バートン・レイザー「同性愛、道徳、自然法」
Burton M. Leiser, “Homosexuality, Morals and the Law of Nature,” in Hugh Lafolette (ed.), \emph{Ethics in Practice: An Anthology} (Blackwell; Oxford, 1997), pp.242-256
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\title{バートン・レイザー「同性愛、道徳、自然法」}
\author{坂井昭宏・江口聡訳}
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Burton M. Leiser, “Homosexuality, Morals and the Law of Nature,” in Hugh Lafolette (ed.), \emph{Ethics in Practice: An Anthology} (Blackwell; Oxford, 1997), pp.242-256
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何百年もの間、同性愛は不道徳であるといわれてきたし、聖書も同性愛は忌まわしいと述べている。他方、古代ギリシアにおいて同性愛は普通の性的な活動の一形態として受け入れられていた。また、現代では同性愛者を差別する法律を廃止し、同性間の婚姻を法的に認める国家もある。
同性愛行為が不道徳であるから非合法化されなければならないという見解を支持する議論には、功利主義者の議論、すなわち同性愛は無実の人々や社会全体に害悪をもたらすという議論や、同性愛者の関係は自然法に反するという議論がある。このような哲学的な根拠に基づいて反同性愛的な態度を正当化しようとする試みに加えて、多数の人々が同性愛に強い感情的な反発を感じている。さらに、他の人々は道徳的な判断の源泉として宗教的伝統に依拠しているから、同性愛に対する感情的反発を哲学的に正当化する必要などないと考える。
本稿は同性愛は不正であるという命題を支持するために提出されてきた議論の主要なものを批判的に検討する。また、同性愛者が他の異性愛者との関係においてもつ責任の幾つかを、異性愛者が同性愛者に対してもつ責任と同様に考察する。最後に、近年の同性愛をめぐる議論において提起されている道徳的問題を幾つか取り上げる。
\section{功利主義の同性愛反対論}
古代ギリシアやローマの人々は地震や火山の噴火がしばしば同性愛行為に起因すると信じていた。同性愛的な関係が天変地異を引き起こし、無実の人々の生命を危うくするなら、同性愛行為を非難し、法的に禁止する十分な理由がある。しかし、同性愛と天変地異の間に因果的結合があるとは信じられない。
それにも関わらず、避妊具を装着しない肛門性交はHIV病原体を拡散させると信じる十分な理由はある。したがって、同性愛者であるか異性愛者であるかを問わず、病原体拡散の危険があると知りながら、そうした性行為に耽り、感染防止の方策を怠る行為者は他の人々の生命を危うくするということに関し、法的に有罪ではないとしても、少なくとも道徳的に有罪であり、非難に値する(culpable)と言えるだろう。さらに同性愛行為が直接的に人々の生命を危うくするに止まらず、人類の生活の改善に資する有能な人々を妨げ、間接的に害悪を齎すという議論も何程か正当性を持つと言えるかもしれない。
同性愛的な関係が社会という制度の統合を危うくし、普通の人々の道徳的な知覚と不整合であるという議論も行なわれてきた。イギリスのWolfenden委員会は、合意に基づく同性愛行為(すなわち成年に到達しており、意思決定の能力もある行為者が相互に合意した同性愛行為)は合法化されなければならないと勧告した。Devlin卿はその結論が不正であるから、同性愛行為は法的に禁止し、違反者は処罰し続けなければならないと主張する。何故ならば法は個人の保護を目的とするに止まらず、社会の保護もその目的とするからである。合意に基づく同性愛行為は双方が合意しているから、犠牲者のない犯罪であるといわれるかもしれない。しかし、法の目的は社会の基礎となる道徳的な原理原則、すなわち人間の生命の不可侵性を保存することであり、合意に基づく同性愛行為という犯罪の犠牲者は社会全体である。
