マイケル・レヴィン「なぜ同性愛は異常か」
古いけどこういうのが1980年代には議論されてたわけです。これに対抗する論文も近いうちに出します。こういう議論の結果現在の世界がある、っていうのは学ばないとならない。
Michael Levin, ‘Why Homosexuality is Abnormal,’ The Monist 67. 2(1984) \& in Hugh LaFollette(ed.), Ethics in Practice: An Anthology (Oxford: Blackewell, 1997), pp.233-241,
https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/tr-levin-abnormal.pdf
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\section{序}
同性愛は異常であるから、望ましくない。それは、同性愛が不道徳だからでも、社会を弱体化させるからでもなく、純粋に機械的理由からである。同性愛は身体部品の誤った使用(misuse)である。明確で経験的な意味が、生殖器官としての身体部品の使用法という観念、生殖器官は何かのために存在するという観念には明確で経験的な意味があり、そこからそれらの誤った使用という観念が帰結する。自然淘汰を含む根拠に基づけば、身体部品の誤った使用は高い確率で不幸に結びつく。こうした事柄は同性愛者の権利、同性愛者とつき合いたくないと望む人々の権利、同性愛者に関わる法律などの政策問題の序論と見なすことができる。政策問題に関しては、ここで体系的に論ずることはしない。しかし、最後の節で同性愛は異常であるから不幸を招くという私の見解からの明白な結論を導き出したい。
\section{「機能」に関して}
同性愛が身体部品の誤った使用を含むという観念の要点を明らかにするために、誤った使用の明白で議論の余地のない事例から始めよう。ジョーンズは歯を全部抜いて、糸を通して首から提げている。彼は自分の歯がネックレスによいと思っている。彼は流動食を摂り、栄養補給のための静脈注射をしている。当然であるが、ジョーンズは歯の誤った使用している。本来の目的のために使用していない。彼の歯の使用法は歯本来の目的と相容れない。おそらく、ジョーンズの歯はもはや身体の一部ではないのだから、身体部品の誤った使用にはならないと反論されるかもしれない。この反論に対しては、スミスの例を示そう。スミスは自分の歯を使って「懐かしいマクドナルド」を演奏するのを好む。彼はこの演奏に熱中しているので、彼の歯を噛むことに使用しない。彼もジョーンズのように静脈注射で栄養を摂る。
さて、スミスとジョーンズが歯を誤って使用していることだけではなく、純粋に生理学的根拠から彼らの暗い未来も予測できる。歯を噛むために使用しないから、顎の筋肉が損なわれ、歯茎にも影響が及ぶ。その結果、彼らは健康を害し寿命を縮めるだろう。それだけではない。人類は噛む能力を享受する。自然淘汰は噛むための筋肉を選び取り、そのような筋肉をもつ動物に好意的であった。そうした身体部品を誤った使用によって退化させた動物は淘汰される傾向にある。ジョーンズは自然淘汰の産物であり、少なくとも噛むことを享受する傾向にあった被造物の子孫である。そうしなかった競争者たちはほとんど子孫を残さなかった。ジョーンズに関して「人さまざま」という者、あるいは彼の歯の扱いを単なる統計的な標準からの逸脱と見なす者はほとんどいない。このような事例が、同性愛を論ずる際の私のパラダイムである。
\section{同性愛への適用}
