投稿者「kallikles」のアーカイブ

遺伝学の基礎を誰か教えてあげてください

http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071002

 遺伝病(=相続病)とされる病気において、孤発例が観察されることがある。例えば、遺伝病の典型と思われている血友病(X染色体連鎖遺伝)では、稀に女児の発病例が報告されるだけでなく、何と三分の一が孤発例とされている。これは、どういうことだろうか。教科書的な説明は二つある。新生突然変異の故にとする説明と、家系の種々の事情(追跡不能、病歴記録欠如、他病による早世など)の故に孤発に見えるだけと示唆する説明である。しかし、それで説明が付くことになるだろうか。そこに嘘はないにしても、何ごとかが解明されずに曖昧にされてはいないだろうか。

孤発例の人間が子孫を残すなら、家系を創出することで、いわゆる創始者効果を発揮することになる。そのまま進行するなら、孤発例は消失して、すべてが通例の遺伝様式に従うことになるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、それでも孤発例は出現するはずである。ところで、孤発例の人間が<優生>によって(殆ど)子孫を残せずに歴史が推移してきたとするなら、どうなるだろうか。孤発例が突然変異によるなら、やはり孤発例は出現するはずである。以上を勘案しながら、(発病に<都合のよい>)突然変異率や遺伝子分布均衡などについて語るにはどうすればいいのだろうか。ここでも明らかなのは、<優生>には如何なる集団的合理性も無いということだが、それ以上に気にかかるのは、例えば、<三分の一もの孤発例を伴う遺伝病>が起こるようなポピュレーションとは何なのかということである。他の人びとは、<孤発例を必ず伴う遺伝病>なる概念に理論的不安を感じていないのだろうか。その不安をめぐる問いを正しく定式化する力は私には無いので、識者に教示を願いたい。

なんにも曖昧なところはないし、「孤発例を必ず伴う遺伝病」という概念になにもおかしいことはない。これからも運悪く血友病になる変異遺伝子をもつ人が出てくるだろう。宇宙線とか化学物質とかいろんな作用で遺伝子に影響があるのは避けられないのだから。

もしかしたらdesdel先生は、実体として特定のDNA配列の「血友病の遺伝子」ってのがなんか一種類ある、さらには一種類しかないと思ってるかもしれない・・・いやいくらなんでもそんなことはないだろう。あれ、私自身最初は「血友病の遺伝子」って書いちゃってるけど、まあこれは実体としてそういうのがあるってんじゃなくて、ある部分に異常があると血友病になっちゃうってことで。なるほどこういう書き方が誤解をまねくんだな。失敗失敗。

識者に教示してもらうまえにそこらへんの遺伝学や遺伝病の本でも読んだらどうか。木村資生先生の『生物進化を考える (岩波新書)』ぐらいでもいいじゃんね。木村先生がわりと単純な優生主義者だから読むのがいやだというわけでもあるまい。コメント欄あけておけば誰か生物学の基本を知ってる人が教えてくれるんじゃないかと思う。はてな人力検索で質問してもいいじゃん。「孤発例を必ず伴う遺伝病という概念はおかしくないですか?」とかけば、たくさんの人が答えてくれるはずだ。100はてなポイントで十分だろう。

まあブログで出版原稿を書く試み(これはかっこいい)で、「識者に教示を請う」のはただの飾りなのだろう。

追記

まあ好意的に読めば、よくわからない劣性の遺伝病因子とかきっととんでもなくたくさんあるね、とか、変異もっちゃうことってけっこうあるんだな、とか、血友病は伴性遺伝だから目立つんだな、とかそういうことなのかな。哲学者とかは「どんな病気も遺伝病である」とかっていいたくなるのかもしれない。実際、われわれがもっとよい免疫システムもってれば感染症さえかからないかもしれないわけだし。もっと生物として優秀ならガンも糖尿病にもならないかも。人間じゃなければ老化もないかもしれん。でもこういうのって「遺伝病」ってのを医学的な文脈とは違う使い方しちゃってるよね。

そういや上の木村先生の岩波新書のちゃんとした批判て見たことないような気がするな。先生はたしか(手元にないので正確じゃないけど)「現代の福祉社会では変異が淘汰されずに蓄積されて有害だから、ある程度優生考えないと」とな感じの主張してたはず。なんかそこのところは根拠があやふやで議論がおかしかった記憶があるんだけどね。ビッグネームで岩波新書だから一般読者には影響力大きいんじゃないだろうか。だいじょうぶなのかな。もう古いからどうでもいいのかな。お亡くなりになってるらしいから改版もしないだろうし。

あら、美味しんぼの出典がちがった

実際、『美味しんぼ』(雁屋哲・花咲アキラ、小学館)については前からいろいろ困って考えたりしている。

美味しんぼの出典がまちがってた。56巻の「犬を食う」には京極さんは出演してなかった。

下のフォーリーさんは捕鯨反対運動家であり菜食主義者。

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その原罪なるものによって子牛を貧血にしたり、ガチョウに無理矢理エサ食わせて脂肪肝にしたりしているのだろうか。たしかにおれたちは罪深い存在なんだ。

でも「悪」や「罪」でも、なんでも同じ重さではない。きっと山岡さんも、牛苦しめるより米食う方がずっと悪くないと思うはずだ*1。そのとき、山岡さんはすべての生命はまったく同じ価値があるとは思っていないはずだ。肉食うにしても、まったく運動させずに肥満させたり、ビール飲ませて霜降りにしたり、鳥に日の光当てずに羽も伸ばせないようなところで育てたりするよりは、健康な生活送らせた動物を食べるほうがまだましだと考えざるをえなということは認めてくれるんじゃないかなと思う。

まあ山岡さんの発言の背景にある「おまえたちのうち、罪のないものがまずこの女に石を投げるが良い」ってのは正当な主張だ。でも、道徳的な主張は、他人を非難したりするのに使われるだけじゃなく、人々や自分自身に対するガイドでもあって、私はそのガイドがどういうものであるべきか知りたいね。

あ、動物の飼育環境その他は人々の運動や法的規制などによって一時期よりずいぶん改善されているらしい。世界はよくなっている(はず)。

13巻も発見

13巻の「激闘鯨合戦」の山場。捕鯨反対だが肉大好きのジェフを騙して鯨食わせてうまいと言わせ*2、さらに鳥をみんなで楽しくシメてから。

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このニワトリさんたちはけっこう幸せそうだ。ニワトリ中の富裕階層。(空間的余裕とエサを地面から探しているのがポイントらしい)

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まあ鯨と牛にそんな違いがないなら山岡さんの言うことは正しい。でも植物と哺乳類の間にはずいぶん違いがあるぞ。

ジェフももうちょっとがんばればいいのに。

「人間は戦争して殺して強姦せざるをえない悲しい存在なんだ」とか言ったらやっぱりひどいと非難されるような気がする。けっきょく、人間はなにかを選択できるからね。

とにかくわたしはラーメン食うのをなんとかして正当化したい(罪悪感の問題ではなくガイドの問題として)。でもなかなか困難。どうしたらいいのかなあ。

*1:私はぜんぜん悪くないと思う。

*2:これは非難されるべきだと思う。非常に不正だ。そういうことはやっちゃいかん。私だったら殴りかねない。食い物関係の恨みは強烈だよ。

加藤秀一『〈個〉からはじめる生命論』

(NHKブックス)

  • 2章でロングフルライフの議論からパーフィットと全面対決しているのはすばらしい。 議論が成功しているとは思えないけど*1、非同一性問題のところは難しくてふつうの人はなかなか手が出せないところなので、
    がっぷり戦おうという気概がすばらしい。論述も手探りで哲学している感じでよい。
  • 若い人々がこれ読んで、自分でパーフィット読んでみていろいろ発展させてくれるといいな。パーフィットはなんというか怖がられてるんだよね。ちなみに次の本になるはずのClimbing the Mountainの草稿もネットで公開されているので若い人はぜひ読もう! パーフィットの議論に穴を空けられれば世界的名声が。世界中の哲学若者がギラギラと狙っているはず。
  • 「われわれの議論では」「われわれの結論は」は勘弁してほしい。それはたいていの場合加藤先生の直観的判断にたよってるので。
  • 全体に「プラグマティックな解決」とかってときの意味がよくわからない。「理論的にはあんまりすっきりしてないけど、とりあえず多くの人が納得しそうな」なのかなあ。「私の直観によくあう」という意味ではないだろう。強硬なプロライフの人は加藤先生の議論に納得しないと思うけどね。そういや、同じようなことを言うAnthony WestonのToward Better Problemsの翻訳がどっかから出るという噂があるらしい。
  • 第3章は一番言いたいことなのかな。いろいろ本気な感じがする。加藤先生の直感はいつもながらすばらしく切れるが、どこまで正当化できるか。
  • 永井豪の「真夜中の戦士」を参照していて感動した。そう、あれジャンプに載ったときは衝撃的だったんよね。あのころのジャンプはすごかった。
  • 第4章はフーコー、アガンベン、アーレントとぞろぞろおなじみの華々しい名前が出てくるけど、どうなんだろう。3章に比べると議論の「本気さ」が足りないような気がする。
  • やっぱり「権利をもつ」ことと「道徳的配慮の対象になる」ことの区別がついてないのが気になる。「シンガーの動物の権利論」(p. 212)とか。シンガー先生は「動物は道徳的配慮の対象になる」とは言うけど、動物がなんかきっちりした「権利」もってるとまでは主張しないはず。まあこれはしょうがないか。
  • でもなんで国内ではこんなに「権利」が軽視されているのか([道徳的配慮の対象となる」程度のと混同されているのか)ってのはほんとうにまじめに考える必要がある。もちろん、ハートやドゥオーキンが言うような「誰もが平等な道徳的配慮の対象になる権利をもっている」程度の非常に弱い意味の権利は誰でも持ってるんだけど。ほんとうに「権利」は難しい。ここらへんよい参考書はないのかな。調査すべし。
  • 「関係性」が重要だとかってのはたいていの功利主義者は認めるわけだし・・・
  • もちろん、シンガーの文脈では火星人もロボットもある条件(「利益をもつことができる=なんらかの欲求をもつことができる」)を満せば道徳的配慮の対象になる。アトムとか「真夜中の戦士」の登場人物とか完全に道徳的配慮の対象。
  • 全体と通してオリジナル。オリジナリティのあるひとってのはほんとうに重要だ。でもパーフィットその他の文献の調査として読むのはやめてほしい。オリジナリティと文献調査の正確さってのは相性が悪いのかもしれない。

