昔坂井昭宏先生が訳したInternet Encyclopedia of Philosophyの項目、ソーブルによる「セクシュアリティの哲学」のゲリラ訳です。
https://yonosuke.net/eguchi/material/tr-soble-sexuality.pdf においときます(読めなくなってたら教えてください)。ソースは https://docs.google.com/document/d/1Gc_od1cKKj5flURZiHmZt96FE18YYwBIxZ37tioQ9Sw/edit にあるので、タイポや誤訳の修正にご協力いただけるとたすかります。コメントつけてください。
\ifx\mybook\undefined \RequirePackage{plautopatch} \documentclass[uplatex,dvipdfmx]{jsarticle} \input{mystyle} \renewcommand{\refname}{参照文献} \author{アラン・ソーブル(坂井昭宏訳)} \title{インターネット哲学百科事典「セクシュアリティの哲学」} \begin{document} \maketitle
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\begin{mdframed}[roundcorner=5pt]
これは、\href{https://iep.utm.edu/sexualit/}{Alan Soble (2006) “Philosophy of Sexuality”, \emph{Internet Encyclopedia of Philosophy}} のゲリラ(無許可)訳である。この文書をレポートで参照・引用する場合は、文献表では以下のように表記すること。
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\hspace{3zw}アラン・ソーブル (2006) 「\thetitle{}」、坂井昭宏訳、講義資料、\number\year{}年\number\month{}月\number\day{}日{}版
最新版は \url{https://docs.google.com/document/d/11dAyHc_Bkz9pwt-_5yclhzhd7WRFMRCY6tDj7gbLMvE/edit} にあるので、誤訳の訂正・誤植訂正にご協力を乞う。PDFはしばらく\url{https://yonosuke.net/eguchi/tmp/tr-soble-sexuality.pdf}に置く。
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\else \chapter{} \fi % ———————————————————––— % ———————————————————––—
\href{https://iep.utm.edu/sexualit/}{Alan Soble, Philosophy of Sexuality, \emph{Internet Encyclopedia of Philosophy}, 2006}
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\section{はじめに}
セクシュアリティの哲学によって探究された多くの主題のなかには、生殖、避妊、独身主義、結婚、姦通、カジュアル・セックス、浮気、売春、同性愛、自慰行為、誘惑、強姦、セクハラ、サド/マゾヒズム、猥褻文書、獣姦、小児性愛がある。これらすべてが共通にもつものは何か。すべてがさまざまな仕方で人間のセクシュアリティの広大な領域に関係する。すなわち、それらは一方では性的快楽あるいは満足の探求とその達成を伴う人間の欲望と活動にかかわり、他方では新しい人間の誕生を伴う人間の欲望と活動にかかわる。なぜなら、ある種の行動とある特定の身体器官が快楽のためか、生殖のためか、あるいは双方のために使用され、使用することができるということは人間の自然的特徴の一つである。
セクシュアリティの哲学は概念的かつ規範的にこうした主題を探究する。セクシュアリティの哲学において、概念分析は性的欲望と性的活動に関する基本的概念を明確化するために遂行される。同様に、概念分析は姦通、売春、強姦、猥褻文書などに関する満足のできる定義に到達しようとする試みにおいて遂行される。概念分析はしばしば困難であり、外見上小うるさく見えるが、予測できない驚くべきしかたで報われることがある。たとえば、ある欲望を他の何かではなく性的欲望にするその顕著な特徴は何か。誘惑はどういう仕方で非暴力的強姦と異なるのか。
セクシュアリティの規範哲学は性的活動と性的快楽の価値、またそれらに可能な多様な形態の価値を探求する。したがって、セクシュアリティの哲学は性道徳の永遠の疑問に係わり、応用倫理学の大きな分野を構成する。セクシュアリティの規範哲学は、セクシュアリティが善い有徳な生活にどのような貢献をなしうるかを探求する。それは、我々がある種の性的行為を差し控えるためにどのような道徳的義務をもつか、我々が他の種類のそれに携わるためにどのような道徳的許可を持っているかを決定しようとする。
あるセクシュアリティの哲学者は、概念分析と性的倫理の研究を別個に行う。彼らは強姦あるいは姦通のような性的現象を定義することと、それを評価することはまったく別であると信じている。他のセクシュアリティの哲学者は、性的現象を定義することとその道徳的評価に到達することの間に確固とした区別をすることはできないし、性的諸概念の分析と性的行為の道徳的評価が相互に影響を与えると信じている。一方に価値と道徳と、他方に自然的、社会的、概念的な事実との間に整然とした区別が実際に存在する否かは、哲学において際限なく議論されてきた魅力的な主題の一つであり、セクシュアリティの哲学にのみ限定されるのではない。
\section{セクシュアリティの形而上学}
性的活動に関する我々の道徳的評価は、我々が人間においてあるべき性的衝動あるいは性的欲望の本性をどう見るかによって影響されざるをえない。この点に関して、我々が形而上学的な性の楽観論者と呼ぶ哲学者と、形而上学的な性の悲観論者と呼ばれる哲学者との間に深い断絶がある。
セクシュアリティの哲学における悲観論者たちには、アウグスティヌス、カント、また時にはフロイトらが含まれる。彼らによれば、性的衝動とそれに基づく行動は、必ずというわけではないが、ほとんどつねに人間人格の尊厳に不相応と見なされる。彼らはこの衝動の本質と諸結果を、人間存在のいっそう重要で高尚な目標と憧憬と両立しえないと見る。彼らは性的衝動の力と要求が調和のある洗練された生活に脅威をもたらすことを恐れている。また、彼らはたんに我々の他人に対する適切な関係と道徳的な取り扱いだけでなく、我々自身の人間性に対する脅迫をセクシュアリティに見出している。
反対側には形而上学的な性の楽観論者がいる。その著作の一部でのプラトン、時としてフロイト、バートランド・ラッセルと多くの現代の哲学者である。彼らは人間のセクシュアリティを、ただ我々の肉体を持った、あるいは動物的な存在の一つのほとんど無害な次元と見なす。彼らは性的衝動にとくに不愉快なものは何も認知しない。彼らはセクシュアリティはある程度進化によって我々に与えられたのであるから、それが我々の知的な性癖を減ずることなしに、我々の安寧に貢献しないわけはないと判断する。また、彼らはこの衝動の力を恐れるよりも、むしろ称賛する。それは我々を幸福のさまざまな高い形態に高めることができるからである。
セックスの形而上学のどちらを選ぶかによって、その人の善い有徳な生活におけるセクシュアリティの価値と役割に対する判断と、どのような性的活動が道徳的に不正であり、どれが道徳的に許されるかに対する判断が影響されるであろう。これらの意味するところの幾つかを考察してみよう。