この一般的画像を同性愛に適用しよう。陰茎の機能の一つは膣に精液を送り込むことである。そうしてきたから、陰茎はこれまで淘汰を免れた。自然は陰茎のこのような使用をなすに値するとした。陰茎の膣への挿入をなすに値しないと見なした原人男性、とくに陰茎を男性の肛門に挿入することを楽しむ原人男性は子孫を残さなかった。ここに、なぜ同性愛は異常であり、またなぜその異常さは打算的に不利であるかの理由がある。同性愛は本能的欲望を不成就のままに残すから、不幸の原因になることもある。環境決定論のゆえに賛成できないというなら、上述の紛れのない事例を思い出してほしい。身体運動をなさないことは悪であり、異常でさえある。それはたんに不健康なだけではなく、人間は定期的な身体運動なしには体調が悪くなるからである。我々は最近に至るまで生存のために身体運動をなさなければならなかったから、自然は身体運動をなすに値するとした。獲物を追うことに価値を認めない動物は淘汰された。自然が身体運動に埋め込んだ報酬は、怠惰のせいで捨て置かれる。これが人間の生活における身体運動の位置の正しい記述であるなら、同じ理由でこれは同性愛の位置の正しい記述でもある。
むろん、この主張は傾向や蓋然性に関わる。「同性愛者は異性愛者よりも不幸であるよう定められている」は、「同性愛者の大多数はそれと同じ割合の異性愛者よりも不幸であるのは偶然ではない」の簡略な表現として理解されなければならない。明らかに、ある人々は身体部品を悪用しても罰を受けない。したがって、経験的証拠を評価する際、そうした同性愛者を引き合いに出すのは筋違いである。同性愛者で健康な者は存在しないというのではない。生物学的必然性から、彼らは稀であるというのである。
この論証は異性愛者の行動が自己強化的であることを述べるに留まり、同性愛は自己消滅的であることを示さない。すなわち、同性愛者は異性愛に内属する報酬を受けないだけであり、同性愛に内属する罰があるわけではない。こう反論されるかもしれない。しかし、この区別はたんに言葉の上だけである。それらは異なった仕方で、同性愛者は異性愛者よりも自己の生活に満足を覚えないことを表現する。幸福と不幸を絶対的に分かつ境界線の有無は関係ない。問題は異性愛者の生活との比較である。何らかの絶対的な基準を想定するなら、怠惰な男も幸福とみなされるかもしれない。しかし、彼は彼と同じ境遇にあり、かつ身体運動をする他の男に比べるなら、幸福ではないだろう。
もし同性愛が同性愛者の「遺伝子のなか」にあるなら、我々はそれを非難すべきではない、という反論がある。まさにその通りである。実際、誰も何に性的な刺激を見出すかを決定できないから、性的対象の「選択」に関する道徳的評価は馬鹿げている。しかし、そのように述べることは同性愛を不幸なものとして捉え、同性愛の発現を抑制する手段を講じることと両立する。同性愛は非自発的であるということは、評価を逃れることではない。鎌形赤血球貧血症の患者は非難に値しないが、彼らに何も悪いことはないと主張するのは馬鹿げている。同性愛を実行する者は遺伝的説明を好み、フロイトの環境決定論に敵意を示す。しかし、遺伝的原因が同性愛を非難から免除するなら、人々は幼少期に身につけた消すことのできない特徴によって非難されるべきではない。何よりも、非難されるべきでない条件であっても、それを防止しようと試みるに値する。
この世界は人口過剰であるから、同性愛は適応の度を強めるという流行の言説は、私の社会生物学的なシナリオとは相容れない。同性愛は人類が人口圧力を緩和することによって人類の機会を増やすと主張される。しかし、これは不適切である。同性愛が現在では種の保存に役立つとしても、それは同性愛が生まれた過程の一部ではない。さらに、同性愛がこの特徴によっていかに淘汰を免れるのかを見るのは容易ではない。もし同性愛がまさに子孫を残さないという理由で包括的な適応の度を強めるなら、それが次の世代に特徴が受け継がれるときに淘汰されるであろう。それはけっして次世代に引き継がれない。
