たいへんなことを見逃していた。
そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。
これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?
ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。
追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。
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コメント
トゥーリー論文の訳者でございます。とりあえず事実のみをお知らせしておきたいと思います。訳者がこれを訳したのは某大学大学院生のときでして、一大学院生の訳文がそのまま書籍に載るということはあり得ず、当然のように監修者たちの手が入っています。訳者の付けたオリジナルのタイトルは「中絶と嬰児殺し」でしたが、・・・・あとはご想像におまかせします。訳文も「こなれた」日本語にするために、先生方の手が入っています。また、本文中の誤訳は訳者の力量不足以外の何ものでもございません。いまから考えるとほんとうに恥ずかしいかぎりです。また、「パーソン論」という言葉の作成について、あちこちで推測がなされていますが、わたしの知る限りでは、初出は当時千葉大学の飯田亘之さん(監修者のひとり)ではないかと思います。訳者は、飯田さんの論文(だったかな)から「パーソン論」を借りた覚えがありますので。また、この「バイオエシックスの基礎」は、翻訳が全訳ではない(がゆえのバイアスがかかっている)、誤訳があるなど、大きな問題をかかえていると思います(先生方ごめんなさい)。いずれにせよもし将来誰か酔狂な方が、日本への英米バイオエシックス導入史を書かれるとすれば、このあたりのことはきちんと検証すべきだと思います。