翻訳ゲリラ:アラン・ソーブル「エロティック哲学の歴史」のゲリラ訳荒訳

Alan Soble (2009) “A History of Erotic Philosophy”のゲリラ訳です。

某学会でワークショップ「セックスの哲学史」とかってのやるんですが、それの準備してたらうっかりセックスの哲学の第一人者(ハルワニさんは第二人者)アラン・ソーブル先生の「エロティック哲学の歴史」を訳しちゃってました。実はDeepLを試しに使ってみよう、ってんでやってもらったんだけど、まあ今のところまともな出力は出てきませんね。現在のところ試訳っていうかごく荒い訳。

PDFは

rdesign_14129.png https://yonosuke.net/eguchi/material/tr-soble-history.pdf においときます(読めなくなってたら教えてください)。

ソースは https://docs.google.com/document/d/1Gc_od1cKKj5flURZiHmZt96FE18YYwBIxZ37tioQ9Sw/edit にあるので、タイポや誤訳の修正にご協力いただけるとたすかります。コメントつけてください。

現在のソースは以下。


\ifx\mybook\undefined \RequirePackage{plautopatch} \documentclass[uplatex,dvipdfmx]{jsarticle} \input{mystyle} \title{エロティック哲学の歴史} \author{アラン・ソーブル \\ 江口聡訳} \renewcommand{\refname}{参照文献} \begin{document} \maketitle

\begin{center}
\begin{minipage}[c]{\linewidth}
\small
\begin{mdframed}[roundcorner=5pt]
これは、Alan Soble (2009) “A History of Erotic Philosophy”, \emph{Journal of Sex Research}, 49 (3) のゲリラ(無許可)訳である。この文書をレポートで参照・引用する場合は、文献表では以下のように表記すること。

\vspace{.5zw}
\hspace{3zw}\fbox{アラン・ソーブル (2009) 「\thetitle{}」、江口聡訳、講義資料、\number\year{}年\number\month{}月\number\day{}日{}版}

最新版は \url{https://docs.google.com/document/d/1Gc_od1cKKj5flURZiHmZt96FE18YYwBIxZ37tioQ9Sw/edit} にあるので、誤訳の訂正・誤植訂正にご協力を乞う。PDFはしばらく\url{https://yonosuke.net/eguchi/material/tr-soble-history.pdf}に置く。
\end{mdframed}
\end{minipage}
\end{center}

\vspace{1zw} \else \chapter{} \fi \tableofcontents

% ———————————————————––— % この文書はGoogle Docsに本体がある

% 最初DeepLに訳してもらったんだけど使いものにならん。それを修正しております。

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\section{はじめに}

20世紀最後の四半世紀に、哲学の独立した一領域が成立した。複数のセックスの哲学の専門書や論文がこの時期に出版された。このトピックを論じる大学の講義が急増した。アカデミックな哲学者たちが論じた問いには、存在論的・分析的なものが含まれていた。たとえば、「性的活動とは何であるか」や「性的行為をどう定義するか」といったものである。ビル・クリントン大統領が、彼が「あの\ruby{女性}{ウーマン}(モニカ・ルインスキー)とのあいだの性的関係」を否定したという事件のあと、こうした問題は一般人のあいだでも論じられた。アカデミックな哲学者たちは、規範的・評価的な問いにも取り組んだ。たとえば(「倒錯的」なセクシュアリティとの対比で)「自然的な人間のセクシュアリティとはなにか」、「道徳的に正しい、あるいは許容可能な性的行動とはどんなものか」といった問いである。こうした新たな研究の焦点が浮上してきたことは、部分的には、第二波フェミニズムの異性愛政治や性差別に対する批判や、マイノリティ的セクシュアリティに対する法的・社会的受容の拡大と歩みをともにしている。現象学、実存主義、進化論、保守、マルクス主義、リベラル、フェミニスト、多様な神学的伝統の研究にたずわさわってきた学者たちが、セクシュアリティの形而上学と倫理学について多くのことを書いてきた。もっとも、それでもセックスの哲学は折衷的で学際的なものでありつづけており、なんらかの特定のイデオロギー的観念に拘束されているものではない。

特定の存在論的・道徳的問題を研究するだけでなく、研究者たちはセックスの哲学に歴史的にアプローチすることもある。このプロジェクトでは、研究者たちは、過去の重要な哲学者の著述を解明し、ばらばらに散らばった主張の集合のようなものを、首尾一貫した全体として作り上げようとする。あるいは、ある哲学者の思想を調査し、その人が書いた時代や文化の特徴を見極める。あるいは、この歴史を鏡として(あるいはランプとして)使うことで、現代の実践や思想をより明確に、あるいは新鮮に見ることができる。また、ある議論やテーマ、問題(たとえば、性的欲求や性的興奮の本質)を一連の思想家を通してたどり、それが何世紀にもわたってどのように変化し、どのように修正されてきたかを示すという課題もある。セクシュアリティの哲学者たちはこれまで、定義と評価の問題に集中してきた。性の哲学の歴史は、この分野で最も発展が遅れているものだ。

もちろん、人間のセクシュアリティは、学会の場だけでなく、地元の居酒屋や喫茶店でも、延々と議論され、人々が好き放題に議論しているテーマである。このテーマは、プロの哲学者の独占物というわけではない。実際、ショッピングモールの書店に並ぶ光沢カバーのついたたくさんの本は、一般の人々、アマチュア、そしてセクシュアリティに関する進化論的、心理学的、社会学的、神学的思想の普及者によって書かれている。セクシュアリティに関する専門的な哲学的考察と、あなたのお母さんのセックス「哲学」や街の八百屋さんのセックス「哲学」との間に、違いがあるとすれば何だろうか? ひとつの見解は、ソクラテス(紀元前469-399年頃)の精神が、セックスについての本物の哲学的思考について教えてくれているというものである。つまり哲学的思考とは、正確さを重視し、既成の意見に挑戦し、とらえどころのない隠された真理を粘り強く探求するものだ、ということだ。しかし、哲学者でない人の中にもこの精神を示す人がいることは認めなければならないし、伝統的に「哲学者」と呼ばれる人や正式に哲学の訓練を受けた人が必ずしもこの精神を示すとは限らない。

私がこのエッセイで、正統的な哲学者とされる作家に焦点を当ててセクシュアリティに関する哲学史について述べようとしているのは、他の学問分野の貢献を軽視したり、この小さなグループの哲学者たちが生み出したものが、他分野より示唆に富んでいるとほのめかしたりするためではない。問題はその逆かもしれない。「世界を動かしているのはセックスなのか、それとも権力なのか、と問えば、パブは営業時間を過ぎても営業を続けなければならないことになるだろう。私はセックスの哲学史を探求しているが、哲学者だけでなく、他の分野の同胞もセックスについて興味深いことを言っていることを示そうとしている。たとえば、1929年、ジェームズ・サーバー (James Thurber 1894-1961) とE・B・ホワイト (E. B. White 1899-1985) は、20世紀初頭の当時新しかったセックス心理学のパロディである小著(『セックスは必要か?』\emph{Is Sex Necessary?})から、私たちはきっと学ぶことができるだろう。男が結婚を遅らせるのは、次のような理由があるからだと、サーバーとホワイトは観察している。

\begin{quote}
24時間ほど待つならば、いや、もしかしたらもっと短い時間のうちにも、婚約者よりももっと理想的な女性が現れるかもしれない。どんな男でもそんな思いを抱くものだ。男はそうした思いを大いに楽しんでいるものだ。男は、その架空の人物をちらっと垣間見ることがある{\−−}レストランでも、店でも、電車でも。そんな理想的な女性の存在を否定することは、彼女や自分自身、そして婚約者に対して重大な不正義を犯すことになると男は感じているものだ。(Thurber \& White 1975, pp. 96-99)。
\end{quote}

サーバーとホワイトは大哲学者というわけではないが、セーレン・キェルケゴール (S{\o}ren Kierkegaard 1813 – 1855)はそうだ。サーバーやホワイトより100年近く前の『恐れとおののき』(1983, p.91)で、彼は同じように書いている。

\begin{quote}
ひとりの男がひとりの娘と結ばれた、彼はかつてその娘を愛したことがあるのである、というよりもむしろ、かつてほんとうに愛したことがなかった、といったほうが正しいであろう。というのは、いま彼は彼の理想である別の娘を見知ったからである。ひとりの男が人生をふみ迷う、通りは正しかったが、はいった家がまちがっていた、つまり、理想は、真向かいの家の三階に住んでいたのである{\−−}こういうことが文学の課題だと、思われているのである。ある恋する男が思いちがいをする、彼は灯の光で恋人を見て、彼女の髪の毛は黒いと思った、ところがどうだろう、よくしらべてみると、金髪だったのだ{\−−}ところが、彼女の妹、これが理想の女だったこういうことが文学の課題だと人びとは思っているのである。私見によれば、そういう人間は手におえぬしろもので、実人生においてもがまんのならぬ手合いなのだが、それが文学のなかで威張りちらすとあっては、ただちに口笛を吹いて退場してもらいたいものである。(ちくまp.189)
\end{quote}

この二つの「哲学」やアプローチの違いはどこにあるのだろうか?おそらく、サーバーとホワイトが私たち自身を笑いものにしているのに対し、厳粛なキリスト教徒であるキェルケゴールは、私たちの道を踏み外しがちな傾向を軽蔑しきっていることくらいだろう。サーバーとホワイトはまた、長年の難問である、性的に誰かを欲することと、その人を愛することの違い(もしあるとすれば)にも切り込んでいる。

\begin{quote}
どのような人でも、恋愛のある時点で疑問が生じるものだ。「私は恋をしているのだろうか?それとも情熱に燃えがっているのか?」 これは不穏な質問である。手紙の書き出し、抱擁の最中、田舎での一日の終わりなど。もしその人が、直接的で、単純で、肯定的な答えを返すことができたとしたら……説得力を持って「私は恋をしています」と言えたとしたら……、「これは愛ではない、情熱なのだ」。これほど単純な返事にたどり着ける人はほとんどいない。(1975, p. 62)
\end{quote}

他の多くの学者の中でも、現代の哲学者J・マーティン・スタッフォードはこの課題に挑み(ただしさしてユーモアはない)、「単純な答」をもって情熱と愛を対比している。すなわち、愛は特別な\ruby{愛情}{アフェクション}であり、長期的な\ruby{気遣い}{ケア}や\ruby{配慮関心}{コンサーン}を伴う行為であり、最愛の人と(そしてその人とだけ)上質な時間を過ごしたいと思うことを含む。一方、性的欲望は場所や時間を問わず満足を求める単なる\ruby{欲}{アピタイト}であり、他の人々に対する善意については何も暗示しない(Stafford 1995, p. 58; Lesser, 1980も参照)。おそらくこの安直な答えが正しいのだろう。もっとも、サーバーとホワイトはこのような概念的な分析や定義ではなく、愛と性欲の現象的な感覚(それはしばしば区別できないものであることを彼らは示唆している)に関心を持っている。また、哲学者の中には、性的欲望は通常愛と結びつけられる博愛を生み出す能力を持っているのだろうかと考える人もいるだろうし、愛はその性質上、性的欲望よりも不変的で排他的であるというのは本当に正しいのだろうかと問う人もいるだろう (Soble, 1990)。