Devlin卿は結婚という制度が社会の道徳的な基礎の一つであると主張する。したがって、姦通は単なる私事ではない。姦通は結婚の制度の核心を揺るがすから、公共的な関心事でもある。同性愛も同様である。道徳に関し、共有された感覚がないと、どのような社会も存続しえない。共通の道徳は私たちが社会において生きていくに際し、支払わなければならない対価であり、したがって、道徳的な基準を破壊し、道徳的な紐帯を緩めると、社会は内側から崩壊しうる。だから悪徳の抑制は法の仕事であり、同性愛的な関係の禁止は理に適っている。
しかし、立法の基礎となる道徳的な基準は如何に決定されるだろうか。Devlin卿にいわせると、社会の道徳の試金石は普通の人々である。不道徳とは真っ直ぐな心根の(right-minded)の人々が皆、不道徳と考えると想定されるものである。普通の人々の非難と嫌悪が、当の実践、すなわち同性愛が社会に害悪を齎すということの証拠であり、同性愛に対する寛容もその点において限界に到達する。逆にいうと、その寛容の限界において同性愛は非合法化される。
Devlin卿はしかし、そのような社会の道徳という基準が通時的に変化しうるし、場所に応じ、実際、異なっているという可能性を考えない。Devlin卿の定立の基礎は「観念(ideas)の共同体」である。しかし、合衆国のような多文化的な社会においてそのような共同体は事実、見出されないし、合衆国に限らず、観念の自由な交換を基本的に制限しない社会において、そのような共同体が存在する可能性は小さい。
Devlin卿のいう「利益(=関心interests)の共同体」も必ずしも明らかではない。少なくとも倫理と社会的な習俗に関し、そのような利益(=関心)の共同体の存在は疑わしい。例えば合衆国の最高裁は私的で、しかも合意に基づく行為故、同性愛者を訴追することが必ずしも憲法と齟齬しないという判断を1986年まで下していた。確かに幾つかの州は同性間の婚姻を認めるように考慮してきた。しかし、大部分の州は同性愛的な関係を禁止する法律の廃止を拒んできた。さらに同性愛者の権利を女性や人種的な少数者などの権利と同等に取り扱うことを拒んできた州もある。例えばColorado州の有権者たちは1992年、同性愛者が法的に保護されるほかの少数者と同等の地位を享受するような法的な措置を州当局が取り得ないということを規定する、州の憲法の修正に賛成した。州の最高裁は修正条項が連邦の憲法に反するという判断を下し、連邦の最高裁も同性愛者の権利の平等な保護という観点から、州の最高裁の判断を確認した。しかし、Colorado州の事例は合衆国において多数の人々が同性愛者はほかの少数者と同等の保護を与えられるに値しないと考えているということ示している。
\section{同性愛行為を非難するほかの理由}
同性愛を非難する功利主義的な理由以外の理由もある。しかし、何れも批判的な吟味に持ち堪えられないように見える。何故ならば異性愛者も実際、同性愛を非難する理由の大部分を免れないからである。
例えば同性愛者は子供に手を出す傾向があるという議論が行なわれてきた。しかし、問題は同性愛そのものではなく、小児性愛である。小児性愛が刑法上、処罰される理由は、法が年少者は大人との性的な関係に対し、有意味な同意を与えられないと想定するからである。子供は未成熟であり、情報も不十分だから、性的な関係に同意するとしても、その含意を完全に理解することができない。したがって、年少者が同意したとしても、自分が年長であるということに由来する力を用い、年少者を誘惑した成人は刑法上、処罰されてきた。すなわちある年齢以下の年少者との性的な関係は同意の有無に拘わらず、法律上、処罰される強姦と見なされる。しかし、小児性愛に関し、同性愛と異性愛の区別はない。小児性愛の犯罪者の数は実際、異性愛者が同性愛者を上回っている。
