Michael Tooley, “Personhood”, in Helga Kuhse and Peter Singer, A Companion to Bioethics, Blackwell, 1998 の勝手な訳。大学での生命倫理学などの授業で使用してもらってもかまいませんが、著作権者および出版社の許可をとっていません。
https://yonosuke.net/eguchi/wp-content/uploads/2024/02/person-tooley.pdf
ソース
\section*{基礎的道徳的原則とパーソンの概念}
日常的な会話では、「パーソン」という言葉はかなり違う二つの意味で使われている。時として、この言葉の意味は純粋に生物学的なものであって、それは単に私たち自身の種であるホモ・サピエンスに属する個体を指すために用いられる。しかし、私たちはしばしば、人間ではない存在者{\——}例えば神々、天使、もしかしたらいるかもしれない宇宙人{\——}を、「パーソン」として言い表わす。また私たちは、クジラやイルカや霊長類といった一部の動物が、パーソンではないだろうかと疑問を抱くことがある。こうした場合、「パーソン」という言葉は先とは非常に異なった使い方をされている{\——}つまり、ある特定の生物種に属する個体ではなく、正常なおとなの人間の特徴となるようなタイプの心的な生活に匹敵する何ものかを享受している個体を表しているのだ。
倫理学において中心的な役割を果たすのは、後者の概念である。そしてその理由は、以下のような諸々の考察を踏まえると、パーソンの概念が多くの\kenten{基礎的な}道徳的原則の定式化にとって中心的であることにある。こうした基礎的な道徳的原則には、殺すことの道徳性に関するものなどが含まれる。まず最初に、ある人に起こりうる末路を二つ考えてみよう。一つは、殺される場合であり、もう一つは、上部脳が完全に破壊されるが、下部脳は万全な状態で残ってい場合である。大脳半球からなる上部脳は、自己意識のような高度な心的活動や熟考、推理力や記憶のみならず、最も原始的な意識の神経生理学的基盤であり、上部脳が破壊されれば、あらゆる心的生活の能力が破壊されることになる。その結果として、上部脳の破壊は、各種の一般的な能力の破壊だけでなく、人間の自己同一性の基盤となる心理状態をも破壊することを伴う。下部脳つまり脳幹が損なわれていないならば、その部分が呼吸を含む生命プロセスを統制しているのだから、依然として、生きている私たちの種の一員と言えるだろう。対照的に、殺される場合においては、その人はもはや、生きている私たちの種の一員としては扱われないだろう。それにもかかわらず、これら二つの結果は、同じくらい悪いことだと思われる。さらに、誰かが故意にこのどちらかの結末を引き起こしたと考えてみれば、どちらの行為も同じように不正であると思われる。
これに関係する二つ目の考察は、\ruby{洗脳}{リプログラミング}というアイディアに関わる。ある人が、殺されるかわりに、\kenten{トータルな}リプログラミングを行なわれると想定してみよう。それによって、記憶や信念、態度、好み、能力、性格などが破壊され、完全にそれまでとは無関係のニセ記憶や信念、態度、好み、能力や性格で置き換えられる。もしこうしたことがなされたらい、生きている我々の種の一員であるだけでなく、心理的に正常な、大人の人間であるような存在者がまだ存在はしていることになるだろう。しかし、この結果は、上で考えた災難にまきこまれた二人の観点に比べて、いくらかましなものだろうか?それとも、そうした操作を行うことは、正常な大人を殺したり、上部脳を破壊したりすることに比べて、その不正さはいくらかましなものだろうか?おそらくほとんどの人はそうは考えないように思われる。それは、リプロプラミングの例では、当人は生存しておりまったく正常な大人の人間ではあるのだが、かつて存在していた個人は破壊されてしまったと考えるだろうからである。