もうひとつ例を挙げよう。アイリス・マードックは正式には哲学者として訓練を受け、キャリアの初期には正統派の哲学書を書いたが、その後小説に転向して大成功を収めた。マードックはセックスの大哲学者の一人に数えられるべきだろうか? おそらくそうするべきだろう。もっともその場合は、マードックの小説がとりわけ哲学的ではあるとは言えるが、他の小説家、たとえばフィリップ・ロスやドリス・レッシングがそのエリート・グループに入ることも許されることになるだろう。『黒の王子』 (\emph{The Black Prince}, 1974、pp. 216-17) の一節を見てみよう。そこには、彼女の主人公ブラッドリー・ピアソン(60代のインテリで、40歳年下の女性との愛、あるいは欲望に溺れている)の内省が書かれている。

\begin{quote}
真の愛の永遠性が、報われぬ片思いさえも喜びの源となる理由のひとつである。人間の魂は永遠なものを切望している。宗教の神秘を除けば、愛と芸術だけが永遠なものを垣間見せてくれる。愛は、無私のヴィジョンをも見せてくれる。プラトンは正しかった。プラトンは愛する少年を抱きしめることで、自分は「善」への道を歩んでいるのだと考えた。無私の「ビジョン」と言ったのは、私たちのごたまぜの性質は、いかなる願望の純粋さも簡単に劣化させてしまうものだからだ。しかし、このような洞察は、たとえ断続的なものであっても、あるいはたとえ一瞬のことであっても、それは特権であり、それが私たちを訪れる強さゆえに、永続的な価値を持ちうるのだ。……この自己からの解放を足場にして、それに住みつき、拡大していけば、やがては、ついには自分自身でないものすべて望むことができるのではないだろうか、それがプラトンの夢だった。
\end{quote}

教訓は、私たちが性の哲学の歴史を探求する際に、文学に注意を払うことは悪いことではないということである。マードックが提起した心理学的な問題{\−−}彼女の登場人物は犠牲者であり、かなえられない愛着を合理化するためにひどい正当化をおこなってしまっているのではないか{\−−}は、精神分析家にまかせておくことにしよう。 \section{古代ギリシア}

西洋におけるセクシュアリティの哲学的議論は、狭義にはプラトン(前427-347年)から始まったが、詩人サッフォー(前610-580年頃)を軽視すべきではない。サッフォーの思想は、後に登場する哲学者たちにも受け継がれている:

\begin{verse}
あの殿方は神にも等しいお方 \\
あなたの真向かいに座って\\
美しい声を聞けるのですもの\\
蠱惑の微笑み想えば心溢れ\\
垣間見るあなたの姿に私は\\
声さえ出せません\\
舌は粉々に砕け\\
細い炎が身に忍び寄り\\
目も見えず耳は高鳴り\\
冷たい汗に被われ\\
震えが止みません\\
草よりも蒼ざめて、もう死も近いと\footnote{石田啓訳。石田啓 (2001) 「詩論の変貌:サッポー断片31番とカトゥルス、エリティス訳の比較」、『プロピレア』、第13号より。}
\end{verse}

サッフォーは、美女を見ることによって舌はもつれ、エロースによってぐでんぐでんになり、狂わされる。性の哲学の歴史において、このテーマにはしばしば出くわす。エロースはいつの時代もどこの場所でも不合理な行動を引き起こす。なぜアメリカ大統領は性体験を求めてホワイトハウスをこそこそ歩きまわっていたのか?なぜ美女ヘレネーは、家族も子供も夫も捨てて、ハンサムなパリスと駆け落ちしたのか(それともヘレネーは誘拐されたのだろうか? ホメロスの『イーリアス』第3巻を参照)?。なぜマードックの登場人物ブラッドリー・ピアソンは、エロースによって口が聞けなくなったわけではないとしても、彼の若いエンジェルが最近立っていた絨毯に膝をついてキスをしたのか?

プラトンの対話篇『饗宴』は、エロースについて考察している。エロースを、プラトンは「善と美を所有しようとする情熱」と定義した。この『饗宴』は挑発的で豊かな内容であり、性の哲学を研究する上で欠くことのできない基礎となっている。エロースを擁護する偉大な異教徒であったプラトンだが、性的衝動には必ずしも優しくはなかった。彼の著作には、後のキリスト教における性への反感のルーツが含まれている。例えば、プラトンが対話篇『シンポジウム』の中で述べている、粗野な(あるいは低俗な)エロースと天上的な(あるいは精神的な)エロースの区別は、パウサニアス(フロイトの言葉を借りれば「劣った対象であっても敬う」ことを厭わなかった)によって最初に言及され、巫女ディオティマ(彼女はそれを厭わなかった)によって装飾されたものである。低俗なエロースとは対照的に、天上のエロースは、淫らさ、欲望、淫らさがない(『饗宴』181c-181d, 185c, 209b-210c)。天上のエロースでは、「恋する人とその(精神的に美しい)愛する相手は、……美徳を中心的な関心事とする」。プラトンの『国家』(403a – 403b)において、ソクラテスはグラウコンに、「正しい種類の愛においては……性的な快楽が入り込んではならない……もし彼らが正しい方法で愛し愛されたいならね」と述べている。性行為に対する同じ拒絶反応は、プラトンもその複雑な対話『パイドロス』 (256b-256c) において示している。そこでは、彼の代弁者であるソクラテスは、本物の恋人たちのペアは、美徳を追求するものだと主張している。意志の弱さ(アクラシア)に打ちのめされたり、一杯の葡萄酒によって抑制が利かなくなったりしたときにのみ、彼らはセックスに及ぶのである

\begin{quote}
もし両者の心の中のより良い要素が勝利を収め、それが彼らに与えられた哲学の養生法を守らせるのであれば、彼らの地上での生活は……至福のものとなる。一方、野心を抱いて低俗な生き方をすれば、自分自身をコントロールできなくなる。哲学の代わりに、酒を飲んで油断したとき、あるいは他の理由で油断したとき、二人の馬の躾のなっていない馬が彼らの魂を油断させ、普通の人なら最も幸せな選択だと思うような行為を一緒にしてしまう。[a]
\end{quote}

知識と卓越性こそが目標であるべきで、刹那的で散漫な肉体的満足が目標であるべきではないのだ。プラトンは『シンポジウム』でも『パイドロス』でも男女の愛や友情を賞賛しており、『パイドロス』における男女の性愛に対する反論は、その不自然さに根拠があるわけではないようだ。むしろ、いかなる性愛も美徳を追求することよりも価値が低い。性交による子供たちには、知的な言説による子のような実体も不滅性もない。後にキリスト教の聖職者たちは、同じ理由で女性と結婚を軽蔑した。

プラトンは、セクシュアリティが権力や自律性と結びついていることに敏感であったため、セクシュアリティについても心配していた。性についての彼の考えは、やがて20世紀におけるセクシュアリティの政治的・医学的議論の中心的課題となった (Gould, 2006; Price, 1989; Santas, 1988; Soble, 1996, pp.146-148)。プラトンは、性的快楽の追求が人の行動や人生に及ぼす強力な支配力、時には絶対的な主権さえも嘆く。私たちは情熱の奴隷となり、他者に従属するようになる。それは自由、ひいては幸福な人生に対する明確な脅威である。パウサニアスは『饗宴』(183b)の中で、「愛を追い求めるあまり、……恋する人は多くの奇妙なことをする」と指摘している。 彼は祈り、懇願し、嘆願し、誓うことがある、そして、戸口の筵の上に横たわり、どんな奴隷よりもひどい奴隷の身分に耐えるのだ」。ソクラテスも同様に、次のように述べている(『パイドロス』252a)。

\begin{quote}
恋する人の魂は、大切な美しい人を決して忘れることができない。自分の財産をないがしろにし、それが失われても何とも思わない。以前は自分を誇りとしていた生活の規則や礼儀を、今では軽んじ[b]るようになってしまう。
\end{quote}

私たちは、マーク・トウェイン (1835-1910)の『トム・ソーヤー』やジュゼッペ・トルナトーレ監督の1988年の映画『ニュー・シネマ・パラダイス』で描かれる、エロース(たとえば美としての『トム・ソーヤー』の)ベッキー)に触発された思春期の愚行を笑うことができる。また、現在のアメリカのテレビ番組が、不倫の性的情熱の力を全力で見せつけようとしていることを、私たちは冷笑的に許してやろうという気になる。しかし、トーマス・マン (1875-1955) の『ベニスに死す』における強迫的で破壊的な欲望(美としてのタッジオ)は身につまされることがあるだろう。 アリストテレス(前384-前322)は『ニコマコス倫理学』(第8、9巻)の中で、ピリア(友愛)について長々と考察している。そこでは、本当の友愛は、たがいの善を望むものだ、すなわちたがいの美徳が促進されることを望むものだと主張されている。アリストテレスが道徳的・心理学的な人間関係に関心を寄せていたことを考えれば、彼がセクシュアリティについてほとんど述べていないことは驚くべきことである。しかし、アリストテレスのテキスト群には注目すべき箇所がいくつかある (Sihvola, 2002)。アリストテレスは性欲を\ruby{欲}{アピタイト}として理解し、食べ物や飲み物に対する欲と類似したものとしている。哲学史上の他の人々(アウグスティヌスやカント)もまた、性欲と飲食欲を同種のものであり、動物的な欲であるとして混同していた。古代ギリシア人以降、多くの哲学者や神学者も同様に、人間の性欲を、心と肉との間の分断において、いかがわしい物質的な側に置くという見方を受け入れた。しかし、後述するように、これに反対する人々もいた。

アリストテレスは「中庸」の倫理学でもよく知られている。「節制」の徳は、とりわけ飲食や性欲をコントロールすることに関係している (Geach, 1977, pp.131-149; Halwani, 2007)。理性の導きがなければ、欲を満たすことは有害となりうる。欲望への過度な関心は、獣的で品位を下げるものである。なぜなら、欲望は、理性的な存在としての人間ではなく、動物としての人間に属するものだからである。節制的な人々は、欲の充足において過剰と不足の間の「中庸」を発見し、大食いも飢餓も避ける。しかし、アリストテレスは、「(性的な)快楽に関しては、不足の側に位置してしまい、適切な量より少ない喜びを得ることは、あまり起こらない」と主張する。「そのような鈍感さは人間的ではない」(NE1119a6-7)のである。つまりアリストテレスは、性的な欲望や活動が少なすぎることよりも、多すぎることによって徳が損なわれることの方を心配しているのである。性欲が自律性と幸福を損なうというプラトンの懸念は、ここで実を結ぶ。実際、性行為を控えることは、節度を欠く違反行為であるどころか、やがてキリスト教において「貞潔」という聖徳となる。(20世紀後半、アメリカ精神医学会はこの見解を覆し、「性欲減退」(hypoactive sexual desire)を精神的疾病であると分類した (DSM-IV 302.71)。しかし、「過剰性欲」(hyoperactive sexual desire)については疾病とはしていない{\−−}DSM- III-R (1980, p. 296)で「性依存」という概念を短期間使用したことを除いては。

