翻訳ゲリラ:パメラ・フォア「なぜレイプは不正なのか」

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\author{坂井昭宏・江口聡訳}

\title{パメラ・フォア「なぜレイプは不正なのか」}

\begin{document} \maketitle\else\chapter{}\fi

\begin{framed}
Pamela Foa, “What’s Wrong with Rape,” in Hugh LaFollette(ed.), \emph{Ethics in Practice: An Anthology} (Oxford: Blackewell, 1997), pp.210-218; in Mary Vetterling-Braggin, Frederick Elliston and Jane English (eds.), \emph{Feminism and Philosophy} (Totowa, NJ: Littlefield-Adams, 1977)

\end{framed}

\vspace{1zw}

レイプが不正であることは明白である。それが刑法上の暴行 (assault) というその地位によって完全に説明できないのことも同じように明白である。しかしながら、我々がレイプの独自の特徴について説明しよう試みるとき、どういう仕方でレイプの不正さが刑法上の性格づけを超えているかを説明しようとするとき、論争が始まる。私はレイプの独自の不正さは女性を人(people)と見なすことの社会的拒否から生じ、それによって完全に説明できると主張する人々に反論するであろう。私はそれとは別の説明を与えたい。レイプの独自の不正さは、我々の性的な相互作用一般の不正さに起因するのであり、たんにその誇張された表現にすぎない。レイプの独自の不正さに関する明瞭な分析は、健全で非レイプ的な性的相互作用の本質的特徴の幾つかかを教示するのに役立つであろう。

\section*{1.レイプはそれが犯罪であること以上に不正である}

レイプはもっぱら女性が我々の社会でいかに虐待されているかの現れの一つとして見られるであろう。このことは、フェミニズムがよみがえったこの時代において、期待されうることである。シモーヌ・ド・ヴォーボワールの見解を考察してみよう。

\begin{quotation}

すべての男性がブリジット・バルドーの魅力に惹かれる。しかしながら、そのような男性たちが彼女に優しく振る舞うという意味ではない。……男性は自分たちの支配者の役割を放棄しようとはしない。自由と完全な意識は男性の権利であり特権であり続けるからである。……ラブゲームにおいて、ブリジット・バルドーは獲物であると同時に狩人でもある。彼女が男性の対象であるのと同様に、男性も彼女の対象なのである。それはまさに、男性のプライドを傷つけることである。ラテンの国々では、男性は「対象としての女性」という神話に固執する。ブリジット・バルドーの自然らしさは、男性にとって可能な洗練というよりも、むしろ倒錯的である道理に反していると思われる。この女性と自分との間に相互的な欲望と快楽があることを認めることは、その人が男性の仲間であり平等であると主張することである。

しかし、血肉を供えた人形ではなく、自分が男性と同格の意識的存在を彼の腕に抱いているならば男性は不快に感じる。私はあるとき、平均的なフランス人にこう言われたことがある。「男が女性を魅力的と思う時に、彼は彼女を押さえつけたいと思ってしまうことを理解しなさい」。野卑な身振りが、女性の心と体で何が起こっているかを気にすることなく、その女を自分の思うように取り扱うことのできる事物に変える。(Simone de Beauvoir, \emph{Brigitte Bardot and the Lolita Syndrome}, London: New English Library, 1962, pp.28, 30, 32.)

\end{quotation}

そして、レイプは明らかに女性が対象と見られ、男性とは別の、男性より道徳的に劣った存在として取り扱われることの典型的な例である。もし男性と、それゆえ、社会が女性を完全に道徳的な等しいものと見なすなら、レイプはその他の種類の暴行と何ら異ならないということが、女性の対象視(object-view)に隠されている。このように、レイプの独自の不正さはこの行動の非性的側面に見出されることが、この見方からの帰結である。

