翻訳ゲリラ:アニタ・スーパーソン「セクシュアル・ハラスメント」

Anita M. Superson,‘Sexual Harassment’ in Hugh LaFollette (ed.), Ethics in Practice: An Anthology (Blackewell, 1977), pp. 399-408 の翻訳

http://yonosuke.net/eguchi/material/tr-superson-harassment.pdf

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\title{セクシュアル・ハラスメント}

\author{アニタ・スパーソン}

\date{坂井昭宏訳}

\begin{document} \maketitle \howtocite \else \chapter{} \fi % ———————————————————––— % ———————————————————––—

Anita M. Superson,‘Sexual Harassment’ in Hugh LaFollette (ed.), \emph{Ethics in Practice: An Anthology} (Blackewell, 1977), pp. 399-408.

\section{イントロダクション}

今までのところもっとも普及している女性差別はセクシャル・ハラスメント(以下セクハラ)である。女性は生活のいかなる局面においてもその差別にさらされている。法律はセクハラの犠牲者の利益になるように変化してきているとはいえ、セクハラがいぜんとしてこれほど多く行われているという事実は、それがあまりに寛大に扱われ、その被害者は十分な法的救済を受けていないということを示している。

\section{セクシャルハラスメントの社会的性格}

性差別の一つの形式であるセクハラはいわゆる支配である。とくに男性集団による女性集団の支配である。支配は社会の経済的、政治的、社会的領域に見られる制御と力を含んでいる。セクハラはたんに力を誇示することではない。というのも力は有効な仕方でも使用されうるからである。男性が女性に対して及ぼす力は、女性を抑圧する仕方でふるわれてきた。セクハラにおいて表現されている力は抑圧であり、不正に使用された力なのである。

セクハラは完全に性役割と関係している。ある人間が彼女の性別を理由に、ある役割へと追いやられるという信念を表している。それは女性がたんに性の対象となるということだけではなく、世話人、養育係、同情者などになるということを含んでいる。女性が追いやられる性役割は一般に(精神に対するものとしての)身体と(理性に対するものとしての)感情に関係している。

AがBに性的嫌がらせをするとき、その発言や行為は実はすべての女性という集団に向けられているのであり、ある特定の女性に向けられているのではない。これはしばしば裁判によって見落とされている点である。結局のところ、多くの軽蔑的な振る舞いは、(例えば見知らぬ人の体をじろじろ見るときのように)本人が知りさえしない女性達に向けてなされているのである。嫌がらせをする人が彼の犠牲者を知っているとしても、そのふるまいはその特定の女性に向けられたものではない。というのはそのふるまいのメッセージはすべての女性に向けられたものであったのだが、彼女がたまたま「利用可能であった」からなのである。例えば、女性に向けられる揶揄はある女性の体が好きだといっているだけではなく、女性は少なくともまずはセックスの対象であると自分は考えているということ、自分が支配的集団に属していることによって手にしている力のおかげで、女性達が自分にどれだけの快楽を与えてくれるかを見積もるようになったということを意味しているのである。自分の教えている女子学生を「ひよこちゃん」と呼ぶ教授は、女性が知的ではなく男性の快楽の対象として役立つ柔らかくて抱きしめたくなるような動物にたとえられるのだから、女性が男性よりも知的に劣っていると語っているのである。

これらの例や他の事例は、セクハラがある特定の人物に対する嫌悪ではなく、性を基準にした一つの集団としての女性に関するある人物の信念、すなわち彼女たちはまず(理性的ではなく)感情的で(精神的ではなく)身体的な存在であるという信念を表現しているのである。セクハラの社会的性格を認めている理論家達がいる。その主張によれば、女性は不利な立場におかれた集団なのである。それはまず(1)女性ははっきりとした同一性を持つ社会集団であり、彼女たちの個別的な同一性とは区別される存在だからであり、(2)アメリカの社会のなかでは従属的な位置を占めるからであり、(3)彼女たちの政治的な力は厳しく制限されているからなのである。