\section{悲観的な性の形而上学}
形而上学的な悲観論の拡張された形態は、次のように主張する。性的欲望の本性そのものによって、ある人が他の人を性的に欲望するとき、性的活動の前にも、その過程においてもその人を客体化する。セックスは、カントによれば、「愛する人を性欲の対象にする。それ自体として理解するなら、それは人間性の格下げである。」(Lectures on Ethics, p. 163)もう一人の人とセックスをするに先立って、あるタイプの操作と欺瞞が必要であるか、あるいはそれらは性的経験の本性の一部に見えるほど一般的である。バーナード・ボームリンが指摘するように、「性的相互作用は本質的に操作的である{\−−}身体的に、心理的に、感情的に、そして知性面にさえ」(”Sexual Immorality Delinieated”, p. 300)。たとえば、我々は故意に我々自身が実際にある以上に、他人にいっそう魅力的で望ましく見えさせるよう努力し、自分の欠陥を隠すために格別の努力をする。一人の人が他の人を性的に欲望するとき、他の人の肉体、その人の唇、太腿、つま先と尻は、その人自身とは異なった興奮させる部分として欲望される。他人の生殖器もまた我々の注意の対象である。「セクシュアリティは一人の人間がもう一人の人自体に対して持つ性向ではなく、もう一人のセックスに対する性向である……。ただ彼女のセックスだけが彼の欲望の対象である。」(Kant, Lectures, p. 164)
さらに、性的行為それ自身はその制御できない覚醒、非自発的な痙攣と、他人の肉体を支配し消費することへの切望という点で独自である。性的行為の間に、人は自分自身の制御を失い、また他人の人間性に対する配慮を失う。我々のセクシュアリティは他人の人格に対する脅威である。しかし、欲望に捕らわれている人も、同様に自分の人格を失う瀬戸際にある。欲望する人は満足を獲得するためにもう一人の人の気まぐれを当てにする。その結果として、その人の要求と操作を受け入れる骨なしになる。「欲望においてあなたは欲望の対象の目から見て譲歩を余儀なくされる。というのは、あなたからあなたが彼の意図に屈服しやすい計画を持っていることを示したからである」(Roger Scruton, \emph{Sexual Desire}, p. 82)。(もう一人の人に抵抗できない性的提案を申し出る人は、性的欲望によって弱くされた誰かを搾取している。Verginia Held, “Coercion and Coercive Offers”, p. 58参照)。さらに、他人の性的欲望に従う人は自分自身を道具にしている。「一つの性が他人の性器についてなす自然的な使用が喜びであり、そのために人は自分自身を他人に委ねるのである。この行為において、人間は彼自身を事物にするが、それは自分自身の人格における人間性の権利と矛盾する」(Kant, \emph{Lectures}, p. 62)。性的活動に従事している人々は、ただ性的快楽のためだけに相互に自分を喜んで対象に変える。したがって、双方の人が動物のレベルに格下げされる。「もしある男が自分の欲望と女の欲望を満足させることを望むなら、彼らは相互に相手の欲望を刺激し合う。彼らの傾向性は満たされる。しかし、彼らの対象は人間性ではなくセックスであり、彼らは相互に相手の人間本性を汚している。彼らは彼らの欲情と性向の満足のために人間性を道具に変え、それを動物のレベルに置くことによって人間性を汚す。」(カント『倫理学講義』164頁)
最後に、性的衝動の本性的な執拗さのために、一度事態が進行すると、その衝動をその過程で止まらせることは困難であり、その結果として、我々はかつてなそうと計画したことも望んだこともないことを性的に行うことになるのである。同様に、性的欲望は強烈で融通の効かない欲望であり、理性を挑発する可能性がもっとも高い熱情の一つであり、その満足を求めることが黒い路地を手探りで進むこと、微生物学的に不潔な行為、ホワイトハウスの周りにこそこそ歩くこと、あるいは衝動的な結婚を伴うときでも、満足を求めるように我々を強制する。
このような人間のセクシュアリティに関する悲観的な形而上学が与えられるなら、性的衝動に基づいて行為することは、つねに道徳的に不正であると結論されるのも当然である。実際、たとえホモ・サピエンスの終焉を意味するとしても、それがまさに導き出されるべき正しい結論であるかもしれない。この最後の審判という結果は、聖パウロが「コリント人への第1の手紙」7章で理想的な霊的状態として性的独身主義を称賛したときも含まれていた。しかしながら、セクシュアリティの悲観的な形而上学者たちは、しばしば性的活動が生涯にわたり一夫一婦主制で異性愛の結婚においてだけ、また生殖目的だけに道徳的に許されると結論する。生殖に至ると同時に、性的な快楽をも産み出す身体活動に関しては、まさにその生殖可能性こそが特別に重要であって、それがこうした活動に価値を与えるのである。快楽の追求は道徳的に有徳なセクシュアリティに対する障害であって、意図的にそれ自身のために着手されるべきものではない。性的快楽はせいぜい道具的価値を持つに過ぎない。それは、我々に生殖をその主要な目的とする行為に従事させるようにするからである。このような見解は、たとえば、聖アウグスティヌスなどのキリスト教の思想家の間で一般的である。「人間は肉欲の激情を抑制し制限するとき、その悪を良い使用に変え、それに屈服させられない……。人間はその肉欲に対する抑制を子孫への意図がある時を除いて緩めない。従って、精神の肉に対する汚れた隷属における服従ではなく、子供たちという肉体の産出に関して肉欲を制御し適用する。(『結婚と肉欲について』第1巻9章)
\section{楽観的な性の形而上学} 性の形而上学的楽観論者は、セクシュアリティは性的にも非性的にも人々を自然的かつ幸福に結びつける拘束的なメカニズムであると考える。性的活動は同時に自分と他人を喜ばせることを伴い、こうした快楽の交換は感謝と愛着とを生み出す。今度はそれらが人間関係を深め、それをいっそう感情的に実質的なものにするのに役立つ。さらに、これは最も重要なポイントであるが、性的快楽は形而上学的楽観論者にとってそれ自体として価値あるものであり、たんなる道具的価値ではなく、内在的価値もつから、それは大切にされ奨励されるべき何ものかである。したがって、性的快楽の追求はそれほど込み入った正当化を必要としない。性的活動はたしかに結婚に限定されないし、生殖に方向づけられることを要求しない。善い有徳な生活は他にも多くのものを含むが、広範で多様な性的諸関係を含むことができる。(R・ヴァノイの『愛のないセックス』における性的活動のそれ自体としての価値に対する熱のこもった弁護を見よ。)
現代のセクシュアリティの哲学者アーヴィン・シンガーは、形而上学的楽観論の一つの形態をうまく表現している。「なぜなら、性的関心はいくつかの点で食欲に似ているが、対人的な感受性であるという点で飢えや渇きとは異なる。それは我々に他人の肉体においてと同様に、彼らの心と性格に喜びを感じることを可能にする。時には人々が性的対象として使用され、一度その人の有用性が使い尽くされるなら、捨て去られることもあるが、これは性的欲望の特徴ではない。我々を他の誰かの生きている現存に目覚めさせることによって、セクシュアリティは我々にこの他人の存在を、まさに彼あるいは彼女であるような人格として取り扱うことを可能にする……。セクシュアリティそのものの本性には、必然的に・・・人格を事物に解消するものは何もない。それどころか、セックスは人格がそれによって自分たちの身体を通して相互に応答する本能的な媒体として見らことができる。」(シンガー『愛の本性』第2巻382頁。ジーン・ハンプトン『不正の定義と強姦の定義』を見よ。