そのために、M・フライとC・シェイファは論文「レイプと尊敬」においてレイプの不正さは二重であると論ずる。第一に、それはその女性自身の最善の利益に反する行為、あるいは事件の遂行に、その人を同意なしに使用することである。第二に、それは、女性の地位を人格(personhood)の完全な特権、とくに正当に自分の領域(domain)であるところを意のままに動き回る自由を欠いた、あるいは、欠くべきである種類の存在として強化するための社会的手段である。この説明のよいところは、それが人の人格の本質的侵犯(たんなる性的虐待ではなく)の意味を理解する一つの方法を与えていることであり、これがレイプ行為の自然的な同伴物であるように思われる。 (Marilyn Frye and Carolyn Shafer, “Rape and Respect,” in \emph{Feminism and Philosophy}, ed., Mary Vetterling-Branggin, Frederick Elliston, and Jane English(Totowa, NJ: Littlefield-Adams, 1977)

この説明は、さらに刑法上のレイプという一般的事実に対する継続的な社会的拒絶に一つの説明を加える。この見解によれば、レイプを犯罪として認めるためには、女性の領域を認めなければならない。しかし、領域が人格性(personhood)と切り離せないように基づいているなら、もし人格性が実際に領域によって分析されうるなら、領域のないところにはいかなる領域の刑法上の侵害もありえない。あるとすれば、ただの錯覚か誤解である。同意の領域を認めることは、その領域の中央にいる人々の存在を認めることである。このような中心なしには、レイプはありえない。

不幸なことに、私はこの種の説明がレイプのどこが不正なのかの十分な説明として役立つとは思わない。私は第一級の人格としての女性の存在論的地位の強調は不適切であると考える。どのようなレイプ行為においても、人はその人格性への適切な配慮なしに使用されていることは確かである。しかし、このことはすべての身体的暴行について真である。もしレイプには付加的な不正さがあるなら、それはたんなるその人格性への適切な配慮を欠いた他の人によるある人の取り扱いよりも、いっそう不正であるに違いない。この論文で論及するが、私はレイプの独自の不正を説明するために、犠牲者と加害者とを存在論的に差別化する必要がないことを明らかにするであろう。しかしながら、レイプは存在論的に平等な者の間の行為ではないとしても、それは深刻な意味で不正であることを認識することは重要である。

レイプに独自の不正さは、この行為において男性が平等な地位にある者に帰せられる一揃いの道徳的法的権利と特権を認識していないという事実に帰着させることはできない。ほとんどの人は実際に子どもが大人(男性と女性)の持つのと同じ広さの同意の領域を持つ、あるいは持つべきだと考えてはいないが、子どもに対するレイプは少なくとも大人に対するレイプと同様に恥ずべきである。部分的には、最近のイギリスの判決において混乱している点でもあるので、ここで少しばかり触れておく。つまり、道徳的なものと存在論的なものを混乱しているように見える。男性の願望、意図、信念には異なった、より重要な重さを与えられている。まさに彼らは女性とは異なった種類の存在として(この事例では不正に、おそらく子どもの事例では正当に)見られているからである。

しかし、たとえ女性は人ではないと、必ずしもすべての人(たとえば子ども)が同じ権利、同じ同意の領域を持つのではないと考えるとしても、レイプはとくに恐ろしい、他の暴行が恐ろしくはない仕方で恐ろしく見える。たとえば、ある人のペットの犬をレイプすることには、それはおそらく犯罪ではないとしても、何らかの深い苦痛がある。それはいかなる通常の身体的暴行も、たとえ人に対してさえ当惑させない仕方で当惑させる。これら二つの事例で、道徳的な不法行為に相当するのは、最初の事例は小児性愛であり、第二のそれ獣姦であると反論されるかもしれない。すなわち、こうし行為の独自の不正さは、「自然」の性衝動の達成の虐待的状況よりも、むしろ性的衝動の「不自然」な方向づけによるというのである。

これに対して、私は「不自然」な行動への憤慨が方向違いで不適当だと反論する。自然に「反して」行動することが不道徳であるという概念は、事物の大半がいかにあるかが、道徳的に言って、事実がつねにどうあるべきかであるとする誤った信念に由来する。自然の秩序に道徳的計画がないなら、反自然に行動することは不道徳に行動することにはならない。また、自然の秩序にはまったく道徳的計画はない。したがって、もし上の二つの事例で何か非常に不正なことが起こっていると感じることが理性的であるとしても、それはレイプだからであって、それらが「反自然的行為」だからではない。しかしながら、たとえこの論法が決定的でないとしても、精神遅滞者に対する無差別のレイプは、そうした個人が我々の社会で正常な人々が持つ道徳的法的権利をまったく持たないとしても、なお明らかに不正であることは認めなければならない。

