「『思想』2007年4月号に、水田珠枝さんによる論文「平塚らいてうの神秘主義(上)」が掲載されている。」 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070524/1179982514読んでしばらくの間なんかおかしいと思ってたら、そういうのは哲学だけでなく文学作品だってそうだということに気がついた。
『高慢と偏見』の性差別的偏見に満ち満ちた冒頭の文章を打倒せよ!
財産を持った独身の男は必ず妻を求めるものだということは普遍的に承認された真理である。
IT is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune must be in want of a wife.
in want ofは「必要だ」と訳すべきなのかな。「広く認められている真理によれば、独り者の男がそこそこの財産を手に入れたら次には妻を求めるものだ。」とか訳してもOKなのだろうか。
もちろんオースチンの観察力は上の一行をはるかに越えるものだし、オースチンをフェミニズム的観点から読むのが一時期はやったのは知ってるつもり。
まあしかし、フロベールだろうがモーパッサンだろうがトルストイだろうが紫式部だろうが、文学作品のほとんどは性差についての固定観念と人物評価のダブルスタンダードに満ちているわけだが、女性はそれを読むのが苦痛だとか、だから女性研究者は文学作品を研究しないということにはならん。ではなにが問題か。
上で話題にされている水田珠枝先生の力作(ほんとに力作)で使われているカント先生の『美と崇高の感情に関する考察』(1764)をちょっと読んでみよう。翻訳は水田先生もつかっている理想社のカント全集第3巻。翻訳は川戸好武先生。あれ、水田先生は川戸先生の名前を出してないぞ。あれ?っていうか他のカントの著作はしっかり引用して出典明示示しているのに、この『美と崇高』だけあいまいだ。理想社の第3巻であることさえ指示してない。本文中の『美と崇高』につけられている注は
(37) ここでカントが述べている女性観は、バークの『崇高と美の観念の起源』(1758年)とルソーの『エミール』(1762年)を援用している。後年、メアリ・ウルストンクラフトが(略)
あと、なんかカントの説明がアナクロニズムなんだよな。『純粋理性批判』や『実践理性批判』(それに『啓蒙とは何か』)の立場はずいぶんカント先生がずいぶん御年を召して哲学者として完成されたころの著作だけど、水田先生がカントが「女性に対する厳しい劣等観」をしめしていると指摘している中心である と思われる『美と崇高』は中年期のものだ [1]引用してる『理性と実践に関する俗言』と『人間学』も晩年のものだが、この引用されている文章の文脈の解釈については今回は扱えない。。
うーん、まあいいか。
カント先生は1724年生まれだから40才ぐらいか。血気盛んなお年頃だな。ふつうモテたい盛り、運がよければモテ盛り。ルソー読んで感動したって有名な話は2年ぐらい前。その影響下で書かれたってことでいいんだろう。
一見した感じは特に狭い意味での哲学的省察が行なわれているってよりは、人間学的な観察をしているように思える。分析するってよりは列挙し対比するって方法。人間学者(人間通)としてのカントってのもけっこう魅力あるんだよな。『モラリストとしてのカント〈1〉』って本もあったような。
哲学者としてよりも一人の観察者としての眼で眺めたい。(p. 11)
ははあ、カント先生自身もそこは自覚的なのですな。
崇高なものは感動させ、美しいものは興奮させる。充溢した崇高の感情の内にある人の気分は厳粛で、ときに呆然としており、また驚愕している。それに反して、活発な美の感情は、眼のうちに輝くような快活さによって、微笑の顔つきによって、そしてしばしば、あらわな陽気さに現われる。(p.13)
先生は美と崇高っていう当時注目されていた人間的な感動について なんかやろう [2]もっとはっきり言うと「すかしたこと言ってウケよう」 としていらっしゃるわけですな。
悟性は崇高であり、機智は美である。豪胆は崇高で偉大であり、詭計は卑小であるが美的である。・・・真実と正直は簡素で高貴、諧謔と好ましいお世辞は洗練されていて美しい。・・・(p.16)
「詭計」の原語調べなきゃ。
問題の箇所は「第三章 両性の相互関係における崇高と美の区別について」。上のような崇高と美をそれぞれ男性的・女性的なものの特徴だとかそういうふうに話をもっていきたいのだろう。
さて、この箇所でカント先生が、水田先生が紹介しているように
女性の性格は劣等であり、しかも女性はその状態から脱却してはならないという。彼は、女性が学問をすることに反対し、女性の哲学は理屈をこねることではなく感じることであるといい、当時の女学者を取り上げて、骨の折れる勉学は女性固有の長所を根絶させてしまうと非難する。(水田, p. 16-17)
てなことを主張しているかどうか。まあ近いことは言ってる、ってのが正しい読みだろう。
婦人を美しい性という名のもとに理解した人は、・・・恐らく彼自身が信じた以上にうまく言いあてたのである。・・・女性の心の性格の中には、女性を男性からはっきり区別し、また彼らを美的なものの徴表によって見分けをつけることに、主として帰着する固有の特色がある。(p. 37)
先生、先生は、男性と女性の間には容姿や表情の他にも気質として差があると言おうとしているわけですね。
他方、われわれ男性は、尊称をしりぞけ、それを受けるよりはむしろ分かち与えることが、もし高貴な性情からも要求されないとしたら、高貴な性という命名を要求できるだろう。
先生、仮定の部分の意味わかりません。難しいです。誤訳かなにかでしょうか?
