Ruth Sample (2006) “Feminism, Liberal”, Alan Soble (ed.) Sex from Plato to Paglia, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳。ヤヤネヒロコ・江口聡訳。
https://yonosuke.net/eguchi/material/tr-liberal-feminism.pdf
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\ifx\mybook\undefined \RequirePackage{plautopatch} \documentclass[uplatex,dvipdfmx]{jsarticle} \input{mystyle} \title{リベラル・フェミニズム}
\author{ルース・サンプル\\ややねひろこ・江口聡訳}
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Ruth Sample (2006) “Feminism, Liberal”, Alan Soble (ed.) /Sex from Plato to Paglia/, Grennwood, 2006. https://amzn.to/2QZoQ26 の非合法訳。ヤヤネヒロコ・江口聡訳。
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平等な男女個人の権利と自由を強調し、性差を重視しないリベラル・フェミニズムは、フェミニストの間で最も広く受け入れられた社会・政治哲学である。リベラルフェミニストは、両性が等しい合理性をもつと考え、また、女性の自律的な自己実現を促進できる社会的、家族的、性役割を構築することの重要性を強調する。彼らは、男女間の平均的な違いを強調するよりはむしろ男女間の類似性を強調し、パーソナリティーや性格における性差の大部分は、社会のジェンダー構築に起因すると位置づけている。また、男女双方に向けて、両性具有的な単一の美徳群を奨励する傾向がある。リベラルフェミニストは、〔男女にたいする〕階級的な社会的役割と権利を裏付けしかねないような、性差についての強い主張を拒絶する。しかし一方でリベラルフェミニストは、その他の点では、男女それぞれに良き生(good life)について特定の考え方を奨励することを避け、かわりに、個々人が最も適した生き方を追求するための、より広範な中立性とプライバシーの領域があることを擁護しようとする。リベラルフェミニストは、一部の女性によるある種の選択が、性差別的な慣習によって条件づけられたものだとして疑問視されうる場合があることを認める一方で、マターナリズム(母親主義〔パターナリズムのママ版〕)を避け、また強制や脅迫がないのであれば、そうした選択にケチをつけることを避けようとする。十分に情報を知り、心理的に十分な判断能力をもつ成人女性は、彼女自身の最善の利益の最終審査員たりうると想定されてよい。ゆえに、リベラルフェミニストは、女性の判断を否定する可能性を持つ立法的な介入に反対する。
この観点が優れているのは、それが、政治的リベラリズムの枠組みによく馴染み、たがいに関連はするがそれぞれ異なるさまざまな見解を包摂しうるためである。リベラルフェミニズムは、資本主義や異性愛に根本から挑むこととはない。また、もっとラディカルなフェミニストのように分離主義を推奨することもない。代わりに、リベラルで民主的な社会のあらゆる自由を女性に拡大しようとする。そして、女性に対して法のもとでの平等な保護を与えない社会慣習や、女性を事実上(de facto)差別してしまう法を批判する。リベラルなフェミニストは、強制を伴う理想主義社会のユートピア的ビジョンを拒絶し、むしろ、強制を根絶し、あらゆる市民の自己決定を促進する社会を応援する。
セクシュアリティに関してリベラルフェミニズムは、リベラリズムの伝統に留まり、個人のプライバシーと自主性を重視する。それは時に、性差別的規範の根絶というゴールとの葛藤を抱えるように見える。たとえば、リベラルフェミニストは、商業的な性的活動に関しては、リバリタリアン的、または公衆衛生的な態度を採用する傾向がある。リベラルフェミニストの多くは、強制されることなく売春やポルノグラフィーの製造と消費に参加している人々を犯罪者扱いしたり、または糾弾する呼びかけを拒否している。彼らは、プライバシーの権利を引き合いに出すのみならず、自己決定の本来的な価値を強調することでこの立場を防衛している。リベラルフェミニストは、自分の性的指向、パートナー、そして実践を決定する自由を、法の射程の外にあるものとして擁護する。
リベラルフェミニズムの根は、メアリ・ウルストンクラフト(1759-1797)、ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)、ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858)の著書にある。ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)のような、ウルストンクラフトに先立つ多くの思想家は、男性と女性は種が異なるだけでなく、「自然の階級(natual rank)」において、女性は身体的に知的に、感情的、知的に劣っていると断じてきた(Rousseau 358-61)。男性はより合理的で、女性はより感情的なので、それぞれの教育はこれらの違いを反映すべきであるとされた。ジョン・ロック(1632-1704)のようなごく一部の哲学者は、男女が同じ教育を受けるべきであり、それぞれ子供に関して平等な権利と責任を共有していると主張していた(Some Thoughts, 14; Two Treatises, 303)。しかしながら、これらの思想家は、完全な性的平等(社会的役割にせよ、法的権利にせよ)を十分に擁護することはなかった。また、世界の一部では、一般に性的差異とみなているものが女性が姻関中に自分の所有物を保持する権利や、女性の参政権を否定する法の根拠とされつづけている。
ウルストンクラフトは、『女性の権利の擁護』で、性差として推定されているものの多くはでっちあげまたは誇張であり、男女差別的な権利と役割の根拠として認められないと記している。 男女に異なった教育期待を課すことは、不公平であるだけでなく非生産的であって、「人為的で弱い性格」をもつ、生産性の低い女性をつくりだす傾向がある(103)。 ウルストンクラフトは、男女はともに理性的に考える能力を持っていると主張した。彼女は、合理性を「十分に責任を負うことのできる道徳的な主体として行為する能力」として定義した上で、男女双方が、そうした合理性を高める方向で教育されるべきと主張した。 この思想が実現されれば、そうした道徳的主体は自己実現の機会をえることができ、またそれは社会に利益をもたらす。こうした一連の説明において、女性はもっと合理的になる必要があるとされたが、男性には自分の感情性を育むことは期待されなかった。
