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メモ

ちなみに『ジュディス・バトラー』のSara Salihは英文学、http://www.utoronto.ca/english/faculty/bios/salih.htm、『ポスト構造主義』のCatherine Belseyも英文学っぽい。公式ページ見つけられないけどhttp://www.english.heacademy.ac.uk/intconf/plenary/belsey.htm

もっともまあ、哲学ってもの一般と、学問の専門分野としての哲学とか哲学学?のようなものは区別しなきゃならん。どんな学問にも広い意味での哲学ていうか自己反省は必要だからして。方法論もってない学問ってのはありえん。また専門的な知識をもっているという意味で「知者」でなければならん。ある意味で、学者のほとんどは哲学者でかつ知者だし、またもうちょっと別の意味で学者じゃないひとにも立派な哲学者は多い。

ヌスバウムが指摘している問題は、広い意味での哲学者にすぎない人が、他の分野の学者のなかにまじって狭い意味での哲学者とみなされたり自称したりすることだな。ジュディス・バトラー自身は、狭い意味での哲学者を自称してはいないと思う。しかし、他の分野の人々(特に文学畑)がバトラーを狭い意味での哲学者である(そして「(文体だけではなく引用とか前提知識の点で)わからないのは私たちより哲学的に深いからだ」)ととらえていることは十分ありえる。プロフェッションとしての哲学ってのは成立するかとかそういうことだなあ。狭い意味での哲学者はthe learned professionと呼ばれるもののなかに入るかな?前にも書いたけど(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20060320)、新しい学問分野が成立するときとか、学際とかってのはあぶないものが成長しやすい場所だと思っている。前には(http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20061126 の注)、哲学者ってのは「「哲学系の標準的なトレーニングしてロンブン書いている人」って書いたけどこれじゃだめだ。

続き(charis先生攻撃)

カントの文体

のコメント欄でid:charis 先生がゲーテがカントの文章を褒めたという話を紹介している。文体なんてどうでもよいのだが、数日前に同じ話を読んだところだった。

カントの悪文は同時代人にとってもそうだった(同時代人でゲーテのようなくろうとになるとカントの文は名文だとほめるが、これは後の話である)。(野田又夫「カントの生涯と思想」, 中公世界の名著『カント』, p.8)

しかしこれ、具体的にはどこでどういうふうにほめたんだろうな。もちろん野田先生は知ってるんだろうけど、出典ついててないから探しにくい。googleではうまく探せない。カントの文章はそれほど悪くないような気がする。(あと余計だけど、岩波文庫読んで「カント難しい~」って嘆いている学生さんはとりあえずこの野田先生編集のやつで『プロレゴメナ』なり『基礎づけ』なり読めばよいと思う。名翻訳。三批判も野田先生にやってほしかった。)

ヴィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインがカルト的な人物だったのはわりと有名なんじゃないだろうか。火かき棒を振り回すウィトゲンシュタインに、ポパーが敢然と立ち向かった話は胸を熱くする。私はモンクの『ウィトゲンシュタイン〈1〉―天才の責務』で読んだ気がするが、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一〇分間の大激論の謎』の方が入手しやすいかな。まあでもポパーも人物としてはかなり高圧的で反論を封じこめようとする人だったとかて話は、なんで読んだんだったかな。『哲学人―生きるために哲学を読み直す〈上〉』かな。それにウィトゲンシュタインの直弟子たちはまともな人が多い印象。

『天文対話』

これ読んだことないのはやっぱりはずかしいか。でもあれだよね。哲学みたいなものにはいつもカルトや詐欺師が付随しているのはその通りなんだけど、哲学とかの歴史ってのはソクラテスの時代からカルトや詐欺師との戦いって見た方がいいんじゃないかと思うのだが、どうなんだろうか。

Anything Goes.

日本人であると思われるcharis先生がわざわざ英語で書いているのは、ファイヤアーベントかな。『哲学、女、唄、そして…―ファイヤアーベント自伝』でいいのかな。でもファイヤアーベントだって、なんでもありとはいえ、ほんとに「なんでもあり」じゃないですよね。「黒い太陽からの毒電波が半減したんデス」とかはやっぱり困るから。

ヌスバウムの感動

んで昨日のヌスバウムの続きだけど、これは主として文体の話。なんども書くけど私にとっては文体はどうでもよいのだけど、まあ感動的な部分だから紹介。

バトラーは、文学の世界で哲学者であることによって名声を得た。称賛者の多くは、彼女の書き方から哲学的な深さを連想する。しかし、そんなものがそもそも、哲学の伝統に属するものなのか、むしろ哲学と敵対関係にある詭弁術(ソフィスト術)やレトリックの伝統に属するのではないかと問うべきなのだ*1。ソクラテスが、ソフィストや修辞家たちがやっていることから哲学を区別して以来、哲学というものは、対等な人々が、一切の曖昧主義的ないかさまを用いずに、主張と反論を交しあう対話でありつづけている。ソクラテスの主張によれば、こうすることで、哲学は魂への敬意を示しており、一方、ソフィストや修辞家たちの他人を操作しようとする方法は、魂に対する軽蔑を表わしているのだ。ある午後私は、長い飛行機旅行の間に、バトラーを読んで疲れはてたあと、人格の同一性についてのヒュームの見解に関する学生の論文を読むことにした。私はすぐに、自分のスピリットが息を吹きかえすのを感じた。「あら、この子、明晰に書いているじゃないの」、私はよろこびを感じながら考えた、そしてちょっとしたプライドも感じた。そして、ヒューム、なんというすばらしい、なんという優雅な精神だろう。いかにヒュームが心優しく読者の知性を尊敬していることか。そしてそのためには、彼自身の不確かさを曝けだしてしまう犠牲さえいとわないのだ。

大きな伝統に自分が属しているという確信に満ちていて力づよく、感動的ですな。私自身も似たような経験を何度もしている。昨日紹介したサラ・サリーに反対して、ヌスバウムは、バトラーがレトリックの教授であることはなんの「看板に偽り」のないことだと主張するでしょうなあ。

おそらく、バトラーのタイプの思想表現の一番の害は、上でヌスバウムが感じた哲学する学問する喜びとプライドを、人々からうばうことにあるんじゃないかな。これが学部学生大学院生に与える害。

あとほんとにメモ

あとせっかくコメントいただいているのにどう答えてよいのかわからないので、こっちにメモ。ひとつはコメント欄に書くのが技術的に面倒(hatena-mode.el使ってるから)で、もうひとつはネットワーク上の議論のようなものに慣れてなくて、公開独白しかできないので。すみません。特に下のメモに対する回答が欲しいわけではないです。もちろんどなた様からのコメントも歓迎ですが、私はあんまり上手くコメントを返すことができません。

charis先生の、「あと、上記で論じられているバトラーの文章ですが、単純なことを言っているだけじゃないでしょうか。」以下が、「いかなるテキストも、それ自身で”意味”は完結していませんから、つねに解釈と批判を許します。」以下とどう結びついているか私にはうまく理解できない。上のはたんにcharis先生の解釈ってことでよいのだろうか。そうなのだろう。しかしそういう「たんなる一解釈」であるようなものを提出することにどういう意味があるのだろうか。それはやはり「よりよい解釈」でなければならない。あるいは少なくとも「よい解釈」の基準がなんかあるだろうというな気がする。ほんとうにanything goesでよいのだろうか。ファイアアーベントの議論はこのような文脈でも使えるんだろうか。

「哲学の議論が必ず水かけ論に終る」というのはほんとうなんだろうか。その根拠はどこにあるんだろう?これまでの哲学の議論がほとんど水かけ論に終っているということから*2必ず水かけ論に終るっなんて強いことまで言えるんだろうか。また、それは人間的な制約によるものなのか、それとも事柄の必然なのか。そういうのを考えるのがそもそも無駄なのかどうか。

頭悪いからこういう基本的なことさえおさえるのに時間がかかってだめだめ。少年易老学難成、一寸光陰不可軽、ってのは昔から知ってるわけだがさいきんやっと本当の意味がわかってきた。(あれ、これ誰の言葉がわかんないのか。へえ。)

あとあれだ。なにかを憎んだりするのは人間の心理に関する事実で、ふつうの人は自分ではなかなかコントロールできないから「憎むな」と言われてもこまってしまう。もちろん認知のあやまりが不合理な態度を生んでいる可能性はあるから注意しなければ。でも別に出版するなとか焚書にしろとか穴に埋めろとかそういうんではない。たんに憎んでいるだけ。まあ憎んでいる人がいるということを知っておいてほしいってのはある。ここらへん徳がないのは反省している。憎まずにすめば健康にもよいらしいので、努力してみる価値はありそうだ。

あ、私ソフィスト見習いって設定なんだった。はてなでの名前は「ポロス」ぐらいにするべきだったなあ。お借りしている尊敬すべきカリクレス先生の名前は、荷が重いや。ソフィストへの道も遠い。アルフォンゾとかの方がよかっったなあ。

*1:ここちょっと訳が正確じゃないけど許して

*2:これは「ほとんど」の範囲にもよるけど、おそらく偽の命題だと思う

カルト対象としてのバトラー

charisさんにつっこんでもらったので ( )、バトラーをなぜ憎んでいるのか少しずつ書いてみよう。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20050718 に関連。

バトラーのやばさをはっきり理解したのは、ちょっと前にサラ・サリー『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』を読んだときだと思う。

ジュディス・バトラー(略)はカリフォルニア大学バークレー校のマクシーン・エリオット冠教授で、修辞学・比較文学教授という地位にある。しかしこの大学でのこの公式の称号は、いくぶん「看板に偽りあり」である。というのも、バトラーには、紛れもなく修辞学、あるいは比較文学と言える著作がないからだ。・・・一九世紀ドイツの哲学者G. W. F. ヘーゲルがバトラーの仕事に与えた影響は計り知れない。というのもバトラーは、一九八〇年代に哲学を学び、彼女の最初の本はヘーゲル哲学が二〇世紀フランスの思想家たちに与えた影響を分析したものだったからである。しかしバトラーは二作目以降、精神分析、フェミニズム、ポスト構造主義など、広範囲にわたる理論を使っている。(pp. 13-14)

どうもバトラーは難しい哲学をたくさん勉強した哲学者だと強調したいようだ。

ここ数年は、バトラーの散文の文体は彼女の概念と同様に、批評家*1の関心を惹く傾向にある。おそらくバトラーの文体に文句を言うことで内容が理解できないことの代わりになっているのだろうし、内容を拒絶する安易な口実にもなっているのだろう。
(中略)
バトラーの文体が拙劣であるとか、扱う概念の説明に労を取らない傲慢な思想家と片づけてしまう代わりに、バトラーの文体そのものが、バトラーが理論と哲学で試みる介入の一部であると認識することが肝要である。(サラ・サリー『ジュディス・バトラー』, 竹村和子訳, 青土社, 2005, pp. 32-33)

これって、カルトや一部の宗教が使うのと同じ手口だよな。「わからないのはあなたの勉強が足りないからです」「非難している人は無能か怠惰なのです」「実は裏に政治的な意図があるのです。」「ジュディス様は皆さまのことを真に心配しておられるからこそ、このような態度をお取りになるのです。」

ヌスバウムなんかはこういう感じで批判している。ヌスバウムの批判については上のサリーも触れているが、主として文体の問題と解釈しているようだ。しかし以下読めばわかるように、単に文体だけの問題ではなく、「学問」としての方法の問題を指摘している。(ヌスバウムに批判のもうひとつはバトラーたちの議論の政治的含意についてなんだが、そっちには触れない)