もちろん、ここで指摘されるべきもっともな点は、それは領域を持つ人々ではないこと、レイプで不正なことは、ある人が同意や権利なしに他人の領域に侵入することであるということである。しかし、もしこのようなことが真であるなら、レイプはそれが領域への「侵入」であるという理由で不正であることになる。このことは、レイプを他の身体的暴行が不正であるのと同じ仕方で不正である。この侵入が人のアイデンティティの核心に近づけば近づくほど、この行為はいっそう不正になる。

ここでの問題は、こうした論法はレイプが他の身体的暴行が不正であるのと同じ仕方で、またただ同じ仕方でだけ不正であることを確立することである。しかし、証拠はこのことを否定する。レイプという暴行には感情的付随物 (emotional concomitant) 、性的でない刑法上の暴行には欠落しているそれがある。理解されるべきことは、性の問題が生ずるとき、人々は自分たちのパートナーの平等な存在論的立場を完全に承認していても、相互に忌まわしい仕方で取り扱うことである。フライとシェイファの理論とは反対に、私は偏見を持たない男女、両性の道徳的存在論的平等に少しも疑うを持たない人々が、本質的にレイプに似た性生活を持つことでき、また事実持っていると考えている。

以下の事例は、レイプに独自の特徴を形成するものが、ある人の人格への攻撃やその人の領域への侵入でもないことを十分に証明する。二十数年前にニューヨークで、鋭いナイフで人々を切り裂き男がマンハッタン周辺に出没した。彼はこれを盗みあるいはそれ以上の身体的暴行の一部としてなしたのではなかった。彼の目的はただ人々を突き刺すことだった。彼は人々の最善の利益に反して、彼らの同意なしに彼らを使用した。すなわち、彼は広く領域を侵犯した。切り裂き魔の犠牲者であることは、レイプの犠牲者が侮辱され汚されるのと同仕方で侮辱され汚されることではない。レイプされることが不法に扱われ不当な扱いを受け品位を汚されるのと同じ仕方で、不当に扱われ品位を汚されたされのではない。誰一人その攻撃を挑発し刺激し楽しんだとしてその犠牲者を非難ししたりはしない。

けれども、レイプに関する公共的な道徳は、もし誰かがレイプされることに加えて、何らかの仕方で傷つけられたり、骨折したり、殺されたりしないなら、人はその行為を挑発した、刺激した、応諾した、同意した、あるいは楽しんだかのように疑われる。まさにこの公的な反応、こうした反応に対する恐怖とその合理性に対する信念(明確にあなたを人格と見なす人々からの)が、レイプをとくに恐ろしいものにしている。

このように、レイプについてとくに悪いものは、我々の存在論的見方ではなくて、我々の社会の性的な見方においてその位置が持つ機能である。もちろん、こうした見方に必然的なものは何もない。しかし、それら変化するまでは、たとえ両性間の平等に対する戦いにおいてどのような進歩がなされるにしても、レイプは特別に恐ろしい行為であり続けるだろう。

\section*{2.性、親密性、快楽}

我々のレイプに対する対応は、あらゆる性的な出会いと性的存在としての我々自身の本性、目的、道徳に対する内的感情に焦点を合わせる。ただちに問題とされる二つの領域は、性と親密性との関係、および性と快楽との関係である。