\section{中世の神学}

古代人に続いて、聖アウグスティヌス (354-430) はセックスの哲学に現在まで続く影響を与えた。プラトンがそうであったように、アウグスティヌスは、性欲が個人の平和と自己支配にもたらす脅威を嘆いた。「(性的な)欲望は、身体全体および外に出ている局部を掌握してしまうだけでなく、内面でも感じられるようになる。……この快楽は非常に占有的なものであり、それが最高潮に達する瞬間には、すべての精神活動が一時停止してしまうほどである」(『神の国』14巻16章)。ユダヤジョークにあるように、ペニスが硬くなると脳は窓から投げ出されてしまう(あるいは、「ペニスが硬くなると脳はぐずぐずになる」(Silverstein, 1984, p.35))。神の恵みによってのみ、私たちは性欲をコントロールすることができる、とアウグスティヌスは言う(『告白』第10巻第29章(著作集5巻147-8頁)。アウグスティヌスはしばしばセクシュアル・リベラリストによって\ruby{鞭打たれ役少年}{ウィッピングボーイ}とされてきたが、それには理由がないわけではない。次の「セックス否定論」を考えてみよう。

\begin{quote}
人は、情欲の激しさを制御し、その手綱を緩めないならば、情欲の悪を善用していることになる。手綱を緩めてよい例外は、子孫を意図しており、情欲を肉体による子供の生殖のために制御し用いるときのみであり、下劣な隷属状態にある肉に精神が隷属することになってはならない。(\emph{On Marriage and Concupiscence}, bk. 1, chap. 9)
\end{quote}

さらに、アウスグチヌスが、快楽のためだけに行われる夫婦の性的活動について、こうした行為においては妻は男の遊女となり、男は妻の姦淫の愛人となると書いているのも悪名が高い。(同上、第1巻17章)。

アウグスティヌスはどのようにして彼の哲学に到達したのだろうか? 4世紀後半から5世紀初頭にかけて、キリスト教には三つの学派が存在していた。第一に、聖ヒエロニムス(340/42-420、ローマで教育を受け、聖地で禁欲隠者となり、ヴルガータ聖書を著した)の右派急進主義。第二に、ペラギウス(354-420/440年頃)の左派急進的な弟子たち、たとえばエクラヌム司教ユリアヌス (386-455)、修道士ヨヴィニアヌス(406年頃没)は、結婚が貞節と同じくらい聖なるものであり、イエスを産んだことによってマリアは処女性を失ったと主張したため、シリキウス (334-399) によって破門された。第三に、中道派のアウグスティヌスおよび387年にアウグスティヌスに洗礼を授けたミラノ司教の聖アンブローズ (337/340-397) である (Clark, 1986, 1996; Pagels, 1988; Ranke-Heinemann,1990)。

論争の争点は「アダムとイブは堕落の前に性的関係を持ったのか?」ではなかった。創世記の沈黙を根拠にして、コンセンサスははっきり「ノー」だった。そうではなく、屈折した仮想的な問いが熱く論じられたのである。すなわち、「もしアダムとエバが堕落しなかったとしたら、彼らはエデンで性交渉を持っただろうか?」あるいは(ほとんど同じ問いだが)、「もしアダムとイブがエデンにもっと長くとどまったならば、いずれセックスすることになっただろうか?」、あるいは、「仮に彼らがセックスしていたとしたら、彼らの性的関係はどのようなものだったのだろうか?」といったものだった。すべての関係者が前提としていた神学的方法論は、キリスト教的性倫理を構築するためには、まずはアダムとエバの堕落前のセクシュアリティを理解しなければならないというものだった。それができれば、堕落後の人間がなすべきことは、アダムとエバを模倣することである。

ヒエロニムスは、アダムとイブが堕落していなければ、セックスをすることはなかっただろうと主張した。すべてのセクシュアリティは堕落の結果であり、人間が堕罪後の堕落した本性によって汚されたものである。セックスは神の人間に対する計画の一部ではなかった。すると、理想的には、私たちはセックスを控えるべきだということになる。聖パウロ(5-64年頃)の手紙「第一コリントの信徒への手紙」第7章に同意するヒエロニムスは、神の台本ではいずれ消滅する運命にある俗世の人間の消滅を恐れることはなかった。ヒエロニムスにとって、死後の結婚の利点は、教会のために処女を生みだすことであった。「処女性と結婚の関係は、木とその果実の関係のようなものである」(\emph{Against Jovinian}; Schaff, 1892, p.347)。アダムとエバはエデンの園ではセックスをすることはなかっただろう、なぜなら彼らは不死であったからである。創世記1:28の「実を結び、数を増やせ」という戒めは、神が動物たち(1:22)に命じたものだが、ヒエロニムスによれば、神がアダムとイブに告げたのは別の意味だった。つまり、霊的に実を結び、美徳を増大させよ、という意味だったのである。

アウグスティヌスは、創世記1章28節は、アダムとエバが霊的に実を結ぶべきことを部分的に意味しているとヒエロニムスに同意した (Clark, 1986, p. 149)。おそらくそれはプラトンの意味で、である。しかしアウグスティヌスは、神はアダムとイブがエデンでセックスし、子供を持つことを望んでいたとも考えていた(『神の国』第14巻第21章)。彼は、不死の親が不滅の子を産み、不死の子を産むことが、楽園の無限の富のために人口問題や環境問題を引き起こすことを懸念していなかった。(パウロ6世[1897-1978]も、1968年の回勅「人間の生命」 (\emph{Humanae vitae}) で避妊の禁止を改めて強調したとき、このことを恐れていなかった)。それに、なぜ神はイブを創造したのだろうか? つまり、マーク・トウェイン (Twain 2000)が考えたように、「なぜアダムがいっしょにバスケットボールができるような別の男でなく、イブだったのか?」ということである。アウグスティヌスは、神がアダムとスティーブではなく、アダムとイブを造られたことの明白な意味を理解した。イブはアダムの伴侶としてだけでなく、人間の子孫繁栄のためにも創造されたのだ(本当に賢明な神なら、イブに、子宮とともに、バスケットボールをプレイしてフックショットを打つ能力も与えただろうが)。

そこでアウグスティヌスは、ヒエロニムスに反して、堕罪前のアダムとエバはセックスをしていただろうと主張した。神は、理想的な状態においてセックスが存在することを意図していたのであって、堕罪後の堕落した状態においてのみセックスが存在することを意図していたのではない。堕罪後に出現したのは、セクシュアリティそのものではなく、霊的に病んだセクシュアリティであり、結婚生活において生じる性欲でさえ霊的には病んでいる。堕落後のセクシュアリティの、人を駆り立て奴隷化してしまう性質、その快楽への強い要求、そしてその失敗に伴う不満足は、アウグスティヌスにとって、アダムとイブ(そして全人類)が神に背いたために受けている罰の一部なのだ。アウグスティヌスは、自らの人生からこの天罰の苦しみを味あわせてくれる。

\begin{quote}
私はカルタゴに来た。すると、わたしのまわりの至るところに、密かな恋の\ruby{大鍋}{サルタゴ}が煮えたぎっていた。私はまだ愛してはいなかったが、愛することを愛していた。……愛し愛されることは、私にとっては甘美であり、愛されるものの身体を享楽することが、できればなおさら甘美であった。そういうわけで、友情の和泉を汚れた肉欲で汚し、その輝きを色欲の闇をもって曇らしていたのである。……私は愛されて、享楽の鎖につながれるようになり、そして嫉妬、猜疑、恐怖、怒り、争いなどの燃える鉄の杖で打ち倒されるまえに喜んで苦しい縄目にかかっていたのである。(告白』第3巻第1章)。
\end{quote}

アウグスティヌスは、最終的には人びとはセックスと生殖を控えるべきだと考えたが、それは堕罪の直後からではなく、適切な数の聖徒が誕生した後のことだと考えていた。そして彼はキリストの時代までにはそうなっていたと考えた。ヒエロニムスとは異なり、アウグスティヌスはアダムとエバが堕罪前にセックスをしなかったことを説明しなければならなかった。彼は、二人は創造されたのち、あまりに早くに禁断の木の実を食べてしまったために、セックスをするようになるには十分な時間がなかったと想定した。また彼は、「実を結べ」という神の命令は、それが成就する特定の時期を特定していないことに注目した。

堕罪の重要な結果は、肉が意志よりも優位に立つようになったことだ。アダムとイブが神に反抗したように、肉は人間の精神に反抗する。アウグスティヌスが反抗的な肉の勝利の例として挙げるのは、男性は勃起したいときに勃起できないことが多く、そうした男性は欲望に燃えあがってしまうので悲惨なことである。また、男性は勃起したくないときに勃起してしまうことがあり、それは自分の器官をコントロールすることができないために恥ずかしいことである(『神の国』第14巻第16章、OM, bk. 1, chap. 7)。プラトンの自律性に関する懸念を反響するように、アウグスティヌスは、「従順でない肉体の新たな乱れ」を羞恥の源として嘆いている(『神の国』, bk. 13, chap.13)。EDは精神医学的、医学的な障害ではなく、精神的な障害なのだ。

アウグスティヌスはペラギウス派との戦いにはさらにエネルギーを必要とした。ユリアヌスは、堕罪前のアダムとイブがセックスをしたであろうということには同意した。しかし彼は、二人の相互の性欲について、別の(現代人から見れば健全な)イメージを描いている。それは無邪気で、神に祝福されたものであり、二人の関係の「活力の火」だったというのだ (Pagels, 1988, p. 141)。アダムとイブは子孫繁栄とセックスの快楽の両方を喜んだことだろう、と。ユリアヌスにとって、堕罪後のセックスに起こることは、それが存在するようになること(ヒエロニムス)でも、堕落した情欲になること(アウグスティヌス)でもなく、不倫、乱交、売春といった今日の私たちを悩ませるものに悩まされることなのだ。ユリアヌスは、性行為は(堕罪前のアダムとエバのように)忠実な異性間の結婚に限定されるべきであると考え、それ以外の性行為を否定した。しかし、結婚生活内では、夫婦は罪悪感も遠慮もなく、できる限り刺激的なセックスをしてよい。彼の結論は、例えば不倫の芽を摘むような「罪に対する救済策」(1コリント7:5)として成功させるためには、夫婦の性行為は可能な限り満足のいくものであるべきだという聖パウロの司牧的助言に触発されたのかもしれない。(ジョン・ミルトンの『失楽園』では、アダムとイヴの性的関係は祝福されたものであり(Milton 2000, bk. IV, line 509) 、悪魔は、おたがいの腕のなかで幸福を味わう二人を「嫉妬に満ちた眼差しで悪戯に見た」ほどとなっている。)

アウグスティヌスはユリアヌスとは意見が異なる。堕罪以前は、心がしっかりと支配権を握っていた。アダムのペニスは、まるで腕を持ち上げるかのように、彼の意志的な(神のような)命令によって勃起したのだ (COG, bk. 14, chap.16)。アダムは、のちの世にマスターズとジョンソンが指摘することになる性機能障害に苦しむことはなかった。しかし、イブの体を見たり、匂いを嗅いだりしても勃起はしなかっただろう (COG14巻10章)。エデンでのセックスには、刺激的なくすぐりあいも、夫婦間の誘惑も、ムードを盛り上げるためのダンスもなかっただろう。

\begin{quote}
罪がある前に、すでに罪があったはずだという考えは捨てよ。私たちの主が私たちに戒めておられる罪そのものを犯したのだ。(マタイ5:28) 幸せなことだ。私たちの最初の両親がそうであったように、彼らは精神的な動揺に悩まされることもなく、肉体的な不快感に悩まされることもなかった。(COG14巻26章)[c]
\end{quote}

堕罪前のセックスは、意志によってコントロールされた平静な心で行われるため、「これらの器官は、情熱や誘惑の微妙な感覚なしに……動かされたであろう」(COG14巻26章)。情熱がなかったのだから、セックスの興奮や快楽もなかったはずだ(堕罪前の人間が知るところでは)。そう、進化前のアダムとイブは、「増えよ」という神の命令を果たすために、神への愛からセックスをするべく決断したのだ。( 女王のことを考え、帝国の栄光のためにそれをするように。)しかし、堕罪前のセックスは、他の自発的な身体の動き( 握手やハグ)と同じ程度の快楽しかなかっただろう{\−−}エデンの園にはエクスタシーの「オーマイッガッ!」なんてものは存在しない。