プラトン『饗宴』でパウサニアスはでセクシュアリティはそれ自体として善くも悪もないと断言する(181a-3, 183e, 184d)。彼は結果として道徳的に悪い性的活動と道徳的によい性的活動がありうることを認め、それらに対応する「世俗的」なエロスと呼ばれるものと「高尚」なエロスという区別を提案する。世俗的なエロスをもつ人とは、相手を選ばない性的欲望を経験して、どのようなパートナーにも満足できる欲望をもち、自己本位にただ自分自身のために性的活動の快楽を求める人である。それとは対照的に、高尚なエロスをもつ人は特定の人に結びついた性的欲望を経験する。その人は自分がその人を手段にして性的満足を伴う身体的接触をもつと考えているその当人の人格と福祉に関心を持つ。同じようなセクシュアリティとエロスの区別は、C・S・ルイス『四つの愛』第5章で記述されている。それはおそらくアラン・ブルームが「動物はセックスをもち、人間はエロスをもつ。どのような厳密な科学[あるいは哲学]もこの区別なしには可能ではない」と書くとき、心に思い描くことである。(『愛と友情』19頁)
したがって、形而上学的楽観論者と形而上学的悲観論者の間の断絶は、以下のように示されるかもしれない。形而上学的悲観論者は、セクシュアリティが内面化された社会規範によって厳しく強制されないなら、世俗的なエロスによって支配される傾向があるであろうと考える。他方、形而上学的の楽観論者は、セクシュアリティがそれ自体で世俗的になることはないし、それがその本性によって容易に、またしばしば高尚でありうると考える。
\section{道徳的評価}
もちろん、我々は道徳的に性的活動を評価することができるし、またしばしばそうしている。我々は性的行為、たとえば、性的行為の特定の生起(我々がなしているか、あるいは今なそうとることを欲する行為)、あるいはある種の性的行為(同性愛者のフェラチオのすべての事例)が道徳的によいか、あるいは道徳的に悪いかを問う。 いっそう具体的に言うと、我々は性的行為を道徳的に義務的である、道徳的に許される、道徳的に義務以上の行為である、あるいは道徳的に不正であるとして評価し判断する。たとえば、配偶者はその妻あるいは夫とセックスをする道徳的義務を持っているかもしれない。夫婦が性交中に避妊を行うことは道徳的に許されうる。一人の人が自分自身としては性的欲望をもたないときに、相手を喜ばせようとして、その人と性的関係を持つことに同意するなら、その人の行為は義務以上の行為であるかもしれない。また、強姦と近親相姦は一般に道徳的不正と考えられている。
もし特定のタイプの性的行為(たとえば、同性愛者のフェラチオ)が道徳的に不正であるなら、そのタイプの行為のすべての事例が道徳的に不正であることに注意せよ。しかしながら、我々が今なしているか、なそうとを考えている特定の性的行為が道徳的に不正であるという事実から、特定のタイプの行為が道徳的に不正であることは帰結しない。我々が思い描く性的行為は、それがそのタイプの性的行為であることに関係のない多くの異なった理由で不正であるかもしれない。たとえば、我々が異性愛の性交(あるいは他の何か)を行っていて、それが姦通であるなら、この特定の行為は不正である。我々の性的活動が不正であることは、異性愛者の性交一般(あるいは、他の何か)が、性的活動の一つのタイプとして道徳的に不正であることを意味しない。ある場合には、もちろん、ある特定の性的行為はいくつかの理由で不正であるであろう。たんにそれが特定のタイプである(たとえば、それは同性愛者のフェラチオの1事例である)という理由では不正であるだけではない。同様に、それは参与者の少なくとも一人が他の誰かと結婚しているから不正である(同様に、それは姦通であるから不正である)。
\section{非道徳的評価} 同様に、我々は性的活動(もう一度、性的行為の特定の生起あるいは特定のタイプの性的な活動)を非道徳的に評価することができる。非道徳的に「よい」セックスとは、参与者に快楽を与えるか、身体的あるいは感情的に満足のできる性的活動である。他方、非道徳的に「悪い」セックスとは、刺激がなく、単調で、退屈で、楽しくないか、あるいは不快でさえある性的活動である。あるアナロジーが、何ものかを道徳的に善あるいは悪として評価することと、それを非道徳的に善あるいは悪として評価することの間の差を明確にするだろう。私の机の上のこのラジオは非道徳的意味でよいラジオである、なぜなら、それは私のために私がラジオから期待することをなしてくれるからだ。それは途切れることなく明瞭な音調を流し続ける。もし、その代わりに、ラジオがほとんどいつもシッと叱って、またカラカラと笑ったなら、非道徳的に言って悪いラジオであろう。また、私がその欠陥についてラジオを非難し、もしそれがその行動を改善しなかったなら、地獄に落とすと脅すことは無意味であろう。同様に、もしそれが我々に性的活動によって与えられることを期待するものを、通常は性的な快楽を提供し、この事実が少しも道徳的意味をもたないなら、性的活動は非道徳的な意味でよくあることができる。
言うまでもなく、性的活動が双方の人を余すところなく満足させることによって完全に非道徳的によいという事実は、それだけでその行為が道徳的によいことを意味しない。姦通者の性的活動が参与者には非常に楽しくても、それは道徳的に不正である。さらに、性的活動が非道徳的に悪いという事実、すなわち、それを行ってる人に快楽を産み出さないという事実は、それだけで行為が道徳的に悪いことを意味しない。不快な性的活動はほとんど性的活動の経験をもたないない人々、性的な事柄のテクニックをまだ知らないか、あるいはまだ自分たちの嗜好を知らない人々の間で起こるかもしれない。しかし、彼らがお互いに快楽を与えることができないことは、それ自体で彼らが道徳的に不正な行為を行っていることを意味しない。
したがって、両者の間に重要な結びつきが残るとしても、性的活動の道徳的評価は性的活動の非道徳的評価とは別の異なった試みである。たとえば、性的行為が双方の参与者に快楽を提供し、それによって非道徳的によいという事実は、その行為が道徳的に良いか、あるいは少なくともある程度の道徳的価値をもつと考えるための強力であるが、ただ一応のよい理由と見すことができる。実際、ジェレミー・ベンサムとJ・S・ミルのような功利主義者たちは、一般的に言って、性的活動の非道徳的な善さはその道徳的正当化へ向かうプロセスにあると主張するかもしれない。もう一つの事例として、もし一人の人がけっして自分のパートナーに性的な快楽を与えようとしないで、自己本位にただ自分自身の快楽だけを経験することに固執するなら、彼らの性的活動に対するその人の貢献は道徳的に疑わしいか、あるいは反論の余地がある。けれども、その判断はたんにその人が相手に快楽を与えなかったという事実に、すなわち、性的活動が相手にとって非道徳的に悪かった事実に基づくのではない。道徳判断は、もっと正確に言えば、他人に快楽を与えようとしない、この経験を非道徳的によいものにしない、というその人の彼女の動機に基づく。
一方で、評価のカテゴリーとして、道徳的の善/ 悪は非道徳的善/ 悪と完全に異なっていることを指摘する必要がある。他方、それにもかかわらず、驚くべきことに、性的活動の道徳的特質とその非道徳特質との間に感情的、あるいは心理的な結びつきがある。おそらく、道徳的によい性的活動は、同様に非道徳的な意味でもっとも満足のできる性的活動である傾向がある。それが本当であるかどうかは、我々が「道徳的によい」セクシュアリティによって何を意味するかと、人間の道徳心理学のある特定の特徴に依存するであろう。もし性的行為の道徳的特質とその非道徳的特質との間には常に綺麗な対応があるなら、我々の生活はどうであろうか。私はこのような人間の性的世界がどうであるかについて確信がもてない。けれども、このような綺麗な対応に違反する事例が、この世界には現在のところあまりにも容易に見られる。性的行為は道徳的にも非道徳的によいかもしれない(結婚したばかりのカップルのエキサイティングで喜びに満ちた性的活動を考えよ)。しかし、性的行為が道徳的に善くて、非道徳的に悪いかもしれない(結婚して10年後のカップルの型通りの性的行為を考えよ)。性的行為が道徳的に悪くて、なおかつ非道徳的によいかもしれない(10年間の結婚生活を続けているカップルの一方が他の既婚者と姦通を犯して、彼らの性的活動が異常に満足がいくことを発見する)。最後に、性的行為は道徳的にも非道徳的にも悪いかもしれない(姦通のカップルがお互いに飽きてきて、それに伴いかつて感じていた興奮をもう経験しない)。性的活動の道徳的特質と非道徳的特質の間にほとんど、あるいはまったく不一致のない世界は、我々の住む世界よりもいっそうよい世界かもしれないし、あるいはいっそう悪い世界かもしれない。まず最初に私が性的活動の道徳的善さと悪さが実質的にどういうことのかをかなり確信できるのでなければ、また私が人間の心理についていっそう多くを知るまでは、私はこのような判断をなすことを思いとどまるであろう。時として、性的活動が道徳的に不正であると認められることは、それ自体でそれが非道徳的によいことに貢献する。
