森岡先生のパーソン論批判の残りふたつ。

  1. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  2. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。

うしろの方から。

・・・そもそも人間にとって、具体的に何が「自己意識」であるか、何が「理性」であるかというのは、それを判断される人間と、判断する人間のあいだの関係性によって決定されるからである。たとえば、痴呆性老人と言われる人間であっても、親しく看護しているボランティアから見れば、しっかりとした自己意識が残っていると判断されるのに、第三者の医師から見ればすでに自己意識を失った存在でしかないと判断される場合がある。・・・ある人が、どのような内的状況にあるのか、あるいはどのような能力をもっているかを、観察者との関わり抜きに客観的に決定することは理論上不可能である。(p.115)

わたしにはさっぱり理解できない。

「自己意識」や「理性」がパーソン論者にとってどういう意味なのかはかなり微妙なのは認めるが、こりゃ単にどの程度詳しく知っているかの実践的な違いでしかないだろう。この場合は看護している人の方がよく知っているからより正しい判断が下せるだろう。(だいたい痴呆老人に生きる価値がないなんて主張している人は見たことがない。なんかヘンな例なのではないか。)

また「自己意識」や「理性」が関係性によって判断されるというのはどういうことなんだろう。看護しているひとが、あやまって「この人は自己意識がある」と思いこむってことは原理的にありえないのだろうか?たとえば私が大事にしている盆栽の調子が悪いときに、「この盆栽は機嫌が悪い」とか「盆栽は苦しんでいる」と考えてもまちがいとは言えないのだろうか。水に悪口を言ったらきれいな氷の結晶を作らなかったときに、「この水は自己意識をもっていて、私の悪口を理解している」と考えたときにこれはまちがいではないのだろうか。

もちろん完全に内的な意識状態がどうなっているかは「理論上」(というか定義上)他者には見分けがつかないかもしれないが、それはどんなに近しい人間だろうが遠い人間だろうがわからないだろう。

なんか悪意のある読みをしてしまっているようだ。森岡先生が本当に言いたいのは、「意識があるとかないとかってのはよく調べないとわからない」なのだろう。これはまったく正しい。しかし、「「関係性」によって決定される」とか、「〈ひと〉の本質であるとされる自己意識と理性は、実は、人と人との関係性によってのみ裏づけられ、把握される」は正しくない。現実世界でなんか検査するときははそうしかありえない(それは当然)ってだけだろう。

最後は「パーソン論の人間理解は貧弱だ」、なのだが、

目の前に親しい人間の昏睡状態の「あたたかい身体」があるとき、それを看取る私の「あたたかい身体」とのあいだに「間身体性」が成立し、そこに人が生き生きと生きているようなリアリティがうまれるかもしれない。その「あたたかい身体」のうえに、その人と私が培ってきた「関係性の歴史」が覆い被さり、ありありとした「記憶」が身体の上に生成し、その記憶はその人の一部となって、私に何かを語りかけてくるであろう。(pp.113-4)

うむ、そのとおり。また、本当に冷たくなった近親者の死体にさえ私はそういう感じを抱くんじゃないかと思う。それがわれわれの感覚だ。たしかにわれわれの身体は特別。

でもこれって「パーソン論」にはなにも批判になってない。パーソン論者もシンガーも、こういう感じ方がなにか論理的におかしいとか不正だとかまちがっていると言うとは想像できない。近しい人びとの身体は近しい人びとにとって特別だ、ってことをなぜ「パーソン論」な人びとが否定しようと思っていると森岡先生が思っているのかの方が私には気になる。なぜだろう?

うーん、なんか意地悪く読みすぎだな。でもとりあえず書いちゃったことは回収しておかないと。たいへん。

Views: 12

コメント

タイトルとURLをコピーしました