アウグスティヌスのセックス哲学は、彼の説いた堕罪前のセクシュアリティによって説明されており、それは人間が真似るモデルとなる。セックスは結婚関係に限定されなければならず、その唯一の目的は生殖であり、配偶者たちは性的な快楽をそれ自身のために追求してはならない。アウグスティヌスはアレクサンドリアのクレメンス (150ごろ-215)から恩義を被っている。クレメンスは、結婚生活における性行為は生殖のために行われる場合にのみ有徳であると考えた(「アレクサンドリアの規則」) (Pagels, 1988, p. 29, Stromata 3:57-58より引用)。結婚しているカップルは、セックスに伴う快楽を最小限に抑えるべきだ(たとえば、服を着たままで、灯りを消して、できるだけ早く行為を終わらせるなど)。アウグスティヌスは一貫して避妊を非難した。間違った欲望や邪悪な器具によって」受胎が妨げられるならば、配偶者たちは「本当の夫でも妻でもない」。受胎を阻止する(あるいは胎児を堕胎する)という「犯罪行為」は、「二人は聖なる婚姻によって結ばれたのではなく、むしろ忌まわしい放蕩によって結ばれている」ことを意味する(『OM』1巻17章)。アウグスティヌスがセックスと他の身体機能を混同していたことから、彼の身体的快楽に対する批判は一般的なものであった。司教であった彼自身は、欲情的な思考や夢に惑わされやすかった(『告白』第10巻第30章)。彼は食事の快楽を嘆いたが、それは自分が食べ物によって「情欲の罠」にかかってしまったからである(『告白』第10巻第31章)。また彼は、美しい音楽を聞く快楽にも魅了された(『告白』第10巻第33-34章)。ヒエロニムスの禁欲主義の誘惑は、アウグスティヌスにも存在していた。

セクシュアリティについてのもう少しネガティブでない説明は、神学者の聖トマス・アクィナス (1224/25 –1274) によって練り上げられた。アリストテレスとキリスト教を融合させたアルベルトゥス・マグヌス (1206?–1280) の指導を受けたアクィナスは、13世紀半ばに、(1879年のローマ教皇レオ13世の回勅Aeterni patrisによって)カトリックの教えの権威ある基礎となった膨大な『神学大全』の中で、セクシュアリティの自然法理論を定式化した。異性間の性行為は、神によって植えつけられた自然な傾向から生じるものであり、その行為において性器は、自然な、神によって設計された目的を果たす (Summa contra gentiles, bk. III, pt., chap. 126)。アクィナスは、性的快楽は神が創造されたものなのだから、それが善であることを認めている。しかし、神が創造されたすべてのものと同様に、性的快楽にもその目的と正しい使い方がある。(アクィナスの目的論的、アリストテレス的存在論は、生物の\kenten{あらゆる}部分が自然淘汰の結果にちがいない、つまり生存と生殖に有利であるにちがいない、という、今では否定されてしまっている進化論的見解に似ている)。性的快楽は、現在進行中の神の創造の業に貢献するような性行為に付随するものとして計画されたものである。アクィナスは、劇作家アーサー・ミラーにあらかじめ答を用意していた。

エデンのアダムとイブに関するアウグスティヌスの記述についてのミラー (1915-2005) のジョーク:

\begin{quote}
イヴは腰をかがめ、一匹の亀を調べている。アダムは彼女の突きだされたお尻に目を奪われ、近づき、立ち止まり、見つめた。{\−−}目をそらして、頭のなかでまだはっきり形にならない考えをもてあました。あきらめて、彼は尋ねた。「もしかしたら、君はバレーボールをしたいのかい?」(Miller 1973, p. 18)
\end{quote}

動物同様、人間にも性交への自然な傾倒があると仮定することで、アクィナスはある大問題を克服した。つまり、アダムとイブは、自然な傾向による性的快楽が存在しないとしても神の実を結ぶようにという命令に従おうとするならば、それは彼らが子孫を残す性的活動を行うのに十分な動機となるだろうか?そして、彼らはそのときにどうすればいいのかわかるのだろうか、という問題である。

しかし、アクィナスにとっては、性的快楽を求めることが罪でないのは、子孫を残す形の夫婦間の性行為の中で追求される場合に限られる。アクィナスは、より低級な動物、特に一夫一婦制をとる鳥類のセクシュアリティに基づいて、人間の性欲の本質についての彼の見解を論じている (SCG, bk. III, pt. 2, chap. 122, §6)。おそらく彼は、低級な生物たちの多様な性生活様式をもっとよく観察すべきだった。もしアクィナスが 、犬や猫から人間へと論じたとしたらどうだっただろうか。彼はまた、人間の解剖学をもっとよく研究するべきだったかもしれない。フェミニスト神学者のクリスティン・グドルフが言うように、「もし女性の身体におけるクリトリスの配置が神の意志を反映しているのであれば、神はセックスが単に子孫繁栄に向けられたものではなく、少なくとも子孫繁栄と同等かそれ以上に快楽に向けられたものであることを意志していることになる」(Gudorf 1994, p.65) {\−−}とにかく女性にとっては。「神の存在を論証するものがあるとすれば、……それは、あの突起{\−−}神からすべての少女への贈り物{\−−}の上で踊る何千、何万というオーガズムである。創造主様万歳、寛大で……女性に本当に甘い男だ」 (Roth, 1996, p.434)。これは小説家版「インテリジェント・デザイン論」である。

アリストテレスの節制の美徳をセックスに適用して、アクィナスは性的快楽は「\ruby{過度に}{インオーディナリー}」ではなく、「\ruby{普通に}{オーディナリー}」追求されなければならないと主張する。アリストテレスと同様、 “inordinately” は「過剰に」という意味であり、「適切な量より少なく」という意味ではない。神が人間に性交への自然な傾斜を創造されたことを認めているにもかかわらず、アクィナスは別の問題でアウグスティヌスと同意し、堕罪前のアダムとエバの穏やかな性愛関係 (ST Ia, ques. 98, art. 2) と動物の「暴力的な」性愛(これはアウグスティヌスが生後の人間の性交を表現するのに用いた言葉である (COG, bk. 14, chap. 26))を対比している。しかし、アクィナスは、まるでペラギウス派に敬意を示すかのように、堕罪前の性的快楽は、活発な炎でなかったとしても、よりよいものであったろうと言う。「感覚の快楽はずっと大きなものであっただろう。人間の本性と肉体の感受性がより純粋であったからだ。(これは、ヴィルヘルム・ライヒの、共産主義の楽園では性的関係がより楽しくなるだろうという見解[後述する]に似ている)。しかしアクィナスは、「快楽衝動が理性に支配されていれば、この種の快楽への衝動がこれほど無秩序に浪費することはなかったであろう」と付け加えている (ST Ia, ques. 98, art. 2, reply 3)。アダムとイヴの毎日のスケジュールや日課の中で、セックスに没頭し、浪費するようなものは何だったのだろうか? 動物に名前をつけることだろうか?隠遁先で勉強会を開いてセックスを避けた後世の神学者とは異なり、アダムとエバには熟考すべきタルムードも聖典もなかったし、プラトンの「哲学的養生法」の課題に没頭することもできなかった。また、まだ堕落していなかったのだから、ヒエロニムスの精神的な子孫繁栄に関与することで何を達成できたのだろうか?

アクィナスが人間のセクシュアリティに関して下した最も挑発的で、悪名さえ高い判断は、彼の自然法倫理学である (ST IIaIIae, ques. 154, arts. 1-12)。彼は2種類の「淫乱の罪」を区別している。ひとつは、「その行為が性行為の目的と相容れない」ものである。生殖が妨げられる限りにおいて、私たちは不自然な悪徳を犯すことになる。アクィナスは4つの例を挙げている。

\begin{quote}
第一に、性行為の外で性的な快楽のためにオーガズムを得ること。これは自涜と呼ばれる。……第二に、物体や獣との成功であり、これは獣姦と呼ばれる。第三に同性の人物のものであり、これはソドミーと呼ばれる。第四に、正しい器官に関して、性交の自然なスタイルが守られていない場合である。
\end{quote}

このような行為では、子孫を残す器官(オーラルセックスやアナルセックスでは、子孫を残さない器官も)が、神から与えられたデザインと目的に反して、濫用されている。アクィナスはここで、「完遂的」(射精的を伴う)性行為について語っており、それによってペニスに焦点を当てていることに注目しよう。彼は、種子が「適切な器」である膣以外の場所に行くことによって無駄になることを望んでいない(不自然なセックスに関するヘブライ神学も同様である;Epstein, 1948,pp.132-147を参照)。アクィナスはこれら四つの悪徳を罪深さの階層に組み立てている。「淫乱の不自然な罪を比較するならば、最も低いランクは単独での罪である。……最も罪が大きいのは、獣姦である。これは正当な種を守っていない……次に来るのはソドミーである。これは正当な性を守っていない。その次は、性交の正当な様式を守らない淫行である」。マスターベーションはリストの一番下にあるわけだが、それでも不自然で罪深いものである。

淫乱の罪の第二のものは、「相手に対する行為の本性」が罪となる。アクィナスの例としては、異性間近親相姦、異性間\ruby{姦淫}{アダルタリー}、異性間強姦、父親の家に住んでいる処女を男が誘惑することなどが挙げられる。これらの行為は(形としては)子孫を残すことができるので、不自然ではない。罪深いのは、他人に危害を加えることが道徳的に間違っているという、正当な社会道徳に反するからである。ただし、アクィナスにとっては、姦淫や誘惑は、男たちが女たちに対して持つ財産権が侵害されているために罪だということになっている。このような哲学のおかげで、西洋では長い間、結婚中のレイプは法的に考えられなかったのである。

アクィナスは、淫乱の二種類の罪の間に、別の階層を構築している。「……不自然な悪徳は、性の基本原則に背くことによって自然を冒涜するものであるから、この点において最も重大な罪である」。獣姦、同性間の行為、異性間の変化、マスターベーションは大罪であり、近親相姦、姦淫、強姦、誘惑は小罪に過ぎない。アクィナスは、(ジェレミー・ベンサムやJ.S.ミルのような現代的な響きで)不自然なセックスは 、道徳的に最悪なものでは\kenten{ない}と主張する架空の対話者に答える。「論敵は、「罪が慈愛に反するものであればあるほど、より悪い」と訴える。 姦淫や誘惑や強姦は私たちを傷つける。一方、不自然な欲望は誰も傷つけず、それゆえ最悪のものではない」と。しかし、アクィナスはこの合理的な議論に反論しようとし、マスターベーションを含む不自然な性交は「最も重大な罪」であり、強姦や姦淫などよりも悪いと主張する。淫乱という不自然な罪は、神の創造の設計に違反し、「神への冒涜」である。そうした罪を犯す連中は、神を鼻であざけり、神の知恵を疑っている。一方、強姦、誘惑、姦淫を犯すことは、「人間から生まれた」、「理性に従って生きるという発展した計画」に違反しているだけである。論敵の質問{\−−}もし不自然な性行為が、同意している成人によっておこなわれ、誰にも危害を加えないのに、どうして悪いと言えるのか?強姦は、力による不随意的なものであったり、同意を欠くものであったりするからこそ、間違っているのではないだろうか?{\−−}という議論は、今日でも盛んに行われている。(中世のセックス哲学に関する包括的な説明は、Brundage, 1987を参照)。

