http://macska.org/article/117 。この件あんまり勉強してないのでただのメモ。このブログではネット上の情報について書くことはなかったのだが、不十分かと問われれば不十分だと思うのでメモだけは残しておくです。
米国の現状や判例に興味あるひとは http://en.wikipedia.org/wiki/Affirmative_action
、もっと哲学的な側面の方に興味があるひとは
http://plato.stanford.edu/entries/affirmative-action/ 。
ちなみにこのStanfordの哲学事典は、哲学的な議論について調べるときの
最初の一歩にすることをおすすめ。
アファーマティブアクション(ポジティブアクション、積極的改善措置)が
実質的平等をめざすものだってのはもちろんOK。
今日から平等だから白人男性と対等に競争しなさいと言っても、それまで受けてきた教育が全然違うから同じ試験を受けても勝ち負けが目に見えているし、これまで稼いだお金や祖先から相続したお金に差があれば(差があるどころか、以前は一方が他方の所有物扱いだったんだから)ビジネス上でも対等に競争なんてできるわけがない。そういう競争は外見上平等なだけであって、実質的には社会の周縁に置かれた人たちに対して一方的に不利な「機会不平等」状態だ。だから、本当の意味で対等な競争が実現するまでのあいだ、暫定的な措置として失われた分の機会を補填しようというのがアファーマティブアクションの考え方。
これに加えて、代議士や会社役員のようなグループの代表となる地位については、競争や能力云々とは無関係に、グループの代表者、代弁者としてのポストを用意しておく価値がある。これもmacskaさんの指摘通り。
ただし、macskaさんが触れていない別の効用もあるはずだ。
ひとつは、(A)マイノリティ集団の人びとを、(特に)弁護士や医師などの専門職につきやすいようにするってのは、そのマイノリティ集団の利益につながりやすいということだと思う。黒人の弁護士は黒人が多く居住する地域で活動することが多いだろうし、同じ境遇や人種の人に対しては親身になることが多いだろう。女性の医師がたくさんいたほうが女性にとって診療受けやすいとかそういうよいことがあるだろう。瀬口先生の論文にあったように女性研究者がいるからこそわかってくるような科学的真理もあるかもしれない。
もうひとつ、(B)そういう上の階層にマイノリティ集団のメンバーが入りこむことによって、それまで一般人やその階層の人びと自身が抱いていた予断や偏見を消すことができるかもしれないということもある。会社でいっしょに働けば、黒人も女性も身体障害者も同じように「できる」ってことがだんだんわかっていくだろうから、格差や不平等を減らすために役だつにちがいない。
もう少し別の効用もあるかもしれないが、アファーマティブアクションの目的は必ずしも競争の出発点(や競争の途中の道のり)での差をなくすというだけではないと思う。
さて、macskaさんはアファーマティブアクションの問題点を大きく(1)どの程度のアクションをとるかという程度の問題、(2)クォータ制特有の難点のふたつに分けて説明していてわかりやすいが、やっぱり一番重要な問題を忘れているか書きそこねていると思う。
それはもちろん、「なぜマイノリティ集団に属しているという特徴によってそのグループのメンバーが優遇されることが正当化されるか」。もちろんその答は、「その集団のメンバーが、(皆同じように)出発点からハンデや不利益を負っているから、それを是正するため」ってことになる。逆に言うと、その集団のメンバーがそれほど同じようにハンデを負っているわけじゃない場合にアファーマティブアクションを使うと過剰に優遇してしまうことになってしまうかもしれない。そこでどういうグループがどういうハンデを負っているかに加えて、個々の成員はどの程度共通のハンデを負っているかも評価しなきゃならんことになる。
「そのグループ分けは正当な分け方なのか、そのグループはほんとうに不利益を受けているグループと言えるのか」というのも問題だよな。
60年代の米国なんかでは、黒人その他のエスニックグループや女性がそのグループに共通のハンデ負っているのが明確だったし、上の(A)(B)の効用もでかかったと思われる。