我々のビクトリア王朝の祖先たちは、(少なくとも、夫婦間の)親密さのない性交は道徳的に不正であり、性的快楽の経験豊富な女たちだけが色情症 (nymphomaniac) であると信じていた。(Francoise Basch, Relative Creatures: Victorian Women in Society and the Novel, New York: Schocken Books, 1974) フロイトの研究が革命的であったのは、一部には無性的存在者として「よい」女性と子どもという見方に挑戦したからである。しかし、マスターズとジョンソンの研究によって、普通の女性が性的快楽をる能力を有することが科学的に完全に認められた。(William H. Masters and Virginia E. Johnson, Human Sexual Response, Boston: Little, Brown, 1966) 現在では、性的快楽が人生のあらゆる段階においてすべての人々に存在し、またそれ自体として道徳的に許された目標であることが承認されている。それにもかかわらず、この現代の態度はいまビクトリア朝の雰囲気によって支配されている。それはプライベートにのみ、性的関係以外でも親密であり、また親密であろうとする人々の間でのみ経験されるべき一種の快楽であるとする一般的感情が残っている。性器快楽(genital pleasure)はたんに我々の身体的位置の記述においてのみならず、その発現あるいは機会の概念においてもプライベートである。

レイプ犠牲者にとって、性交における快楽の発見によって特殊な問題が発生した。今日、ある人々はレイプを含むすべての性行為が、ある程度まで快楽をもたらすであろうと信じている。したがって、ある人々はレイプ犠牲者も自分自身である程度まで楽しんでいるに違いないと信じており、この享受は親密でもなく、プライベートでも状況において恥ずべきであると信じている。それゆえ、レイプに関してとくに不正であるものは、それが女性の性的本性を明るみに晒すことであり,これがエバの時代からビクトリアの時代を通じて、女性に対する侮辱の原因と見なされて来た。この見解によれば、レイプの特殊な害悪は、女性の特性によるもので、彼女を暴行する者の特性によるものではないことに注意しなければならない。

性交が親密な者の間でのみの道徳的であるとするこの付加的な社会的態度は、レイプ犠牲者の状況の評価においてもう一つのジレンマを生じさせる。一方で、もし性行為それ自体が二人の間に親密な関係を生じさせると信じられているなら、必然的に、レイプ犠牲者は彼女の加害者と親密な関係を経験することになる。このことは親密関係の事実を強調することによって、レイプの事実を否定させる傾向を持つ。もし性交それ自体は行為者間の親密関係を生じさせると信じていないが、性交は親密関係がないなら不道徳であると信じているならば、たとえ強制的であったにしても、親密関係の欠如した状態での性交という事件は、公的軽蔑と侮辱の原因になってしまう。レイプ犠牲者にとって、レイプを承認することは自分自身の不道徳を承認することである。どちらにしても、犠牲者は社会的な性のタブーを犯したのであり、それゆえ、彼女は追放されなければならない。

重要なことは、その人はもはや暴行の犠牲者であるだけではなく、社会的犯罪からの生存者であるということである。これは犠牲者が負わなくてはならない特別な負担である。

私の見解を支えてくれるのが、T・ウィッカーのアッティカ刑務所の囚人暴動について書かれた著作(Tom Wicker, A Time to Die, New York: Quadrangle Books, 1975) に対するG・ウィルズの書評である。説明される必要があるのは、刑務所に対する攻撃の準備や攻撃そのものにおいて、明らかに特殊な仕方で囚人たちの人質の安全性が無視されていることである。この事件でとくに重要なこととして私の心を打ったのは、刑務所の壁の外側の人々が看守をまさに囚人のように取り扱ったことである。決定的な類似性は禁じられた性的行為へのいわゆる参加であり、そうした行為はすべての屈辱的行動の模範として見られる。ウィルズは彼の批評のなかで次の様に言っている。

\begin{quotation}
性的幻想はアッティカ刑務所の壁の周りで見えない光のような役割を果たした。看守たちは彼らの家族に囚人はすべて動物だと言った・・・。

ついに攻撃が始まり、警官たちが囚人と一緒に人質までも殺し始めたとき、ほとんど宗教的信仰があらゆる証拠に反して―「人質たちは去勢されている」「まだ生きている人たちは暴行されている」という作り話を生き続けさせた。そのどれ一つとして真実ではい。しかし、看守たちは囚人たちがどんな非人間的扱いを受けていてか、またそれに見合うどのような仕返しが求められているかを知っていた・・・。

