「哲学の劇場」コンビのヒュームの法則理解

バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
はもう読む気がなかったのだが、ぱらっと手にとって気になって放っておけなくなった部分がある。

ヒュームの法則とは、「~である」から「~べきである」を導くことはできないという主張のことだ。ヒュームは主著『人性論』のなかで、「である/でない」という断言と「べきである/べきでない」という断言とはまったく異なるものであり、前者から後者を導きだせる理由など思いもつかないと語っている。(ヒューム『人性論(四)』大槻春彦訳、岩波文庫、一九五二、三三-三四頁)

たしかに、現に存在する「である」(事実)の中身をいくら検分したところで、そこには「べきである」(価値判断)を見いだすことはできない。価値判断は事実の側にあるのではなく、もっぱら私たちの側にあるのだから。(p. 169)

あれ、このヒュームの解説なんかおかしいぞ。「理由など思いつかない」がおかしい。

おそらく大槻春彦先生の誤訳をさらに誤解したと思われる。

大槻訳では

・・・突然、私は見出して驚くが、私の出合う命題はすべて、「である」とか「でない」とかいう・命題を結ぶ・通常の連辞のかわりに、「べきである」又は「べきでない」で結合されて、そうでない命題には何一つ出会わないのである。この変化は、これを看取する者がないとはいえ、極度に重大な事柄である。何故なら、この「べきである」或は「べきでない」は、断言の或る新しい関係を表現している。従って、これを観察して解明する必要がある。また同時に、いかにしてこの新しい関係がそれと全く異なる他の(「である」又は「でない」の)関係から導き出されることができるか、その理由を与える必要がある。しかも、この理由を与えることは全く思いもつかないことのように思えるのである。(表記を変えてある)

これはおそらく誤訳。「理由を与える必要がある」といっておいて「それが思いつかん」とかって意味わからんし。ヒューム大先生はこういう意味不明なことを書いて平気な方ではない。この倫理学史上最も有名なパラグラフの原文は以下のようなもの。

I cannot forbear adding to these reasonings an observation, which may, perhaps, be found of some importance. In every system of morality, which I have hitherto met with, I have always remark’d, that the author proceeds for some time in the ordinary way of reasoning, and establishes the being of a God, or makes observations concerning human affairs; when of a sudden I am surpriz’d to find, that instead of the usual copulations of propositions, is, and is not, I meet with no proposition that is not connected with an ought, or an ought not. This change is imperceptible; but is, however, of the last consequence. For as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, `tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given, for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it. But as authors do not commonly use this precaution, I shall presume to recommend it to the readers; and am persuaded, that this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason. (A Treatise of Human Nature, Book III, Part I, Secion 1。私のもってるOxford Univ. Pr.の Selby-Biggeのやつだと469-70。)

“for what seems inconcivable”の訳が問題。 中公の『世界の名著 ロック・ヒューム』の土岐邦夫先生の抄訳*1ではこう。

突然、「である」、または「でない」という普通の連辞で命題を結ぶのではなく、出合うどの命題も、「べきである」、「べきでない」で結ばれていないものはないことに気づいて私は驚くのである。この変化は目につきにくいが、きわめて重要である。なぜなら、この「べきである」、「べきでない」というのは、ある新しい関係、断言を表すのだから、これを注視して解明し、同時に、この新しい関係が全然異なる他の関係からいかにして導出されるのか、まったく考えも及ばぬように思えるかぎり、その理由を与えることが必要だからである。(pp. 520-1)(表記は変えてある)

こっちはまずまずまともな訳だと思うが、私だったらfor what seems~は、reason ~ for とつながると読んで、下のようにしたい。

「まったく思いもよらないように見えるものに対しては、この新しい関係がいかにして他からの導出でありえるかという理由が与えられるべきだ」

あら、ちょっと違うな。上の訳まちがい。だめ。土岐訳がよさそうだ。 *2

おそらく「もし「である」から「べし」の間のつながりがよくわかんない(自明でない)ときには、そのギャップはちゃんと理由で埋めてかなきゃだめだ」
ってことだろう。

人が「である」から「べきである」に移行するとき、かならずそこには飛躍がある。飛躍は、それ自体としてはよいことでも悪いことでもない。人が意見を抱くときに、飛躍が生じるのは当然のことだ。飛躍のまったくない意見などあり得ない。問題は、それがいったいどんな飛躍であるのかということ、これにつきる。(p.170)

