クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (7)

4-5 危険な話題はアカデミアで

あ、ここで「大学や学会などのアカデミア」っていう言葉がありました。アカデミアは大学や学会のことです。ついにこの意味での「アカデミア」の話をしなければなりませんね。

論文を書いて発表することと、ブログや雑誌に記事を書くことの大きな違いは、議論や主張の内容と社会的感情や金銭的インセンティブを切り離す仕組みが、論文を評価する制度には存在するということだ。(pp.116-117)

「社会的感情」は具体的にはこうです。

(学問的な)基準を満たしさえしていれば、研究者は「他の人たちからどう思われるか」「こんなことを論じたら身近な人たちから嫌われるのではないか」といった社会感情に左右される、主張を展開することができる。(p. 117)

まあこれらは、クリッツァーさんが自覚しているように「理念上」のものです(p.117)。

実際にはどうなのかというと、たしかに大学教員やその候補者には論文を書く 直接の金銭的インセンティブ はほとんどありません。論文書いたから すぐに お金になるというわけではない。多くの場合は、 大学に就職するために 書く、講師から准教授、准教授から教授への 昇進 のために書く、あるいは、研究業績がないと 恥ずかしいから 書く、ということになります。就職や昇進は当然 間接的には 金銭的なインセンティブです。大学教員になって教授になってしまうと、それ以上昇進することは基本的にないので、教授になってしまうと論文書かなくなる人はたくさんいます。つまり、日本の大学教員の大半には論文を書くインセンティブはあんまりないのです。ましてや、アカデミア内外から非難されるかもしれないテーマを扱うインセンティブは非常に弱いものなのです。

もちろん、大学教員のなかには真理の追求のために論文を書く人や、学会や学界(その学問界隈という意味)で偉くなり発言力をつけるために論文を書く人もいます。そうした人々は学問という地の塩で偉いです。

大学関係者が論文を書くインセンティブはさらに複雑なところがあって、現在の人文系の学界(界隈)というのは、人間関係が大事です。仕事(大学で教えるという意味の」仕事や、論文や本を書くという仕事、研究会や学会のシンポジウムなどの晴れの場に出してもらうという仕事など)も人間関係で決まるところがあります。まあすでに学会とかで偉いひとたちが、「がんばっているから呼んであげよう」「おもしろいことを書いている人がいるから話をしてもらおう」とかそういうので決まるわけですね。学会の賞とかでさえそういうのがあるかもしれない(もちろん、そうした人間関係が反映されないように努力はしています)。だから、そういう力をもっている人々を批判したり非難したりするような論文は書きにくいものです。これは、ネットや出版よりはるかに強い抑制になっているように思います。

まあ優秀な人や勇気のある人は上の世代を批判して頭角をあらわしていくわけですが、「アカデミア」の人間関係や雰囲気というのはそんなに自由なものでもないわけです。

そして、そういう問題があるために、規範的な主張が強いものはその界隈でしか発表できない、ということもあります。だから、社会問題とかを直接に扱った発表や論文はやりにくい。なんとかして記述的・事実的な問題に落としこんで議論しなければならないわけで、クリッツァーさんが期待しているであろうような社会的問題を直接扱った規範的な議論は「アカデミア」ではやりにくいわけです。

「危険な話題はアカデミアで」やってほしいのはわかるのですが、むしろそういうのは避けられているのが現在の(少なくとも人文系の)学界のはずです。たとえば、生命倫理で妊娠中絶の道徳性を否定する議論なんかほとんどないでしょ?それは、妊娠中絶が不道徳であると主張するといろんな人から反発くらうのがわかっているからです。むしろ学者先生たちは妊娠中絶の議論を無視して、 選択的 妊娠中絶の議論をする。それも「選択的妊娠中絶はよろしくない」という議論をする。なぜなら、その方が抵抗が少ないからです。その前になぜ妊娠中絶が許容されるべきかの議論するべきなのに。

この節まだ続きます。

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