同性愛者は罪悪感や不安感など心理的な問題に悩まされるから、同性愛そのものが心理的な問題であるという主張もある。その主張が何程か尤もらしいとしても、同性愛者が自らの性的な選好を公然と明らかにしていくに連れ、「心理的な」問題は軽減されるだろう。同性愛を恥じず、堂々と公言できる同性愛者は最早、その露見を心配する必要がないし、罪悪感を覚えることもないだろう。しばしば認められる、同性愛者の失職の不安は同性愛者が悪い人間であり、職に不向きであるという判断に基づいている。社会がそのような同性愛者を廻る否定的な判断を放棄し、個々人の実績に基づき、職への適性を判断するならば、同性愛者が異性愛者以上に失職の不安を覚えるということもないだろう。
同性愛者が心理的な問題を抱えているという主張はしたがって、同性愛そのものに打撃となるわけではない。同性愛者が自ら同性愛を問題と見なし、同性愛が客観的に同性愛者個人の目的の達成を妨げると考えているならば、同性愛者は心理的な問題を抱えていると言える。しかし、同性愛者は同性愛が自らを解放してくれると見なしているから、問題は同性愛者の側の、心理的なものではなく、寧ろ同性愛を非難する必要を感じている、異性愛的な社会の側の、社会的、政治的、法的なものである。
同性愛者は信用できない、同性愛者は社会的な安定性に乏しいなどという非難も社会の側が同性愛を邪悪な(evil)ものと考え、同性愛者に刑法上の制裁や社会的な制裁を課そうとするからである。同性愛がそもそも邪悪だから、社会も同性愛を邪悪であると考えるに過ぎないというわけではない。したがって、教え子に手を出す教師の問題は同性愛、異性愛の問題ではなく、小児性愛の問題であり、性的な露出や服装倒錯、売春などに携わる同性愛者の問題も同性愛の問題ではなく、まさに性的な露出、服装倒錯、売春という問題である。
\section{同性愛行為と自然法}
同性愛が不正であるという主張を支持する最も興味深い理由は、同性愛が自然法に反するというものである。自然は生殖器が専ら生殖のために使われることを意図する。同性愛者は自然の意図に適わないような仕方において生殖器を誤用するから、自然法に反するといわれる。批判者たちはそのような自然法と神の企図への違背が非難されるべきものであると主張する。同性愛的な関係を犯罪とする法令は実際、同性愛的な関係を「自然への破廉恥な犯罪」という。
同性愛行為が法的に処罰されなければならないかどうかということは措くとしても、多数の人々が例えば肛門性交は「不自然である」と感じているように見える。しかし、何かあるものが不自然であり、自然法に反するから、不正であるという推論には飛躍がある。関係する概念を分析すると、そのような推論の不当性が明らかになるだろう。
\subsection{記述的自然法}
先ず「法」の概念である。法は以下のような特徴を持っている。
\begin{itemize}
\item 法は社会的な規約(convention)であり、社会が異なるに応じ、違ってくる。同じ社会においても、さまざまな集団の間において法が違ってくる場合もある。
\item 法は指令的である。すなわち法は人々がある種の行為に携わるように指令し、あることを遂行するように(または差し控えるように)指令する。
\item 法への違背が可能である。
\item 法に反する人間は処罰など何らかの制裁を受ける。
\item 制裁は公式的には政府や制度上の執行者によって課され、執行される。しかし、非公式には共同体の成員によって制裁が課され、執行される場合もある。
\item 国家の法は市民によって発見されるものではない。寧ろ市民は法を知っていることを期待され、したがって、法を遵守するように期待される。人々は法の公布の後、その法に関する情報を与えられることによって、国家の法を学ぶ。
\item 国家の法は適切な統治上の立法行為によって改廃されることがある。
\end{itemize}
次に科学者たちが自然法則と呼ぶものを考えてみよう。
\begin{itemize}
\item 自然法則は単なる規約ではないから、社会によって違ってくるものではない。自然法則は普遍的である。