第三の考察は次のようなものだ。 ある人があなたの上部脳を破壊し、もう一人の人が、そうしたことがあなたになされたと知りつつ、あなたの下部脳を破壊するとする。 あなたはこの行為によって、より不幸になるだろうか、またそれを行なった人は、最初の人がおこなったのと道徳的に同程度のことをしただろうか。もしあなたはより不幸になったと考えるならば、そのためには、誰かの脳をすべて破壊するのは、上部脳だけを破壊するよりも道徳的により悪いことだと考える必要がある。もし、多くの人々が感じるように、この結論が疑わしいとするならば、次のように結論することを強いられることになる。つまり、二番目の人の行為は生きている私たちの種の一員を殺すことを含んでおり、最初の人の行為はそうではないのだが、非常に不正なのは、最初の人の行為の方であり、二人目の行為ではない、と。
私たちがこうした直観群を理解できるのは次の場合のみである。第一に、人を破壊することは少なくとも特段の理由がなければ非常に不正であるということは基礎的な道徳的原則であると結論すること、また第二に、正常な成人の人間を殺すことの不正さは、そうしたケースでは殺すことにはパーソンの破壊が含まれているという事実から導かれていということを結論する場合のみである。この見解が採用するならば、私たちは、まず、上部脳を完全に破壊されることや完全にリプログラミングされることが、殺されるのと道徳的に同じようなものであることを説明することができる。これら三つはすべて、\ruby{人}{パーソン}を破壊することを含んでいる。また、いったん上部脳が破壊されてしまえば、さらに下部脳が破壊されたとしても、それによってさらに不幸にはなることはない理由も説明できる。つまり、この行為は私たちの種の生きたメンバーの死を結果するが、\ruby{人}{パーソン}の破壊は含まないからである。
上での考察はすべて人間を含むケースをとりあつかっていた。最後の四つ目のラインの考察は、かわりに他の種に属する動物を含むケースを扱う。最後の論点を提示する方法の一つは、私たちが実際に知っている動物を殺すことの道徳性について考えてみることだろう。たとえば、身振り言葉をおぼえたチンパンジーに注目して、そうした動物を痛みなく殺すことが道徳的に問題あることなのか、また問題があるならどの程度あるのかを尋ねてみるのもよいだろう。しかし、私たちが関心をもっているのは、殺すことにかかわる\kenten{基礎的な}道徳的原則であるので、別の議論の方法がある。基礎的原則は私たちがすでにであったことがある状況だけに適用されるものではなく、まだ生じていない状況にも同じように適用されるものである。したがって、私たちの考察をすでに地球上に存在することが知られている種だけに限定せずに、ひょっとしたら存在するかもしれない異星人に目を向けてもよい。仮定によって、そうした異星人の心的生活は私たちと同じようなものだとしてみよう。もしそうした存在者がいるならば、それを殺すことは非常に不正であるだろうか、あるいは、たとえば植物や虫を殺す程度のものだろうか? ほとんどの人は、私たちの種のメンバーではないが私たちと同じかそれ以上の心的生活をもっている存在を殺すことは、非常に不正だと感じると思われる。もしこの見解が正しければ、私たちはまたしても次のように結論しなければならない。殺すことの道徳性をしっかりと説明してくれるような根本的原則は、パーソンの破壊は少なくとも他に特段の理由がなければ非常に不正である、というものである。
\section*{パーソンの概念と殺すことの不正さ}