バトラーの思想を把握するのは難しい。それがなんであるかを理解するのが難しいからである。バトラー自身は非常に頭の切れる人物である。公開討議の場では、彼女は明晰に話し、また彼女に対して何が言われているのかをすぐさま理解する。しかし、彼女の文章の書き方は、ぎこちなく曖昧である。彼女の文章は、雑多な理論的伝統からひきだされた他の理論家たちへのほのめかし(allusion, 間接的言及)に満ち満ちている。フーコーと(最近注目しているらしい)フロイトに加え、バトラーの作品はルイ・アルチュセール、フランスのレズビアン作家モニク・ウィティッグ、米国の人類学者ゲイル・ルービン、ジャック・ラカン、J. L. オースチン、米国の言語哲学者ソール・クリプキなどの思想に依拠している。控え目に言っても、これらの人物の見解がお互いに一致することはない。したがって、彼女の議論があまりにも多くの互いに矛盾する概念や学説によって支えられており、ふつうはそういった一見して明らかな矛盾がいかにして解消されるのかについてなにも説明がないのを発見して読者は途方にくれざるをえないことがバトラーを読む上でまず最初の問題だ。

さらに問題なのが、バトラーのいきあたりばったりのほのめかし方にある。上のあげた理論家たちの思想が、初心者に向けて十分に詳細に説明されることはけっしてない(もし読者がアルチュセールの「アンテルペラシオン」という概念に不案内なら、本のなかで迷子になるだろう)。また、上級者に向けて、難解な思想がどう理解されているかを説明することもない。もちろん、アカデミック文章というものは、どうしたってなんらかの仕方でほのめかしを含むことになる。アカデミックな文章はある学説や立場についてのあらかじめなんらかの知識があることを前提としている。しかし、大陸系でも英米系でも哲学の伝統では、専門家を相手に書く学者は、一般に、彼らが言及する思想家たちが理解しにくく、さまざまな解釈の対象になることを認めるものである。それゆえ、学者たちが典型的に想定するところでは、学者は対立する複数の解釈のなかでひとつのたしかな解釈を提出し、また、その人物を自分が解釈したように解釈する理由を議論せねばならず、また他の解釈より自分の解釈が優れていることを示さねばならないという責任がある。

バトラーはこのようなことをなにもしない。さまざまに相違する解釈は、単に検討されずにすまされる。フーコーやフロイトの場合のように、ほとんどの学者は受けいれないであろうかなり異論の余地のある解釈を提出している場合でさえそうである。そこで、バトラーの文章を読む読者は、そのようなほのめかしの多用は、深淵な(esoteric)学問上の立場の詳細について議論しようとする専門家が読者として仮定されているのだと思いこみ、普通の方法では説明することができないという結論に至ることになる。また、バトラーの著作が、現実の不正義ととりくもうとしている一般人に向けられたものでないことは明白である。そういう読者は、それがグループ内での知識を前提としているという雰囲気や、説明に対してさまざまな名前が果たしている高い割合から、バトラーの散文のどろどろのごたまぜスープに途方に暮れるだけだろう。(Nussbaum, Martha, The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler, New Republic, Vol. 22, 1999.)

 

同じようなカルト性は、デリダについても見られる。

Q. デリダを読むのはひどくむずかしい。どうしてもっと簡単に書かないの? 意味を伝達したくないの

A. デリダを読むのが難しいのには、三つ理由があるわ。まず最初は、彼が(大陸の)哲学者だってことね。この伝統の外ではあまり行きわたっていない対象に幅広く言及するの。彼のとりわけ不可解な言明の多くは、わかってみるとプラトンとかヘーゲルとかハイデガーに間接的に触れていて、わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ。つぎには、たいへん細かいところにこだわるということがあるわね。繰りかえしが多くて気取りすぎだと思えることがあるかもしれないけど、それは厳密さを求める欲望から来ているのよ。でもこれ意外にもね、ロゴス中心主義に対抗する議論をするという観点からは、言語が透明な窓ガラスのようなものでその向こうに完璧に理解できる観念を認知できるわけではないことを、実例でしめすことがだいじなの。(キャサリン・ベルジー『 ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 』, 岩波書店, 2003, p. 121, 。)

「わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ」が素敵すぎる。

ちなみに、どんどんずれていくけど、このベルジーさんはおもしろい人で、ラカンについても
こんなこと書いている。

・・・彼の『エクリ』は、初読では異様にとらえがたく、謎めいており、読解に難渋する。・・・これらの著述や口頭発言は、精神分析家に向けられたものだった。ラカンの考えでは、精神分析家のしごとは、この上ない注意を払って患者の発言を聞くことだった。分析家は、謎々やほのめかしや削除や省略などによって意識の検閲をくぐり抜けてくる無意識の声を聞くのである。そしてラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。

称賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテキスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。

だが、徐々に前よりはわかるようになるものだ。しかもこの苦労は報われる。ラカンは途方もなくよく本を読んでいて、きわめて知性が高かった。彼は折りに触れてたとえば絵画、建築、悲劇などにコメントしているが、ずっと重々しい学問的著作何冊かにそのコメントが匹敵することも珍しくない。(p. 95)

この確信と批判力のなさはどっから来るのか。この人の実人生だいじょうぶなんだろうかと不安になる。この岩波の「1冊でわかる」シリーズは一般に水準が高くてどれもおすすめなんだけど、なんでこんなものがはいってるんだろうか。

(続く)

*1:ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。

江原先生のを検討してみるがわからん

https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/11/11/11_11_62/_pdf

経験科学的水準の議論においては、セックスもジェンダーも、具体的性差それ自体を指す。セックスとは、生物学的な根拠を持つ性別・性差(それ自体多様性を持つが)のことであり、ジェンダーとは、社会環境によってつくられる性別・性差のことである。したがって、この意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解しようとすると、「生物学的な根拠を持つ性別・性差は、社会環境によってつくられる性別・性差である」という意味になってしまい、到底理解不能な命題となってしまう。

しかし、認識論的水準の議論においては、セックスとは、生物学的な性別・性差とされている「知識」をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された「性別・性差に関する知識」をいう。ここの意味で「セックスはジェンダーである」という命題を理解するならば、「生物学的な性別・性差という『知識』も、知識である以上、社会的文化的に形成されている知識である」という命題となる。この文脈では、セックスとジェンダーというカテゴリーは論理階梯が異なるようにずらされており、その点で「セックスはジェンダーである」という命題はレトリカルな命題であるような印象を受けるが、上記のように理解すれば全く理解不能な命題ではなく、むしろ当たり前で自明なことを述べているに過ぎないように思われる。

なに言ってるかわからん。カッコの使い方になんかトリックがある。

これ、特に後ろの方があやしいなあ。前の段落と同じように単純に書き代えるなら、

生物学的な性別・性差とされている「知識」は、社会的文化的に形成されている「性別・性差に関する知識」である

になって、私にはやっぱり前の段落と同じくらいおかしいと思える。「~とされている知識」がわからん。

セックスとジェンダーはどっちもは知識なのか?そう使いたいんなら、それでもいいけど、ふつうに考えた場合1)なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。、知識というのはなんらかの対象についての知識だろう。では江原先生の言う「セックス」はなんについての知識で、「ジェンダー」は何についての知識なんだろうか。「セックス」はセックスについての(文化的負荷を負って生物学的とされている)知識で、「ジェンダー」もやっぱり(文化的負荷を負っている)セックスについての知識か?んじゃおなじじゃん。トートロジー。

あれ、おかしい。江原先生の「とされている」が気になる。

生物学的な性別・性差とされている対象についての知識は、社会的文化的に形成されている性別・性差とされている対象についてのについての知識である

と言いたいのかな。

江原先生が言いたかったのは、

認識論的水準の議論においては、セックスとは、社会的文化的に生物学的であるとされている性別・性差に関する知識をいい、ジェンダーとは、社会的文化的に形成された生物学的な性別・性差に関する知識をいう。

と言いたかったのか?あれ、おかしい。

なんというか、難しいのはわかるけど、こういう言葉の使い方ひとつろくにできない(し、解決の見込みもない)のなら、「ジェンダー論」とかってのはやめた方がいいんじゃないかな。生物学的性差と文化的性差ぐらいでいいじゃん。それならOKだしまだ生産性もある。あるいは哲学やっている人がちゃんと助けてあげるべきじゃないのか。(哲学やっているという人たちが助けることができるかどうかは知らないけど、もし哲学者がなんかできるならそういうことしかできないだろう。)

この文脈にはあんまり関係ないけど、こういう馬鹿なことを考えたくないひとは、やっぱり、バトラーに『ジェンダー・トラブル』で引用されて脱構築されちゃってるウィティッグの原文を読んでみるべきだと思う。私の理解では、Wittigは「わしら、人を見るときに、まずどうしたってまず男か女か考えちゃうわよね」ってな実感をちゃんとした言葉で語っていて、別におかしくないしよくわかるし、鋭い指摘だ。

わたしらの大部分(ほんとは全員と言いたい)は、人間(通りすがりでも)を見たときに、どうしても、まずそれが異性か同性かをまず最初に認識しようとするし、すぐに認識できない場合かなり気になり確かめようとする。私の場合は異性だとわかったら、すぐにどの年齢層にいるかとか性的に魅力的かとかをもっと意識する。むしろ、まず最初に性的に魅力的な生き物(つまり若い女)とそれ以外(ジジイ、オヤジ、おばあさん、子ども、猫、机、鉛筆、舗道、空、太陽など)とをまず分けて認識しているかもしれないほどだ。そういう意味で、女性には性的なマークがつけられてしまっている(少なくとも私には。まあ私がつけているのだが)。女性ならば中学生ぐらいまではよくわからんが、20代だと2才の差ははっきりわかる。40才近くなるとかなりおおざっぱになり、60才を越えるとほとんど同じと認識してしまう。同性でも自分にとって危険な近い年齢層はかなりとはっきり意識しようとするが、自分より歳がはなれるにつれてよくわからんようになる。ウィティッグのは、そういうのから逃がれられない私たちってはたいへんだ、って文章だと読んだ。興味あるひとは読んでみるとよい。(今手元にないので、そのうちもう一回読んでみようと思う。いや、勝手にこう読んじゃっただけかもしれんのでぜんぜん違ってたら許してください。)

いったいバトラー読んでいる人間のうちの何割が自分でWittig読んでいるのか私は疑っている。おそらくバトラーがWittigの鋭い洞察になにを借りたのか、Wittigが本当はなにを言ったのかについて、バトラーのファンはほとんど興味がないのだろう。日本googleをひくと、ウィティッグの名前が必ずバトラーと組になって出てくるのがかわいそうだ。そういう風潮を私は憎んでいる。誰もバトラーがちゃんと引用してまともなことを言っているかどうか調べようとせず、「ジェンダーがセックスを規定する」(バトラー)とか書きまくり、伝言ゲームしているのだ。フェミニズムの没落、あるいは、いかにしてフェミニズムはジェンダー「論」とかいう学問もどきとなり退廃したか。

あとバトラーのもうひとつのネタ本であるファウスト=スターリングのあの本が現在どういう立場にあるのかを、生物学まわりの他の本を読んで理解しているひとがどれくらいいるのかとかね。もちろんわたしはちゃんと理解しているとは言えないけど、ファウストスターリングのどこがおかしかったかぐらいはぜんぜんわからないわけではないと思う。

さすがに『哲學』のシンポ論文二本がどっちもバトラーからはじまっていればこういうことを考えちゃうよな。

References   [ + ]

1. なにが普通かはわからんけど、対象がない知識というのは理解しにくいと思う。

北川東子先生のポエム

さて、「ジェンダー」とは流動的なパフォーマンスである。誰かがなにかを言って、なにかを指差す。すると、男が女を見つめることになり、女は見つめられていると思う。法は「違・法・外」を定め、そのことで、犯罪者を名指し、罪そのものが成立する。派手な衣装をまとったドラッグ・クィーンたちが甲高い声で笑う。すると、ふたつのセックスがちらちらして、互いが互いを模倣してみせる。そのとき、ジェンダーが行なわれている。(北川東子「哲学における「女性たちの場所」—フェミニズムとジェンダー論」,『哲學』, 第58号, 2007, p.50)