んじゃ今の国内の「男女共同参画」なるものでの「ポジティブアクション」はどうか。(この呼び方はどうも・・・「男女平等」でいいのに。)ほんとうに女性はそんなに共通に不利益を受けているのか、ってことを疑う人びとがいるのは、まあ理解できる。
特にネットとかでの「バックラッシュ」勢力の中心であると思われる大学生~大学院生男子の年頃というのは、グループとしての自分たちが同年代の女性たちに比べていろんなことで苦労していると感じ る思いこみやすい年頃なんで*1、「女性」全体を優遇しようとする政策に対してバッシングに走ろうとするのもわからんではない。「オレらがいろんなプレッシャーと戦って生きるのにせいいっぱいなのに、まだ優遇されたいだと!」「会社はいったってすぐやめてしまうんだろうが」とか。
職場での大学での成績競争とか、出世競争とかから(おそらく自発的に)距離を取ってしまう女性はまだ少なくないように見えるので、そこらへん優遇してどうすんだ、戦うなら 同じ土俵で戦え*2、と思ってる若者は少なくないだろう。
まあまちがっている認識も多いし、もうちょっと年をとると男性の方が得なことが多いことがわかってくるんだが。
http://macska.org/article/145 でmacskaさんは赤木さんという人のblogを
批判しているが、もうちょっと共感的に読んであげてもよいんじゃないかと思うんだが、どうだろう。
もし男女で生涯独身の割合は同じだとすると、弱者男性と結婚する強者女性の数は、弱者女性と結婚する強者男性と同数であるはず。それが同数でないとすると、それは強者女性が弱者男性を拒絶しているからではない。単に強者女性の絶対数が少ないからだ。*3つまり、赤木氏を主夫として養ってくれる女性があらわれないのは、女性が企業社会の競争において差別されているからだということになる。
とmacskaさんは書くわけだが、これがほんとうに差別の結果でしかないのかが問われているんだと思う。そうかもしれんが、そうでないかもしれん。私はわりと啓蒙された人びとのまわり生きているつもりで、すばらしく有能な女性もたくさん見ていて、尊敬に値すると思っている。
しかしそれでも「男なみ」に働こうとする女性はまだ一部のように見えるし、意識が低い人びともいる。ある種の男性は配偶者をバックアップ係として二人一組で戦っているようだが、女性でそれができる(やろうとする)人はまだ多くない。 (また女性の「上昇婚」傾向も問題なのかもしれん。この傾向が社会的差別の結果でしかないとかは言わせたくないなあ。*4)
もちろん育児やその人自身のライフプランその他の問題はそれぞれおあるんで、ポジティブアクションがよくない制度だとは言わんが、国内で採用するまでに弊害を含めちゃんと議論されているのかなあ。そしていまやろうとしていることがほんとうに効果がありそうなのかなあ。
ある職種:-)の公募とか見ていて、注として「男女共同参画を~」と書かれているのを見ると、それに脅威を感じる男性オーバードクターなんてのはけっこういるんじゃないかと思う。「そんなんじゃなくて業績だけで評価してくれ、「グループとしての男性」が女性に比べて有利な立場にいるからといって、なぜ「この俺」が社会的な差別是正のための犠牲にならなきゃならんのだ、グループとしての女性が差別されているとしても、なぜ俺じゃなくて業績の劣るあの女が就職できるのだ」っていう疑問はかなり根本的で消しにくいものだと思う。
まあ答はそれほど難しくないんだと思うが、めんどうなので考えない。「あんたは男であるそのことでかなりの利益を受けているんだから、男であることで不利益を受けるべきだ」なんだろう。しかし、これがほんとうに受けいれられるべきなのか私はよくわからないし(いろいろ哲学的な問題がありそうだ。少なくとも森村進先生や昔のノージックは受けいれそうにない)、それが実感としてわからん時期もあれば、実感としてわからん階層の人もいる。(実際のところ、平均すりゃ男性の収入の方が女性の収入よりずっと多いだろうが、男性の収入その他のばらつきは女性の収入のばらつきよりずっと大きいはず。男性は上の方にも下の方にも広がっている。借金地獄で苦しむのも自殺するのも多くは男性。)
ジェンダーフリー論争なんてのは、こういうアファーマティブアクションについての議論のおまけというか前哨戦でしかない、ということは前から思っている。