セクハラはすべての女性という集団を標的にしているから、この集団は振る舞いの結果である危害を被る。実際のところどの女性が性的に嫌がらせをされても、すべての女性が危害を被るのである。セクハラが引き起こす集団に対する危害は、個人としての女性が被る危害とは異なっている。それはいかなる特的の嫌がらせの行為とも因果的に結びつけられることはないので、本性的に漠然としたものである。集団に対する危害はまず持って、その振る舞いが女性は男性よりも劣っており、彼女たちはある性役割を果たしているし果たすべきであるという性差別主義者の態度を映し出し、強化するという事実と関係している。例えば、女性をセックスの対象としての役割へと追いやるコメントや振る舞いは女性はセックスの対象であり、その役割を果たすべきだという信念を強化する。

集団としての女性がセクハラの一つの事例から受ける危害は重大なものである。それは様々な形式をとる。カントの分析がたんにセックスの対象であることの何が悪いのかということを示してくれる。世話人、養育係などであることそれ自体は何も悪いことではない。そうした役割を女性に与えるのが性差別主義者であり、それは悪いことなのである。それに加え、ある女性に彼女が望まない役割を割り当てることは不正なことである。基本的に女性は自分自身で自分たちがどの役割を従事するべきかを決定できない。伝統的に男性が占めていた重要な社会的立場に立つ女性がたとえいたとしても、彼女たちはまだセックスの対象、世話人などと見なされるのである。というのもすべての女性は男性に比べ肉体的(bodily)で感情的と考えられているからである。こうしたことは女性の自律を否定し、女性の地位を下げるものである。それはまた女性を抑圧する役割を果たす。女性はある性的役割を果たすべきだという信念は、女性の抑圧の原因であり、結果である。女性は身体的で感情的なのであるからある男性よりもある役割に適していると信じられているのであるから、それは原因なのである。いったん女性がこれらの役割に従事し、抑圧の犠牲者になると、彼女たちは性役割を果たすべきだという信念が強化されるのであるからそれは結果なのである。

セクハラがすべての女性に対して加える危害は、性別による典型的な振る舞いがとる特別な形式が二つの神話を流布させるということである。それは(1)男性の振る舞いは通常略奪的であり、またそれはもともと略奪的なものなのであり、(2)たとえ見かけのうえでは逆らっているように見えても、女性は(まず身体的で感情的であると見なされているから)自然とあるいはすすんで従うものであるという神話である。これらの神話によって永遠のものにされてしまった振る舞いは正常なものと見なされ、性差別主義的だと見なされなくなり、それゆえセクハラとは見なされなくなるのである。

第一の神話によれば、男性は女性よりも強い性的欲求を持っており、嫌がらせは彼らがコントロールできないこれらの欲求のたんなるはけ口なのである。まず明らかにさせたいことであるが、実は女性は男性のするように自分たちの性的欲求をさらけ出さないように社会化されたのであるが、このことは女性の欲求が男性に比べて弱いということを意味しているのではない。マスターとジョンソンは女性の性的要請が男性のそれと同じく強く緊急なものであるということを明らかにしている。しかし、第二にセクハラは男性の性的欲求とは関係がない。それは性的な誘惑に関することでもなく、むしろ女性の抑圧に関わることなのである。実際嫌がらせは一般的に性的満足という結果をもたらすものではなく、それはしばしば嫌がらせをする人間に権力の感覚を与えるものなのである。

第二の神話によれば、女性は嫌がらせを歓迎し要求しているかそのような扱いに価するのである。判例法はこの間違った信念を表している。リプセット対リブ・モラ判決において、原告は医療研修生のプログラムからはずされた。というのも、彼女が彼女の教授からのデートの誘いや、彼女の髪型や脚についての彼の褒め言葉や彼女の個人的な恋愛経験に関する彼の質問に対して好意的に応えなかったからなのである。裁判官は被告に責任なしとした。というのも教授が彼女を描いたみだらなデッサンを見せたときに彼女は、好意的に微笑んで応えていたからであり、彼女が教授をなだめる必要があると思ったときには、性的なニックネームで呼ばれることにも笑って応えたからである。裁判官によれば、「これらの褒め言葉に対する原告の明らかに好意的な反応から判断するなら、決して誰もそれらのコメントが嫌がらせだとは考えない」のである。スヴェンテク対アメリカン航空の裁判官も同様の判断を示した。みだらな発言と身振りによって嫌がらせを受けたフライト添乗員が法的な救済を拒まれた。それは以前彼女が下品な言葉を使って彼女の性体験を公言していたからであった。彼女はこのようなコメントによって気分を害されるような種類の人間ではなく、それらを一般に歓迎して受け入れていたというのが裁判官の結論であった。

