昨日書いた「よっぱらいメモ」を批評してみる

昨日書いたメモ。

よっぱらいだけど、コメントもらったことに感謝の意を表するため、さっきまで書こうとしてたことだけメモ。詳しくは明日か明後日かその次がその先のとにかく将来。

まあ独特のリダンダントな表現。

  • kalliklesは狭い意味での哲学者(まあ、哲学専門哲学者?)にはあんまり興味がない。実際、これまで哲学者を自認しているひとよりは、それ以外の学問分野の人々をねちねちとりあげることが多かったんじゃないだろうか。

問題なしかな。実際、社会学まわりの人々の方が気になる。

  • kalliklesは将来ある若者ではない。それゆえ将来のない若者である。

これは前件は正しい命題であり、後件も論理的に正しい推論なのでタイトルを変えておく。

  • 有害な(広い意味での)哲学者は、定義によって、存在しない。哲学は常に魂のために良い。狭い意味の哲学者は広い意味の哲学者の部分集合の一員であり、したがって狭い意味での有害な哲学者も存在しない。(うそ。この定義は採用したいけどおそらくできない。)

これよっぱらいで書いたわりにはおもしろいなあ。しかしいろいろ問題がある。もっと正確に書くべきだったろう。

  1. 「広い意味での哲学者」はいわゆる「学者」である。彼らは正しい知識を求める人々であり、そのための(ほぼ共通の)方法論と規範をもっている。
  2. 私が前に書いた「狭い意味での哲学者」は学問のなかでも特に哲学と呼ばれる分野に特化している人々である。「哲学研究者」とも呼ばれる。
  3. しかし、もうひとつ独特の意味で「哲学者」と呼ばれるかもしれない人々がいるのにも注意しなければならない。彼らは「思想家」とも呼ばれる。これらの人々はしばしば学者の一部である哲学研究者と混同される。一部には非常に豊かなアイディアをもっている人々がいるが、一部はソフィストに似ている。
  4. 「思想家」は「哲学研究者」かもしれないしそうでないかもしれない。
  • 狭い意味の哲学者も、広い意味の哲学者(つまり学者)の標準的な規範に従うべきである。少なくとも意図的に他の学問分野に影響を及ぼそうとする場合には。

これも気どらずに「哲学研究者も学者である以上、学者の標準的な規範にしたがうべきである」と書くべきだったな。

そしてこれが、「思想家」に適用できるかどうかが問題。

  • したがって、学者は狭い意味の「哲学者」と呼ばれている人々の言うことやることに、広い意味での哲学者(=学者)として批判するべきである。学者はすべて広い意味の哲学者としての自負と責任を持つべきである。

なぜかというと、往々にして思想家は、学者、特に哲学研究者の権威を借りている場合が多いからだ。 哲学は学問のなかでも非常に困難な分野だと推定されている*1ため、哲学研究者は学者のなかでも特に権威をもっているとみなされている。しかし、私は学者として満すべき基準はたいしてかわらんと思っている。

  • バトラーの場合の一番の問題点は、バトラーが論拠のように引用していることを、信奉者たちがその論拠そのもの、およびバトラーの解釈の妥当性を(学問的に)検討できなかったことにある。(これ一番大事。)

これは問題ない。私の理解ではバトラーは哲学研究者ではなく、またふつうの学者の基準さえ満たしていない。そしてそれを無批判に引用したり援用したりする人々も学者の基準を満たしていない。

  • 「kalliklesがバトラーを狭い意味での哲学者だと認めている」という言明は偽である。しかし、「広い意味での哲学者と認めている」もとりあえず偽である。でも「バトラーを広い意味の哲学者でないと考えている」もいまのところ偽である。

まあこれはアレ。

  • ポエムと哲学は、カップラーメンと湯沸しポットよりずっと近しい。

これもアレ。書いたときにポットとカップラーメンが目の前にあったということに
ついての感慨を詠嘆している。

  • 「バトラーを憎んでいる」という表現は正確ではない。「バトラーをもちあげる人々の一部を憎んでいる」がより正確な表現であり、誤解を招くことがすくない。もっとも、バトラー自身もやっぱり問題がありやっぱり憎んでいる。