\section{19世紀までの近代哲学}

中世スコラ学者たちの後、1550年から1800年代後半にかけて、色とりどりの哲学者たちがセクシュアリティについて書いた。ミシェル・モンテーニュ (1533-1592) は、懐疑的な認識論哲学(私たちは何も知ることができない)と、エティエンヌ・ド・ラ・ボエティとの関係について次のような有名な一節を含むエ随筆「友情について」でよく知られている。「それが彼であり、私であったからだ」(『エセー』)。モンテーニュは「想像力について」というエッセイの中で、アウグスティヌスの生物医学的な指摘をエレガントに繰り返している。「人々が、この部分はわがままで手に負えないというのも当然の話だ。なにしろ用事なおときにかぎって、しつこく口出ししてくるくせに、もっとも必要なときにかぎて、間の悪いことにふにゃっとなってしまうのだから。そして実に横柄な態度で、われわれの意志と覇権を争い、われわれが指針により、あるいは手によって勧告をおこなっても、これをかたくなに、誇り高く拒否してしまう。\footnote{『エセー』第1巻、宮下志朗訳、p.169}」。アダムが神に背いたことと、ペニスが堕罪後のアダムに背いたことのどちらがより生意気であるかを私たちは判断しなければならない。

それほど経たないうちに、フランスの合理主義哲学者ルネ・デカルト (1596-1650) は、しばしば誤解される “cogito, sum”(「我思う、我あり」{\−−}「ゆえに」ははいっていない)で、モンテーニュを含む懐疑論に反論することを意図し、私たちが知ることのできるいくつかの事柄を示した。デカルトはセクシュアリティについて次のように主張した。

\begin{quote}
私たちは多くの異性を目にするが、一度に多くの異性を欲望することはない。……しかしわれわれがその対象の一つに、その瞬間に他のものに観察されるどんなものよりも魅力的なものを観察するとき、これが、われわれの魂が、自然がわれわれの所有しうる最大のものとして表現する善を追求するために与えているすべての傾向性を、そのひとつだけに感じるように決定するのである。(\emph{Philosophical Writings}, p.360)
\end{quote}

性的欲望はその性質上、(\ruby{順次的}{シリアル}ではあるが)排他的であり、「その瞬間」私たちは他の人を欲望することはできない。デカルトはアウグスティヌスとは異なり、性的欲望と飲食の欲望とを区別した。なぜなら、我々がメニューのステーキを欲求しながら、その欲求がキッチンから出てくる同じようなステーキのどれでも満たされるわけではない、とは普通考えないからだ。この、性欲の対象は代替できないという感覚は幻想かもしれない(ただし、下記のロジャー・スクルトン参照)。デカルトは、自然がこの善を「表象している」とだけ述べていること、つまり私たちの注意をひいている対象が「私たちが所有しうる最大のものとして」包含している、とだけ言っていることに注意しよう。デカルトは、私たちが自分の善のになると考えているものごとは、結局のところ、自分の善にはならないかもしれないということを示唆している(この発想はショーペンハウアーによって精緻化される)。

海峡を隔てて、トマス・ホッブズ (1588-1678) は1651年に傑作『リヴァイアサン』を書いた。その最も有名な一節(§1.13)に照らせば、性的な接触は、「汚らしく、残忍で、短い」{\−−}あなたが「貧しく」ないとしても。そして貧しい場合は、その場合は性的な活動はきっと「一人ぼっち」なものだと考えていたと推測できる。ホッブズは性についてはほとんど書いていないが、挑発的な例外として、『人間本性』の次の一節がある。

\begin{quote}人が情欲と呼ぶ欲望とそれに付随する結実は、\kenten{感覚的な}快楽であるが、それだけではない。それには、心の喜びもまたともなっている。というのは、それは喜ばせたいという欲望と、喜ばされたいという欲望の二つからなっているからである。おして、人が喜ばせることにおいて受けとる喜びは感覚的なものではなく、心の快楽あるいは楽しみであり、自分が相手を喜ばせる能力についての想像から構成されている。(§9.15)
\end{quote}

ホッブズもまた、アウグスティヌスによる性欲と飲食の欲望の類似性を否定している。彼の説明によれば、性欲とは、相手に喜ばされたいという欲望と、(驚くべきことに)相手を喜ばせたいという欲望が共存する、二つの欲望からなる複合体である。アリストテレスが言うように、一杯のワインに対して善意を抱くことは「ばかげた」ことであり、せいぜい、それを飲むことを楽しむことを予期するための、身代わりの省略表現にすぎない (NE 1155b29-30)。ホッブズはこのテーゼを展開していないが、少なくとも現代の哲学者の一人はこのテーゼを支持しており (Blackburn, 2004, pp.87-88)、ホッブズは性的欲望がこのような二元論的性質を持つことを理論化した英雄とされている(ゴールドマン[1977]の性的欲望の一元論的説明とは対照的で、ゴールドマンの場合は性的欲望は自分の性的快楽のためだけの欲望である)。しかし、ブラックバーンの賞賛は、ホッブズが実際に言っていることの不吉な意味を見落としている。人が相 手 を 喜ばせたいと思うのは、そうすることで自分の性的な力(男性的なパフォーマンス原理?)を確認できるからであって、相手を喜ばせるためでも、自分の官能的な快楽を高めるためでもない。ホッブズは、このような動機が、市民社会と社会以前の自然状態の両方における人間の特徴であると考えているようだ。常人としてのアダムではなく、マッチョマンとしてのアダムである。

1700年代には、デイヴィッド・ヒューム (1711-1776) とイマニュエル・カン ト (1724-1804) が、サーバーとホワイトよりもずっと前に、ああしたユーモアを交えること なく、性的欲望と恋愛の関係について意見を述べている。ヒュームは『人間本性論』の「情欲的情熱、あるいは両性の間の愛について」(第2巻、第2部、第11章)と題する章で、次のように主張した。

\begin{quote}
男女の間に生じる愛は、三つの異なる印象や情熱の結合に由来する。美から生じる快感、生への身体的欲求、そして寛大な親切心あるいは善意である。
\end{quote}

愛が「派生」してくる源であるこれら3つの「印象」または「情熱」について、ヒュームは「美の感覚(知覚)、肉体的な欲望、善意の間にこのような結びつきが生じ、それらはある意味で切り離せなくなる」と主張している。おもしろいことに、性愛的情熱のこれらの三つの特徴は、それがいったんいっしょになると「切り離せない」{\−−}しかしそれでも、ヒューム自身が認めるように、性的欲望(「生殖への欲望」)と善意(「寛大な親切心」)は「(その本性からして)あまりに離れているので簡単には結びつかない」。しかしなぜ性的欲望と博愛は異質すぎて結びつかないのだろうか?

カントにはその答えがあった。「真の人間愛は……人のタイプや老若男女の区別を認めないものである。……人間愛は善意志であり、他人の幸福とその幸福に喜びを見出すことである」(『講義』AK 27:384)。ここでカントは、ヒュームの性愛的情熱に含まれる寛大な親切心について述べている。この博愛は性的欲望とはまったく異なるものであり、両者を結びつけることはできない。カントの考えでは次のようになる。

性的衝動から生じる情熱は、まったくのところ愛ではありえず、単に情欲でしかない。……人が性的欲望から別の人を欲望するとき、これらの要素[善意]はなにもそれに入ってくることはない。性的な欲望は、欲望されている人を欲の対象とする。人が他者にとっての食欲の対象となったとたんに、道徳的関係の動機はすべて機能しなくなる。なぜなら、他人に対する欲望の対象として人は物になるからである。(講義』AK 27:384-385)。

カントにとっては、性的欲望と善意は単に結びつかないだけではない。むしろ後者(善意)は「肉欲的享楽を抑止する」のである(『道徳の形而上学』Ak 6:426)。カントは、プラトンの低俗なエロースと天上のエロースの鋭い対比に立ち返り、愛についてのアウグスティヌスのキリスト教的テーゼを繰り返している。「自分自身のように他者を愛する者は、その人の中にある本当の自己を愛するべきである。私たちの本当の自分は身体ではない。……人間の本性が愛されるべきものである。{\−−}肉欲的な関係という条件なしに、である」 (O’Connell, 1969, p.111)。ここでもまた、我々は心(愛)と肉(性)の分断に直面する。

ヒュームは、善意と性的欲望は、情欲の第三の成分によって結びつけられると提唱した。「美は両者のちょうど中間に位置し、両者の本性の一部である。それゆえ、その両方を生み出すのに適した唯一のものである。」このテーゼは、情欲を構成する三つの要素の関係についてのヒュームの説明の中で、不思議な(あるいは魅力的な)部分である。ヒュームは、この三つの混合物である性愛的情熱は、さまざまな方法で生じうることを観察している。人は他人に対して善意を感じ、そこから性的欲望と相手の美に対する感謝の両方が生じるかもしれない。他者に対して惜しみない優しさを持っている\kenten{ために}、その美しさを感じるようになることは、心理学的に珍しいことではない。(それは神のアガペーと同様で、神は人間を愛することによって、その人間に価値を与えるのである)。しかし、他人に対して善意を感じることが、その人に対して性的欲望を感じるようになる確実な原因であると主張するのは、ありえないことである。ヒュームはこのことに気づいており、このような形で性愛的情熱が生じることはめったにないことを認めている。むしろ、ほとんどの性愛的情熱は、ある人が他の人の美しさを認めることから始まるものであり、それが善意と性的欲望の両方の原因になる(いかにして\kenten{両方}を引き起こすか、ということはいまだ謎である)。ヒュームは、日常的な確固とした地に足を踏み入れているため、美と性的欲望の関係が時に逆であることも見抜いている。つまり、すでに性的欲望を感じているとき(つまり、\ruby{ムラムラしている}{ホーニー}とき)、私たちは注目の対象が実際よりも美しいという判断に達するのである。フロイトが言ったように、一杯のマティーニもまた、私たちに対象の長所を誇張させる可能性がある。

カントは明らかにセクシュアリティに嫌悪感を抱いていたようだ。彼の主張によれば、我々は性行為で満足した後、相手を吸い尽くしたレモンのように捨ててしまうとされる(『講義』Ak 27:384)。おそらくこれが、現代のリベラルなカント主義哲学者たちとは対照的に (Mappes, 2007)、彼が能力のある大人が同意さえすれば性行為は道徳的に許されると否定した理由である。カントにとって、「他者にとっての[性的な]欲望の対象としては、人は物となる(『講義』Ak 27:385)」ことを思い出してほしい。性行為に内在する、他者を対象とすることは、カントにとっては、結婚においてのみ克服されうるのである(『講義』Ak 27:388、Herman, 1993; Soble, 2001参照)。もしこのセックスの哲学が十分厳しいものでないとしても、カントは、啓蒙思想家であるにもかかわらず、中世のアクィナスの説に酷似した性的倒錯の哲学的見解も展開している(『講義』Ak 27:391-392; Denis, 1999; Soble, 2003参照)。自涜行為、同性間の性行為、獣姦といった、自然に反する行為(crimina carnis contra naturam)に手を染める者は、自分自身をモノとして扱い、「人間性を動物的本性以下のレベルにまで貶め、人間を人間性に値しないものにする」。しかし、カントはアダムとイブについて興味深い見方をしている:

\begin{quote}
動物の場合、性的魅力は単に一過性のもので、ほとんどが周期的な衝動の問題である。しかし人間はすぐに、想像力によってこの魅力を長持ちさせ、さらには増大させることができることを発見した……人間は発見した、想像力によって、単なる動物的欲望の満足にともなう飽満感を避けることができる。イチジクの葉は、発達のそれ以前の段階で示されてきたものよりもはるかに大きな理性の顕現である。(「人類史の始まりの仮説」56-57)
\end{quote}

