で書いたジュディス・バトラーの文章について、舟場先生に捕捉していただいたようだ。http://www5f.biglobe.ne.jp/~funacho/2007TB.html の6月3日づけの記事。基本的には誤植だったらしい。私の疑問に答えてくださっている。ありがとうございます。
舟場先生の論文の出典の疑義については、私の誤解だったようだ。
舟場先生の文章の引用は正確には以下のよう。(なるべく正確に写したけど、まだまちがいがあるかもしれない。)
まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだった」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。「ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではな」く、「それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、『性別化された自然』や『自然なセックス』が、文化のまえに存在する『前-言説的なもの』……として生産され、確立されていくのである。」(Butler, op. cit., pp. 10/29)
(舟場保之, 「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」, 『哲學』, 第58号, 2007, p.77-8)
この引用箇所の指示「(Butler, op. cit., pp. 10/29)」を、私は「ジェンダーは、生得のセックス~」以下から「確立されていくのである。」までだと理解していたのだが、正確には「おそらくセックスは~」から「確立されていくのである。」まで全部を示すものだったらしい。なるほど、それならわかる。正確な表記は(Butler, op. cit., pp. 10-11/29)だったということになる。
私の読みまちがえでした。訂正しておわびします(過去のも訂正しておきます)。私が他人の目のなかのオガクズばっかり気にして、自分の目のなかの丸太に気づかないのは本当に問題なので、いつもそれを忘れないようにしたいと思っているのですがなかなかうまくいきません(本当)。まあでもこうして書いておくと誰かが少しずつ丸太をけずっていってくれるような気がするので、こうして恥をかくのには価値があるような気がしております*1。
ちなみに、竹村訳だと上の舟場先生の最初の引用文は「おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。」になっていてちょっと表現が違うが、「訳文は適宜変更している場合がある」と断わっているからもちろん問題ない。原文は “perhaps it was always already gender” なので、舟場先生の表現の方が正確だと思うし、この表現のくいちがいから舟場先生がきっちり原書にあたっているのがわかる。「伝言ゲーム」とか失礼なほのめかしをしてしまってたいへん申し訳ありません。
(前エントリで指摘した not ~ merely の問題は解決されていないが、まあこれはまた。)
*1:が、そういうのを他人まかせにするのはどうなのかという問題はある。
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