あざとい読者サービス

せっかく稲葉先生がトラックバック送ってくれたので、あざとく数少ない読者サービスしてみたり。

もしも本気であらゆる生命を讃えるならば、胎児を殺すことはいけないとか、障害者差別は許されないとかいったハンパな主張に安穏と留まることなどできるはずがないのである。なぜなら、胎児の組織の一片、障害者に寄生する細菌どももまた、生命であるという一点においては人間とえらぶところがないのだから。人間を生かすために病原菌を殺すことを肯定するのならば、それはもはや文字通りの「生命」の肯定ではない。そこにはすでに、殺してはならない存在者と殺してもよい存在者という区別すなわち存在者の序列化が密かにもちこまれている。(p.210)

この加藤先生の主張はまったく正しい。これがわかっていてなぜ昨日書いた第1章のような議論になるのはよくわかない。これに対して x0000000000 (0が多すぎると思う)さんはこう書く。

そうだろう。だが、僕は台所にいるゴキブリを殺したりするのである。それは、「生の無条件の肯定」を主張する僕と齟齬をきたすのか。そうではない。僕は、ゴキブリを殺すとき、「正当だから」殺しているのではない。つまり、ゴキブリを殺すことは悪である、という前提に立って、「悪をしでかす僕」としてゴキブリを殺している。僕は、そんな僕を正当化しない。
)

『美味しんぼ』第53巻(?)の「犬を食べる」での京極・山岡が菜食主義者の外国人をやりこめた議論と近い。かぼちゃかなにかの発芽の様子の映画を見せて、すべての生物が生きてるから牛豚犬とか食うのは道徳的に問題があるという人々をやりこめる。「それを仏教では業というな」「俺たちは罪深い存在なんだ」とかそんな感じ。

このタイプの議論にはずいぶん長いこと悩んでいるのだが、人々に理解されにくいのは、道徳的な主張には過去の行為の(狭い意味での)正当化の文脈と、これからの行動のガイドの文脈があるってことなんじゃないかと最近理解しはじめた。

X0さん(ごめん0省略)がゴキブリを殺すのを「正当化」しないのは立派なことだが、次もX0さんは台所でゴキブリを殺すだろう。でもネズミを殺すのもっと抵抗があるかもしれず、かなり自分が困ってもギリギリまで人間を殺そうとはしないと思う。そういうこれからの行動のガイドになっているのはいったいなんなの?ってのが広い意味での正当化の問題なんだよな。すべての生命がほんとうに同じ価値があると信じているのなら、これまでの行為を正当化しなくても、次の行為についてはそれがガイドになるはずだ。私はカボチャは平気で食べる(好き)だけど、豚を食べるときはあんまり平気じゃないし、できればなるべくよい環境で育った豚を食いたいと思っているし、これはとりあえず私にとって一定のガイドになっている。(私はあんまり道徳的でないのでなかなかガイドにしたがうことができない)

京極さんや山岡は「なんでも生きてるからなんでも同じ、だからうまいものを食う」と正当化するわけだが (実際にはよい環境の鳥や牛を食う努力をしているらしいが*2)、これはこれまでの行為の正当化と、これからの行為のガイドを混同しちゃってる。というか過去の行為の正当化の文脈ではやっぱり結局どうにも正当化できないから、これからもなんでもやる、という非常に怪しい議論に近くなってる。これじゃだめだ。これまで悪をなしきたことは消すことはできないが、これからその悪を減らすことはできるし、そうするべきだ。これまでゴキブリを殺して悪をなしたと本気で思っているのであれば、次はゴキブリを殺すことをなるべく避けるべきだ。これからもゴキブリを殺しつづけるのであれば、そしてゴキブリは殺すけどネズミや胎児は殺さないのであれば、なぜそうするのかを(できれば)説明してほしい。私は少なくも自分自身にはそれを説明したい。もちろん、自分が選択の余地なく「ゴキブリを殺さざるをえない」と本気で感じるのであれば、そこに選択する余地はないのだから、そういう意味で正当化する必要はない。

でもそれを認めれば、「私はレイプせざるをえない」と感じているひとがそうするのを道徳的に非難する理由もなくなってしまうかもしれない。まあここらへんはよくわかんないけど、こういうのはできるだけ避けたい。

おそらく、京極・山岡・X0の議論は、実は「私はそれに相応の罪悪感を感じているから正当化される」ってな感じになってしまっているんじゃないかと思う。おそらくX0さんはこの読みは不満だろうと思う。その不満は理解できる。でも私はやっぱりまずはガイドについて話をしたいと思う。なんらかのガイドを発見し、それに従うことができなかったときにそれに相応の罪悪感を感じるべきだ。X0さんが次にゴキブリを殺し、ネズミは殺さず逃がすとしたら、その違いはどこにあるんだろう? 次に他人の傷口を消毒して、そのひとの体の一部を細菌のエサにしないとしたら、その判断の違いはどこにあるんだろう? 私は消毒するときにはなにも罪悪感を感じる必要はないと思う。すべての生命は価値があると主張したシュバイツァーの病院が、実は医学的には非常に不潔な環境でけっこう多くの人を無駄に苦しめたったらしいって話はあんまり有名じゃないのかな。(ソースもってないから都市伝説?)

もちろん、なんの罪悪感を感じずに豚食べるひとはおそらく人間的に問題がある。「命を食べさせてくれてありがとう」っていう心性はとてもよいものだ。でも罪悪感を感じればなにをしてもよいわけではない。

こういうのはずっと前に書いた森岡先生の『生命学~』についての議論と関係があるんだな。道徳的な主張を感じるべき罪悪感の文脈で考える人と、ガイドの文脈で考える人がいて、それが難しい問題を生んでいるようだ。罪悪感は非常に重要だ。でもそれが正当化のすべてじゃない。関係する重要な文献はいくつかあるような気がするけど、本当によく書けている国内文献はまだ見てない。

*1:どう成功してないのか書こうとするとあんまり生産性のないロンブソになってしまう

*2:おそらくその方がおいしいからという理由かもしれないけど

D級戦犯

ほとぼりさめたころに復活するか。

もうとっくに飽きてるけどイダヒロユキ先生

「だが、その主張は、方向が完全に間違っている。兄が裁かれたことがおかしい
のではなく、兄以外が裁かれなかったことが問題なのだ。BC級戦犯、たった
5700人だけが裁かれたことが問題なのだ。DEFG級・・のレベルでも、
みなが犯罪加担を裁かれるべきなのだ。教師、メディア、下級軍人、憲兵隊、
町内会長、政治家、法律家、芸術家、芸能人、学者、警察、官僚その他、戦争
に加担した人はみな罰せられるべきなのだ。」

ううむ、A級戦犯とかBC級とかの意味知らないのね・・・すごすぎ。
(小林よしのりも昔知らないで漫画書いてた記憶があるが)。
まあ言いたいことはわかるんですけどね。

佐古純一郎先生の『人格観念の成立』


赤川学先生の「性=人格」論をとりあげたときに、佐古純一郎先生の『近代日本思想史における人格観念の成立』にちょっと触れた。いまごろ入手。

赤川先生の記述からどうも佐古先生がpersonの訳語としての「人格」とpersonalityの訳語としての「人格」を混同しているのではないかと印象を受けていたのだが、とんでもない誤解。佐古先生のこの本はまさにその混同の問題を扱った良書。現代の「人格」という言葉をめぐるいろんな問題が明治の西洋哲学受容期にその源があったことがよくわかる。佐古先生は牧師なので、「人格神」とかに現れる「人格」のほうに興味あるようだが、H. グリーンとか今の人間はほとんど読まないものにまで目を通していて、資料を地道に読みちまちま記していくことの大切さを教えていただいたような気がする。でもまあ高いし、ちゃんと書いたらこの1/3の量で書けるよね。明治期の日本哲学史に興味があるとかでないかぎり、ふつうは図書館で一回目を通せば十分だと思う。でもごくろうさまです。

webプレゼンさらにその後

ひさしぶりに http://www.geocities.jp/suku_domo/ を見たら*1、ここはしっかりしてるなあ。「経緯」とかがまっさきに目に入りわかりやすい。
やっぱり若い世代はよく知って
る、って感じがする。感心。
ここのブログもトラックバックやコメントを空けてない
けど、連絡先はさらしているし、ちゃんとどういう人々がやってるかもはっき りわかる。余計な情報や主張を出したりもしてないようだ。物心ついたとき*2
に2ちゃんねるとか各種「まとめサイト」とか知って
る世代はぜんぜん違うタイプの活動するようになるかもしれないなあ。

ついでに話題の東村山市民新聞
http://www.geocities.jp/higashimurayamasiminsinbun/
も見るが、まあこの手の極彩色フォントでわけわからんところは
たいしたことはできないだろうってことがわかってるのであんまり心配してない。
それにしてもすごすぎ。webは体を表す。気をつけよう。でもこういうところが
なんかノウハウ身につけたり有能なブレーン雇ったりすると
危いのかな。むずかしいものだなあ。

*1:やっぱりソウル・ヨガをうっかり見てしまったからだが。っていうかイダ先生リンクがまちがってますよ。っていうか、こういうのにリンクするときはまずトップページにリンクしてあげて、さらに紹介したいページがあればディープリンクしてください。