ジョン・スチュアート・ミルは、『女性の服従』〔『女性の解放』〕(1869)にウルストンクラフト的なものの見方を反映している。彼は、性役割を、それを正当化する明確な差異などは性別間に存在しないのにも関わらず単に女性であるというだけで、女性をより低い社会的地位に隷属させ、性別を理由に女性に許された範囲内に行動を制限する一種のカースト制として描いた。この慣習は、女性の道徳的発達を阻んでいるだけでなく、自分自身の利益〔幸福〕を追求する自由をもってはじめて手に入る女性の自己実現をも否定しているのである。ミルは、男性と同じ教育と政治参加の機会が与えられた場合、ほとんどの女性は、自分の家族のために家内生活をより良くするために、妻や母親といった立場に留まることを選択すると考えていた(ジョン・スチュワート・ミルのエッセイ「結婚と離婚について:832年」)、エッセイ、76-77;ジェームズ・フィッツジェームズ・スティーブンス(1829年-1894年)のミルへの返信は180-98を参照)。 後にミルの妻となるハリエット・テイラーはこれに同意しなかった。彼女は、女性に十分な教育と政治参加の機会が与えられた場合、投票や慈善事業への参加に留まらず、公共生活により十分に参加することを選択するだろうと主張した。この場合、女性は生産性の高い業界で生きる男性のパートナーになることを選択し、生む子供の数を減らすだろう、とする(ハリエットテイラーのエッセイ「結婚と離婚に関して:1832年」、エッセイ、84-86)。
フェミニストたちは、欧米全体で女性に対する平等を要求しつづけた。それが最高潮に逹したのは、1918年にロシアで、同年に一部のイギリス人女性、1920年にはアメリカの成人女性全員の参政権を実現したときである。アメリカのリベラルフェミニズムは、20世紀半ばに、ベティ・フリーダン(1963-)のベストセラーによって再興された。彼女は全米女性組織(略称NOW、1966-)の初代会長となり、女性活動家にしてジャーナリストであるグロリア・スタイネム(Gloria Steinem)とともに、1979年女性誌『Ms.』の創設者となった。『新しい女性の創造』The Feminine Mystique(1963)で、フリーダンは、女性は「まだ名前が与えられていない」問題を抱えていると主張した(15-32)。米国の女性は、投票権と財産権を持ち、法のもとでの平等な社会的地位の保証を勝ち得ていた。しかし、フリーダンが主張するところでは、米国人女性は、息づまるとまではいえないにしても、満たされない人生を生きている。彼女たちはもうすでに清潔で整然とした家をさらに磨き上げ維持するために多大な時間を空費し、その対価として退屈な時間と不安を抱えていた。フリーダンは、子供たちが学校に通い始めた時点で、それぞれの能力の限界に挑戦し、個人としての満足を提供してくれる勤め先を探すよう、女性に勧めた。女性は子供と共に家庭を楽しむことができるかもしれないが、それでもできるだけ早く、公共生活や雇用労働に進出することで、家庭という領域の外での活動に参加する必要があった。
社会における女性の役割に関するフリーダンの初期のアプローチは、ウルストンクラフトやJ.S.ミルの観点に対しても提出されるある種の反論に対して脆弱である。その反論とはすなわち、このタイプのフェミニズムは、女性の解放それ自体(per se)ではなく、中流からアッパーミドル階級のヘテロセクシュアル白人女性を解放するだけのものだ、というものだ。最初期のリベラルフェミニズムがそうだったように、フリーダンはすべての女性が同じ形の性的抑圧に直面していると誤解していた。フリーダンはのちに、フェミニストの課題として、女性内部での階級差の問題の重要性と共に、セクシュアリティの問題の重要性を認め、自分の初期著作におけるフェミニズムが前述のバイアスに影響されていることを認めることなった(Tong, 26-35)。
フリーダンやスタイネムなどのフェミニストの功績により、公的生活への女性の十分な参加について多くの障害が取り除かれた。アメリカでの女性の雇用機会は拡大し、多くの差別的な法律が廃止され、性別に基づく雇用差別は公民権法第7章(1964)で禁止された。女性は、単に家族のためにではなく、自分自身のためになにかをしてもよいのだと感じ始めた。自律的な自己実現への権利を有する同等の存在として女性に焦点を当てることは、女性にとってより満足のいくセクシュアリティを重視する、自己啓発運動の芽生えとシームレスに繋がっている。『からだ・私たち自身』(Our Bodies, Ourselves, 同名NPOによる冊子、1960年代刊)」は、女性が、自身のセクシュアリティを神秘的で恥ずべきものとみなす観念を拒絶する内容により人気を得た。セクシュアリティは、生殖を目的とするもの以上とは言えないまでもそれと同等に、当事者の性的な満足をも目指すものとしてとらえなおされた。これは、女性の身体と女性の性的快感についての意識を高めるのみならず、レズビアンとバイセクシュアル女性について広く知らしめる内容だった。しかし、多くのフェミニストは、教育と雇用における女性の十分な参加への法的および社会的障壁を取り除くというリベラルフェミニストのゴールが、女性の隷属的地位という問題に完全には対処できていないことに気づいた。特に、二つの課題が残されていた。ひとつは女性の経済状況、もうひとつは家族構造の問題である。リベラルフェミニストたちは、核家族に真っ向から狙いを定めていた。家族内の性役割は、平等の理想に奉仕するための両性具有的なものにならねばならず、両親どちらか一方が、子供を育てること、家庭を維持することの責任を負うことであってはならない。 ヴァージニア・ヘルドは、「母親」が「母親の役をする〔動詞mother〕必要はない」と書いている(243)。
スーザン・モラー・オーキン(1946-2004)は、家族はほぼ女性の抑圧の源でしかないと見なしたフェミニストたちと異なり、西洋の伝統的な家族が消滅する可能性は低いし、救いあげる余地があると主張した。必要なのは、ジェンダー構造化された結婚制度を終わらせることである。理想としては、結婚は平等なパートナーシップとして捉え直されるべきである。どちらの配偶者も家内領域のために賃労働を離れるべきでない。そうしてしまえば、必然的に家庭生活を維持する側のパートナーが不利な地位に置かれてしまう。伝統的な婚姻制度は、女性を低賃金の流動的な雇用形態へ誘導することになり、婚姻中の交渉力を低下させ、離婚時に貧困化することによって、女性を社会的に脆弱な立場に置いてしまう。 女性が、子どもやその他の扶養家族のためのケア提供者になるべきであるという前提は、女性が、自身の最善の利益に反する選択をさせることになる。 男性は同じように不利な状況に置かれることはない(134-69)。 オーキンの議論は、正義と、両性の相対的類似性と、男女に対する平等な配慮と尊重とに、リベラルフェミニストたちがコミットしているということの一例となっている。〔オーキン『正義・ジェンダー・家族』〕
オーキンの意見は、リベラルフェミニズムに根本的緊張があることの顕著な例である。 彼女は伝統的な家族制度が不正義だと主張しているが、それが違法あるいは罰せられることは奨励しない。 代わりに、彼女が提案するのは、片働き世帯においては、雇用者が〔その労働している一方の配偶者の〕賃金を二つに分割し、〔配偶者の二人の〕別々の口座に振り込むという形態である(181-82)。 この解決法の難点と非現実性は、 リベラリズムが、一般にプライベートである──それゆえ「正義」の範囲の外にある──と考えられている問題を取り上げるとき、いかに自縄自縛に陥るかを示している(Cohenを見よ)。 不正義は制度的・法的な救済を必要とするものであるが、リベラルフェミニズムは、その領域でプライベートな生活の問題に公的・法的サンクションによって対応することを嫌う傾向がある。そうした公的・法的サンクションは、その領域においては強制の一形態と見なされるからである。