\item 自然法則は記述的である。すなわち自然法則は実際、惹起することを記述するものであり、何かを、または誰かに命令するものではない。
\item 自然法則に反するということは不可能である。
\item 自然法則への違背は不可能だから、違背への処罰もない。但し自然法則に違背して動こうとすることにより(勿論、実際、違背できるわけではない)、何らかの結果が生じるということは事実であり、その結果のある部分は予見可能である。
\item 自然法則はどのような政府によっても改廃できない。自然法則は政府の立法するものではない。自然法則は発見されるものであり、人間が作り出すものではない。
\end{itemize}
自然法に基づき、同性愛を批判する論者たちが考えている自然法は以上のような自然法則とは似ても似つかないものである。何故ならば自然法則のような記述的な法への違背は不可能だから、「同性愛はそのような法に反するから、不正である」ということが完全に無意味になってしまうからである。しかし、「同性愛は自然法に反するから、不正である」という主張の解釈はほかにも可能である。
\subsection{人工的なものは不自然である}
私たちが何かあるものは不自然である、自然的ではないなどという時、そのものが人工的であるということを意味している場合がある。
そのような自然性、すなわち非人工性は次のように考えられる。「自然食品」という時の「自然」を考えてみると良い。自然のうちで育てられ、自然のうちに見出されるものでのみ、処理されているようなものが自然食品であり、他方、非「自然食品」は人工的に製造されたり、混合されたりしたもので処理されているものである。しかし、そのような意味で人工的なものが有害であるとか、邪悪であるということは簡単に言えることではない。逆に人工的なものは私たちの生活にとって寧ろ必須のものになっているのである。すなわち人間の手が加わって、生み出された産物は非自然的であるとしても、邪悪であるとは限らない。また自然への介入も邪悪であったり、間違っていたりすると限られるものでもない。私たちが病気を免れ、また病気を治療できるのは自然への介入を俟って初めてなのである。
さて、同性愛行為は以上のような意味で不自然であると言えるわけではない。同性愛行為に何か人工的なものがあるわけではなく、寧ろ逆に少なくとも同性愛者にとっては、同性愛行為は世界のうちに自然的にあるものだからである。そして仮に同性愛がこの意味で不自然であるとしても、そのことが同性愛を不正であるとするのを正当化すると考えるのは難しい。
\subsection{一般的でないもの、異常なものは不自然である}
同性愛は一般的ではないとか、普通に見られるわけではない(そういう意味で異常である)などという意味で不自然だから、非難されるべきであるといわれるかもしれない。しかし、これも同性愛への非難を正当化するのに役立たない。偉大な学者や芸術家はしばしば私たちが普通と見なすものから外れているけれども、だからといって軽蔑されたり、非難されたりするわけではない。私の教えた学生のうち、ハープを演奏する学生は一人しかいなかったから、その学生は一般的ではないし、普通でないという意味で異常であるに違いないが、だからといって非難されて良いわけではない。したがって、同性愛が不正であるとしても、それは同性愛がこの意味で不自然だからだということにはならない。
\subsection{その主要な目的、機能に反する仕方での器官や道具の使用は不自然である}
例えば歯の主要な機能は噛むことであり、その主要な機能に違背し、例えば瓶の蓋を開けるために歯を使ったりすると、何らかの不具合(trouble)を生じる可能性がある。それと同様に考え、性器を生殖以外の目的のために使用するということは不自然であり、したがって、不正であるから、非難に値するといわれるわけである。同性愛行為に加え、自慰、生殖を故意に妨げるような異性間の性交も倒錯と呼ばれるべきであり、正しく思考する社会においては禁止されるべきであるということになる。
