カテゴリー別アーカイブ: 教員生活

紙芝居プレゼンテーション(KP法)を試してみました

 

向後千春先生という、大福帳や文章の書き方その他の授業インストラクションで私が注目している先生がいらっしゃいまして、メルマガ、じゃないや、有料noteなんかも参考になるので、悩める大学教員としてお布施しています。

そのなかで紙芝居プレゼンテーションっていうのを使って授業してるっていう話があって、先生がやってるなら参考にせねばとyoutubeとかで見てみたんですわ。発案者の川嶋直先生直伝の動画がある。

なるほどこれはおもしろい。

私は発想が柔軟じゃないので、人前でプレゼンといえばPCのスライド、みたいなのになってしまって、前に「読書紹介をプレゼンしてもらう」みたいなのでもあらかじめパワポとか作ってもらってやってたんですが、どうもみんなスライドに書き込み過ぎだな、みたいなのは感じてたのです。あと、話したあとにディスカッションとかするとき、スライドを前にやったり後ろにやったりしてうざい。事前準備が必要だし、メールその他でのファイルの受け渡しとかも面倒。

このKP法だと1枚にたいして書けないので、余計なことを抜いて要点だけ書くようになる1)いわゆる「高橋メソッド」ぽい感じに。 。それに、使った紙芝居をその場に残しておけるから、上のような問題が一気に解決しますわね。それになにより、面倒なこと考えずにすむ。

ちょうど今年どういうわけか京都の大学コンソーシアムってのがやってる企業インターンシップ事業とやらにかりだされてしまっていて、京都の複数の大学の3回生ぐらいの人々の相手を数回しなきゃならんのですが、プロジェクタとか使えない教室だし、1回目のゼミでなにするかこまってたので、この方式で自己PRとかやってもらうのをおもいついたんです。

まず名前その他は一回簡単に自己紹介してもらい、3〜4人のグループに分けて、「それぞれの効果的な自己アピールを考えてください、アピールは根拠がないとだめだから、どういう実績やエピソードを使ったら効果的か、グループの人に評価してもらってください。紙芝居プレゼンという形式でやります、それに何書いたらいいかも相談してね」みたいな指示をだしてグループ作業してもらって、んで発表。

けっこうもりあがりましたね。まあ学生様たち元気で作ってるときも発表も楽しそうで、コンソーシアムの人がわざわざ広告用の写真撮りに来ました。このKP法の説明自体、私がみんなの前でマジックで紙芝居書きながら説明したんですが、彼らは私よりはるかにうまい。

とにかく紙とマジックとマグネットさえあればいいし、なにより、パソコンなくてもその場で作れるのがよい。ホワイトボードに手書き、とかだとけっこう時間がかかっちゃうし。おもしろいので今後パワポはやめてこれでやろうと思います。


References   [ + ]

1. いわゆる「高橋メソッド」ぽい感じに。

新しいレポートの「指定の表紙」

 

昔「レポート提出の工夫: 「指定の表紙」」ってのを書いたんですが、これ前にも書いたように、学生様は適当にチェック入れてくるんでなかなかうまくいかない。世の中の教育熱心な先生たちは、「ルーブリック」っていうのを作ってるらしく、参考にして新しい「指定の表紙」をつくってみました。

日本高等教育開発協会のルーブリックバンクにあった、大阪府立大の深野先生のものを下敷きにさせていただきました。ありがとうございます。

「ルーブリック」ってなんなのか、いまだによく理解してないので、これがそれなのかなのかどうかは知らん。でも「ルーブリック」っていう名前は本当に私はこういう用語を使う人々をあんまり信用してないっていうか。評価表とかチェック表とか、某先生が言ってたように、「できぐあい表」とかそういう名前でいいじゃんとおもうんだけどどうだろう。

 

 


ゼミも分割して統治する

いや統治じゃなかった。

少人数なら学生様にショートスピーチしてもらう」でも書いたように、ゼミでは最初に30秒とか1分とかのスピーチしてもらうのやってますが、1,2回生で15人ぐらいいると、それだけでも学生様にとってはけっこうな負担みたいですね。やってりゃ慣れるんですが、最初は抵抗あるっぽい。