現代のリベラルフェミニストは、売春とポルノグラフィに反対する。主に、その多くが強制と、自律的ではない選択を伴っているためである。 1980年代、ポルノグラフィの問題が主な関心事として注目を集めた。それは、一部のラディカルフェミニストたちが、ポルノの製造と売春や参加している女性は、家父長制的な背景によって、拒否する自由を持っていないと主張したためである。法学者のキャサリン・マッキノンとフェミニスト作家のアンドレア・ドウォーキン(1946-2005)は、ポルノグラフィー製作者を、ポルノグラフィーの及ぼす被害への民事訴訟の対象とする法案を提出した(「シンポジウム」の「モデル」条例参照)。 マッキノンは、女性をポルノグラフィーや売春に参加させるために、ほとんどの場合、暴力が用いられると主張する。さらに、女性のセクシュアリティは、男性の目的によって奪われ私物化されてきた(「男の女に対する権力とは、男が女を見る仕方が、女が誰になりえるかを規定するということを意味する」197)。そしてそのことが、女性の〔セックスの同意の〕「イエス」が有意味であるために必要な自律性を女性から奪っている。マッキノンはまた、ポルノが「スピーチ」であることを否定し、そうではなくむしろ、ポルノグラフィーが女性の男性への隷属を構成している(constitute)のだと主張した。そうしたものとして、ポルノグラフィーは法的に対処すべきである。さらには、リベラルたちは人々は歴史的、社会的、家族的な遺産のどの側面を自分のものとするか、あるいは拒絶するかを自由に選択できると主張するが、実際には人は「女らしさ」から抜けだすことなどできはしないのだという。別のフェミニスト、たとえばキャロル・ペイトマンは(リベラルフェミニズムには反して)、売春は〔女性の〕セックスではなく支配権を売ることなのだと主張した。売春者はサービスを提供するのではなく、むしろ彼女自身の隷属を売り物にしているのだ。売春における親密な身体性は、それが単なるサーヴィスの販売であることを不可能にする(Contract, 206-7)。このように、リベラルとは対照的に、ラディカルフェミニストは、「健全な」売春の可能性を否定する。もっとも、その多くは売春を違法とすることによる有害な結果も懸念している(Pateman, “Defending Prostitution”; Shrage, 82-87)。
リベラルフェミニストたちは、ポルノグラフィーは、政府のコントロールの範囲外にあるべき表現の一形態だと考えている。彼女たちはまた、その生産に関わるすべての暴力や強要はすでに違法となっていると指摘している。我々の社会では、ポルノグラフィー(または男性のための性的娯楽)の制作に参加することに自発的に同意できる女性はいないのだとの主張は、「女性の自律と尊厳への無関心をはっきりと示している。それは、過去の法廷において、女性がセックスに同意を示していないということは、彼女が強姦されたことを意味しないという判決が下されていたときと同じようなものだ」(Strossen, 189)。さらに、検閲は女性に対する差別への抑止とはならず、市民的自由を侵食するだけである。 マーサ・ヌスバウムはまた、原則として、女性は自分自身を奴隷にせずとも、セックスのために身体を売ることができると主張している。 性的交渉の親密な身体性は、正義の問題には関係しない。強制からの自由こそまさに正義の問題なのだ。
それでも、多くのリベラルフェミニストは売春とポルノに反対している。ポルノグラフィーや売春に従事する女性の多くは、暴力による強制、または支配を受けている。グロリア・スタイネムは、論文「リンダ・ラブレイスの真実」で、映画「ディープ・スロート」(243〜522)で、夫によって性的虐待を強要された女性のケースを記録した。小児期の性的虐待、後の薬物依存症、そして貧困は、イリノイ対性的暴行連合(ICASA)によれば、売春婦および他のセックスワーカー固有の特徴である。しかし、強要されずに自分の選択によって売春やポルノグラフィーに従事する女性については、リベラルたちは、売春を批判する理由がないために、その非犯罪化を求めている。 リベラルフェミニストも、ラディカルフェミニストと同様に、非暴力的な強制(たとえば薬物依存)を含む場合でも、通常はこうした実践を犯罪としつづけることには反対する。これは、犯罪化が売春者やその他の性労働者の状況をさらに悪化させる傾向があるためである(ヌスバウム、pp. 297-98、サンプル217)。商業的な性行為に対して国家が介入するためには、強制が行われれているということは必要不可欠な条件であるが、十分条件ではない。国家の干渉は、強制されている行為者の利益になるものでもなければならない。
リベラルフェミニストは、セクシュアリティに関して「カルチュアルフェミニスト」や「セクシャルラディカル」とは異なった立場をとる。カルチュアルフェミニストは、男女間に本質的な違いがあるとする(文化的であれ、生物的であれ)。彼女らは女性が「男性に同一化した」生活様式を拒絶するべきと提唱する。リバリタリアンフェミニストや「セックスラディカル」は、そうした提唱はしない(Tong, 45-49)。カルチュアルフェミニストは、現在のすべてのセクシュアリティは、それが異性愛的であれ同性愛的であれ、あるいはレズビアン的であれトランスジェンダー的であれ、すべて異性愛男性によって構成され、制御されていると主張する。ゆえに、カルチュアルフェミストは、階層性や支配性を具現化し、複数的(promiscuous、乱交的、無差別的)であるようなセクシュアリティは拒否し、本質的にそうした男性的セクシュアリティと異なる異なった本性に合致したセクシュアリティを持つ女性に力を与えようとする。対照的に、セックスラディカルは、「逸脱的」セクシャリティの在り方は、それが自覚反省的におこなわれれば人々を解放に導くものだと主張する。リベラルたちは、性差別的な社会的役割と規範は存在するにしても、自分のセクシュアリティに関しては自律的に選択できる領域が残っていると主張する。女性は、少なくとも社会的に優勢な性的規範を反省することによって、それをを拒絶することができるという意味で、ある程度は選択の余地がある。多くのリベラルフェミニストは、複数性やサドマゾヒズムを道徳的に疑問があると定義することはもちろん、女性を格下げするものであることも認めない。例えば、リンダ・ルモンチェックは、次のように提案している。「個人の性的なニーズ……は、そうしたニーズに反応してくれる人々のコミュニティによる能動的なケアと配慮によって満たされる」(Loose Women, 107) 。これは、いくつかの性的実践が女性を害したり、格下げすることを否定するものではない。実際、ルモンチェックは同意に基づく実践の一部についても深刻な疑念を提起している。ある、世間的に優勢な文化的風潮において、非人間的な性的物体として扱われることに同意したとき、女性は、女性を道徳的に対等ではない存在として扱う、不正な性規範を永続させることになる。このように女性を物扱いしたり、女性の物扱い(objectification)を黙認する者たちは、基本的にはリベラルフェミニスト的原則に反している。女性と男性は同じように道徳社会の一員であり、同じように敬意と尊重に値するのである(Dehumanizing, 24, 152-155)。