あんまり素敵だったので写経してしまった。『哲學』は日本哲学会が出している雑誌で、おそらく(会員でもないのでよくしらんけど)哲学業界では一番権威がある雑誌のはず。難しい哲学的散文を覚悟して読んだら素敵なポエムだったので得をした気分。

誤解されないように書いておくと、これは「3 「女性的なアプローチ」の意味」と題された一節の最初の一段落。次の一段落はこんな具合。

ジェンダーは遂行的な性格のものであり、固定した場をもたない。ジェンダーは、その場の配置のなかで、その場で行なう者たちが生みだすなにかである。「母たち」や「主婦たち」や「女性たち」という場所にあって、そうしたすべての場所にはないものである。フェミニストたちが、女性たちの場所にこだわるのにたいして、ジェンダー論では「女たち」は構成された主体にすぎず、セックスはパロディーでしかない(バトラー)。ジェンダーの場所は、「ないものがあって、あるものがない」場所である。ただし、「ないものがあって、あるものがない」という謎かけのようなジェンダーの場について語ることがえできるようになったのは、フェミニズムが「不在とされた場所」を可視的にしてくれたからである。(同上)

上で(ジュディス・)バトラーの名前があげられているが、どっからどこまでがバトラーかわからん。「セックスはパロディーでしかない」だけなのか、そこまで全部なのか。素敵なポエム*1が北川先生のオリジナルか、バトラーなのかどうか気になる。文献表に挙げられているのはGender Troubleだけ。最初の段落のも『ジェンダー・トラブル』からの引用かなにかなのかな。見たことないような気がするから、Undoing Genderあたりかもしれんがよくわらかん。

あんまり関係なく上のポエムからふと思ったのだが、ポストモダンフェミニズム(あるいは北川先生の、「フェニズム」と対比される意味での「ジェンダー論」)では「男」「女」「ドラッグクィーン」などの定義ってのはどういうものになるのかな。ドラッグクィーンが「派手な女装をした生物学的な男」ではありえないと思う。「ドラッグクィーンの服装をし、ドラッグクィーン的な思考をする人」かな。この場合、再帰的になってもやむをえないかもしれない。「派手な社会的に女ジェンダーとして認められる服装をして特有の伝統的なパフォーマンスをする、社会的に「生物学的に男」と思われているような人」か。「伝統的にドラッグクィーンと呼ばれるふるまいをする人」しかないかな。男は「社会的に男だと思われている人」でいいのかどうか。あんまりよくないよな。まあ定義なんかどうでもよいと思うが、私は基本的なところが理解できていないな。北川先生の次に掲載されている舟場保之先生の論文でも、

まず自然的性差としてのセックスがあり、これを前提した上で文化的性差としてのジェンダーが形成されるという誤謬に対して、「おそらくセックスはいつでもすでにジェンダーだっと」と言うバトラーは、「自然」としてのセックスと「文化」としてのジェンダーとの関係について次のように論じている。(p.77)

と書いておられる。その次の引用はGender Troubleの原書 p. 10/ 邦訳p.29の超有名な部分。(どうでもいいが、舟場先生は 「Butler, op. cit., pp. 10/29」 という表記を使っているけど、pp.は「pages」の訳なんじゃないかな。ふつうはpp. 10-11のように使うと思う。1ページだけの時はp.10のように使う。おそらく校正ミスだろう。いや、原書と翻訳のページの複数という意味なのかな。それなら私の誤解だ。出典も調べずに勝手に推測した。ごめんなさい。)

それにしても私が憎んでいる*2ジュディス・バトラーが哲学業界でも大人気。バトラーのこの部分は超人気でこの手の議論するときには必ず出てくるわけだから、やっぱり近いうちゃんと理解できるようになりたいものだ。

前にも書いたけど、哲学業界とかってところでも、だんだん地味な研究をするのはむずかしくなっているのかもしれないが、大学院生やオーバードクターの人には地道にアカデミックに典拠のはっきりした散文でがんばってほしい。ポエムは論文の最初か最後ぐらいだったら許してもらえると思うし、かっこつけるなら偽名使って偽書でっちあげて、エピグラフとして使うとかがよいのではないか(ついでに本文でもそれに言及したりするともっとかっこいい)。生物学的女性院生や女性ジェンダー大学院生や生物学的オーバードクターや女性ジェンダーオーバードクターやそれ以外のジェンダーのオーバードクターもやっぱり地道にやってほしい。

追記

ポエムは秘密クラブかハプニングバーかなにかの場面描写なのだろうか?そうだとすればわかるような気がする(し、バトラーがそういうこと書くのはわかる)が、『哲學』の読者はそういうものになれてるのかなあ。あれ読んでぱっとなんの話かわかるとか。学会の懇談会ではそういうシーンがあるとか。私の知らない世界は広い。

追記2

上の舟場先生のバトラーの引用箇所あたってみたけど、私のもってるGener Troubleだと(Routledgeの1999年のプリント)だと該当個所はp.10じゃなくてp. 11が正しい。おそらく校正ミスだろう。そうでなければどっかで起こった伝言ゲームのミスか。邦訳ページはp. 29で正しい。*3

ところでこの有名な箇所の翻訳だが。竹村訳だとこうなる。

したがって、セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書き込んだものと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」—-つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面 —- として生産され、確立されていくのである。

It would make no sense, then, to define gender as the cultural interpretation of sex, if sex itself is a gendered category. Gender ought not to be conceived merely as the cultural inscription of meaning on a pregiven sex (a juridical conception); gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established. As a result, gender is not to culture as sex is to nature; gender is also the discursive / cultural means by which “sexed nature” or “a natural sex” is produced and established as “prediscursive,” prior to culture, a politically neutral surface on which culture acts.

こうしてみると、竹村訳の「セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない」は「ジェンダーと文化の関係は、セックスと自然の関係とは同じではない(/違う)」ぐらいがよさそうに見える。”pregiven”も「生得の」は訳しすぎかもなあ。「あらかじめ存在する」ぐらいでどうか。

それにしても難しい文章ですな。なぜ難しいかというと、今指摘した”gender must also designate the very apparatus of production whereby the sexes themselves are established”の一文なんかにおける無冠詞単数形の”gender”が「genderという語」の意味で使われており(上の意味でのdesignateという動詞の主語は私には「語」に思える)、それに対して”sex”の方が「セックスという語」ではなく「性」という概念内容(conception)か、あるいは「性」という対象を指していて、それをごっちゃにして一文のなかで使っているからのような気がする。わからんけど。難しい。とにかくこの一文でバトラーはジェンダーという概念の分析をしているというよりは、彼女が(勝手に)使う「ジェンダー」という語の操作的な定義をしているように見えるのだが、どうなんだろうか。

“gender is not to culture as sex is to nature”はどう読めばいいのかな。「ジェンダーという語と文化との関係は、セックスという語と自然との関係とは違う」なのだろうか。

“sexed nature”や”a naturel sex”はどう訳したらいいんかな。これも冠詞(a natural sexだから男女どっちか一方の性のはず)とかよくわからんよなあ。「性的本性」と「ある自然的性別」なのかな。竹村先生は”a natural sex”を「自然なセックス」と訳しているが、これはおそらくわからないというか訳しようがなくて逃げたんだろう。

あと竹村訳だと”Gender ought not to be conceived merely as ~”のmerelyが抜けてるね。けっこう大きい抜けだと思う。「たんに、あらかじめ存在するセックスに文化が意味を書き込んだものだとしてのみ理解されるべきではない。」あれ、バトラー的にはinscriptionは「書き込んだもの」でいいのかな。「書き込むこと」なのかな。ここも原文があいまいだな。

“discursive”と”prediscursive”も私にははっきり概念の内容が理解できない。「文化的」と「前文化的」に対応すると読んでいいのかな。ここらへんがポストモダン的な言語理解の難しいところだな。わからん。

一行目の”It would make no sense to define~, if ~ is“も気になる。このwouldは英語的にどういうニュアンスなのかな。あ、これは「もし~なら、~なんてことをしようとしたも意味ないよ」でいいのか。if以下じゃなくて、to define以下に仮定がはいっていてそれを受けたwouldなのね。OK。これは読めないとはずかしい。

竹村先生の「つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面」は「つまり、文化がそのうえで作動する政治的には中立な表面」の方がよいと思う。でも「表面」の意味がわからん。あるいは、「~は「前言説的」なもの、すなわち、文化に先行し、また(それゆえ?)政治的には中立なものとされ、その表面で文化が活動しているのだということになる。」ぐらいなんだろうか。

こういうぼんやりした思考や概念が本当にいやだ。それが無批判にどんどん使われて「ジェンダー論」とかの主流になっていくのもいやだ。私の理解では、哲学ってのはまずはまさに吟味することで、おもしろいことを言うことではない。

やっぱりわからん。バトラー読んだり引用している人は、ここらへんちゃんとわかっているのだろうかと疑問におもう。日本語の明晰な解説があれば教えてください。コメント欄に「これ読め」と書いてくれれば必ず読みます。

*1:The DoorsのStrange Daysのレコードジャケットを連想した

*2:これも前にも書いたけど、マッキンノンやヌスバウムについては愛憎いりみだれるって感じ。少なくとも言ってることや魅力はわかってるつもり。

*3:2007/6/4訂正。詳しくは

中里見博先生のポルノグラフィ論 (1)

中里見博「ポルノグラフィと法規制:ポルノの性暴力にジェンダー法学はいかに対抗すべきか」、『ジェンダー法・政策研究センター研究年報』第2号、2004

と「ポルノ被害と法規制:ポルノグラフィーをめぐる視座転換をめざして」、『ジェンダーと法』、第2号、2005。

後者は前者の短いバージョン。

米国では、1970年代末から、ポルノグラフィが消費者に与える影響についての膨大な研究が蓄積されている。その研究には、大別して、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、がある。

(略)

(1)の実験研究の結論は、概ね次のようなものである。すなわち、暴力ポルノの試聴によって視聴者は、女性への攻撃的な態度の増大を引き起こす。女性への攻撃的態度は、女性への性的暴力行為の増大を引き起こす。1986年の司法長官「ポルノグラフィに関する委員会」の最終報告書は、「既存の研究によると、暴力ポルノを相当程度消費することは、反社会的な性的暴力行為を引き起こし、消費者の一定の人びとは、性犯罪を引き起こすという仮説が明確に証明される」と結論づけた。(「法規制」の方のp.228)

この委員会の報告書は https://catalog.hathitrust.org/Record/000824987で全文を読めるようだ。引用されているのは5.2.1だと思われるが、直接この文章に対応するのはまだ見つけていない。引用符でくくってはいるが、直接の引用ではなく、要約のようだ。まちがっているわけではない。

しかしいくつかポイント。

研究の歴史

中里見先生の記述は若干ミスリーディングなところがある。

第一に、米国でのポルノと性犯罪の研究は「1970年代後半」になってやっと行なわれるようになったわけではない。1960年代にはすでに多数の科学的実証研究が行なわれていたし、特にジョンソンーケネディ政権の時に大統領委員会が上の司法長官委員会よりずっと大きな予算を使って行なわれた。(結果はポルノと性犯罪の間には因果関係はなさそうだ、というもので米国のハードコアポルノ解禁の論拠となった)

研究方法

第二に、ポルノと性暴力の関係についての科学的調査では、(1)被験者を用いた実験研究、(2)性犯罪加害者の聞き取り、(3)サバイバー(性暴力被害者)の証言・体験談、に加えて、(4)社会統計的な調査が大きな役割を果たしている。ポルノの規制をゆるめた国で性犯罪が増えたか減ったか、ポルノが入手しやすい国や地域とそうでない地域で性暴力がどの程度違うか、とかそういう調査。ジョンソン委員会でもイギリスのウィリアムズ報告でも、この社会統計が大きな役目を果たした。司法長官委員会では(4)をちゃんとやらなかったと批判されている。実際のところ、国別に見たときにポルノが手に入りにくい国の法が性暴力が多いとか、米国でも性暴力が多いのは保守的でポルノ入手が難しい地域だという指摘がある。

報告書

第三に、司法長官委員会(Meese委員会)の報告書は発表当時からかなり問題があると指摘されているので、2004年の段階では論拠としては使いづらいと思うのだが、どうなんだろうか。よく書けている問題点の指摘が http://home.earthlink.net/~durangodave/html/writing/Censorship.htm で読める。まあ問題ありまくり。委員会のメンバーがもともと反ポルノだとか。

それにこの報告書の参照されている部分は、中里見先生がほのめかしているように実験研究だけに限定されたののではない。下参照。

因果関係

この報告書で特に科学的・哲学的に問題だとされているのが、因果関係の立証に関するところで、被験者にポルノを見せて「女性に対する攻撃性」が上昇するところまでは実験室で示すことができたとしても(これさえかなり難しいのだが)、それが実際の性暴力につながることを示すことはほとんど不可能だ。(実際に被験者に性暴力や暴力一般をふるわせるわけにはいかない)

この点についてMeese委員会はぜんぜん科学的じゃない。

Finding a link between aggressive behavior towards women and sexual violence, whether lawful or unlawful, requires assumptions not found exclusively in the experimental evidence. We see no reason, however, not to make these assumptions. The assumption that increased aggressive behavior towards women is causally related, for an aggregate population, to increased sexual violence is significantly supported by the clinical evidence, as well as by much of the less scientific evidence.[45] They are also to all of us assumptions that are plainly justified by our own common sense.