この春先に試してみているのは、スピーチのネタ(たとえば「自分の長所をアピールしてください」)を提示したあとに、そのネタについてなにを話すか、どういうエピソードを出すか、ってのを、3〜4人で相談してください、時間残ってれば時間測って練習してフィードバックをもらってください、のような形です。

15人の前で話すっていうのは学生様にとっては少人数ではないんですわ。よく考えると、大学教員だって20人とかを越えるとかしこまった話し方になって何を言ってるかものすごくわかりにくくなる人がいますよね。学生様も、3,4人ぐらいだったらOK。

「長所をアピール」では特に、「長所っていうのはいろいろあるよ、まず長所を表す言葉のリストとかを紹介します」とかって話をしてから、「自分にあてはまるの2、3個見つけて、それに対応するエピソードをかんがえてみてください」「それを3人組でそれぞれ相談してみて、うまくはまってるやつをえらんでもらってちょ」みたいな感じ。

10分ぐらいあればだいじょぶそう。それで3人ぐらいで一回練習してもらってから、んじゃ15人の前でやりましょう、だとかなり抵抗が少なくなるみたいです。よく「アクティブラーニング」の本に出てくるアイスブレークのゲーム・作業のかわりにもなる。

「長所」に関して昔書いたエントリは下。まあ同じことばっかり書いてる。就活でやらなきゃならんし、まあ自分の長所を理解しておくってのは自尊心にとっても大事なのでね。


少人数ゼミの最初は例年通り

今年も始まってしまいました。実は事情によって1週間ほど遅れてなんだけど。補講どうすっかな。まああとで。前期はちょっと苦手な1回生基礎演習がないのがうれしい。

少人数ゼミ(2,3回生)は例年通りの感じでスタート。例年どおりっていうのは、学生様に「話し方」「聞き方」「プレゼンの仕方」みたいな本を貸し出して、3〜4枚のスライドをつくってもらい、それを使って「聞き方」「話し方」「第一印象」「プレゼン」などについてのハウツーを説明してもらうっていう感じ。

私自身が(特に)少人数のときの聴衆の態度みたいのに過剰に敏感で、「もうちょっと態度よくしてくれないと話しにくいなあ」みたいなことがあるので、とりあえず「聞いてますよ」みたいな態度をと形だけでもとるにはどうするか、っていうのを最初にチェックしておきたいわけです。あと自分でプレゼンする側になってみると、学生様たち自身もどういう態度をとってもらうと楽かっていうのがわかるし。

一人3分ていう割り当てなので、まあたいしたことはできないけど、別々の本からほんの一部分適当なところを紹介しただけでも、「この手の本は、まあみんなだいたい同じことが書いてあるのだな」みたいなのも理解してもらえるし。

本はまあなんでもいいんだけどね。『論理的に話す技術』『聞く力 話す力がたちまち身につく40の技術』『話し方超整理法』『論理的にプレゼンする技術』とかまあ、ほかにも大量にある。まあそういうハウツー本という世界というのもあるのだ、ということも知ってもらえる。

もうちょっとアイスブレーク的ゲームみたいなのから入ろうかとも思ったんだけど、あんまりうまいのを見つけてないです。正直、アイスブレークらしいアイスブレークは私には抵抗があってはなんかむずかしいわね。まあぼちぼち。

実際、2回生ぐらいだと、まだどういう態度で人の話を聞いたらいいのかっていうがよくわかってないので、そこらへんがポイントですかね。3回生はもっといろいろ勉強させたいんだけど、2回生ぐらいはそういうしつけみたいなのにけっこう時間使ってしまいます。


