クリッツァーさんの『モヤモヤする正義』はたしかにモヤモヤする (3)

第2章の続き。

2-3「歴史修正主義」。歴史学者は、荒唐無稽なホロコースト否定論者とかの議論につきあう必要はない、っていう議論が紹介される。これも別にかまわない。ミルの『自由論』での議論も、あらゆる主張を検討し反駁しろ、とか無理なことを要求しているわけではない。くだらない議論、価値のない議論は理性的な人々の関心を引くことができないからほうっときゃいい。

しかし、異端の意見を抑制しろ、発言を禁じろ、ってことになると弊害の方が大きくなる。 ここでピーター・シンガーがホロコースト否定論の発表を禁じるような法律を批判していることが出てくる。

クリッツアー先生はp.77で、「事実について正しく認識することよりも個人的な利害やイデオロギーを目的として主張していると疑われる主張についてはその「疑わしさ」を周知するといった措置は必要」って言ってて、これはまあX/Twitterでは「コミュニティノート」っていう仕組みが実装されていてあれはよいものだと思いますね。そして発言を封じるよりもああした形で反駁したり注意を促したりした方がよい。あれはよいものです。

2-4では、規範に関する議論でこそ討論の自由が大事です、というもっともな話。ミル先生のお墨付き。

2-5はピーターシンガーがキャンセルされた有名な事例。これについては、シンガーの『実践の倫理』第2版での自己解説の他にも国内でもいくつか論説があって探して読んでみてください。クリッツァー先生の紹介もごく平明。

2-6はトランスジェンダー「問題」。ここらへんまでは大きな問題はないですね。

3-1 ミルの議論の弱点

3-1からはミルの議論に対する反論を紹介していく。最初の問題はミルが人間について楽観的で、社会は自由な言論と討論によって進歩して良くなっていく、って考えてるけど、これは事実的な問題であって、もしかしたら粗悪な言論によって社会が悪くなってく可能性もありうる、ってことですわね。これはその通りで、もしそうだとしたらミルも自由言論に賛成することはなくなります。

  1. ウォルドロンが、ミルの議論を、狂信的人種差別主義者の言いぶんをとりあげるのは社会の進歩を台無しにするものだ、としている
  2. 真理についての「生き生きとした理解」を得られる人はそんなに多くないかもしれない
  3. 功利主義からすると、言論の自由によって社会が実際に進歩しないならば言論の自由の価値は減じられることになる

1.のウォルドロンのやつはそれがミルの議論に対してどういう批判になってるのかわかりにくい。2. は「生き生きとした理解」の解釈によるが、懐疑的すぎる。クリッツァー先生は「どれだけ言葉を積み重ねたり伝え方を工夫したりしてもまったく理解してもらえなかったり、とんちんかんな誤解をされたりする」という経験をもとにして何かを言おうとしているわけだけど、だからどうなのかわからない。議論や説得は難しいものです。だからといって、議論や説得が必要ないとか、おかしな奴らは黙らせろ、ということにはならないのは当然のことです。

3.はこれは功利主義者なら当然認めないとならないことで文句はないです。クリッツァーさんは「真理を通じて人々が道徳的進歩を遂げていることが確かだと示されないのなら、ミルの信仰に付き合わされる理由もなくなる」と言うわけだけど、功利主義者や言論の自由の擁護者たちは、「だから歴史を見ましょ」って答えるはずです。人間がどういう存在であるか、人間の理性が信じられるか、人類の進歩は可能かどうかは難しい問題で、そりゃ一発で答えられる証拠なんかは存在しないわけだけど、私は進歩や改善の可能性は十分ありえると見てます。「信仰」と呼ぶならそう呼べばよい。

3-2 道具的議論と道徳的議論

3-2では、ミルのタイプじゃない言論の自由擁護としてドゥオーキン先生が紹介される。 言論の自由については、(人々の幸福のためといった目的のための)手段として擁護する方法と、それ自体に価値があるのだとして擁護する方法がある、という話からはじまる。んで、ミルはふつうはミルの議論は前者だと考えられている(当然専門家のあいだではその解釈をめぐって一部争いがあるけど、いちおう功利主義的な論拠の占める割合が大きいだろう、っていうのはほぼコンセンサス)。

んでクリッツァーさんが後者の代表として紹介するのがドゥオーキン先生。倫理的個人主義や「独立性の文化」のために(その見本として学者たちの)言論の自由が必要なんです、とかそういう議論だ、と解釈されている模様。この解釈が正しいかどうかはいまは置いときます。

3-3 「歴史修正主義者」の授業を受けた体験

3-3はクリッツァーさんの体験談。大学にネトウヨっぽい講義をする先生がいて、クリッツァーさんはその先生に対する批判的理解を通して「生き生きとした理解」を得たけど、 他の学生にはその先生に説得された人がいるかもしれない 、と。だったら、学問の自由を「道具的」に擁護するには「危っかしいところがある」、なぜなら、 議論の良し悪しを判断する能力は他の学生たちにはないかもしれないから だ、と。それだったらドゥオーキン的な言論の自由、倫理的個人主義や独立性のためのものとして言論の自由(この場合はネトウヨ先生の講義の自由)を考えた方がよい、と。

なんかへんな議論に見えるけど、ここもとりあえず認めておきます。

3-4 言論の自由が擁護されるべき「手続き的」理由

上のドゥオーキンの議論は「学問の自由」に関するものであり、基本的には「学者のみが対象となる」ってクリッツァー先生は言うけど、それ大丈夫ですか。学者じゃなくて 学生 にだって学問の自由はあるんじゃないですか。なんで学者≒大学の先生たちだけが学問の自由もってるって考えるんですか?

次に来るのはドゥオーキン先生の憲法論1をウォルドロン先生が解釈・解説しているやつの紹介。ここは一般読者には読みにくいと思うんですが、米国憲法では、言論・表現の自由はほぼ絶対的な扱いになっていて、その自由の保護は、他の、国民の福祉の増大や危害の防止なんかにかかわる政策的な法律とはレベルが違う扱いになってる、ってことですね。なぜなら、言論の自由は国家の法のあり方を国民が参加して決めるためにどうしても必要な自由であって、他の危害の防止や福利の増大みたいな目的のための 法律を立法したりするための前提 になるような国民の自由であり権利であるから、別格になっているわけです(憲法修正第一条)。これはたしかにミル的な言論・討論の自由とは別の筋の議論になっています。

んで、こっからのクリッツァー先生の議論が問題です。

4-1 ネットや書籍には「制度的反証」がはたらきません

んで、ドゥオーキン先生により道したあとに、けっこう過激な主張がおこなわれます。

知識の探求や物事についての適切な理解を得るためには言論の自由が保障されなければならない、という道具的議論に基づいた「思想と討論の自由」の擁護を、だれもが自由に意見を発信できる……インターネットや、書籍や情報を「商品」として取り扱うマスメディアや書籍出版にそのまま適用することは難しい。

先生はこっから、出版やネットの発言なんかをキャンセルしていくことにも一理あるかもしれない、ということを匂わせていくわけですが、続きます。

脚注:

1

クリッツァー先生はそれが米国憲法の伝統の上の話だ、って明示してくれてないけど米国憲法の話です。

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