自由主義の原則は性的指向にも及ぶ。ラディカルフェミニストは、あらゆる文化が、「正常な」人間は異性愛者でなければならないと主張する社会規範に違反する女性をいかに厳しく罰してきたかを強調してきた。アドリエンヌ・リッチは有名な1980年のエッセイで、異性愛が女性に強制されていることに注目した。異性愛主義の強権性は、たんに性的なパートナー同士の選り好みではなく、幅広い人生の在り方において無難な選択に拡張されるために危険が大きい。そうした選択とは、結婚(最低でも男性との同居)、出産、子育て、家事中心生活、そして女性の自由と力を制限してしまう女らしさの罠などである。リベラルフェミニストは、われわれの文化がそのような規範を強制していることは認めるが、それでもなお、女性には規範を拒否する自由があると主張し、また、他のセクシュアリティより異性愛を優遇する法制度は不正義であると主張する。異性愛的な制度(結婚など)に参加することを選択した女性や、男性の性的パートナーを選んだ女性も、他の性生活の在り方に対して不利益を与える手段をとらない限り、それだけでは、不正義に加担したとはみなされない(Colker, 146-147)。
一般に、リベラルフェミニストは妊娠中絶の権利を擁護する。1972年、ジュディス・ジャービス・トムソンは、最も有名なリベラルフェミニストによる中絶の権利の擁護論として、「妊娠中絶の擁護」を発表した。彼女は、〔中絶の権利を擁護する上で〕部分的に、自分の生命と自由についての不可侵の権利という広い領域に訴えた──そうした権利は、仮に胎児が、人であることが含意するすべての権利をもつ人であるとしても胎児の権利よりも強い。トムソンは、中絶に反対する現代の議論は、概して胎児の視点にたっており、胎児の生命を維持する女性の視点を完全に無視すると主張した。 こうした女性の視点に反する男性的なバイアスは、女性の人格性と利害の重要性を軽視してしまう。
リベラルフェミニズムは、広く受け入れられているにもかかわらず、左翼・右翼双方に攻撃されている。ある批判は、リベラルフェミニズムは、女性と男性の平等な合理性を強調することによって、暗黙のうちに性差別的な人間の捉え方に依存してしまっている。そこでの人間のとらえかたが、まさにその合理性という観念の中で男性的なバイアスを背負ってしまっている、というものである(Jaggar, 44-45)。客観性という観念もまた、男性的なバイアスの産物だという主張もある(MacKinnon, 120-124)。個別の女性は(男性と同様に)自分たちに文化的に継承されているものから一定の距離をとって、反対すべきであると思われる慣習を拒絶し、新たなでより適切な慣習を採用できる立場にある、というリベラルフェミニストの主張は、こうしたことが正しければ弱体化させられる可能性がある。特に、ポルノグラフィー、売春、サドマゾヒズムについてのリベラルフェミニストの擁護は、これらの行為が自由な選択に基づくとされているがゆえのものであるので弱体化されてしまう可能性がある。もし、合理的で自由に選択する行為者という観念が男性的なバイアスを反映しているとすれば、家父長主義の下で自分のセクシュアリティや自分の性的実践を自由に選択できるという可能性は疑問視されることになる。他には、リベラルは、一部には自己実現を強調することことによって、道具的合理性を強調することがあるが、それは実態としては(男性的な)エゴイズムを合理性の基準とすることに暗黙のうちに加担してしまっており、それによって(女性的な)利他主義や他者に配慮した行為の価値を軽視してしまうという批判がある(Elshtain, 374; Jaggar, 45)。このように、リベラリズムが男性と女性の違いを重要でないと見なすために払ってきた独自の努力は、その尽力それ自体によってほりくずされる可能性がある。リベラルフェミニストは、自律的選択にはたしかに大きな障害があるが、フェミニストによる抵抗の存在が示すように、克服可能であると主張している。また、合理性と客観性の観念が男性的バイアスによるものだとする告発からそれらの観念を擁護しようとする論者もいる(例えば、Haslanger, 239-242)。
フェミニストと非フェミニスト双方から提出されることがある第二の批判は、男性と女性の差異はリベラルたちが認めるよりも大きく、男性と女性を公正に扱うためにはこれらの違いを考慮する必要があるる、というものである。キャロル・ギリガンは、『もうひとつの声』(1982) において、女性は倫理的に困難な問題に対して男性とは違ったしかたで反応する傾向があると指摘した。またカルチュラルフェミニストは、女性は一般に、生きるということについて男性とまったく異なる方法論を持つと主張した。これらの差異が文化的/歴史的な、あるいは生物学的な背景があるとしても、両性具有的な性役割(例えば、家族内における)は、多くの男性と女性にしっくりこない可能性があり、まったく望ましいものだとは言えないかもしれない(Elshtain, 375; Fraser 41-66) 。にもかかわらず、リベラルフェミニストは合理的で自由な行為的主体を、両性具有的な理想として擁護しようとする。その際には、男女間の差異のほとんどは性差別の産物であるか、またはそうした差異があるとしてもそれは差別的な社会的役割を正当化するには十分ではないと主張する。女性と男性は、「彼らの性的な本性』を総計しただけに止まる存在ではない」(Groenhout, 73)
突き詰めれば、リベラルフェミニストは二つの根本的な緊張を抱えている。一つめは、性差別と不平等な処遇を否定することと、女性の地位向上にコミットすることとの間の緊張関係である。リベラルフェミニズムの批判者は、リベラルは性別の違いを否定あるいは無視するがゆえに、真の両性平等を提唱することはできないと主張する。真の両性の平等は、男女の間に違いがあるために、同一の処遇をするということでは十分には促進されずまた達成されないかもしれない。実際、性差の多くはたしかに家父長制の産物であるかもしれないが、女性がそれを選んで身につけなれば、それは逆に女性に不利益となるかもしれない。ナンシー・フレイザーは、「平等を求める戦略は、「男性を基準」(the male as nonn)」としており、それによって女性に不利益を与え、また全員に歪んだ標準(スタンダード)を課すことになる」と述べている(Fraser, 44)。多くの女性は、経済的な大黒柱になることや、公共的市民〔政治家/運動家〕としての役割は、自分の人生の核になるものではないとして拒絶し、代わりにプライベートな領域での養育者であると自らを位置づける。リベラルが女性のために法の下の平等の保障のみを求めるだけでは、女性たちに十分な配慮と尊重を集めることはないだろう。しかし、これ以上を要求することは、自由主義の中立性という原則に反するように思われるのである。