*2:ふつうのひとが物心つくのは何歳なのかわからないけど、いまだと18才ぐらい?わたしはつい最近。

webプレゼンその後

でも一回書いたが、運動にネット使うときの注意事項ってのはどういうのかあるんだろうなとか上のエントリとは関係なく勝手に考えてみる。

  • やっぱり代表者(と可能ならば会員数)をはっきりしておくこと。実名出すのは危険なのだが、やっぱりそれなりの効用はある。ネットで本気で運動するのには実名が一番効果がある。運動主体か代表者のメールアドレスは必ず分かりやすいところに晒しておく。gamilつかえばSPAM対策は大丈夫。
  • webではとにかく一番重要なことにすぐにアクセスできるようにしておくこと。無料業者ブログはいろいろ難しいが、とりあえずどのページから読んでも、運動主体のプロフィールと主張を1ページにまとめたものにワンクリックでアクセスできるように。次の1クリックでメールが送れるように。
  • ブログは有効だが、常にもとの「ホームページ」に1クリックでアクセスできるようにしておくこと。
  • 文章はちゃんと添削。
  • コピペされることを予想した文書づくり。悪意あるコピペはもうしょうがないが、善意のコピペでおかしくなるのは
    避けたい。コピペ用の文書を用意しておいた方がよい。詳しくはhttp://~~を見てくださいをどの文書にも付けておく。

  • ブログ形式ではコメントに対応するのはしんどいので、コメント欄は不要。特に匿名コメントはつけるべきではない。でもトラックバック表示は空けておいて、勝手に表示させるがよい。そのなかで、答える必要のあるやつだけ答え、叩く必要があるのは叩く。コメントとかトラバとかのすべて対応する必要はまったくない。たとえば粘着トラバとそのページとのどちらがまともかは、読者が判断してくれる。
  • ある程度叩きかえすべきものを叩いたら、FAQ(よくある質問と答え)をつくって1クリックで読めるようにしておく。
  • 業者ブログでは、目次づくりを業者のおしきせにまかせないこと。重要なものをリストアップして読みやすくすること。
  • できれば独自ドメインとる。
  • おお、そうか、id:macskaはこういうノウハウをよくわかってるな。このひとをお手本にすべし。っていうかmacskaさんが運動マニュアル書くべきだ。
  • つらいとき、かなしいときもユーモアを忘れずにいた方が支援を受けやすいと思う。これは難しい。
  • もっとありそうだなあ。こういうノウハウの蓄積は重要だと思うが、そういう団体の間で流通してないのかな。がんばれ。
  • 私もなんか運動しよう。社会の役に立ちたい。
  • 「死ね死ね団」や「パンサークロー」はどういうネット戦略をとったかな。やっぱりまず連絡先とFAQからか。
    「Q. なぜキューティーハニーを狙うのですか」「A. パンサークローはハニーとは敵対関係にあるわけではありません。ハニーが我々の活動を不当に妨害するのでやむをえず排除しなければならない場合があります。われわれも愛と平和を心から望んでいます。ご理解ください。」

自衛官強制わいせつ訴訟

酔っ払って書いてしまい、いったん消したけど

表現をやわらげてのっけておくか。

 

から読んでしまった自衛官の陳述書。たしかに21歳の人間が書くらしい文章で、執筆者の心理の描写としては非常にリアルだと思うが、同時に法的・社会的な文脈で他人に説明し説得する抗議する文章としてぜんぜんだめだとも思う。なにが起こったのかがさっぱりわからない。まあ二十そこそこの人間が裁判の場にでて、これくらいの陳述ができれば立派なものだが、ネットで流す文章としては未熟で危険すぎる。

どういう経緯でこの文書が出回っているかしらないが、こういうのは誰かがちゃんと相談に乗り話を聞き添削し、ちゃんと他人を誤解なく説得できる文章にしてあげるべきだ。大学の試験やレポートではないのだから、他人の力を借りてもぜんぜん問題がないのだし、まわりの人間は力を貸すべきだ。もちろん、この文章を書いた人がこの文章が他人にどう理解されるかをちゃんと理解しており、あえてこのまま流してほしいと判断しているのなら話は別。でもこの文章のできからして、そうじゃないだろうと推測する(っていうか確信している。21歳で他人を説得できる文章を書ける人間はめったにいない)。まちがってたら本当にごめんなさい。

なんだかまわりにいるはずの大人や、それをそのまんま流してしまい、結果的に、被害者に対する不信や疑いをひきおこしてしまうかもしれないことを理解していない人間に対しては、他人事ながら腹が立つ。 なんでせめて経緯の説明ぐらいつけてあげないんだ。vulnerableな立場にいるひとはちゃんとまわりの人間が守るべきだ。

googleでひっかけてみるかぎり、http://peace-asahikawa.cocolog-nifty.com/blog/ が発信源なのかな? 事件の経過はやっぱりわからず、どういう経緯でこの文書が公開されているのかの説明はないようだ。・・・・・あーこれは。なんか、まさに下手なネットでの活動が二次被害をひきおこしてるんじゃないのか?旭川の人々と被害者やその関係者はどういう関係なのかな。ちゃんと信頼関係あるんだろうか。そしてやっぱりこのブログはコメントどころかトラックバックも固定リンクも表示されないのか・・・・こういう運動にネット使おうとする人間はちゃんと責任もて。

と、やっと http://jinken07.10.dtiblog.com/ にたどりついた。ここはちゃんとした被害者支援団体なのかな。3人の共同代表者の名前もわかる。ちゃんとしてそうだ。がんばれ。でもやっぱり陳述書は添削するべきだったと思う。ここのを勝手にコピーして説明なしで流している人がいるということかな?

 

中里見博先生のポルノグラフィ論 (5)

残り。第11章 性的人格権の復位

中里見先生は、性的自己決定権と別のものとしての性的人格権の重要性を認めるべきだという立場にたつらしい。私にはどっちも性的な強制からの自由を指すように見えるが、どうもずいぶん違う内容のようだ。

性的人格権は、身体的自由権と精神的自由権の両方を統合した権利として、一切の強制からの絶対的な保障を要請する。・・・したがってそれは、性が金銭によって売り買いされることを否定するものである。それゆえ、他人の身体を性的に使用する権利を金銭で売買する行為は、他人の性的人格権を侵害する行為と評価されなければならない。具体的には、管理売春における売春業者と買春者、単純売春における買春者、そしてポルノ業者による他人の性的使用権の売買は、性的人格権の侵害であり、違法行為であると評価される。(p. 227)

うーん、まあ「金銭では放棄できない」なにからしい。いまだに「放棄」が気になる。どういう場合に性的自己決定権や性的人格権を放棄したことになるのかが知りたいのだが、これは解決しそうにない。

ポルノグラフィ、売買春の中に入ることを「選んだ」人びとが性的自己決定権を行使したことによっていかなる不利益をも課せられることなく、しかも性売買の中の性行為によって、人の基本的な権利としての性的人格権を侵害されたことが社会的に承認されるべきこと、このことが、女性の身体の性的濫用=虐待が日々行なわれ続けている性売買の現場から投げかけられている。(p. 231)

うーん。「選んだ」にかっこがついているのは、そういう選択は真の選択ではないという立場なんだろう。こういう書き方では実際にセックスワークに従事している人びとから応援を得られそうにはない。またそういう人びとが必要としているプラクティカルな解決からもずいぶん遠ざかってしまっているように見える。もちろんリベラルな傾向の人びとにも支持されることはないだろう。まあこれはどれも中里見先生本人も意識しているだろう。苦しい立場だ。

というわけで中里見先生の結論は、売買行為の非犯罪化と買春行為の違法化ということらしい。

・・・強度な自由権としての性的自己決定権は、性売買の中で使用される女性や男性を国家刑罰権の対象とすることから解放し(非犯罪化)、他方で、性的人格権は、金銭の力によって彼らを使用する売春業者、買春者、ポルノ業者の行為を違法化あるいは犯罪化する方向に作用することになろう。 (p. 231)

ということらしい。わたしにはその自己決定権と人格権はまったく矛盾するものに見える。中里見先生はどっちも「性的自由」という大きな価値の一部だと主張したいと思っているような気がするが、「性的自由」の解釈(派生?)からこれほど矛盾するものが出てくるなら、自分の解釈がまちがっていると考えるのが自然だと思う。少なくとも性的自己決定権で売春する自由を認めるのなら、その相手を処罰しようとするのはまちがっているだろう。それでいいのだろうか。わからん。

以上。勉強になった。難しい立場だとは思うが、問題意識はわかる。がんばってほしい。

補足 松沢呉一先生のAPP研究会批判

APP研究会の訴訟事件と対応の問題については松沢呉一先生が
まずまずもっともな批判を書いてくれていた。
http://www.pot.co.jp/matsukuro/archives/2007/01/22/%e3%81%8a%e9%83%a8%e5%b1%8b1220%e4%bb%8a%e6%97%a5%e3%81%ae%e3%83%9e%e3%83%84%e3%83%af%e3%83%ab18/
判決文もここから見ることができる。私は松沢先生ほど厳しい見方はしてないが、この会のwebのプレゼンテーションほか、やっぱりいろいろ問題があるとは思っている。やっぱり「ポルノ被害」の検索でトップに来るのに、「相談をお寄せください」のまま半年以上放置してるのはまずいです。(せっかくの独自ドメインなのに「くらべる?キャッシング」とかのPRがついてるのもどうにかならんのか・・・)

 

中里見博先生のポルノグラフィ論 (4)

セックスワーク論関係を読みまちがえたかな

のコメントで、id:june_t さんからコメントいただいた。ありがとうございます。

うーん、私の読み間違いかなあ。

「性=労働」論(セックスワーク論)は売買春も労働として社会的に承認す るべきだというアイディアで、売買春では性的サービス、ポルノでは「演技」*1を提供してるのだ、とするわけだ。で、

児童労働が一般に禁止されているように子どもの性売買も当然に否定されるとする。また脅迫や暴力や賃金不払い等は、あらゆる契約行為において違法とされているように性売買においても禁止されるべきだと説く。(p. 53)

と中里見先生はおそらく正確な形で紹介している。この直後に問題のパラグラフ。今度はパラグラフまるごと引用。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。あまつさえ縛られ、拘束され、磔にされ、まったく「サービス」も「演技」もできない状態に女性が置かれることに対して、金銭が支払われる。性売買では性的サービス労働や演技が売買されているとみなす「性=労働」論は、このような事態を説明することができない。(p.53)

