Alan H. Goldman, “Plain Sex”, Philosophy and Public Affairs, 6 (1977), pp.158-67。坂井昭宏先生の訳文に江口が省略された個所を補い、さらに全体を若干修正した(修正しつつある)。
https://yonosuke.net/eguchi/material/tr-goldman-plain.pdf
LaTeXソース
\ifx\mybook\undefined \RequirePackage{plautopatch} \documentclass[uplatex,dvipdfmx]{jsarticle} \input{mystyle} \title{} \begin{document} \maketitle \howtocite \else \chapter{} \fi % ———————————————————––— % ———————————————————––—
\begin{center}
\large{I}
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最近、セックスについての数本の論文が出版され、分析哲学の正統的なトピックとして受けいれられつつある(もっとも、それはプラトン以来のトピックであったわけだが)。概念的分析はこの領域では不必要だと考える人もいるかもしれない。ポルノグラフィを定義しようとする裁判官や立法者たちの悪評紛々のどたばたにもかかわらず、私たちは自分たちがセックスがなんであるかを知っており、少なくとも\ruby{典型}{パラダイム}的な性的欲望や活動を難なく同定できると考えている。しかしながら、ここではいまだに哲学は重要なのである。セックスの概念が、私たちの、そしておそらくすべての社会での道徳的・社会的意識の中心部分に位置しつづけているという理由からである。セックスと道徳や性的倒錯や社会統制や結婚とのあるべき関係について、分別ある見解に到達する前に、私たちはこのセックスという概念そのものを分析しなければならない。すなわち、セックスを動物的快楽へと切り下げるのでもなく、また、なんらかの特定の理論や価値体系のなかでその重要性を過大評価してしまうこともないような分析が必要なのだ。私は「〜の前に」と伸べたが、その順番はさほどはっきりしたものではない。というのも、この領域での問いは、道徳哲学の他の領域と同様に、概念的でもあると同時に規範的でもあるからだ。私たちのセックスの概念は、部分的には私たちの道徳的見解を決定することになるだろうが、しかし哲学者として私たちは、道徳的に適切なその地位と調和するような概念を定式化するべきだ。私たちがここで要求するのは、他の領域と同様に「反照的均衡」であって、これは道徳的含意と、伝統的・現代的な分析をまとめあげただけでは到達できない。性的活動は、食事行動や身体的運動のような他の自然的活動と同様に、文化的・道徳的・迷信的な上部構造のレイヤーに埋めこまれていて、ごく単純な語句によっては把握することは難しい。しかし、部分的にはこの理由のために、私たちがこの概念的均衡を獲得できるのは、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}を考えてみることによってのみである。
私がここで提案したいのは、セックスが最近の論議で誤って理解され続けてきたということ、少なくとも哲学的論議においてそうであったということである。また私は、私が「手段-目的分析」(means-end analysis)と名づける支配的な分析形式を批判するつもりである。このような考え方は、セックスに生殖、愛情表現、たんなるコミュニケーション、人間関係の自覚などの外的な目標や目的が必要だと論じようとする。そうした分析は、性的活動をこれらの目的のひとつのための手段として分析してしまい、性的欲望を、それは生殖の欲望であるとか、愛し愛されたいという欲望であるとか、他者とコミュニケーションしたいという欲望であると考えてしまう。この種のすべての定義は、これらのモデルのいずれかに合致しない性行為や、こうした機能の一つを満たさない性行為をなんらかの点で逸脱的であり、不完全であると考えさせてしまうことによって、セックスと倒錯、そして道徳との関係に関する誤った見解を教示してしまうものだ。
上のものより単純な、私が提案する分析によれば、性的欲望とは「他人の身体との接触と、それが生み出す快楽に対する欲望」である。性的活動とは、行為者のそうした欲望を満たす傾向がある活動である。アリストテレスと〔ジョセフ・〕バトラーが正しく主張しているように、通常は、快楽は意図的行為の目標(goal)ではなく、むしろ副産物であると考えられる。しかし、セックスの場合にはこれはそれほど明白ではない。他人の身体に対する欲望は、身体的接触が生み出す快楽に対する欲望である。一方で、この欲望は、その因果的状況から切り離すことができる特定の感覚、つまり身体的接触以外の仕方でも得られるような感覚に対する欲望ではない。性的欲望を、個々の性的活動をもっと明示的に枚挙して定義しようとする試みよりも、こうして性的欲望の一般的目標によって定義した方が好ましいはずである。というのは、キス、抱擁、マッサージ、手を握るなどのさまざまな活動は、状況次第で性的な場合もあればそうでない場合もあるからだ。もっと正確には、そうした活動があてはめられる目的や必要や欲望次第で、性的にも非性的にもなりうるからである。このように性的活動を一般的に定義することは、同様に性的欲望の目標としてオーガズムを強調することや、性器セックスを性的活動の唯一の規範として強調することの否定にも対応している(これは現在の心理学テキストでは一般的な傾向である)。
この定義の核心にあるのは、性的欲望や性的活動の目標は身体的接触そのものであり、この接触が表現する他の何かではないという事実である。これとは対照的に、「手段-目的分析」は、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}とは異質な目的(ends)と私には思えるもの設定して、セックスをそうした目的に対する手段と見なす。こうした分析の誤りは、セックスをその一般的な目標によって定義するところにではなく、分離可能な他の目的に対するたんなる手段と見ることにある。この分析については、「手段-分離可能目的分析」の方がより説明的だがあまりに煩雑なので、便宜的に「手段-目的分析」と呼ぶことにする。他人の身体に触れたいという欲望は、(正常な)性的欲望の規準として最小限のものではあるが、普通の欲望を性的として規定するのに必要かつ十分である。もちろん、私たちはさまざま状況において性的活動を通して他の感情を伝えようとする。しかし、身体的接触それ自体を求める欲望がなければ、またそれが他の理由のために求められる時には、その接触が含まれる当の行為は優先的な意味では性的と規定されない。さらに、愛情や他の感情を伝えたいという希望を伴わなくても、身体的接触それ自体を求める欲望はそれを充足する行為者の活動を性的にするのに十分である。ある状況におけるキスや愛撫のように、身体的接触という目標を伴うさまざまな活動は、たとえ性的興奮による性器の状態変化がなくてもそれだけで性的と規定される。それゆえ、性器の状態変化は性的活動に必要な規準ではない。