\section{セックスの危険} 特定の性的行為あるいは特定のタイプの性的行為が性的な快楽をもたらすか否かは、その非道徳的特質の判断における唯一の要因ではない。同様に、実用的また熟慮的な考慮が、ある性的行為がすべてを考慮に入れて非道徳的善さの優位をもつか否かにも現れる。多くの性的活動が身体的に、あるいは心理的にリスクを伴い危険であり有害でありうる。たとえば、肛門性交は異性愛者のカップルによるか、あるいは二人の男性同性愛者によって実行されるかにかかわらず、繊細な組織に損傷を与えることがあるから、さまざまなHIVウイルス感染の可能性のある技法である。異性愛者の膣性交も同様である。したがって、性的行為が全体的に非道徳的によいか悪いかの評価には、その期待された快楽あるいは満足だけでなく、あらゆる種類の消極的な望まれていない副作用をも考慮に入れなければならない。
性的行為が何らかのサド=マゾヒズムの行為のように、身体に損傷を与えるか、あるいは多くの性病の一つを伝染させる可能性が高いか、望まれない妊娠をもたらすか否か、さらには、結果としてこの人物とこの場所でこうした条件の下で特定のタイプの性的行為に従事したことについて、事後的に後悔、怒り、罪の意識を感じるかどうか。実際、こうした実用的で熟慮的な要因のすべてが、同様に性的活動の道徳的評価に寄与する。意図的に自分のパートナーに望まれない苦痛、あるいは不快を起こすこと、妊娠の可能性に対して適切な用心をしないこと、あるいは自分のパートナーに生殖器感染が疑われる事例を知らせないことは、道徳的に不正でありうる。(しかし、デヴィッド・メイヨーの「HIV感染を警告する義務」における刺激的な反対意見を見よ。)したがって、人がセクシュアリティに関するどのような道徳原則を受け入れるかによって、性的行為の非道徳的の特質のさまざまな構成要素がその人の道徳判断に影響を与えることができる。
\section{性的倒錯} 任意の性的行為の、あるいはあるタイプの性的活動の道徳的特質と非道徳的の特質に関する探求に加えて、我々は性的行為あるいはある種の性的な活動が自然的か、あるいは反自然的(すなわち、倒錯的)かを問うことができる。自然的な性的行為とは、たんなる広い定義を与えるなら、人間の性的本性から生ずる行為であるか、あるいは少なくとも人間の性的欲望から本性的に生ずる性的傾向を阻止しないか、あるいは妨害しない行為である。何が人間の性的欲望と活動において自然であるかに関する説明は、人間の自然本性一般に関する哲学的説明、我々が哲学的人類学と呼ぶものの一部であり、これはかなり大きな試みである。
特定の性的行為あるいは特定のタイプの性的活動を自然的、あるいは反自然的として評価することは、その行為あるいはそのタイプの道徳的な善悪、あるいは非道徳的な善悪を評価することと別であり得ることに注意せよ。論議を先に進めるために、異性愛者の性交は自然的な人間の性的活動であり、同性愛のフェラチオは反自然的である、つまり性的倒錯であると想定しよう。そう仮定しても、こうした判断だけから、すべての異性愛者の性交が道徳的に良いということは帰結しない。あるものは姦通であるか、強姦であるかもしれない。また、同性愛のフェラチオすべてが道徳的に不正であることは帰結しない。その幾つかは私的に彼らの自宅で同意した成人によって行われているから、道徳的に許されるかもしれない。さらに、異性愛者の性交が自然的であるという事実から、異性愛者の性交の行為が非道徳的によいこと、すなわち、快楽をもたらすことは帰結しない。同様に、同性愛のフェラチオが倒錯であるという事実から、それはそれがそれに携わる人々に性的な快楽を産み出さない、あるいはそうすることができないということは帰結しない。もちろん、自然的な性行為も反自然的な性的行為も医学的、あるいは心理的にリスクを伴うか、あるいは現実に危険でありうる。自然的な性的行為が反自然的な性的行為よりも一般にいっそう安全であると想定する理由はない。 たとえば、無防備な異性愛者の性交は、おそらく何らかの仕方で同性愛者相互の自慰行為よりもいっそう危険である。
一方では、特定の性的行為あるいは特定のタイプの性的活動を自然的あるいは反自然的として評価することと、他方でその道徳的非道徳的の特質を評価することの間に必然的な結びつきがないから、なぜ我々は性的行為あるいはあるタイプのセックスが自然的であるとか、倒錯であるとか考えるのであろうか。その理由の一つは、何が人間のセクシュアリティで自然的であり、反自然的であるかを理解することは、人間の自然本性一般に対する我々の画像を完成するのに役立ち、我々に我々の種をいっそう完全に理解することを可能にするということである。このような考察とともに、哲学の核心にある人間性と人間の条件に関する自己反省はいっそう完全になる。第二の理由は、人間のセクシュアリティにおける自然的と倒錯の間の違いの説明は、心理学にとっては有効であるかもしれない。とくに、もし我々が倒錯的な性的活動を行う欲望、あるいは傾向性が基本的な精神的、あるいは心理上の病理学の徴候であると想定するなら。
\section{性的倒錯と道徳}
最後に(第3の理由)、自然的な性的活動は自然的であるという理由だけで道徳的によいわけではないし、また反自然的な性的活動は必ずしも道徳的に不正ではないが、特定の性的行為あるいは特定のタイプのセクシュアリティが自然であるか、あるいは不自然であるか否かが、多かれ少なかれ、その行為が道徳的によいか悪いかに影響を与えると論ずることはまだ可能である。性的行為が非道徳的によい、すなわち参与者に快楽を生みだすか否かと同様に、要因、時々重要な人であるかもしれないか否かが、我々がその行為を道徳的に評価することにおいて一つの要因、時には重要な要因であるかもしれない。同様に、ある性的行為あるいはあるタイプの性的表現が自然的であるか、非不自然的であるか否かは、その行為が道徳的によいか悪いかの決定においてある役割を、時には大きな役割を果たすかもしれない。
中世のカトリックの神学者トマス・アクィナスの性の哲学と、現代の世俗的な哲学者T・ネーゲルの性の哲学との比較が、この点に関して教示的である。アクィナスとネーゲルはともに人間のセクシュアリティにおいて反自然的であるものは倒錯的であり、人間のセクシュアリティで自然的はない、つまり倒錯的なものは、単純に自然的な人間のセクシュアリティに合致しない不整合なものである、と想定していると理解することができる。けれども、こうした合意の一般的領域を越えて、アクィナスとネーゲルの間には深い相違がある。
\section{アクィナスの自然法}