うーん、わからん。私のカンはこの文章はかなりおかしいと言ってる(だから昨日のような文章になった)のだが、どういうことなんだろう。「このような事態を説明することができない」の意味がわからん。いつものように書きながら考える。

  1. 「セックスワークにおいて、もし性的サービスや演技が商品なのであれば、市場ではその技術がもっとも高い人に高い賃金が払われるはずだ」と中里見先生は考えている。
  2. 現状のセックスワーク市場は失敗している、ってのはOK。でもこれ、「はずだ」なのか「べきだ」なのか。私には本当は「べきだ」の方が適切に見える。
  3. ただし、現状のセックス市場で、子どもや演技できない女優が本当に高い値段をもらっているのかどうかは知らない。ありそうな話だが、すぐれた技術やすぐれた容貌をもったひとはさらに高い賃金を稼ぐことが可能なんじゃないかと思う。
  4. たとえば、(ほんとによく知らないのだが)なんのかんのいっても
    AVの主流はレイプものでもチャイルドポルノでもなく、単体美人女優ものだろう(だった?)。
  5. チャイイルドポルノに高い値段がつけられているのはむしろ社会的に禁止されているからじゃないのかな。わからん。もちろんだから解禁しろとか主張しているわけではない。こういう市場だけじゃうまくいかないところこそ法的規制が必要。
  6. SM系、企画もの系の一山いくらのAV女優の賃金は驚くほど安いはず。
  7. 芸能界という労働市場を見ても、歌や演技がうまいひとほど高い金をもらっているわけではないように見える。でもだからといってテレビ出演は労働ではないとは言えない。
  8. そもそもセックスワーク論は現状の市場の分析ではない。むしろ市場はこうあるべきだという理想だ。これが中里見さんのなかではっきりしてないんじゃないか。
  9. 「売買春やポルノ出演が労働であるなら、なぜ技術のない人びとが高い賃金をかせぐのか」に対してセックスワーク論者は、「だから市場を変えなきゃ」と答えるんじゃないかな。
  10. 当然のことながらセックスワーク論者は労働市場に、判断能力のない子どもが参加することを認めないだろう。
  11. そういやこの点で芸能界とか微妙だよな。ハロプロやジャニーズにはなんか虐待の匂いを感じたり感じなかったり。でもまあおそらくOK。
  12. SM系のビデオ撮影なんかにしても、(一時的なものにせよ)奴隷契約のようなものは認められるべきではないと思われる。ポルノグラフィ出演を労働と考える人びとは、おそらくフェイクでなんとか見せるような技術を要求するだろうし、最低限でもセーフワードのような安全装置を求めるはずだ。そもそもそういう労働者を虐待するような労働そのものを拒絶するかもしれない。「最初におおざっぱに約束して、途中でいやになっても破棄できない契約」あるいは「自分の意思を完全に放棄する契約」ってのが法的にも道徳的にも許容できるのかどうか。私はそれは奴隷契約にしか見えない。ここらへんは法律の専門家にいちどおうかがいを立ててみたい。自衛隊の隊員とかどの程度縛られてるのかね。
  13. こうして見てくると、セックスワーク論に反論するのに、セックスワーク論者が認めないような子ども労働や強制労働もちだしてもだめだと思われる。そういう思い込みが、私が読みまちがえたか勘違いしたかの原因のようだ。でもそれほど大きな勘違いでもないように見える。
  14. まあとにかく、子ども買春や子どもポルノに大きな金が動いているからといって、セックスワーク論はうまくいかん、というのはうまくいってないと思う。
  15. もちろん、セックスワーク論者の主張するようなワークとしてのセックスが、多くの人に好まれ、金を出そうとするようなものであるかどうかはよくわからん。私のたんなる思弁によれば、なんか違うような気もする。難しい。中里見先生が本当に指摘したいのは、「セックスワークとかいうけど、本当に求められているのはそれとは違うでしょ?」ってことかもしれん。男権主義的セクシュアリティが目指すところはおしきせで提供されたサービスの享受とかで
    はない、むしろ、サービスの枠を越えた支配なのだ、とかそういう感じ?うーん。こうなってくるとかなりよさげな主張だ。好意的にこういうラインで読むべきかもしれん。
  16. たしかに私の読みが粗雑だったかもしれないけど、いまのところ昨日書いたものを訂正する必要はまだ発見してない。まだなんかまちがってたらコメントおねがいします。

第8章 アメリカ反ポルノグラフィ公民権条例 第9章 カナダ「わいせつ」物規制法の「被害アプローチ」

どっちも緻密に書かれていて勉強になる。憲法学者としての腕を十分に発揮。すばらしい。でも反ポルノ側から見たものだけを資料にしているように見えちゃうのがちょっとだけ不満。フェミニスト陣営を二分した事件なのだし、ACLUあたりの活動にも触れてほしかったなあ。

あと「スナッフフィルム」が気になる。たしかにそれは実在しているのかもしれない。が、ネットにでまわったという話を聞いたことがないことからすると、ほとんど流通してないんじゃないだろうかと思っている。マッキノンのように、

映像用に女性を殺すことで、いわゆる『スナッフ・フィルム』〔=殺人ポルノ〕がつくられるが、それは非常に儲かるポルノグラフィであり、しかも、被害者が証人になるのを防ぐ確実な
手段でもある。(p. 161、 マッキノンの発言の引用)

とかってのはどうなんかなあ。スナッフフィルムはほんとうにポルノと関係あるのかな。もしそういうのが流通するとすれば、セックスぬきのスナッフだけで売れるだろう。チェチェンの首切り事件やその他の事故映像ならあちこちにあるわけだが。(もちろん見たくない)そういや、4、5年前に女性が頭打ち抜かれる映像がはやったときがあったな。あれはセックスとは関係なかったし、フェイクだったとされているはず。まあ実際にあるとすれば、こりゃ警察力で徹底的に戦わなきゃならんだろう。でも証拠なしに(一応合法の)ポルノとそういうのを結びつけようってのはどうもなあ。もしスナッフフィルム市場がほんとにあれば、それは法規制とはまったく無関係に流通するように思える。暗黒世界はいやだなあ。

9章のバトラー判決についての中里見先生の評価の成否は、大事な箇所なのだがゆっくり検討しないとわからん。ていうか私には無理そうだ。これは憲法学者の仕事だな。

あれ、ここまで中里見先生が「ポルノグラフィ」の定義に「実際の被害」を入れた理由が出てこなかったような。これ困る。

第10章 性的自己決定権の意義と限界

一番読みたかったのはこの章。うまくやれてるかな。

性に関する人権としては、これまで「性的自由」「性的自己決定権」が唱えられてきた。(p. 207)

こういう文脈での「人権」ってどう使われるのかな。人によってずいぶん違うからなあ。中年将来のない若者になってもいまだに「人権」についてクリアなイメージをもってないのはなんだか自分でも恥ずかしい。(まあこれは逆に歴史的に考えすぎるクセがついているかもしれんし、自然権思想のようなものを疑いの目で見るクセがついてるからかも。それだったらそれほど恥ずかしくない。)

まあふつうは「人間が生まれながらにして、人間であるという理由で、もっているいくつかの権利」ぐらい?ふつうは国家に対する個人の自由とか?でもいまではいわゆる「社会権」も含まれるのが普通? 中里見先生はどういう意味で使っているか。まあ社会権も含んでるんだろう。この文脈で「人権というのは」とか考えるのはスジが悪いからとりあえずOK。性的自由と性的自己決定権が大事だ。OK。「賛成」「異議なーし」「異議なし」

・・・性的自由の保護の核心は、性に対する他者からの強制や妨害の排除、すなわち自己決定の自由にある。したがって性的自由は、・・・「性的自己決定権」といいかえられてきた。

「性的自己決定権」とは「いつ、だれと、どのような性行為(あるいは生殖行為)を行なうかの決定権は、本人にのみ帰属する」という権利である。・・・

・・・性的自己決定権は、不可侵の基本的人権である以上、他者に包括的に譲り渡すことのできない一身上の権利として観念される。したがって、人は、婚姻によっても性的自己決定権を放棄していない。・・・(p. 208)

ここらへんまったくOK。

しかし次の「「性=雇用労働」論批判」と「「性=自営業」論の問題点」あたりから あやしくなってくる*2。若尾典子先生の議論を援用して話が進むわけだが、しょうじき私は若尾先生の議論もよくわからんというか納得いかんというか。使われている若尾先生の議論はこれに載ってるやつ。良書なのは認める。もっと読まれてよい本だと思う。

なんかかなり難しい議論なので一パラグラフまるごと引用。

若尾の考察によれば、性的自己決定権を保障する立場からは、性売買が雇用労働であることが否定される。なぜなら、雇用労働においては一般に、使用者(雇用主)は労働者(雇用者)に対して特定の労働を業務命令として要求することができ、労働者は使用者の指揮・命令に従う義務を負うことになる。したがって性売買を雇用労働ととらえると、売買春においては、使用者たる売春業者が労働者たる売買春のなかにいる女性に対し特定の性行為を買春客と行なうよう命令することができ、ポルノグラフィにおいては、使用者たるモデルプロダクション等ポルノ制作者が労働者たる出演者に特定の性行為を行なうよう命令することができることになる。つまり売買春・ポルノの中にいる女性は、だれと、いかなる性的行為を行なうかについて使用者の命令に従う義務を負うことになる。それはいいかえると、性売買の中に入る女性は、一定の範囲—あらかじめ特定された「性的サービス」内容の範囲—ではあれ、性的自己決定権を雇用主である売春業者に委ねることを意味し、その限りで性的自己決定権を放棄することにほかならないからである。(pp. 209-10)

中里見先生は若尾先生の議論に特に批判を加えていないので、ほぼ同意見であるとみなしてよいのだろう。

それにしてもこういう議論はわからん。杉田聡先生とかも同じような議論す るのだが*3。「性的自己決定権」なるものは、「いつだれどどういうセックスするか自分で決める権利」。そして、こういう性的自己決定権は「放棄できない」ことにもとりあえず同意しておく。この二つの前提はOKだ。でも、この前提の上で、業者と雇用契約を結ぶことがなぜ性的自己決定権の放棄になるのか。トリックは最後の文章にある「その限りで」にあるような気がする。これどういう意味なんだろう。「委ねる」から「その限りで・・・放棄する」への微妙な言い直しが論理的な落とし穴とトリックがあることを示している、ような気がするがわからん。