静かな町のなかで何が起こったのか理解するために、人間の心に深く入り込まなくてはならない・・・。地域住民の血に飢えた憎しみは攻撃の時には明らかだったので、ロックフェラーさえも刑務所職員は誰もその攻撃に参加しないように命令した。それにもかかわらず、11人の男たちがまんまと攻撃に加わった・・・。彼らは外部の人たちよりも看守にいっそうの配慮を示して、彼らを助けるために行ったのだろうか。いや、そうではない。彼らはただちに、他の人たちと同じように無差別に発砲した。でも、なぜ。ウィッカーはそこで何が起こったのか理解するのに少しばかり上品すぎるように思われるが、彼自身の文化的背景を通して我々に手がかりを与えてくれる。昔の南部で白人少女が黒人と一緒に逮捕される時は、つねに神話がその「少年」はレイプで告発され、リンチされるべきことを要求した。しかし、ひそかな社会的追放がその少女に課される。彼女は抵抗したのか。彼女はうっかり口を滑らすとか、エピソードの繰り返しで神話を覆していないのか。何れにせよ、彼女は汚された。自ら望んだにせよそうでないにせよ、彼女は触れてはならないものに触れ、堕落=汚染という邪悪な栄光 (evil halo of contamination) を手に入れた。タブーは「意図」を重視しない。同じように、刑務所で捕らえられた看守たちは汚された商品だった。彼らは困惑の種だった。その白人少女は心から彼女に対する黒人の攻撃者に抵抗したのかもしれない。しかし、抵抗は純潔を奪うことであると想像すること―また、彼女の存在そのものが人々にそれを想像させること、彼女は公共的な汚れだった―浄化=追放せよ。この比較は空想的であるのか。ウィッカーでさえ・・・その攻撃が始まる前に救急医療部隊をアッティカ刑務所に送り込まなかった責任者の態度が理解できないと言っている。リンチ集団は少年を捕らえようとする騒動のなかでその少女を殺すかもしれない。{\DDASH}そして、リンチの集団はそのことを後悔するよりも、むしろそれを認めるだろう。(Gary Wills, “The Human Sewer,”New York Review of Books, 3 April 1975, p.4)

\end{quotation}

フライとシェイファのような解釈は、なぜ囚人たちが攻撃部隊によってそんなにひどい扱いをされたのかを説明できるかもしれない。しかし、それは人質たちの残酷な扱いを説明できない。たしかに、それは人質である看守たちが人として、存在論的に平等な者として見なされていないとか、かつてそう見なされことがなかったと言うことはできない。しかも、レイプされた女性にとって恐怖があるように、アッティカ刑務所で人質であることに同じ特別な恐怖があった。何れの場合にも、犠牲者は永久に「堕落の栄光」を獲得した。また、このことはどちらの場合も社会が犠牲者に人格や同意の領域を否定すると主張することによって説明できない。

性的暴行の事例の犠牲者は、暴行そのものと同様に我々の性行為に関する混乱した信念の犠牲者である。我々がそうした犠牲者に課した極度の重圧は、性的関係とそこにおける快楽と親密性の役割に関する、またそれらの必要に関する我々の深い混乱の決定的な結果である。

一つの社会として、我々は性行為は親密関係においてのみ正当化されるという信念を共有するという事実にも係わらず、我々はどんな犠牲を払っても真の親密関係を回避するために行為しているように思われる。我々の祖先がそうだったように、我々は性的社会的生活における親密関係の位置について困惑しているように見える。そしてこれは、本当の親密関係が奔放な性関係や放蕩生活を作り出し解き放つことを恐れているからであり、これを我々は道徳的に不快と見なしているからだと考えられる。同様に、我々は親密関係のない性行為は売春行為であり、それゆえに道徳的に不快であると信じている。この手に負えない葛藤が以下のことを示している。すなわち、ただレイプをあらゆる性的相互関係の対立物ではなく、その模範として見なす時だけ、我々は我々のレイプに対する反応を理解することができる、ということである。