授業のお約束2017年版

授業、特に講義のお約束です。2017年版。江口のお願いなので、他の先生の授業はその担当の先生に合わせてください。

  • 私語厳禁。
  • 出席確認と質問・感想等のために「大福帳」を使用するが、出席点はない。病気の時は休んで構わない。健康第一。ただし、文科省様・大学基準協会様などの要求に答えるため、3/4は出席するように。公欠の場合、やむをえない場合には大福帳にその旨書いておくとよい。
  • 授業中の質問、発言は高く評価する。授業によっては、1回の発言で1点、学期10点まで加点することがある。発言ののちに江口からハンコ等をもらうように。本当にどんな質問でもかまわない。たとえば江口の指示が聞き取れなかった場合、聞き落としてしまった場合も質問してよい。エアコンや照明の調整の要求でもよい。
  • なにごとも「他人を無視しない、透明人間にならない」が基本。トイレ等は周りに軽く合図して行ってよい。
  • やむをえず遅刻した場合はそれなりの態度で入ってくること。軽く会釈したりする程度でよい。さっさと席につくこと。友人といっしょにはいってきてどこに座るか相談したりしないこと。
  • 途中退室もそれなりの態度で出ていくこと。事前に連絡しておくとよし。授業に対する嫌悪感、抗議などで出ていくなどは許す。
  • 飲み物はOK。食べ物は可能ならば避けてください。
  • ノートパソコン・スマホ使用はOK。ただしスマホは目立たないかっこよい姿勢(教えました)で使ってください。
  • スライドの写メはパシャパシャうるさいから避けるように。音出ないなら可。そもそも授業後に授業ページにアップロードするので無駄。
  • 机に座ったらまずノートを開いてペンを出す習慣をつけよう。
  • 腕組み・足組みOK。指示待ちで「手はお膝の上」はかっこ悪い。ペンをもっておこう。
  • 居眠りはやむをえないが、机に突っ伏すのはやめて。
  • 授業内容や発言に、セクハラ・アカハラ等の疑いがある場合は、日時等・内容をメモして、あるいは録音などして、担当部署に相談してよい。ただし、疑問があった場合は、直接、あるいは大福帳、メール、大福帳の束にしのびこませた匿名の紙、等で直接疑義・抗議などしてもらった方がありがたい。
  • レポート課題、試験等は最低2週間前に告知する。内容・評価基準等もそのつど伝達する。まえもって質問する必要はない。
  • オフィスアワーは火曜の昼休み・3限。この時間帯は予約不要。他はメール (eguchi.satoshi@gmail.com)で予約すること。

 


Google Formsで講義中にアンケートを取る

実はちと病気して休んでたのですが、昨日あたりからちゃんと働き始めますた。一部の方々にはご心配をおかけしました。感謝感謝。

んで、講義科目もアクティブラーニング()、ってんでいろいろうるさいわけで、私もがんばっております。

まあそういうのは私自身はあんまりあざといのはするのもされるのも嫌ですが、趣旨はわかるのでなんとかしたい。そもそも1時間半ずっと私の話を聞いてもらう、とか無理だし。

今日試したのは、しばらく前に某先生から教えてもらったGoogle Forms。受講生から簡単にアンケートがとれるというので使ってみました。ちょっと前に「授業にクリッカーを導入しよう!」みたいな話があったんですが、あれはデモを見ても、他の先生が授業で使おうとしているのをみてもうまく動かないのでとても使う気がなかったのですが、学生様が使い慣れているスマホなら大丈夫だろう、ってなことを思ったわけです。学期の最初の方なら失敗してもまあ許される感じもあるし。

Formsを使うのの問題は、まず、そのURLをどうやって示すかってことですわ。今回は、自分のサーバー(さくらインターネット上のWordpress)にパスワードつきの授業ページを作り、そこからあらかじめつくっておいたForm(回答は匿名、認証せず)のHTMLを埋め込み、そのページへのQRコードを紙で配布すると同時にスライドにもQRを示す、みたいなことをやってみました。

「それじゃ、さっきのQRからページ飛んでください」とやると、200人以上が一気にアクセスしたためか、サーバーエラーが出てちょっとあせりましたわ。さくらが弱いのか、安いプランで借りてるからか。まあWordpressは重いので、一気にアクセスするには向きませんね。

しかしまあ順次アクセスできたようで、数分後にはOKになりました。まあアカデミックにはほとんど意味がないアンケートですが、学生様たちは他がどう考えているのかには興味があるようです。挙手っていうのはやっぱり抵抗があるみたいだし、こういう形はそんな悪くない。教員が喋りまくってるときの息抜きにはいいです。

でもまあとにかく、この手法ではちょっと事故が起こる可能性があるので使えません。

そのあと考えていたのはこうです。Google様のサーバーは当然さくらインターネットよりずっと強いはずなので、直接Google様にお参りする方がよい。ではどうするか。