この最初の分析は見る人によって、性的欲望を規定するには広すぎるか、狭すぎるかどちらかに見えるかもしれない。広すぎるすぎるというのは、この分析によれば、フットボールや他の身体的接触を含むスポーツ活動での接触もまた性的欲望として解釈してもよさそうに思われるからである。しかし、こうした事例では、欲望は他人の身体との接触それ自体を求めるのでも、特定の人物との接触を目指すものでもない。身体的接触はこうした活動の目標ではない。目標は勝利すること、能力を発揮すること、誰かをノックアウトすること、高い技能を示すことなどにある。もしその欲望が純粋に他の特定の人物の身体との接触を求めるものであるなら、それを性的として解釈しても誇張とは思われない。もう少し困難な事例は、抱きしめられたいという乳児の欲望や、それに応えて乳児を抱きしめたいという私たちの自然な欲望という事例である。乳児の事例では、欲望はたんなる身体的接触、愛撫という快楽を求めるのかもしれない。もしそうであるなら、とりわけフロイトの理論に従って、この欲望を性的、あるいは\ruby{原-}{プロト}性的として特徴づけることができる。しかし、それはまだ明確な形をもたず、他人の特定の身体へと向かうのではないという点で、成熟した性的欲望から区別されるだろう。幼児が無意識のうちに求めているものは、身体的接触それ自体ではなく、愛情、優しさ、安心の印であるかもしれず、こうした事例では乳児の欲望をはっきりと性的なものとして規定するのを躊躇する理由がある。私たちの乳児に対する応答の意味は愛情を示すことであり、たいていは純粋な身体的接触を求めるものではない。したがって、\kenten{行為者の側の}性的欲望充足のための行為という観点からの私たちの定義は、こうした行為には当てはまらない。男性どうし、女性どうしの間の愛情の印(あるいは一部の文化での礼儀正しい挨拶)にも同じことがいえる。こうしたものはそれがたんに友情を示すものである場合には必ずしも同性愛的ではなくく、それが付加されるなら価値を増すことはあるかもしれないが、\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}とは異質のものである。
身体的接触への欲望による定義は、あまりに狭すぎると思われるかもしれない。というのは、たんなる彼あるいは彼女の身体ではなく、ある人物のパーソナリティが他人には性的魅力となりうるからであり、また身体的接触がなくても、状況次第ではなんらかのしかたで見たり会話を交したりすることも性的でありうるからである。しかし、性的な\ruby{訴求力}{アピール}をもつのは、人の思考の内容それ自体ではなく、彼のある種の振る舞い方に具体化される彼のパーソナリティである。さらに、たとえある人が他の人のパーソナリティに性的な魅力を感じたとしたら、彼はたんに会話を続けたいとだけでなく、実際に身体的に触れたいと思うだろう。ある状況では誰かを見つめたり話をすることが性的として解釈されることがあるが、それが性的なのは、それらが基本的な性的関心にとっての準備段階として、それゆえ性的関心に寄生的であるような場合である。覗き見やポルノ映画を見ることはたしかに性的活動として規定されうるが、それも現実の事柄の想像的代用として性的活動であるかぎりにおいてである(さもなけば、私たちの定義で表現されている標準からの逸脱事項である)。パートナーなしの性的活動であるマスターベーションについても同様である。
私がとりあえず提出した定義は、少なくとも、性的欲望と性的活動の素材は曖昧で論じにくい、ということを示している。私たちはみな、少なくとも明白な事例ではセックスがなんであるのかを知っており、哲学者にそれを教えてもらう必要はない。私の準備的な分析は、少なくとも必然的にはセックスではないのものを示すための対照物として意図したものだ。私は他者の身体に対する身体的に顕示された欲求に注目し、自分自身の実存の身体的側面への没入と、他者の身体的具現化への注意を中心的なものだと考える。人は、性的行為のなかで、パートナーにある感覚を表現することから、またパートナーの態度を意識することから、快楽を得ることがあるだろうが、しかし性的欲望は本質的には身体的接触そのものに対する欲望である。それは、他者の身体に対する身体的欲望であり、私たちの心的生活を多少の短い時間といえども支配する。伝統的文書群が、セックスの純粋に身体的あるいは動物的側面を強調したのは正しかった。それらがまちがっていたのは、それを非難したという点だけである。セックスを強烈な快楽をもたらす身体的な活動と強い身体的欲望とするこの正確づけは、そのぎりぎり最低限のレベルのものしかとらえていないように見えるだろう。しかし、こうして、最小公分母を区別しそれに焦点をあてることは、性道徳と倒錯(perversion)についてのあやまった見方を避けるために価値があるのだ。そうした見方は、セックスをなにか別のものと考えることから生じている。
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\large{II}
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では、セックスは何ではないのかという問題に移ろう。本来は概念的に区別する必要がある、セックスと他の活動の間の概念的なつながりを想定する議論を見てみたい。異質な目的をセックスに組み込もうとする試みの中でもっとも理解しやすいのは、セックスの目的を、そのセックスの生物学的機能である生殖に置く考え方である。これは「自然の」目的であるだろうが、私たちの目的である必要はないのはたしかな話である(食事とのアナロジーは、時に過剰になってしまうことはあるものの、ここでは適切である)。セックスと生殖との同一視はかつては合理的基礎をもつとされ、セックスの価値と道徳を生殖と子育ての価値や道徳との同一視する基礎になっていたが、避妊手段の発達は両者の結合を弱めてしまった。今ではさまざまな避妊法はすでに身近で広く普及しているので、その発展がセックスという概念それ自体と、この概念に依存している理性的なセックス倫理にもたらした変化について長々と論じる必要はないであろう。過去においては、常に存在する妊娠の可能性が、セックスの概念とセックス倫理を現在のものとはまったく異なったものにしていた。母親と父親の両方がきちんと存在していて世話してくれることが子供とって利益になるならば、生殖を結婚内に制限する十分な理由があるということになるだろう。社会が子供の利益を保護する正当な役目をもつかぎりで、社会が結婚に一定の法的地位を与えることを正当化できるかもしれない。もっとも、未婚の母のもとに生まれた子供たちはいかなるペナルティも値するはずがないという事実(そして他のもろもろの事実)がこの問題は複雑にしている。いずれにせよ、ここでの要点は、こうした問いは現在ではセックス道徳と社会規制にかかわる問題には無関係だということである。(結婚との関係については後で論じる。)