\section*{3.性的関係のモデルとしてのレイプ}

もっとも、我々は時として性行為が友人同士の間でもっとも快楽をもたらすかように語っているが、我々は相互に性行為のパートナーを友人として扱うように教えていない。我々の文化的モデルと言われるる中流階級の子どもたちは、早いうちから自分の性的衝動を可能なかぎり無視するように教育されている。性的交渉が中心的な話題となる前から、子どもたちが前思春期のとき、少年はキスしようと突進し、少女は頬に軽いキスをすることだけ許すように教えられている。このミニチュア化された大人の性的行動の奨励は幾つかかのレベルで教訓的である。

子どもは異性に言い寄る行為は自発的であることも、関係のある人々に喜びを与えることも少ない、つまり、典型的な友達と一緒に遊ぶ行為には似ていないと教わっている。子どもたちに与えられているのは、大人たちが実際にどのように行動し、どう行動することが期待されているか、未来の生活と社会的相互関係のなかで何が期待されているのかを覗き見ることである。さらに重要なことは、少年たちは少女たちが持つ自分の欲望と必要に関する主張に無関心であるように教えこまれる。また、少女は、自分たちがどんな行動に従事すべきかの手段として、あるいはその確認として自分の感情に相談しないように教えこまれている。(p.215)

すべてのアメリカ人の少女は、彼女たちが将来に哲学者になるか否かに関わりなく、「滑りやすい坂論法」をよく知っている。彼女に教えられているところによると、頬に軽いキスをする以上の関係を持つことを許すなら、それは性行動のもっとも罪のない性的合意であるが、必然的に性交と妊娠に繋がるような行動に巻き込まれることになる。また、このような行動は不正である。すなわち、彼女が自分の感情にある程度従うなら、不道徳なことを行うであろうと教えられているのである。(p.215)

他方、すべてのアメリカ人の少年は、明示的であるか否かは別にして、次のように教えられている。すなわち、少女にはこの論法が(武器として)与えられており、それゆえに彼女の言うことすべてはこの論法の反映である(彼女の感情ではない)から、彼らは彼女の言うすべてのことを無視すべきであると教えられている。

少女たちはけっして自分の感情を考慮に入れないように言われる。(感情はただ滑りやすい坂の縁へと彼女たちを誘導することができる。)それゆえ、彼女はつねに「いや」と言う。少年たちはその滑りやすい坂の縁を越えて少女を連れ出すことが、彼らが大人へと成長したサインなのだと言われる。また、少女たちが自分の感情とは独立に、「いや」ということは標準的な手順である。こうして十分に合理的に、少年たちは自分たちがいつも少女から受け取っている明示的な情報から独立して、行動する。

女性にとって、自分が8、9、10歳の年代から、自分の感情の報告が、正確で真実で重要、あるいは興味深いとは見なされていないことを知ることはとても当惑させることである。イギリスの精神科医であり理論家でもあるR・D・レインはこのタイプの大人の行動こそが精神錯乱をもっともよくその根を見出す環境であると主張している。 (R. D. Laing \& A. Esterson, \emph{Sanity, Madness, and Family}, Baltimore: Penguin, Penguin Books, 1970) 少なくとも、このような行動が合理性と健康のモデルでないことは明らかである。何れにせよ、レイプはただ話を聞くという仮面が剥ぎ取られた事例である。それが、我々が期待するように訓練を受けてきたこと当の事柄の本質である。

性的にいっそう健全な社会において、男と女はその快楽が本人の意思(強制的行動を含む)に反しないかぎり、また彼らが果たすことができない、また果たすつもりもない責任(感情的、身体的、経済的)に巻き込まれないかぎり、彼らに快楽を与える行為に参加すると言われるだろう。

しかし現状では、少年少女は彼らにとって何が快楽で何がそうではないか、何が彼らを脅かし、何がそうではないかを伝え合う術を持っていない。そこにあるのは暴力と暴力による脅し、また脅えた仲間同士や保護団体に通知することへのアピールだけである。これは女性や少女にとって高いリスクを伴う大きな賭けのゲームである。少年少女たちはそれがしばしば容易にレイプになると感じている。(通常は車の後部座席やリビングのソファの隅で性的愛撫以上のことはなされないとしても。)しかし、このような種類の性教育の最終的な結果はそれほど取るに足らないものではない。たとえば、最近のイギリスの最高裁判所判決の影響を見てみよう。