部分的であれ性的自己決定権を放棄することを正当化する雇用労働として性売買をらえることは、性的自己決定権の保障とは相容れない。若尾のいうように、「売春労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」、なぜなら、「狭義の自己決定権は、いかなる契約によっても、奪い得ない女性の基本的な権利、すなわち人権である」からである。(p. 210)

なんか論点先取を繰り返しているだけのような気がする。うーんうーん*4

中里見先生と若尾先生の議論の特徴は、売買春を雇用労働と自営業に分けて論じるところなので、まあとりあえず自営業としての売買春の方に。自営業とみなせば、とりあえず上の「自己決定権の放棄」にはあたらんのではないかという議論に対して、

・・・女性は、買春客との関係では性的自己決定権を放棄しているといえないだろうか。なぜなら、自営ではあれ、「業」として性行為を行なう以上、買春客を選ぶことはできないと評価しうるからである。買春客を選ぶ自由と、業として性行為を行なう売春業を営むことは概念的に矛盾しうる。だとすれば、自営業としての売春を営むことも、本来「個別の性行為について、その都度、行使される」べき性的自己決定権を買春客との間であらかじめ放棄しているということになる。したがって、たとえ自営業であっても売春する者と買春客で結ばれる「労働契約は、性的自己決定権を放棄するものであり、許されない」といえることになる。(p. 212)

どの程度この議論が若尾先生のもので、どの程度が中里見先生のものかはちょっとはっきりしないのだが、へんな議論だ。正直なところヘンすぎて筋を追うのが難しい。「業」だから客は選べない、ってのはなんか「業」に関する 概念的な(定義についての)問題なのか5、それとも実践的な問題なのか6わからん。「矛盾しうる」もわからん。「矛盾する」じゃないのかな?「評価しうる」とかってのもわからん(法律用語ではないと思う)。おそらくこれは若尾先生の議論なのだろう。このパラグラフに続けて中里見先生は、この議論を否定しているようにも見える。

だが、業として営む場合でも、公共的な業務の提供とはいえず、むしろ性行為のもつ特殊な性質から、自営の売春業においては契約を拒否する自由が売春する者に広く認められるべきだと思われる。そうであれば、自営業の場合、売春する者は、「いかなる性行為をだれと行なうか」という意味での性的自己決定権を行使していると評価せざるをえない。 (p. 212-3)

いったいどっちやねん、とか。おそらくこっちが中里見先生の評価なんだろう。はっきりしないのはおそらく書き方に工夫が足りないんだと思う。なんだか苦しくなってきた。中里見先生の結論部分は

たしかに自営で行なわれる売春業は性的自己決定権の行使と評価されるであろう。しかし、売買春での性行為が女性の身体の性的使用=濫用=虐待となっている現状を社会的根拠として、売買春への性的自己決定権の行使が「性的自由の放棄」を意味するとみなす言説が、圧倒的なリアリティを社会的に有している。こうした現状のもとでは、性的自己決定権を最終的な性的人権とすることは、売買春における性虐待を規制するのに十分ではなく、むしろ「買春者の暴力の処罰」を現状以上に困難にすると考えらえる。・・・(p. 223)

わたしには大袈裟な言いまわしがせっかくの議論をだいなしにしているようにも見えるけど、とりあえず、売買春を性的自由の一部に認めると、いろいろ悲惨なことやまずいことが起こるからやめておこう、ということらしい。帰結主義的に人権を制約するということかな?しかし人権とか性的自己決定権なるものをたんなる帰結主義・功利主義的な二次原則(あるいは擬制)とはみなさないひとはそれには納得しないだろう。それでいいのかな?そもそも中里見先生は自己決定権やら人権とかどういうものだと思ってるのかな、というのがやっぱり問題になっちゃうわね。 もちろん最初から帰結主義的な立場に立つとか*7、性的自由や性的自己決定権なるものにたいした重要性を認めないのなら、それでもいいんだけどね。パターナリズムやモラリズムでいくぞってのならそれでもいいし。

おそらくこの章の中里見先生の議論は大筋で失敗しているように思える。っていうかとりあえず私は納得しなかったが、どう失敗しているかこれ以上追跡する元気はもうない。終了した方がよいかもしれない。とりあえず8章と9章は読むに値すると思う。

*1:前にも書いたけど、私はポルノビデオで「演技」が売られているとは考えない。

*2:ほんとに「=」は勘弁してほしい。

*3:この本全体に杉田先生の議論への言及が少なくてちょっとショック。

*4:こういう曖昧で不明瞭なものを考える苦しさを分析して明快なものにして抜けだすときの喜びが、哲学する喜びの一部をなしているのは確実だと思うのだが、あんまり多いと本当に苦しい。私には耐えられる自信がない。

*5:その場合、客を選んでセックスするのは売春「業」じゃない、ってことになる。

*6:現実にはなかなか客を選びにくいってこと

*7:もしそうしてくれるならいろいろみんなで議論するべき余地があるし、それはおそらく有意義なものになりそうだ。

おまけ: のばら

ファンだからブログも楽しく読んでいるkanjinai先生がゲーテについて触れている。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070614/1181749067
。批判とかそういうんじゃなくて興味深いのでメモ。粘着とかかまってほしいとかそういうんではない*1

から転載。レイプ魔ゲーテも超訳詩人近藤朔風先生もずっと前に死んでるので著作権は大丈夫。

 

Heideröslein
Sah ein Knab ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden
War so schön und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah' s mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
Knabe sprach, Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!
Röslein sprach, ich steche dich,
Daß du ewig denkst an mich.
Und ich will's nicht leiden
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
Und der wilde Knabe brach s'
Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
Half ihm doch kein Weh und Ach,
Mußt es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
一、童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇(ばら)
清らに(きよらに)咲ける(さける) その色愛でつ(めでつ)
飽かず(あかず)ながむ 紅(くれない)におう
野なかの薔薇
二、手折りて(たおりて)往かん(ゆかん) 野なかの薔薇
手折らば(たおらば)手折れ(たおれ) 思出(おもいで)ぐさに
君を刺さん(ささん) 紅におう
野なかの薔薇
三、童は折りぬ(おりぬ) 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの(きよらの)色香(いろか)
永久に(とわに)あせぬ 紅におう
野なかの薔薇

 

  • ゲーテが鬼畜助平色魔だったのはその通り。ロマン派は助平でいかん。
  • Knabeって、童ってより少年? 14才ぐらいでOK? 16ぐらいになると生臭くなる。
  • レイプか?まあバイオレンスレイプというよりデートレイプか。
  • まあでも、もろセクースというよりは、私は接吻とかクースとかベーゼとかそういうのを連想させられるけどね。せいぜい乳もみ。初夏の鴨川べり。私が甘いかな。
  • これ歌ってた女ジェンダー学生とかは、この歌詞に何を感じたろうか?
  • おそらく、そのころの女学生もこれが何を意味しているかはっきり理解してたんじゃないかな。少なくとも最近までのkanjinai先生より。
  • 処女性に対する誇り(?)とか、来たるべき性に対する不安と憧れとか、そういうのを反映していて当時好まれたのはわかるような気がするなあ。
  • 童の方から見ても、あれだ。思春期の制御不能、自分にも理解不能のパッションとか感じるね。うわさに聞く疾風怒涛ってのはこういうことか。
  • 男って粗雑!乱暴!不潔!
  • Heideって野原てより原野とか荒野なのか。Knabeはそういう場所になじんでいたのか、それとも都会人なのか。
  • Röslein sprach, ich steche dich,
    Daß du ewig denkst an mich. ここエロい。
  • 「そんなことしたら、刺しちゃうわよ」。
  • “Daß du ewig denkst an mich.” 「あんたが私を永遠に忘れないように」「私のことを永遠に思いつづけるように」はほんとに復讐かな?
  • ゲーテの童には、この「刺しちゃうわよ、あんたが私をずっと忘れないように」がちゃんと「ノー」に聞こえてない可能性がある(まあそう聞こえてないわけだが)。不安定なかけひき。かけひきじゃないのに童にはかけひきに見えているのかもしれん。非常に危険。高まる緊張。のばら!そういう表現じゃだめだ!相手は色魔だ!
  • 「えー、梅子さん、権兵衛さんと銀座で逢引?手折られちゃうわよ。」「やーだとめ子ったら。権兵衛さんはそんなんじゃないわ。紳士ですもの。熊本の士族の出ですってよ。」「鈴子こそ、下宿させてる東大生の人と怪しいんですって?本郷をいっしょに歩いてたそうじゃないの」「ううん、そんなんじゃないわ。ただのお使い。清兵衛さんは文科だし。落第しそうって話なの。もっとしっかりした方がいいわ。」「そりゃだめだわよね」「でも鈴子も気をつけた方がいいわよ」「うふふ」(みんなで「のばら」歌いながら帰宅)(アナクロ)
  • “Weh und Ach”が最高にエロチッシュ。詩と音楽の全体がこの頂点をめざしている。シューベルトはこの3番の歌詞から作ったんじゃないかな。非常に上質のポピュラー音楽を連想する。(直接にはR. Kellyの12PlayにはいってるSex meを連想した。そういやR. Kellyもゲーテと同じく淫行犯罪者だ。シューベルトも?)
  • こういうのにエロティシズムを感じる奴(ジェンダー男)は男権主義的セクシュアリティにとらわれており、この詩にエロティシズムを感じるジェンダー女は男権主義的セクシュアリティに支配されそれを内面化してしまっているのである。もっと平等なエロティシズムを目指そうじゃないか。
  • いまどきの女学生もボーイズラブとか読んでる場合じゃないぞ!むかしからジェンダー女学生はそういう活動しているのだ。露骨じゃないほうがエロいぞ!
  • 近藤先生の「色香」の部分も猛烈に色香がありすぎてだめだ!反省せよ!
  • 純情な童を犯罪者にしないために、清らの色香(きよらのいろか)廃絶運動を開始すべきだ。
  • 主人公の童はなんも後悔してないかもなあ。鬼畜だから。
  • このバラがそういう伝記的事実に根差しているんだったら、まさに世界中に自分を忘れられなくすることに成功したなあ。のばらの不滅のイデーとなった、とか。ロマン主義だ。
  • この歌エッチすぎる。不平等な性関係を無批判に歌ってるし。女性をバラとかに客体物化しているし。ゲーテ的セクシュアリティ打倒。「のばら」禁止。法的規制。
  • あるいはアングロプロテスタント系白人中産インテリ階級女性ジェンダー的セクシュアリティを打倒。こっちの方が早いか。いやいや。

