まあ森田成也先生の本読みながらいろいろ考えてしまったんですが、少しワイツァー先生の紹介したい。この先生はアメリカの犯罪学者で特に売買春とかトラフィッキングとかの専門家です。先生はとにかく実証的なのが好きでちゃんと調査する人なんですね。売春、というかセックスワークについても翻訳がある。これはよい本なのでそういう問題に関心のある人はぜひ読んでみてください。
これは1999年のやつの翻訳なんですが、2022年のアップデートされた版もあります。
んで、その調査の中身じゃなくて、先生の考え方を紹介しておきたいんですわ。
森田成也先生たちの「ポルノ・買春問題研究会」は積極的に英語圏の議論を紹介していて読みごたえがあります。メリッサ・ファーリー先生やジャニス・レイモンド先生といった人々の名前も見えますが、ここらへんは有名な先生たちですね。基本的にはっきり「ラディカル」なフェミニズムの先生たちが中心です。ぜひ読んでみてください。
んで、ワイツァー先生はこうしたラディカルフェミニズム系の反売買春にはかなり批判的な人で、むしろその批判の第一人者っていってもよいくらいの人です。下のやつの最初の方に、2000年代から2010年ぐらいまで先生が自分の実証的な立場をはっきりさせた結論みたいなのが出ている。
Weitzer, R. (2009) “Sociology of Sex Work,” Annual review of sociology, 35(1), pp. 213–234.
まず、社会学で歴史的に売買春がどう扱われてきたかというと、最初は(1) 逸脱行動として売春を見ていたわけです。なんで売春みたいな社会的逸脱をする人々がいるのだろうか、なんらかの異常なのだろうか、みたいな話ですね。買春する方はなにも注目されない。
1970年代ぐらいの第二波フェミニズムあたりから、売買春は(2) ジェンダー関係、男グループと女グループの関係、特にグループ間の「支配/従属」関係としてとして意識されるようになる。もちろん男が女を支配しています。そしてそのあとに、(3) 職業セクターとして見られるようになる。これは他の職業と同じ「ワーク」の一種として見るわけですね。
「ジェンダー関係」「職業セクター」という見方は対立することが多くて、それを研究する人々の間で、(a)抑圧パラダイムと(b) エンパワパラダイムが対立している。
「抑圧パラダイム」 はラディカルフェミニストの考え方で、売買春はジェンダー関係であり、そこには必然的・本質的に搾取と従属化と暴力がともなう。ポルノやストリップもそうした女性の支配と抑圧そのものです。キャスリン・バリー、アンドレア・ドゥオーキン、キャサリン・マッキノン、シーラ・ジェフリーズとか早々たる面々で、ザ・フェミニズムっていう感じですね。売買春関係だと、先の「ポルノ・買春研究会」が推しているメリッサ・ファーリー先生やジャニス・レイモンド先生たちが代表格の研究者で、売春者の多くは子どものころに性虐待され、ローティーンからセックス業界に入って、ピンプに搾取や日常的な暴力を受けひどい目にあっている、というそういう図式です。
こうした抑圧パラダイムの研究者・作家の先生たちの文章では、売春女性の苦境を表現する多用されるし、「性奴隷」「金銭レイプ」「サバイバー」とかのドラマチックな表現が多用されるし、「売らされた女性」prostituted women (「買われた女性」かな)とか受け身の表現も多くてとにかく女性は被害者である、ってことになる。
ワイツァー先生はこういうのに批判的なんですね。先生に言わせると、こうした人々の研究論文は、学問の正道からはずれている。ちゃんと広く調査されずに、個別の事例(アネクドート)が過剰に一般化されているし、調査しているかのように見えても調査サンプリングが非常に選択的だし、そうした抑圧としての被害者像とはちがった反証事例が無視されてしまう。売買春にかかわってしまって最悪の境遇にある人々が典型にされてしまっている。文献も仲間うちというか、自分たちの意見にあうものだけが引用・参照されて、批判的なものは文献リストに載らない。
一方には 「エンパワメントパラダイム」 がある。これはいわゆる「セックスワーク論」で、セックスの売買がふつうの「職業」として成立すると考える立場です。そしてセックスワークは場合によっては、女性のエンパワになる、っていう話ですね。他の経済的取引と同じように、企業化・組織化されてもかまわないと考える。セックスワークがごく日常的である側面を強調して、マッサージやカウンセリングと同様の職業だとか、場合によっては一部の人には、田舎町によくある偏見や、出口のない低賃金労働や、危険なストリートや、息づまる家族関係よりもずっとすばらしい職業だと主張したりする。現状はともかく、もし道徳的スティグマが解消されれば、セックスワークは女性の選択肢の一つとしてエンパワになる可能性はあるし、現在でも一部の不利な人々にはエンパワになってる側面がある、論じる。
ワイツァー先生に言わせば、抑圧パラダイムもエンパワパラダイムも、どちらも一元的な発想だっていうわけです。「売買春」っていうので、その活動がぜんぶ「抑圧」か「エンパワ」(解放)かどっちかだ、みたいになっちゃうっていうんですね。
ワイツァーは(c) 多型パラダイム (Polymorphous Paradigm)っていうのを提唱していて、実際には売買春という活動や営みは、時代、場所、セクターでずいぶんちがった活動であり、参加者にもそれぞれいろいろちがった経験だと。つまりまあ「売買春」っていってもいろいろありますよ、って話です。あたりまえといえばあたりまえなんですが、売買春だのポルノだの性被害だのって考えてるとだんだん視野が狭くなっていって「AはBにちがいない!」ってやっちゃうけど、そういうのおかしいですよね。
ワイツァー先生たちによれば、たとえば売買春/セックスワークっていったこういう違いがある。
「コールガール」(独立)、「エスコートクラブ」(デートクラブ?)、売買春店(日本のソープランド?)、マッサージパーラー(日本の風俗に対応?)、バーやカジノ、「ストリート」、といろんな層がある1。「コールガール」は、魅力があって自分で自分に値段をつけてお客さんを選んだりするので、値段は高いし暴力リスクは低いし搾取もされにくいけど、ストリートでお客さんひっかける人々は値段も安いし危険は多いし地廻りのヤクザみたいなのからカスリとられるしものすごくたいへん。中間のマッサージパーラー(日本の風俗?)とかはすごく安全だけどカスリもとられるので微妙とか。
まあこういうふうに売買春とかセックスワークっていっても一枚岩じゃなくて、いろんな形態があって、そういうのちゃんと分けて見ていかないと人々の不幸を減らすうまい政策はとれません、とかそういう話です。
日本だと、要友紀子先生に代表される「セックワーク論者」は上の「エンパワパラダイム」よりはワイツァー先生の多型パラダイムに近い形で産業を見ていて、やっぱり危険や搾取もかなりあるからちゃんと支援しよう、みたいな話をしていて、完全な「エンパワ」組はあんまり見かけませんね。まあ英語圏でもワイツァー先生が言うような楽天的・楽観的な人々はそんな多くないと思う。そういうんで、ワイツァー先生の実証的な派閥が、ラディカルフェミニズム/抑圧パラダイムに対立する大きな派閥になっているわけです。
同じことはポルノグラフィーに関する議論にもいえて、これもワイツァー先生いろいろ言ってるのですが、また。
下のは別の先生のだけど、アメリカのポルノ産業の調査。
脚注:
要友紀子先生がジェンダー法学会で売買春について講演してたときに、日本の風俗に関するこのタイプの表を見せてくれてたんですが、どっかにないかなあ。
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