女性に対する攻撃的ふるまい*1と(合法であれ違法であれ)性的暴力との間のつながりを見つけるには、実験的な証拠だけでは見つけられないようないくつかの仮定が必要になる。しかしながら、われわれは、これらの仮定を置かない理由を見つけられない。女性に対する攻撃的ふるまいの増加が、人口全体からすれば、性的暴力の増加に因果的につながっているという仮定は、臨床的な証拠によっても、それほど科学的でない証拠によっても支持されている。(このような)いくつかの仮定はわれわれ全員にとって、われわれの常識によってあきらかに正当化された仮定でもある。

つまりこの因果関係(実験室で観察されるかぎりでの女性に対する攻撃的ふるまい(性的ではない)→(実際の)「性」暴力)は、たんに委員会の人びとの常識や直観にもとづいたものにすぎない。(assumption(s)の単数、複数にも注意)

あとclinical evidenceという言葉が出てきていることからわかるように、これは中里見先生の(2)や(3)も含んだ研究なんよね。まあそれは中里見先生もわかってると思う。

まあ詳しくは上のDavid M. Edwardsの論文でもどうぞ。

ポルノと「攻撃的ふるまい」

ポルノと性暴力の直接の関係だけでなく、ポルノと女性に対する攻撃性の間の関係もなかなか実証しにくい。私が知るかぎりあんまり積極的な実験結果は出てないんじゃないかと思う。Donnersteinの有名な論文ぐらい。それも批判が多い。さらに悪いことに80年代後半からはそういう実験の倫理性のようなものが注意されるようになったのもあって(だって実際に攻撃性や性暴力につながるなら危険だし)、ほとんど研究されていない分野になってしまっているはず。むずかしいものだ。

メモ

Meese委員会の問題は非常によく議論されたので、ここらへんに興味があるひとは誰でも知っていると思ってたが、そうじゃないのだろうか。2005年の論文でMeese報告を無批判に使われると困る。

中里見先生はアンチポルノの文献ばかり読んでしまってるんじゃないかと思う。アラン・ソーブルのようなポルノ中毒哲学オヤジのものや、カミール・パーリアのようなポルノ好きフェミニストのものも読んでみるべきだと思う。

中里見先生に限らず、同意するかしないかは別として、パーリア読まないでフェミニズムを語るのはやっぱりまずいんじゃないだろうか。

そうでなければ、政治的な目的のために学術的な研究の一部を無視しているのかもしれない。(でもこの人はまじめな学者肌の人のようだからそうではないだろう。)

まあ撮影現場での性暴力やだましや物理的暴力や精神的暴力はいかんのはもちろんなのだが、やっぱり学問したいところ。中里見先生は反ポルノ陣営のエースなのでがんばってほしい。(政治的には応援してないけど学問的には応援している。はっきりした問題意識と姿勢、鋭い着眼点その他学ばせていただく点は多い。他に腰をすえてちゃんとやろうというグループはあんまりいないし。)

ポルノ好きはここらへんの議論にどう向かうべきか

中里見先生はかなり自分で考えてみる方なので、おもしろい論点も提出してくれる。

因果関係否定論には次のような想定があるように思われる。第1に、ポルノが当該性暴力の唯一の原因となっていなければならない、第2に、あるポルノが性暴力の原因となるなら、そのポルノを消費するすべての男性に同じ結果が生じなければならない、という想定である。それらが証明されないかぎり、ポルノは存続しなければならない、と。

それはなぜだろうか。1つの、しかし決定的な理由は、立法者、法執行者、メディア人、研究者など言説を支配している人びとの大半が、ポルノグラフィを娯楽・快楽として楽しんでいるからではないか。ここには、ジェンダーという「階級」利益の問題が深く関わっていると思われる。(「法規制」 p.68)

上の方の二つの「想定」の分析はどうだろう。因果関係に懐疑的な人達はどちらも特に想定してないんじゃないだろうか。少なくとも私は見たことがない。若干トリヴィアルに見えるかもしれないが、そもそも人間の行動について(だけでなく、実はすべての事象について)、「唯一の」原因なんてものは存在しない。マッチに火がつくときはマッチを擦ったという原因の他に、酸素があるとか濡れてないとかそういうのも必要。ポルノが性暴力の十分重要な原因の一つになることを示すだけで十分だろう。また、一部の気質の人びとにポルノが非常に重大な影響を与えるということは十分ありえる(研究室実験でははっきり差が出ているはず)し、それは認めるだろう。「ある種の人びとにポルノを見せると(他の条件がおなじなら)性暴力ふるう傾向が強まることがある」という程度のことは因果関係否定論者も認めるだろうと思う。

一方、「因果関係が証明されないかぎり、ポルノは存続しなければならない。」と思っている人びとは多いだろう。しかしこれを権力をもっている人びとがポルノ好きだからだ、と言ってしまうのは乱暴すぎる。問題になっているような暴力ポルノを好きな人びとはそんなに多くないと思うし(実際ポルノ売り場でもレイプものや暴力的なものは美人ものなどに比べて売り場が狭い)、もし自分がポルノ好きでなくとも、好きな人びとの利益は考慮されるべきだと考えるのがふつうだろう。まあポルノ好きの人には一定のバイアスがあるという程度の主張ならはその通りだと思うわけだが。法社会学的には興味深いテーマではある。

また、とりあえずポルノが一部の人が性暴力をひきおこす原因のひとつとなる、ということが仮に実証されたとしても、だからポルノを規制しちゃえということにもならん。まあこれは当然先生も理解されておられるわけだし、法による規制というものがどうあるべきかというのは現在の私の能力を越えてるから書けない。

*1:これも本当は攻撃的「態度」でなければならないはずだが。

なるほど

さらにいろいろ教えてもらう。

  • シューモン先生の論文はもっと真面目に共感的に読む必要がある。
  • シューモン先生は臓器移植反対派ではない。2004年の論文ではむしろDead Donor Ruleを考えなおす方向に進んでいるようだ。要チェック。
  • 4歳で「脳死」になり21年行きた T.K. は脊髄反射以外は何の反応もなかったということだ。Repertinger, S., Fitzgibbons, WP, Omojola MF, Brumback RA, “Long Survival Following Bacterial Meningitis-Associated Brain Destruction,” J Child Neurol 2006; 21: 591-595)という論文に詳しい症例があるらしい。

シューモン先生の「水頭無能児」論文

アラン・シューモン先生の「水頭無能児」の論文はPDFで手に入るということを教えてもらった。

“Consciousness in congenitally decorticate children: developmental vegetative state as self-fulfilling prophecy”. Dev Med Child Neurol. 1999 Jun;41(6):364-74. http://journals.cambridge.org/article_S0012162299000821

インフォーマントによれば、水頭無脳症とは

水無脳症というようです(hydranencephaly)。原因・病態の点では医学的に水頭症とも無脳症とも異なり、大脳の部分に穴があいていて水がつまっているようです。大脳の「ほとんど」がないようですが、薄い層やわずかな皮質組織ぐらいは残っていることもあるようです。

ということらしい。とりあえず脳死状態でも無脳症でもない。

If these children had been kept in institutions or treated at home as ‘vegetables’, there can be little doubt that they would have turned out exactly as predicted. What surely made all the difference was that their parents ignored the prognoses and advice, and instead followed their instinct to shower the children with loving stimulation and affection. Such children and their families have much to teach about
not only the neurophysiology of consciousness.

心温まる。

シューモンの原論文l(“Chronic Brain Death”)も高く評価されているとのこと。ちなみにNeurology誌のインパクトファクターは4.947、超一流の6には届かないがかなり信頼のおける雑誌ということだ。インパクトファクター3以下は信頼できないとか言われてしまうらしい。へえ、理系の雑誌ってたいへんだ。まあ日本の哲学の雑誌や出版社の信頼性とか考えはじめるとよくわからんようになってしまうから考えないようにしよう。

いろいろ感謝感謝。

インパクトファクターって本当はなんだろう、とか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Impact_factor

http://scientific.thomson.com/free/essays/journalcitationreports/impactfactor/
へえ、なるほど。勉強になりました。

 

まだまだ小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話』(4)

 

ISBN:4569626157

Alan Shewmon先生のもとの論文とかNeurologyに掲載された批判とか入手してみた。シューモン先生の論文は、新聞記事とかまでメタ分析のソースにしていてあやうい。

前節のようなシューモンの衝撃的な論文を掲載したNeurology誌は、翌99年の10月号で小特集を組み、4組の第一線の医学者による反批判と、シューモンによる再批判を掲載した。(p.116)

正確にはこれらのシューモン批判は”To the editor:”ではじまるcorrespondence。統計的手法についてかなり厳しく批判されている。特に、4組のなかでもEelco Wijdicks/ James L. Bernat先生たちによるものはかなり調査に力を入れていて説得的な批判になってる。

特に小松先生の本を読んで強い印象を受けるであろう脳死のまま14年以上心臓が動きつづけている男子(症例”T.K.”)について、Wijdicks先生たちは

Even the macabre case of child “T.K.” seems suspect, with no full BD assessment (no apnea test) and the presence of septations on MRI. Septations suggest tissue organization, and tissue organization requires intracranial blood flow. MR angiography may not be as sensitive or specific as conventional cerebral angiography.

とおっしゃっている。後の方がわかりにくいと思うが、これはMRIで見たらこの子の脳はばらばらっていうか分裂(septations)しているように見えたとシューモンは原論文で言うわけだが、MRIで組織が組織として見えるためには組織としてなりたってなきゃだめで、組織の形を維持しているためには血流の存在が前提で、だからまだ脳に血流あるんじゃないの、というわけだ(ここらへん私詳しくないのでまちがってるかもしれん)。つまりこのケースはいんちきかもしれない「脳死判定」を受けただけで、ふつうの意味での脳死かどうかわからんようだ。

シューモン先生はanswer (小松先生のいうところの「再批判」)で

I share Wijdicks’ and Bernat’s concern for diagnostic accuracy. Where we seem to differ is in the evidentiary standard that should obtain for such a study. They seem unwilling to consider a case unless every detail be handed to them, including final pCO2 of the apnea test. Either we take what information we can get and try to learn from it what we can, or we continue to actively ignore a very interesting and conceptually important phenomenon.

