森岡正博先生にまだ粘着

森岡先生に粘着してみるメモ。

森岡正博先生の「パーソン論」批判は

  1. パーソン論は保守主義だ。
  2. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  3. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。
  4. 〈ひと〉でない存在者に対して冷淡だ。

の四つらしい。私は1と3の主張は偽であるか、すくなくとも多義的で曖昧であると思うし、2と4は偽ではないが文脈を無視していていいがかりに近いと思う。ちょっとずつ考えてみる。(パーソン論というくくりで、シンガーのような一流の哲学者とエンゲルハートのように哲学的に洗練されていない折衷主義者をいっしょにするのはどうも気になる。)

森岡先生でよくわからんのが、彼が、社会的・法的な(最低限の)ルール作りの話をしているのか、道徳的義務や責務の話をしているのか、もっと個人的な理想の話をしているのか、われわれの実感の話をしているのか。もっと別のことなのか。

4番目のやつから。キーになるのは次の文章。

潜在性を持ち出す議論のポイントは、……潜在的な〈ひと〉を殺すことは、将来生まれ出てくるかもしれない何らかの尊い「可能性」を奪ってしまったことになるのであり、その可能性を奪ってしまったことに対して、われわれは何かの「責め」を負わなければならない、ということを主張したいのではなかろうか。

すなわち、胎児には〈ひと〉になる潜在性があるということは、中絶を禁止する根拠にはならないけれども、中絶してしまったわれわれが何かの「責め」を負わなければならないということに理由にはなる、ということである。ここで真に問われているのは、それが道徳的に許容されるかどうかという次元の問題ではなく、われわれが「責め」を負うことになるのかどうかという次元の問題なのである。(『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』p.117)

いつもながら非常に魅力と迫力のある文章だが、この「責め」がどういう「次元」の話なのかが私にはぴんと来ないんだよな。「法的には許される(べきだ)が道徳的には非難される(べきだ)」はよくわかる。おそらく女性の中絶の権利を擁護する人びとにもそういう人びとは多い。

しかし、「道徳的には許されるが「責め」はある」となるとわかりにくい。森岡先生にとって「道徳」ってのはどういうものなのか。森岡先生と私の「道徳」の範囲が違うのかもしれん。やっぱりある種の宗教的立場で主張される罪(「私にはどうしようもなかったが、それでも私は非難されるべきだ」を認める立場)とかヤスパースの「形而上学的罪責」のレベルなのか。guiltとか remorseとかregretとかの議論だよな*1。難しい。

森岡先生の議論の裏には、おそらく、「中絶や治療停止を選択する人びとは、それが法的には許されても罪の意識を感じるべきだ」がある。そして、「その罪の意識を軽減する「パーソン論」は有害だ」と言いたいのだと思える。これどうしたらいいんかなあ。「罪の意識を感じる人びとの方が一般には善良だ」ならその通りなのかもしれんがなあ。少なくとも、たとえば、犬猫金魚ハムスターだって、何の罪悪感なく殺したりする人びとと私はつきあいたくないもんな。牛肉豚肉を平気で食うひとよりは、「命をいただいてありがとう」な人びとの方が善良だ。中絶ならなおさらだ。しかしこれ「パーソン論」の問題なんだろうか?森岡先生は、我々から「責め」の感覚(あるりは「罪悪感」)をなくそうとするあらゆる議論に反対なのかもしれん。

だから次のような文章が出てくる。

パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいのかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪の行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」をみずからに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。(p.118)

でもこれって私だったら個人の理想の話(もちろんそれは非常に重要だが)であって、「パーソン論」のように、「権利」とか線引き問題とかもともと最低限の基準の話をしている議論にそれを求めるのはおかどちがいだ、と言いたくなる。(「権利」はほんとうに最後の「切り札tramp」でしかない。これは、国内で読書してり議論している分には、「権利」って概念の切り札的性格が理解しにくいってのがあるんだと思う。)

そしてこの批判(批判だとすれば)は、森岡先生が考える「悪」がそもそもどのような基準によって判断されるのかがはっきりしなければ、「パーソン論」だけでなく、なんらかの利害の対立がかかわるほとんどあらゆる法的・道徳的思考に対する批判になってしまう。早い話、「これ、たしかに損する人いるかもしれないけど、事情が事情だから許されるべきだよな」というような思考すべてに適用できるように思われる。パーソン論だけ でなくたいていの法や道徳の理論は「不正」「受けいれられない悪*2」とみなされる行為や制度の基準をめぐるものなので、この問題は重大。もし「受け入れられない悪」の判断基準がわからないのであれば、このタイプの議論は限りなく拡大してしまう。(これに森岡先生がどう答えるかわからないが、ひょっとすると「それでもいい、そうであるべきだ」と言うかもしれない。これはもっとよく考えてみる必要がある。)

こうして読んでくると、冒頭のまとめの四番目は、「冷淡だ」というよりは、「パーソン論はわれわれが本来感じるべき罪責感を軽減してしまう」と書きなおすべきかもしれん。しかしもしこう書きなおすことが許されるとすると、「本来感じるべき」という森岡先生の判断はどっから出てくるのか問いたくなる。あるいは「本来感じているはずの」か。難しい。

でもまあ、なるほど、この本でこの議論のあとに田中美津のリブ論や青い芝の会の議論が来るのは内的な必然性があるなあ。やはりよく書けている。(この本が奇書『無痛文明』と双子だという意味がやっとわかってきた。)森岡先生の議論を考えるためには、とりあえずわれわれの道徳的生活での「責め」や罪悪感ってのがどんなものであるかってことを理解する必要がある。これはとんでもなく難しいな。

*1:Bernard WilliamsのMoral Luckとかが有名。

*2:単なる「悪」ではなく「受けいれられない」悪だと思う。

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コメント

  1. 訳者 より:

    コメントありがとうございます。私がこだわっているのは、法的ルールや道徳的義務ではなくて、きっと生命学なのだと思います。「責め」とあの本で言うとき私は生命学の次元のことを言っているのでしょう。それが舌足らずであることは認めます。自分のことは自分ではわからんものなので、間違っているかもしれませんが・・。自分の書いた文章を厳密化すると、おっしゃるようになるのかもしれないとは思います。でもその厳密化が妥当かどうかという話を進めていくとすれば、非常に細かい話になっていきますよねきっと。それはそれで面白いかと思いますが。

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