さて、新しい解釈によれば、どんなに女性が叫び抵抗したとしても、被告のレイピストは犠牲者の同意を信じていたと主張することによって身の証しを立てることができる。たとえ彼の信じていたものが、不合理で非理性的であったとしてもである。

7ヶ月前のある雨の夜、ロンドン在住の主婦であり3人の子どもの母である女性が、荒れ果てた小屋に無理やり連れ込まれたと主張した。アニー・ベーカー助けを求めて叫んで抵抗したが、レイプされたと言っている。ベーカー夫人は自分の論拠を失った。なぜなら、男は彼女が「ノー」と言ったとき、「イエス」を意味していると考えたと主張したからである。

議員の一人[の予想では、陪審員たちは]「女は彼女がたものを求め、また彼女はレイピストが彼女に与えたものを欲したとレイピストに言わせるだろう。」

しかし、イギリス法曹協会会長は「今日、男女間の関係はいっそう乱交的になっていることを認める用意があり、現代の状況下において女性が同意しているか否かをよりいっそう注意深く見なければならない。現在では30年前よりも同意へのいっそう大きな意向があるから、人は女性が同意しないと安易に想定すべきではない。」

チェルシー卿は「この事件において答えられるべき問題は、私の見るところでは、通常の英語の使い方によって、もし男が女性が性行為に同意していると信じるなら、レイプを犯したと言うことできるか否かである。私は彼がレイプを犯しうるとは考えない。」 (New American Movement Newspaper, May 1975, p.8)

これは我々の以前の教訓の想像可能でもっとも背筋の凍るような拡張である。まさにこのことが、最近の相互的コミュニケーション― オーガズム、あるいは性的満足であるにせよ― としての性の哲学的な分析は実在にもっともか細い関係しか持たないという提案を最初は不適切で奇妙なものにしている。(R. C. Solomon, “Sex and Perversion,” Tom Nagel, “Sexual Perversion,” Janice Moulton,“Sex and Reference,”in Philosophy and Sex, eds., Robert Baker and Frederick Elliston, Buffalo, NY: Prometheus Books, 1975)

我々が教わったように、性的欲望を女性は持つべきでなく、男性がそれを持たなければならない。これは男女間の永遠の戦いを必然とするモデルである。また、なぜレイプがセクシュアリティの優越的なモデルであるかを説明するのもこのモデルである。それは、わずかな挑発に誤って女性がレイプだと叫ぶ多くの人の困らせる態度を説明するというもう一つの長所を持っている。これはまた、なぜ男性はいかなる女性もレイプされないと信じるかを説明する。それは初めは穏やかで不満足であった(女性が「いや」と言う)ものが、時とともに次第にエロチックになり、最終的な興奮が女性の「レイプだ」という叫びに変わるかのようである。

\section*{4.一つの選択肢:友人間の性交渉}

レイプの何が不正であるかを理解することが困難である理由は、レイプがもっともありふれた社会的な出会いの一種であるからである。レイプがどういう仕方で不正であるかを確立することは、我々すべて誤ったリズムで歩いてきたことを確立しなければならない。レイプは究極の性的関係、すなわち結婚から程度によって異なるにすぎない。

J・モルトンの指摘したように、セクシュアリティの理論に対する最近の哲学的注目は、幾つかかの性的な論争における哲学的な考慮は、主に見知らぬ人の間の性的関係に向けられてきた。 (Janice Moulton, “Sex and Sex,” unpublished paper) 私の見解では、我々はこの主要な関心ごとを、我々の恋愛中の手順がカップルが相互に見知らぬ人のままで留まるように仕方で構成されていることに注目することによって説明できる。彼らは友人として尊敬や思いやり相互に話したり聞いたりしない。その代わりに、エロス的なものの頂点として理解されているのは親密さのない性行為である。