女性は男性からの誘いを待っているという考えは、女性の服装についての男性の見方のうちにも見られる。ある女性が男性の基準から見れば、「挑発的に」装っているのであれば、彼女はそのように見られそれに応じた扱いを受けることを待っており、そのような扱われるにふさわしいのである。

これらの二つの神話は、負担を犠牲者とすべての女性に負わせることによってセクハラを容認し、すべての女性に危害を加えるのである。嫌がらせという行為が性差別主義的であると見なされるのではなく、女性が修正するべき問題と見なされるのである。

\section{セクシャルハラスメントの主観的定義と客観的定義}

セクハラのほとんどの定義が、行為が喜んで受け入れられているか、犠牲者を困らせるものであるかという点に言及している、。ブラックの法律辞典によれば嫌がらせは、他人を困らせ、不安にさせ、濫用する傾向のある発言、身振り、行為を記述する語と定義される。雇用機会均等委員会(EEOC)のガイドラインによれば、セクハラを構成する行為は「歓迎されないセックスの誘いや性的嗜好の要求や他の性的な性格を持つ言葉や行為」と定義されている。

歓迎されないことや困らせることという基準は、法廷がセクハラの事例を扱う仕方を反映している。セクハラの主観的説明のうちにあるこうした基準は、女性達が性的に嫌がらせを受けたということを立証するために、負担が犠牲者のうちにあるとする。多くの女性達がこうした行為によって迷惑を被り、怒り、怖れ、罪悪感を感じることから自己嫌悪や自信喪失、アルコールや麻薬の濫用、心臓や胃腸の不調という深刻な副作用を被っているというのは事実である。

多くの女性が嫌がらせの行為によって迷惑しているというのは本当であるけれども、犠牲者が迷惑しているか否かによって、その振る舞いがセクハラであるか否かが決定されるのは間違いであると私は考えている。

まず我々が犠牲者がある行為によって危害を受けるのは、犠牲者が告訴することによってであるか犠牲者のその行為に対する反応を調べることによってであるかを決定しなくてはならないだろう。実のところは、多くの女性は嫌がらせされているということを報告することを様々な理由から非常にためらうのである。それらの理由の第一のものは、その行為を報告することによってよくない結果がもたらされることを彼女たちが恐れるということである。嫌がらせは会社の管理職、社長、学術論文の審査委員など、ある制度において権力を持った立場にいる人間によってなされるというのが実情である。判例を検討し直してみるとわかることだが、不幸なことに多くの女性にとって、彼女たちの恐れは正当なものなのである。彼女たちは解雇され、辞職せざるを得ないような惨めな職場へと追いやられ、教授は不当に低い評価を彼女たちに与えてきたのである。このような結果を恐れるということは、犠牲者達が告訴しないということ、あるいは嫌がらせを受けて数年後に告訴がなされるということを意味している。