同性愛が人類の生存に有利であるという説はすべて的外れである。我々の身体器官は何百万年も昔から、世界のあり方と生存に有利であるという理由でその機能と報酬とをもった。それゆえ、同性愛は適応の度を減少させ、異性愛はそれを増大した。事態の如何に関わらず、生得的な同性愛の傾向は淘汰されたであろう。人類がそれに報酬を与えるか否かに関わらず、現在の我々は祖先から受け継いだ傾向を保持している。50年前、ある自己強化的行動が人類の未来を脅かし始めたとしても、これはこの行動がいまだに自己強化的であることと矛盾しない。同様に、肥満の一般化と飽食の楽しみは、我々の食欲が食糧不足という状況で形成されたことを示すにすぎない。何にせよ、豊富な食料が生み出したこの不安定さはおそらく一時的である。もしこの豊かさが5000世代にわたって続くならば、生まれつきの大食漢は若年性の心臓病で死ぬか、あるいは異性に嫌われるかして、ほぼ完全に消滅する。過剰な人口は間引かれる。これがもっと信頼のできる結論である。
両性愛やその他の多様な性的関係が不自然であるとか、自滅的であるとか主張するのではない。ギリシア人の例を挙げて、他の性的関係を排除した同性愛のみが、我々の進化に関わる自己強化的メカニズムと対立する、と主張することもできる。実際には、両性愛はかなり稀な現象である。また、動物は文化の影響を受けないから、本能的に異性愛であるように見える。臨床医たちは一人の人間がある時期には同性愛者であり、他の時期には異性愛者であることを認めるが、同時に双方であることはないともいう。
功利主義者はこの進化のシナリオを真剣に考えなければならない。功利主義者の同性愛に対する態度は、「同性愛はある意味で不自然であるが、同性愛者は同性との性的接触によって快楽を得る。他者に危害を与えないかぎり、同性愛は異性愛と同様に善である」である。しかし、問題はここでは終わらない。功利主義の医師であっても、ある種の快感をもたらす退行性の病気を善とは呼ばない。苦痛をもたらす原因となる快楽を、幸福の得点表に加算されるもう一つの快楽として扱うことはできない。功利主義者は苦痛の原因となる快楽の不可避の結果を考慮に入れなければならない。
同様のことが同性愛は「病気」であるか否かという問いにも適用される。アメリカ精神医学会の声明は次の通りである。「同性愛的な対象選択を受け入れ、あるいは選好する何百万人もの男女を、その事実だけで精神病として分類する時代遅れの方法を精神科医が放棄する時が来た。彼らのもう一つのライフスタイルが現在の文化的慣習で認められないという事実は、それ自体では診断の基礎となるべきではない。」
いくつかの論点先取的表現を別にすれば、これは正しい。相互の肛門性交を好む者の嗜好はそれ自体として医者が憂えることではない。実際、腕の骨折や動脈硬化にはそれ自体として間違ったところはない。私の尺骨が二つに折れているという事実は自然の事実であって、診断の基礎ではない。しかし、この状況は医学にとって問題である。それは苦痛を引き起こすからである。したがって、同性愛が現在もしくは未来の不幸を示す確実なサインであるなら、同性愛は「その事実だけで」精神病ではないという主張は的外れである。麻薬中毒、離婚、違法行為の率の高さは、それ自体として社会病理を診断する基礎ではない。こうした指標はその社会についてそれらが意味する何かのゆえに、社会病理的診断を支えるのである。ここでの問題の一部は、範型的な病弊にはその病原菌が存在するが、同性愛あるいは精神病には病原菌がないことである。同性愛が病気か否かというのは多分に言葉の上の問題である。同性愛が自虐的な適応不能であるなら、それをどう呼ぶかはほとんど問題ではない。
\section{証拠とさらなる明確化}
同性愛は記述的な意味でも、規範的な意味でも異常である。というのは、同性愛者は進化論的な理由で不幸に陥りやすいからである。同性愛はたとえ宇宙論的目的や、我々が懐古的に自然に課す目的を侵犯することがないとしても、それが不自然であることは可能である。私の見解の証拠は何か。一つには、同性愛者の不幸を強調することによって、私の見解は単純な仕方で偏在的な事実を説明する。この事実は普遍的に認められた同性愛者の不幸である。