バトラー自身は哲学者を自称していないが、哲学者と呼ばれることを拒否もしていないと思う。

  • 正直なところ、「哲学とはなにか」「哲学者とは誰か」とかってのはあんまり興味がなかったかもしれない。でもやっぱり一回は考えてみないとならんのだろなあ。でもそればっかり考えているのは時間の無駄な感じがある。中づりにしておくのがよさそうだが、どうなんだろうか。

これはそうなんだろうなあ。

  • コメントを見るかぎり、charis先生の思いえがいている哲学者とkalliklesが考えている(広い意味・狭い意味どちらもの)哲学者はまったく違う対象かもしれず、その場合、見解の対立はまったく存在しない。これはkalliklesの文章が悪い。

まあcharis先生がどういう人を「哲学者」と読んでいるのかは興味がある。おそらく上の「思想家」がcharis先生の「哲学者」なのだろうと思うが、わからん。 上のかなり広い意味の「思想家」のなかにははっきりと有害な人々がいると私は思うし、charis先生はそうは考えないのかもしれない*2ついでに「哲学屋」もどういう人だと考えているのかにも興味がある*3

  • 「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、「かなり多くの」の範囲にもよるが、私にはどうも偽に見える。少なくともこれを私が信じるにはかなり多くの論証が必要であり、少なくともその論証は検証したり反証したり、整合性を検討したり、最低限でもそれを信じることの妥当性や有効性(妥当性や有効性がどういうものかは難しいが、それも考えなくてはならない)を検討してたりできなくてはならない。でなければほんとに無意味。それほど無意味な主張がまじめに主張されることさえが私の主観的にはまったく信じられないほど無意味。上の「検証」には、正確には「経験的な」という形容詞がつくのかもしれない。より正確には「哲学の命題のうちいくつかは、経験的には検証も反証もできないということは、一部の哲学者の共通の見解である」なのだろう。それでも、その命題が経験的でないしかたで真であると認める理由がわたしにはないので、「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」でいわれている主張そのものは「哲学」の主張ではなく、なにか経験的な主張か、なにか「哲学」の定義に関する主張か、その両方かなにか私に理解できない種類の主張だと考えざるをえない。したがって、それを私が信じるには経験的かなにかよくわからない証明が必要だが、charis先生がそれについて論証を提出してくれる気があるのかどうかは俄然非常に興味がある。もちろんそれはよっぱらいにはわからん。当然のことながら、それを私が信じるかどうかにcharis先生が関心をもっていないなら論証を見せようという動機がcharis先生に生じなくても不思議はない。うーん、これなんかおかしい。なにか重大なことを見落としているような気がする。だめだ。消すかも。

問題はこれだ。これ書いている途中でダメダメなのに気づいて消したわけだが。これがなぜダメなのかを分析するのが今日のポイントだが、つながっているうちに一回アップしておくか。