(意訳)私も、WijdickとBernatたちと同様に診断の正確さについては懸念している。彼らと私の意見が違っているのは、このような研究においてどの程度の証拠が入手されるべきかという基準である。彼らは、無呼吸検査での炭酸ガス分圧まで含めて、あらゆる詳細なデータまで入手できなければ、そのケースを考察したくないと考えているようだ。とにかく手に入れられる情報を集めてそこから学べるだけのものを学ぼうとするか、あるいは、非常に興味深く概念的に重要な現象をあえて無視しつづけるのか。

とそこらへんを認めてなんか情けないことを書いてるように見える。苦しい。興味深い題材だからこそ、ちゃんとした証拠が欲しいやんねえ。

小松先生は、シューモンがそのあとで書いた”The Brain and Somatic Integration”論文で「それは論敵を完膚なきまでに打ちのめした決定的な批判といえよう」と言ってるが、そりゃどうかな。それに小松先生の記述からは誤解しやすいと思うけど、ここでのシューモン先生の「論敵」っていうのは「有機的統合説」論者で、「脳死」論者全体じゃないからね。まして、Neurology誌で編集者に批判の手紙を出した4人のことではない。ここ小松先生の記述はミスリーディングだと思う。(意図的ではないことを望む)

まあ脳死についての「有機的統合」説がだめなのはその通りだしその点ではShewmon先生にも小松先生にも文句はないんだけどね。

かくして、シューモンはこう結論する。

脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。身体の統合性はどこか単一の中枢器官に局在するものではなく、すべての部分の相互作用による全体的な現象である。通常の条件下ではこの相互作用への脳の緊密な関与は重要ではあるが、それは有機的統合体の必須条件ではない。たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。[・・・]要は、脳死を死とする生理学的根拠は、生理学的見地からすればまったく薄弱だということだ。(pp. 473-474)

ISBN:4569626157 (pp.124-5)

これはShewmon先生の”The Brain an Somatic Integration”という論文の結論conclusionのほぼ全訳になっているのだが、小松先生が中略したところに何が書いてあるのかというと、私の訳だとこうなる。

それゆえ、もし脳死が死と同一視されるべきであるとしたら、それは本質的に非・身体的non-somatic、非・生物学的non-biologicalな死の概念にもとづかなければならない(たとえば意識をもつ能力の不可逆的な喪失にもとづく人格性の喪失)ということである。これについて議論するのはこの論文の範囲を超えている。

If BD is to be equated with death, therefore, it must be on the basis of an essentially non-somatic, non-biological concept of death (e.g., loss of personhood on the basis of irreversible loss of capacity for consciousness), discussion of which is beyond the present scope.

なんでこんな重要なところを略すかなあ。シューモン先生は有機的統合体説がだめだといっているのであって、脳死の概念がだめだと言っているわけではない。これも意図的ではないといいな。

あとちょっと細かいけど「脳の統合機能は健康の維持や精神活動には重要ではあっても、全体としての有機体に必須なものでもそれを創り出すものでもない。」 “The integrative functions of the brain, important as they are for health and mental activity, are not strictly necessary for, much less constitute, the life of the organism as a whole.” は「全体としての有機体の厳密には必須ではなく、いわんやそれを構成constituteするものではない。」

もうひとつ「たしかに、脳が機能しなければ身体の状態は非常に悪化してその能力は衰えるが、死ぬわけではない。」の部分は正確には「・・・は衰えるが、死んではいない」って感じ。”the body without brain function is surely very sick and disabled, but not dead.”

最後のところは、”The point is simply that the orthodox, physiological rationale for BD is precisely physiologically untenable.” 「要は、オーソドックスな生理学にもとづく脳死の根拠は、まさに 生理学的に支持できないということだ。」*1

シューモン先生の論文が専門家集団でどの程度認められているかも知りたいのだが、ちょっと私の能力では無理。引用された数とかインパクトファクターとかは、やっぱり専門の人じゃないとわからん。Neurologyは権威ある専門医学誌の一つなんじゃないかと思うが、Journal of Medicine and Philosophyがどの程度のランクなのかは私にはちょっとわからん。無念。

まあ「本当の話」とかタイトルについているような本は、特にそのまま「本当の話」と思ってはいかんような気がする。日常生活だって、「これは本当の話なんだけど」と最初についたら疑うもんな。

気になっている音楽聞いたり笑ったりする「水頭無脳児」のケースについては調査中。数日後に結果が出ることになりそう。

*1:あとで気づいたけど、この小松先生の訳文はかなり問題がある。あたかもシューモンが生理学者として脳死の概念すべてを否定しているかのように読めてしまう。シューモンが否定しているのは、脳死の「オーソドックスな生理学的な根拠」。「オーソドックスな」を訳出しないことで、別の印象が生まれてしまう。これも意図的でないと言えるのかどうか怪しくなってきた。

 

Tooley先生からお返事が来たよ

と粘着している「人格を持つって言えるか」問題。

トゥーリー先生から非常に親切な長文のお返事が来た。恐縮。
とりあえず一番重要な箇所だけ。

Finally, with regard to the “one has a person” statement, one should interpret “one has” as equivalent to “there is”. I don’t want to say, in this context, “one is a person”, for it suggests that there is something, referred to by the term “one”, that initially is not a person, and then becomes a person. Of course, there is an organism that, initially, is not a person, and then becomes a person, but I want to use the term “one” as a personal pronoun, and so I do not want to use it to refer to organisms that are not persons. But I could have said, instead, “the point at which it is a person”.

 

やっぱりぼんやりとした一般の人を指すoneでした。よかったよかった。ほんとに一時期は冷や汗かいた。おそらく児玉聡先生もこれ読んでると思うので、いずれweb直してくれるだろう。

トゥーリー先生にも御礼書かなきゃな。ちなみに先生はスキーが好きらしい。

でもよくメールを読みなおすと色々難しい。上の件(「パーソンを持つ」とは言わない)はそれでいいんだけど、1983年から”person”の定義を変えたんだな。

なんでこだわんなきゃならんのだろうか

「胎児は人格でないといっても、胎児は人格を持たないといっても、誤解される程度はたいして変わらないのではないか」という意味のコメントをもらった。

どうなんだろう。なんで私はこだわってるのかな。難しいな。たしかにトゥーリーなりシンガーなり読んだ人はわかるから、一度そこらへん読んだひとは「人格をもつ」だろうが「人格である」だろうが

言いたいことはわかるよな。マイケルの(なんちゃって。トゥーリー先生の)論文が「嬰児は人格をもつか」っていうタイトルで流通して生命倫理学者が皆平気で誰も文句つけなかった(?)のはそういうことなんだろう。

おそらく私が恐れているのは(何度もここで攻撃している)悪しき伝言ゲームが広がることなんだろう。決定的に問題だと思うのは、「である」と「もつ」をだいたい同じように使うような習慣がついてしまうと、「ひと」と「人格」が同じ意味なのがわかりにくくなってしまうことなんだと思う。

personは法的・道徳的な文脈で「ひと」っていう意味だ。「ひとに親切にしましょう」「ひとを殺してはいけません」「ひとを殺したものは~の刑に処す」という時に使われる意味での「ひと」。一方、「人格」はふつうの日本語では「あの人の人格は複雑だ」とかっていう使われかたをする。personalityやcharacter traits。このpersonとpersonalityのふたつは同じ日本語になってしまっているから、どうしても混同されやすいと思う。でもこれは歴史的な経緯があるからしょうがないが、無駄な誤解や混同はできるだけ避けたい。

「子供の人格を尊重する」とか「レイプは女性の人格に対する攻撃だ」「性=人格」とかってときに使われているときの「人格」はもはやどっちの意味かわからんほどぐしゃぐしゃになってる。これについては前に書いたな。読みにくい文章だ。反省。

まあとにかく「person」と「人格」と「ひと」は同じ意味のはずなのに、パーソン論の話をするときに「人格」という言葉を使うから、「胎児はまだ人格ではない」「胎児はまだ人格を持たない」はほとんど同じように見えている。でも「ひと」を使えば、「胎児はひとではない」「胎児はまだひとを持たない」になって、ぜんぜん違ってしまう。その結果、「人格」と「ひと」がもともと同じ言葉だってのがわかりにくくなってしまうだろう。

恐れているのは、伝言ゲームの結果、この混乱が広がってしまうことなんだろうと思う。「性=人格」のときのように無駄な議論をしなきゃならないようになる。実際に伝言ゲームの2列目にいると思われる小松先生ににはすでにその気があるし、その次の伝言ゲームではもっとひどいことになるだろう。やっぱりまちがった伝言ゲームは根元で抑えないと。権威とかそういうのは批判にさらされて生き残っているからこそ信用できる。去年私がここで学んだのはそういうことだったんだと思う。

は。でもこんな細かいことまあどうでもよいといえばどうでもよいような気もしてきた。別に日本の生命倫理学業界とかフェミズム業界とかブログ論壇とかほんとの論壇とか養老業界とかそういうのをアレしたいとかってわけでもないわけだし(いや、あるかな)。なんでどうでもよくないとか思うんだろう。これが卓越性のゲームってやつか。でもまあ微力でもなんかの(なんの?)力になりたいような感覚はあるよなあ。

Clarity and consistency in our moral thinking is likely, in the long run, to lead us to hold better views on ethical issues. (Peter Singer) から孫引き

これ好きだし信じてんだよな。and it will make the world betterとか。これはなんちゃってな話。

ウィトゲンシュタイン問題

正月は時間があるので、哲学のことを考えたりもした。

国内でもウィトゲンシュタイン1)ヴィトゲンシュタイン(前期も後期も)が好きな人ってのは私のような哲学ファン2)私は哲学ファンだがウィトゲンシュタインファンではなかった。のなかでも多いようだが、『論理哲学論考』を読んだ人のなかに、一番最初の

1 世界は事実の総体である。 (訳によっては「世界は事態の総体である」「世界は成りたっていることがらの総体である」とかのはず)

っていう命題について、これをぱっと見て他の選択肢がどういうのがあるのかを理解しているひとはどれくらいの割合なのだろうか(つまり、これとは違う考え方にどんなのがあるか、もっと簡単に書くと、「世界は~の総体である」の~に他になにが入りうるか。それを即座に思いつくか。そして他の候補を出している典型的な哲学者はそれぞれ誰か。)。 実は私も元日まで理解していなかった3)「おまえはそんなこともわからなかったのか」と責めないでください。「腑に落ちる形で」ってことで勘弁。

勉強不足で、この点について解説もまともなもの読んだことない。っていうか読んでも理解できてなかったのだろう。正直なにがポイントなのかさっぱりわかってなかったようだ。もう正月休みが終りで調査できないけど、いずれ日本語web上の最善の解説を探してみたい。(あらかじめ、おそらく三浦俊彦先生の本読んだ人が一番的確なことを書いているのではないかと予想する。)いや、私が勉強不足なだけだろう。おそらく優秀な20%ぐらいはすぐに答えがでるのだろう(ほんとにもっと高い?50%ぐらい?70%はいないだろう。)。また、この1と人気の「6 語りえないにことついては沈黙しなければならない」の関係がどうなっているか説明できるひとはどれくらいいるんだろう。それにしても哲学ってなんだろうな。趣味として楽しむには敷居が高すぎる。そして私は信じられないほどの超スロウラーナー。ほんとにもっと丈夫な頭と疑う体力が欲しかったなあ。

References   [ + ]

1. ヴィトゲンシュタイン
2. 私は哲学ファンだがウィトゲンシュタインファンではなかった。
3. 「おまえはそんなこともわからなかったのか」と責めないでください。「腑に落ちる形で」ってことで勘弁。

養老先生と毎日新聞はだいじょうぶか

毎日新聞はいろいろやってくれる。今日の16面。宮脇昭先生と養老孟司先生の対談。
(養老先生にはまったく興味ないけど、毎日新聞の編集方針や社員教育には俄然興味がある。)
全体にひどいが、さすがにこれはどうかという部分。