とりあえず上の方の階層では男女不平等はすでにかなり解消されつつあるんじゃないだろうか。下の方では男性の方が苦しそうに見えるがどうなんだろうか。もしそうだとしたら、不平等感を煽ってしまうより、とりあえずの形式的平等と出産育児関係にかぎった優遇ぐらいで十分なんではないだろうか。ほんとうにもっと積極的な方策をとる必要があるんだろうか。とかってことは思ったり思わなかったり。ちゃんとした議論を読んでみたい。
で、こういうタイプの誤解をといたり、共感してあげたり、アファーマティブアクションの効用と不効用*5をあきらかにして正当化するって作業をバックラッシュ本でやるべきだったんじゃないかな。たんに二流の論者を叩いたり、「社会学」や「精神分析」の高みから分析したりするだけじゃなくてね。(まあそういうのにもそれなりの価値があるのもわかるけどね。)
(いつもながらうまく書けてないなあ。まあこういうあんまり勉強していないものに時間使うのはおかしいってのもあるのだが。)
追記(7/20)
トラックバック覧にもあるけど、
http://haseitai.cocolog-nifty.com/20/2006/07/_positive_actio_c836.html
で田中重人先生がこのエントリについて解説と批評を書いてくださっている(正直、大物すぎるです :-)。 このエントリ読んでしまった人は必読。
*1:かなり誤解をまねきやすい表現だったので修正。私自身が大学卒業時にはバブル期で、いわゆる「就職活動」をしてみて自分が実は男性として有利な立場にいることをまさに実感した。っていうかそれが自分が有利な立場にいることを自覚した最初だった。「ははあ、なるほどこういうことか」ってな感じ。だから私自身男女雇用機会均等法のようなのにはまったく抵抗感がない。
*2:実際いずれ皆同じ土俵で戦うことになるんだろう。勝負だ。当然男性と同じように徹底的に負ける女性も多数出てくる。まあそれは、最初から適度に負けてしまっているよりは(一部の女性には)よいことなのかもしれん。しかし、一部の意識の高い人びとは別として、集団としての女性がどの程度それを意識しているのか心配。そういうんでは、教育の場(特に中・高等教育)も徹底的に変わることになるのかもしれない。
*3:ちなみにこれはあやしい。macskaさんのページにもコメントがあって、それを見てはっきりしたが、男女10人ずついて、そのうち3人ずつが「強者」で、三人ずつが「弱者」で4人が「中間」だとする。さらに、男女2人ずつが生涯独身だとする。上昇婚を仮定すると、強者女性2人と弱者男性2人が生涯独身ってことは十分ありえるし、この場合、弱者男性と結婚する強者女性と弱者女性と結婚する強者男性は同数にならない。一時の「負け犬」ってのはそういうことじゃないのか。
*4:実際に自分より経済的能力が下である男性を配偶者に選ぶ女性がどれくらいいるのか。大学教授までなりあがった女性の配偶者がやっぱり大学教授だったりするのはなぜか。たんなる出会いのチャンスの問題か。もちろん「男の将来性に投資」する女性は多いが、あんまり将来性ない男(「気だてだけが取り柄」とか)はどの程度優秀な配偶者を得ることができるのか。「甲斐性なし!」とかって罵りは恐いものだ。これは単に文化や制度の問題なのかどうか。
*5:たとえば、「平等」の権利の侵害とか、(もしかしたらあるかもしれない)効率の低下とか、不公平感とか、「あいつらはできないのに優遇枠だからここにいるんだ」という偏見が助長されるとか。そういうのをはっきりさせずに「ポジティブアクションで行きます」では「単なる運動・イデオロギーだ」と言われてもしょうがない。共同参画基本法が制定されるとき、どの程度議論されたんだろうか?そこころあんまり関心もってなかったのでよくわからんのだよな。なんかいきなり制定されていたような感覚があったし、いまだにポジティブアクションについては議論が不足していると感じている。アメリカではほんとにホットでありつづけている話題の一つのはずなのに。macskaさんの書き方も、流して読むだけだと「先進国のアメリカではふつうですよ、反対しているのは「保守派」だけ、わかってない日本人は遅れてる」と読めちゃうような気がする。意図的かどうかはわからん。
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