我々が性的快楽の正当性に対して確信が持ないままであるかぎり、セクシュアリティに関する我々のレイプのモデルを放棄することは不可能である。我々がレイプのモデルを放棄することができるのは、ただ性行為について羞恥心、きまり悪さ、はにかみなしにお互いに進んで率直に話し合う時である。なぜなら、我々はたんにそのことを非常に恐れているので、お互いに聞くことができないだけだからである。

幸いにもこれを放棄することは、我々に愛人を友人にすることを要求する。親密さが友情の領域を拡大することが理解されると、我々はただちに友情の幾つかかの本質的な特徴を性的相互関係のためモデルの一部として使用することができる。また、本物の友情の喜びを強奪的快楽に対する選択肢として提出することができる。

ここでこれ以上、恋人同士の正しいモデルが友人関係のそれであるという見解に立ち入らない。私は恋人たちが健全な関係においてかなり複雑な友情を持っていることを信じているが、また私は友人同士の間に見られない重要な特徴を恋人関係に見出して当惑しているのだが、この二つの関係はたんに密接に関係し合うだけで、最終的には同一のモデルで説明可能ではないということであろう。

我々の時代錯誤な信念を放棄し、我々自身の性的側面について感じている葛藤を解決というきわめて困難な仕事がある。しかしいったんそれがなされると、我々自身と他人との無知と否定と知識とを、恐怖と友情とを交換できるという明白な利益があるばかりではなく、我々はまたセックスに対するタブーを、レイプからさえタブーを取り除くことができるであろう。レイプ行為には、もはや我々がその犠牲者を罪を背負った生存者として取り扱わなければならいほど、ひどく抑圧し否定する必要があるとするいかなるお告げも合図も存在しないであろう。レイプ行為はもはや我々にセックスの「真の」本性、あるいは我々の性的欲望を思い出させない。

我々の性的欲望の事実に本質的に禁じられていることが何もないなら、もはやレイプの犠牲者はタブーに従属することも、汚れと見なされて社会的に疎外される必要もない。レイプの犠牲者は同時に必然的に永遠に名誉を汚された考えることなしに、その時だけひどく侮辱されたと見なすことができる。

さらに、もし性的な出会いのモデルが変わるなら、もはやレイプの犠牲者を非難するためのどんな動機づけも存在しないであろう。性行為とレイプはもはや同格ではないので、我々のセックス一般のレイプ的本性に対する我々自身の罪や恥を覆い隠し、我々の罪をレイプの犠牲者に移し替え、その人をのけ者にするためのいかなる動機づけもない。レイプは一つの不運な逸脱行為であり、我々の組織的虐待と相互の否定の象徴であるよりも、むしろ犯罪者個人の行為になるであろう。

\section*{参考文献 } \label{sec:-}

\begin{enumerate}
\item
Marilyn Frye and Carolyn Shafer, “Rape and Respect,” in Mary Vetterling-Braggin, Frederick Elliston and Jane English (eds.), \emph{Feminism and Philosophy} (Totowa, NJ: Littlefield-Adams, 1977)

\item Williams, H. Masters and Virginia E. Johnson, \emph{Human Sexual Response} (Boston: Little Brown, 1966)

\item R. C. Solomon, “Sex and Perversion,” in Robert Baker and Frederick Elliston(ed.), Philosophy and Sex(Buffalo, NY: Prometheus Books, 1975)

\item Tom Nagel, “Sexual Perversion,” in Robert Baker and Frederick Elliston(ed.), \emph{Philosophy and Sex} (Buffalo, NY: Prometheus Books, 1975)

\item Janise Moulton, “Sex and Reference,” in Robert Baker and Frederick Elliston(ed.), \emph{Philosophy and Sex} (Buffalo, NY: Prometheus Books, 1975)

\item Lyla O’Driscoll, “On the Nature and Value of Marriage,” in Mary Vetterling-Braggin, Frederic Elliston, and Jane English(eds.), \emph{Feminism and Philosophy} (Totowa. NJ: Littlefield-Adams, 1977)

\end{enumerate}

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