養老さん:大阪教育大付属小学校では、容疑者は8人を殺した。
驚いたのは、容疑者が警官に囲まれて出てきたでしょ。昔だったら、
あんなことをしたら先生方から2階の窓から落とされてましたよ。先生方が
預っている子供と自分の子供と同じと見ていないということです。8人も殺されたという感情的
な反応がないんですよ。

  • そのひともう容疑者じゃないし。「犯人」にしてください。ちゃんと国家で殺しました(と報道されてます)。
  • 教師はリンチするべきだったということか。
  • 親は自分の子供を殺されたらリンチしても当然か。
  • 子供を殺された親は容疑者が警察に囲まれて出ることを許さないのか。
  • 「昔だったら」はいつのことか。それは本当か。
  • 教師は教えている子供と自分の子供を同じと見るべきのか。それは可能か。
  • 養老先生はそれだけで人の感情的な反応を読むことができるのか。
  • いまだにこういう形であの先生たちを責めるというのがどういうことかわかっているのか。養老先生はともかく、毎日新聞はどう考えているのか。
  • たしかに「疑問をもつことには体力がいるんです。頭が丈夫でなければいけない。丈夫な頭こそ大事です。」(17面)これだけは認める。
  • でも養老先生は、あんまり頭が丈夫でないひとや、頭が丈夫でなくなったひとはどうすればいいかも頭が丈夫なうちに考えた方がよいと思う。正直わたしはそっちの方が興味がある。

養老先生が悪いのか、毎日新聞が悪いのか。年末進行でいろいろたいへんだったのか。
新聞記事っていうのは発行されるまでどの程度の人数の目が通っているのかな。興味がある。

一年の反省

この日記の1年分を読みなおしてみる。
まあごちゃごちゃ書いてきたが、勉強になったところもあれば
ならなかったところもあり。全体にネガティブで傲慢でoffensiveだけど、
そんなに大きくまちがったことは書いてないしまちがっているところは恥をかいていると思うので、
もうちょっと続けてみるかな。

書き方が悪くて一部の人に不快を与えているかもしれないのは
いろいろ反省。また意図的に傲慢な書き方をしてみているわけだけど、
よっぽどのことがなければもうちょっと考えた表記にするべきかもしれない。

伊藤公雄先生の「卓越性のゲーム」については
もうちょっと考えるべきかもしれん。
あんまり勝ち目もないし。でもまあ、この「卓越性のゲーム」が意義を持つ分野もあるとは思う。「ゲーム」呼ばわりして知的に不誠実なことをするのはいかん。
J.S.ミル先生は「功名心」は非常に重要だと言ってる。

種々の芸術や知的な職業においては、それによって生計を経てようとすればある程度まで上達しなければならず、さらにその名を不朽にするような傑作を残そうとすればいっそう高い程度にまで上達しなければならない。たんに前者の程度まで上達することにたいしても、職業としてその仕事に従事するものの立場からすればそれ相当の動因があるが、後者の程度にまで上達することは、はげしい功名心をもつものか、あるいは一生のうちある時期にその心を起したものでなければ到達できないことである。たとい偉大な天分に恵まれていても、すでに最高の天才による見事な傑作が数多く残されている仕事において、自分もまたぬきんでようとするためには、長い期間耐えがたい苦行を重ねてゆかねばならないのであるが、その場合の刺激剤としては、ふつうこの功名心にまさるものはないのである。
(J.S.ミル『女性の解放』大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫、pp.151-2)

まあミルが考えているような不朽のなんやらなんか私たちには関係がないが。
金銭的な報酬と別になんか「知的」(はずかしいなこれ)なことをするには、
功名心のようなものが必要だってことだと思う。この手のメディアでは「卓越性のゲーム」は必須で もあるし、学術界ではなおら必要なんじゃないだろうか*1
でもなんかもっとなんか実質的なことをやりたいものだ。

「あなたは自分の読者を馬鹿だと思ってもよいのですが*2
あなたが議論している哲学者やその見解を馬鹿げていると思ってはいけません。もし
彼らが馬鹿なら、わたしたちは見向きもしないからです。もし
あなたがその見解によいとこがなにもないと思うのなら、おそらくそれはあなたがその見解について考えたり議論した経験が十分になくて、その見解の提唱者たちがなぜそれに魅力を感じているかを十分に理解していないからかもしれません。彼らを動かしている動機をもっと考えてみましょう。」

You can assume that your reader is stupid (see above). But don’t treat the philosopher or the views you’re discussing as stupid. If they were stupid, we wouldn’t be looking at them. If you can’t see anything the view has going for it, maybe that’s because you don’t have much experience thinking and arguing about the view, and so you haven’t yet fully understood why the view’s proponents are attracted to it. Try harder to figure out what’s motivating them.

じっさいのところ、これまで取りあげてきた人々の著作や研究は やっぱり説得力と魅力があって、stupidだとはぜんぜん思ってない*3。stupidなのはむしろ私自身で、まあslow lernerの恥さらし。でも
それもなんか意味があるだろうという気はする。特に今年後半に
小松先生や森岡先生の見解をゆっくり読んでみたのはよい機会だった。
たしかになんかいいところがあるのだが、それが私はまだピンと来ないんだよな。

まあ読んでくれた人はありがとうございました。特にコメントしてくれた人には感謝。
来年もよろしく。

*1:でも政治の世界ではそういうのとは違うインセンティブがあるかもしれない。

*2:馬鹿だからわからんだろうと思えってことじゃなくて、読者にはとにかくわかりやすく書け、ということ

*3:いや、いくつかはまったくstupidなのもあったか・・・でもそういうのをとりあげたいのは、stupidを非難したいんじゃなくて裏の政治的な意味を非難したいんだよな。

森岡先生のパーソン論批判の残りふたつ。

  1. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  2. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。

うしろの方から。

・・・そもそも人間にとって、具体的に何が「自己意識」であるか、何が「理性」であるかというのは、それを判断される人間と、判断する人間のあいだの関係性によって決定されるからである。たとえば、痴呆性老人と言われる人間であっても、親しく看護しているボランティアから見れば、しっかりとした自己意識が残っていると判断されるのに、第三者の医師から見ればすでに自己意識を失った存在でしかないと判断される場合がある。・・・ある人が、どのような内的状況にあるのか、あるいはどのような能力をもっているかを、観察者との関わり抜きに客観的に決定することは理論上不可能である。(p.115)

わたしにはさっぱり理解できない。

「自己意識」や「理性」がパーソン論者にとってどういう意味なのかはかなり微妙なのは認めるが、こりゃ単にどの程度詳しく知っているかの実践的な違いでしかないだろう。この場合は看護している人の方がよく知っているからより正しい判断が下せるだろう。(だいたい痴呆老人に生きる価値がないなんて主張している人は見たことがない。なんかヘンな例なのではないか。)

また「自己意識」や「理性」が関係性によって判断されるというのはどういうことなんだろう。看護しているひとが、あやまって「この人は自己意識がある」と思いこむってことは原理的にありえないのだろうか?たとえば私が大事にしている盆栽の調子が悪いときに、「この盆栽は機嫌が悪い」とか「盆栽は苦しんでいる」と考えてもまちがいとは言えないのだろうか。水に悪口を言ったらきれいな氷の結晶を作らなかったときに、「この水は自己意識をもっていて、私の悪口を理解している」と考えたときにこれはまちがいではないのだろうか。

もちろん完全に内的な意識状態がどうなっているかは「理論上」(というか定義上)他者には見分けがつかないかもしれないが、それはどんなに近しい人間だろうが遠い人間だろうがわからないだろう。

なんか悪意のある読みをしてしまっているようだ。森岡先生が本当に言いたいのは、「意識があるとかないとかってのはよく調べないとわからない」なのだろう。これはまったく正しい。しかし、「「関係性」によって決定される」とか、「〈ひと〉の本質であるとされる自己意識と理性は、実は、人と人との関係性によってのみ裏づけられ、把握される」は正しくない。現実世界でなんか検査するときははそうしかありえない(それは当然)ってだけだろう。

最後は「パーソン論の人間理解は貧弱だ」、なのだが、

目の前に親しい人間の昏睡状態の「あたたかい身体」があるとき、それを看取る私の「あたたかい身体」とのあいだに「間身体性」が成立し、そこに人が生き生きと生きているようなリアリティがうまれるかもしれない。その「あたたかい身体」のうえに、その人と私が培ってきた「関係性の歴史」が覆い被さり、ありありとした「記憶」が身体の上に生成し、その記憶はその人の一部となって、私に何かを語りかけてくるであろう。(pp.113-4)

うむ、そのとおり。また、本当に冷たくなった近親者の死体にさえ私はそういう感じを抱くんじゃないかと思う。それがわれわれの感覚だ。たしかにわれわれの身体は特別。

でもこれって「パーソン論」にはなにも批判になってない。パーソン論者もシンガーも、こういう感じ方がなにか論理的におかしいとか不正だとかまちがっていると言うとは想像できない。近しい人びとの身体は近しい人びとにとって特別だ、ってことをなぜ「パーソン論」な人びとが否定しようと思っていると森岡先生が思っているのかの方が私には気になる。なぜだろう?

うーん、なんか意地悪く読みすぎだな。でもとりあえず書いちゃったことは回収しておかないと。たいへん。

 

「パーソン論」は保守的か

んで森岡正博先生粘着のつづき。

isbn:4326652616

・・・パーソン論は見かけ上のラディカルさに反して、その内実は保守主義であるという点に注意を払うべきである。・・・よく考えてみれば、パーソン論の主張とは、生命の平等というお題目にもかかわらず、われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない。 (p.110)

パーソン論とは、われわれの多くがこの社会で実行しているところの、生命に価値の高低をつける差別的な取り扱いを、あからさまに肯定する理論なのである。それは社会の現実というものを見据えた上で、さらにそれを乗り越えていこうとする思想ではない。それは、現実社会で行なわれている差別的な行為に、理論のお墨付きを与える、保守主義的な思想なのだ。(シンガーは、人間の生命の平等を振りかざすキリスト教倫理という保守主義に対抗するために、パーソン論を主張するのだが、人間の生命に関しては、シンガー自身がキリスト教以上に保守主義となっているという皮肉がある。・・・シンガーの主張なかで真にラディカルなのは、動物の解放の主張だけだ。・・・) (pp.110-1)

パーソン論というのは、われわれに課せられる規範なのではなく、われわれの多くが日々行なっている権力行使の事実描写をしたものにすぎないのである。そこにある中心的なメッセージは、「われわれがすでに行なっている差別的な生命の取り扱いを恥じる必要はない」「われわれはみずからの規範を変える必要はない」というものだ。(p.111)

保守主義ってのがなんであるかってのは難しいよな。保守・革新とか左翼・右翼とかっての区別が私(の世代?)にはよくわからんようになっている。私の頭のなかでは、なんとなく「左翼で弱者に優しい平等主義」のは保守で、自由と機会の平等なのは中道でかつ革新で、家族とか性役割とか重視してそれの復活を期待するのが右翼革新な感じがするのだが、これはぜんぜんまちがっているだろう。なんでこんなにねじれているかね。

まあとにかく森岡先生にもどると、先生の主張はかなりいろんなことを含んでいて非常に難しい。森岡先生にとっておそらく現状維持につながるのはぜんぶ「保守」なんだろう。

もうかなり面倒になってきているのでシンガーがパーソン論者かという議論はしないが(わたしはパーソン論者ではないと思う)、とりあえずシンガーが保守的な思想家といえるかってことだけ。