  1. だめなのは敵意が剥き出しだからではない。
  2. むしろ、分析が足らんから。もう少しcharis先生の言いたいことを汲みあげる必要がある。
  3. こういうことをやろうとすると私が標準的な哲学のトレーニングを終えていないことがばれてしまう。
  4. もう1回やりなおしてみる。
  5. charis先生は「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」(40字)と主張している。
  6. 私の理解では、こういう主張をしようとするときに重要なのは、まず、それが全称命題なのかそうでないのか。
  7. 「哲学の命題はすべて検証も反証もできない」なのか、「哲学の命題の一部は検証も反証もできない」なのか。
  8. charis先生がどういうものを「哲学」と呼んでいるのかどうかは難しいが、少なくともプラトンやカントの著作を共通に哲学だと思っているのは確認できたと仮定する。これはたすかる。
  9. 私にはプラトンやカントの著作のすべての命題や主張が検証も反証もできないとは思えないので、charis先生が「すべての」と主張しているとは思えない。それはあまりにも強すぎる主張に見える。
  10. したがって、charis先生が主張したいのは「哲学の命題の一部は、検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」(44字)
  11. 「かなり多くの」がどれくらいなのかはよくわからない。
  12. 「哲学者」の定義がちがっている可能性は大きい。
  13. したがって、「かなり多くの哲学者」についてはcharis先生と私の間に共通の理解は成立しないかもしれない。しかしとりあえずここでは「この手の問題について正しい知識を獲得したいという強い関心をもっている人々が、文句なく哲学(研究)者と認める人々の少なからぬ一部」ぐらいに解釈しておくことにする。
  14. さて、んじゃ「哲学の命題の一部は検証も反証もできない」はどうか。
  15. 次に「検証」「反証」がどういう意味かが問題。
  16. charis先生が「経験的に検証も反証もできない」と書いてくれればかなりわかりやすかったろうと思う。
  17. というのは、経験的に検証も反証もできない命題はたしかに哲学には多い。
  18. たとえば「三角形とは三本の直線にかこまれた面である」とかって言葉の定義は経験的には検証も反証もできない。
  19. 定義は言葉の意味を明確にするものである。言葉の定義のない哲学はほとんど無理というか役に立たない。
  20. また、「公理」はそもそも検証や反証の対象ではない。
  21. 「仮定」や「要請」も経験的に検証したり反証したりすることはできない。
  22. というか、仮定や要請について検証するとか反証するとかってことには意味がない。
  23. しかしこれは、狭義の「哲学」(プラトンやカントがあつかっている問題)特有の特徴ではない。定義は幾何学でも社会学でも必要である。
  24. ある仮定を置いた場合にどのような帰結が生じるかということはどんな学問でも非常に重要であり、そういうのこそおもしろいものだと思っている。
  25. したがって、charis先生が主張したかったのは、おそらく「哲学を含むほとんどの学問には、経験的に検証も反証もできない命題が含まれるということはほとんどの哲学者が共通に認めることだ」(60字)なのだろう。
  26. けっきょくどういう思考もなんらかの前提から出発しなければならないのだから、これは真であるように私には思われる。
  27. でもそのかわり、あんまり哲学そのものの話とは関係がなくなってしまう。
  28. だから、おそらくcharis先生が主張したいのは、「哲学には、他の学問とは違う意味で、特別に検証も反証もできない命題が含まれる」なのだろう。
  29. 哲学がそういう特殊な種類の命題を含むというのは、やっぱり哲学が具体的にどういうものであるのかってことに依存してしまう。
  30. でもまあ、charis先生と私が共通に哲学と認めているものの範囲で考えるしかない。
  31. ここで興味があるのは、charis先生が命題の間の論理的関係が重要であると考えているかどうか。
  32. もしcharis先生が、複数の命題や主張の間の論理的な関係にはあまり興味がないと答えるのであれば、もうcharis先生と私の間には意味のある対立は存在しないことになりそうだ。
  33. しかしまさかそういうものに「哲学」が関係がないとはとても信じられないので、哲学に関心をもっているらしいcharis先生は命題の間の論理的な関係に重要な関心を抱いていると要請せざるをえない。もっとも、これは経験的には検証も反証もできないかもしれないし、定義でもない。
  34. したがって、charis先生の”anything goes”はほんとうになんでもよいのではなく、一定の基準をみたしたものについてはanything goesなのだと理解するべきであるように思われる。iseda先生が「頭から排除することないじゃん」ということだと教えてくれた。これは正しいと思う。なにごとも頭から排除する必要はない。
  35. でも、あんまり奇妙な前提から出発するのは私には魅力的ではない。「黒い太陽からの毒電波」「ボール様は大地を潤す」とかからはさすがに出発する気にはなれん。しかしこれは私の実践的な判断。そっから出発する人がいてもよいと思う。
  36. その結果、経験的に検証も反証もできないような体系をつくりあげる人もいるかもしれない。
  37. 奇妙な定義と公理から出発して、巨大な抽象的体系を作りあげることも可能かもしれない。(わからん)
  38. でも最終的にはなんらかの経験的なものに訴えかけるような帰結がないと、少なくとも私には、やっぱり魅力がない。ほとんどの理性的な人にとってもそうだろうと思う。
  39. ラッセル先生は「常識的に見える前提から出発して常識に反する結論に至るのが哲学だ」とか言ってたような記憶があるが、あやふや。
  40. 今日もよっぱらいつつある。
  41. 幾何学の精神と繊細の精神とかって言葉が思いうかぶが、よくわからん。
  42. だんだん余計なことを書くようになってきた。
  43. なんか飽きてきたのだろう。根気がない。だからトレーニングを完了できなかったのだ。
  44. ちょっと戻るか。えーと。
  45. ・・・。
  46. ・・・
  47. 手間がかかるわりにはおもしろくならない。だからちゃんとした人間は哲学なんかしない。若者にはよいかもしれないが、そういうのは若者のときだけに留めておくべきなのだ。
  48. プラトンで思いだしたが、たしかにプラトンがソクラテスに検証もなにもできないことを語らせることがある。でもそのときはちゃんと「神話・お話(ミュトス)」の形をとっていると思う。
  49. 学者ってのを他の人々から区別する一番のポイントは、どの程度多くのことを知っているかとか、どの程度斬新な発想をすることができるかってことよりは、むしろ、自分の主張の根拠がどの程度までさかのぼることができるか、どの程度確かか(不確かか)を知っているという点にあると思われる。これはもちろん哲学研究者についても言えると思う。
  50. 『星の王子様』の地理学者は学者としては立派だったかもしれない。王子様は地理学者の滑稽な見かけだけを見て判断してしまっていて、不器用な地理学者が大事にしていることにある「ほんとうのこと」を見ていないように思える。王子様は思いあがってたんじゃないだろうか。わからんけど。
  51. やっぱりだめ。おしまい。
  52. 参考文献がないのに書いてると自分のなかにあるものしか出てこないからおもしろくないのだな。本読んでねちねちやってた方がいいや。
  53. コメントいただいたみなさまありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。