*1:なんか「はてな」はそういうの一々気にしなきゃらななくてうざい。あれ、自動でトラックバックしないようにもできるのかな。→設定にあった。これで安心。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (3)

第2章「性売買としてのポルノグラフィ」

それほど問題なさそう。現在のAVポルノ制作は売買春を含んでいる。まあ前貼りつかってたころの日活ロマンポルノも広い意味では売買春含んでたのかもしれないけど基本的には「うそんこ」の演技だったわけだが、現在では実際のオーラルセックスや本番なしのAVなんて考えらんないしね。

バクシーシやバッキーに代表される暴力ポルノAVが問題なのは、演技じゃなくてほんとに人間を殴ってそれを撮影してたわけで、そういうのが犯罪を構成しないっては私には信じられん。

そりゃどんな映像も「リアル」なのはおもしろいわけだが、リアルさを追及するためにリアルなことをしちゃうってのがね。現代の広い意味のポルノ(エロチカも含む)の特殊性がここにある。

銃撃戦はおもしろいが実際に銃撃戦することはできない。映画で「誰かが青痣つくほど殴られる」ってのを表現したいときに殴って青痣つけるなんてのはありえない。

本番ポルノ女優としては愛染恭子が有名だけど、ポルノ映画界主流派にとってはやっぱりキワものだったろう。そういやかわぐちかいじの漫画『アクター』でも本番やるってのがあったが、そういう形での「リアルさ」の追求はフィクション作家としては志が低いのはほとんどのフィクションファンは認めるんではないかと思う。ドキュメンタリー作家なら別かもしれんが、ドキュメンタリー作家が人殺しを取るためにおかしな奴に実際に人殺しさせたらやっぱり犯罪だろうよ。(なので私はバクシーシもバッキー栗山もやっぱり犯罪者だと思うし、そういうのをもてはやしていた馬鹿たちはほんとうに馬鹿だと思う。バクシーシもてはやしていたAERAとかそろそろ一回自己批判してみたらどうか。)

どの論者にも、このポイント(「AVはリアル」」)はあんまり指摘されてないんだよな。中里見先生は書いてくれるんじゃないかと思ったけど、ちょっと足りないみたい。自分でもロンブン書くか。

第3章 「性売買批判の論拠」

性売買がだめな理由。

  1. 性売買の強制(経済的なインセンティブも中里見先生にとっては強制)
  2. 現場で被る暴力
  3. 買春する男が女を対象物化するようになり、他の女性に被害を加える
  4. 女性差別の再生産、女性の地位低下

まあよく主張されるポイント。議論しつくされている感じがある。

気になったのは「3 「性=労働」論をめぐって」と題されている第3節。うーん、このイコールは曖昧なので勘弁してほしいんだけ どな*1。イコールで結んでいるのが内包なのか外延なのかはっきりしない、その意味内容や範囲が同じなのかどうかあいまいなまま進んでいっちゃうのは困る。「セックスの一部は労働としてみることができる」「セックスはぜんぶ労働」「労働としてのセックスもOK」「セックスとしての労働もOK」とかいろんな読み方ができるような気がすんだけどね。あきらかにセックスと労働は違う概念なので、そのセックスの一部と労働の一部がかさなりあうことがある(そしてそれもOK)ってぐらいの意味なんだろう。

セックスワーク

中里見先生の主張は

性売買は性の支配をつうじて人格(尊厳)を侵害するという主張は、性(セクシュアリティ)と人格の結びつきに対する積極的な評価を前提にしている。人にとって性が人格と深いところで結びついているという事実を直視し、人の尊厳を尊重し保護するには、性を労働と同等に扱うのではなく、労働以上に篤く保護する必要があると考える立場である。(p. 52)

まえにもやったけど、この「人格」の概念というか意味はかなり曖昧で取り扱いに苦しむ。 と のうしろの方。これ本気でちゃんと分析するとけっこうオリジナルなロンブンになってしまうなあ。

中里見さんのような人がこういう主張をするばあいの「人格」はかなり多義的で、私の目には少なくとも

  1. 「「そのひとがどういうひとであるか」という意味の「人格」のなかで性欲やセックスや性的アイデンティティはかなり重要な部分を占めている」」
  2. セルフアイデンティティと呼ばれるもののなかでセックス関係は重要。
  3. 他人からある人を見た場合に、その人のセックス関係はその人を評価する上でけっこう重要。
  4. 人間関係を円滑に営む上でセックスはとても重要。
  5. 誰にたいしても性的な自由は尊重されるべきであり、この尊重を要求する権利は、人間が人間である以上普遍的に保持している(べき)ものだ。
  6. 人間の成長発達するなかで性的経験はたいへん重要。
  7. もっとある

とかってのの集合なんだよな。あ、1と2をうまく書き分ききれてない。あとで考える。

さて、セックスワーク論に対する中里見先生の批判は、一部非常に重要な点をついている(っていうか触れつつある)。これは高く評価されるべきだと思う。

このような「性=労働」論に対する最初で最大の疑問は、売買春・ポルノにおいて「性的サービス」労働ないし「演技」行為が売買されている、という前提そのものにある。もし本当に売買春・ポルノにおいて「性的サービス」という労働ないし「演技」が売買されているのであれば、「性労働」市場において最も高く買われる人は、「性的サービス」または「演技」に最も熟達した人でなければならない。ところが、現実の「性労働」市場では、身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供されるままにされることで高額に取り引きされている。(p.53)

私はこれは非常に有効なポイントだと思う。労働ってのはふつうは技術なり労働力なりを売るものなわけだが、売買春や本番AVで女優や男優が売っているのは技術なのかどうか。加藤鷹は技術を売っているかもしれんが、相手の女優は技術ではなく生理的な反応を売っているんではないかという感じがある。中里見先生偉い。このタイプのものを売る商売ってのはなかなか 近いものが見当たらない。マッサージ師も身体を使って仕事をするわけだが、彼らははっきりとした技術を売っていると思う23。

ただまあ、売買春において「身体的・性的に成熟しておらず、性に関してほとんど無知な子どもが、性的な「サービス」を何ら提供することなく、あるいは性的な「演技」を行なうことなく、完全に受動的に、何もせずに横たえられ、性的使用に供される」ってのはほんとうかな。児童買春とかはそうかもしれんが、ふつうの街中にあるような風俗とかでもそうなんだろうか?マッサージ師が技術者であるなら、風俗嬢も技術者として評価される可能性は十分にありそうにも見える。そういう技術者として自分を認識している風俗嬢は、技術を磨くこともできれば、その技術と仕事に誇りをもつことも可能かもしれん。まあわからん。キャバクラとかで、自分ただ若い女であることを武器に、しょうもない話術と胸チラとかで商売しているひともいれば、日経新聞とプレジデントとかを毎日読んで努力して自分を磨いている高級クラブのホステスもいるだろう。前者のなかにも、そして後者の多くは自分の仕事にかなりのプライドを持っているような気がするし、それが風俗嬢に不可能かどうか。わからん。

中里見先生のよくない点は、「完全に受動的に」性的使用されるというようなケースのセックスワークがある(かもしれない)ってことから、

「そういった状態に置かれ、性的使用に供されることがサービスや演技の内容なのだ」ということはできる。だがそれはいいかえると、虐待を受け入れることを 「サービス」や「演技」と称して、金の力で強要することを正統*4化することにほかならない。(pp. 53-4)

と進んでしまうことだわなあ。たしかに児童買春は虐待だろう。でもそれをふつうに誇りをもって働いている(かもしれない)セックスワーカーの人たちにまで拡大するのはダメだし失礼でさえあるかもしれない。

性売買の現実をみれば、そこで常に売買されているのは「労働」でも性的「サービス」「演技」でもなく、それらに名を借りた、一定の範囲における、女性の身体の性的使用権である。・・・(売買春・ポルノの場では)売買される女性の身体の性的使用権は、女性の身体の性的濫用=虐待権と実体的に区別がつかない。(p. 54)

「性的使用権」。うーん、そんなもんがあるんかいな。まあ言いたいことはわかるんだけど、なんか根本的にまちがっているような気もする。わからん。

第4章 「ポルノ被害とはなにか」

いろんなポルノ被害を列挙。とくに鬼畜バッキーヴィジュアルプランニングの例が使えているので迫力がある。ここ、読むとウツになるし、トラウマあるひとはフラッシュバックおこしたりする人もいるかもしれないのでその傾向あるひとは注意。

ポルノグラフィと性犯罪の因果関係

たいていの場合ポルノは読んだり鑑賞したりするものではなく使うものであることを正しく指摘。オナニーで使うわけだがそれによって、

ポルノグラフィの内容は、性的快感と生理的反応をつうじて全体で肯定されることによって、その男性に文字どおり身体化され、血肉化される。(p. 75)

こういう大袈裟な書き方が私にはちょっとアレだが、 ここらの問題はちょっと古いけどアイゼンク*5の『性・暴力・メディア』新曜社1982あたりでも詳しく議論されているので興味のあるひとは読むべきだと思う。また、ここらへんは国内におけるポルノ利用の権威 id:kanjinai 先生にも評論してほしいところ。私にはよくわからん。