だから、この哲劇な人々の解釈はぜんぜんちがってしまってる。ヒュームが言いたいのは「かならず飛躍がある」なんてことじゃない。そして論理の飛躍はふつうは悪いことだ。ヒュームが指摘しているのは、「事実に関する判断から「だけ」では規範や価値に関する判断はでてこない。(どこかに規範や価値に関する前提が隠されている)だから、飛躍がないように理由でつなげ、どういう関係か明らかにしろ、読むときは飛躍に注意しろ」だろうと思う(なんか自信がなくなってきた)。

土岐訳では略されてしまっているが、大槻訳ではヒューム先生はちゃんと次のように述べている。

ところで、道義の体系を説いた人々はこうした(理由を与えるという*3)用心をしないのが普通である。それゆえ、私は読者がこれをするように敢えて勧めよう。そして私は堅く信ずるが、この僅かな注意は道徳性に関する一切の卑俗な体系を覆すであろう。*4

まあ大槻先生の誤訳は罪が重いが、ああいうのを見たら文意からして「おかしい」と思ってみるのが哲学のセンスってもんだと思う。もしセンスがなくたって(私もぜんぜんない)、 少なくとも、自説の重要な部分でこんな重要な部分を使おうとするのなら、一回原文チェックぐらいしておこうや。ネットですぐに手に入るんだし。もしかしたらこの人たちはヒュームをまじめに読んだことがないのかもしれない*5。いいかげんな科学的事実や哲学的知識を振り回して暴れる馬鹿なバックラッシュ派を叩くために必要なのは、科学的事実や哲学的知識の正確さを検討するアカデミックな誠実さだと思う。反省してもらいたい。

なんかいろいろ自信がなくなってきたが、ここではとりあえず、ヒュームの言い分は、「事実判断「だけ」からは価値判断は出てこない」というものだと解釈しておく。いちおうオーソドックスな普通の解釈。(詳しくは下の方参照)

んで、もうひとつ。

たとえば、AさんにはBさんを喜ばせたいという目的があり、誰もそれに反対する理由を持っていないとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねから、「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても、たいていの場合その判断に反対すべき特段の理由はない。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。(後略)

こっちはかなりミスリーディングな解説になってる。

くりかえすが、「ヒュームの法則」のポイントは事実判断だけからは、論理的には規範判断は出てこないってこと。したがって、「Bさんはホットケーキを作ってもらうと喜ぶ」という事実だけから「Bさんにホットケーキをつくってあげるべきだ」という規範判断はでてこない。この規範判断をするためには、「Aさんを喜ばせる「べき」だ」という規範を含んだ大前提が必要。(しかしこの前提が入ればなにも飛躍はないことに注意。)

同じように、「女は子どもを育てるのが自然だ」という事実判断から、「女は子どもを育てるべきだ」は出てこない。これを言うためには、「女は自然なことをするべきだ」という規範を含んだ(かなりあやしい)前提が必要だ。(「自然なことをするべきだ」が言えれば飛躍はないが、この前提はすごく怪しい。)

これが「ヒュームの法則」をもちだす一番のポイント。つまり、隠された前提をはっきりさせろ、そしてその前提の妥当性を問え。

で、哲劇コンビの説明のなにがミスリーディングかというと、

「自分がBさんを喜ばせるためにはホットケーキをつくるべきである」

という判断は、おそらく上のようなヒュームの法則でいわれる規範判断では「ない」かもしれないてことだ。少なくとも、もうちょっと正確に書きなおした、「AがBを喜ばすためには、ホットケーキを作ることが最善だ」のような判断は事実判断かもしれない。「Aが(あるいは「自分が」)喜ばせるためには」という条件がはいると、単なる目的合理性についての事実判断になってしまうかもしれない。

さらに重要な点として、もし「Aさんをよろこばせるべきだ」という価値判断がなければ、上にあげられている事実に加え、「AさんはBさんを喜ばせたいと思っている」「AさんはBさんを喜ばせるという目的をもっている」という「事実」(これは事実判断)を入れたとしても、ここから「AさんはBさんにホットケーキをつくるべきだ」はやっぱり出てこないのだ。