今日、カントの哲学は、レイプ、セクシャル・ハラスメント、売春、ポルノグラフィにおける女性の性的モノ化を批判するフェミニストやその他の人々によって掘り起こされている(例えば、Estes, 2008; Nussbaum, 1995を参照)。セクシュアリティにおいて人を客体として、利用されるものとして扱うこと自体が不当であるという彼の考え方は、リベラルな性倫理とは対照的に、同意の存在は、性行動の多数を正当化するには弱すぎることを暗示している。

19世紀前半、デンマークのキリスト教的実存主義哲学者セーレン・キェルケゴールは、遊び心のあるペンネーム複数をうまく使いながら、セクシュアリティについて多くの挑発的な観察とそれへの反論を行った。そのいくつかは(たとえ曖昧であっても)考察するのに楽しいものであり、彼がしばしばサーバーやホワイトとおなじくらい愉快な人物であったことを示している。

\begin{quote}
不美人にキスをするのがばかばかしいなら、美人にキスをするのもばかばかしい。あるや
り方をすることが、別のやり方をする人を笑う正当な理由になるという考え方は、上か
ら目線と不平不満以外の何ものでもない。(『人生航路の諸段階』 p.54)。
\end{quote}

洞察力のあるキェルケゴールは次のように書いている。「二人が互いに恋に落ち、運命の相手だと感じたら、それを断ち切る勇気があるかどうかが問題である。というのは、継続してもすべてが失なわれるだけであり、得るものはなにもないからだ」(「輪作」『あれか/これか』)。彼はこれに続いて、エロティックな愛と結婚は結局のところ両立するという反論を(別のペンネームを使って)展開している(「結婚の美的妥当性」『あれか/これか』第2巻)。また、こんな対立を描いた小品もある。「結婚するがよい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがよい。そうすれば君は後悔するだろう。結婚してもしなくても、どちらにしても後悔することになる」(「ディアプサルマータ」) 。カントがそうであったように、しかしより詩的に、のちの成熟したキェルケゴールはエロースとキリスト教的アガペーは相容れないものだと強調した。「すべての快楽は利己的である。……恋する人の快楽は、愛する相手に関して利己的であるわけではない。しかし、二人の合一において、両者は絶対的に利己的である。合一において、そして愛において、二人は一つの自己をつくりあげるのだ」(『愛のわざ』[d]p.56)。その結果、「二人の『私』がしっかりと一体となって一つの『私』になればなるほど」、愛し合う中で、二人は自分たちだけを愛するようになる(『愛のわざ』68)。

ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー (1788-1860) は、ダーウィンの進化生物学やフロイトの精神分析を先取りして、人間の境遇について暗い絵を描いた。プラトンは『饗宴』の中で、私たちがエロティックな情事において(意識的に)求めているものは、我々が本当に求めているものではない、と警告した。魅力的な肉体や優れた精神に対する憧れの欲望であるエロースは、本来は、愛着の対象によってかろうじて表現されている「美のイデア」に対するエロースなのだ (211a)。我々は美しい人々との関係すれば幸福がもたらされると考えるが、実際には我々はいずれ幻滅することになる。プラトンが言いたいのは、私たちはやがて、地上の美の繰り返しに飽き飽きし、そんな美は肉体的なものであれ精神的なものであれ、はかなく儚いものである、ということだ。普通の美に幻滅した私たちは、別世界の理想の美を求める。楽観主義者であるプラトンは、私たちはこの探求に成功できると考えた。同様にアウグスティヌスにとっても、理想への探求は私たちのエロティックな愛の下に隠されている。

\begin{quote}
私は愛することを愛して愛の対象を求めていた。私は、内において、内心の糧に、あなた自身に飢えていたが、しかもこの飢えのゆえに空腹を覚えることはなかった。(告白』第3巻第1章)。[e]
\end{quote}

アウグスティヌスもまた楽観主義者だった。しかし、私たちが求めるべきは、プラトンの不動の普遍者である美のイデアではなく、人格としてのキリスト教の神である。

ショーペンハウアーの考えでは、性欲の対象の美は、エロティックな欲望を満足させることが自分の個人的な利益になると人間を騙そうとする自然の詐術である。それどころかむしろ反対に、性愛は種族を利するだけであり、自然は我々を利用し、エロティックな目標を達成しようとして不合理にも我々に財産と自由を放棄させるのである(プラトンの「無視と喪失と財産[f]」を思い出してほしい)。

\begin{quote}
自然は、個々人にある種の\kenten{妄想}を植え付けることによってのみ、その目的を達成することができるのであり、そのおかげで、本当は種にとって良いことに過ぎないものが、その人にとっては自分自身にとって良いことのように思えるのである。 それは、人間がより大きなものを見つけることができると信じるように仕向ける、官能的な妄想である。その美しさに惹かれる女性の腕の中では、他のどんな女性の腕の中よりも喜びを感じる。彼女の所有が無限の幸福をもたらすと、彼は確信している。それゆえ、彼は自分の楽しみのために努力し犠牲を払っていると思い込んでいるが、それは単に 種の維持のためにそうしているだけ ……なのである。(意志としての世界』538、540頁)。[g]
\end{quote}

ショーペンハウアーが、神の創造的なプロジェクトに私たちが貢献するというキリスト教の夫婦の親としてのあり方についての考え方にひねりを加えていることに注目してほしい。ショーペンハウアーに言わせれば、進化は、自然の創造的計画に気乗りしないであろう人間の助けを借りるために、欺瞞的な美を用いているのである。なぜ私たちは騙されてセックスをしなければならないのか?セックスは負担が大きい。配偶者を求めることは多くの資源を使うし、その行為は私たちが世話をしなければならない子供を生む。さらに、「美の感覚は性的衝動を方向づける。[それがなければ]この美がなければ、性的衝動は嫌悪すべき欲求のレベルにまで沈んでしまうものだ」(『世界』539)。カントやアウグスティヌスでそうであったように、セクシュアリティは嫌悪感を抱かせるものであり、そのために我々は欺かれる必要があるのだ。

また、19世紀初頭には、ジェレミー・ベンサム (1748-1832) が、功利主義倫理学(「最大多数の最大善」を常に目指せというもの)に基づき、快楽を生み出し、社会的に有害または危険な影響を及ぼさないという理由で、合意の上での同性間の性行為を擁護した。しかし、ベンサムの「「パイデラステア」論」は、彼が存命中に出版されたものではなく、実際に活字になったのは1978年のことである。19世紀のイギリスで迫害されていた同性愛者たちにとって、このエッセイが有益であったということはない。世紀後半、ベンサムの弟子であるジョン・スチュアート・ミル (1806-1873) は、ヴィクトリア朝という不寛容な風潮の中で執筆した『女性の従属』の冒頭で、「両性間の既存の社会関係を規制する原理{\−−}一方の性の他方の性に対する法的従属-{\−−}は不正である……そしてそれは完全な平等の原理に取って代わられるべきである」と発表した。ミルのフェミニストとしての資格に疑いはない。しかし、セックスをしばしば主要な問題とする現代のフェミニスト(例えば、レイプ、ポルノグラフィー、売春に関するマッキノン[1987])とは異なり、彼はセックスについてほとんど書いていない。

ミルは『自由について』の中で、自身の功利主義的道徳理論の適用を説明するために、いくつかの性的な例を用いている。彼はモルモンの一夫多妻制を好ましくないとしながらも、その取り決めに対する女性たちの同意こそが重要であると主張している(『自由論』第4章)。フェミニストたちは、ミルが彼女たちの同意の信憑性をもっと深く探ってほしかったと願っている。ミルは、「姦淫」”は、それが同意に基づくものであり、誰にも害を与えない場合には容認されるべきであり、売春宿は禁止されるべきではなく、ただ規制されるべきであると主張する:そして、売春宿は禁止されるべきではなく、ただ規制されるべきであると主張する。「売春宿はある程度の秘密と神秘性をもって運営され、売春宿を求める者以外には何も知られないように強制される かもしれない」(『自由論』第5章)。聞くな、言うな。ミルは、「生活の実験」(『自由論』、第3章)を許容し、奨励さえするような広範な社会的・法的自由を賞賛し、擁護しているが、彼は、複数の性的ライフスタイルの価値についての明白な含意を引き出してはいない。ミルの功利主義の定式化は、カントの範疇的命令やアリストテレスの美徳論の倫理学とともに、今日でも哲学者の間で人気がある。この3つは世俗的な性規範哲学を支配しているが、神学界ではアウグスティヌスとアクィナスが依然として強い影響力を持っている。

ミルがそうであったように、カール・マルクス (1818-1883)とフリードリヒ・エンゲルス (1820-1893) は、経済的・政治的問題に中心的な関心を寄せていた。現代のフェミニズムがマルクスとエンゲルスに負っているのは、売春と結婚は大差ないという考え方である。結婚した女性は、「普通の花魁と違うのは、賃金労働者として出来高払いで体を売るのではなく、奴隷としてきっぱりと売るという点だけである」(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』82頁、エマ・ゴールドマンの1917年の『女性の売買』も参照)。マルクスとエンゲルスは共同執筆した『共産党宣言』(p.72)の中で、共産主義(生産手段の私有制の廃止)によって、女性は「公的にも私的にも売春」から解放され、街娼からも、経済的必要から契約した愛のない結婚からも解放されると主張している。売春は、労働者という普遍的な売春の特殊な表現にすぎない」。彼のさらなる指摘は次のようなものである。

\begin{quote}金銭は、すべてを買うことができるという性質を持っている限りにおいて、……最も所有する価値のある\kenten{モノ}である。……私が醜いのは\kenten{たしか}だが、\kenten{最も美しい女性}を買うことができる。ということは.私は\kenten{醜く}ない、ということである。\kenten{醜さ}の効果、すなわちその反発力は、金銭によって破壊されるのだ。
\end{quote}

ブルジョア男性がトロフィーワイフを手に入れる取引において、「金銭は必要とその対象との間の\ruby{手配師}{ピンプ}である」(『経済哲学手稿』133、165頁)。マルクスとエンゲルスが哲学を嫌っていたこと、性愛に対してヴィクトリア朝的な態度をとっていたことは、この一節に表れている。「哲学と現実世界の研究は、自慰行為と性愛と同じ関係にある」(『ドイツ・イデオロギー』103頁)。哲学を形容するために侮蔑的な比喩がよく使われるが(「頭の中が雲の上のへそくり」)、マスターベーションと比べるのは諸刃の刃である。1994年にジョイセリン・エルダーズ外科部長が発表し、クリントン政権から解任されるきっかけとなったように、マスターベーションは安全なセックスであり、妊娠を避けるものである (Elders, 1997; Soble, 2006)。そして、この哲学的エッセイを読んでいる間、あなたはトラブルを避けられているのだ。