その次のパラグラフはおかしいと思う。

この事実を踏まえたうえで、なお一部の論者のいうように、「ポルノグラフィの使用が性犯罪を減らす」としたら、その論者はこういわねばならない。ドメスティック・バイオレンスを減らしたければ、妻を殴り、虐待し、拷問することを娯楽に仕立てる本やビデオを社会に大量に流通させ、世の夫全員が妻の虐待映像を自らの身体的・心理的快楽として消費するようにすればよい、と。また子どもの虐待を減らしたければ、子ども虐待を娯楽にする商品を社会に溢れさせて親がそれを好んで使うようにし、外国人差別をなくしたければ、当該外国人を拷問するビデオを人々の楽しみにすればよい、と。「ポルノグラフィが性犯罪を減らす」という議論が、いかに逆立ちした議論かわかるはずである。(p. 75)

これがどうおかしいかを指摘するのは難しい。けっこうよく考えてみないとわからん。とりあえずここでの「ポルノグラフィ」の定義をもういっかいたしかめておく必要がある。中里見先生の定義ははっきりしている。

性的に露骨で、かつ女性を従属的・見世物的に描き、現に女性に被害を与えている表現物 (p.18)

おろ、「現に女性に被害を与えている」っていう一節が目新しい。それは本人も認めている。マッキノンたちはこの表現は使ってなかったと思うから、中里見先生のオリジナルだな。うーん。この新奇な定義の正当化はどこでやってるんだろう。それ見つかるまで保留。

で、もとにもどって、DVへらすならDVビデオ見せろ、ってのはたしかにおかしいよな。でもなんかおかしい。中里見さんが何を見失しなっているのかというと、それは性欲が人間の欲望のなかでもかなり特殊な欲望だってところなんじゃないだろうか。性欲のやむにやまれぬさ、「自然」さってのはほとんどの人に強く感じられるものなんだろうけど、それに対応するようなDV欲とか虐待欲とかってのがあるのかどうか。「だれでもいいから女を殴りたい」「誰でもいいから若い女のパンツを盗撮したい」とかってのはわからんでもないが(あんまりわかりたくはないが)、「誰でもいいから妻を殴りたい」「誰でもいいから子どもを虐待したい」「外国人ならだれでもいいから拷問したい」とかって形の欲望をもつってのはなかなか想像しにくい。私の根拠のない思弁では、そういう人びとの心のなかは(私の想像では)「言うこと聞かない妻をやむなく殴る」「しつけだから」「~人は~だから我が国から追い出さなきゃならん」とかそういう状態になっているんじゃないかと思われる。つまり、DVや児童虐待や外人拷問は、直接に殴ったり虐待したり拷問したりすることを目指す欲求はもってないんじゃないだろうか。いろんな認知の歪みと自己コントロールの喪失が、DVや虐待や外人嫌いの原因であるように見える。これに対してポルノ好きはどうなんかな。性欲は日々生産されつづける生のエネルギーだ、とかってのは、フロイトやユングの理論が滅びた(滅びろ!)いまでさえ、けっこうよさげな仮説なんじゃないかな。わからん。まあとにかくそこらへんかなり大きな違いがありそうだ。中里見先生のはレトリックとしては強力だが、あんまり論理的には見えない。

原子論的「因果関係」論の問題性

でも批評した論文に関係する部分。同じ論旨になっちゃうけど、こっちももういっかいやるか。勝手におつきあいしちゃう。粘着粘着。

ポルノ消費と性暴力の関係性を否定する立場の想定する「ポルノグラフィと性暴力の間の因果関係」なるものは、いかなるものであろうか。それは(1)あるポルノグラフィ消費者すべてが性暴力を実行に移すこと、(2)そのポルノグラフィを消費したことが、その性暴力の唯一の原因となっていること、という二点を暗黙に想定しているようである。 その二点が同時に、あるいは少なくとも一方が証明されなければ、ポルノ消費とその後に続く性暴力との間に「因果関係」はない、そして「因果関係」が存在しない以上、ポルノグラフィは存続しなければならない、というように。(p.77-8)

以前の論文とはちょっと書き方がかわっているが、実際にこんな奇妙な想定を置く論者がどっかにいるのかな。もう1回書くけど、(1)「唯一の」原因なんてものはどういうものについても存在しないし、(2)通常言われる因果関係は統計的であってまったく問題がない。これら誰でも認めるはずだ。この直後のパラグラフもおかしい。

しかし、この原因-結果関係論はあまりにも厳密すぎる。上記のような因果関係が立証されれば、そのような商品・製造物を社会に流通させることは危険すぎるため直ちに禁止されるであろうが、現在の公害責任や製造物責任はそのように厳密な原因と結果(損害)の関係性の立証を要求してない。ポルノグラフィという「製品」は「表現」にかかわることだからという一点だけでは、そのような厳格な因果関係の要求を正当化できないであろう。 (p. 78)

「禁止されるだろうが、」の「が」があいまい。逆接「だろう。しかし」か?

公害責任や製造物責任が原告側に原因と結果の間の詳しい因果関係のメカニズムの証明を求めていないのはその通り(そしてそれはよいこと)だが、それとポルノグラフィと性暴力の関係は同じものだろうか?無過失責任を企業に課すのはさまざまな(たとえば功利主義的)正当化が可能なわけだが、それはやっぱり製造物と被害のあいだに(正確にはどういうメカニズムかはわからんにしても)一定の因果関係があることがわかっているときに限られるのはとうぜんのことだ。私の人生が今失敗していることが、子どものころに『宇宙戦艦ヤマト』を見たからだ、なんて主張されたら困るでしょ?だから、メカニズムの分析はともかく、なんらかの因果関係の推定はどうしても必要なのよ。法律学者が法律についてなんか書いたらわれわれは(特別な事情がないかぎり)それを信頼するのだから、ここらへんはわかりやすくちゃんと書いてほしい。この手の本を読むひとが法律に精通しているってことはないだろうから、せめて因果関係は刑法でも民法でもけっこう難しい哲学的大問題として議論されているぐらいのただし書きつけておいてほしい。

民法だったらふつうは相当因果関係説か。製造物責任について 自由国民社『図解による法律用語辞典』*6では次のような解説している。

化学物質・薬品あるいは一定機械器具を永年使用したことと身体障害との間の因果関係の問題は、高度の専門的知識を必要とし、また現在の科学の水準をもってしては証明できないこともしばしばである。これについても、裁判官の革新を必要としたのでは、証明の不可能または至難となる。そこで、一応の因果関係があるとの蓋然性の証明がなされたときは、製造者の側で因果関係がないという反対の証明をしなければならないものと解される。(『辞典』p. 347)

まあ蓋然性の証明は必要なんよね。ポルノと暴力の関係が現段階の研究でそういう蓋然性さえ示せているかどうかどうか。また、それを規制した場合に、表現の自由やポルノ愛好者の快楽を抑圧するに見合うだけの社会的な利益や効用をもたらすのかどうか。わたしはいまのところ、うたがわしいと思っている。

刑法だと(1)条件説「その行為がなかったらその結果は生じなかったろう」、(2)原因説「条件のなかからなんらかの標準だけを選択し「原因」とする。たとえば一番有力な条件となったものが「原因」)、(3)相当因果関係説(だいたいその行為からその結果が生じるのが経験上通常)の三つぐらいの立場があって、相当因果関係説が主流、と。どれも中里見先生が洞察するような主張は含んでいないように見える。せめてポルノと性暴力のあいだに相当因果関係があることぐらいは示したい。そこらへん法律学やっているひとはどう考えるのかな。っていうか法律学者や哲学者には、知識に加えてここらへんの分析の腕を求めたいところ。(もちろんいろんな分析や立証の方法があると思う。)

アメリカでは、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。 (p. 79)

だからそれ以前からいろいろあるっちゅーに。まあ狭い「(暴力的)ポルノ」の影響という形ではじめたのは70年代後半だからそれでいいのか。でもなんかあれだぞ。厖大ってほど厖大にはない。60年代からメディア暴力と現実の暴力の研究があるわけだし。ここらへんの経緯について私が見たなかで一番詳しいのは上であげたアイゼンクの本。必読。

ミーズ委員会の問題についてはやっぱり触れてくれないのね・・・ここらへん一方的なのは、本気で運動しようとしているのなら逆効果になるのになあ。

第5章 「二つの凶悪事件」「インターネット時代のポルノ」

バッキービジュアルプランニングと「関西援交」。それに各種特異な嗜癖の人の掲示板の書き込みなど。ここらへんいろいろ詳しくしらべてあってご苦労さま。そういうのが好きじゃないのに見たり読んだりするのはたいへんだったろう。ここらへんが「喜びよりも苦悩をもたらした」の一部かなあ。私にはできん。へんな掲示板まよいこむとトラウマになるよ。偉い。

今日はこれくらいかな。ちなみに、Hustler誌 1978年6月号の有名「女体ミンチ」表紙がp. 132にあげられている。この号は入手してない(超高価で入手できない)けど、この表紙は、フェミニストたちがHastler誌が「女を肉のピースのようにして吊りさげている」として攻撃したのに対する編集者ラリー・フリント流の皮肉な反撃のはず。だから「We will no longer hang women up like pieces of meat. — Larry Frynt”」となるわけだ。フェミニストに対する宣戦布告。もちろんフリントは「俺らは女性の美とセックスの快楽を賛美してるんだ!」「言論の自由を守る!」とか言うわけだ。ハスラー読者がこういうのを好んで見ていたわけではない(と思う)。まあたしかにひどくdisgustingではあるが、そういう前後の文脈を説明せずに写真だけ載せちゃうのはあんまりフェアじゃない。まあ米国のフェミニズム関係の本でも同じ扱いをされているカバー写真なのだが。(「ポルノ好きはこんなのでまで萌えてるんですわよ!」「まあ!」)

70年代後半のHustlerがどんな感じだったかは あたりからわかる。そのころPlayboyは(今から見ると)ちょっと上品な保守的なブロンド美人ピンナップと上質の読み物、Penthouseはもろセックスもありのエロ中心、Hustlerはお下劣おもしろいならなんでもあり、っていう方向だったんじゃないだろうか。(そういうのお嫌いな方は見てはいけません)フリントは奇矯で魅力的な人物なので、興味あるひとは映画『ラリー・フリント』見てみるとよいと思う。(ポルノではない。脇役のコートニー・ラブがよかった)wikipedia (en)から調べてみるといろいろおもしろいと思う。

