高橋幸先生の「近代社会における恋愛の社会的機能」(5)

ベルサイユのばらの完全愛で満足してしまって、もう続けにくいのですが……

こう見てくると、どうやら情熱には短期的な情熱と長期的な情熱があるらしいということがわかってくる。少なくとも、20世紀後半以降のアメリカ社会での愛をモデル化して広く受けいれられてきた「愛の三角理論」では、そのようなものとして「情熱」が論じられている。(p.12)

よくわからない。スタンバーグさんは自分の人生や同時代の人々の生活から三角理論を発想したかもしれないけど、この理論はそのあとで三要素からなる 構築物としての 1 「愛」の理論が他の文化でも妥当すると考えられるのか実証的に検討しているわけです。

高橋さんの「短期的な情熱」についてはまあ普通に考える情熱。問題は「長期的な情熱」。

〔短期的な情熱〕が「情熱」のすべてではないというのが、スタンバーグの議論を読み解くなかで見えてきたことだ。

それが「長期的な情熱」とでもいうべきものであり、持続的なカップルに見られる情熱のことである。これは「仕事に情熱的に取り組む」とか「スポーツに情熱を注ぐ」というような形で言われる情熱的(パッショネイト)なあり方と似ている。……良い関係を継続していくための労力投入と、その関係から得られる満足感や充実感を糧にしてさらに駆動されるような情熱であり、これを「充実感を糧にして駆動される情熱」と呼ぶことができる。

まあ言いたいことはわかるんですが、スタンバーグ先生の「情熱」とはまったく違うものになってしまっている。まあ「情熱」をどう定義するかは著者筆者の好きにしてもらってかまわないと思うのですが、こういうことを言いたいならなぜスタンバーグやテノフをひきあいに出してきているのか私にはわからないのです。単に「情熱」を定義しなおしているだけです。なぜ心理学者たちの実証的な話を、こうした定義のすりかえのような話にとりこんでしまうのか、そういうのが私にはわからないのです。

少なくとも、スタンバーグやテノフさんたちが何を言っているのかはそのまんま紹介して、「でも私が考える情熱ってこういうものだけではないです」っていう風に議論を展開してくれればよかったと思います。しかしそうなると、なんで「情熱」について考えているおかもよくわからなくなってしまう……


さて、長々書いてしまって疲れてしまったので終りにしなければならないのですが、こうした議論を読んで、私が一番問題だと考えたのは、やはり出典がはっきりしない、ということなのです。

この本が学部生に向けたものであるなら、日本語で読める関連書籍の紹介はあって当然だと思うのですが、日本語で読める文献として紹介されているのは、金政先生たちの2003年のものだけです。なぜそういうことをするのか。もしかしたら、自説を主張したいがために、「都合の悪いデータは隠す」という、社会学でよく見られる悪しき研究慣習を、高橋先生も引き継いでしまっているのではないか、そういうことが言いたかったのです。

特にスタンバーグ先生の論文は古いし、紹介は正確とは言いがたいと思います。出典まで辿りつけないものがありました。スタンバーグ先生のオリジナルの論文 A Triangular Theory of Loveは日本語訳はないと思いますが、彼の『愛の心理学』の第二版は日本語の翻訳があり、それでも三角理論はその後の議論を踏まえて論じられています。これを高橋さんが知らなかったというのはほとんどありえないと思います。またスタンバーグの理論の紹介のようなものは、「恋愛心理学」のようなタイトルがついている本には必ず出てくるようなものなのです。

ちなみに、友情と恋愛の違いは、上のスタンバーグの『愛の心理学』でもバーシェイド他によってかなり詳しく論じられています。

以上のことを考えると、私はこの論文を学生に参考にするように推薦することはできないのです。

たいへん失礼ではあるでしょうが、私としては、これは見た以上は書かざるをえないのです。これまでずっとそういうふうに生きてきたので、そうせざるをえないのです。気分を害した人はけっこういると思いますが、(前のクリッツァー先生の本についてのエントリのシリーズのいきがかり上)私はそうせざるをえないのです。つらいです。

脚注:

1

この心理学における「構築物」constructっていう概念の説明まで書きたいんですが、無理かもしれない

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