\section{20世紀初頭}

心理学の精神分析的展開、哲学の言語学的転回、そして進化論の進展の中で、セックスのについての時に衝撃的な探求が溢れ出した。

その始まりは、ジークムント・フロイト (1856-1939))の『性欲の理論に関する三つの試論』(1905年)である。これは、子どもの性的無垢と異性愛性欲の生得性についての支配的な信念に異議を唱えるものだった。彼の理論的進歩は、性的本能(リビドー)、性的本能の目的、本能の対象を区別したことである。本能の目的とは、その本能が求める状態あるいは条件のことであり、その対象とは、本能がその状態を達成するために利用する世界のアイテムのことである。摂食本能は、不快な感情である空腹感を和らげ、栄養を得ることを目的とし、その対象は世界の食べられる部分である。セックスも本能を伴うが、それとは異なる。(フロイトはアウグスティヌス的なセックスと飲食の混同から若干ではあるが脱却している)。摂食本能の対象は本能によって決定されている。ハンバーガーのメニューの写真でもなく、空想のハンバーガーでもなく、本物のハンバーガー{\−−}世界のある特定の部分だけが、この衝動を満足させる。本能と目的と対象が固定されているのだ。性欲はそうではない。本能、目的、対象の間の理論的な固定を吹き飛ばすのがマスターベーション(特に幼少期の自己エロティズム)なのである。フロイトによれば、性欲において、性的本能とその対象は「単に(つまり人為的に)はり合わされたもの」である(『三つの試論』p. 148)。目的は官能的・肉体的な快楽であり、その対象はほぼ無制約である。空腹で泣き叫ぶ子供は、ミルクを与えられれば生き延び、他の液体(エンジンオイル)を与えられれば死ぬ。しかし、感覚的快楽を求める子どもは、男性、女性、敷物、動物、自分の親指など、さまざまなものに触れたりこすったりして身体的快楽を得ることができる。したがって、フロイトが言うように、子どもは多形的に倒錯的なのである。人が快楽を得るために、世の中のどの対象を最終的に好むかは、その人の精神生物学によって決定される。したがってフロイトにとって、「なぜ同性愛者がいるのか」というのは間違った問いである。つまり、課題としては、同性愛だけでなく異性愛をも説明しなければならないのだ。性本能とその対象が区別されるならば、すぐさま、不自然なセックスを解剖学的あるいは生理学的に規定するトマス主義的な根拠は存在しないことになる。同性愛は\kenten{そんな}束縛は逃れている。同性愛は、単に生殖機能がないだけでは不自然であるとは言えない。むしろ倒錯の基準は心理的なものでなければならず、それゆえより複雑なのである (Neu, 1991)。アメリカ精神医学会はこのことを1970年代半ばに認め、同性愛そのものをDSMから除外した (Soble, 2004)。

イギリスの哲学者バートランド・ラッセル (1872-1970) もまた、波紋を呼んだ。彼の『結婚と道徳』 (1929) は、予見的で強硬なフェミニズム(彼は女性の平等の要求を公言する活動家だった )と、夫婦間の性的貞操に対する功利主義的な批判を混ぜ合わせた{\−−}彼は今で言う「オープン・マリッジ」を擁護した。『結婚と道徳』は、一部の人々にとっては好色本であり、ラッセルはニューヨーク市立大学の職を失うことになった。しかし、「ラッセルが呼びかけたことの多くは、性的革命とフェミニズム運動によって達成された。もう誰も『結婚と道徳』を読まないのだろう」とされる(Nagel, 2002, p.65)。ラッセルの見解では、「性的関係は相互的な喜びであるべきで、両者の自発的な衝動によってのみ結ばれるべきもの」である。これはずいぶん穏健な主張に見えるが、ラッセルはおおっぴらで誠実な不倫を正当化するためにこの原則を用いた。彼の主な目的は、相互の喜びや自発的な衝動とは異なるセックスに共通する動機を非難することであった。「経済的な動機がセックスにはいりこんでくることは、破滅的である」。ラッセルは、露骨な商業売春だけでなく、妻が夫に経済的に依存しているからこそ行われる、より微妙な夫婦間のセックスにも反対した。ラッセルは、大げさかもしれないが、一部のフェミニズム (Morgan, 1977, p. 163-169) と一致して、「女性が耐え忍ばねばならない望まないセックスの総量は、おそらく売春よりも結婚生活のほうが多い」と主張した。これはラッセルがいかにマルクス主義者的であったか、あるいはマルクスとエンゲルスがいかにリベラルであったかを示している。

そして第二次世界大戦のさなかに、ジャン=ポール・サルトル (1905-1980)は『存在と無』を書いた。この分厚い形而上学的論考の中に、人間の態度の中心的事例としてのセクシュアリティに関する一節がある。サルトルは、男女の闘争は、堅物のホッブズでさえ凍りつかせるような氷山の一角にすぎないと主張した。

\begin{quote}
私が他人の肉体をわがものとすることへ向かって混濁を超出するにせよ、あるいは、私自身の混濁に酔いしれて、私がもはや私自身の肉体にしか心を向けず、また、私がもはや他人に対して、私の肉体を実現するのを手つだってくれる\kenten{まなざし}であることしか要求しないにせよ、サディズムとマゾヒズムは、性的欲望の二つの暗礁である。われわれが「正常な」性欲を、「サディスト的-マゾヒスト的」という名前で呼びならわしてきたのは、性的欲望のかかる不安定のゆえであるとともに、性的欲望がこれら二つの暗礁のあいだをたえず同様しているがゆえである。(BN第3巻第3章第2節、邦訳p.468)[h]
\end{quote}

サルトルは、G. W. F. ヘーゲル (1770-1831) の「主従」関係の説明(『精神現象学』§178-196)にさかのぼり、性的相互作用において、ある人は常に他の人の自由を奪おうと欲する、と理論化した。その試みは失敗するか、自らの足を撃つ運命にある。というのも、もし相手の自由を奪ってしまえば、その勝利は無意味なものとなってしまうからである。存在と無』の直後、サルトルの伴侶であり恋人でもあったシモーヌ・ド・ボーヴォワール (1908-1986) の『第二の性』が発表された:「人は女として生まれるのではなく、女になるのである」(p.267)と彼女は書き、ジェンダーの形成には生物学よりも文化が重要な役割を果たすことを強調した。ボーヴォワールのエッセイ「サドを焼却しなければならないのか」は、少なくともフランスの学者たちの間で、神なる侯爵に対する学問的評価を高めるのに貢献した。歴史家にとって興味深いのは、サルトルとボーヴォワールの関係が、ラッセルが提唱した公然の誠実な不倫のようなものだったということだ。どの伝記作家に相談するかによって、この大胆な(ミル的な)生活の実験は平凡な成功か惨めな失敗のどちらかであり、シモーヌに多くの苦悩をもたらした。それでも二人はパリで墓を共有している。

実存主義者サルトルとボーヴォワールの前後には、ヴィルヘルム・ライヒ (1897-1957)、ヘルベルト・マルクーゼ (1898-1979)、フランクフルト学派のメンバーなど、急進的な社会哲学者、政治哲学者が数多くいた。ライヒとマルクーゼは、心理学という下位分野を欠くマルクス主義は、経済史や政治史を理解するには理論的に不十分だと考えた。それゆえ彼らは、フロイトの精神分析とマルクス主義を融合させ、抑圧的なヴィクトリア朝道徳と資本主義政治的専制から人間のセクシュアリティを解放しようとした。フロイトは『文明とその不満』(1930年)の中で、文明生活のより大きな善のために、個人の幸福を犠牲にしてでも人間の性を抑制しなければならないと主張していた(この点で、フロイトの見解は『リヴァイアサン』におけるホッブズの主張に近い)。フロイトは、この交換は全体として素晴らしい取引であると考えたが、同時に、(彼にとっての)現代の社会的取り決めは、性欲の抑制を過剰に要求していると考えた。人々は、手綱を少し緩めるならば、人々は文明を害することなく性的にもっと幸福になることができるだろう。戦争ではなく、愛を作れ」と若者に助言し、ポップカルチャーの歴史にその名を刻んだマルクーゼは、1955年に発表した『エロースと文明』でフロイトのプロジェクトを引き継いだ。マルクーゼは、抑圧的な経済体制や政治体制が要求する過剰で不必要な性の制限を「過剰抑圧」という言葉で表現し、フロイトが考えていた以上にその鎖は緩められると主張した。マルクーゼはまた、「抑圧的脱昇華」という言葉も作り、西欧の消費資本主義がいかに性の鎖を緩め、その結果生じる擬似的な性の自由を自らの利益のために操作しうるかを説明した。

また、ライヒは、人々がより満足のいく性生活を送れるよう、自由のために経済的・政治的な変化を起こさなければならないと主張した。彼は1930年代初頭、ベルリンに避妊クリニックを開設して問題になった。ライヒは政治活動家であるだけでなく、理論家でもあり、人間性の認識者でもあった。彼は、人間の性の真の本質を発見したいのであれば、人々が社会的影響から自由であり、それによって好きなように性的に探求することができるときにのみ、それが可能になるという考え(フロイトが『幻想の未来』の中で示唆していた)を展開した(『セックス調査と性革命』、Soble, 1986, pp. 10-37を見よ)。このようにして、エデンの園とホッブズの自然状態は、急進的な性政治に入り込む。皮肉なことに、ライヒは人間の純粋な性愛は異性愛であり、アクィナスやカントなどが非難した性的に不自然な行為は、経済的・社会的腐敗が人間の行動に及ぼす影響の症状だと考えていた。(ここにはジャン=ジャック・ルソー (1712-1778)の『不平等論』の系統が見て取れる)。ライヒは、アウグスティヌスやアクィナスの神学的アプローチとは対照的に、性的関係の問題に対する心理学的・政治的アプローチを提示したが、事実上、共産主義者同志アダムとイヴの完璧に健全なセクシュアリティの図式に到達したのだ。

\section{現代哲学}

20世紀最後の四半世紀以降、人間のセクシュアリティについて多くの職業的哲学者が執筆を行った。しかし、著作の同業者による評価や、著作が引用される頻度から、最重要として際立っている人物が何人かいる。彼らについて少し述べておこう。

1969年、トマス・ネーゲルはヘーゲルとサルトルを英語圏哲学化し、そこから「性的倒錯」という、トミズム的でもフロイト的でもない、心理的に倒錯したセクシュアリティについての理論を作り上げた。ネーゲルの小論が現代のセックス哲学の幕開けとなったということは決まり文句になっているが、それはその直後に、洗練された考察や反論が続出したからである (Nelson, 2006)。ネーゲルが性的倒錯を理解する斬新な方法で成功したというコンセンサスはないものの、彼はセクシュアリティに関する哲学的研究を実り多い方向へと刺激した。人間のセクシュアリティについてのネーゲルの見解では、自己意識は動物のセクシュアリティには欠けている役割を果たしている。性的なエピソードが始まるとき、私はあなたを感じる(触る、見る、匂いを嗅ぐ)ことで興奮する。あなたもまた、この基本的な(単に動物的な)レベルで私を感じることによって興奮する。私はあなたを感じることで興奮し、自分自身を性的な主体として認識する。私たちの相互作用が進むにつれて、私は、あなたが私を感じることによって興奮していることに\kenten{気づき}、興奮を高めて反応する。いまや私は自分を、あなたの性的意識の対象として知覚する。私はあなたのまなざしを通して自分を意識する。同じことがあなたにも起こり、私たちは両方とも、性的なエピソードの主体でもあり客体でもあるものとして知覚する。この現象は人間のセクシュアリティを、動物のセクシュアリティとは別のもの、そしてずっと興味深いものにしている。ネーゲルによれば、こうした構成図式が自然な人間のセクシュアリティの特徴であり、したがって倒錯はこうした性的興奮の相互的な承認を回避するような性的行為に対する欲求(選好)ということになる(Soble, 2008, Table 1)。窃視趣味はネーゲル的な倒錯のよい事例になる。覗き魔は性的な主体でありつづけることを選好しており、自分自身を他の人々の視線から隠し、性的対象としての自己意識的な身体化を経験しない。(アクィナスは、覗き見が不自然であるということに同意するだろうが、しかし、ネーゲルとは別の、生物学的な理由からである。ネーゲルとアクィナスは同性愛について意見を異にする。同性愛はネーゲルの図式では心理学的に自然である。)ネーゲルの説の啓発的な特徴は、それが、売春者が、お金をもらっているセックスを楽しんでいるふりをするときに起こっていることをうまく捉えているということだ(あるいは、カップルの一方が、相手の快楽のために、退屈な性的活動を楽しんでいるふりをする時に起こっていることを)。客から離れ、時間を節約するために、売春者は客がオーガスムに早く到達するようにする。売春者は興奮のマネをする。それは、その「興奮」が客によって知覚され、それがネーゲル的なスパイラルにおいてさらに客の興奮を高めることになるからだ。客は自分自身を性的主体であり対象であると意識するようになる。この状態を見いだすことはこの上なく快楽的であり、客はオーガスムに達するために時間を無駄にすることがない。