パーソンの破壊行為は非常に重大な不正であるという原則は、それ自体でたいして論争の的になるようなものではない。哲学に通じた人が、上で簡略にスケッチしたタイプの考察を十分に知れば、この原則を否定したいと願うことはめったにない。しかし、この原則のまわりには、議論の余地ないとはとてもいえない多数の問題がある。最も重要なことの一つは、例えば次のようなことである。もしなにかがパーソンであるならば、他の事情が同じなら、それを破壊することは重大な不正であり、それは内在的\footnote{訳注:intrinsically。他のものを目的としてではなく、それ自体が、という意味。}にそうである。しかしそれに加えて、もし誰かがあるパーソンを破壊するならば、その人は破壊する存在者\kenten{に}不正なことをすることになる。これは、パーソンについてだけ真だろうか?あるいは、パーソン性は、他に特別の理由がないならば、その存在者がこうした種類の道徳的地位(moral status)をもつ\kenten{十分}条件ではあるが、\kenten{必要}条件ではないのだろうか。
どのような存在者が、パーソンと同じ道徳的地位をもつと思われるだろうか。まちがいなく、考えてみる必要がある二つの候補が、妊娠中絶の道徳性についての議論なかで示唆されている。第一に、潜在的パーソンである。潜在的パーソンの概念は、パーソンではないが、それ自体のうちに、それがパーソンになるために必要なすべての積極的要素を含んでいる存在者という概念である。第二に、パーソンでも潜在的パーソンでもないが、通常その成熟したメンバーがパーソンであるような生物種に属する存在者である。(後者の例は、人間の無脳症児である。脳の重篤な先天的形成異常のためにせいぜい基礎的な脳半球しかもっておらず、持続的な植物状態にあり、潜在的なパーソンでさえない。)
二つ目の論争の的となる問題は、パーソン性の境界に関することである。心理的性質の一定の組み合わせ{\——}私たち自身の種の成人に見られるような諸々の性質{\——}が、あるものをパーソンにするに十分であるということについては広い合意がある。しかし一方、そのうちのどの性質が、道徳的に意味のある性質なのかということについて、また、パーソン性の\kenten{最低限の}基礎をなすものはどの性質であるのかということについては、大きな意見の食い違いがある。
最後の重要な問題は、パーソン性は「すべてか無か」であるかということ、それゆえ、すべてのパーソンは、パーソンとして、まったく同じ道徳的地位をもつのか、あるいは反対に、パーソン性には程度の差があるのか、という問題である。この問題に関しては、これまでのところ主流は、パーソン性は程度の差を認めないというものである。しかしながら、以下で見るように、この見解に疑問を抱く理由は十分にある。
\section*{何があるものをパーソンにするのか}
どんな性質が、あるものをパーソンにするに十分だろうか?なんらかの性質の集まりであれば十分だろうということは、哲学者の間ではほとんど全員によって受け入れられている。たとえば、次のような存在者を考えてみよう。意識をもつ、選好をもつ、意識的欲求をもつ、感情をもつ、快苦を経験できる、思考をもつ、自己意識的である、合理的思考ができる、時間の感覚をもつ、自分自身の過去の行為と心的状態を記憶し、自分の未来を構想する、時間を通じた欲求の統一などを含めて一過的ではない欲求をもつ、合理的な熟慮が可能である、可能な行為の間で選択するときに道徳的な配慮をすることができる、まずまず秩序だったしかたで変化していく性格特性をもつ、他者と社会的に関わりコミュニケートできる。そうした存在者である。そうした存在がパーソンであることに異議を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、この17の特性のリストから私たちはなにをすればいいのだろうか?このうちいくつかの条件はかなり密接に関連している。そのためこの17の項目をなにかしらの方法で短縮することは可能である。しかしそれでも、私たちの手元には、かなり多様な質の雑多なコレクションが残る。これらの特性のすべてが、ある存在がパーソンであるかどうかにとって重要なのだろうか。重要なもののなかで、どれかだけでもあるものをパーソンにするのに十分なのだろうか?