だから、ミスリードしない文章は次のようになるはずだ。

たとえば、Aさんは「Bさんを喜ばせるべきだ」と判断しているとしよう。そして、Bさんがホットケーキを食べたいと思っており、ホットケーキを食べたら喜ぶだろうという事実も判明しているとしよう。されに、Aさんはホットケーキのつくり方を知っており、Bさんのためにホットケーキをつくってあげる用意がすべて整っているとしよう。そこでAさんが、以上のような事実(「である」)の積み重ねと、「Bさんを喜ばせるべきだ」という価値判断から、「私はBさんにホットケーキをつくるべきである」という判断を導きだしたとしても論理的にはまっとうである。

しかし、たとえば、女性は産む性「である」という事実から、女性は家庭を守る「べきである」という価値判断を導きだすことには、おおいに議論の余地がある。「産む性は家庭を守るべきだ」という隠された大前提がおおいに議論の余地があるからだ。~~~

哲劇コンビの文章とこの文章がどの程度違って見えるかってのが問題なわけだが、私にとっては全然違うのだが、あんまり違わんかもしれん。そして結論も同じような「「科学的事実」から規範を考えるときにはよくよく注意しましょう」でしかない。でもそういう細かいところが大事な違いだし、そういう細部にこそ哲学とかってものの意味があるんだと思う。でなきゃ思いつきがなんでも哲学になっちゃう。

もちろん、アカデミズムに所属していない人が哲学について語るべきではないとかそういうことではない。でも最低限のアカデミックな誠実さやメディアリテレシーのようなものは必要で、それがジェンダーフリー派とバッシング派の双方に欠けていたんじゃないかと思っている。これは私個人の予断かもしれん。

うーん、説明むずかしいな。これで「飛躍」とかが問題なんじゃないってことがわかってもらえるだろうか。なんかだめそうだ。力が足りない。だめだめ。(あとでもうちょっと書くかもしれないけど、あんまり改善しそうにない。)

ヒュームむずかしいぞ

ヒューム難しい。やばい。ヒュームやばい。知ったかぶりするんじゃなかった。困ったときはまずStanfordのplatoさんに聞こう。ましな知ったかぶりのヒントをくれるはず。http://plato.stanford.edu/entries/hume-moral/なるほど、解釈がかなり分かれている部分なのだな。たしかに複数の解釈を許してしまうような書き方だ。私は以下であげられているHareたちのオーソドックスな立場から解釈していた。でもまあどちらの解釈にしても「飛躍」があるとかあって当然だとかいうことにはコミットしないようだからよかった。はあ。

5. Is and ought

Hume famously closes the section of the Treatise that argues against moral rationalism by observing that other systems of moral philosophy, proceeding in the ordinary way of reasoning, at some point make an unremarked transition from premises linked only by “is” to propositions linked by “ought” (expressing a new relation) — a deduction that seems to Hume “altogether inconceivable” (T3.1.1.27). Attention to this transition would “subvert all the vulgar systems of morality, and let us see, that the distinction of vice and virtue is not founded merely on the relations of objects, nor is perceiv’d by reason” (ibid.).

Few passages in Hume’s work have generated more interpretive controversy.

On the orthodox reading Hume says here that no ought-judgment may be correctly inferred from a set of premises expressed only in terms of ‘is,’ and the vulgar systems of morality commit this logical fallacy. This is usually thought to mean something much more general: that no ethical or indeed evaluative conclusion whatsoever may be validly inferred from any set of purely factual premises. A number of present-day philosophers, including R. M. Hare, endorse this putative thesis of logic, calling it “Hume’s Law.” (As Francis Snare observes, on this reading Hume must simply assume that no purely factual propositions are themselves evaluative, as he does not argue for this.) Some interpreters think Hume commits himself here to a non-propositional or noncognitivist view of moral judgment — the view that moral judgments do not state facts and are not truth-evaluable. (If Hume has already used the Motivation Argument to establish noncognitivism, then the is/ought paragraph may merely draw out a trivial consequence of it. If moral evaluations are merely feelings without propositional content, then of course they cannot be inferred from any propositional premises.) Some see the paragraph as denying ethical realism, excluding values from the domain of facts.