通常の環境決定論者は同性愛者の不幸は、社会がそのうえに積み重ねてきた誤解と軽蔑であると説明する。しかし、それはなぜ社会がそういう態度を採るのかを説明しない。さらに、環境決定論者の説明はほとんど普遍的な現象を説明するのに、非常に異なった状況に訴える点で思惟の経済に違反する。思惟の経済は同性愛者の不幸の説明を同性愛自体の本性に求めることを要求する。
私の説明の決定的なテストは、たとえ人々が同性愛に対する「偏見」を完全に放棄したとしても、同性愛者は不幸であり続けるという予測である。同性愛は不自然であるから、同性愛者はいまだに彼らの行動を自虐的と見るというこの予測は、入手可能な証拠と一致する。それは、他の抑圧された集団、たとえばアメリカの黒人やヨーロッパのユダヤ人がナンパやサド-マゾヒズムなど同性愛者の生活では一般的慣行の方向にゆがめられないという事実に一致する。さらに、それは同性愛者の不幸の直接的な原因は乱交、匿名の出会いと屈辱に対する嗜好であるという、同性愛に同情的な観察者による承認と一致する。そのような嗜好が社会の彼らに対する漠然とした見方とどう関係づけられるかを理解するのは難しい。同性愛者の嗜好と彼らに対する社会の関係がもっともらしく見えるのは、同性愛者がある種の家庭生活に落ち着くことを切望しながら、仕方なしに多数の匿名の出会いを求める場合のみである。しかし、ヨーロッパ人は何世紀ものあいだユダヤ人を忌み嫌っているが、これがユダヤ人を匿名の乱交に駆り立てたわけではない。男を女から追いやり、できる限り不特定多数の男にフェラチオをしてもらうように駆り立てるものが何であれ、それは社会がそのような行為ついて考えることから独立しているように見える。悲惨を生むのはこの行動であり、同性愛者の悲劇が続くことが予想される。
1974年の研究で、ワインバーグとウィリアムズはデンマークとオランダ、および彼らが同性愛に対する公共の寛容の度合いが低いと見たアメリカでは、同性愛者の経験する苦悩に何の違いも見られないことを発見した。これは同性愛者の不幸が内省的なものであることを驚くほど確証する。しかし、ワインバーグとウィリアムズは同性愛者の不幸が完全に社会の態度に対する反応であるという仮説に固執し、同性愛者の幸福の条件は社会によって是認されることであると提案した。これ以上の勝手な付け足しの仮説を想像するのは難しい。プロテスタントの中で生きるカトリックも、これほど社会に寛容を要求しないだろう。
ワインバーグとウィリアムズの研究以降の十年間に、アメリカで世論の注目すべき変化が生じた。どのような理由からであれ、さまざまな機関誌が同性愛者への肯定的なイメージを与えることに専念している。裁判官は同性愛者に恋人を選ぶことを許可した。現在では、ユニテリアン教会は同性愛者の結婚式を行っている。ハリウッドは「メイキング・ラブ」や「パーソナル・ベスト」などの高度に清潔な同性愛の映画を製作している。マクミラン社はその著者に化粧品を使う少年を見せるように強く促している。同性愛者はもう彼ら自身の姿を見せることを恐れない。ある種の商品は明らかに同性愛者の市場に向けて宣伝されている。社会的反応の理論に基づくなら、同性愛者の幸福には大きな高まりがあることになる。しかし、それが本当か否かを決定する体系的な研究を知らないが、逸話的な証拠はそうではないことを示している。同性愛者に関する報道は、同性愛支持の映画を厳しく非難してきた。とくに、最近、感染力の強い性病が同性愛者の共同体に現れ、急速に広がったのは、明らかに同性愛者の乱交が減らなかったからである。ワシントンDCにおける真面目な「ゲイの権利」集会の宣伝文句は、ニューヨークからワシントンへの「徹夜のディスコ列車」だった。たとえ同性愛に対する社会的態度の変化が同性愛者の不幸を減少させたとしても、ごく最近まで同性愛者であることで非常に苦しんだ同性愛者が、なぜ同性愛者であることに固執したのか。おそらく、これが残された疑問であろう。