いったんこうした問いが提出されてしまうと、まったくさまざまな回答がありそうであって、全体としてみると、ほとんどなんのコンセンサスもありそうにない。このようにして、どのような性質がそれだけであるものをパーソンにするに十分かという問題について、重要だと思われる選択肢は次のようになる。自己意識で十分である、合理的思考の能力で十分である、道徳的行為者であることで十分である、非瞬間的な利益の主体であれば十分である、記憶による継続性と連結性についての適切な説明を含む心的生活をもっていれば十分である、あるいは単に意識があれば十分である、など。これらの主張の中で正しいものを一つ決めるにはどうすればいいだろうか。この分野では、単なる直観に訴えてもほとんど実りは期待できず、体系だった道徳理論を論じ上げることをしないままに、こうした問題を解決するというのは望み薄である。その上、この問題はまったく切迫したものである。その理由はこうである。上にあげた見解のうち最初の五つは、私たちの現在の判断に大きな影響をもたらさないだろう。それら五つの見解では、その存在者の心的生活が、時間を通じて統一されてない限り、パーソンではないということになるからである。しかしもし仮に、単なる意識があるものをパーソンにするのに十分であるとしたら、それが私たちの現在の慣行の多くの道徳的な受け入れ可能性について重大な含意をもっていることは明らかである。というのは、その場合には、多くの動物種(まちがいなくすべての哺乳類が含まれる)の成体が、パーソンとして分類されるべきであるということになり、食料にしたり、科学的・医学的・商用の実験材料にすることは、まったく不正であるということになるからであろうからである。
倫理学理論が立ち向かわなければならないもう一つのより深い問題は、ある一般的な\kenten{能力}(capacities){\——}自己意識や合理的思考の能力{\——}があるものをパーソンにするのか、ということである。倫理学分野の多くの哲学者は、サポートする論証を行なわないままに、上のように想定する傾向があった。しかしながら、心の哲学内部では、しばしば、なんらかの仕方で心理学的に相互に結びついた一連の現実の意識経験が成立する以前には、パーソンはまだ存在していないと主張されることがある。もしこの見解が正しければ、まだ行使されていないある種の能力をもっているだけでは、さらには、なんらかの意識経験にまだ行使されていない能力を加えてすら、まだパーソンが存在しているとは言えない。問題に関連する能力が、すでに行使されたことがあるか、あるいはいま現に行使されているということが決定的なのである。
しかし、たとえば、あるものが、一度も行使されたことのない思考の能力をもっている、などということがありうるだろうか。おそらくありうるのだろう。生命体は、それがある種の複雑な神経結合組織を含む脳をもっていれば思考する能力をもっているだろうから、その生命体に意識がなくとも、必要な神経学的発達が完了しているということがありえる。それゆえ、ある時点で、まだ行使されたことのない思考の能力というものが存在することになるだろう。
したがって、あるものが、関連する能力を獲得したらすぐにパーソンになるのか、あるいははじめてその能力を行使した後の時点にやっとパーソンになるのか、という純粋に理論的な問題が存在することになる。しかしながら、先に述べた問題とはちがって、この問題にはたいした実践的な含意がない。殺すことの問題はそうしたケースではめったに生じないからである。しかしながら、パーソン性と殺すことの道徳性の基礎、包括的な道徳理論をもとうとするならば、この問題について満足いく回答をするのは重要である。
\section*{パーソン性は程度の問題か?}
もしパーソン性について考えるにあたって、ヒトのパーソンだけに注目するならば、すべてのパーソンはパーソンとして、同じ道徳的地位をもつのが当たり前だと考えるてしまうのはまったくたやすいことである。しかし、正常な成人のヒトがもっている心理的な特性の一部だけをもっている存在者、あるいは、そうした特性をかなり低い程度しかもっていない存在者の可能性を考えたとき、すべてのパーソンは必然的に同じ道徳的地位をもつのか、あるいはパーソン性は程度の問題なのか、ということを問うのは重要であることがはっきりする。