いまのアイディアはこうです。

まず質問内容が空白の、2択、3択、4択、自由記述、のようなフォームを作っておいて、その4個ぐらいのURLをQRコードにした紙を配る。

授業中に話をして、ここらへんでアンケートとりたいな、と思ったところでステージ上でGoogle様を編集する。他に選択必要ないですか、とか学生様に聞いたりもする。

「いま編集したので、上から3番目の4択のQRを読んで投票してください」

とやる。ニコ生で時々やってる感じですね。

私は興が乗ると1時間ぐらい一人で喋ってられますが、これは実はよくなくて、学生様を圧倒している感じがあるので、それくらだらだら作業しているところを見せて間をとってもいい気がするし。

この方法を次やってみて、また報告したいと思います。


その後、もっとよく考えたら、どうせ編集はたいした手間かかるわけではないので、URLはForm向けた一個だけでいいですね。2択を3択や4択にするのなんか簡単。いろいろ余計なことをかんがえてしまうものです。


最近の私は倫理学入門の最初のツカミに何を使っているか

まあ全国の倫理学系教員が、入門講義のツカミをどう入るかなあと考える季節ですね。まあだいたい倫理学系の教員はツカミだけはがんばる。あとは難しくてぐだぐだになっちゃう人は私を含めて多いと思うけど。

一時期導入にはみんな(マイケル・サンデル先生流の)トロッコ問題使ってたんではないかという気がする。私も3年ぐらい使ってたかな。

こんなんです。

【分岐線】一人の男が線路脇立っていると、暴走列車が自分に向かって突進してくるのが目に入る。ブレーキが故障しているのは明らかだ。前方では、5人の人達が線路に縛りつけられている。なにもしなければ、5人は列車に轢かれて死ぬ。幸い、男の傍らには方向指示スイッチがある。そのレバーを倒せば、制御を失った列車を目の前にある分岐線に引き込める。ところが残念ながら、思いがけない障害がある。もう一方の分岐線にはひとりの人が縛りつけられているのだ。列車の進路を変えれば、この人を殺す結果になるのは避けられない。どうすればいいだろうか?(デイヴィッド・エドモンズ、『太った男を殺しますか』、太田出版、2015、pp.19ff.)

私自身はこれ使うのは今は飽きてるし、ちょっといろいろ使いにくいところがあるから避けてる。

まあ「とにかく多くの人数を救うならスイッチ切り替えるんだけどねえ、でもそうじゃない意見があって〜」っていうふうにして、いきなり義務論とかそういうのがあって、みたいな話になってしまうことが多いし。この事例が最初に考えられたときの問題意識の対象の二重結果だの意図と予見だの、消極的義務/積極的義務だのていうのはけっこう抽象的でたいへん。

それに学生様にこの問題考えてもらおうとすると、職務上の責任とか一般人の責任とか、人間の生命の価値だとか、過剰に複雑な問題を含んでいて扱いにくいってのが一つ。「私はそのスイッチ切り替える義務のある仕事してるんですか?それともただの通行人?」みたいなの、たしかにきになるのもわかる。

私が一番こまるのは、仮想的すぎて学生様がそういう選択に場に置かれるっていうのがどういう感じか想像したり実感したりしにくいってことね。エドモンズ先生が、この暴走列車問題に対応する過去の現実の事例としてあげている、「ドイツのミサイルの被害を防ぐために、ロンドン南部の人々を意図的により多くの危険に晒すことは許されるのか」「日本との戦争を終わらせるために核攻撃するのは許されるのか」「海に落ちた乗組員を見捨てて潜水艦に爆雷落としていいか」みたいなのって、われわれ一般人が考えることじゃなくて、えらい人々の話っしょ、みたいな。大統領とか沖田艦長とかそういう人が考える事の世界。