さらに、女性達は加害者が罰せられることを望んでいるのではなく、ただそのような行為をやめてもらいたいと望んでいるだけなので、嫌がらせを報告することをためらうのである。彼女らは非難に直面したときの加害者の反応に対応したくないので、告訴しないのである。加害者は「ただ親しくなりたかっただけだ」と主張することができるだろう。彼女らは加害者がまったく簡単に自分の嫌疑を晴らすことができることをしっかりと認識している。そして、セクハラのほとんどが目撃者のいないところで行われる。多くの加害者は計画的にそうするのである。したがって、争点は被害者に対する加害者の言葉ということになる。このことが問題をいっそう複雑にするのであるが、多くの女性は不安で自信なげである。女性の不安な心理は加害者によって利用される。自分が逮捕されたり告訴されることをを恐れる巧みな加害者は、告訴されたときに自己弁護できるようにするためと同時に自分の行為に関して被害者を混乱させるために被害者の便益となることをしようとする。彼らは学生に特別の研究課題を与えたり、テストや本の出版、昇進、昇級などに特別の援助をする。もちろんこうしたことすべては、彼らが嫌がらせをしたか否かということとは無関係であるが、被害者が告訴する可能性をよりすくなくすることが狙いなのである。これらすべてに加えて、女性が告訴した場合に彼女らの訴えの信憑性が(不当に)疑問視されることがよくある。彼女らは「過敏」だと見なされるのである。裁判官の中には、彼女たちはもっと「鈍感になる」べきだという態度を見せる人もいる。このように非難は加害者から犠牲者へと横滑りさせられるのである。こうしたわけであるから、ある女性が訴えることによって自分のためになる反応を得ることが全くない、あるいは実際には自分にとってマイナスの結果しかもたらされないと考えていれば、彼女が訴えを起こす可能性はほとんどないのである。

さらに女性のなかには嫌がらせをそれとして認識せず、それゆえ不平を漏らすことがない人がいる。これはしばしば彼女たちがぶん自身が抑圧されていると言うことに気がついていないからか、実際のところ性差別主義者に特有の的な行為を支持しているからなのである。春休みにフロリダのデイトナ海岸でからかいの言葉をかけられていた女性を私は思い出す。彼女は自分の体が男性達の注意を引いたことに満足げであった。女性は自分たちの最も重要な特質が体であると社会によって信じ込まされているので、かなりの数の女性が自分たちに向けられたからかいの行為に対して満足げであるということは驚くべきことではない。だから、女性達が迷惑を被ったか否かを、彼女たちが迷惑を被ったと発言するか否かということを理由に判断することはできない。

さらに女性の振るまいも彼女たちが危害を被ったか否かを正確に示すものではない。多くの場合女性は、自分たちが加害者を調子に乗せないために彼らの行為を無視しようと努めるのである。自分たちの嫌がらせが効果的であるという満足感を加害者が持たないように、女性達は本当の感情を隠すのである。

女性の振る舞いを彼女たちが危害を加えられたか否かのしるしと見なすことは間違っている。それはそのように考えることが、女性が気にしなければその行為は許されるということを意味するというさらなる理由によってである。この考えによれば、加害者が危害を加えたか否かの判断者になるのである。セクハラは犠牲者への危害が加害者の信じていることとは別に、何らかの客観的な仕方で評価される犯罪とまったく同様にように扱われるべきである。セクハラの事例において、加害者自身が判断者となるこのような権力を男性に与えることは、性差別主義をあらゆる仕方で永続させることなのである。

セクハラの客観的な見解は、主観的な見解に内在する問題を回避している。ここで弁護される客観的見解によれば、振る舞いがセクハラを構成するか否かを決定する際に決定的なことは、犠牲者が困らされているかどうかということではなく、その振る舞いが、犠牲者と彼女の性の構成員が性別を理由に劣ったものであるという態度を表現し、永続させるような実践の一事例であるか否かということなのである。このように考えれば、デイトナ海岸での事例はセクハラの事例ということができるのである。というのは、その行為はそれが女性をセックスの対象という役割へと追いやるという点で男性の女性に対する支配を反映している実践の一事例だからである。

法廷は「合理的人間」基準を喚起することによって、セクハラの客観的観念をある程度は取り入れようとしていた。先に示したように、「雇用機会均等委員会(EEOC)」はセクハラを部分的には、ある個人の業績に不合理に干渉しようとする目的を持つ振る舞い、また結果としてそのような干渉を行う振る舞いと規定している。「不法行為のリステイトメント」は、感情的苦痛を与える意図的危害という不法行為に言及して、いかなる合理的な人間も耐えることが期待できないほど精神的苦痛は深刻であるに違いないと述べている。

