カルト対象としてのバトラー

charisさんにつっこんでもらったので ( )、バトラーをなぜ憎んでいるのか少しずつ書いてみよう。http://d.hatena.ne.jp/kallikles/20050718 に関連。

バトラーのやばさをはっきり理解したのは、ちょっと前にサラ・サリー『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』を読んだときだと思う。

ジュディス・バトラー(略)はカリフォルニア大学バークレー校のマクシーン・エリオット冠教授で、修辞学・比較文学教授という地位にある。しかしこの大学でのこの公式の称号は、いくぶん「看板に偽りあり」である。というのも、バトラーには、紛れもなく修辞学、あるいは比較文学と言える著作がないからだ。……一九世紀ドイツの哲学者G. W. F. ヘーゲルがバトラーの仕事に与えた影響は計り知れない。というのもバトラーは、一九八〇年代に哲学を学び、彼女の最初の本はヘーゲル哲学が二〇世紀フランスの思想家たちに与えた影響を分析したものだったからである。しかしバトラーは二作目以降、精神分析、フェミニズム、ポスト構造主義など、広範囲にわたる理論を使っている。(pp. 13-14)

どうもバトラーは難しい哲学をたくさん勉強した哲学者だと強調したいようだ。

ここ数年は、バトラーの散文の文体は彼女の概念と同様に、批評家[1]ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。の関心を惹く傾向にある。おそらくバトラーの文体に文句を言うことで内容が理解できないことの代わりになっているのだろうし、内容を拒絶する安易な口実にもなっているのだろう。
(中略)
バトラーの文体が拙劣であるとか、扱う概念の説明に労を取らない傲慢な思想家と片づけてしまう代わりに、バトラーの文体そのものが、バトラーが理論と哲学で試みる介入の一部であると認識することが肝要である。(サラ・サリー『ジュディス・バトラー』, 竹村和子訳, 青土社, 2005, pp. 32-33)

これって、カルトや一部の宗教が使うのと同じ手口だよな。「わからないのはあなたの勉強が足りないからです」「非難している人は無能か怠惰なのです」「実は裏に政治的な意図があるのです。」「ジュディス様は皆さまのことを真に心配しておられるからこそ、このような態度をお取りになるのです。」

ヌスバウムなんかはこういう感じで批判している。ヌスバウムの批判については上のサリーも触れているが、主として文体の問題と解釈しているようだ。しかし以下読めばわかるように、単に文体だけの問題ではなく、「学問」としての方法の問題を指摘している。(ヌスバウムに批判のもうひとつはバトラーたちの議論の政治的含意についてなんだが、そっちには触れない)

バトラーの思想を把握するのは難しい。それがなんであるかを理解するのが難しいからである。バトラー自身は非常に頭の切れる人物である。公開討議の場では、彼女は明晰に話し、また彼女に対して何が言われているのかをすぐさま理解する。しかし、彼女の文章の書き方は、ぎこちなく曖昧である。彼女の文章は、雑多な理論的伝統からひきだされた他の理論家たちへのほのめかし(allusion, 間接的言及)に満ち満ちている。フーコーと(最近注目しているらしい)フロイトに加え、バトラーの作品はルイ・アルチュセール、フランスのレズビアン作家モニク・ウィティッグ、米国の人類学者ゲイル・ルービン、ジャック・ラカン、J. L. オースチン、米国の言語哲学者ソール・クリプキなどの思想に依拠している。控え目に言っても、これらの人物の見解がお互いに一致することはない。したがって、彼女の議論があまりにも多くの互いに矛盾する概念や学説によって支えられており、ふつうはそういった一見して明らかな矛盾がいかにして解消されるのかについてなにも説明がないのを発見して読者は途方にくれざるをえないことがバトラーを読む上でまず最初の問題だ。

