カントの文体
のコメント欄でid:charis 先生がゲーテがカントの文章を褒めたという話を紹介している。文体なんてどうでもよいのだが、数日前に同じ話を読んだところだった。
カントの悪文は同時代人にとってもそうだった(同時代人でゲーテのようなくろうとになるとカントの文は名文だとほめるが、これは後の話である)。(野田又夫「カントの生涯と思想」, 中公世界の名著『カント』, p.8)
しかしこれ、具体的にはどこでどういうふうにほめたんだろうな。もちろん野田先生は知ってるんだろうけど、出典ついててないから探しにくい。googleではうまく探せない。カントの文章はそれほど悪くないような気がする。(あと余計だけど、岩波文庫読んで「カント難しい~」って嘆いている学生さんはとりあえずこの野田先生編集のやつで『プロレゴメナ』なり『基礎づけ』なり読めばよいと思う。名翻訳。三批判も野田先生にやってほしかった。)
ヴィトゲンシュタイン
ヴィトゲンシュタインがカルト的な人物だったのはわりと有名なんじゃないだろうか。火かき棒を振り回すウィトゲンシュタインに、ポパーが敢然と立ち向かった話は胸を熱くする。私はモンクの『ウィトゲンシュタイン〈1〉―天才の責務』で読んだ気がするが、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』の方が入手しやすいかな。まあでもポパーも人物としてはかなり高圧的で反論を封じこめようとする人だったとかて話は、なんで読んだんだったかな。『哲学人―生きるために哲学を読み直す〈上〉』かな。それにウィトゲンシュタインの直弟子たちはまともな人が多い印象。
『天文対話』
これ読んだことないのはやっぱりはずかしいか。でもあれだよね。哲学みたいなものにはいつもカルトや詐欺師が付随しているのはその通りなんだけど、哲学とかの歴史ってのはソクラテスの時代からカルトや詐欺師との戦いって見た方がいいんじゃないかと思うのだが、どうなんだろうか。
Anything Goes.
日本人であると思われるcharis先生がわざわざ英語で書いているのは、ファイヤアーベントかな。『哲学、女、唄、そして…―ファイヤアーベント自伝』でいいのかな。でもファイヤアーベントだって、なんでもありとはいえ、ほんとに「なんでもあり」じゃないですよね。「黒い太陽からの毒電波が半減したんデス」とかはやっぱり困るから。
ヌスバウムの感動
んで昨日のヌスバウムの続きだけど、これは主として文体の話。なんども書くけど私にとっては文体はどうでもよいのだけど、まあ感動的な部分だから紹介。
バトラーは、文学の世界で哲学者であることによって名声を得た。称賛者の多くは、彼女の書き方から哲学的な深さを連想する。しかし、そんなものがそもそも、哲学の伝統に属するものなのか、むしろ哲学と敵対関係にある詭弁術(ソフィスト術)やレトリックの伝統に属するのではないかと問うべきなのだ*1。ソクラテスが、ソフィストや修辞家たちがやっていることから哲学を区別して以来、哲学というものは、対等な人々が、一切の曖昧主義的ないかさまを用いずに、主張と反論を交しあう対話でありつづけている。ソクラテスの主張によれば、こうすることで、哲学は魂への敬意を示しており、一方、ソフィストや修辞家たちの他人を操作しようとする方法は、魂に対する軽蔑を表わしているのだ。ある午後私は、長い飛行機旅行の間に、バトラーを読んで疲れはてたあと、人格の同一性についてのヒュームの見解に関する学生の論文を読むことにした。私はすぐに、自分のスピリットが息を吹きかえすのを感じた。「あら、この子、明晰に書いているじゃないの」、私はよろこびを感じながら考えた、そしてちょっとしたプライドも感じた。そして、ヒューム、なんというすばらしい、なんという優雅な精神だろう。いかにヒュームが心優しく読者の知性を尊敬していることか。そしてそのためには、彼自身の不確かさを曝けだしてしまう犠牲さえいとわないのだ。
大きな伝統に自分が属しているという確信に満ちていて力づよく、感動的ですな。私自身も似たような経験を何度もしている。昨日紹介したサラ・サリーに反対して、ヌスバウムは、バトラーがレトリックの教授であることはなんの「看板に偽り」のないことだと主張するでしょうなあ。
おそらく、バトラーのタイプの思想表現の一番の害は、上でヌスバウムが感じた哲学する学問する喜びとプライドを、人々からうばうことにあるんじゃないかな。これが学部学生大学院生に与える害。
あとほんとにメモ
あとせっかくコメントいただいているのにどう答えてよいのかわからないので、こっちにメモ。ひとつはコメント欄に書くのが技術的に面倒(hatena-mode.el使ってるから)で、もうひとつはネットワーク上の議論のようなものに慣れてなくて、公開独白しかできないので。すみません。特に下のメモに対する回答が欲しいわけではないです。もちろんどなた様からのコメントも歓迎ですが、私はあんまり上手くコメントを返すことができません。
charis先生の、「あと、上記で論じられているバトラーの文章ですが、単純なことを言っているだけじゃないでしょうか。」以下が、「いかなるテキストも、それ自身で”意味”は完結していませんから、つねに解釈と批判を許します。」以下とどう結びついているか私にはうまく理解できない。上のはたんにcharis先生の解釈ってことでよいのだろうか。そうなのだろう。しかしそういう「たんなる一解釈」であるようなものを提出することにどういう意味があるのだろうか。それはやはり「よりよい解釈」でなければならない。あるいは少なくとも「よい解釈」の基準がなんかあるだろうというな気がする。ほんとうにanything goesでよいのだろうか。ファイアアーベントの議論はこのような文脈でも使えるんだろうか。
「哲学の議論が必ず水かけ論に終る」というのはほんとうなんだろうか。その根拠はどこにあるんだろう?これまでの哲学の議論がほとんど水かけ論に終っているということから*2、必ず水かけ論に終るっなんて強いことまで言えるんだろうか。また、それは人間的な制約によるものなのか、それとも事柄の必然なのか。そういうのを考えるのがそもそも無駄なのかどうか。
頭悪いからこういう基本的なことさえおさえるのに時間がかかってだめだめ。少年易老学難成、一寸光陰不可軽、ってのは昔から知ってるわけだがさいきんやっと本当の意味がわかってきた。(あれ、これ誰の言葉がわかんないのか。へえ。)
あとあれだ。なにかを憎んだりするのは人間の心理に関する事実で、ふつうの人は自分ではなかなかコントロールできないから「憎むな」と言われてもこまってしまう。もちろん認知のあやまりが不合理な態度を生んでいる可能性はあるから注意しなければ。でも別に出版するなとか焚書にしろとか穴に埋めろとかそういうんではない。たんに憎んでいるだけ。まあ憎んでいる人がいるということを知っておいてほしいってのはある。ここらへん徳がないのは反省している。憎まずにすめば健康にもよいらしいので、努力してみる価値はありそうだ。
あ、私ソフィスト見習いって設定なんだった。はてなでの名前は「ポロス」ぐらいにするべきだったなあ。お借りしている尊敬すべきカリクレス先生の名前は、荷が重いや。ソフィストへの道も遠い。アルフォンゾとかの方がよかっったなあ。
*1:ここちょっと訳が正確じゃないけど許して
*2:これは「ほとんど」の範囲にもよるけど、おそらく偽の命題だと思う
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