様々な事例において、法廷は合理的な人間(あるいは人格)基準を喚起してきたが、それは困らされていない女性がそれでもなお嫌がらせを受けているということを示すためではない。そうではなく、彼らがその基準を使用したのは、たとえある女性がある振る舞いによって困らされたとしても、合理的な人間であればそのような振る舞いによって精神的に危害を受けることはないという理由で、彼女はその振る舞いを大目に見なくてはならないということを示すためであった。ラビデュ対オスセロ・リファイニング・コーポレイション判決において、一人の女性が、会社の同僚の女性一般に対するまた彼女に対するみだらな発言を理由に訴えた。法廷は、「合理的な人間であれば、同様の状況におかれてもそれほど傷つけられることはないであろう」そして「女性はある職業環境において、品のない振る舞いをある程度は覚悟するべきである」と判決を下した。

しかし、男性と女性はセクハラの状況をまったく違ったように知覚するのであるから、合理的な人間基準は機能しないであろう。研究が示すところによれば、男性にとっては相手を喜ばせるつもりの性交渉への誘いが、女性達によって彼女たちを軽蔑した物言いと受け取られるのである。合理的人間基準はセクハラか否かを決定する基準としては成功しないであろう。というのも男女のそれぞれが「合理的」であるものを評価する仕方において見られる不等性が、その客観性に勝るからである。

嫌がらせをする人間の意図がこの最後の話題に関係している。主観的な定義においては、加害者の意図は、犠牲者の困惑の相関物である。私法は危害を加える人間の意図に言及している。犠牲者が勝訴するには、傷害罪においては接触の意図が、暴行罪(他人の身体に暴行を加えるか、加える意図を持つがこれを傷害するにいたらない場合に成立する犯罪)においては犠牲者のうちに心理的な理解を引き起こす意図が、感情的危害の場合には意図や無謀さが立証されねばならない。

しかし、犠牲者の感情がセクハラの判定基準にならなかったように、嫌がらせをする人間の意図は彼の行為がセクハラか否かということとは無関係なのである。先ほど指摘したように、多くの男性は自分の行動が迷惑なものだと見なしていない。彼らはしばしば女性達が自分の発言を楽しんでいると誤って信じてさえいるのである。法廷にかけられた事例を詳しく調べてみることによって、私は次のように信じるようになった。多くの男性は、嫌がらせをする時、女性に対する権力、女性の世界を支配しているという感情を持つのである。こうした感情は潜在的なものであるかもしれないが、それは嫌がらせをする人間を弁護する理由と見なされてはならない。また私がすでに述べたように多くの男性は女性のほうが彼女たちの服装や言動によって、あるいは反抗することなく嫌がらせの行為を受け入れるという事実によって、セクハラを助長させていると信じているのである。これらの事実によって明らかとなることは、嫌がらせをする人間の意図が彼らの刑罰の決定に関係するとしても、それらをある振る舞いや言動がセクハラであるか否かの評価の際に考慮することは、事態を間違った方向へ進行させることになるであろう。私はセクハラの客観的定義を主張している。つまり行動をセクハラにするのは、その行動が一つの見本となっているような実践のうちに反映されているような態度であり、加害者の態度や意図なのではない。

しかし、ある行動がセクハラと見なされるためには、それがある人物に向けられていなければならないという考えは、意図がセクハラの評価に関係するということを示唆しているように思われる。この特質は、セクハラをある特定の人物に向けられた行為と見なすブラックの法律辞典の定義におけるのと同様に私の定義においても明らかである。行為がある特定の個人に向けられたものであるなら、加害者がその個人に危害を加えるために、彼女を意図的に選び出したにちがいないと思われるであろう。