性的欲望は必ずしも生殖に対する欲望ではないこと、また、その心理学的発現は生物学的根源からは、常にではないにせよ区別されてきたことは明らかである。先に触れたように、セックスと他の自然的機能との間には平行関係がある。食べたり運動したりする時の快楽は、栄養や健康に関するそれらの役割とはほとんど関係がない(ジャンクフード企業がこれまで徹底的に明らかにしたことだ)。セックスとこうした行為との明白な平行関係にもかかわらず、セックス行為は生殖の行為でもありうるとき、それがいっそう道徳的だとか不道徳だとはいえないまでも、少なくともいっそう自然であると考える傾向がある人々は多い。 道徳的であるというカテゴリーと、「自然さ」(naturalness) ・正常さ (normality)というカテゴリーは、以下で示すように同一視されてはならないし、どちらも生殖との関連によってセックスに適用可能だとされるべきではない。生殖をセックスに概念的に連結された目的である見なす傾向は、現在のカトリック教会の諸宣言に広く見られる。そこでは、誤った分析が明らかに制約的な性道徳に結合する。そのセックス道徳によれば、性的行為はそれが生殖に向けられていないとき、不道徳で反自然的である。この道徳は、パウロに由来するキリスト教性倫理に独立した根っこをもつ。しかしながら、手段-目的分析は首尾一貫した性道徳を生み出すことができない。同性愛やオーラル-性器セックスは受精に結びつかないという理由で非難されるが、キスや愛撫などそれ自身では同じように生殖と関係をもたない行為は非難されないからである。後者(のキスや愛撫など)も私たちの定義では適切な仕方で性的行為と定義されることはいうまでもない。
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目的‐手段分析と、虚偽的で整合性を欠く性道徳や性的倒錯の概念との関係を論じる前に、こうした分析法のもうひとつの事例を考察しよう。よくある立場では、セックスは本質的にパートナー間の愛情表現の一つだとされる。愛情には性的なもの以外のタイプが存在することは広く認められているが、セックスそれ自体は愛情の一つのタイプ、しばしばロマンティックラブ\footnote{この領域に関する著作が、少なくともその時代には合理的思考のモデルとされるバートランド・ラッセルでさえ、このような〔セックスと愛情表現の〕同一視をおこない、プレインセックスを愛情欠如として非難している。「愛を離れたセックスにはほとんど価値がなく、基本的には、愛を視野にいれた実験とみなされるべきである」、という。Marriage and Morals (New York: Bantam 1959), p. 87。}と呼ばれる愛を表現するものであると一般的に認められている。ここでも、さまざまな要素がこの同一視を弱体化するはずである。第一に、性的に表現することが適切な愛以外にも、他に多くのタイプの愛が存在するし、また、「ロマンティック」ラブそのものも、他のいろんな仕方で表現できる。愛とやさしさという感情の表現媒体となる時に、セックスが特段に高尚な価値や意味を帯びることを私は否定しない。しかし同じことは、日曜日の朝に早起きして朝食の準備をすること、家を掃除すること、など他の多くの日常の平凡な活動についても言える。第二に、セックスそれ自体が、愛以外の他の多くの感情を伝達するのに使用されうるし、また、以下で論じるように、セックスそれ自体がなにもコミュニケートすることがないとしても、それでもよいセックスでありうる。
もっと深いレヴェル見ると、身体的-心理的欲望としてのセックスと、二者間の個人的で長期にわたる深い情緒的関係としての愛との同一視から、ある内的な緊張が生じることになる。このタイプの人間関係として、愛は少なくとも意図としては永続的なものであり、多かれ少なかれ排他的なものである。普通の人は一生かかってもせいぜい数人より多くの人を深く愛することはできない。多くの人を愛そうとしたり愛していると主張するような人については、実はまったく愛しては言わないまでも、ごく弱く愛しているにすぎないのではないかと疑ってもよいだろう。しかし、つかの間の性的欲望は、性的な魅力が感じられるさまざまな他者との関係において生じる。一部の人が主張するように、人間の性的欲望は自然本性的に多様性を求めるものであるかもしれないが、これは愛に関しては明白に偽である。こうした理由で、排他的な夫婦間のセックスは、もしそれが正当化されるものであるとしても、ほとんどつねに配偶者双方の犠牲あるいは自己抑制を必要とするわけだが、しかし、一夫一婦制の愛一般はそうではない。私が「\ruby{愛}{ラブ}」という言葉で意味したいものについては、\ruby{行きずりの愛}{カジュアルラブ}のようなものはありえない。既婚者が配偶者以外の誰かと急に深い恋愛関係に陥ることは、往々にしてありうることである(特にセックスが愛と結びつけて考えられているときには)。しかし、それは一時的に他者に対する性的欲望を感じることに比べれば比較的まれである。前者〔婚外恋愛〕のようなケースはしばしば結婚関係に弱みや欠点があることをしめすことになるが、後者〔一時的な性的欲望〕のケースそうではない。
もし実際、愛はその対象に関して性的欲望よりもいっそう排他的傾向が強いといえるならば、このことは、セックスを本質的に愛情表現の手段として考える人々が、なぜ抑圧的で狭隘な性倫理を主張する傾向があるかを説明してくれる。セックスを生殖の手段と見なす場合と同様に、深い愛という全面的な献身を、結婚や家族という脈絡に限定する十分な理由がある。普通の人は、おすそわけ程度のコミットメントや献身などといったものにはたえられないだろう。結婚自体をもっともよく維持してくれるのは、深い情愛で結ばれた関係であることはまちがいがない。たとえ愛が自然本性的には一夫一婦的ではないとしても、家族という単位が子供にもたらす利益が、家庭以外の場所での深いコミットメントを避ける付加的な理由を与える。それは家族の絆を弱めるからである。同様に、排他的な夫婦間のセックスは、性的欲望の充足を夫婦間に限定し、その充足を保証することによって家族を強化すると主張される。しかし、次の議論にはさらに大きな説得力がある。セックスと恋愛の明確な区別を知ることによって、性的欲望を恒常的な愛と取り違えるという青年期に特有の混乱から帰結する悲惨な結婚を避けることができる。健全な結婚における情愛は、青年期のさまざまなタイプのロマンティックラブとはまた別のものである。後者は、しばしば抑圧された性道徳という文脈下でのセックスのたんなる代用物にすぎない。