この問題は、一般的道徳理論をもとたないままでは非常に解決が難しいかもしれない。しかしながら、そうした道徳理論がないとしてもこう考えてみるのが、助けにはなるかもしれない。第一に、パーソンを破壊することの不正さは、個体の生命がその個体\kenten{に対して}(for)もつ価値になんらかのしかたで結びついているだろうか? もしそうであるとしたら、第二に、パーソンをつくりあげる性質のなかで、生命が当人にとってもっている価値についてなにか違いをもたらすようなものがあるだろうか? もしこの二つの問いに対する答がどちらもイエスであるならば、パーソンは程度の問題であるとする理由があることにある。
例として、自分の過去の行動や心の状態を覚えておく能力や、自分の将来を思い描く能力、そして、目標やプロジェクトを追い求める能力が、パーソン性を作り出すと想定してみよう。多分、各種の生命体が、こうした能力をどの程度もっているかはさまざまだろう。さらに、それは、ある生命体はこうした能力をずっとかぎられた程度しかもっていないので、たとえば、以前の自分のことを1分間以上覚えていられず、また現在から1分後程度のことまでしか考えることができないと想像してみよう。このような変化は、個体の生命がその個体にとってもつ価値にどのような違いをもたらすだろうか?もしその答が、価値が大きく下がるというものであれば、そしてまた、パーソンを破壊することの不正さが、生命が当人にとってもつ価値、あるいはもちえた価値に関係しているとすれば、過去を記憶し将来を構想する能力が非常に限定されているようなパーソンを破壊することは、通常の人間のパーソンの特徴であるずっと制約されていない能力をもつパーソンを破壊することほどは不正ではないということになるだろう。
もし以上の議論が正しいのならば、いくつかの重大な結果がある。第一に、人間とは別の種に所属している動物が、ある種の重要な特性を通常の人間よりもはるかに少ない程度しか持っていないという事実は、そうした動物はまったく道徳的な地位を持っていないということを意味しない、ということだ。第二に、私たち自身の種においても、パーソン性の獲得は漸進的なプロセスであるのもっとなことであり、また同じように、少なくともある種のケース{\——}たとえばアルツハイマー症、この病気は、最終的には永続的で退行性の植物状態に陥いることになる{\——}では、パーソン性を喪失することも漸進的であるということである。
\section*{潜在的なパーソン性は道徳的に重要か?}
パーソンと同じ道徳的地位をもつ非パーソンは存在するか、という問いに関して、もっとも重要な候補は潜在的なパーソンである。この問題を考えるときには、受動的潜在性と能動的潜在性を区別することが重要である。これを区別すれば、人間の精子の近くにある未受精の人間の卵子は、ある意味で、潜在的にはパーソンであるが、その潜在性は受動的潜在性である。というのも、究極的に一人のパーソンを生み出すことになるプロセスを開始するには、外部からの介入が必要だからである。それに対して、未受精の人間の卵子が、いったん精子と合一したならば、それはパーソン性の能動的潜在性を持つ{\——}すくなくともそう思われる。それゆえ、潜在的パーソンというのものは、パーソン性の能動的潜在性を含むなにかであると理解されるべきであり、そうした潜在的なものを破壊することこそが、一部の論者によって、パーソンを破壊することに道徳的に同じようなことだとされるものである。
なぜ、卵子と精子の合一における位置のちょっとした変化が、それほど大きな道徳的な違いを生むのだろうか? たとえばもし、この純粋に物理的な変化には、一部の人々が信じているように、受精した人間の卵子に付随する非物質的で不滅の魂の創造が伴なっているとすれば、そしてその魂が、自己意識や合理的思考の\kenten{能力}をもっているとすれば、その場合にはなぜ道徳的に重要な変化が生じていると主張するかの理由を理解するのは難しくない。しかし、このラインの思考になんらかのメリットがあるとしても、これは潜在的パーソンがパーソンと同じ道徳的地位をもつという主張とはなんの関係もない。というのも、上の思考に含まれているのは、そももそものはじめから\kenten{パーソン}が存在している{\——}単なる潜在的パーソンではなく{\——}という考え方だからである。