これは間違いであると私は考える。嫌がらせをする人間はその行為が彼に与える力の感情を潜在的に楽しんでいる可能性があり、あるいはその行為を相手を喜ばせる行為であると思ってさえいるかもしれないのであるから、彼の行動は彼の側のいかなる悪意なしに、特定の個人(特定の人間の集団)に向かっている可能性がある。「特定の個人に向けられている」ということによって、私はその行動が何らかの仕方である特定の個人によって観察されているということを意味しているのである。これは例えば、教授の性差別主義的な発言を学生が耳にするとか、従業員がポルノのグラビアを目にすることなどを含むのである。たとえ話者が彼の話が聞こえる範囲に人がいるというを知らないとしても、ある人がその性差別主義的な発言をふと耳にするという事態を含むことができるくらい私はこの一節を緩く解釈するのである。しかし、私は性差別主義的な行動がただ進行しているというたんなる事実(例えば、社長の事務所の隠された部分にポルノのグラビアが張ってあるということを女性従業員は知っている)を排除するようにそれを解釈する。もしこの一節がこうした行為を排除しないなら、たとえそれによって危害を与えられる人が誰もそれを観察しないとしても、この一節はあらゆる性差別主義的な行動についての知識を含まなくてはならなくなるであろう。(たとえば、無人島にばらまかれたポルノ雑誌のように)こうした行為は性差別主義的であるけれども、セクハラを構成することはないのである。

\section{結論:客観的定義に含まれるいくつかの意味}

私が提示したセクハラの客観的定義の一つの意味は、セクハラにおいて権力が作用する仕方を正確に反映していることである。伝統的にセクハラは通常職場や教育制度などにおいて、等しくない力を持つ人間の間に存在すると見なされてきた。大学でのセクハラは教授が学生に嫌がらせをするときにのみ生じ、逆の場合は成立しないと信じられている。多くの嫌がらせが力の等しくないものの間で起こっているのは本当なのであるが、そうした関係においてのみセクハラが生じるということは誤りである。力関係が対等である者、部下や学生など従属的地位にある者も嫌がらせをすることは可能なのである。現在では法廷は同僚間におけるセクハラを認めている。

嫌がらせをする人間が彼の犠牲者に対して権力を持っているはずであるということが正しいのは次のような意味でである。それは男性が集団としての女性に対して社会的、政治的、経済的に力を持っているという意味なのである。これはある特定の男性を選び出し、彼がある特定の女性に対して権力を持っているというように理解されてはならない。それはすべての男性が、男性であることによって持つ権力なのである。セクハラを客観的に定義することによって私がわれわれすべてに理解させることができたのは、このような仕方であらゆる形式のセクハラにおいて権力が存在するということである。セクハラを学校や会社などの制度的な権力の不平等という事例に制限してしまわないことの利点は、すべての犠牲者が保護を与えられるというところにある。

さらにセクハラを客観的に定義することによって、私は犠牲者に向けられる負担と非難から彼女たちを解放したのである。主観的見解によるならば、自分が訴訟に勝つだけ深刻な迷惑を被った、あるいはその行動が自分の仕事を侵害したということを証明する負担を犠牲者の側が負う。嫌がらせをする人間の意図を問題とすることが許される私法においては、彼女はある意味でその行為を喜んで受け入れていたあるいは助長していたのであり、それゆえ嫌がらせをした人間には責任はないことを証明することによって、負担が容易に犠牲者に負わされることになるのである。その行動が一つの見本となっているような実践に注目することにより、私の定義は犠牲者がその行動にある仕方で反応したということを証明することとは関係を持たないのであり、その反応が理由で犠牲者が非難されることは決してないのである。

最後にセクハラを主観的に定義することは、犠牲者自身が法廷にでて訴えねばならないということを意味している。評価されねばならないのは彼女らの反応だからである。しかし、ほとんどの裁判官や裁判に関わる人間が男性であるのだから、女性がそうすることは困難なのである。女性は困惑し、嫌がらせをする人と同じ性に属し、彼女たちが抱える問題を問題と見なさないかもしれない誰かと対面することを恐れているのである。彼女たちは自分たちの声が彼らの耳に届くとは感じていないのである。私の客観的定義によってこうしたことが緩和されることを私は希望している。セクハラを集団に加えられた危害と見なすことによって、女性達は共同原告として互いに助け合い、泣き寝入りという事態を避けることができるのである。行為が向けられた人物がたとえ迷惑をかけられたと感じていなくても、他の女性達がセクハラによって集団として危害を加えられたとして訴えることが可能なのである。

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