しかしこのように言うのは、婦人が高貴な特性を欠いているとか、男性が美を全く欠如していなくてはならぬ、という意味ではなく、
先生、原文見てないのでわかりませんが、それはSollenかMüssenなのでしょうか。義務を表しているのか様相を表してるのか。川戸先生は義務と解釈してますね。いや、原文見ます。
むしろ、おのおのの生が両者を合わせもっているが、婦人については
他のすべての長所が、本来の関係点である美の正確を高めるために
のみ統合されるべきであり、それに反して、男性的特性の中では、崇高が男性という種の標識としてはっきり目立つことが期待される。
先生、「関係点」がよくわからんです。でもまあかなり性別固定的ですなあ。「女は美のため、男は崇高のために生きろ」、ってことだと解釈してよろしいでしょうか。
先生、http://www.ikp.uni-bonn.de/kant/aa02/205.html を発見しました! 第三章は あたりからです。便利な時代になったものです。でも私はドイツ語読めないの忘れてました! これはたいへんそうです。ゆっくり読みます!
これら二つの類についてのすべての判断は、称賛も非難も、この点に関係づけられねばならず、すべての教育と指導とは、このことを念頭におかなくてはならない。自然が人間の二つの類につけようとした魅力ある区別を、見分け難くしようとしないかぎり、一方または他方の道徳的完全性を促進しようとする努力も同様である。
原文ではこれで一文ですか。たいへんすぎます。教育とかも男女の性差をよく考えておこなえ、男と女では目指すところも違うぞ、ってことでしょうか。
なぜなら、ここでは、眼前に人間をおいていることを思い浮べるだけでは十分ではなく、同時に、これらの人間が同一種類ではないこを、看過してはならないからである。(p.38)
男と女は別種のものだ、ってことですかね。
その次の一段落は男女が子どものころの発達においてすでに違いがあるってことの観察。たとえば女子はお化粧したりするのを子どものころから好むけど、男の子は粗野とか。全体として女性は繊細な感受性や共感の能力をもっていて素敵だ、とかそういう感じ。まあここはあんまり問題なさそう。次あたりからかなりやばい表現が出てくる。
美しい性は、男性と同様に悟性を有しているが、ただそれは美しい悟性である。われわれ男性の悟性は、深い悟性であるべきで、それは崇高と同じことを意味する表現である。
先生、やっぱりこの「べし sollen」がどっから来ているのかよくわからんですよ。さっきちょっと書いたんですが、それは「もし汝がモテることを望むのであれば」という 条件のついた、仮言命法の一種、いわゆる「怜悧の命法」 [3]うーん、「合理性」についての規範ぐらいか。 の一例なのではないでしょうか。このころそういう区別ついてましたか?
すべての行為の美には、それらが軽快さをそれ自身に示し、骨の折れる努力なしに行なわれるように見えることが必要である。
先生、これはわかります。努力のあとをみせないのが「すてき」ってことですよね。
それに反して、努力と克服された困難とは、賛嘆を呼び起こして、崇高に属する。
ふむ、もたもたじっくり着実にってのは、かんまりかっこよくないけど、「すげーなー」と思われる。
骨の折れる勉学おもしくは苦しい思索は、たとえそれがその点で婦人を高めはしても、女性に特有な長所を根絶し、またそれらのことが、稀少性のゆえに冷静な賛嘆の対象となることはあるが、それらは同時に女性がそれによって男性に対し大威力を振るう魅力を弱めるであろう。
「女性に特有な長所を根絶」は vertilgen die Vorzüge, die ihrem Geschlechte eigentümlich sind ですか。うーん、まあ女性が男性に比較してもっている優越性ってな感じか。「男と違うことで魅力をもっているのに、男と同じことをするとそれをなくしてしまう」とかですか。うーん。どうかな。
女は「すてき」なレディーであるべきで、男は「すげー」やつであるべきなんですね。だからあんまり女が努力しているところを見せてはいかん、ということかな。カント先生、先生の御姉妹はあんまり教養を身につけることができなかった労働者だったという話を聞いたことがあります。先生の考えているレディー(Frauenzimmer)は、なんというか、女性一般というよりは、先生のサロンに出入りしている上流の方々を指しているような気がします。もちろん根拠ないですけど。
女が勉学に励むと、うまくいけば大学研究室で希少価値があってもてるけど、へたするとチヤホヤしてもらえなくなる、ってことですか。うーん。
先生、なんだかこの本は「男と女のためのモテるための手引書」のような気がしてきました。いやそんなはずはないですね。
ダシェ夫人のように、ギリシア語で一杯の頭をもっている婦人や、シャートレ候爵夫人のように、力学に関して根本的な論争を行なう婦人は、その上に、口髭を貯えるとよい。なぜなら、口髭は、彼女らが獲ようと勤めている深遠の顔つきを、恐らくもっと見分け易く現わすだろうから。
先生!これはちょっとどうでしょうか。まあ軽口なのはわかるんですけどね。現代日本で大学教授がこれやったら、まちがいなくセクハラ委員会にかけられます。口髭は一部の女性に非常に魅力となるという話を聞きましたが、ほんとですか? ダーウィン先生はあのアゴヒゲがなんか深い知性を表しているような気がすよね。カント先生も口髭生やしたらいいのに。なぜ生やさなかったんでしょう?なんかこの一文、先生のサロンの女性を相手に書かれてるような気がするんですが、どうですか?