んじゃどうしているかっていうと、ここ2,3年はバッジーニの「誰も傷つかない」つかってる。ははは。

【誰も知らない】スカーレットは自分の運のよさが信じられなかった。物心ついたときから、ブラッド・デップはあこがれの男性だった。それがなんと、スカーレットは今、バハマの人里離れた場所にあるブラッドの別荘にいるのだ。この別荘のことは、パパラッチさえ知らない。ひとりで海岸を歩いていたとき、スカーレットはブラッドから飲み物を勧められた。そして、ふたりで話すうち、彼が想像どおり魅力的な男性であることがわかった。やがて、ブラッドから、この数週間ずっと、少しばかり寂しい思いをしていたことを打ち明けられた。そして、職業柄、秘密にしなければならないが、一晩いっしょに過ごしてくれればすごく嬉しい、とも言われた。問題がひとつだけあった。スカーレットは結婚していて、夫を心から愛している。でも夫は知らないし傷つかないのだし、知られることは絶対にない。スカーレット自身は夢のような一夜を手に入れ、ブラッドはちょっとした楽しみを味わうだろう。それぞれが現状維持か、それ以上に豊かなときを過ごすのだ。苦しむ人は誰もいない。得るものが非常に多く、失うものは少ないというのに、ベッドへと誘うブラッドの魅惑的な瞳に抗う必要など、はたしてあるのだろうか?(ジュリアン・バジーニ、『100の思考実験』、向井和美訳、紀伊國屋書店、2012 pp.360ff)

これはまあどういうひとにもある程度身近な問題としてイメージすることができるんじゃないかと思う。もちろんヒュー・グラントやエミリー・ラタコウスキー先生とそういう感じになることはまずないけど、近い経験ってのはあるかもしれないし、なくてもそういう妄想がするのが好きな人々は少なくないだろう。こういうの使うからセクハラ先生と呼ばれることになるわけだが。

バッジーニ先生はこのシナリオで「信頼」の話をしようとしてるっぽい。
まあ他にも貞操とか性道徳とか、嘘とか、利己性とか、人間としての幸福の話とかにもひっぱっていきやすいので、半期の講義を通して何回か使える。

それから、こういう思考実験シナリオを読むときの注意みたいなのもやりやすいんよね。最初に、「それでは渡した紙に適当でいいので自分だったらなにを考えるかかきとめてください、あとでまとめて紹介します」みたいにやる。

ここで、フランクリンの例の損益表の話もすることが多い。アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリン先生が、化学者のプリーストリー君にオヤジアドバイスをした手紙のやつね。この「書き留めて考える」は学生様にはぜひ修得してほしいし。

君がアドバイスをもとめた問題については私は前提条件を十分に知らないので、どうしたらよいか助言することはできない。しかし、もしお望みなら、どうやって決断すればばよいかをお教えしよう。こういう難しいことが起こるとき、問題が難しいのは、賛成と反対のすべての理由を心に一度に思い浮かべておくのが難しいからだ。一つのことが頭に浮かんでいるとき、他のことは視界から消えてしまう。さまざまな目的とか欲望とかが次々に心に現われては心をいっぱいにして、私たちをとまどわせるのだ。こういう困難を克服するために私がやるのは、一枚の紙を二つの列に分けて、片方に賛成意見を、片方に反対意見を書き出すことだ。つぎに数日かけて、いろいろな見出しで賛成の側、反対の側それぞれに、理由を追加していくのである。こうしてすべて書き出したのちに、それぞれの重みを検討してみる。同じくらいの重さのものを両方に見つけたら、両方に線を引いて消していく。2つの理由が反対の3つの理由に見合っていると思えば、その5つ全部を消すのだ。こうして続けていくと、やっと天秤がどちらに傾くかがっわかるのだ。そして、一日二日したあとで、もう何も大事な新しいことが思いつかなくなったら、もう決断することができる。理由の重みは数学の計算のように正確なものではないが、こうして別々に比較してみて、全体を目にすれば、私はまずまずうまく判断できると思うし、せっかちにまちがった判断をせずにすむ。実際私はこうした計算からずいぶん恩恵を受けたものっだ。私はこれを道徳的算数とか思慮の算数とか呼んでいる。君が最善の決断ができることを願っている。

A4紙1枚渡しといて、「縦に線ひいて、左に賛成、右に反対って書いてちょ。ProとConとか書いてやってるの洋画で見たことあるっしょ、Proは賛成でConは反対ね」とか。