実際のところ、愛についての手段-目的分析に結びつけられた制約的なセックス倫理もまた、整合的であることはできない。少なくとも、それはこれまで整合的に適用されることはなく、また、女性の自由を狭めてきた\ruby{二重基準}{ダブルスタンダード}の一部となってきた。この歴史からすれば、一部の女性が現在セックスを他の種の手段としてつかおうと提唱していることは予測できたことである。彼女たちは、セックスを政治的な闘争手段として、あるいは不正に奪われたきた権力と自由を獲得する手段として使おうとしている。典型的にセックス-愛分析にむすびつけられたセックス倫理は、それが男性に適用されるときには、せいぜいひとつまみの塩程度のものとして一般的に考えられている。この不整合は、セックスを概念的に異質な要素に結びつけて考えるというやりかたに、この分野でのまともな道徳理論をうまくあうようにしたてあげることが不可能であることを示している(★このパラグラフ全体再検討)。
むろん、セックスは愛と結びつくことができるし、また愛と結びつくことによって、いっそう多くの意義と価値をもつ活動になることができる。私はこうしたことを否定するつもりはない。さらに、各個人はセックスと同じように愛を必要としており、感情的には少なくとも双方をともに含む一つの完全な関係を必要としていることも否定しない。セックスが愛を表現することができ、またそうする時には高い意義をもつように、愛はしばしば自然本性的に断続的な的欲望を伴う。しかし、愛にはセックス以外に、他の共通の活動に対する欲望も伴いうる。性的欲望を他よりもいっそう親密に愛と結びつけるものは、相互的な性的行為の自然的な特徴であると見られる親密さ(intimacy)である。愛と同様に、セックスは人を身体的にも心理的にも裸にするものだ。セックスは間違いなく親密なものである。しかし、しばしばセックスに結びつけられる心理的なうしろめたさという代価は、とうぜんなされるべき自己弁明というよりは、狭隘な性倫理の作用によるものかもしれない。愛に含まれる親密な関係は、一般には、心理的に健全な仕方で人々の集中をもとめるものだが。他方、性的関係の心理的対価は、しばしば親密さに対応したきまりの悪さを伴うが、かなりの程度、人為的な性倫理やタブーの結果に他ならない。愛とセックスに含まれる親密さは、これらを素材にした手段-目的分析を適切なものにするには不十分である。(★ここも再検討)
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\large{IV}
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最近の論文で、トマス・ネーゲルとロバート・ソロモンは、セックスは愛を伝えるたんなる手段ではないことを認めてはいるが、それでもこの分析を拡張し維持しようとしている。ソロモンにとって、セックスはコミュニケーションの手段であるが(彼はボディーランゲージのメタファーを明示的に使っている)、伝達される感情は愛とやさしさに加え、支配、依存、怒り、信頼などを含むものにされている\footnote{Robert Solomon, “Sex and Perversion”, Philosophy and Sex, ed. R. Baker and F. Ellistion (Buffalo:Prometheus, 1975).}。ゲーゲルは明示的にはコミュニケーションには言及していないが、彼の分析はセックスを複雑な対人間意識作用と見るもので、そこでは欲望そのものがさまざまなレベルで伝達されるとされている。ネーゲルの分析では、セックスにおいて、二人は互いに〔性的に〕覚醒させられ、相手の覚醒を知覚し、そしてその知覚によってさらに覚醒させられる、ということになる\footnote{Thomas Nagel, “Sexual Perversion”, The Juornal of Philosophy, 66, No. 1 (1960). トマス・ネーゲル、『コウモリであることはどのようなことか』収録。}。こうした自分自身と他者の欲望のマルチレベルでの意識的知覚は性的関係の\ruby{標準}{ノルム}とみなされる。このモデルはそれゆえセックスを対人間コミュニケーションの手段として見る立場に接近している。
より重要な点として、セックスをコミュニケーションの手段として分析すると、その行為自体の内在的な本性と価値を見逃してしまう。セックスはたんなるジェスチャーでも一連のジェスチャーでもなく、実際のところ必ずしも他の目的のための手段ではなく、むしろそれ自体強烈な快をもたらす身体的活動である。言語が用いられるときには、シンボルはそれ自体では重要性をもたない。シンボルは単にそれによって伝達されるもののための乗り物にすぎない。さらに、言語の使用におけるスキルは、注意深く学習されなければならない技術的獲得物である。もしよりよいセックスが、より熟練したボディーランゲージによっていっそううまく伝達されるコミュニケーションであるならば、私たちはそのボキャブラリーや文法を学校で学ぶべきだということになるだろう。ソロモンの分析は、言語というメタファーを使うものだが、それによれば、セックスマニュアル的なアプローチが適切であるように見られる。それは、感覚と欲望に強制されることなく服従する自然な快楽を、ある種の技術的な能力に置き換えてしまうものだ。
ソロモンの立場は、言語ではなく、コミュニケーションの美的形式としての音楽のアナロジーをもちいれば改善されそうに思えるかもしれない。音楽は美的コミュニケーションの一形態であると考えられ、そこでは「音素」それ自体の経験が一般に快をもたらす。そしてまた、音楽を聞くことは、誰かと話をするというよりは、性的経験に近い。しかし、音楽がそれ自体で美的で快をもたらすものであるとはしても、それが特定の感情を伝達する手段であると考えるのが適切であるとは私は考えない。そうした分析は、性的経験そのものを落しめるようなセックス-コミュニケーションと同様なしかたで、美的な経験を不当にとりあつかっているように思える。
ソロモンにとって、十分に自覚的なコミュニケーション的な行為でないようなセックスは卑俗さに向かう傾向があるというのだが\footnote{Solomon, pp. 284-285.}、私はこれはまったく反対に考える。これは、私の説では完全に自然で正常なセックスに思われるものを非難する手段-目的分析の傾向のまたひとつの例証になる。しかしながら、ソロモンとネーゲルは双方とも、自分たちの定義を、先の分析で見たようににセックスの道徳的\ruby{標準}{ノルム}を制定するためにではなく、倒錯の度合いを測ろうとする\ruby{標準}{ノルム}を定義するために使っている。ここでもまた、どちらの定義も、なにが\ruby{標準未満}{サブノーマル}なセックスと考えられるべきかということに関する私たちの根強い直観との整合性あるいは反照的均衡を埋みだすのには失敗している。問題は、どちらも、正常な性的欲望や活動の恋愛物語化されていない見方には異質な要素を、その\ruby{標準}{ノルム}に持ち込んでしまっているところにある。もしソロモンが主張するように倒錯がコミュニケーションの崩壊を表現するものであれば、不首尾におわったり誤解された口説きなどは倒錯的だということになってしまう。さらに、すでに数年結婚している夫と妻や、おたがいにすでによく知っているパートナーの間でのセックスは、倒錯的ではないとしても、\ruby{標準未満}{サブノーマル}だったり陳腐で退屈なものということになるだろう。コミュニケーションされる内容が少なく、なにも新しいところがないからだ。実際のところはセックスの快楽はなじみになってもすり切れていくとは限らないが、もしセックスの快楽が感情などのコミュニケーションの内容に依存するのならばそうしたことになってしまうだろう。最後に、マスターベーションは、代理的な創造的なはけ口による身体的な欲望を解放し軽減する行為というよりは、自分のコミュニケーションのテクニックやボキャブラリーを訓練したりリハーサルしたり、あるいはソロモン自身が認めるように、単に独り言をつぶやくことに近くなる\footnote{同上、p.283。ウディ・アレンの自分のテクニックについてのセリフを思いだす人もいるだろう。「一人の時に何回も練習しているんだ。」}。