しかし、私の立場は生殖を目的としない、あるいは少なくとも性交を目的としない性行動はすべて不幸につながることを予測するのではない。第一に、私はこの結論が事実に反することに確信がもてない。人間と高等動物にとって、性交渉は陰茎の膣への挿入だけではないことは広く認識されている。前戯は程度の差はあれ、女性にも男性にも必要である。動物行動学者は比較的単純な動物にも洗練された交配の儀式があることを明らかにした。性交渉は交合に先立つ接吻や抱擁などの行動を含むとして理解されなければならない。私の見解が予測するのは、通常は性的結合を準備するにすぎない行為への排他的な没頭は不幸と高い相関関係を示すということである。また、心理学者たちは、たとえばクンニリングスへの没頭あるいは性的結合の停止は人格的特徴と結びついており、それは独立して異常と認められることに同意する。この意味で、性交渉は人間の福祉(wel-being)に実質的に必要である。あらかじめ「何ものも他のもの以上に自然ではない」と確信するから、性交渉の序曲としての前戯を、何処にもつながらない「前戯」と混同するのである。前戯のもつ少なくとも人間にとっての進化論的な利点に思弁をめぐらすこともできる。性交渉の快楽の強度と複雑さの増加によって、それはパートナー相互をいっそう固く結びつけ、いっそう子育てに適合させる。ネイゲルは性的倒錯の分析で、その核心を相互性(mutuality)の妨害においた。(Nagel, T., “Sexual Perversion,”in Mortal Questions (Cambridge: Cambridge University Press, 1979), pp.39-52)しかし、彼の分析は相互性の進化論的な役割とそれに組み込まれた報酬を無視する点で失敗である。なぜ相互性の妨害が性的結合を混乱させるのか。彼はその理由を説明していない。
私の議論が異常に段階を認めることも明白だろう。性行動が異常になるに比例して、射精は遺伝子群を消滅させる傾向にある。性行動が淘汰される可能性が減少するに比例して、異常の程度は減少する。我々の祖先なかで前戯のある種の側面を強化することを見い出した人々は、その遺伝的素質を我々に植えつけるのに十分に彼ら自身を出産しようとしたに違いない。性的結合とそのように直接的に出産に結びつかない性行動のあいだに平衡があったのだろう。そのような直接的に異性間の性的結合につながらない行動も、最大の不満足に行き着くわけではない。しかし、こうした段階の存在は同性愛に何のくさびも打ち込まない。どんな行為も同性愛に報いること以上に淘汰されることはありえないから、同性愛が人類においてどの程度であれ、無条件的に強化的でありうることはまったくありそうもない。
私の見解は独身の聖職者が不幸であることを予測しない。私の見解は聖職者以外の幸福な独身者の存在に矛盾しない。実際、いかにして聖職が家族の欠如を補償できるかを説明する必要があるという事実は、人々が異性間の交合を人間関係において自然な状態であると見なしていることを意味する。聖職者と同性愛者の比較はどんな場合であれ不適当である。聖職者は悪い結果を伴わない性的活動をたんに放棄するのではない。彼らはある理由のために捨てるのである。同性愛者は天上からの召命その他のために彼らの性器の使用を捨てることはない。同性愛者は彼らの性器を使用し続けるが、聖職者と違って、本来の目的とは違うもののために使うのである。
\section{政策問題について}
同性愛は内在的に悪であるのは、打算的意味においてである。それは人を不幸にする。しかし、このことは同性愛を倫理学の大きな範疇-権利、義務、責任から免除しない。義務論的範疇は幸福を増加または減少させる行為、あるいは無力な者を不幸の危険にさらす行為に当てはまる。