補足

  1. 起きた。
  2. もうおわっているけど、補足をいくつか。
  3. 上の議論は、31の議論の導入に失敗している。唐突すぎる。
  4. まあでも、charis先生の「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、 実は、「どんな学問*4、経験的には検証も反証もできない命題を含んでいるというのは、ほとんどの*5学者たちの共通の見解だ」(52字)ぐらいの主張だと理解すれば妥当。
    しかしこれは別段不思議な主張ではない。
  5. いっぽう、「哲学に限っては、他の学問では許されないような特殊な種類の検証も反証もできない命題が許されるということは、かなり多くの哲学者の共通の見解だ」となるとかなりあやしい。ただしこれ自体は「検証」とはいわないまでも、いろいろ経験的に調べて信じるに値するかどうかを検討することはできるはずである。
  6. さらに、「かなり多くの哲学者の共通の見解だ」が実はたんなる権威づけのために用いられていて、本当に主張したいことはむしろ「哲学では他の学問では許されないような、(仮定でも想定でも推測でもない)特殊な種類の検証も反証もできない命題が、許されるし、必要でもある」のようなもの(価値判断?)であるとすれば私には受けいれられないし、他の人々にも受け入れてほしくない。
  7. もしこれをcharisさんが主張しているのであれば、なんらかの論証や説得が必要になると思われる。
  8. ここまでの分析が大筋において正しければ、charis先生の「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」は、かなりぼんやりした曖昧な主張である。
  9. もしそういうものが、こういうお遊びのブログの上ではなく、真面目な(つまり真の知識を求める)議論の文脈で出てきたら、誰もがその明晰化と正当化を求めるべきである。
  10. ちなみに、私の理解では、カントの「物自体と現象の区別」はカントが長い論証の末に辿りつく結論の一部であり、また他の論考の前提でもある。その論証の成否と前提としての有効性は検討することができる。サルトルの「自由の刑に処されている」はたんなる比喩、あるいはスローガンやモットーである。どっちも「検証も反証もできない」命題の事例としては不適切に見える。むしろ「神は愛である」のようなものの方が適切に見える。
  11. 哲学とかがたんなるレトリックの集積や説得の技術であるならば、曖昧な表現や論証ぬきの主張が役立つことがあるかもしれない。
  12. 特にそれはなんらかの「権威」と結びつくと成功する見込みが高くなるように思われる。
  13. 権威は非常に重要である。
  14. それは、われわれの知識のほとんどは権威を認めることから得られているからである。
  15. 権威とされているものが本当に権威であるかを自分一人で確かめることは非常に難しい。それは徹底的な懐疑を必要とする。しかしそんなタイプの徹底的な懐疑を遂行するのはほとんどの人間には無理であるように思われる。また生産性も高くない。
  16. したがって、真の知識を求めるものは、権威が権威として信じるに値するものであるよういろいろ手配するべきである。
  17. また権威かどうかよく知らないものが権威としてもちだされた場合、ほんとうにそれがその分野で権威なのかどうか確かめるよう努力するべきである。
  18. 学者に求められるさまざまな基準や規範は、そういう権威を保証するために重要である。それは長年の真理を求める努力の蓄積から学ばれた伝統である。
  19. 「哲学の命題は検証も反証もできないというのは、かなり多くの哲学者たちの共通の見解だ」のような主張と、華々しい名前のほのめかしによる権威づけは危険である。
  20. それは、とくに正しい知識を求めようとする若い人々に有害である。
  21. なぜなら、彼ら彼女らはまだ正しい知識を求める活動の基準と規範をまだ手に入れておらず、なんらかの権威に大きく依存せざるを得ないからである。