ネーゲルも、過剰に知的なものにされた\ruby{標準}{ノルム}がもつ含意では、ソロモンと同じようなものである。二人のよくなじんだパートナーの間の自発的で熱の入ったセックスは、彼が言うところの複雑な意識的なマルチレベルの対人間知覚などは含んでいないかもしれないが、だからといってなにも倒錯的なところはない。自分のパートナーが自分の欲望によって興奮してほしいという自己中心的な欲望は、性的に駆り立てる衝動の基本的な要素であるようには思えないし、またセックス行為の間、パートナーが能動的で興奮していることを好むことはあるだろうが、そういう人も時にはより受動的であることを好むこともあるだろう。愛がコミュニケートされているときにセックスがいっそう意義あるものになるのと同様に、相手の欲望を知覚することによってセックスがより高められることはあるだろう。しかし、時にはまた、パートナーの熱意ある欲望の知覚が単に気を散らすものになっていまうときもあるだろう。ネーゲルが言及する意識的知覚は実際のところ、私が上で言及した肉体的なものへの没入を妨げるところがあるかもしれない。これは自分の「 ボキャブラリー」やテクニックなどといったものにに集中しようとすることが没入を妨げてしまうのと同様である。セックスは他者とかかわる方法だが、基本的には知的というよりは肉体的なものである。ネーゲルにとって、変質あるいは倒錯の最極端は、おたがいの心の状態を知覚することのない「相互的な皮膚表面の刺激」\footnote{Nagel, p. 15.}ということになるだろう。しかしこれは私には、たしかに理想的ではないにせよ、ごくノーマルなセックスに思われる(おそらく単にセックスの最小限の記述ということになるだろう)。彼のモデルはたしかに、性的行為そのものというよりは洗練された誘惑の一風景にふさわしいものであって、このモデルにしたがえば、セックスはしばしば知的な前戯のあとでの\ruby{標準未満}{サブノーマル}な\ruby{竜頭蛇尾}{アンチクライマックス}ということになるだろう。ネーゲルの説はソロモンのセックスの手段-目的分析に似ているが、ネーゲルにいては性的行為そのものは対人間コミュニケーションという目的のために望ましい手段としても中心的な手段としても失格ということになりそうである。
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私はここまで、一般的な手段-目的形式を共有するさまざまなタイプの分析を批判した。私が示してきたのは、こうした形式をもつ分析は道徳的あるいは自然的なセックスを、基礎的な性的欲望に外的な何らかの目的や機能を遂行するそれに制限しようと試みに繋がるということである。こうした試みは理想化されたモデルから外れるまざまな形態のセックスを不道徳あるいは倒錯的という烙印を押す。しかし、それ自身が直接には疑問視しない直観との整合性を保ちえない。たとえば、生殖モデルはオーラルセックスを逸脱と見なすが、キスや手を握ることなどを説明できない。コミュニケーション説は覗き見を逸脱と考えるが、あまり意識的な思考をともなわない性的行為や、誘惑的で非身体的な前戯をうまくとりあつかえない。セックス‐愛モデルはほとんどの性的欲望を他人を侮蔑(degrade)する卑しいものと見なす。生殖モデルとセックス-愛モデルは、生殖と深いコミットメントは、家族という文脈にこそ限定されるべきだとして、健全にみえるが実は無関係な根拠から婚外セックスを非難する。セックスの\ruby{恋愛物語化}{ロマンチック化}と、性的欲望と愛との混同は、二つの方向で作用する。ロマンティック・ラブという脈絡を外れたセックスは抑圧される。それがいったん抑圧されると、セックスのパートナーを見出すことはいっそむずかしくなる。またセックスはさらに恋愛物語化されることになり、個人個人にとってのその本当の価値にまったく釣り合わないほどのものになってしまう。
こうした分析すべてが共通の形式に加えて共有するのは、プラトン主義的キリスト教的道徳の伝統との合致とそこからの逸脱である。この伝統によれば、人間の動物的要素、すなわち純粋に肉体的要素は不道徳さの源泉であり、私が規定した意味での\ruby{セックスそのもの}{プレインセックス}は、この動物的要素の一表現であり、それゆえそれ自体として非難されるべきである。これまで検討してきた分析はすべて、性的欲望それ自体から距離をとり、それを身体的なものを越えるものとして概念的に拡張しようと試みているように思われる。愛とコミュニケーションによる分析は、性的欲望を純化し知性化しようとしている。身体的セックスそのものは卑俗なものとみなされ、すばらしき大脳の働きのオーラを必要とするようなコミュニケーションを伴わないあまりに直接的な性的な出会いは回避されるべきであるとされる。ソロモンはセックスは「たんなる」欲望ではありえないと明示的に述べる。もしそれがたんなる欲望であるなら、地下鉄の露出狂や他の形の卑俗な行いも同じように快楽を与えるであろう、と\footnote{Solomon, p.285.}。しかし、性的欲望は肉体的であると同時に、対象選択的でもありえる。下等な動物も自分の種の他の個体に対しても同じように魅力を感じるわけではない。すえた臭いのする食べ物を喉の奥に突っ込まれるのは心地のよくないことであるが、しかし、このことは食欲が肉体的欲望でないことを示すわけではない。性的欲望は私たちが肉体的存在であること、実際、動物であることを私たちに教えてくれるのだ。これが伝統的なプラトン主義的道徳が、かくも徹底的に性的欲望を非難した理由である。手段-目的分析は、しばしば意図せずして、今なおこの伝統を反映している。すなわち、肉体的欲望としてのセックスそのものは私たち自身の「低位の自己」(lower selves)の表現であり、私たちの動物的本性に屈服することは人間以下であり卑俗である、というのである。セックスを概念化する際、連綿と続くこうしたプラトン主義的疑念から私たちを解放することは、この領域における革命なるものにもかかわらず、いまだに困難であることを示している。