同性愛が不自然なら、子供が同性愛者になる率を高める法律は、子供が不幸になる率を高める。この演繹における唯一の隙間は、同性愛を合法化し保護する法律の制定が子供を同性愛者にする機会を増やスのか否かである。もしそうであるなら、そのような法律の制定には明らかに反対すべきである。問題は同性愛者の小学校教師が彼らに託された子供に淫行を働くか否かではない。同性愛を容認する法律の制定は、巧妙なやり方で同性愛の発生を増加させるかもしれない。もしそうであるなら、また子供の保護が社会の基本的義務であるなら、同性愛を合法化する法律の制定は義務の放棄である。我々には我々の子供に対する義務があり、その一つは彼らを危険から保護することである。もし子供が宗教的教育から保護される権利をもつなら、彼らは同性愛から保護される権利をもつ。子供を虫歯という比較的些細な危害から守るために、砂糖で覆われたシリアルのコマーシャルを禁止しようとする運動がある。そのような禁止は広告業者の自由を制限する。こうした危害を避けるための最終的な機会と責任は、テレビを制御する両親に存するにも関わらす、広告御者の自由を制限する。私にはなぜ人が整合的にこのような法律の制定を支持し、同性愛者の権利を主張できるのか理解できない。同性愛者の権利は同性愛者の自由の増加と引き換えに、子供に一層深刻な損害を与える危険があるからである。
同性愛者の消防士になる権利を認める法律の制定は、同性愛を支持するのではない。それは人間の自由の概念の拡大を支持するのである、と広く主張されている。雇用者に彼らが気に入った者を雇うことを禁止し、各州間のハンバーガーの積み換えのための何時間ものペーパーワークを要求する法秩序において、このことがどれほど真剣に主張できるのか。しかし、いずれにせよ、同性愛を合法化する法律の制定は、その可決が確固不動の言語行為という次元をもつから中立的ではあり得ない。社会は同性愛のなじみのない権利を認めて、なおその価値に中立的であり続けることはできない。社会は家族とその結果に依存するという前提から始めて、ユダヤ・キリスト教的伝統は同性愛を罪と考え、同性愛者に多くの権利を与えなかった。このような否定の是非に関わらず、我々の社会が同性愛者に権利を認めることは、結局のところ我々の社会がこの問題を再検討し、同性愛を以前に考えられていたほど悪くはないと決定したと宣言することである。また、こうした再検討が同性愛に関する新しい知見への対応でないなら、それは再評価に他ならない。ある社会が同性愛に権利を認め、かつ一般的に知られている歴史の光に照らして、この行為が同性愛の肯定的な再評価として解釈されうると認識するなら、この社会は今や同性愛は正しいと考えていることを知らせることである。大衆向け報道機関の多くのコメンテーターは、同性愛者は人種的少数派の構成員と異なって、求職中はつねに「ゲイであると公言しない」(stay in the closet)ことができると述べてきた。それゆえ、同性愛者の権利活動家が本当に望んできたのは、仕事を手に入れることではなく同性愛を合法化する法律の制定である。このことを承知して、彼らが望むものを与えることは、彼らの合法化への要求を認めることになる。
公園でのフリスビーを許可する法律の制定は、フリスビーが新しいという理由だけでそれを是認することを意味しない。フリスビーを公園で禁止するという伝統はない。フリスビーの許可における立法者の行為は、長期にわたる不承認の撤回として解釈することはできない。こうした象徴的条件が人工妊娠中絶の場合には満たされるから、人口妊娠中絶を認め、それに公的資金の支払いを命令する法律の制定、あるいは司法の決定がその暗黙の是認として広く解釈されるのである。現在まで、社会は同性愛はあまりにも有害であるから、それを制限することは想定上の同性愛者の権利にまさると見なしてきた。もし社会が自説を翻したなら、それは同性愛はかつて考えられていたほど悪くない、と事実上決定することになるだろう。
\section{1995年のあとがき} \label{sec:1995}
現在、私は上述の議論を二つの点で不完全であったと見ている。