人間のセクシュアリティと下等な動物(とくに哺乳動物)のセクシュアリティの比較に基づいて、 アクィナスは人間のセクシュアリティにおいて自然的なものは、異性愛者の性交を行おうとする衝動であると結論する。異性愛者の性交は人間を含めて、動物種の保存を保障するためにキリスト教の神によって定められたメカニズムであり、それゆえ、この活動を行うことは人間の性的本性の主要で自然な表現である。さらに、この神は人間身体の各部分が特定の機能を実行するように計画した。アクィナスの見解に基づくなら、神は生殖を行うために男性の陰茎が女性の腟の中に精子を移植するよう計画した。アクィナスにとって、人間の女性の腟内以外のところに精子を預けることは不自然であることが帰結する。それは神の計画に対する違反であり、神によって確立された事物の本性に反することである。この理由だけで、 アクィナスの見解によれば、このような活動は不道徳であり、全能の神の賢明な計画に対する重大な侵害である。
下等な動物との性交渉(獣姦)、自分自身の性のメンバーとの性的活動(同性愛)と自慰行為は、アクィナスにとって不自然な性的行為であり、まさにその理由で不道徳である。もし人間が自分の意志に従って意図的にそうした行為を行うなら、彼らは故意に神によって創造され、神がかくあるべきと命じた世界の自然な秩序を破壊するであろう。(『神学大全』第2部2第43問153-154頁を見よ。)こうした活動の何れにも生殖の可能性はまったくないし、性的な器官や他の器官がそれらが設計された目的以外の目的に使用され、あるいは乱用されている。アクィナスが明示的にそう言わずに、ただ方向を暗示するだけであるが、彼のセクシュアリティの哲学から、フェラチオは異性愛者によって行われるときでさえ倒錯であり、したがって道徳的に不正でであることが帰結する。少なくともこの行為によってオーガズムが起こる事例では、精子はそれが置かれるべきところに置かれていないし、それゆえ生殖可能ではない。もし陰茎の腟への挿入が範型的な自然的行為であるなら、身体部分の結合の他のいかなる組み合わせ、たとえば、陰茎が口に入ること、指が肛門に入ることは反自然的で、それゆえ不道徳であろう。アクィナスの自然的であることの規準、すなわち、性的行為は形式的に生殖的でなければならず、したがって膣に挿入された陰茎を含まなければならないという規準は、人間の心理にまったく言及をしないことに注意せよ。アクィナスの思考の流れは自然的な性と倒錯的な性の解剖学的規準を与え、それはただ身体器官とそれらが生理的に達成するかもしれないことと、それらが関係し合う場所だけを指示するのである。
\section{ネーゲルの世俗的哲学}
トーマス・ネーゲルは人間のセクシュアリティにおいて何が自然的かを見い出すために、人間と下等な動物が共通に何をもつかを強調すべきであるというアクィナスの中心的仮定を否定する。アクィナスはこの公式を応用して、人類における性的活動と性的器官の目的は下等な動物においてと同様に生殖であると結論した。アクィナスの性の哲学における他のすべては、多かれ少なかれここから論理的に帰結する。これとは対照的に、ネーゲルは何が自然の人間のセクシュアリティに特有であるか、そこから何が不自然であり倒錯的であるかが導かれるかを見い出すために、我々は人間と下等動物が共通に持たないないものに焦点を合わせるべきであると論ずる。我々は人間が動物と異なっている仕方、人間とそのセクシュアリティが特別である仕方を強調すべきである。したがって、ネーゲルは人間における性的倒錯を、アクィナスの取り扱いのように解剖学的で生理学的な用語ではなく、むしろ人間の心理的現象として理解すべきであると論ずる。なぜなら、人間の心理こそが我々を他の動物と非常に異なったものにするのであり、したがって、自然的な人間のセクシュアリティの説明は、人間心理の独自性を認めなければならない。
ネーゲルは人が他人の性的覚醒に気づいた時に性的覚醒をもって応答する性的相互作用が、人間のセクシュアリティにとって自然な心理を示すと提案する。このような出会いにおいて、それぞれの人が自分自身と他人とを自分たちの共同の性経験の主体と対象の双方として気づくようになる。倒錯した性的な出会いあるいは事件とは、この相互的な覚醒の認知が欠如しているそれ、また人が完全に性的経験の主体、あるいは対象に留まるであろうそれである。したがって、倒錯は覚醒と自覚の心理的に「完全」なパターンからの逸脱、あるいはその欠節である。(ネーゲル「性的倒錯」15-17頁を見よ。)ネーゲルの自然的なものと倒錯的なものに関する心理的説明には、身体器官あるいは生理学的プロセスへの言及は見られない。すなわち、性行為が自然的であるために、相互的認知という必要な心理が存在しているかぎり、形式的に生殖的である必要がない。性的活動が自然的であるか、あるいは倒錯的であるか否かは、ネーゲルの見解では、どういう器官が使われているかにも、それらがどこにおかれているかにも依存しない。それは性的な出会いの心理的特徴だけに依存する。したがって、性的行為の特定のタイプとしての同性愛的活動が反自然的であり倒錯的であることに関して、ネーゲルはアクィナスと意見を異にする。というのは、同性愛のフェラチオと肛門性交が他人の性的覚醒に対する相互的な認知と応答に伴われることがあるからである。
\section{フェティシズム}
フェティシズム、すなわち、通常は男性の女性の靴や下着を愛撫しながら自慰行為をする習慣について、アクィナスとネーゲルの見解が意味することを比較することは啓発的である。アクィナスとネーゲルはこのような活動が不自然であり、倒錯的であることに同意する。しかし、彼らはそうした評価の根拠について意見が異なる。アクィナスにとって、靴や下着を愛撫しながらの自慰行為は、精子が預託されるべきところに預託されないから、したがってこの行為が生殖の可能性をもっていないから不自然である。ネーゲルにとって、自慰行為のフェティシズムはまったく異なった理由で倒錯的である。こうした活動では、ある人が他人の性的覚醒に気づき、それによって覚醒される可能性が少しもない。自然的な人間心理観点から見れば、フェティシストの性的覚醒は不完全である。
この事例に関して、アクィナスとネーゲルの間にもう一つの大きな違いがある。アクィナスはフェティシストの性的活動は倒錯的であるから、それが神によって確立された自然なパターンに違反するから、じつに不道徳的であると判断するであろう。他方、ネーゲルはたとえそれがフェティシストの心理に何か疑念があることを示すとしても、道徳的に不正でなければならないと結論しないであろう。結局のところ、フェティシストの性的行為はまったく他人に危害を与えることなく実行されるかもしれない。性的倒錯に関するトマスの道徳中心の説明から、ネーゲルの非道徳的で心理的説明に向かう歴史的かつ社会的動向は、いっそう広範囲にわたる傾向、すなわち、あらゆる種類の逸脱行動に対する道徳的宗教的な判断を、医学的あるいは精神医学的判断と干渉によって緩やかに置き換える傾向を代表している。(A・ソーブル『性的探求』第4章を見よ。)
\section{女性のセクシュアリティと自然法}
アクィナスとの異なった種類の不一致は、他の多くの点ではアクィナスと見解と共有するキリスト教神学者C・ガドーフによって記録された。ガドーフは人間の解剖学と生理学の研究が神の計画と摂理への洞察を与え、人間の性的行動が神の創造の意図に従うべきであることに同意する。すなわち、ガドーフの哲学は直接的にトマスの自然法の伝統のなかにある。しかし、ガドーフはもし我々が女性の性器の解剖学と生理学に、とくに男性の陰茎にのみ焦点を合わせる(これはアクィナスがしたことである)代わりに、女性の陰核を注意深く観察するなら、神の意図と計画についての非常に異なった結論が現れ、キリスト教の性倫理がそれほど制約的でないことが判明すると論ずる。とくに、ガドーフは女性の陰核はその唯一の目的が性的快楽の産出にある器官であって、陰茎の混合的な二重の機能と異なり、生殖との結びつきをまったくもたないと主張する。ガドーフは女性の身体における陰核の存在が、神は性的活動の目的が生殖である以上に、性的快楽それ自体のあることを意図したことを教示すると結論する。したがって、ガドーフによれば、生殖から切り離れた快楽的な性的活動は神の摂理に違反しないし不自然でもない。また、それが一夫一婦制の結婚というコンテクストで起こるかぎり、必ずしも道徳的に不正ではない。(『セックス、身体、快楽』35頁)今日、我々は神の計画が人間と動物の身体の直接的な検査によって発見可能であることを、アクィナスほどに確信できない。また、このような自然界の事実から神の意図を識別する我々の能力についての健康な懐疑が、同様にガドーフの提案にも当てはまるように思われる。