「えー、さて、「あなたならどう考えますか」ってさっきお願いしましたが、実はこれ必要な条件足りないことにきづきましたか?なんか思い込みはないですか。」たとえば、スカーレットは何歳だと想像しましたか?20歳?40才?70才?30才と80才だと全然ちがう?なんでちがうの?」「そもそもスカーレットは女性だって書いてないけど、女性ですか?」「うわー!」みたいな。

「旦那との関係は良好なのでしょうか。旦那が常習浮気太郎や風俗マニアだったらどうですか。10年間セックスレスだと判断は変わりますか」「子供の有無が重要なのですか、へえ」とかであおってから、「んじゃ隣の人と相談して、さっき書いたやつにそれを付け加えてください。おもしろい意見は来週みせます。できた人から終了」ぐらいで終了する感じ。「スカーレットはこれ以前にもいろいろ浮気してたらどうですか」もやるな。学生様は「うえー」って顔をしている。セクハラかもなあ。まあ1回生にはできないけど、2,3回生配当だから許されるか。

んでこっからいろんな方向にいけるけど、最近はとりえず利己性の話にもってくかね。ギュゲスの指輪をつなぎにして、心理学的利己性の話にもっていく。ソクラテス先生に向かって、取り巻きのひとりのグラウコン君が、結局人にバレないような条件のもとではどんな正しい人だって自分の好き勝手なことしようととするんじゃないか、悪いことをしないのはバレるのがこわいからなんじゃないか、って主張しているところね。

ギュゲスは、羊飼いとして当時のリュディア王に仕えていましたが、ある日のこと、大雨が降り地震が起こって、大事の一部が裂け、羊たちに草を食わせていたあたりに、ぽっかりと穴が空きました。彼はこれを見て驚き、その穴の中に入って行きました。物語によれば、彼はそこにいろいろと不思議なものがあるのを見つけましたが、なかでも特に目についたのは、青銅でできた馬でした。これは、中が空洞になっていて、小さな窓がついていました。身をかがめてその窓からのぞきこんでみると中には、人並み以上の大きさの、屍体らしきものがあるのが見えました。それは、他にはなにも身に着けていませんでしたが、ただ指に黄金の指輪をはめていたので彼はその指輪を抜き取って、穴の外に出たのです。

さて、羊飼いたちの恒例の集まりがあったときのことです。それは毎月羊たちの様子を追うに報告するために行なわれるものですが、その集まりにギュゲスも例の指輪をはめて出席しました。彼は他の羊飼いたちといっしょに座っていましたが、そのときふと、指輪の玉受けを自分の方に、手の内側へ回してみたのです。するとたちまち彼の姿は、かたわらに座っていた人たちの目に見えなくなって、彼らはギュゲスがどこかへ行ってしまったかのように、彼について話し合っているではありませんか。彼はびっくりして、もう一度指にさわりながら、その玉受けを外側へ回してみました。回してみると、こんどは彼の姿が見えるようになったのです。

このことに気づいた彼は、その指輪が本当にそういう力を持っているかどうかを試してみましたが、結果は同じこと、玉受けを回して内側へ向ければ、姿が見えなくなるし、外側へ向けると、見えるようになるのです。

ギュゲスはこれを知ると、さっそく、王のもとへ報告に行く使者のひとりに自分が加わるように取り計らい、そこへ行って、まず王の妃と通じたのち、妃と凶暴共謀して王を襲い、殺してしまいました。そしてこのようにして、王権をわがものとしたのです。

さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人の物に手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場からんなんでも好きなものを、何をおそれることもなく取ってくることもできるし、これと思う人々を殺したり、\ruby{縛}{いまし}めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに!{\――}こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。

ひとは言うでしょう、このことは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正を働くことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにほかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のようななんでもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手を付けることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞賛するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。

(プラトン『国家』359D以下、翻訳は藤沢令夫訳の岩波文庫、プラトン『国家』上巻、pp.108-110。)

バレない指輪があれば星野絵音先生や川谷源先生からのお誘いに乗ってもいいだろうか、みたいにして話が続く。んで、その前に、「でもその前に、そもそも人間って利己的なもんで、愛だの恋だの友情だの正義だのっていってるけど、「結局考えているのは金と食い物とセックスのことだけだ」みたいな考え方があるからそっからはじめましょう」とかってのでツカミは十分だと思ってる。


