だらだら。
小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。
パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)
この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。
パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)
20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。
もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。
(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)
昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。
うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。
でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。
うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。
「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。
もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、
(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。
ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。
ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。
ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。
このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)
うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)
でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う [1]ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)
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References
↑1 | ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 |
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