Other interpreters — the more cognitivist ones — see the paragraph about ‘is’ and ‘ought’ as doing none of the above. Some read it as simply providing further support for Hume’s extensive argument that moral properties are not discernible by demonstrative reason, leaving open whether ethical evaluations may be conclusions of valid probable arguments. Others interpret it as making a point about the original discovery of virtue and vice, which must involve the use of sentiment. On this view, one cannot make the initial discovery of moral properties by inference from nonmoral premises using reason alone; rather, one requires some input from sentiment. However, on this reading it is compatible with the is/ought paragraph that once a person has the moral concepts as the result of prior experience of the moral sentiments, he or she may reach moral conclusions by inference from causal, factual premises (stated in terms of ‘is’) about the effects of character traits on the sentiments of observers. They point out that Hume himself makes such inferences frequently in his writings.

追記:結論部分のミスリード

13日追記

脳科学は「である」という事実を追求し、人性論は「べきである」「したほうがよい」という指針を提示する。でも、先に見たように「である」から「べきである」は帰結しない。このふたつが結び付けられている場合、そこにどんな飛躍があるかということに注意しておきたい。そのような議論には、「べきである」という主張を裏打ちしたり補強したり、ようするに説得力を増すために「である」という知見が動員されている場合が多い(人はそれを「権威主義」という)。(p.171-2)

権威主義とは関係ないだろう。事実だけから規範は出てこないといっても、規範を考えるときに事実は関係がないというわけではない。むしろ逆に、なんか規範的な判断を下す際に、事実に関する知識は非常に重要だ。特に社会政策のように統計的集団を扱わねばならない場合には、統計的事実が非常に重要な場合がある。事実とまったく独立に規範判断を下せる場合なんてほとんど考えることができない。

それに、権威主義っていうのはふつうは権威とされるものによっかかってそれを無批判に受けいれてしまうことなわけだが、権威による論証が必要な局面は多い。われわれはなんでも自分で調べることができるわけじゃないのだから、たいていの知識は、伝統や親や教師や科学者や信頼できる科学ライターやブログ書きなどのいろんな権威に頼ることになる。その「権威」がちゃんと権威である資 格がある *6のなら、それ自体は悪いことじゃない。だめなのは権威を常に無批判に受けいれてしまうこと、権威の資格のないものを権威としてしまうことだ。脳科学者は社会的規範についての権威ではないから、そんなものを規範についての権威として受けいれたらやばいってことにすぎない。(ちなみに「倫理学者」も規範とか倫理についての専門家ではないからそんなものを受けいれてはいかん。というか、倫理や社会的規範についての専門家なんてのは存在しないのかもしれん。わからん。)

どれほど脳についての解明が進んだとしても、ここで考えたことがらの枠組みが変わるわけではない。なぜなら、このような場面でいつでも問題になるのは、脳科学があきらかにしてくれる「である」という知見を、「べきである」「したほうがよい」という主張やアドバイスに結びつけるそのやり方にあるからだ。しかし、見てきたように、そうした主張の有効性はけっきょくのところ、脳の性差がどうかではなく、その主張(ママ。「が」が抜けてる?)どのような社会を望ましいと考えているのか、それを聞く人びとがどのようにふるまいたいのかということにかかっている。そんなときには、”So What?”(それで?)と問いかけてみるのも一興だ。つまり「それで、何を言いたいの?」「それで、何が狙いなの?」というように。(p.173)

前に「陳腐」と書いた主張だけど、読みなおすとちょっとあれだ。脳科学そのものはあんまり規範判断に直接に関係することは少ないだろう。むしろ、規範判断に関係するのは、脳科学がバックアップすることになるかもしれない男女の心理的な性差に関する研究だ。くりかえすが、これは集団を扱う社会政策のレベルでは重要かもしれないし、個人が多くの他人とつきあう場合の一般的な心がまえや前提知識として重要になるかもしれない。たとえば、もし仮に、「母親は父親と比較して子どもに対する心理的愛着や依存が強いことが多い」とか「女性は男とちがって、いっぱんにカジュアルセックスを好まない傾向がある」とかってことがある確実さで言えれば、それは社会政策を構想したり、個人の行動を批判したりするのに重要でしょ(別にこんなのは脳科学なしにも知ってるこどだけど)。もちろん多くの例外があるとしてもね。「戦時強姦や日和見強姦は進化論的に適応で生物学的基盤があるかもしれない」「ある環境下での小児虐待傾向はもしかしたら進化論的な適応の結果であるかもしれない」とかってのは(ショッキングすぎるが)、悪い結果を予防するために非常に重要になるかもしれない。(くりかえすが「自然」なことがよいことではないし、進化論的な適応の結果が倫理的に正当化されるわけじゃないぞ。われわれの心理的傾向を知ることはわれわれの行動を(統計的に)予測したり、場合によってそれをコントロールするために重要だというにすぎない。)