\section{性倫理における論争}
性的行動の倫理学は、応用倫理学の一分野として、応用倫理学の領域内に通常含まれる他の何の分野と同様に論争的である。たとえば、安楽死、死刑、妊娠中絶、下等動物の食料、衣類、娯楽としての、また医学研究における取り扱いに関する周知の論争を考えよ。したがって、性倫理の議論が幾つかの混乱の除去と問題の明確な説明をもたらすことがありうるとしても、性的活動の道徳に関する諸問題に決定的な回答が何一つないことは、おそらくセクシュアリティの哲学から導かれる必然的な結果であり、これはけっして驚くべきことではない。性倫理に関する研究の概観によって私の理解するかぎりで、セクシュアリティの哲学者が多くの議論を重ね、今なお論争の余地を残している少なくとも三つの主要な主題がある。
\section{自然法対自由主義的倫理}
我々はすでに一つの論争に出会った。性道徳へのトマスの自然法アプローチと、人間のセクシュアリティにおいて不自然なことと不道徳なことの間の緊密な結びつきを否定する自由主義的で非宗教的な見解との論争である。非宗教的で自由主義的哲学者は、性行動に関する道徳判断に到達する際に、自律的選択、自己決定、快楽という価値を強調する。これとは対照的に、トマス主義の伝統は人間の行為が従わなければならない神の課した計画に訴えることによって、いっそう制約の多い性倫理を正当化する。セクシュアリティの非宗教的で自由主義的哲学者にとって、典型的に道徳的に不正な性行為は強姦である。そこでは、一人の人が他の人に性的活動を行うことを強いるために、その人にみずから暴力をふるうか、あるいは脅迫を用いる。それとは対照的に、自由主義者にとって、二人あるいはそれ以上の人々の間で自発的に行われることは何であれ、一般的に道徳的に許容可能である。したがって、非宗教的な自由主義者にとって、もし性行為が不誠実であるか、強制的であるか、あるいは操作的であるなら、道徳的に不正であるであろう。また、自然法理論もこれに同意するであろう。ただし、その行為がたんに不自然であることは、道徳的にそれを非難するためのもう一つの独立した理由であるとつけ加えるのであるが。たとえば、カントは「自慰は性的能力の乱用である……。それによって、人間は自分の人格を脇に置いて、自分自身を動物のレベルにまで堕落させる……。同じく、同性間の性交は人間性の目的に反する」(『倫理学講義』170頁)と主張した。性的な自由主義者は、しかしながら、通常は自慰行為あるいは同性愛者の性的活動について道徳的に不正であるか、あるいは道徳的に悪であることを何も見い出さない。これらの活動は不自然であり、ある点では熟慮的に愚かかもしれない。しかし、多くの場合、それは参与者にも他の誰にも危害を与えずに実行することができる。
たとえ細部でアクィナスの基本的形態に合致しないとしても、現在も自然法はセックスの哲学者の間で生き残っている。たとえば、現代の哲学者J・フィニスは、道徳的に価値がない性的行為があり、そこでは「自分の身体が意識的な自己の経験的満足を確保するための道具として扱われる」と論ずる。 (「同性愛行為は不正であるか」を見よ。)たとえば、自慰において、あるいは肛門性交において、その身体はただ性的満足のための道具であり、その結果として、その人格は「崩壊」を経験する。「人が自分を選択することは、欲求充足を要求する経験する自己の準奴隷になる。」自慰行為と男色に付随している価値のなさと人格崩壊は、フィニスにとって「すべての婚外の性的な欲求充足」に付随する。それは、ただ結婚している異性間の性交においてだけ、人間の「生殖の器官が……人間を生物学的ユニットにするからである。」フィニスは性的活動が人間身体と人格を手段として扱うことを伴うという形而上学的に悲観的な直観から始める。彼は結婚における性的活動、とくに性器での性交が人格崩壊を回避するという結論に至る。なぜなら、ただこの場合だけ神の計画によって意図されるように、カップルが本物のユニットの状態を達成するからである。「夫と妻の生殖器官のオーガズムを伴う結合は、現実的に彼らを生物学的に結びつける。」 (同じく 、フィニスの論文「法律、道徳と「性的方向づけ」」を見よ。)
\section{同意は十分ではない}
もう一つの論争は、当の事柄に関係する第三者にいかなる危害も与えないときに、二人の人が彼ら自身の自由で十分な情報に基づく同意をもって自発的に性的行為を行うという事実は、性道徳の要請を満たすために十分であるか否かである。もちろん、自然法の伝統に従う人たちは同意が十分であることを否定する。というのは、彼らの見解によれば、自発的に不自然な性行為に携わることは道徳的に不正だからである。しかし、同意の道徳的重要性を減少させるのは彼らだけではない。二人の人の間の性的活動が参与者の一人あるいは双方の有害であるかもしれないし、道徳的パターナリズムの信奉者、あるいは完成主義者は、双方が彼らの共同の活動に自由で十分な情報に基づく同意を与えるときでさえ、一人の人がもう一人の人を傷つけること、あるいは一方が他方にこの有害な行動に携わることを許すことは不正であると主張するであろう。こうした場合、同意は十分ではないし、その結果として、サド=マゾヒズムの幾つかの形態は道徳的に不正であることになる。同様に、同意が十分でることの否認は、しばしば自己拘束的な関係においてだけ、二人の人々の間の性的活動は道徳的に許されると主張する哲学者によって前提とされている。双方の自由なインフォームド・コンセントは、彼らの性的活動の道徳性にとって必要条件であるかもしれない。しかし、何か他の要因、たとえば、愛、結婚、献身などの現存なしに、彼らの性的活動はたんなる相互の道具的使用あるいは対象化であり、それゆえ、道徳的に反論の余地がある。
たとえば、カジュアル・セックスでは、二人の人はただ自分自身の性的快楽のためにお互いを使用している。本当の合意があるときでさえ、こうした相互の性的使用は有徳な性的行為をもたらさない。カントとC・ウォイティラ(ローマ法王ヨハネ・パウロ2世)はこの立場をとる。進んで自分自身を他人によって性的に使用されることを許すことは、自分自身を対象にすることである。カントにとって、性的活動はただ結婚においてのみ他人をたんなる手段として取り扱うのを回避する。そこで、双方が自分の身体と霊魂を相互に相手に委ね、微妙な形而上学的統一を達成するからである。(『倫理学講義』167頁)ウォイティラにとって、「ただ愛だけが、一人の人格の他の人格による使用を排除することができる。」(『愛と責任』30頁)なぜなら、愛は自分たちの自己の相互的贈与に起因する人格の統一化だからである。しかしながら、愛の統一化作用が(同意を越えて)性的な活動を正当化する要因であるという考えは興味深いが、皮肉な含意をもつ。同性愛者の性関係は、もしそれが同性愛者の間の愛のある一夫一婦制の結婚の中で起こるなら、道徳的に許されるように思われる。(『異性愛主義』で神学者P・ユングとR・スミスによって擁護された立場)この論法はこの点に至ると、性的活動は結婚においてだけ正当化されるという意見の擁護者は、一般に同性愛者の結婚を排除するために自然法に訴える。
\section{同意は十分である}