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\large{VI}
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これまで批判してきた手段-目的分析が含意する性倫理と私の自説とを対比させなければならない。私の分析がどのような性道徳を含意するかという問いに対する答えは、私の説明はいかなる道徳的含意ももたないというものである。セックスそれ自体に道徳的性格を負わせるいかなる分析も、まさにその理由によってすべて誤りである。セックスに内在的ないかなる道徳も存在しない。ただし、道徳の一般的諸規則がすべての人間関係に適用されるように、こうした規則はセックスにおける他人の取り扱いにも適用される。私たちはセックス倫理について、ビジネス倫理と同じように語ることができる。ビジネス倫理について語るとき、私たちはビジネスそれ自体が道徳的か不道徳かを問う必要はないし、また、ビジネス以外にも適用される諸規則に由来しない特別の規則がビジネスの実践を判断するために必要であると主張する必要はない。セックスそれ自体は道徳的なカテゴリーではない。私たちはビジネスと同様に、セックスによって他人との関係に置かれ、この他人との関係に道徳諸規則が適用されるのである。セックスは私たちにこれとは別の状況で不正として認められることなす機会、他人に危害を及ぼす機会、彼らの意志に反して他人を欺き、他人を手段として扱う機会を与える。ある行為が性的であること以外の理由で不正であるとしても、その行為がそれ自体として性的であるという事実は、けっしてその行為を不正にしたり、その不正さを増したりしない。後で論じるように、未成年者に対するセックスが不正であるのは、それがセックスであること以外の理由による。したがって、いかなる不正な行為もそれが性的な動機からなされたという理由だけで、非難されるべきではない。もし「痴情による犯罪」(crime of passion)がいくぶんか情状酌量されるべきであるなら、それは性的なコンテキストでおこなわれたからではなく、一時的な精神的錯乱においておこなわれたからであるべきである。性的な動機は他の一部の動機と同様にとりわけ人を錯乱させやすいものかもしれないが、それが性的であるという事実は、それ自体ではそこから生ずる行為の道徳的性格とは無関係である。戦争においてなにが真理であるかはさておき、愛とセックスにおいてはなにをしてもかわないというわけではないことは確かである。
それゆえ、道徳とセックスに関する私たちの最初の結論は、他の状況で不道徳などんな行為も、それが性的な行為であるという理由で責任を免除されるべきではないし、それ以外のところで同様に適用される規則によって非難されないなら、セックスにおいてなされる何ごとも不道徳ではないということである。後者に関しては、さらに説明が必要であろう。セックスはセックスそれ自体にのみ関係する特殊な規則に支配されうる。しかし、そうした規則が具体的な性的関係に適用される時には、道徳の一般的規則に含まれなければならない。同様のことが公正なビジネス、倫理的な医療、自動車運転の規則にも当てはまる。最後の事例では、路上での特定の行為、たとえば前を走る自動車の後尾に接近密着して運転したり、道路の右側から追い抜いたりすることなどは非難されるべきであるが、行為としては高速道路の安全という脈絡以外では他のどんな行為とも類似性ももたない。しかし、そうした行為の不道徳性はそれが他人を危険な状況にすること、それが回避可能なときには、どのような脈絡でも非難されるべき状況に置くという事実から派生する。このような一般的で特定の事例に適用可能な規則の構造が、同様に理性的な性道徳を記述する。極端な事例を挙げれば、レイプはつねに性的行為であり、つねに不道徳である。したがって、レイプを禁じる規則は、明白に性道徳一部分であって、これは性的ではない行為となんの関係ももたないと考えられるかもしれない。しかし、レイプが不道徳であるのは、それが人の身体への暴行であり、侮辱されない権利の侵害であり、他人を意思に反して使用することを禁止する道徳の一般的規則の著しい侵害であるからであって、それがセックスだからではない。
道徳の一般的規則のセックスへの適用は、その適用が性的パートナーの特別の欲望や選好に相対的であるという事実によっていっそう複雑になる(これらの欲望や選好は性道徳のものによって影響を受け、それゆえその意味でなじまげられた信念を含んでいるかもしれない)。これは性倫理の領域には、自動車の運転などのような他の行為の領域に比べて、規則の数が少なくなるだろうということを意味する。自動車運転の場合、運転者の選好が多様であってもそれは客観的に危険な行為を禁止することとは無関係である。他方、セックスの領域では、道徳の一般的規則はパートナーの選好や欲望や関心を考慮すべきであるとを主張するにすぎない。この規則はおそらく性的関係を規制するために詳細に定式化されるものではない。これは道徳の中心的原則の一形態のそのものである。しかし、これがセックスに適用されると、子供に対する性的虐待のような特定の行為を禁止する。子供に対する性的虐待は、それが同時に性的として分類されるのでなければ、規則の侵害というカテゴリーに入れることはできない。この子供の性的虐待という事例が、性的\kenten{であるがゆえに}不正であるという行為にもっとも接近した事例である。しかし、この事例においてさえ、それが不正であることは、そうした行為が純真な被害者の将来の感情的・性的生活に及ぼす有害な結果から導きだされるものとして、またそうした行動が無垢な人間を、その人の利益を無視して操作し使用することであるという事実に基づくとして性格づけられることから導かれると考えたほうがよい。それゆえ、この事例も別の領域に同じように適用される道徳の一般的規則の侵害を含む。
セックスに関する誤った概念的分析とプラトン主義的道徳の伝統の影響の他にも、セックス自体に内在する道徳的次元があるかもしれないと考えさせる他の二つの理由がある。第一は、セックスが通常は強烈な快楽をもたらすことである。快楽主義的な功利主義の道徳理論によれば、性的行為はそれ自体として道徳的に中立というよりは、少なくとも\kenten{他に特段の理由がなければ}\emph{prima facie}道徳的に正しいとされるはずである。これは私にはまちがっているように思われるため、功利主義倫理学理論にとっては不利なことになる。セックスに内在的な快楽はよいものであるが、私にはそれはポジティブな道徳的意義をもつ善であるようには思われない。私がこうした快楽を追求する義務をもたないことは明らかであるし、また他人にどんな形であれ快を与えることは親切なことではあるが、私は私の身体に関する権利をもつことからすると、他人に快を与える道徳的な要求は存在しない。この件に関する例外は、セックスの文脈では一方は他方から快楽を引き出すわけだが、その恩恵を相手に返すべきだ、ということである。恩恵を交換するという義務は、私たちを快楽主義的功利主義の領域から、カント主義的な道徳の枠組みへ連れ出すことになる。その中心的原則は人間関係におけるこうした互恵性を要求するからである。性的活動についてのそれぞれ独立した★道徳的判断は、倫理学理論がテストされるべき一領域を構成する。したがって、上で示されたような考察は、他の領域と同様に、功利主義と対比されるものとしてのカント主義的原則が、理性的な道徳意識を再構成するためうえでもつ豊かさを示していると私には思われる。
