んで、「アカデミア」の話なんですけどね。ちょっとだけ追記。
https://yonosuke.net/eguchi/archives/17772 でも書いたのですが、アカデミアが大学教員とその仲間たちの交流の場、という意味であると想定します。んでそのアカデミアがどういう場所であるか、っていう話なんですけどね。
まず上のエントリでも書いたように、現在の(常勤の)大学教員にはあんまりアカデミックな論文を書くインセンティブはないし、ましてや、社会的な問題とかを論じるアカデミックな「業績」にならないタイプの論説を書くインセンティブはほとんどないのです。一部のマスコミに積極的にかかわるタイプの先生たちはちがいますが、それは大学教員のほんの一部だと思います。
なぜそうなるのかというと、それは 大学教員が忙しい から、です。トップ/上位大学ではちがいますが、現在中堅以下の大学の授業負担はけっこうあって、標準的なところで週に最低でも6コマか7コマかそれ以上、10コマという人も少なくないと思います。1週間に7コマなら少ないだろうと言われるでしょうが、1時間半の授業をするために物理的に前後1時間は使いますわね。だから週に6〜7コマやると、週の3日か4日はそれだけでつぶれます。しかし会議や大学の業務も週に数時間はあり、さらには学生の個別の指導などもけっこうあるし、授業教材を作ったりもしなければならないので、1日を自分の研究に当てられる日は 平日にはない 、ってことになってる大学教員がほとんどだと思います。家庭もってる人が土日を家庭のことにあてるとすると、残る時間はまったくない。「大学教員は長い夏休みや春休みがあるだろう!」って言われると思うんですが、その期間の最低半分ぐらいは採点評価や各種の業務でつぶれます。他にも学会の事務とか学会や研究会や、その裏方仕事やなんやかんやでけっこうな時間をとられます。政府や企業の委員会みたいなので働いている先生もいる。残った1年に1ヶ月ぐらいを自分の「研究」に当てて専門の「業績を稼ぐ」ことになるわけです。特別な余裕を与えられている先生以外は、社会問題に関心をもったりしている時間はほとんどないのです(そういう余裕を与えてくれている大学はあることはあるようです)。
ツイッタで社会問題を論じて遊んでいるように見える先生は、確実に、上であげてるうちの なにかを犠牲してします 。それがなにかはその人によります。家庭生活かもしれないし、学生の指導かもしれないし、大学の業務かもしれないし、学会や研究会への参加や裏方仕事かもしれないし、業績かもしれない。身体的健康や精神的健康の場合もあるでしょう。あるいは経済かもしれない。1
さらに、学者にとって、他の学者先生の意見を反駁するのはもちろんのこと、コメントすることでさえとてもたいへんなことです。まず、ふつうは自分の専門分野外のことに口を出すのは侵犯でありマナー違反であり、また知識もないのに勝手なことを言っている、のように評価される場合がほとんどです。基本的には他分野のことは「そういうものなのだ」とそこから学ぶのがせいいっぱいで、批判的に読み考えるなんてことはできない。
さらに、人間関係もあります。大学関係者はそれぞれネットワークでつながっていて、他分野の先生であっても自分の大学の同僚とつながったりしているものです。だからA先生の批判や悪口を言うことは、すぐに身近な人間関係に反映される可能性がある。
さらに、他人の批判を(アカデミックに)することは、たいていの場合、たいへん時間のかかることです。自分の知識はあてにならない。だからいちいち文献やその他の情報にあたらねばならず、アカデミックな論文一本査読するのに数週間かかるのは珍しくありません。(専門に近くなればなるほど査読には時間がかかります。他の学者の批判や論文の査読は自分の知識を疑うことでもあるからです。)
さらには、自分の専門分野に関して他の学者の意見の批判をすることは、さらにたいへんなことです。「学会から追放」なんてことは普通はありません。しかし、専門分野というのは非常に狭い人間関係(専門の人間の人数というのはごく少ないものです、大学教員が自信をもって「 専門 だ」と言える範囲は、せいぜい数人から数十人です)で、だいたい仲良しで「みんなで研究を進めようぜ!」という雰囲気になっている場合がほとんどです。批判はその仲良しに波紋をもたらすことになりますし、またその狭い範囲ではだいたい序列が決まっていて、その序列に挑戦することは、うまくいけば人々から敬意を表されるでしょうが、(学問的に)反撃されると下手すると(学問的に)ほとんど死亡宣告を受けることになることもあるでしょう。
そういうわけで、学者どうしは、アカデミックなかたちでは批判なんかふつうはしないのです。そんなに危険を冒すインセンティブはなにもないです。そんなことができる人々は、学者のなかでも特別に有利な立場にいる人々だけなのです。そんなところに社会的に難しい問題の議論をまかせることはできないのです。
実は、そうした学者どうしのガチの批判が可能になるのは、 ネットその他の一般社会などの外部からの後押しやプレッシャーがある場合だけ なのです。それがなくなれば学者はなにもしません。だから、ネットの自由な言論と評価を抑止することは、アカデミアでの議論を抑止することでもあるのです。私はそうした提案にはまったく乗ることができません。
さらにあたりまえのことを言えば、民主主義ってのは学者がやるものでもないし、大学出た人々だけがやるものではないのです。なぜ民主主義的社会における難しい問題を論じることから、「アカデミック」でない人々が排除される必要があるのか。ネットはすばらしいデバイスです。誰もが自由に自分の意見を言うことができる。自由な言論抜きに民主主義なんか成立するわけがないのです。「学のある」人もない人も、恵まれてる人も恵まれてない人も、上品な人も口の悪い人も、民主主義社会に参加させてください。侮辱や名誉毀損はそれなりに訴えられて賠償すればよい。
- クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (1)
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- クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (7)
- クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (8)
- クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (9) アカデミア追記
脚注:
私がなにを犠牲にしているかは聞かないでください。
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