この問題に関するもう一つの見解によれば、性的活動が関係者全員によって自発的に実行されるという事実は、第三者への危害が生じないかぎり、性的活動が道徳的に許されることを意味する。こうした同意十分という見解を擁護するとき、T・マップズは次のように書いている。「人格に対する尊敬とは、我々の各々がその人生を自分たちにふさわしいと思うように導くために、他の人格の理性的存在としての正統な権威を認めることである。」(「性道徳と他の人格を使用するという概念」204頁)他人が私に性的活動を行う時に、コントロールのために他の人の同意を認めることは、その人の自律を、その人の推理し選択をなす能力を真剣に受け止めることによって、その人を尊敬することである。他方、他人が私と性的活動の従事するとき、その意思決定をなすことを他人に認めないことは、無礼なほどパターナリスティックである。もし他の人の同意が十分であると理解されるなら、それは私がその人の目的選択を尊敬することを示している。あるいは、たとえ私がその人の特定の目的選択を認めないとしても、少なくとも私がその人の目的形成能力を敬意していることを意味する。このような同意能力に関する見解によれば、原則としてカジュアルな性的活動、見知らぬ人との性的活動、あるいは乱交に対して、そうした活動に関わる人々が彼らの選んだ性的活動を行うことに同意するかぎりで、原則的に道徳的反対は存在しえない。
もし性的活動の道徳に関するマップズの自由で十分な情報に基づく同意基準が正しいとしても、我々はまだ幾つかの難しい問題を扱わなければならない。同意はどれくらい詳細でなければならないのか。一人の人が漠然ともう一人の人物にその場の弾みで、「はい、セックスをしよう」と同意するとき、話し手は相手が心に思い描くかもしれないすべてのタイプの性的愛撫や性交の体位に同意してはいない。また、同意はどれぐらい明示的でなければならないか。非自発的な振る舞い、たとえば、呻きは信頼できるほど同意を意味することができるのか。また、勃起や湿潤などの非言語的な合図は、決定的にもう一人の人がセックスに同意したことを示すのか。ある哲学者は同意は実行される性的行為について非常に詳細でなければならないと主張した。また、ある哲学者はボディーランゲージが参与者の欲望と意図を表現するのに十分な仕事をなしうることを否定して、ただ明白な口頭の同意だけを認める。(A・ソーブル「アンティオキアの「性犯罪政策」」を見よ。)同様に、必ずしもすべての哲学者がマップズその他とともに、完全に自発的な同意が性的活動が道徳的に許されるためにつねに必要であることに同意するわけではない。たとえば、 J・マーフィーは幾つかの疑念を提起した。(「女性、暴力、刑法に関する反省」219頁)
「私とセックスをするか。そうしなければ、私はもう一人別のガールフレンドを探すだろう。」この発言は、私には道徳的に許される脅迫である(普通の状況を想定して)と思われる。また、「私とセックスをしよう。そうすれば、私はあなたと結婚するであろう。」これは私には道徳的に許される提案である(この提案が誠実であるとして)と思われる。我々は我々の人生の大部分で脅迫と提案の図式に折り合いをつける。なぜセクシュアリティの領域が、人間的であることの通常の仕方から隔離されるべきであるのか。私にはその理由がわからない。」
マーフィーはある種の脅迫は強制的であり、それゆえ、ある人の性的活動への参加の自発的本性を覆すと言う。しかし、こうしたタイプの脅迫は必ずしも道徳的に不正であるというわけではない、と彼はつけ加える。これとは反対に、我々はマーフィーが記述する事例では脅迫と提案はまったく強要を構成しないし、それらが完全に自発的な参加に対するいかなる障害も表さないと言うことができよう。(A・ワートハイマー「同意と性的関係」を見よ。)もしそうなら、マーフィーの事例は自発的な同意が性的活動が道徳的に正しいために必ずしも必要とされないことを確立しない。
\section{「自発的」とは何か}
マーフィーの事例が示すように、「自発的」という概念の意味と適用に関してもう一つの論争がある。同意が性的活動の道徳性にたんに必要条件であるか、あるいは十分条件であるかにかかわらず、性的事件を道徳的に区別するために同意に依存するどのような道徳原則も、同意の「自発的」な側面に関する明確な理解を前提にする。性的活動への参加が、一人の人の他の人による物理的強制であるべきではないと言うことには問題はない。しかし、この明白な真理は多くの事柄を未解決のままに残しておく。たとえば、オノラ・オニールはカジュアル・セックスは道徳的に不正であると考える。というのは、人々が性的活動を行うために一般に相互に課す微妙な圧力を考慮に入れると、それが含む言われる同意は十分に自発的でありえないからである。(「同意した大人の間で」参照)
一つの道徳的理想は、性的活動への本当に同意に基づく参加が、少しばかりの脅迫やどのような種類の圧力も要求しないことである。性的な活動を行うことは多くの仕方で、身体的に、心理的に、形而上学的にリスクを伴い危険であるから、この道徳的の理想に従えば、我々は性的活動を行う人は誰でも完全に自発的にそうすることを確信したい。ある哲学者は任意の性行為に係わる人々の間で、実質的な経済的社会的平等があるときだけ、この理想が実現可能であると論じた。たとえば、ある社会はそのさまざまなメンバーの収入や財産に違いがあるから、そこではある人々は経済的強制に晒されるであろう。もし人々のあるグループ、とくに女性と少数民族のメンバーが他の人々ほど経済的社会的能力をもたないなら、こうしたグループのメンバーがあらゆる種類の強制、とくに性的強制に晒されるであろう。この考えの直接的な適用の一つは、もし売春婦の経済状態がその人の参加の自発的性質を否定する一種の圧力として働くなら、道徳的に不正であるかもしれないということである。しかし、多くの性的自由主義者にとって、売春は性的サービスの提供者と顧客によってなされる商取引であり、自由で十分な情報に基づく同意によって十分に特徴づけられる。さらに、子供をもつ女性は経済的に彼女の夫に依存しているから、捨てられるのを恐れて、自分自身がそれを望むか否かにかかわらず、自分が性的活動に従事しなければならない立場にあることを見い出すかもしれない。こうした女性も完全に自発的に性的活動に従事しているのではないかもしれない。自分の夫によって口やかましくセックスを強要されている女性は、もし彼女があまりにもしばしば「いいえ」と言うなら、身体的あるいは心理的ではないとしても、自分が経済的に苦しむであろうことを心配する。
どのような種類の圧力の現存もまったく強制であり、したがって、道徳に反論の余地があるという見解は、C・ミューレンハードとJ・シュラッグによって表明された。(彼女らの「非暴力的な性の強要」参照。)彼女らはとりわけ、男性との性的活動への女性による参加の自発的性質を損なう強要の形式として、「地位による強制」(女性が男性の職業によって性的関係や結婚を強要される)と「レズビアンに対する差別」(この差別が女性に男性だけとの性的関係を強いる)を上げた。しかし、我々がどういう種類の事例を思い描くかに依存して、ある種の圧力は強制ではないし、自発性をそれほど損なうことはないと言うか、あるいはある種の圧力は強制的であるが、にもかかわらず道徳的に反論の余地はないと言うのがいっそう正確であるかもしれない。一人の人がもう一人の人に加える圧力の現存が、同意の自発的性質を否定する強要に等しいから、それに続く性的活動は道徳的に不正である、ということは必ずしも真ではない。
\section*{概念分析}
セクシュアリティの概念的な哲学は、哲学のこの領域において中心的な概念、性的活動、性的欲望、性的感覚、性的倒錯、その他を分析し明確化することに係わる。それは同じく、売春、猥褻文書、強姦のような、それほど抽象的でない概念を定義しようと試みる。一つの概念、「性的活動」という概念に焦点を合わせることによって、私はセクシュアリティの概念的な哲学を解明し、またそれがもう一つの中心的概念、「性的快楽」とどういう仕方で関係するかを探究したい。ここで学ばれる一つの教訓は、セクシュアリティの概念的哲学がセクシュアリティの規範的哲学と同様に困難であり論争的であり得ること、また結果として、確固とした概念的結論に至ることは困難であるということである。