森岡先生は動物の解放だけをとりあげているが、『実践の倫理』は他にも、中絶の容認、人種や男女の差別是正のためのアファーマティブアクションの擁護、第三世界への積極的援助(10分の1税のようなものまで提唱している)、市民的不服従の積極的擁護(読み方によっては財産の破壊の許容まで含むかもしれない)まで行なっているし、『生と死の倫理』では新生児の安楽死や脳死以 前の患者からの臓器移植の可能性を含むような*1、伝統的な倫理的世界観の書き換えまで提唱しているわけだから、とてもふつうの意味では保守ではない。すくなくとも「ラディカルなのは動物の解放だけだ」は言えないと思う。超革新。森岡先生の「ラディカル」の意味は微妙だな。私にはシンガーほど(保守か革新か、左翼か右翼かは別にして)ラディカルな人はめったにみかけたことがない。むしろ極左。

でもまあ森岡先生の議論のポイントはそういうところにはないのはわかる。(夜の部につづく)

(続く、がアルコールがはいっている)私の読みでは、森岡先生にとっての本当の問題は、「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」の一文にある。

しかしこれも何重かの問題を含んでいる。

まず第一に、道徳とか倫理とか(区別があるのかどうかよくわからん)はともかくとして、哲学の議論では、相手(読者)がまったく受け入れてない

前提から出発しても意味がないっていうことに注意しておく必要がある。読者がまったく受けいれていない前提から出発するのは宗教なり思想なり好きな名前をつけてよいと思うが、それは伝統的な哲学ではないと思う。

たとえばキリスト教の三位一体の教義(父なる神と、子であるイエスと、私には理解できないぼんやりした特徴を持つ精霊は、同じ存在者の三つのペルソナである)を信じることは、哲学とはまったく関係がない。これを信じることがどういう含意をもつかってのは哲学の課題だけど、この三位一体の教義そのものはどういう哲学の結論でもない。哲学っていうのはとにかくわれわれの信じているなんらかの信念から出発しなければならないと思う。こういう「われわれが信じている信念から出発する」という意味で保守的でない哲学は、あんまり価値がないと思う。哲学っていうのは読者の手持ちの直観をつきつめた行方を教えてびっくりさせてくれるものだ。(ソクラテスが哲学者ナンバー1である理由はやっぱりあの「産婆術」にあるわけだからして)

で、シンガーの議論はどうか。あれ、面倒になってきた。

うーん、まあ、とりあえず、どんな哲学的主張もそれが漸進的であろうとするならば、とりあえずなにか我々が現にもっている信念の一部から出発する必要がある。もちろんわれわれがまったく信じていない数々の事柄から出発することも可能ではあるかもしれないが、哲学としての価値はなかろう。空飛ぶスパゲティ・モンスターとか。

まあなんだかおかしな話になってきたけど、「我々が現に信じている信念から出発する」というだけでは、保守だの革新だのということはできない。

それでは、シンガーたちの議論は「われわれが現実に行なっていることをありのままに描写したにすぎない」のか。

これも多くの問題がある。シンガーたちの議論が、われわれの信念を単に「記述」したものかといえば、まったくそんなことはない。われわれの多くは脳死の人も新生児も胎児も胚も「人間」だと思っているし、その生命にはなんらかの価値があると思っていて、それは豚さんや牛さんとはぜんぜん違うと思っている。でもそういう信念は整合的ではないかもしれないとシンガーは主張しているわけだから、単なるわれわれの信念の記述ではないし、「ありのままに描写」しているわけではない。

でもこれでも森岡先生が本当に言いたいことをつかんでいるわけではないんだろう。

シンガーたちの議論はわれわれの道徳意識のようなものを「ありのままに描写」しているのではなく、「われわれの道徳意識の核心を整合的な形にして構成しなおし、それを受け入れることをせまっている」んだと思う。森岡先生はこれを「保守的」と呼んでいるんだろうか。

もしこう解釈することを許されるのなら、森岡先生の主張は実は妥当なものになる。シンガーはわれわれのふつうの道徳的意識から出発して、その論理的帰結を提示しているにすぎないのだから。でもこの場合「保守派」かどうかはまったく本論と関係がない。森岡先生が本当に問いたいのは、 「我々の(奥底の)徳意識の核にあるものは健全*2かどうか」で、保守か革新かラディカルかなんてどうでもいい話だ。もちろん、それが健全であれば保守だろうが革新だろうが左翼だろうが健全で、それが健全でなければ保守であろうが左翼であろうがダメだ。こういう観点からすると、「保守」かどうかをもちだす文章はプロパガンダのように見えてしまう。(もちろん森岡先生はそのつもりではないはずだが、少なくとも私のように「保守」っていうのがなんであるかがわからなくなっている人間には「~は保守だ」はなんのインパクトもない1)ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。
。)

というところで、冒頭の森岡先生の引用に戻れば、最初の引用の「ありのままに描写した」は言いすぎに見える。三番目の引用もだめだし、シンガーはわれわれのふつうの道徳的直観や倫理観を変える必要があると考えているのははっきりしているのだから、「恥じる必要はない」「規範を変える必要はない」はまったく誤りだと思う。(「恥じる」必要は微妙。私自身は場合によっては我々は恥じるに値する道徳観をもっていると思う。)二番目の引用はもちょっと分析が必要。

二番目の引用を分析するには、(森岡先生の意味での)「思想」と(私が考える)「哲学」の区別が必要に見える。森岡先生の意味での「思想」が、一般によく使われる「イデオロギー」とどう違うのかがポイントになりそうだ。(このまま寝てしまった。上の文章ねじれていてよくないが、もう手のつけようがない。)

二番目の引用の文章はかなり微妙でどう扱えばよいのかわからん。「生命に価値の高低をつける差別的な取り扱い」ってので森岡先生がどういうことを考えているのがはっきりさせるために、一番最初の引用と二番目の間の文章を引用しておく。

われわれは痴呆性老人を身内に抱えたときに、本人の意見を聞かずに彼らを施設に追いやって、十分なケアを与えず、価値の低い生命として扱うことがあるではないか。あるいは、妊娠した女性が出産を望まないとき、われわれは、胎児のことよりも、〈ひと〉である女性のほうを優先して考えがちではないか。胎児に重篤な障害があるとわかったとき、われわれは自分たちの生活のほうを優先して、選択的な中絶をするではないか。(p.110)

これが「差別的」なのかどうか、「生命に価値の高低」つける扱いなのかどうか。最初にあげられている例がこの文脈でとりあげられるのは特に違和感がある。あたかも「擁護施設に痴呆老人を預ける人びとは、老人に生きる価値がないと考え、施設に老人を無理矢理閉じこめているのだ」と思わされてしまう(もちろんそういうつもりではないと思うが)。十分なケアを与えられない擁護施設は非常に困りものだ。二番目の例はその通りだし、私自身はそうあるべきだと思う。三番目の例は、選択的中絶を選択する人びとがかならずしも「自分たちの生活のほうを優先して」いるかどうか。これらのひとたちが一般に「生命の価値が低い」からそうしているのかどうかはよくわからん。まあもちろん、「そういう人たちもいる」ということなのだろう。でもまあ「生命の質」を考慮することは私にはどうしても必要に思える。

うーん、やっぱりこれ難しいな。まあひとつ言えるのは、もし仮に、そういう現実の実践(中絶や選択的中絶)を、いわゆる「パーソン論」が「追認」する形になっているとしても(なってないと思うけど)、だからといって「パーソン論」が追認するためのイデオロギーだとは言えないってことだろう。

もっともわたし自身は「イデオロギー」って言葉がどういう意味なのか実はよくわからんのだが(大庭先生や小松先生も生命倫理学の主流派の考え方はイデオロギーだ、のような形で使っている)。なんらかの主張が歴史的・社会的に制約されているってだけでは、それがダメだってことにはならんからして。その意味では、「人権」や「(人間の)生命の平等」「民主主義」のような考え方も歴史的・社会的に制約されているのだから。もちろんどんな主義主張も、常に批判されてしかるべきなのは当然。

あ、だめだこりゃ。だめだめ。どんどんねじれてきた。まあとにかく「シンガーは保守」ってのはふつうの意味では言えないし、もし別の意味で「保守主義」って言えるとしても、それじゃ批判になってない、ってことぐらいであとで考えることにしょう。

*1:ちょっと不正確

*2:「健全」という言葉が正確かどうかはまだわからん。

 

References   [ + ]

1. ちなみ私は個人の資質としては保守的である。新
しいものはなんでも嫌い。「極保」。

森岡正博先生にまだ粘着

森岡先生に粘着してみるメモ。

森岡正博先生の「パーソン論」批判は

  1. パーソン論は保守主義だ。
  2. パーソン論は脳の機能中心の貧弱な人間理解にもとづいている。
  3. なにが自己意識であり理性であるかは「関係性」によってしかわからん。
  4. 〈ひと〉でない存在者に対して冷淡だ。

の四つらしい。私は1と3の主張は偽であるか、すくなくとも多義的で曖昧であると思うし、2と4は偽ではないが文脈を無視していていいがかりに近いと思う。ちょっとずつ考えてみる。(パーソン論というくくりで、シンガーのような一流の哲学者とエンゲルハートのように哲学的に洗練されていない折衷主義者をいっしょにするのはどうも気になる。)

森岡先生でよくわからんのが、彼が、社会的・法的な(最低限の)ルール作りの話をしているのか、道徳的義務や責務の話をしているのか、もっと個人的な理想の話をしているのか、われわれの実感の話をしているのか。もっと別のことなのか。

4番目のやつから。キーになるのは次の文章。

潜在性を持ち出す議論のポイントは、……潜在的な〈ひと〉を殺すことは、将来生まれ出てくるかもしれない何らかの尊い「可能性」を奪ってしまったことになるのであり、その可能性を奪ってしまったことに対して、われわれは何かの「責め」を負わなければならない、ということを主張したいのではなかろうか。

すなわち、胎児には〈ひと〉になる潜在性があるということは、中絶を禁止する根拠にはならないけれども、中絶してしまったわれわれが何かの「責め」を負わなければならないということに理由にはなる、ということである。ここで真に問われているのは、それが道徳的に許容されるかどうかという次元の問題ではなく、われわれが「責め」を負うことになるのかどうかという次元の問題なのである。(『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』p.117)

いつもながら非常に魅力と迫力のある文章だが、この「責め」がどういう「次元」の話なのかが私にはぴんと来ないんだよな。「法的には許される(べきだ)が道徳的には非難される(べきだ)」はよくわかる。おそらく女性の中絶の権利を擁護する人びとにもそういう人びとは多い。

しかし、「道徳的には許されるが「責め」はある」となるとわかりにくい。森岡先生にとって「道徳」ってのはどういうものなのか。森岡先生と私の「道徳」の範囲が違うのかもしれん。やっぱりある種の宗教的立場で主張される罪(「私にはどうしようもなかったが、それでも私は非難されるべきだ」を認める立場)とかヤスパースの「形而上学的罪責」のレベルなのか。guiltとか remorseとかregretとかの議論だよな*1。難しい。

森岡先生の議論の裏には、おそらく、「中絶や治療停止を選択する人びとは、それが法的には許されても罪の意識を感じるべきだ」がある。そして、「その罪の意識を軽減する「パーソン論」は有害だ」と言いたいのだと思える。これどうしたらいいんかなあ。「罪の意識を感じる人びとの方が一般には善良だ」ならその通りなのかもしれんがなあ。少なくとも、たとえば、犬猫金魚ハムスターだって、何の罪悪感なく殺したりする人びとと私はつきあいたくないもんな。牛肉豚肉を平気で食うひとよりは、「命をいただいてありがとう」な人びとの方が善良だ。中絶ならなおさらだ。しかしこれ「パーソン論」の問題なんだろうか?森岡先生は、我々から「責め」の感覚(あるりは「罪悪感」)をなくそうとするあらゆる議論に反対なのかもしれん。

だから次のような文章が出てくる。

パーソン論にあるのは、自分が悪いことをしないためには、どのように「悪」を定義すればよいのかという視点だ。裏返せば、パーソン論には、悪の行いをしてしまった自分が、それを引き受けてどのように生き続ければいいのかという視点がない。悪の「責め」をみずからに引き受けながら、いかに人生を生き切ればよいのかという視点がない。(p.118)