もう一つの緊張は、女性の性的従属が一種の不正義であるという考えと、セクシャリティは自律的選択が行われるべき私的領域に存在するという考えの間にある。 リベラルは、特定の人間にとってのよき生活(good life)について中立たろうとするものであるので、「同意した成人の間で」起こることについては、いかなる場合でも介入を拒否する傾向がある。 しかし、多くの女性が、同等以上の男性との関係にはいることを合意あるいはすくなくとも黙諾している。こうした〔同等〜男性上位の〕関係性は、それが結婚のように制度化されたものであれ、あるいはたとえばサドマドキズムや他の性的な支配関係のように家父長制的異性愛関係を下敷にしたものであれ、平等と正義というリベラルな理念に違反している。しかしながらリベラリズムは、そうした関係をプライベートなものの領域、すなわち正義の射程外に追いやるのである。
平等な男女個人の権利と自由を強調し、性差を重視しないリベラル・フェミニズムは、フェミニストの間で最も広く受け入れられた社会・政治哲学である。リベラルフェミニストは、両性が等しい合理性をもつと考え、また、女性の自律的な自己実現を促進できる社会的、家族的、性役割を構築することの重要性を強調する。彼らは、男女間の平均的な違いを強調するよりはむしろ男女間の類似性を強調し、パーソナリティーや性格における性差の大部分は、社会のジェンダー構築に起因すると位置づけている。また、男女双方に向けて、両性具有的な単一の美徳群を奨励する傾向がある。リベラルフェミニストは、〔男女にたいする〕階級的な社会的役割と権利を裏付けしかねないような、性差についての強い主張を拒絶する。しかし一方でリベラルフェミニストは、その他の点では、男女それぞれに良き生(good life)について特定の考え方を奨励することを避け、かわりに、個々人が最も適した生き方を追求するための、より広範な中立性とプライバシーの領域があることを擁護しようとする。リベラルフェミニストは、一部の女性によるある種の選択が、性差別的な慣習によって条件づけられたものだとして疑問視されうる場合があることを認める一方で、マターナリズム(母親主義〔パターナリズムのママ版〕)を避け、また強制や脅迫がないのであれば、そうした選択にケチをつけることを避けようとする。十分に情報を知り、心理的に十分な判断能力をもつ成人女性は、彼女自身の最善の利益の最終審査員たりうると想定されてよい。ゆえに、リベラルフェミニストは、女性の判断を否定する可能性を持つ立法的な介入に反対する。
この観点が優れているのは、それが、政治的リベラリズムの枠組みによく馴染み、たがいに関連はするがそれぞれ異なるさまざまな見解を包摂しうるためである。リベラルフェミニズムは、資本主義や異性愛に根本から挑むこととはない。また、もっとラディカルなフェミニストのように分離主義を推奨することもない。代わりに、リベラルで民主的な社会のあらゆる自由を女性に拡大しようとする。そして、女性に対して法のもとでの平等な保護を与えない社会慣習や、女性を事実上(de facto)差別してしまう法を批判する。リベラルなフェミニストは、強制を伴う理想主義社会のユートピア的ビジョンを拒絶し、むしろ、強制を根絶し、あらゆる市民の自己決定を促進する社会を応援する。
セクシュアリティに関してリベラルフェミニズムは、リベラリズムの伝統に留まり、個人のプライバシーと自主性を重視する。それは時に、性差別的規範の根絶というゴールとの葛藤を抱えるように見える。たとえば、リベラルフェミニストは、商業的な性的活動に関しては、リバリタリアン的、または公衆衛生的な態度を採用する傾向がある。リベラルフェミニストの多くは、強制されることなく売春やポルノグラフィーの製造と消費に参加している人々を犯罪者扱いしたり、または糾弾する呼びかけを拒否している。彼らは、プライバシーの権利を引き合いに出すのみならず、自己決定の本来的な価値を強調することでこの立場を防衛している。リベラルフェミニストは、自分の性的指向、パートナー、そして実践を決定する自由を、法の射程の外にあるものとして擁護する。
リベラルフェミニズムの根は、メアリ・ウルストンクラフト(1759-1797)、ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)、ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858)の著書にある。ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)のような、ウルストンクラフトに先立つ多くの思想家は、男性と女性は種が異なるだけでなく、「自然の階級(natual rank)」において、女性は身体的に知的に、感情的、知的に劣っていると断じてきた(Rousseau 358-61)。男性はより合理的で、女性はより感情的なので、それぞれの教育はこれらの違いを反映すべきであるとされた。ジョン・ロック(1632-1704)のようなごく一部の哲学者は、男女が同じ教育を受けるべきであり、それぞれ子供に関して平等な権利と責任を共有していると主張していた(Some Thoughts, 14; Two Treatises, 303)。しかしながら、これらの思想家は、完全な性的平等(社会的役割にせよ、法的権利にせよ)を十分に擁護することはなかった。また、世界の一部では、一般に性的差異とみなているものが女性が姻関中に自分の所有物を保持する権利や、女性の参政権を否定する法の根拠とされつづけている。
ウルストンクラフトは、『女性の権利の擁護』で、性差として推定されているものの多くはでっちあげまたは誇張であり、男女差別的な権利と役割の根拠として認められないと記している。 男女に異なった教育期待を課すことは、不公平であるだけでなく非生産的であって、「人為的で弱い性格」をもつ、生産性の低い女性をつくりだす傾向がある(103)。 ウルストンクラフトは、男女はともに理性的に考える能力を持っていると主張した。彼女は、合理性を「十分に責任を負うことのできる道徳的な主体として行為する能力」として定義した上で、男女双方が、そうした合理性を高める方向で教育されるべきと主張した。 この思想が実現されれば、そうした道徳的主体は自己実現の機会をえることができ、またそれは社会に利益をもたらす。こうした一連の説明において、女性はもっと合理的になる必要があるとされたが、男性には自分の感情性を育むことは期待されなかった。
ジョン・スチュアート・ミルは、『女性の服従』〔『女性の解放』〕(1869)にウルストンクラフト的なものの見方を反映している。彼は、性役割を、それを正当化する明確な差異などは性別間に存在しないのにも関わらず単に女性であるというだけで、女性をより低い社会的地位に隷属させ、性別を理由に女性に許された範囲内に行動を制限する一種のカースト制として描いた。この慣習は、女性の道徳的発達を阻んでいるだけでなく、自分自身の利益〔幸福〕を追求する自由をもってはじめて手に入る女性の自己実現をも否定しているのである。ミルは、男性と同じ教育と政治参加の機会が与えられた場合、ほとんどの女性は、自分の家族のために家内生活をより良くするために、妻や母親といった立場に留まることを選択すると考えていた(ジョン・スチュワート・ミルのエッセイ「結婚と離婚について:832年」)、エッセイ、76-77;ジェームズ・フィッツジェームズ・スティーブンス(1829年-1894年)のミルへの返信は180-98を参照)。 後にミルの妻となるハリエット・テイラーはこれに同意しなかった。彼女は、女性に十分な教育と政治参加の機会が与えられた場合、投票や慈善事業への参加に留まらず、公共生活により十分に参加することを選択するだろうと主張した。この場合、女性は生産性の高い業界で生きる男性のパートナーになることを選択し、生む子供の数を減らすだろう、とする(ハリエットテイラーのエッセイ「結婚と離婚に関して:1832年」、エッセイ、84-86)。