少人数講義での発問と答

少人数の講義や購読などでは、ひとりでしゃべってても疲れるしうるさいだけでつまらないので、学生様たち自身からいろいろ質問や発言してほしいと願っている教員は多いものですが、何度も書いてるようにこれは教員にとって難しい課題です。

これまでも学生様向けにお説教をいくつか書いたりもしたのですが、まあそんなうまくいかないですね。

なんかこういうのではダメな気がする。3、4人なら話せるけど、10人を越えると自分から発言しようとする人はいなくなる。特に1、2回生は発言を恐れているような雰囲気さえありますねえ。まあ2回生ぐらいで勝手なことが言える人は将来すごく偉くなるんだけど、ふつうの学生様にはむずかしい。

これはいろいろな理由や原因が考えられます。いわゆる同調圧力というか、目立つのは悪いことだとか、「ちゃんとした質問」「ちゃんとした意見」を言う自身がないとか、教員が圧迫的だとか、教員が嫌いだからとかキモいからとか。

「人が話しているのを聞いてるときはつねにコメントや質問を考えておくものだ」みたいなのもあんまり効果がない。

なにより、まあ学生様というのはそういう自由度が高い場でなにを話せばいいのかよくわからんのですわ。我々教員・研究者はおしゃべりだしそういう場所に慣れているので、「せっかくのなに言ってもいいじゃん、せっかくの時間だし眠くならないようになんかしゃべっておこう」ぐらい思うわけですが、学生様はそうは考えない。

こういうとき、教員がぼんやり「質問ないですか」って芸のない発問するからだめなのだ、という考えかたもありますが、発問まで作りこまれた授業をいつもできるわけではないし、少人数のときはコストが高すぎる。もっと楽にやりたい。

むしろまあそういう、勝手なことをしゃべる基本的な動作、みたいなのが必要なんすわね。

私が最近試みているのは、「なんか質問ないですか?」って言われたら、「ありません」ではなく、とにかくオウム返しすればよい、ってのを理解してもらいます。

「〜というわけで、徳川家康はえらかったのです。……なにか質問ありませんか? ……そこの松平君どう?」

「ありません」

「保科君は?」

「なにもありません」

はつらい。とにかくオウム返しぐらいして、と。

「家康はえらかったのです。さて、コメントないですか? 真田君なにかない」

「家康は偉かったんですね」

「うんそうなんだ、さらに言えば、〜」

と、まあこういうキャッチボール、パス交換ができれば十分。もっと高度になれば、

「〜というわけで、家康はえらかった。コメントないですか?」

「つまり、家康がえらかったのは〜から、ということですか?」

「うむ、〜」

となればよい。「わかりました」「ありません」ではなく、相手の言ってることを自分で「つまり」などでまとめて返せれば大学生上級だ、みたいなことを言って、その訓練しようとしてます。

「〜というわけで、質問ないかって言われてなにもなければオウム返しすればいいのです、どうですか」

「……」

「これこれ」

「あ、オウム返しすればいいのですね」

「そう、それで十分」

ぐらいにはなる。効果はあるようなないような。でもこれ地道に繰り返してると、少しほぐれてくる感じねえ。

 

 


グループディスカッション雑感補足 (3)

メモだけ。

とにかく教員は学生間のディスカッションが盛り上がらない、と困るわけですが、私が考えているのは以下のようなこと。

まず我々教員が好きな敵対的なディスカッション、ディベート、みたいなのはふつうの学生様には無理で、ああいうのは攻撃的な特別な人々向きね。だれもがそうなれるわけではない。まずは勝手なおしゃべりさせることに慣れさせるべきだ。まあ私はディベート形式は好きではないし、今後もやらないと思う。

人数が重要。大学院や教員を長く続けていると20人ぐらいの会合はふつうで、そういう場所で議論することに非常に慣れているわけですが、学生様はそうではない。彼ら彼女らはお互いによく知らないのがふつうで、すぐに10人とか15人とかでディスカッションするというのは無理。また、まずお互いの名前や性質をおぼえさせないとならないわけで、それも15人いちどにおぼえるのは無理。

そういうわけで、最初は3〜5人ぐらいのグループに分割して作業させることを何度もくりかえす必要があるのではないか、というのが現在の見通し。んで「Aグループではどういう意見が出ましたか」のような問いかけをすれば話ももりあがりやすい。