しかし、事はそう簡単ではない。道具も身体も私たちが完全に受容可能であると考えるような(主要な機能以外の)さまざまな機能を果たしうるからである。歯は確かに噛むという機能を果たすものだろうが、しかし、笑った時に白い歯が表情に魅力を与えるものであってはならないという法はないし、歯を剥き出して相手を威嚇するという機能を果たして悪いというわけでもない。性器も快楽を生み出すという目的のために使われて良い。性器が快楽を生み出すという目的に適っているという事実は、性器を単に快楽を生み出すために使用し、生殖を妨げている人々を倒錯的であるとか、不正であるとか呼ぶことと整合的ではない。性器は快楽を生み出すという目的に適しているのだから、性器を快楽のために使うということをただそれだけの理由で倒錯的であるなどと呼ぶことはできない。
さらに性器は愛情を表現するために使われることもあるということは明らかである。したがって、生殖に結び付かない性器の使用を倒錯とする論者は生殖可能な年齢を超えた男女間の性交や妊娠中の女性との性交も倒錯的であり、不自然であるといわなければならないが、しかし、それらの性交が愛情の表明という観点から何らかの意義を持つということは事実であり、誰も生殖に繋がらないから、倒錯的であるなどと考える人はいないだろう。性器はさまざまな使用が可能であるが、それらの必ずしも生殖に繋がらない性器の使用がそれ自体として倒錯的であるなどというわけではない。幾つかの社会において、ある使用の仕方がほかの使用の仕方より一般的であると考えられているというに過ぎない。
人々が自他の快楽や利益のために性器を使用した咎で非難されるという事実は、私たちの社会の偏見と非合理的な禁忌を暴露している。どのような器官も唯一の「適切な」機能を持っているという想定は擁護できない。ほかにさまざまな使用の仕方が可能であるのに、そのような「適切」、「自然的」な使用を一義的に確定するということは、科学的な事実における基礎を持たない恣意である。したがって、その主要な機能、目的への違背を以って器官の不自然な使用とする主張は論点先取でないとすれば、何も証明することにならないのである。
\subsection{自然的なものは良く、何であるとしても、不自然なものは悪い}
私たちは「同性愛が不自然であるから、不正である」という結論に繋がるような「不自然性」の定義の可能性を検討してきた。「不自然な」という言葉のさまざまな定義は実際、役に立たないものだった。何故ならば人工的であったり、一般的でなかったりするという意味で不自然なものの中には良いもの、称賛に値するものが存在するからである。他方、自然法則に反するという意味で不自然なものというのは単純に存在しえなかった。
私たちに残される定義は同語反復的な定義である。すなわち「何であるとしても、不自然なものはその定義からして不正である」という定義であるが、しかし、これは役に立たない。「同性愛は不自然であるから、不正である」という文章は定義上、真となるが、何ら情報を伝えない。したがって、その議論は論点先取であり、同性愛は不自然だから、不正であるという主張に何ら資する所がないのである。
\section{同性愛は不道徳だろうか}
私たちは同性愛が不正であるという定立の支持を目論む議論を幾つか見てきたけれども、それらの議論が成り立たないということを確認できた。確かに同性愛が不正であるという定立を支持できる妥当な議論が皆無であると確認できたわけではない。しかし、それを見付けるのは難しそうである。
聖書が同性愛に反対しているから、それで十分だという人もいるだろうし、感情的な反発が強いから、知性的な議論をいくら積み重ねた所で、それを覆し得ないという人もあるだろう。しかし、その種の理由は哲学的な理由ではないから、道徳的な判断を理性に基礎付けようとする人々を説得できないだろう。
確かに同性愛は伝統的に排撃されてきたけれども、挙証責任を負わなければならないのは同性愛排撃を是認する人々のほうである。同性愛者への刑法上、そして民法上の制裁の賦課には受け入れ可能な正当化がなされていない。同性同士のカップルは相手の同意を得て、一方が他方を養子にするなどして、税法上の優遇措置を得ようとなどしているが、彼らがそのように奇妙な仕方で養子制度を使わなければならないということは、法が彼らの関係を認知することを拒んできた結果である。法が彼らの関係を認めていないのは、立法に携わる人間の多くが同性愛を不道徳と見なし、したがって、それの法的な承認に乗り気でないからである。