フェミニストたちは、欧米全体で女性に対する平等を要求しつづけた。それが最高潮に逹したのは、1918年にロシアで、同年に一部のイギリス人女性、1920年にはアメリカの成人女性全員の参政権を実現したときである。アメリカのリベラルフェミニズムは、20世紀半ばに、ベティ・フリーダン(1963-)のベストセラーによって再興された。彼女は全米女性組織(略称NOW、1966-)の初代会長となり、女性活動家にしてジャーナリストであるグロリア・スタイネム(Gloria Steinem)とともに、1979年女性誌『Ms.』の創設者となった。『新しい女性の創造』The Feminine Mystique(1963)で、フリーダンは、女性は「まだ名前が与えられていない」問題を抱えていると主張した(15-32)。米国の女性は、投票権と財産権を持ち、法のもとでの平等な社会的地位の保証を勝ち得ていた。しかし、フリーダンが主張するところでは、米国人女性は、息づまるとまではいえないにしても、満たされない人生を生きている。彼女たちはもうすでに清潔で整然とした家をさらに磨き上げ維持するために多大な時間を空費し、その対価として退屈な時間と不安を抱えていた。フリーダンは、子供たちが学校に通い始めた時点で、それぞれの能力の限界に挑戦し、個人としての満足を提供してくれる勤め先を探すよう、女性に勧めた。女性は子供と共に家庭を楽しむことができるかもしれないが、それでもできるだけ早く、公共生活や雇用労働に進出することで、家庭という領域の外での活動に参加する必要があった。
社会における女性の役割に関するフリーダンの初期のアプローチは、ウルストンクラフトやJ.S.ミルの観点に対しても提出されるある種の反論に対して脆弱である。その反論とはすなわち、このタイプのフェミニズムは、女性の解放それ自体(per se)ではなく、中流からアッパーミドル階級のヘテロセクシュアル白人女性を解放するだけのものだ、というものだ。最初期のリベラルフェミニズムがそうだったように、フリーダンはすべての女性が同じ形の性的抑圧に直面していると誤解していた。フリーダンはのちに、フェミニストの課題として、女性内部での階級差の問題の重要性と共に、セクシュアリティの問題の重要性を認め、自分の初期著作におけるフェミニズムが前述のバイアスに影響されていることを認めることなった(Tong, 26-35)。
フリーダンやスタイネムなどのフェミニストの功績により、公的生活への女性の十分な参加について多くの障害が取り除かれた。アメリカでの女性の雇用機会は拡大し、多くの差別的な法律が廃止され、性別に基づく雇用差別は公民権法第7章(1964)で禁止された。女性は、単に家族のためにではなく、自分自身のためになにかをしてもよいのだと感じ始めた。自律的な自己実現への権利を有する同等の存在として女性に焦点を当てることは、女性にとってより満足のいくセクシュアリティを重視する、自己啓発運動の芽生えとシームレスに繋がっている。『からだ・私たち自身』(Our Bodies, Ourselves, 同名NPOによる冊子、1960年代刊)」は、女性が、自身のセクシュアリティを神秘的で恥ずべきものとみなす観念を拒絶する内容により人気を得た。セクシュアリティは、生殖を目的とするもの以上とは言えないまでもそれと同等に、当事者の性的な満足をも目指すものとしてとらえなおされた。これは、女性の身体と女性の性的快感についての意識を高めるのみならず、レズビアンとバイセクシュアル女性について広く知らしめる内容だった。しかし、多くのフェミニストは、教育と雇用における女性の十分な参加への法的および社会的障壁を取り除くというリベラルフェミニストのゴールが、女性の隷属的地位という問題に完全には対処できていないことに気づいた。特に、二つの課題が残されていた。ひとつは女性の経済状況、もうひとつは家族構造の問題である。リベラルフェミニストたちは、核家族に真っ向から狙いを定めていた。家族内の性役割は、平等の理想に奉仕するための両性具有的なものにならねばならず、両親どちらか一方が、子供を育てること、家庭を維持することの責任を負うことであってはならない。 ヴァージニア・ヘルドは、「母親」が「母親の役をする〔動詞mother〕必要はない」と書いている(243)。
スーザン・モラー・オーキン(1946-2004)は、家族はほぼ女性の抑圧の源でしかないと見なしたフェミニストたちと異なり、西洋の伝統的な家族が消滅する可能性は低いし、救いあげる余地があると主張した。必要なのは、ジェンダー構造化された結婚制度を終わらせることである。理想としては、結婚は平等なパートナーシップとして捉え直されるべきである。どちらの配偶者も家内領域のために賃労働を離れるべきでない。そうしてしまえば、必然的に家庭生活を維持する側のパートナーが不利な地位に置かれてしまう。伝統的な婚姻制度は、女性を低賃金の流動的な雇用形態へ誘導することになり、婚姻中の交渉力を低下させ、離婚時に貧困化することによって、女性を社会的に脆弱な立場に置いてしまう。 女性が、子どもやその他の扶養家族のためのケア提供者になるべきであるという前提は、女性が、自身の最善の利益に反する選択をさせることになる。 男性は同じように不利な状況に置かれることはない(134-69)。 オーキンの議論は、正義と、両性の相対的類似性と、男女に対する平等な配慮と尊重とに、リベラルフェミニストたちがコミットしているということの一例となっている。〔オーキン『正義・ジェンダー・家族』〕
オーキンの意見は、リベラルフェミニズムに根本的緊張があることの顕著な例である。 彼女は伝統的な家族制度が不正義だと主張しているが、それが違法あるいは罰せられることは奨励しない。 代わりに、彼女が提案するのは、片働き世帯においては、雇用者が〔その労働している一方の配偶者の〕賃金を二つに分割し、〔配偶者の二人の〕別々の口座に振り込むという形態である(181-82)。 この解決法の難点と非現実性は、 リベラリズムが、一般にプライベートである──それゆえ「正義」の範囲の外にある──と考えられている問題を取り上げるとき、いかに自縄自縛に陥るかを示している(Cohenを見よ)。 不正義は制度的・法的な救済を必要とするものであるが、リベラルフェミニズムは、その領域でプライベートな生活の問題に公的・法的サンクションによって対応することを嫌う傾向がある。そうした公的・法的サンクションは、その領域においては強制の一形態と見なされるからである。
