堀田義太郎さん & 弁護士JPニュースの「男性へのヘイトスピーチ」記事 (5)

弁護士JPニュースの「“男性特有の匂いが嫌い”や“おじさん詰め合わせ”は「差別発言」指摘も…男性への「ヘイトスピーチ」とはいえない明確な理由」へのコメント続き。

「男性に対するヘイトスピーチだ」と主張することの問題

社会的マイノリティ集団に対するヘイトスピーチと「日本人」や「男性」などマジョリティへの侮蔑や攻撃を同等のものとして扱う人には、以下のような問題があります。

(1) ヘイトスピーチという言葉が要請された経緯と現実の社会状況を知らない

(2) 知っていて、あえて無視している

(3) 『社会的マイノリティ』という存在自体を否認するような態度をもっている

いずれにしても、その人は、社会的マイノリティに対するヘイトスピーチの深刻な害悪を軽視する立場に立っていると見なされるでしょう。そう見なされてもよい、と本人が思うならば、『男性に対するヘイトスピーチだ』と言えばいいのではないでしょうか

他にも選択肢はあるはずですよね。たとえば、(4) 単に、そうした人々は「ヘイトスピーチ」を集団に対する攻撃や侮辱やデマ情報の流布のような意味に理解している。それが「正しくない言葉の用法だ」と言うことはできるかもしれませんが、自分で認めているようにヘイトスピーチという 日常語 の意味を確定して「これが正しい用法だ」と言うことは普通はできない。さらに、そうした「普通の意味」は、少なくとも国連の定義からそれほど離れているわけではない。なのになぜ堀田さんと編集部は、こうした怠惰、あるいは邪悪な態度という強い想定をするのでしょうか。私にはわかりません。

「〜と見なされるでしょう。そう見なされてもよい、と本人が思うならば」もたいへん違和感があります。堀田さん自身が、「私は〜と見なします」ならわかります。それを受け入れる人はいるでしょう。

でも「〜と見なされるでしょう」の「見なす」の行為主体は誰でしょうか。「社会が」でしょうか。「一部の人が」でしょうか。「怖い人々が」でしょうか。「アカデミアの多くが」でしょうか。学者がそういうことを書りすると、オープンレターに署名が1300あつまったりするのでしょうか。こうした皮肉を書きたくなるほどいやな文章だと思います。そう見なそうとしているのは堀田さんと編集部ではないですか。SNSでよく見る太宰治の文章そのものです。「世間がゆるさないのではない、あなたがゆるさないのでしょう?」でしたか。

最後は、「差別の歴史や現状に関する知識をもったうえで」、あえて卑劣な朝鮮人差別のヘイトスピーチと、「男はクズだ」「おっさん臭に耐えられない」のような発言を 「まったく同等に悪い」 と主張している人々が登場します。そんなひと、仮に存在するとしてどれくらいいるんでしょうか。

そして最後はこうです。

仮にその理由を問われて、その人が「男はクズだなどと言われて自分は深く傷ついたからだ」と言うとすれば、私は、その人と話すのは時間の無駄だと思います。というのも、そのような人は他者の境遇への想像力が著しく欠けており、自分または自集団の「被害」を過大評価している、いわば自己批評性を欠いているので、まともなコミュニケーションが期待できないからです」

まあこれは、国内における朝鮮人差別と、女性から男性に向けられる「男は臭い」「男はクズだ」が、邪悪さや害悪の点で まったく同等 のものだと発言するような人々に向けられてはいます。しかし、程度はずいぶん違うが、 種類 はだいたい同じだと考えてる人は多数いるでしょう(なぜならヘイトスピーチの国連の定義がそれに近いものだからです)。そうした人々について、堀田さんや編集部はどう考えているのでしょうか。


まあ正直なところ、論説の冒頭程度の発言を「男性ヘイトスピーチ」のような呼び方をする人々に私はあんまり好感をもっていません。しかし、差別というものは、(ピーター・シンガーが主張するように)「人々の利益には平等な配慮をするべきだ」という原則の侵害であるとする立場からすると、一部の人々の利益や言い分を十分に検討してみないで無知・不勉強・邪悪な態度などを想定することはそれ自体差別だとは言わないまでも望ましくないことであるように思います。自分が嫌いな人々の言い分ももうすこし好意的に解釈してあげてほしいと思います。

おそらく、この件では「ヘイトスピーチ」の「正しい」定義を云々するよりは、異性の蔑視や侮辱的な表現がどの程度悪質なものであり、どの程度寛容に扱われるべきか、という実質的な話をしてもらった方がよかったと思います。言葉の定義の問題ではなく、実質的な内容の話をしてほしい。

私自身としては、そうした発言はおたがいにかなりの程度寛容に扱われるべきだと思っています。そうした発言のほとんどは、人々の発言を封じたり、クビにしたりする必要があるほど被害があるものではない。また我々は、まともな議論ができる社会を維持するために、自分にとって不愉快な発言の多くを受忍しなければならない(名誉毀損その他はそれぞれ対応しなければならない)。

この一連のシリーズの前に、クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』について少しコメントしました。クリッツァーさんによれば、「危険な話題」≒難しい社会問題については、アカデミアにまかせるべきだという主張がおこなわれていると私は読みました。私はやはりそれではだめだと思うのです。もし、アカデミアの人々が、一般の人々の発言に対する好意的な解釈ができないのであれば、そして一般の人々に向けて「勉強が足りない、勉強してこい」のようなことしか言えないのであれば、アカデミアは難しい問題を扱うには適当ではないでしょう。

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