*1:まえに赤川学先生に発すると思われる「性=人格説」とかって表現についても攻撃したけど

*2:まあでも手の温度とかそういう生理的なものも重要かもしれん。

*3:教員とかカウンセラーとかってのはかなり特殊な商売で、技術というよりは「人格」そのものを商売道具にしているような感じがするのだが、まあ生理的な反応を売っているわけではない(はず)。

*4:ママ。おそらく「正当化」の誤植。

*5:心理学者。条件づけとか学習とかの権威。行動療法を発展させた人。

*6:この本はいろんな法律用語が素人にもよくわかるように書いてあるので、いろいろ法律問題も考えてみたい素人はとりあえず必携。

中里見博先生のポルノグラフィ論 (2)

最近児童ポルノの単純所持の違法化の議論あたりの影響か、「中里見博」で検索してたどりつく人が増えているような。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060313/p1 にひっかかって来訪していただいているらしい。

新しい本を出してらっしゃるのでじっくり読んでみる。(前にも書いたが政治的にはまったく違う立場に立つけど、やっていること自体や立派な学者的態度は応援している。)

 

ソフトからハードまでグラデーションとして存在するポルノグラフィを共通して貫いている原理は、女性を性的に客体物化する(objectify)ことである。(中略)女性の性的客体物化の究極的な形態は、女性の死であるといってよい。つまり、女性の性的客体物化の行き着く果ては、セックス殺人(セックスを目的に女性を殺すこと)である。女性を性的客体物化することを快楽とする男性のセクシュアリティは、究極的にはセックスと死を結びつける — 女性の死こそ男性の最大の性的快楽とする — 権力にほかならない。つまり、女性を性的客体物化する男性のセクシュアリティそのものが、一つの権力なのである。女性の性的客体物化(sexual objectification)、これがジェンダーとしての男性が女性に行使する共通の性的権力である。(pp. 26-7)

うーん、どうなんだろうな。ポルノが女性を客体物化(objectify)しているってのまではわかるのだが、それがセックス殺人と結びつくってのはとっぴもない主張に見える。まあそういうのが好きな人がいるってのはありそうな話だが、ポルノ好きを極めると殺人ポルノに行きつくってことはどれくらいありそうな話なのかな。私はほとんどありそうにないと思うのだが。レイプもの好きなのもそれほど多くないような気がするし。「行き着く果て」ってのは、「一部の人の嗜好が行き着く果て」ということでよいのだろうか。

まあじっくり読んでみよう。衝撃的だったのはあとがき。

七年にわたるAPP研究会での活動をつうじて、多くの同志と出会い、少なくない同志を失った。この活動は幸福よりも不幸を、喜びよりも苦悩を、より多くもたらしたかもしれない。(p. 238)

うーん、いろいろたいへんだったんだな。やっぱり不幸になる研究活動とかって のは凡人には難しい。研究や勉強は、相応の快楽や喜びをもたらさねばならない 1)私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。 。訴訟とかもあったしなあ。あの会の活動のしかたが、ちょっと無防備というかvulnerableな感じがあって心配していたのだが。(この研究会も、webの使い方がヘタな団体の一例なんだよな。http://www.app-jp.org/

References   [ + ]

1. 私は功名心や名声心だけでなく、敵意の満足でさえよろこびの一部をなすならそれでもよいかもしれないと思うようになってきている。

ゲーテとカントその後

のコメントで PePeODさんから情報と定言命法をいただいたので、私の身近な図書館*1で調べてみた。

カッシーラなんて読むことがあるとは。
たしかに『カントの生涯と学説』の訳注に白水社の『ゲーテ対話録』p. 293を見ろという指示あり。

ところがこのビーダーマン編高橋義孝他訳『ゲーテ対話録』は5巻本でどの
p. 293やら。それにしてもこれ古本屋でたかっ!

第1巻はシラーからフンボルトあての手紙。違う。
第2巻。これだ。ショーペンハウアーの証言。

一五七七 A・ショーペンハウアー

ゲーテはあるとき、私にこう語ったことがある。カントを一ページ読むと、
あたかも明るい部屋にはいったような気になる、と。

これだけ。1577は整理番号かなんかだろう。
うーむ。でも訳注つけてくれたカッシーラの訳者先生たちは偉い。

なかなかこの発言は謎めいてるよなあ。
『美と崇高』はそこそこ読みやすかったけど、
『純粋理性批判』なんか落とし穴だらけの暗い部屋にも
思えるのだが。だいたい1ページに1文がおさまってないときも少なくないんではないか。
ゲーテ流の韜晦?いや、まあ長いこと読んでるとなんかだんだん明るくなってく感じはするんだけどね。

『ゲーテ対話録』は厖大な量の資料の集成のようだが、訳編者(大野俊一・
菊地栄一・国松孝二・高橋義孝)の先生たちによる立派な索引がつけられてい
るので、ヒマなときぼちぼち見ていけば求めるものが見つかりそうだ。でもい
ますぐやる余裕はなし。そのためには、あらゆる傾向性から離れた
純粋粘着能力が必要になる。

まあこのカッシーラの本の第3章の最初はカントの文体の変遷の問題を
あつかっていて、野田又夫先生の文章の元ネタのひとつである可能性は高そうにみえるな。
PepeODさん情報ありがとうございました。またひきつづき情報募集しております。

*1:辺鄙なところに住んでいるので図書館まで1日半かかる。西アマゾン州立図書館か、ザンビア共和国国立図書館かは秘密。

ゲーテはカントの文体を褒めたか

の続き。

charis先生に教えてもらったエッカーマンの『ゲーテとの対話』だが、どうにもへんな感じ。ゲーテ先生がカントの文章を褒めているところは見当らないような。かろうじてかすっているようなのが、

私はゲーテに、近代の哲学者のうち、誰がもっともすぐれていると思うか、と尋ねてみた。

「カントが」と彼はいった、「最もすぐれている、間違いなくね。(中略)もし君がいつの日か、彼のものを読みたくなるようだったら、私は君に彼の『判断力批判』をおすすめしたい。そこでの彼のテーマの扱いぶりは、修辞学がすばらしく、文学もかなりよい。ただ造形美術が不十分だが」(ゲーテとの対話 上 (岩波文庫 赤 409-1) p. 316)

“Kant”, sagte er, “ist der vorzüglichste, ohne allen Zweifel. Er ist auch derjenige, dessen Lehre sich fortwirkend erwiesen hat, und die in unsere deutsche Kultur am tiefsten eingedrungen ist. Er hat auch auf Sie gewirkt, ohne daß Sie ihn gelesen haben. Jetzt brauchen Sie ihn nicht mehr, denn was er Ihnen geben konnte, besitzen Sie schon. Wenn Sie einmal später etwas von ihm lesen wollen, so empfehle ich Ihnen seine Kritik der Urteilskraft, worin er die Rhetorik vortrefflich, die Poesie leidlich, die bildende Kunst aber unzulänglich behandelt hat.”

 http://gutenberg.spiegel.de/eckerman/gesprche/gsp1079.htm

これかな。でもこれは文章を褒めてるんじゃなくて論考の対象としてレトリックをうまく扱っているという指摘で、カントのレトリックが達者だという意味ではないような・・・ほんとにゲーテはカントの文章を褒めたんだろうか。情報求む。野田又夫先生に降霊してもらわないとならんのだろうか。いかん変な癖がついてきた。文献考証癖なんてなかったのに。これはまちがいなく人間をダメにするね。

まあしかし、こういうゲーテの言葉なんかが「カントは一番偉い哲学者」っていう通念を促進したんだろうなあ。そりゃゲーテが一番だって褒めてたらやっぱり信用しちゃうよな。旧制高校生とか「ギヨエテはカントが一番の哲学者だと褒めているらしい」「よしそれでは我輩はカントを」「では拙は対抗してシヨウペンハルエルを」とかだったんだろうなあ。なんかいいなあ。そしてストーム。ゲーテが「ヒュームが一番」と言ってたら世の中ぜんぜん違っていただろう。まあルソーが一番と言われるよりはずっとよかったか。

 

バトラーの引用についての誤解ごめんなさい

で書いたジュディス・バトラーの文章
について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。
基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。

舟場先生の論文の出典の疑義については、私の誤解だったようだ。
舟場先生の文章の引用は正確には以下のよう。(なるべく正確に写したけど、まだまちがいがあるかもしれない。)

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだった」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。「ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではな」く、「それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、『性別化された自然』や『自然なセックス』が、文化のまえに存在する『前-言説的なもの』……として生産され、確立されていくのである。」(Butler, op. cit., pp. 10/29)

(舟場保之, 「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」, 『哲學』, 第58号, 2007, p.77-8)

この引用箇所の指示「(Butler, op. cit., pp. 10/29)」を、私は「ジェンダーは、生得のセックス~」以下から「確立されていくのである。」までだと理解していたのだが、正確には「おそらくセックスは~」から「確立されていくのである。」まで全部を示すものだったらしい。なるほど、それならわかる。正確な表記は(Butler, op. cit., pp. 10-11/29)だったということになる。

私の読みまちがえでした。訂正しておわびします(過去のも訂正しておきます)。私が他人の目のなかのオガクズばっかり気にして、自分の目のなかの丸太に気づかないのは本当に問題なので、いつもそれを忘れないようにしたいと思っているのですがなかなかうまくいきません(本当)。まあでもこうして書いておくと誰かが少しずつ丸太をけずっていってくれるような気がするので、こうして恥をかくのには価値があるような気がしております*1

ちなみに、竹村訳だと上の舟場先生の最初の引用文は「おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」になっていてちょっと表現が違うが、「訳文は適宜変更している場合がある」と断わっているからもちろん問題ない。原文は “perhaps it was always already gender” なので、舟場先生の表現の方が正確だと思うし、この表現のくいちがいから舟場先生がきっちり原書にあたっているのがわかる。「伝言ゲーム」とか失礼なほのめかしをしてしまってたいへん申し訳ありません。

(前エントリで指摘した not ~ merely の問題は解決されていないが、まあこれはまた。)

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*1:が、そういうのを他人まかせにするのはどうなのかという問題はある。