\section{同性愛者の権利と責任}
同性愛を廻る道徳的な問題が以上の議論に尽きているわけではない。私たちが同性愛者に法的に介入されずに、自らの生活様式を追求する権利を認めるとしても、同性愛者の家族や共に社会を営む人々との関係という微妙な問題がある。同性愛反対の哲学的な議論は何れも維持し得ないものだから、同性愛者の差別は正当化されない。しかし、そうであるとしても同性愛者が同性愛を認めない人々を含め、ほかの人々に対し、ある種の責任を負わなければならないということは理に適っている。
同性愛者の、教会の差別的な姿勢などに反対する運動はしばしば騒擾と化しており、人々の共感を勝ち得るどころか、潜在的な支持者まで追い払ってしまうようなものである。しかし、そこにはもう少し、大きな問題がある。
合衆国の法的な伝統は宗教的な組織が政治的な統制を免れるように意図している。その背景にある考え方は私的な組織はほかの人々の基本的な権利を深刻な危険に晒さない限り、自由にその方針を決められるというものである。その原則からすると、宗教的な組織は同性愛反対の見解を自由に変更できると同時に、その見解を変えないことも自由である。憲法修正条項も、言論の自由を廻るリベラルな見解も同性愛者の大義が価値あるものであるとしても、同性愛者が宗教的な儀礼を乱すことを是認しないし、同性愛者が聖書を検閲し、明らかに同性愛を非難している文章を削除することを可能にするわけでもない。
既婚の女性に言い寄る男性は両者の関係が性的なものに発展しないとしても、婚姻の安定と夫、子供の幸福を脅かすものである。その例において「言い寄る男性」を「言い寄る女性」に置き換えるとしよう。既婚の女性と言い寄る女性の間の関係は今や同性愛的な関係であるけれども、その関係が不正であるという点は元の異性愛的な関係の例と変わらない。不義が不義であるということはその関係が同性愛的であるとしても、異性愛的であるとしても、変わらない。私たちは最早、不義を刑事的に訴追しないから、そのような事例において刑法上の措置は不適切であるとしても、道徳的な非難は適切だろう。すなわち異性愛者に当て嵌まることは同じように同性愛者にも当て嵌まる。
同性愛者は今までほかの人々に痛め付けられてきたから、sexualityを廻る見解を共有しない人々に対し、無感覚になってしまっているかもしれない。自分自身の傾向性を追求することに専心しているから、同性愛者はその過程において自分たちが如何に他人を痛め付けているか、わかっていないかもしれない。例えば同性愛者の父母が子供の生き方を受け入れるということは極度に痛々しい経験である。同性愛者は親が自分の生き方受け入れることを当然、望んでいるけれども、その欲求は親の側の困難を理解するということと相伴うべきである。
他方、同性愛に反対だからなどという理由で、瀕死のAIDS患者を家族が見捨てるということ以上に残酷で、心無いこともない。AIDS患者はその多数が自分の恋人以外、看病するものもないまま、しかもその恋人もAIDSを患っているという状態の中、死んでいく。最も近しい両親などは子供を理解し、同情する力を失ってしまった自分自身の怒りと悲しみへの対処に忙殺されている。そのような状況は現代の最も悲惨な道徳的な苦難である。自然法があるならば、その自然法は何か見解の相違があるとしても、最も近しい人間が苦しんでいる時にはその人間に配慮するように教えるものであってほしいと思う。実際、そのような要請にまさに英雄的に応じようとする人々もいる。しかし、大多数の人々はそんなことはできない。
ほかのさまざまな問題同様、同性愛的な関係を廻る問題は複雑であり、深い感情を孕んでいる。哲学者は議論に光を投げ掛けるられるだろうが、最終的な分析においては全ての人々の共感と善き意志のみが痛々しい問題の解決に繋がるような理解と受容を齎すだろう。
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