カント主義的観点からは、セックスはそれ自体として少くとも\ruby{一応のところ}{prima facie}不正であるように思われるかもしれない。というのは、セックスはそれぞれの段階でつねに、自己のパートナーを自分の快楽のための手段として使用するからである。他人を自己自身の個人的な目的のための手段として取り扱うべきではない、とするカント主義的原則に基づくなら、これは禁止されるように思われるだろう。しかし、普遍化可能性の第一原則と同義として意図されたものとして、この原則をいっそう現実的に翻訳すれば、こうした絶対的禁止を求める必要はない。人間関係の多く、たとえば経済的取引のほとんどは他人を個人的な利益のために利用することを含んでいる。こうした関係が不道徳であるのは、ただそれが一方的である時、利益が相互的ではない時、取引がすべての当事者によって、自由にかつ理性的に支持されるようなものでないときのみである。同じことがセックスにも当てはまる。セックスを規制する中心原理は、性的関係の互恵性に対するカント的要請である。自然本性的に他人を「モノ化する」(objectify)行為においてさえ、人はパートナーを必要と欲望をもった主体としても認め(ネーゲルが記述するように、単に相手の欲望によって興奮させられるだけではない)、その欲望に服従し、自分自身も性的なモノとなり、快楽を与え、その行為の快楽が相互的であることを保証しようとする。セックスにおける道徳の基礎を形成しているのは、この種の互恵性である。これが他の領域でと同様に、性の領域において正しい行為を不正な行為から区別するのである。(もちろん、性的行為に先だって、人はそれが潜在的なパートナーにおよぼす影響を評価し、より長期にわたる利害を考慮にいれねばならない。)
\vspace{1zw}
\begin{center}
\large{VII}
\end{center}
私はすでに手段-目的形式の誤った概念的分析が、性的行為の正不正に関する混乱を助長することに加えて、個人にとってのセックスの価値に関わる混乱を引き起こすことを示した。私の説明によれば、欲望の満足とそれがもたらす快楽とが、個人にとっての性的行為の主要な心理学的機能と認められる。セックスは私たちに快楽の基本的なパラダイムを提供するが、価値の土台を与えるものではない。それは私たちの多くにとって欲望の必要なはけ口であるだけでなく、私たちの知るかぎりでリクリエーションのもっとも楽しい形式でもある。それにもかかわらず、その価値はセックスが本質的に愛の感情の表現と見なされると、簡単に誤解されて愛の価値と混同されてしまう。セックスの快楽は強烈ではあるが持続するものではないし、反復するものではあるが累積するものではない。快楽はそれを生み出すセックスに価値を付与するものであるが、それは人生全体を高め豊かにするような持続する種類の価値ではない。セックスの快楽が持続しないことはその強烈さに貢献しているだろうが、このことがセックスの快楽をよき人生の合理的計画の周辺部に追放してしまうのである。
これとは対照的に、愛は典型的には長期の関係において発展する。愛がもたらす快楽はセックスの快楽に比べて強烈でもなく肉体的でもない。しかし、その快楽はいっそう累積的な価値である。個人にとって愛は、価値の合理的体系のなかで中心的位置を占める。それはいっそう深い道徳的重要性をもっていて、他人の関心と自己自身のそれとの同一視させ、また他人との関係の可能性を広げてくれる。結婚は大人どうしと子供たちの間でこうした関係を維持する点で重要である。結婚は子供にとってと同様大人にとっても重要で、自己本位になりがちな関心を広げてくれるものだ。これと対照的に、性的欲望は対照的に、他人を求める欲望であるが、本質的に自己中心的である。性的な快楽はたしかに個人にとって善であり、また、多くの人には溌剌と生活するために必要であるかもしれない。しかし、性的快楽と今しがた論じた他の諸価値の関係は、いくつかの分析が誤って示唆するような概念的な関係ではない(★この一文訳しすぎ)。
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\begin{center}
\large{VIII}
\end{center}
私がはじめに提出した分析は、それ自体では道徳的な含意を含まないが(そしてそうあるべきだが)、対照的に、「性的倒錯」の概念を示唆するものではある。「倒錯」の概念はそれ自体性的な概念であり、常に\ruby{正常な}{ノーマル}セックスの定義に相対的に定義されることになる。そしてその\ruby{標準}{ノルム}の考え方は、倒錯的な形態という正反対の観念を意味するものである。私の説で示唆される概念は、ここでも、上で検討した手段-目的分析が含意する概念とははっきり異なったものになる。倒錯は生殖機能からの逸脱を指すものではないし(さもなければキスは倒錯ということになるだろう)、また愛の関係からの逸脱でもなく(さもなければ多くの異性愛的行為は逸脱ということになるだろう)、またコミュニケーション性能からの逸脱でもない(さもなくば下手くそな誘惑は逸脱ということになるだろう)。倒錯とはある\ruby{標準}{ノルム}からの逸脱ではあるが、その問題の標準とはたんなる統計的なものである。もちろん、統計的に異例な性的行為のすべてが倒錯というわけではない{\DDASH}3時間にわたる性的行為は普通ではないだろうが、必ずしもこの言葉に必要な意味で異常だというわけではない。問題になっている\ruby{異常}{アブノーマル}さは、性的倒錯を構成する\kenten{欲望の形式}そのものに関連していなければならない。たとえば、他者との接触ではなく単に見ることに対する欲望、危害を加えることあるいは危害を加えられることに対する欲望、衣装などとの接触に対する欲望などがそれにあたる。性的異常という概念は、典型的な欲望にもとづいた正常なセックスという私の定義によって示唆される概念である。しかしながら、すべての通常的でない欲望もまたすべてが倒錯とされるわけではない。それを満足させようとする個人に、典型的な肉体的・性的な影響があるものにかぎられる。たとえば男性の勃起などのこうした影響は、性的欲望をもちいたセックスのもともとの定義には含まれていない。そうした影響は、性的であると適切に特徴づけられるような活動、たとえば快楽のためのキスなどのすべてに必ず伴っているとはいえないからである。しかし、倒錯的とされる活動の定義については、もっと密接に結びついているように思われる。(性器セックスだけが性的だと考える人々にとっては、そうした兆候を狭い方の定義に組み込んでしまってもよい。その場合は広い意味でのセックスも「\ruby{本来の}{プロパー}」セックスと呼ぶことができるだろう。★)
