当な一定期間の自発的な協力関係」みたいなのでいいなら、もういわゆる「自由恋愛(主義)」となにも変わりがないわけで、ここらへんぜんぜん議論が不十分だと思う。
たしかに、人間の多くは、「恋愛」しているときは「永続的な一夫一婦関係」を望むかもしれないけど、それはあんまり長続きしない。ヘレンフィッシャー先生なんかは3年ぐらいで恋愛のノボセみたいなのは消えうせる、って言ってるし、「7年目の浮気」とかっていう映画もあるし「3年目の浮気ぐらい大目に見てよ」とかっていう歌もある。でも我々はそれからもいっしょにいる約束や信頼とかがないと生きていけないという面もある。そこでとにかく長年の関係を保証する結婚という制度を用意して、それに自分たち自身を含む人々を縛りつけあう必要がある。ここにものすごい大きな問題があるわけですよね。また浮気や嫉妬にまつわる問題も深刻で、誰と誰がセックスするかということでは人類は長年多くのいさかいを経験してきているわけで、それをどう解決するのか、というのが社会の課題ですわね。
「結婚制度がないと相続等でもめるのではないか」という問題については、そもそも共産主義社会では相続とか必要ないので、みたいな話になってるけど、まあそれはそれでいいのかもしれないんだけど、でも実際に大きな財産をもっているひとはそれを血のつながった子供、あるいは血がつながってなくてもなんらかの緊密な関係をもっている人々に与えたいと思うようで、それも人間の本性かもしれない。さらには相続を受ける側の争いもある。ここらへんは本当に争いが多いし、まさにそうした争いが人間の本性とさえ言えるようなものに私には見えるので、少なくとも私にはまったく説得力がない。プラトンやフーリエのような頭おかしいようなこと言ってる人々はすくなくとも人間の利己性や、それとセックスや生殖の関係ははっきり理解していたわけで、マルクス先生が(若いときだけでなく最終的に)そうした問題にどういう解答を提出していたか、というのはこれはおもしろい課題だと思う。
この独占の話はあんまり出てこないみたいだから、いちおうおしまい。「人格をまるごと所有する(のはだめです)」みたいな話のところで出てきそうだったんだけど。まあマルクスと田上先生が「パートナーシップ」における性的な独占・「所有」とかの問題をどう考えるか、というのもおもしろいところ。いずれ期待したい。
あと私が気になっている点として、社会がどんなに人々(特に子供)への福祉を充実させ、結果の平等に近づけたとしても、人間は比較する動物であり自分や子供に他よりも有利な状況をつくりたがるものだと思うんよね。そのときに、パートナーシップはものすごく有益だと思う。早い話が一人で育てるより二人で育てるほうがずっと有利で、よい教育その他よい環境を子供に提供できる。そこで女性の方は男性の資源を自分と子供に独占する動機は十分にある。一方、男性の方としては父性の不確実性はなんとしても減らしたい。てので、コミットメントと強制をともなった一夫一婦制度は(そうした人々には)かなり有益な制度だと思う。みんながまったく平等な収入を確保された社会でさえそうしたことが言えるんじゃないかと思う。
ここではセックスと結婚に関係しているところだけ取りあげましたが、全体にマルクス主義者哲学者が現代の社会的課題に対してどういう答を用意しているか、というのが展開してあって、とても興味深い本です。ぜひ読んで感心したり批判したりしましょう。納得したらマルクス主義者に転向したりするのもよいかもしれない(私はしませんが)。
脚注:
https://yonosuke.net/eguchi/archives/4047 ← これに福島先生のやつに関係してちょっとだけ書いた。
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