政治的に保守的なイギリスの哲学者ロジャー・スクルートンは、その博学で哲学的に優美な『性的欲望』(1986年)において、結婚における性的貞操から、アクィナスやカントによる自慰行為の非難に至るまで、伝統的なあらゆるものを復権させようとしている。すでに性的指向をめぐる問題に非常に敏感になっていた社会情勢の中で、スクルートンは同性愛の正常性、道徳性、社会的影響に疑念を抱き、批判することを恐れなかった。スクルトンは、「個体化する意図性」 (Scruton 1986, 103-107) という概念を用いて、カントやアウグスティヌスに対して、性的欲望と飲食物に対する欲望を強く区別した。人間の性的欲望の対象は、動物の欲望とは対照的に、代替不可能な個体である(Soble, 1990, 293-298と比較せよ)。こうして彼は、一点集中的な人間の性的欲望と、広範な動物の性欲との間に一線を引いたのである(人間は後者のみさかいのない性欲を経験することがあるが、それには一定の危険もある)。彼一流の伝統主義の一環として、スクルートンはセックスと愛を対比する標準的な方法を再演している。

\begin{quote}
愛は時とともに成長する傾向があるが、欲望は時とともに枯れてしまう傾向がある。それゆえ、愛の過程は、プラトン主義者たち(とキリスト教徒たち)が私たちに勧める状態へと自ずと導かれる。欲望は、やがてもはやエロティックな愛ではなく、信頼と友情に基づく愛に取って代わられる。そのとき、欲望の悩みは終わりを告げる。(Scruton 1986, p. 244)
\end{quote}

スクルトンは率直に、すぐにこう指摘する。「(今現在)問題なのは、それを再び開始しようとする第三者をどうやってシャットアウトするか、婚姻関係の穏やかな愛が新たな欲望の乱気流によって砕け散るのをどうやって防ぐか、である。「いかに」だけでなく、そもそも「〜するかどうか」も問題だ」。「浮気するべきかしないべきか、\ruby{それが問題だ}{ザットイズザクエスティン}。それに、なぜ第三者を招き入れる代わりに「締め出す」のか?

伝統的なセックス哲学もまた、カロル・ヴォイティワ (1920-2005, ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世)によって、カント倫理学の「人格主義規範」(人を利用したり、物として扱ったりしてはならない)とキリスト教の愛の戒めを組み合わせた野心的なプロジェクトで擁護されている。彼がまだポーランドの哲学教授だった頃、つまりヴォイティラがローマ教皇になるずっと前に書かれた彼の著書『愛と責任』は、カトリックのセックス倫理を悩ませている問題に、知的に誠実な方法で取り組んでいる。

たとえば、カトリックではなぜ避妊が禁じられているのかを真剣に研究している。自然な家族計画、すなわち「周期的禁欲」は正当である(Wojtyla pp. 237-244)。ヴォイティワは(キェルケゴールがそうであったように)、キリスト教的結婚においては、エロースはアガペーの後塵を拝すべきものだと明言している。

\begin{quote}
ここで最も重要なのは愛という概念である。……新約聖書から生まれたキリスト教倫理学からはじめようとするならば、「愛に愛を導入する」という問題が存在するからである。このフレーズで最初に使われている言葉は、最上の命令の主催である愛を意味しており、二回目にに使われている言葉は、性的衝動に基づいて男女の間に起こるすべてのことを意味する。逆の見方をすれば、第二の愛(性的な愛)を第一の愛(新約聖書が語る愛)に変える、という課題があるとも言える。(Love and Responsibility p. 17)。
\end{quote}

これは、結婚において「欲望はもはやエロティックではない愛に取って代わられる」(スクルートン)のであり、男は妻を娼婦にしてはならない(アウグスティヌス)といったことをヴォイティワ流に言っているわけである。このような保守的でキリスト教的なホットな結婚生活への非難に対する解毒剤を、時にとんでもない、正統派とは言い難いユダヤ教ラビ、シュムリー・ボタハの著作(\emph{Kosher Sex}, 1999; \emph{Kosher Adultery}, 2002)に見出す人もいる。ポタハは、夫婦が性的関係において重要な火を絶やさないために使えるテクニックを提案することで、ペラギウス派をペラギウス的に凌駕している。

一部の法学者もセックスの哲学に重要な貢献をしている。『セックスと理性』(1992)の中で、法学教授で米国連邦巡回裁判所の判事であるリチャード・ポズナーは、ナンセンスさなどみじんもない、実用主義的、功利主義的な倫理的・法学的セックス哲学を展開し、ホモ・エコノミクス対して予測しなければならないことを明確にした(例えば、自分の遺伝子を次世代に注入する最も安価な、あるいは唯一の方法であれば、男が女をレイプすることが予測される、など)。法学教授で政治哲学者のキャサリン・マッキノンは、セクシャル・ハラスメントに関する初期の影響力のある革新的な仕事(1979年)の後、\emph{Only Words}と\emph{Feminism Unmodified}で男女の戦いを劇的にエスカレートさせた。彼女は、家父長制(たとえば現代のアメリカ)のもとでは、異性間の性交渉はすべてレイプであると宣言しているかのように見える。なぜなら、普遍的に深く抑圧されている女性は、経済的、社会的、政治的、心理的に力の強い男性との性行為に真の同意を与えることができないからである (MacKinnon, 1997とEstlund, 1997とSoble, 1996, pp.244-247と比較せよ)。ポズナー判事や、ポルノグラフィーを法的に擁護している男性学者たちが攻撃にさらされることになった (MacKinnon, 1997)。マッキノンの異性愛セックスのぞっとするような描写や、彼女の同志アンドレア・ドゥオーキン (1987)が書いた現代のヘテロセクシュアリティのしばしば恐ろしい描写を、カントのセックスの形而上学と親和的なものとして共感的に見る論者もいる (Herman, 1993; Nussbaum, 1995)。このような類似性の指摘は、現在のラディカル・フェミニズム(リベラル・フェミニズムとは対照的)に対して、このフェミニズムの形態はファッショナブルで解放的な専門用語で偽装されてはいるが、実は保守的なセックス否定論であるという解釈を助長している (Soble, 2002, pp.195-197)。

法学者として三人目になるが、哲学者でもあるジョン・フィニスは、神学者ジェルマン・グリゼス (1988) や他の新自然法学者とともに、トマスのセックス哲学の現代化に取り組んだ。フィニス (Finnis 1994) は、同性愛と同性婚が道徳的に許されるものであることを否定し、医学的に不妊の異性カップルの性交渉は道徳的に許され、必然的に不妊であるゲイやレズビアンのカップルの性行為は道徳的に不正であるという、物議を醸すカトリックの区別を擁護した (Koppelman, 2008; Nussbaum, 1994)。この区別は、カトリックのもう一つの論争的な区別と関係がある。避妊によって意図的に子作りが阻害される、道徳的に許されない異性間の性行為と、夫婦がその行為を妻の周期の(おそらく)不妊期に限定したために子作りができない、道徳的に許される異性間の性行為という区別である (Noonan, 1986, appendix)。

とりわけ重要なのは、フランス「ルネサンス」学者のミシェル・フーコー (1926-1984) である。彼は『性の歴史』(Histoire de la sexualité、1976-1984) で哲学者、歴史学者、その他の性理論家の間に暴風雨を巻き起こした。フーコーは、ボーヴォワールが予見し、アドリエンヌ・リッチ (Rich 1986) が広めたように、性的欲望と行動のパターンが社会的に操作されているだけでなく、私たちの性的言説の概念も同様に社会的に構築されているという発見的な考え方に基づく「系譜学的」研究に火をつけた。「セクシュアリティは、自然に与えられたものであり、それを権力が抑制しようとしていると考えられるべきではない。……それは、歴史的構築物に与えられた名前なのだ」(『歴史』第1巻、105頁)。フーコーは、フロイト、ライヒ、マルクーゼに見られるような、「自然なセクシュアリティ」といった言説に対して反発しており、そうしたことは、社会化の層を徐々に剥ぎ落すにつれて明らかになるであろうと考えていた。フーコーはジェンダー研究、フェミニズム、クィア理論、そして古代と現代の同性愛の類似性や連続性、あるいはそれらの欠如についての議論に大きな影響を与えた (Davidson, 2002; Halperin, 1990)。一つの論点は、1869年にマジャール(ハンガリー)人の性科学者カーロイ・マーリア・ベンケルト (Károly Mária Benkert, 1824-1882) が「ホモセクシュアル(同性愛)」という言葉を造語したときに「指向」としての同性愛が存在し始めたのかどうかということである。この「同性愛」という言葉は古代人たちは知らない言葉だったが、もし彼らがそうすることが医学的に、社会的に、あるいは哲学的に意味のあることだと考えたなら発明したいはずだ。19世紀末のヨーロッパにおける医学的性科学は、一部の人々を「ホモセクシュアル」として{\−−}治療の対象{\−−}として選別することに価値を見出した。このような性的指向や性的アイデンティティへの注目は、必ずしも精神医学的な理由だけでなく、LGBTコミュニティの政治的な利点のためにも、今日も続いている。

セックス哲学の現在どうなっているだろうか? 1970年代から1990年代にかけてこの分野の勃興に貢献した、初期の現代のセックス哲学者たちは、高齢になり、引退が近づくか、すでに引退している。より若手の研究者たちは、21世紀においてそれぞれ別々の性的トピックを探求しているわけだが、彼らはおそらく1950年代の厄介な荷物をあまり持たずにこの分野に進出してきた。科学哲学者トーマス・クーンの有名な観察にあるように、学問の進歩(あるいは少なくとも変化)は、新しく優れた発見によってもたらされるのと同様に、研究者の消耗と代替によってもたらされる。プラトンからラッセルに至るまで、性の哲学の歴史の全過程に存在した哲学を、同時代の年配の哲学者たちは、独自のスタイルやひねりを加えつつも、大なり小なり繰り返していたというのが、私のあえての意見である。若い性の哲学者たちが–歴史を忘れるのではなく歴史を超越することによって{\−−}-より示唆に富む言説を作り出すことができるかどうかはわからない。マルクスは、歴史の重みが人間の思考と実践に及ぼす影響の新たな事例を嘆くかもしれない。哲学は、議論の継続以外には何の進歩もない学問であり、その議論の継続こそが活動のすべてであり、価値あるものであることを思い起こさせることによってのみ、自らを守ることができる。

%文献

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[a]翻訳参照するべし [b]翻訳を [c]ここだめなまま [d]これ、ソーブルまちがってるはず [e]さしかえる [f]なんだっけな [g]翻訳つかうべし [h]翻訳参照

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