現代のリベラルフェミニストは、売春とポルノグラフィに反対する。主に、その多くが強制と、自律的ではない選択を伴っているためである。 1980年代、ポルノグラフィの問題が主な関心事として注目を集めた。それは、一部のラディカルフェミニストたちが、ポルノの製造と売春や参加している女性は、家父長制的な背景によって、拒否する自由を持っていないと主張したためである。法学者のキャサリン・マッキノンとフェミニスト作家のアンドレア・ドウォーキン(1946-2005)は、ポルノグラフィー製作者を、ポルノグラフィーの及ぼす被害への民事訴訟の対象とする法案を提出した(「シンポジウム」の「モデル」条例参照)。 マッキノンは、女性をポルノグラフィーや売春に参加させるために、ほとんどの場合、暴力が用いられると主張する。さらに、女性のセクシュアリティは、男性の目的によって奪われ私物化されてきた(「男の女に対する権力とは、男が女を見る仕方が、女が誰になりえるかを規定するということを意味する」197)。そしてそのことが、女性の〔セックスの同意の〕「イエス」が有意味であるために必要な自律性を女性から奪っている。マッキノンはまた、ポルノが「スピーチ」であることを否定し、そうではなくむしろ、ポルノグラフィーが女性の男性への隷属を構成している(constitute)のだと主張した。そうしたものとして、ポルノグラフィーは法的に対処すべきである。さらには、リベラルたちは人々は歴史的、社会的、家族的な遺産のどの側面を自分のものとするか、あるいは拒絶するかを自由に選択できると主張するが、実際には人は「女らしさ」から抜けだすことなどできはしないのだという。別のフェミニスト、たとえばキャロル・ペイトマンは(リベラルフェミニズムには反して)、売春は〔女性の〕セックスではなく支配権を売ることなのだと主張した。売春者はサービスを提供するのではなく、むしろ彼女自身の隷属を売り物にしているのだ。売春における親密な身体性は、それが単なるサーヴィスの販売であることを不可能にする(Contract, 206-7)。このように、リベラルとは対照的に、ラディカルフェミニストは、「健全な」売春の可能性を否定する。もっとも、その多くは売春を違法とすることによる有害な結果も懸念している(Pateman, “Defending Prostitution”; Shrage, 82-87)。
リベラルフェミニストたちは、ポルノグラフィーは、政府のコントロールの範囲外にあるべき表現の一形態だと考えている。彼女たちはまた、その生産に関わるすべての暴力や強要はすでに違法となっていると指摘している。我々の社会では、ポルノグラフィー(または男性のための性的娯楽)の制作に参加することに自発的に同意できる女性はいないのだとの主張は、「女性の自律と尊厳への無関心をはっきりと示している。それは、過去の法廷において、女性がセックスに同意を示していないということは、彼女が強姦されたことを意味しないという判決が下されていたときと同じようなものだ」(Strossen, 189)。さらに、検閲は女性に対する差別への抑止とはならず、市民的自由を侵食するだけである。 マーサ・ヌスバウムはまた、原則として、女性は自分自身を奴隷にせずとも、セックスのために身体を売ることができると主張している。 性的交渉の親密な身体性は、正義の問題には関係しない。強制からの自由こそまさに正義の問題なのだ。
それでも、多くのリベラルフェミニストは売春とポルノに反対している。ポルノグラフィーや売春に従事する女性の多くは、暴力による強制、または支配を受けている。グロリア・スタイネムは、論文「リンダ・ラブレイスの真実」で、映画「ディープ・スロート」(243〜522)で、夫によって性的虐待を強要された女性のケースを記録した。小児期の性的虐待、後の薬物依存症、そして貧困は、イリノイ対性的暴行連合(ICASA)によれば、売春婦および他のセックスワーカー固有の特徴である。しかし、強要されずに自分の選択によって売春やポルノグラフィーに従事する女性については、リベラルたちは、売春を批判する理由がないために、その非犯罪化を求めている。 リベラルフェミニストも、ラディカルフェミニストと同様に、非暴力的な強制(たとえば薬物依存)を含む場合でも、通常はこうした実践を犯罪としつづけることには反対する。これは、犯罪化が売春者やその他の性労働者の状況をさらに悪化させる傾向があるためである(ヌスバウム、pp. 297-98、サンプル217)。商業的な性行為に対して国家が介入するためには、強制が行われれているということは必要不可欠な条件であるが、十分条件ではない。国家の干渉は、強制されている行為者の利益になるものでもなければならない。
リベラルフェミニストは、セクシュアリティに関して「カルチュアルフェミニスト」や「セクシャルラディカル」とは異なった立場をとる。カルチュアルフェミニストは、男女間に本質的な違いがあるとする(文化的であれ、生物的であれ)。彼女らは女性が「男性に同一化した」生活様式を拒絶するべきと提唱する。リバリタリアンフェミニストや「セックスラディカル」は、そうした提唱はしない(Tong, 45-49)。カルチュアルフェミニストは、現在のすべてのセクシュアリティは、それが異性愛的であれ同性愛的であれ、あるいはレズビアン的であれトランスジェンダー的であれ、すべて異性愛男性によって構成され、制御されていると主張する。ゆえに、カルチュアルフェミストは、階層性や支配性を具現化し、複数的(promiscuous、乱交的、無差別的)であるようなセクシュアリティは拒否し、本質的にそうした男性的セクシュアリティと異なる異なった本性に合致したセクシュアリティを持つ女性に力を与えようとする。対照的に、セックスラディカルは、「逸脱的」セクシャリティの在り方は、それが自覚反省的におこなわれれば人々を解放に導くものだと主張する。リベラルたちは、性差別的な社会的役割と規範は存在するにしても、自分のセクシュアリティに関しては自律的に選択できる領域が残っていると主張する。女性は、少なくとも社会的に優勢な性的規範を反省することによって、それをを拒絶することができるという意味で、ある程度は選択の余地がある。多くのリベラルフェミニストは、複数性やサドマゾヒズムを道徳的に疑問があると定義することはもちろん、女性を格下げするものであることも認めない。例えば、リンダ・ルモンチェックは、次のように提案している。「個人の性的なニーズ……は、そうしたニーズに反応してくれる人々のコミュニティによる能動的なケアと配慮によって満たされる」(Loose Women, 107) 。これは、いくつかの性的実践が女性を害したり、格下げすることを否定するものではない。実際、ルモンチェックは同意に基づく実践の一部についても深刻な疑念を提起している。ある、世間的に優勢な文化的風潮において、非人間的な性的物体として扱われることに同意したとき、女性は、女性を道徳的に対等ではない存在として扱う、不正な性規範を永続させることになる。このように女性を物扱いしたり、女性の物扱い(objectification)を黙認する者たちは、基本的にはリベラルフェミニスト的原則に反している。女性と男性は同じように道徳社会の一員であり、同じように敬意と尊重に値するのである(Dehumanizing, 24, 152-155)。
