と粘着している「人格を持つって言えるか」問題。
トゥーリー先生から非常に親切な長文のお返事が来た。恐縮。
とりあえず一番重要な箇所だけ。
Finally, with regard to the “one has a person” statement, one should interpret “one has” as equivalent to “there is”. I don’t want to say, in this context, “one is a person”, for it suggests that there is something, referred to by the term “one”, that initially is not a person, and then becomes a person. Of course, there is an organism that, initially, is not a person, and then becomes a person, but I want to use the term “one” as a personal pronoun, and so I do not want to use it to refer to organisms that are not persons. But I could have said, instead, “the point at which it is a person”.
やっぱりぼんやりとした一般の人を指すoneでした。よかったよかった。ほんとに一時期は冷や汗かいた。おそらく児玉聡先生もこれ読んでると思うので、いずれweb直してくれるだろう。
トゥーリー先生にも御礼書かなきゃな。ちなみに先生はスキーが好きらしい。
でもよくメールを読みなおすと色々難しい。上の件(「パーソンを持つ」とは言わない)はそれでいいんだけど、1983年から”person”の定義を変えたんだな。
なんでこだわんなきゃならんのだろうか
「胎児は人格でないといっても、胎児は人格を持たないといっても、誤解される程度はたいして変わらないのではないか」という意味のコメントをもらった。
どうなんだろう。なんで私はこだわってるのかな。難しいな。たしかにトゥーリーなりシンガーなり読んだ人はわかるから、一度そこらへん読んだひとは「人格をもつ」だろうが「人格である」だろうが
言いたいことはわかるよな。マイケルの(なんちゃって。トゥーリー先生の)論文が「嬰児は人格をもつか」っていうタイトルで流通して生命倫理学者が皆平気で誰も文句つけなかった(?)のはそういうことなんだろう。
おそらく私が恐れているのは(何度もここで攻撃している)悪しき伝言ゲームが広がることなんだろう。決定的に問題だと思うのは、「である」と「もつ」をだいたい同じように使うような習慣がついてしまうと、「ひと」と「人格」が同じ意味なのがわかりにくくなってしまうことなんだと思う。
personは法的・道徳的な文脈で「ひと」っていう意味だ。「ひとに親切にしましょう」「ひとを殺してはいけません」「ひとを殺したものは~の刑に処す」という時に使われる意味での「ひと」。一方、「人格」はふつうの日本語では「あの人の人格は複雑だ」とかっていう使われかたをする。personalityやcharacter traits。このpersonとpersonalityのふたつは同じ日本語になってしまっているから、どうしても混同されやすいと思う。でもこれは歴史的な経緯があるからしょうがないが、無駄な誤解や混同はできるだけ避けたい。
「子供の人格を尊重する」とか「レイプは女性の人格に対する攻撃だ」「性=人格」とかってときに使われているときの「人格」はもはやどっちの意味かわからんほどぐしゃぐしゃになってる。これについては前に書いたな。読みにくい文章だ。反省。
まあとにかく「person」と「人格」と「ひと」は同じ意味のはずなのに、パーソン論の話をするときに「人格」という言葉を使うから、「胎児はまだ人格ではない」「胎児はまだ人格を持たない」はほとんど同じように見えている。でも「ひと」を使えば、「胎児はひとではない」「胎児はまだひとを持たない」になって、ぜんぜん違ってしまう。その結果、「人格」と「ひと」がもともと同じ言葉だってのがわかりにくくなってしまうだろう。
恐れているのは、伝言ゲームの結果、この混乱が広がってしまうことなんだろうと思う。「性=人格」のときのように無駄な議論をしなきゃならないようになる。実際に伝言ゲームの2列目にいると思われる小松先生ににはすでにその気があるし、その次の伝言ゲームではもっとひどいことになるだろう。やっぱりまちがった伝言ゲームは根元で抑えないと。権威とかそういうのは批判にさらされて生き残っているからこそ信用できる。去年私がここで学んだのはそういうことだったんだと思う。
は。でもこんな細かいことまあどうでもよいといえばどうでもよいような気もしてきた。別に日本の生命倫理学業界とかフェミズム業界とかブログ論壇とかほんとの論壇とか養老業界とかそういうのをアレしたいとかってわけでもないわけだし(いや、あるかな)。なんでどうでもよくないとか思うんだろう。これが卓越性のゲームってやつか。でもまあ微力でもなんかの(なんの?)力になりたいような感覚はあるよなあ。
Clarity and consistency in our moral thinking is likely, in the long run, to lead us to hold better views on ethical issues. (Peter Singer) から孫引き
これ好きだし信じてんだよな。and it will make the world betterとか。これはなんちゃってな話。
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