ソロモンとネーゲルは、倒錯についての統計的観念には同意しない。彼らにとっては、倒錯の概念は統計的というよりは評価的なものである。私は「倒錯的」という後がしばしば評価的に(そしてそのために純粋に情動的に)使われていること、そして、平均的な話者にとってはネガティブな含みがあることも否定しない。私が否定するのは、私たちが統計的に普通でない欲望という以外のなんらかの\ruby{標準}{ノルム}を見つけだして、それによって、性的な倒錯と正当にカウントされるような活動のすべて、そしてそれだけを特定できるという発想である。倒錯的なセックスは単に\ruby{通常的でない}{アブノーマル}セックスであり、かつ、もしその\ruby{標準}{ノルム}なるものが〔セックスとは〕異質な目的を理想化したり\ruby{恋愛物語化}{ロマンチック化}したものであるべきではないとすれば、それは人間の性的欲望が通常あらわれるその仕方を表現するものでなければならない。もちろん、他の領域での言説における\ruby{標準}{ノルム}のすべてが、このように統計的である必要はない。身体的健康は、比較的クリアな\ruby{標準}{ノルム}で、それは健康な人々の数に依存しないように見える。しかし、この場合の概念は、そのクリアさを、身体的健康と、他の明白に望ましい身体的機能や特徴、たとえば長寿などと結びつけることから得ている。セックスの場合は、統計的にアブノーマルなものは必ずしも他の点で人の能力などを奪うものではないが、そうしたアブノーマルな欲望とそれの主体に対する性的な影響は、その対象物が通常の対象物から逸脱する程度に応じて倒錯的であるとされる。こうした、異常さ・統計的逸脱とのつながりを越えた倒錯という概念の含みは、行為そのものの特定可能な特徴というよりはむしろ、ある種の行為を倒錯的と呼びたいという態度に由来するものである。こうした含みは、\ruby{異常}{abnormal}という概念に、標準\kenten{以下である}{\emph{sub}normal)}という概念をつけくわえるものだが、後者については、直観的に倒錯的だと呼びたい行為のすべて、そしてそれだけをまともなしかたで計る\ruby{標準}{ノルム}などは存在しないのだ。
セックスに関して、唯一の正当な評価的\ruby{標準}{ノルム}は、その行為における快楽の程度と道徳的諸\ruby{標準}{ノルム}であるが、どちらのスケールも、倒錯の度合いを計測する統計的な異常さの程度と一致するものではない。この三つのパラメーターは独立である(セックスの快楽は善であるが、必ずしも道徳的善ではない、ということ以上のことが言われようとしているのならこれは最初の二つのパラメーターについてもいえる★)。倒錯的なセックスは特定の人々にとっては正常なセックスより楽しいものかもしれないしそうでないかもしれず、またその参加者の特定の人間関係によって、より道徳的なものである場合もそうでない場合もあるだろう。羊をレイプすることは女性をレイプすることよりもいっそう倒錯的であるだろうが、より道徳的な非難に値するというわけではない\footnote{Michael Slote, “Inapplicable Concepts and Sexual Perversion”, Philosophy and Sex, 261-67.}。しかしながら、「倒錯的」という言葉にむすびつけられた評価的な含みは、ほとんどの人が倒錯的セックスをひどく不道徳なものだと考えているという事実に由来する。多くのそうした行為は、長年のタブーによって禁じられており、しばしば禁止されていることと不道徳なことを区別することすら難しくなっている。他の、サディスティックな行為のようなものは、純粋に不道徳であるが、しかしここでもまた、それがセックスや異常さに結びついているからなどではない。こうした行為を非難する原則は、それがありふれていたり非性的なものであっても同じように非難するものである。諸社会でごくありふれていると判明した慣習的実践を、倒錯していると正当に非難しつづけられるなどということはありえない。そうした行為が、もし有害なものであるならば、不道徳であると正当に非難されつづけることはありえあるが、ある行為の不道徳さは、その倒錯の程度に依存するなどといったことはありえないことは上に示した通りである。もし害がないとしても、アブノーマルだと思われていた害のないありふれた行為が、道徳主義的なマイノリティによってしばらくのあいだ「倒錯的」と呼ばれることはありえる。しかし、この言葉は、そうした〔害のないありふれた〕行為に適用されるときには、単に情動的にネガティブな含みしか維持しておらず、その適用に際しての整合的な基準はもっていない。それはたんなる偏見的な道徳判断を表しているだけである。
倒錯的な行為をそれほどひどく非難しようとする傾向があるのかを説明することは、心理学的な考察を必要とする事柄であって、この論文の範囲を越えている。その理由の一部はうたがいなく、抑圧的なセックス倫理の伝統とセックスについてのまちがった考え方にかかわっている。またその一部は、すべての異常さは、われわれの心を掻き乱すと同時に魅了もするという事実から来ている。前者はなぜ性的倒錯が他の種類の異常さよりも嫌悪感を誘うのかということを説明する。後者はなぜ私たちがそもそも倒錯に対して情動的・評価的な反応をする傾向があるのかを示してくれる。フロイト主義の流れによって示されているように、私たちの不安は自分では認めたくないような潜在的な欲望に由来するものかもしれない。しかしこれは心理学的な問題であって、私にはそれを判断する能力がない。心理学的な説明はどうあれ、ここでは、倒錯と本来的・整合的な道徳的評価の間の概念的つながりはいいかげんなものであり、ここでもまた、あやまったセックスの概念の手段-目的的理想化によって示唆させるものにすぎないということを指摘するだけで十分だろう。
こうした諸概念に反対すべく本論で私が採用した立場は、さして新奇なものではない。私の立場に似たものはフロイトのセックス観に似たようなものは見られるものであり、彼のものはもちろんまさに革命的なものだ。またフロイトに由来し現代にまでいたる大量の著作物にも見られる。しかし恋愛物語化され抑圧的な考え方を転覆するために、フロイトはあまりに遠くまで進みすぎた{\DDASH}セックスをたんなる手段とする見方を拒絶するところから、セックスをあらゆる人間の行動の目的、特に入念に偽装された目的、とみなす見解へと進んでしまった。この汎性欲主義は、けっきょくのところ、(特に)抑圧は社会的規制の不可避かつ必須の一部である、というテーゼにつながることになった。これは手段-目的的な見方の抑圧的な側面に対する反発からはじまったにしては奇妙な帰結である。おそらく、最終的には、私たちがこの領域でまずまず理性的な中間的な居場所に到達できる日が来ることだろう。社会ではともかくとして、少なくとも哲学的には。
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