あと「一興」ていどのために”So what”(だからどうした)とたずねるのはふつう喧嘩になるからやめた方がいいと思うけどね。まじめに「その事実はどの程度正確か、そしてそれが事実だと認めた場合に規範判断にどうかかわるのか、その前提となる価値判断はどうなのか」をまじめに考えた方がいいと思うよ。「飛躍」と考えるとここへんがわからんようになると思う。

*1:大槻先生が責任編集なのだが、『人性論』は土岐先生が訳している。

*2:ここは解釈がかなり難しい。おそらくfor what seems altogether inconceivableはa reasonにかかり、how ~は what seems inconceivableの言いかえだと思うが。うーん、難しいぞ。

*3:この「用心」についての大槻先生の解釈も微妙

*4:この部分が何を示唆しているのかも難しくなってきたぞ。

*5:実は私もまじめに読んだことがないが

*6:同業者他からの多くの批判にさらされて生き残っている、とかね。

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「哲学の劇場」コンビのヒュームの法則理解” に1件のフィードバックがあります

  1. kenkido

    はじめまして、山下と言います。ヒュームのお話、面白く拝見致しました。ところで、ヒュームのテキストで、for what seems altogether inconceivable の箇所を検討為されておられるところで、私見を提案し、御考察して戴きたく思います。

     さて、この for what seems altogether inconceivable ですが、for 挿入句の形式で解釈を進めていってよいのではないか、というのが、私の方針です。それは例えば、Now, Mario — for this was the Italian’s name — was standing before his shop one day. という例文に見られるものです。この一文をくどく訳すと、「さて、ある日、マリオは、このマリオ(this)とは、イタリア人の名前であるが、その店の前に立っていた。」となるでしょうが、この for 挿入句の如きものが、検討されている一句の性格である、と思われます。

     検討されている一句のある、ヒュームの一文を見れば、すなわち、

    [For] as this ought, or ought not, expresses some new relation or affirmation, `tis necessary that it shou’d be observ’d and explain’d; and at the same time that a reason should be given, for what seems altogether inconceivable, how this new relation can be a deduction from others, which are entirely different from it.

    ですが、まず頭から、「「べきである」あるいは「べきでない」は、ある新しい関係、あるいは肯定を表現しているのだから、(この新しい関係を)注視して、解明せねばならない。」とまず来て、続いて、「同時に、」ここでちょっと手を抜いて、how 以下の a reason を、「与えねばならない」という全体として流れていくのでしょう。

     で、この a reason は、「観察し、解明する」ことによって得られるもので、(つまりこの連関が、at the same time という表現で示されているものでしょう。)それが検討の一句によって、「ところで、これは inconceivable に思えるものであるけれども」、という具合に説明的な性格描写を補足されることになっている、というのが、私の解釈となります。

     つまり、observe して、explain する精神は、その捉えようとするものを、conceive することになる訳ですが、その捉えようとするものが、(what は何を指しているのか、と問われるなら、やはり a reason ですが、このような解釈的な取り方でも良いかと思います。)ヒュームに言わせると、「人にはそれがはっきりと捉えられないように見えるだろう」、すなわち「なかなか為難い」ものであるが、(それでも、)how 以下の点を明らかにするところの a reason を獲得せねばならない、(日本語としては、このようにひっくり返って後ろから言い表さないといけませんが、どうぞこれを英語の順序にもう一度ひっくり返し直して、ご理解ください。そして for what を補足的に付け足してみて下さい。)と述べているのが、この一文の全体の趣旨ではないでしょうか。

     そして、後続の箇所へ、都合好いところに繋ぎ合わせてしまえば、そのようにし難いことを敢えてするのも、(あるいは、recommend it to the readers するのも、)それを把握することによって、this small attention wou’d subvert all the vulgar systems of morality (この attention とは、結局は、上の observe, explain, conceive して得られたもののこと、つまり、新しい関係(べきである、べきでない)を、異なっている関係(である、でない)から導出したものとして理解することでしょう。)ということを倫理的考察をしている人に得せしめることになるからだ、という具合で、読み取っていけるとも思います。いかがでしょうか。(気になることを書き足していたら、不格好になってしまいました。お許しを。)

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