理想的には、3〜4人のごく少人数のを3、4回やらせてから、7、8人の司会者が必要な人数のをやらせ、その上で10人なり15人なりのをやる必要があるんではないか、みたいな。

ただ、ディスカッションなりおしゃべりさせるにしても、最終的な目標がはっきりしている必要がある。目標というのは目に見える成果物である必要がある。そこで、「ディスカッションシート」「おしゃべりシート」のようなものを最終的に提出するといった目標を設定する必要がある。

 

 

 


大学教員は専門外のことにどこまでコメントしたり授業に組み込んでよいか

大学で授業していて教員がけっこう気にするのが、「自分の専門外のことについて、どの程度コメントしてよいか、どの程度授業にとりいれていいか」ってことです。これ、みんなけっこう気にしてると思うんだけどあんまり議論されてるのを見たことがないんですよね。

まあ1時間半最初から最後まで自分の専門である内容についてしゃべっておわり、ってことにできればそれでいいんですが、それでは学生様の注意が持続しないし、そんなおもしろくないので、個人的な出来事とか時事問題とかそういうのを解説してみたりすることはあるわけですわね。私自身はあんまり政治的な話を好まないので、授業でしゃべってることの具体例として「そういやこんな話があって」とか個人的に見聞きしたこととはをとりあげたりすることが時々あるくらい。でも「安倍政治だだめだ」「もんじゅ即時停止はあたりまえだ」みたいなことを言いたい人もいるかもしれませんね。私はそういうのは専門外だし情報集めてないからコメントしにくい。

でも専門として担当している授業が、倫理学とか応用倫理学とか、生命倫理学まわりだったりするから、ある程度知ってることについては、「いまこんなことが問題になってる、勉強してみてください」ぐらいはしゃべります。これは新聞や雑誌で見てる程度の話ですわね。あんまり政治的な主張がはっきりしたことを言うと、学生様はかなり抵抗があるみたいですね。ネットで「あの先生は意見を押しつける」とかって感想をよく見かけるし、それは避けたい。

私が最近気になっているのが政治の話ではないんですわ。全学の「教養科目」みたいなの担当していて、これってやっぱり私の専門である「倫理学」とかを教えるのとはちょっとちがったことが期待されているようなんですわ。それは、カリキュラムを変更して学部・学科の縦割りを進めすぎてしまって、学生様が自分の専門の話しか聞かなくなってるから、やっぱり大学生としての教養みたいなのを広くまなばせたい、みたいな主旨みたい。そういんで「倫理学」や「応用倫理学」はその専門のコマがあるから、「んじゃ愛とセックスの哲学でもやろう」ってなことになって、文学とかも少しはとりあげつつやるわけですが、問題は、私が音楽をとりあげていいか、ですわね。

私すごく音楽が好きなので音楽について誰かに語りたいことは山ほどあって、そういうの授業でとりあげていいのだろうか、みたいな問題。まあその授業は愛とかセックスとかに関連するような音楽作品とか美術作品(ポルノじゃなくてまじめなファインアート)やダンスとかの芸術についても触れたいじゃないっすか。っていうか、そうした文化や芸術抜きの恋愛や性の話っていうのはなんか不完全な気がするし。あと自分の経験からして、大学の授業でのそういう余計な部分というのはけっこう記憶に残っておもしろいんだわよね。芸人としての大学教員。

というわけで、去年のその授業では最後の方の10分ぐらい使って楽曲の歌詞や音楽的構造の話してみたりしてけっこうおもしろかったので今年もやってるんですが、これ許されるんかな。どう思いますか。

しゃべってる内容は、このブログでちょこちょこ書いてるようなネタや、あるいはたとえば(別ブログの)次のような話だったりする。

まあ授業の最後に、そこまでの授業のコメントシート書いてもらいながら、10分ぐらいだったら許されるかな。成績評価にも関係ないし。でもそういうことやるんだったらあるていどそういう学会とかにも入っておかねばならないのではないか、ぐらいは悩みますね。まあ嘘教えしまわない程度いろいろ試行錯誤しないと、自分自身が授業を楽しめないってのはあるです。