それでは、物理的な変化そのものが道徳的に重要なのだろうか?そうではない、とする少なくとも二つの理由がある。第一に、未受精の卵子および精子の状況と、受精した卵子の状態を比べてみよう。どちらのケースでも、その結果生まれる個体の遺伝的性格を完全に決定することになる遺伝物質はそこに存在している。しかし、受動的潜在性と能動的潜在性の違いについてはどうだろうか?その答は、どちらのケースでも\kenten{完全に}能動的な潜在性{\——}つまり、干渉されなければ現実化するような潜在性{\——}は存在していない、というものになる。受精卵が、温度、栄養などが適切な環境におかれない限り、受精卵の発達は非常に制限されたものになる。したがって、いずれのケースにおいても、パーソンが生み出されるためには、まったく大きな外部の援助が求められるのであって、二つのシチュエーションに大きな違いを認めようとするのは説得力に欠ける。
第二に、完全に能動的な潜在性が存在\kenten{している}次のケースを見てみよう。人工子宮が完成して、一台に未受精卵が精子とともに入っている。また確実に受精が起こさせる装置もあり、したがって介入がなければ、9ヶ月後には、正常な人間の赤ちゃんが生まれることになる、その子は適切なケアを受け、成長しつづけることになる。したがって、この上京は完全に積極的な潜在性を含んでおり、これは孤立した人間の受精卵のケースとは対照的である。すると、重要な問いは、たとえば受精が起こる前に機械のスイッチを切ることによって、完全な積極的潜在性を破壊することの道徳的な地位についてのものである。そうした行為が道徳的に不正だと考える人はほとんどいないように思われる。もしこれが正しければ、パーソン性の完全に積極的な潜在性の破壊は、道徳的にパーソンの破壊に匹敵するどころか、そもそも道徳的に不正ではないということになる。
\section*{ある生物種の一員であることは道徳的に重要か?}
パーソンと同じ道徳的地位をもつかもしれない存在者に関して、よく提出される二つ目の提案は、パーソンでも潜在的パーソンでもないが、正常な成人のメンバーがパーソンであるような生物種に属するならば、それはパーソンである、というものである。この観点からすると、無脳症の人間の幼児を殺すことは、パーソンを殺すことと道徳的に同じということになる。
しかし、この見解は多くの理由から満足いくものではない。第一に、ある存在者の道徳的地位は、他の個体との関係よりは、その存在者の内在的な性質に基づいて決定する方が説得力がある。したがって、たとえば、ある存在者がパーソンであるかどうかは、他人がそう見なすか見なさないか、あるいはそれをどう扱うか、という問題ではないはずである。また、他の存在者がたまたま存在しているかどうかに依存するべきでもない。道徳的地位は個体に内在的である。第二に、他の物理的な関係はそうではないように思われるのに、同一生物種に対する純粋に物理的な関係が、道徳的地位について違いを生むべきなのはなぜだろうか。第三に、道徳的地位をもつことと、保護される必要のある利益をもつことを結びつけるのは自然に思われる。しかしながら、「利益」(interest)という言葉は、まったく色々な意味で使われうる。言葉の意味の一つでは、あるものが正しく機能するために役だつ場合に、それは利益にかなうとされる。こう解釈すると、たとえば、過剰な温度にさらされないことはコンピュータの利益になる。しかしこの意味は、なんの道徳的地位ももたない物に適用される。対照的に、「利益」の道徳的に重要な概念は、意識をもつ存在者であること、また欲求をもつことができることと結びついている。この意味での「利益」では、たとえば無脳症の新生児は意識をもつことができないので、利益をもっておらず、またもつこともできない。したがって、もし道徳的地位がこの問題に関連する意味で利益をもつことと繋っているのならば、生物種のメンバーであることは道徳的地位を授けに十分ではないのである。最後に、上で提案されている原則には反例があげられる。つまり、上の原則のもとにあるケースであり、それゆえある存在者がパーソンと同じ道徳的地位をもつことになるが、それが直観的には説得力がないようなケースがある。たとえば、この原則によれば、上部脳が完全に破壊された我々の種のメンバーはパーソンと同じ道徳的地位をもつことになるが、これは正しくないように思われる。こうしたわけで、種のメンバーであることはそれ自体では道徳的には重要ではないと結論する十分な理由があるように思われる。