自由主義の原則は性的指向にも及ぶ。ラディカルフェミニストは、あらゆる文化が、「正常な」人間は異性愛者でなければならないと主張する社会規範に違反する女性をいかに厳しく罰してきたかを強調してきた。アドリエンヌ・リッチは有名な1980年のエッセイで、異性愛が女性に強制されていることに注目した。異性愛主義の強権性は、たんに性的なパートナー同士の選り好みではなく、幅広い人生の在り方において無難な選択に拡張されるために危険が大きい。そうした選択とは、結婚(最低でも男性との同居)、出産、子育て、家事中心生活、そして女性の自由と力を制限してしまう女らしさの罠などである。リベラルフェミニストは、われわれの文化がそのような規範を強制していることは認めるが、それでもなお、女性には規範を拒否する自由があると主張し、また、他のセクシュアリティより異性愛を優遇する法制度は不正義であると主張する。異性愛的な制度(結婚など)に参加することを選択した女性や、男性の性的パートナーを選んだ女性も、他の性生活の在り方に対して不利益を与える手段をとらない限り、それだけでは、不正義に加担したとはみなされない(Colker, 146-147)。
一般に、リベラルフェミニストは妊娠中絶の権利を擁護する。1972年、ジュディス・ジャービス・トムソンは、最も有名なリベラルフェミニストによる中絶の権利の擁護論として、「妊娠中絶の擁護」を発表した。彼女は、〔中絶の権利を擁護する上で〕部分的に、自分の生命と自由についての不可侵の権利という広い領域に訴えた──そうした権利は、仮に胎児が、人であることが含意するすべての権利をもつ人であるとしても胎児の権利よりも強い。トムソンは、中絶に反対する現代の議論は、概して胎児の視点にたっており、胎児の生命を維持する女性の視点を完全に無視すると主張した。 こうした女性の視点に反する男性的なバイアスは、女性の人格性と利害の重要性を軽視してしまう。
リベラルフェミニズムは、広く受け入れられているにもかかわらず、左翼・右翼双方に攻撃されている。ある批判は、リベラルフェミニズムは、女性と男性の平等な合理性を強調することによって、暗黙のうちに性差別的な人間の捉え方に依存してしまっている。そこでの人間のとらえかたが、まさにその合理性という観念の中で男性的なバイアスを背負ってしまっている、というものである(Jaggar, 44-45)。客観性という観念もまた、男性的なバイアスの産物だという主張もある(MacKinnon, 120-124)。個別の女性は(男性と同様に)自分たちに文化的に継承されているものから一定の距離をとって、反対すべきであると思われる慣習を拒絶し、新たなでより適切な慣習を採用できる立場にある、というリベラルフェミニストの主張は、こうしたことが正しければ弱体化させられる可能性がある。特に、ポルノグラフィー、売春、サドマゾヒズムについてのリベラルフェミニストの擁護は、これらの行為が自由な選択に基づくとされているがゆえのものであるので弱体化されてしまう可能性がある。もし、合理的で自由に選択する行為者という観念が男性的なバイアスを反映しているとすれば、家父長主義の下で自分のセクシュアリティや自分の性的実践を自由に選択できるという可能性は疑問視されることになる。他には、リベラルは、一部には自己実現を強調することことによって、道具的合理性を強調することがあるが、それは実態としては(男性的な)エゴイズムを合理性の基準とすることに暗黙のうちに加担してしまっており、それによって(女性的な)利他主義や他者に配慮した行為の価値を軽視してしまうという批判がある(Elshtain, 374; Jaggar, 45)。このように、リベラリズムが男性と女性の違いを重要でないと見なすために払ってきた独自の努力は、その尽力それ自体によってほりくずされる可能性がある。リベラルフェミニストは、自律的選択にはたしかに大きな障害があるが、フェミニストによる抵抗の存在が示すように、克服可能であると主張している。また、合理性と客観性の観念が男性的バイアスによるものだとする告発からそれらの観念を擁護しようとする論者もいる(例えば、Haslanger, 239-242)。
フェミニストと非フェミニスト双方から提出されることがある第二の批判は、男性と女性の差異はリベラルたちが認めるよりも大きく、男性と女性を公正に扱うためにはこれらの違いを考慮する必要があるる、というものである。キャロル・ギリガンは、『もうひとつの声』(1982) において、女性は倫理的に困難な問題に対して男性とは違ったしかたで反応する傾向があると指摘した。またカルチュラルフェミニストは、女性は一般に、生きるということについて男性とまったく異なる方法論を持つと主張した。これらの差異が文化的/歴史的な、あるいは生物学的な背景があるとしても、両性具有的な性役割(例えば、家族内における)は、多くの男性と女性にしっくりこない可能性があり、まったく望ましいものだとは言えないかもしれない(Elshtain, 375; Fraser 41-66) 。にもかかわらず、リベラルフェミニストは合理的で自由な行為的主体を、両性具有的な理想として擁護しようとする。その際には、男女間の差異のほとんどは性差別の産物であるか、またはそうした差異があるとしてもそれは差別的な社会的役割を正当化するには十分ではないと主張する。女性と男性は、「彼らの性的な本性』を総計しただけに止まる存在ではない」(Groenhout, 73)
突き詰めれば、リベラルフェミニストは二つの根本的な緊張を抱えている。一つめは、性差別と不平等な処遇を否定することと、女性の地位向上にコミットすることとの間の緊張関係である。リベラルフェミニズムの批判者は、リベラルは性別の違いを否定あるいは無視するがゆえに、真の両性平等を提唱することはできないと主張する。真の両性の平等は、男女の間に違いがあるために、同一の処遇をするということでは十分には促進されずまた達成されないかもしれない。実際、性差の多くはたしかに家父長制の産物であるかもしれないが、女性がそれを選んで身につけなれば、それは逆に女性に不利益となるかもしれない。ナンシー・フレイザーは、「平等を求める戦略は、「男性を基準」(the male as nonn)」としており、それによって女性に不利益を与え、また全員に歪んだ標準(スタンダード)を課すことになる」と述べている(Fraser, 44)。多くの女性は、経済的な大黒柱になることや、公共的市民〔政治家/運動家〕としての役割は、自分の人生の核になるものではないとして拒絶し、代わりにプライベートな領域での養育者であると自らを位置づける。リベラルが女性のために法の下の平等の保障のみを求めるだけでは、女性たちに十分な配慮と尊重を集めることはないだろう。しかし、これ以上を要求することは、自由主義の中立性という原則に反するように思われるのである。
もう一つの緊張は、女性の性的従属が一種の不正義であるという考えと、セクシャリティは自律的選択が行われるべき私的領域に存在するという考えの間にある。 リベラルは、特定の人間にとってのよき生活(good life)について中立たろうとするものであるので、「同意した成人の間で」起こることについては、いかなる場合でも介入を拒否する傾向がある。 しかし、多くの女性が、同等以上の男性との関係にはいることを合意あるいはすくなくとも黙諾している。こうした〔同等〜男性上位の〕関係性は、それが結婚のように制度化されたものであれ、あるいはたとえばサドマドキズムや他の性的な支配関係のように家父長制的異性愛関係を下敷にしたものであれ、平等と正義というリベラルな理念に違反している。しかしながらリベラリズムは、そうした関係をプライベートなものの領域、すなわち正義の射程外に追いやるのである。
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