\section{性的活動対「セックスをすること」(Having Sex)}
アメリカ医学協会雑誌(Journal of the American Medical Association )に1999年に公表された悩ましい研究(S・サンダースとJ・ライニッシュ「いったい何をしたら、あなたはセックスをしたと言うのだろう」(“Would You Say You ‘Had Sex’ If …?”) によれば、学部学生のかなりの割合、およそ60%が、オーラルセックス(フェラチオとクリニングス)を行うことは、「セックスをする」ことではないと考えている。この調査結果は一見して非常に驚くべきことであるが、心情的にはそれほど理解困難ではない。たしかに、哲学者として我々は、オーラル・セックスは特定のタイプの性的活動であると容易に結論してしまう。しかし、「性的活動」は専門的な概念であるが、「セックスをする」(have sex)は日常語の概念であって、主として異性愛者の性器性交を指示する。したがって、モニカ・ルインスキーが彼女の親友リンダ・トリップに、自分はビル・クリントンと「セックスはしなかった」と言ったとき、彼女は必ずしも自分を偽ってるのでも、嘘を言っているのでも、一杯食らわせようとしたのでもない。彼女はただ「セックスをする」についての日常言語の定義あるいは基準に依存していたのであり、それは哲学者の「性的活動」の概念と同一ではない。後者は必ずしもオーラルセックスを含まないし、通常は性器による交合を必要とする。
もう一つの結論を「アメリカ医学協会雑誌」の調査から引き出すことができる。異性愛者の性交は多くの場合オーラルセックスよりも参与者にいっそう多くの快楽を生み出す。あるいは、少なくとも、異性愛の性交において一方向的なオーラルセックスよりも、いっそう多くの性的快楽の相互性がある。また、これがなぜ日常的思考がオーラルセックスの存在論的意義を軽視する傾向がある理由である。もし我々が以上のように想定するなら、おそらく、我々はこのことを使用して、すぐに日常的な思考に整合的な「性的活動」の哲学的な説明を形成することができる。
\section{性的活動と性的快楽}
一般的な考えでは、ある性的行為が非道徳的によいか悪いかは、しばしばそれが性的行為であると判断されるか否かに結びついている。時として、我々は性的行為からほとんど、あるいはまったく性的快楽を引き出さない。(たとえば、我々は主として他人に快楽を与えている。あるいは、我々はそれを他人に売り渡している。)また、我々は他人は性体験をもったけれども、我々はもっていなかったと考える。あるいは、その人は性的快楽を我々に与えようとしたが、テクニックの無知から、あるいは性的未熟さから、それに惨めに失敗した。このような場合、我々は性体験を経験しなかったし、したがって、性的行為に従事しなかったと言うことは不適切ではないであろう。もしルインスキーがクリントン大統領にオーラルセックスを行うことは、ただ彼自身のために、彼の性的快楽のためになされ、また彼女が自分自身ではなく、彼の必要に対する考慮からそれをなしたなら、おそらく彼女は結局のところ性的行為に従事しなかったのである。
R・グレイはこの日常的思考を取り上げ、「性的活動」は性的快楽の産出の観点から分析されるべきであると論じた哲学者の一人である。彼はもし性的快楽がそれから得られるなら、「どのような活動でも性的活動になるかもしれない」し、反対に「性的快楽がそれから得られないなら、いかなる活動も性的活動ではない」と論じる。(「セックスと性的倒錯」61頁)おそらく、グレイは正しい。というのは、我々には手を握ることは、そうすることによって性的な快楽が生み出されるとき、性的活動であり、そうでなければ、性的ではないと考える傾向があるからである。握手は通常性的行為ではないし、通常性的快楽を生み出さない。二人の愛する者がお互いの指を愛撫することは性的行為であり、彼らに性的快楽を産み出す。性的活動が正確に性的快楽を生み出す活動であるという考えを真剣に受けとめるためのもう一つの理由がある。性的に倒錯した活動について、それを性的にするもの何か。そうした行為は性的活動の一般的目的の一つ、すなわち、生殖とは何の関係ももたないから不自然である、と言われるかもしれない。しかし、ある行為を性的倒錯にするように思われる唯一のことは、かなり信頼性が高い基礎に基づいて、それがそれにもかかわらず性的快楽を産み出すということである。下着フェティシズムが性的倒錯であり、たとえば「生地」倒錯ではないのは、それが性的快楽を伴うからである。同様に、同性愛者の性的活動について、何がそうした活動を性的にするのか。そのような行為はすべて非生殖的であるが、それでもなそれらは異性愛者の生殖的活動と共通の非常に重要な何かを共有する。それらは性的快楽を、異性愛者のそれと同じ種類の性的快楽を生み出す。
\section{快楽なしの性的活動}
もし「あなたはこれまでの5年の間に何人のセックスパートナーを持っていたか」と問われ、あなたにその用意ができていたなら、その問いに答える前に、あなたは「何がセックスパートナーとみなされるのか」と私に問い返すであろう。おそらく、すでにこの主題に関するG・クリスティーナの論文「我々は今セックスをしているのか、あるいは何をしているのか」を読んでいたから、あなたは私の質問に疑問を抱くのである。この時点で、私はあなたに「性的活動」の十分な分析を与え、この定義に基づいて、あなたがともに性的活動に従事した人として誰を数えるべきかをあなたに言わなければならない。私が絶対になすべきでないことは、あなたが非道徳的に悪いセックスをしたパートナーを忘れて数に入れないで、ただ喜びに満ち満足できる性的経験を持つことのできた人だけを数えるように言うことである。他方、もし性的活動に関するグレイの分析を受け入れるなら、性的行為は正確にただ性的快楽を生み出すそれだけであるから、私はもちろんあなたに過去5年間にあなたが非道徳的に悪い性的経験を持った人を誰も数えないように促すべきである。あなたはあなたが実際持っていたより少ないセックスパートナーを私に報告することになるであろう。おそらく、それはあなたをいっそうよい気分にさせるであろう。
一般的な論点は以下である。もし「性的活動」が論理的に「性的快楽」に依存しているなら、もし性的快楽が性的活動の基準そのものであるなら、性的快楽は性的活動の非道徳的特質の定規ではありでない。すなわち、この「性的快楽」による「性的活動」の分析は、ある行為が性的活動であるとはどういうことかと、ある行為が非道徳的によい性的活動であるとはどういうことかを一緒にしている。このような分析によれば、生殖的な性的活動は陰茎が腟の中に置かれ、それが性的快楽を生み出すときだけ性的な活動であり、握手と同じぐらい官能的に退屈であるときはそうでないことになる。さらに、強姦の犠牲者は非道徳的によいセックスを経験しなかったから、たとえ彼あるいは彼女に強制された行為が性交あるいはフェラチオであったとしても、彼らは性的活動を行うことを強いられたと主張することができない。私はあるカップルが相互に性的関心を失い、そこから快楽を得ることのない型通りの性的活動を行うとき、彼らはそれでも性的行為を実行していると言う方を選ぶであろう。しかし、グレイの提案した分析によれば、我々は彼らが非道徳的に悪い性的活動を行うと言うことを禁止される。なぜなら、彼の見解に基づけば、このカップルはまったく性的活動に従事しなかったからである。むしろ、我々の言いうることは、彼らは性的活動に従事しようとしたが、そうし損ねたということであろう。我々が性的活動に従事して、それから何も、あるいは多くの快楽を得ることができないことは、我々の性的世界についての悲しい事実であるかもしれない。しかし、この事実は我々にこれらの満足のできな事件を「性的」と呼ぶことを拒否する理由を与えるはずはない。
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