もしこの結論が正しいのなら、そこにはいくつかの非常に重要な含蓄がある。もっとも直接的なものは、無脳症や重篤な脳障害を負った人間にかかわる。現在、こうした人々は、医学の進歩によって生き永らえるものの、相当な金額が必要なことがしばしばである。しかし、種のメンバーであることが道徳的に重大なことでないとしたら、パーソンでもないし、またなりえない個体の生命を、しばしば多大なコストをかけて、長びかせる道徳的な理由はないことになる。
\section*{人間の胚、胎児、新生児の道徳的地位}
もし先の諸結論が正しいならば、ヒトの胚や胎児や新生児がある種に属しているという事実も、それらが潜在的なパーソンであるという事実も、それに特別な道徳的地位を与えるものではない。すると、それらの道徳的地位は、パーソンであるかどうかということに基づかなければならないように思われるだろう。ヒト胚については、少なくとも原初的な意識の能力を持っていなければパーソンではありえない、というかなり穏健な主張でさえ、ヒト胚はパーソンではないという結論につながる。ヒトの胎児と新生児の場合、問題はそれほど明白ではない。しかしながら、二つの考え方が少なくとも役に立つということになるかもしれない。まず第一に、いったん潜在性を脇に置いておくことにして、享受する能力をもっている心的生活に焦点を当てることにするならば、新生児をパーソンとして分類するようなパーソン性の判断基準は、他の多くの種の成体をもパーソンとして分類することになるだろうし、それゆえ、私たちの日常的な道徳的意見には大きな変革が必要になることだろう。第二に、伝統的に提出されてきたパーソン性の判断基準の多くは、思考する能力を持つか持ったことがないかぎりそれはパーソンではないということを含意しており、そしてこれが意味するのは、もしそうした伝統的な判断基準が仮におおまかには正しいとすれば、ヒトの胎児や新生児は、誕生以前のどこかの時点で思考する能力が発達するものでないかぎりパーソンではないということである{\——}そしてこうしたことは、現在のわれわれが知っている早期の人間の行動や神経生理学的発達からすれば、ほとんどありそうにない。
正常な新生児はパーソンではないという結論は、もし正しければ、私たちが新 生児に対して負っている責任に関して非常に重大な帰結をもっている。という のは、もし潜在的パーソン性は道徳的には重要ではなく、またもし正常な新生 児がパーソンでないとすれば、そうした個体がもっている内在的な道徳的地位 は、無脳症の小児と違わないということになるからである。そしてこのことは、 神経生理学的には正常だが、身体的に重篤な障害を負っている新生児のケース を考えるならば、そうしたケースでは生命を苦痛なく停止させることが道徳的 に最善ではないだろうかという問いを提起するからである。
\section*{まとめ:倫理学とパーソンの概念}
社会が直面している最も論争的な問題の多くは、殺すこと、または死なせることのどちらかに関わっている。これらは、死の概念はどうすれば最もうまく定義されるのか、非自発的安楽死はどんなときに道徳的に正当化されるのか、中絶の道徳的地位、そして私たちのヒト新生児{\——}無脳症や重篤な脳障害を負った新生児、また神経学的には正常だが重篤な障害を負った新生児{\——}に対する責任などについての問いを含んでいる。殺すことと死なせることを当つかう基礎的な道徳的原則は、パーソンの概念を中心に定式化される必要があるということがもっと広く理解されるまでは、こうした諸問題の解決は非常に難しいままであろう。
パーソンの概念が明らかに重要な最後の領域は、他の種の動物の道徳的地位にかかわっている。人間以外の動物の心理的な能力について、増えつつある私たちの知識からすると、パーソンの概念についての私たちの現在の理解からすれば、おそらく、人間以外のある種の動物もパーソンであると結論する十分な根拠があることになる。しかし、心理的な能力がもっと限定されている動物を扱う場合には、正確にはどんな性質があるものをパーソンにし、またパーソンにしないか、ということについてのもっと詳細な理解が必要になることだろう。
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