さらに問題なのが、バトラーのいきあたりばったりのほのめかし方にある。上のあげた理論家たちの思想が、初心者に向けて十分に詳細に説明されることはけっしてない(もし読者がアルチュセールの「アンテルペラシオン」という概念に不案内なら、本のなかで迷子になるだろう)。また、上級者に向けて、難解な思想がどう理解されているかを説明することもない。もちろん、アカデミック文章というものは、どうしたってなんらかの仕方でほのめかしを含むことになる。アカデミックな文章はある学説や立場についてのあらかじめなんらかの知識があることを前提としている。しかし、大陸系でも英米系でも哲学の伝統では、専門家を相手に書く学者は、一般に、彼らが言及する思想家たちが理解しにくく、さまざまな解釈の対象になることを認めるものである。それゆえ、学者たちが典型的に想定するところでは、学者は対立する複数の解釈のなかでひとつのたしかな解釈を提出し、また、その人物を自分が解釈したように解釈する理由を議論せねばならず、また他の解釈より自分の解釈が優れていることを示さねばならないという責任がある。

バトラーはこのようなことをなにもしない。さまざまに相違する解釈は、単に検討されずにすまされる。フーコーやフロイトの場合のように、ほとんどの学者は受けいれないであろうかなり異論の余地のある解釈を提出している場合でさえそうである。そこで、バトラーの文章を読む読者は、そのようなほのめかしの多用は、深淵な(esoteric)学問上の立場の詳細について議論しようとする専門家が読者として仮定されているのだと思いこみ、普通の方法では説明することができないという結論に至ることになる。また、バトラーの著作が、現実の不正義ととりくもうとしている一般人に向けられたものでないことは明白である。そういう読者は、それがグループ内での知識を前提としているという雰囲気や、説明に対してさまざまな名前が果たしている高い割合から、バトラーの散文のどろどろのごたまぜスープに途方に暮れるだけだろう。(Nussbaum, Martha, The Professor of Parody: The Hip Defeatism of Judith Butler, New Republic, Vol. 22, 1999.)

同じようなカルト性は、デリダについても見られる。

Q. デリダを読むのはひどくむずかしい。どうしてもっと簡単に書かないの? 意味を伝達したくないの

A. デリダを読むのが難しいのには、三つ理由があるわ。まず最初は、彼が(大陸の)哲学者だってことね。この伝統の外ではあまり行きわたっていない対象に幅広く言及するの。彼のとりわけ不可解な言明の多くは、わかってみるとプラトンとかヘーゲルとかハイデガーに間接的に触れていて、わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ。つぎには、たいへん細かいところにこだわるということがあるわね。繰りかえしが多くて気取りすぎだと思えることがあるかもしれないけど、それは厳密さを求める欲望から来ているのよ。でもこれ以外にもね、ロゴス中心主義に対抗する議論をするという観点からは、言語が透明な窓ガラスのようなものでその向こうに完璧に理解できる観念を認知できるわけではないことを、実例でしめすことがだいじなの。(キャサリン・ベルジー『 ポスト構造主義 (〈1冊でわかる〉シリーズ) 』, 岩波書店, 2003, p. 121)

「わたしたちの大部分とは違って彼らの著作に精通したした人には、全然難解ではないのよ」が素敵すぎる。

ちなみに、どんどんずれていくけど、このベルジーさんはおもしろい人で、ラカンについても
こんなこと書いている。

……彼の『エクリ』は、初読では異様にとらえがたく、謎めいており、読解に難渋する。……これらの著述や口頭発言は、精神分析家に向けられたものだった。ラカンの考えでは、精神分析家のしごとは、この上ない注意を払って患者の発言を聞くことだった。分析家は、謎々やほのめかしや削除や省略などによって意識の検閲をくぐり抜けてくる無意識の声を聞くのである。そしてラカン自身の謎に満ちた語り口は、無意識の発話を模倣している。

称賛者にとってみれば、このスタイルのためにラカンのテキスト自体が欲望の対象となる。わたしはいつも思う。「今度こそは、きちんとわかってみせる」。それができさえすれば……。

だが、徐々に前よりはわかるようになるものだ。しかもこの苦労は報われる。ラカンは途方もなくよく本を読んでいて、きわめて知性が高かった。彼は折りに触れてたとえば絵画、建築、悲劇などにコメントしているが、ずっと重々しい学問的著作何冊かにそのコメントが匹敵することも珍しくない。(p. 95)

この確信と批判力のなさはどっから来るのか。この人の実人生だいじょうぶなんだろうかと不安になる。この岩波の「1冊でわかる」シリーズは一般に水準が高くてどれもおすすめなんだけど、なんでこんなものがはいってるんだろうか。

(続く)

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1ついでに。この本、原文見てないけど、「批評家」と訳しているのは「批判者」の方がいいんじゃないかな。

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