  22. したがって、かりに権威の名のもとに、「哲学の命題は検証も反証もできない」といった曖昧な主張がおこなわれる場合、正しい知識を求める将来ある若者たちは、それを受け入れざるをないことになる。
  23. しかしこの種の曖昧な主張を受けいれざるをえない状態は、正しい知識を求める将来ある若者には有害である。なぜなら、そのような曖昧で受けいれがたい主張を、十分納得しないまま、やむをえず受けいれなければならないことは、活発であるべき人の精神を鈍くするからである。(『自由論』の引用必要)
  24. ここまで私が試みているような分析と批判は、哲学の標準的なトレーニングを受けた人間のほとんどが行なうことのできるものである。
  25. もっとちゃんとトレーニングした人々であれば、もっとエレガントに同じことを示すことができると信じている。わたしのはだめだめ。
  26. ところで、この手の分析や批判には、たいしたオリジナリティは必要とされない。
  27. というか、標準的なトレーニングを受けた人間ならば、このレベルではほとんど同じような分析をすることになるのかもしれない。
  28. したがって、このような明晰さを求める作業は、むしろオリジナリティを失なうことに近いように思われることがあるかもしれない。
  29. われわれは他人のオリジナリティを重んじ、また自分のオリジナリティを主張することに大きな喜びを感じるものだと思われる。
  30. 特にそれは「哲学」と呼ばれる抽象的な学問のもっとも重要な部分だと思われている。なぜなら、有力な哲学者たちはその発想のオリジナリティによって評価されているからだ。というのも、分析の明確さはほぼ共有されているからである。
  31. だから、われわれはオリジナルなことをやりたいと思う。
  32. 実際のところ、一日中こういったあまりオリジナリティを必要としない
  33. 作業を行なうのはそれほど興味深いこととは言いにくいと感じる。
  34. したがって、将来ある若者がこのような作業に時間を費やすのは不毛だという見方にはかなり説得力がある。
  35. また、たくさんの重要な仕事をもっているひとかどの人間がそういうことをするのもどうなのかという意見がありそうだ。
  36. しかし若者や、ひとかどの者になりそこなった人間が、日々のつれづれのなかでてすさびにそういうことするのは微笑ましいことであることはプラトン著作に登場するカリクレス先生も同意してくれるのではないかと思う。立派にひとかどの人間になった人々も、たまにはそういうことをしてくれてもよいはずだ。
  37. 「はてな」に代表されるブログやインターネットの世界でも、正しい知識を獲得したいと願っている人々は多い。こういうテクノロジーがそういう人々にとって有益なものであればよいと思う。
  38. 別段いつもまじめに議論している必要はないのであって、皮肉やユーモアも時には欲しいものだし、馬鹿げた議論は馬鹿げたものとして笑いものにしてもよいだろう。
  39. 特になんらかの権威であることを自称し、曖昧な表現や誤った主張を行なうような人々については、ヒマがあればそれを指摘し、その自称権威が正しい知識をもっているかどうかを吟味するべきである。
  40. これはやすぎるとうっかり裁判にかけられて死刑になったりするから将来ある若者には実践的におすすめすることはできない。少なくとも人間関係を悪化させることが多い。私もそういうことをやるつもりはない。しかしそういうことをまじめにやるひとに、まあ敬意は払っている。

*1:「誤解されている」の方が正確か。

*2:ちなみに下にコメントしてもらったナーガールジュナ、アウグスティヌス、ルター、ルソー、ニーチェ、マルクス、フロイト、フーコーという華々しい名前はどれも(読んだことないナーガールジュナを除いて)ちゃんとした哲学者であり哲学研究者であると思う。

*3:そしてそれがソフィストと似ていないことを祈っている。

*4:ここはこれくらい強くしてもよい。

*5:ここも強くしてもよい。

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