第一に、同性愛の環境決定論的な説明に対する偏見である。神経解剖学と行動遺伝学の最近の証拠は、性的決定における重要な生物学的要因を確認した。異性愛の男性の性的興奮を制御する視床下部の領域は同性愛の男性の二倍であることが発見された。別々に育てられた一卵性双生児が別個に育てられた場合、二卵性双生児が別個あるいは一緒に養育された場合よりも、いっそう同性愛に調和的であり、また家族内では、同性愛への調和は母親の側に関係する男性にとって機会がいっそう大きく、性的結合を示唆する父親の側ではない。
しかし、同性愛に対する遺伝的基礎は同性愛が正常であることを含意しない。というのは、それは同性愛が適応的機能をもつことを含意しないからである。同性愛の明らかな不適応性は、むしろ同性愛のための(多数の)遺伝子は多相遺伝(pleiotropy)、一つ以上の表現型(phenotype)における表現を通して生き延びることを教示する。しかし、どのような多相遺伝の仮説が正しいと証明されても、それは同性愛それ自体を異常、あるいは少なくとも正常ではないと見なす。もし同性愛の表現型が適応的相関者を通して生き延びるとしても、同性愛はそれを記号化する遺伝子の生存、その遺伝子が相関者を表現することによって生き延びるだろうことを説明しない。それゆえ、それは何の機能にも役立たないであろう。同性愛はそれだけを記号化する遺伝子にとって致命的な副作用となるだろう。この点で、それは鎌型赤血球性貧血症のような遺伝病に似ている。この遺伝病が生き延びたのは、その遺伝子がマラリアに免疫を与えるからであった。同様に、同性愛は多相遺伝の仮説に基づいてもその消極的側面を失うことはない。その不適応的な副作用が強化されるとは考えられないからである。同性愛の享受は適合性を増加させないから、それが強化されるために選別されることはない。
私の二番目の過ちは、同性愛論争における規範的論点を誤解した点にある。実際、私は同性愛のための平等な権利に関する憲法修正条項を攻撃し、法律上の分類を覆すことは同性愛の社会的受容を知らせ、その普及を促すだろうという理由に基づいて、性的決定に基づいく法的分類を擁護した。しかし、遺伝子を強調することはこの主張を無効にする。もし同性愛の大部分が生物学的な起源をもつなら、この心配は無益である。しかし、もし社会の連続的な存在において生殖が中心的な役割を果たすことが、国家に性的な関係における発言権を与えるのなら、国家は異性愛者に結婚の権利を留保し、またそうするべきであると付け加えるべきであった。
皮肉なことに、現在の同性愛の解放論者のいっそう野心的な目的は、生物学を15年前もいっそう適切にする。現在、要求されているのは同性愛者の市民権、つまり性的対象の選択に基づく個人的差別の法的な禁止である。
この要求は、しばしば変えることのできない特徴に基づく差別は不正であるという考えに基づく。もし同性愛が遺伝的であるなら、非自発的であり、変えることはできない。私は大前提に異議を唱える。すなわち、我々は日常的に変えることのできない特徴に基づいて差別している。反射速度を選ぶことはできないが、それがもっとも早い遊撃手がチームを作る。攻撃の側に回るなら、同性愛者の市民権は結社の自由を侵犯する。これは私には定言命令の直接的な系であるように思われる。私の見解に基づくなら、黒人と女性の市民権は違法であると反論されるだろう。しかし、黒人および女性と同性愛者との違いを強調することは重要である。黒人であること、女性であることは何ら異常ではない。また、異性あるいは他の人種の成員であることに、深い不快感を覚える者は誰もいない。しかし、多くの人は同性愛者であることにそう感じるのである。同性愛に対するこの反感は、憎しみでも傷つけたいという欲求でもなく、たんに避けたいという欲求にすぎないが、それ自体身が生物学的根拠をもつ。そうであるからこそ、それを欲しない人に同性愛者との交際を強制することは、私には深刻な不正であると思われるのである。
以上の見解は『パブリック・アフェア・クウォータリー』に掲載される「同性愛、異常、市民権」において十分に展開されている。この論文は主題に関する私の現在の考えを表わす。
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