でもこれって私だったら個人の理想の話(もちろんそれは非常に重要だが)であって、「パーソン論」のように、「権利」とか線引き問題とかもともと最低限の基準の話をしている議論にそれを求めるのはおかどちがいだ、と言いたくなる。(「権利」はほんとうに最後の「切り札tramp」でしかない。これは、国内で読書してり議論している分には、「権利」って概念の切り札的性格が理解しにくいってのがあるんだと思う。)

そしてこの批判(批判だとすれば)は、森岡先生が考える「悪」がそもそもどのような基準によって判断されるのかがはっきりしなければ、「パーソン論」だけでなく、なんらかの利害の対立がかかわるほとんどあらゆる法的・道徳的思考に対する批判になってしまう。早い話、「これ、たしかに損する人いるかもしれないけど、事情が事情だから許されるべきだよな」というような思考すべてに適用できるように思われる。パーソン論だけ でなくたいていの法や道徳の理論は「不正」「受けいれられない悪*2」とみなされる行為や制度の基準をめぐるものなので、この問題は重大。もし「受け入れられない悪」の判断基準がわからないのであれば、このタイプの議論は限りなく拡大してしまう。(これに森岡先生がどう答えるかわからないが、ひょっとすると「それでもいい、そうであるべきだ」と言うかもしれない。これはもっとよく考えてみる必要がある。)

こうして読んでくると、冒頭のまとめの四番目は、「冷淡だ」というよりは、「パーソン論はわれわれが本来感じるべき罪責感を軽減してしまう」と書きなおすべきかもしれん。しかしもしこう書きなおすことが許されるとすると、「本来感じるべき」という森岡先生の判断はどっから出てくるのか問いたくなる。あるいは「本来感じているはずの」か。難しい。

でもまあ、なるほど、この本でこの議論のあとに田中美津のリブ論や青い芝の会の議論が来るのは内的な必然性があるなあ。やはりよく書けている。(この本が奇書『無痛文明』と双子だという意味がやっとわかってきた。)森岡先生の議論を考えるためには、とりあえずわれわれの道徳的生活での「責め」や罪悪感ってのがどんなものであるかってことを理解する必要がある。これはとんでもなく難しいな。

*1:Bernard WilliamsのMoral Luckとかが有名。

*2:単なる「悪」ではなく「受けいれられない」悪だと思う。

森岡先生のパーソン論理解

だらだら。

小松美彦先生の『脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)』での最初に気になった 文章。

パーソン論とは、一言でいうなら、生きるに値する人間と値しない人間とを弁別する根拠を構築した理論である。(小松2004 p.149)

この表現は、かなりミスリーディングで気になる。気になりまくり。どっから来ているのかと思っていたのだが、森岡正博先生の『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』をながめていたら、おそらく次の文章から来ているんだろうということがわかった。

パーソン論とは、人工妊娠中絶や治療停止の場面において、生きるに値する人間と値しない人間とを区別する際に、伝統的な西洋倫理学の人格理論を適用しようとする試みである。(森岡1988 p.209)

20年近く前の文章だ。おそらく森岡先生はいまはこういう不用意な書きかたはしないだろう。どういうパーソン論者も、「生きるに値する」かどうかってのを自己意識や理性で区別しようとはしないだろう。「生きるに値する」ってことと「生きる権利をもつ」ってことはずいぶん違う。かりにトゥーリーの議論を使うにしても、「生きる権利」はもってないけど「生きるに値する」存在者はたくさんいるだろう。「自己意識もっていない動物は生きるに値しない」なんてのはたしかに受け入れられない主張だもんな。ここらへんがなあ。

もっとも、森岡先生は『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』でも次のように書いてる。

(「パーソン論」は)生物学的な意味での人間を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、前者の人間の生命の方が、後者の人間の生命よりも価値が高いと考える理論である。(森岡2001, p.104)

昔の文章よりはるかによくなっているが、やっぱりまちがいとは言えないんだけど、よく知らない読者には「根拠のない恣意的な議論だ」と思わせる傾向がある表現なのではないかと思う。(実際に小松先生はそう読んでしまっていると思う。)あと『生命学に何ができるか』でピーター・シンガーが「パーソン論」の代表的論者として紹介されているのも気になる。

うーん、そうか、小松先生はかなり森岡先生を読みこんでいるな。まあ森岡先生はこの手の議論をしている人のなかで一番優秀な人であるのはたしかなことだから、小松先生の目のつけどころは鋭い。

でもこういう理解が今となってはどうだったかなあ、という感じか。微妙だよなあ。

うしろの引用文を私の理解で書きなおすとだいたい次のようになる。

「パーソン論」は、もし仮に、人間が他の種類の存在者(他の動物や植物)と異った扱いを受けるに値するとするならば、それは人間が持つ理性や自己意識などの知的能力に由来すると考えざるをえないとする学説である。

もっと森岡先生の原文に近いかたちにすると、

(「パーソン論」は)人間を生命をもった存在を、自己意識や理性をもった「〈ひと〉person」と、それらをもってない「非〈ひと〉」に分け、もしわれわれが〈ひと〉の生命が非〈ひと〉の生命よりも価値が高いと考えるならば、それは〈ひと〉が自己意識や理性をもっているからだとする議論である。

ぐらいか。あれ、なんかredundantっていうかtrivialな文章になってしまってるかな。

ポイントは、もし人間と、他の動植物の生命の価値のあいだにまったくなんにも違いはないと考えるならば「パーソン論」なんかにコミットする必要はないってことだわなあ。でもわれわれは人間の生命は特別だと思っているわけで、その根拠はどこにあるの、という問題意識が「パーソン論」の核心にある。「なんで人間が特別やねん?」に対して「にんげんだから」、では答になってないわけだからして。この問題意識を無視して、小松先生のように、「最初っから人間のあいだに区別をもちこもうとして作りあげた理論だ」のような考え方をしてしまうとそのインパクトを理解していないことになってしまう。哲学ってのは、相手が受けいれている前提から出発して意外な結論に引きずりこみ屈服させるのを目的とするものだ(っていうか、屈服させられている感じがするものだ。そういう意味ではテツガクは暴力的だ。テツガクは我々が望んでいるような結論をもたらしてくれない。これはソクラテス以来の伝統の核心部分にあると思う。)。

 

ここで、森岡先生がシンガーを「パーソン論」者として扱っているのが適切かどうかってのが問題になる。

このように、シンガーは、「自己意識と理性」こそが、人間を他の生命から区別しているものであり、人間に尊厳を与えるはずのものであると考える。だから、「自己意識と理性」をもった人間が、人間の生命の最上位に位置すべきであり、それらを失うにつれて、人間の生命の価値は下がってゆくべきなのである。(森岡2001、 p.107)

うーん。やっぱりまちがいではないがミスリーディングじゃないだろうか。この理解を正統だと思っているひとは、シンガーの『実践の倫理』のp.87-94とp.101-122を読みなおしてみるべきだと思う。(この二つの箇所の両方読まないと誤解すると思う。)

でもやっぱり難しい。森岡先生が言いたいポイントは別のところにあるようだし。 (「パーソン論」は保守的な現状維持の思想であり、貧弱な人間理解にもとづいている、とか。一部もっともなところもあるが、シンガーの議論が保守的であるとはとても言えないと思う 1)ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。 )まあ常々、森岡先生という非常にオリジナルな思想家のいろんな議論については誰かがまじめに考えてみるべきだと思っているので、よい機会かもしれない。(続かないと思う)

References   [ + ]

1. ストローソンやパーフィットの「記述的哲学」と「改革的哲学」の区別にしたがえばはっきり改革的。

まだまだ「パーソン論」

もちろんトゥーリー先生からすぐにお手紙が返ってくるはずがないが、
昨日寝ながら考えたこと。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that
is killed by abortion has not developed to the point in which one has a
person. (p.73)

この”one”は、the humanを指すのではなく、
we や they や peopleなどの一般の人びとを指すoneなのだろう。っていうか
この引用の一番最初のoneと同一か。あるいは母親か。

the human を指すのであれば、to the point in
which it has a personとかhe / she has a personとかにな
りそうなものだ。

中絶によって殺されるヒューマンは、まだ人びとがパーソンであるとみなす時点に
まで発達していないのから、中絶は不正ではないと主張することができる。

という感じ。苦しいかなあ。まだパーソンではない the humanを he
や sheで受けるのはいやかもしれないからなあ。かといってitもあれだし。
でもthe humanを受ける意味でoneを使う
くらいなら、

you can argue that abortion is not wrong because the one that
is killed by abortion has not developed to the point in which the one has a
person.

と書いてくれればわかりよいのになあ。これだったら完全にお手あげだけど、
まだがんばる余地はありそうだな。

トゥーリー論文その後

論文
(Michael Tooley, “The Moral Status of Cloning Humans”, Hamber and Almeder (eds.) , Human Cloning, Humana Press, 1999)
届いた。これから読む。ドキドキするなあ。ロンブン読むのにこんなにドキドキするのははじめてだ。理系の人が予測立てて実験するとき、こんな感じなのかな。

うわ! 私がまちがっていた。

… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person. (p.73)

小松美彦先生児玉聡先生森岡正博先生みなさんごめんなさい。
もうしわけありません。勉強しなおします。勉強になりました。
自分の恥さらしのため、エントリはそのまま残しておきます。

粘着だから

粘着だっていいじゃないか、ぱーそんだもの (かりを)

トゥーリー先生にメール出してみた。

前の方略。

Now I am interested in Japanese history of bioethics, especially how your theory of personhood has been introduced into Japan.

My question is simple. As I understand, in your terminology in “Abortion and Infanticide”, “person” means, roughly, “an entity that has a serious moral right to life”.

But in “The Moral Status of Cloning Humans” in the Kyoto lecture and Humber and Almeder (eds.) Human Cloning, you wrote “… one can argue that abortion is not wrong because the human that is killed by abortion has not developed to the point in which one has a person.”(p.73)

I feel somewhat strange to find the phrase “one has a person”. I guess it should be “the point in which one *is* a person” or “one has *personhood*”. Or, the word “person” in the latter paper has some different conception from that of the first paper?

I’d be very grateful if you could have some spare time to answer my question. Thank you in advance,

 

あら、名前の綴りまちがえて出してた・・・

 

パーソン論その後

たいへんなことを見逃していた。

そもそも、Tooleyの”Abortion and Infanticede”を森岡正博先生が
「嬰児は人格を持つか」というタイトルで訳していたのだ!
(『バイオエシックスの基礎―欧米の「生命倫理」論』)
あんまり有名な論文なんで、目の前にあるのに目に入ってなかった。
腰を抜かした。
こんなことさえ気づかないなんて
自分の馬鹿馬鹿。
そりゃみんな「人格を持つ」「持たない」って書きたくなるよなあ。
そして、「人格を持つ」と「人格である」が混用されれば
難しい議論の理解がなおさら困難になるのはあたりまえだ。

これ、ストレートに「中絶と嬰児殺し」とか
せめて「嬰児は生きる権利を持つか」というタイトルで紹介されていたら、
理解はぜんぜん違ってたんじゃないだろうか。
そもそものはじめから国内の「パーソン論」の議論はまちがってた、
ってことになるかもなあ。そしてそれに誰も気づかなかった?(私は気づかなかった。)
あるいは気づいても誰も指摘してなかった?

ちなみに児玉先生の用語集の記載は、高校教師の方々に
出典記載なしでほとんどそのままでコピペされ、
高校のディスカッションとかの資料になってしまっているようだ。
おそらく大学のレポートでも同様の目にあっているだろう。気の毒。

追記 にあるように、
「~が人格をもつ」はトゥーリーの論文にもでてきます。誤用ではありません。