美しい悟性は、高尚な感情と親近関係にある一切をその対象に選び、有益ではあるが無味乾燥な抽象的思弁や知識を、勤勉であり、徹底的で深い悟性にまかせる。したがって、婦人は幾何学を学ばないだろう。
これは「べし」がはいってきてないのでまだ受け入れやすいかもしれませんね。いっぱんに女性(研究者)はあんまり幾何学や物理学や一部の哲学のように抽象度の高い学問は好まず、さまざまな文学や心理学などの具体的で人間の感情を対象とした学問を選ぶだろう、ぐらいですか。うーん。まあ幾何学や哲学を学んじゃダメ、ってことを言おうとしているんではないですね?
女性は歴史においては戦争で、地誌においては要塞で、頭を一杯にすることはないであろう。なぜなら、麝香の香りをさせようとするのが男子に似つかわしくないのと同様に、火薬の匂いをさせようとすることは女性にふさわしくないからである。
女性は一般に戦争を好まない平和な人びとだってことですね。男の子は子どものころから刀や鉄砲が好きなのにね。これは貶しているのかどうかわかんですな。褒めたり貶したりしてとにかく女性に関心があり理解があるところを見せようとしてますね。そういやさっき飛ばしましたが、
読者が、願わくば女性の特性に平行するかぎりでの、男性の特性の枚挙を私に免じて下さって、両者をただ対照させて考察するだけで満足していただきたい。(p.38)
って書いてましたね。これなんかあやしいんです。つまり、女性の特徴の方に興味があるってことですよね。
美しい性をこの誤った趣味へ誘惑しようとしたのは、男子の陰険な狡智であるように思われる。
「この」が「どの」かわからんのですが、数学や物理学や一部の哲学ですよね。こっから俄然おもしろくなります。
なぜなら、女性の自然的魅力に関する自分たちの弱さをよく自覚し、また女性の茶目な一瞥が、最もむずかしい学校の問題より以上に、自分らを混乱させることを意識している男子は、婦人がこの趣味に陥るや否や、自分が断然有利にあるのを知り、かつまた、寛大な思いやりで、女性の虚栄心の弱点を助けてやるという、そうでなければ多分もたないであろう有利な立場にあるからである。
「カントくーん、物理のこの問題わかんないのー、得意でしょ、教えてー」とかそういう状況がカント先生にも起こった、ということでしょうか。定期試験前だけ突然もてるカント君。「(顔を赤くして)え、えと、え、もちろんお、教えるよ」とか。物理教えているうちになんだか自信がついてくるカント君。がんばれカント君。
婦人の偉大な学問の内容はむしろ人間であり、人間の中でも男である。婦人の哲学は、理屈をこねることではなくて感ずることである。
さっきの水田先生の紹介にあったところですね。重要なところなので原文も見ると、
Der Inhalt der großen Wissenschaft des Frauenzimmers ist vielmehr der Mensch und unter den Menschen der Mann. Ihre Weltweisheit ist nicht Vernünfteln, sondern Empfinden.
「哲学」と訳されているのは、学問としての哲学Philosophieではなくて、Weltweisheit 世界知、世間知、世界観ですね。これは水田先生の論文を最初に読んだときから違和感があったのですが、これで納得しました。「理屈をこねる」はVernünftelnかあ。これたしかに「理屈をこねる」だけど、「理性を使う」「推論の能力を使う」と訳してもOKなのかな。Mann (男)も「夫」という意味があるがどうなのか。カント先生ごめんなさい。その意図するところを十全に捉えていないかもしれません。定冠詞つきder Mannなので「(自分の)相手の男」という意味のような気もする。とにかく特定の一人なんじゃないだろうか。ドイツ語もっと勉強しておくべきでした。もっともこの一文だけ見れば、現代日本の女流作家なんかも同じようなことを書きそうな気もします。でもやっぱり原文は確かめてみるものですね。こういう小さな発見が私の心を豊かにします。ついでになんかもっと邪悪な喜びも与えてくれるような気がします。そういう目的のための単なる手段として使用してしまってカント先生ごめんなさい。でも時々は目的でもあるのです。
婦人の美的本性を発達させる機会を婦人に与えようとする際には、いつでもこの関係を念頭におかなくてはならない。
つかれてきました。またそのうち。カント先生ありがとうございました。
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