セックスの哲学」カテゴリーアーカイブ

『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (7) 宮廷風恋愛

んで、第4章は「宮廷風恋愛」。騎士道恋愛、レイディーとナイトのあれですね。ここらへんから先生の専門に近づいている(はず)だし、内容的にもおもしろいと思う。ぜひ読んであげてほしい。 続きを読む

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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (5) ローマ人だってそれなりにロマンチックだったんちゃうかなあ

  • 第2章の古代ローマ編もざっくり軽快でいいと思う。まあ恋愛の歴史とかっていう巨大な話はどっかでざっくりやらないとしょうがないですね。

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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (3) イデア論まわり

  • あ、ちなみに、54ページの『饗宴』の出典、久保訳のp.76って指示してあるけど、おそらくpp. 84-85だと思う。あと、複数ページのときはp.じゃなくてpp. って表記するようお願いします。

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『恋愛制度、束縛の2500年史』で恋愛の歴史を学ぼう (1) まえおき

福岡大学の鈴木隆美先生が『恋愛制度、束縛の2500年史』っていう新書を出して注目してます。ある程度アカデミックな恋愛の歴史、恋愛観の歴史みたいなのはみんな興味あるのに読みやすいやつがないから、新書レベルの本が出るのはとてもいいですね。少しずつ読んでいきたいと思います。っていうか、実はゼミで3回ぐらいで部分ごとに読んでいこうとしている。 続きを読む

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よっぱらいセックス問題いったんまとめ

一覧。

よっぱらってセックスするのが好きな人々がいるようですが、危険なのでやめましょう。

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「性暴力の原因は性欲ではなく支配欲」は単純すぎてよくない考え方です

一部のフェミニスト学者先生たちが主張する「性暴力の原因は性欲ではなく支配欲」は単純すぎてあまりよくない考え方です。過去記事から一部だけ抜きだしました。

セックスの哲学

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牟田先生たちの科研費報告書を読もう(8) 牟田論文誤読のおわび

去年の今ごろ牟田科研費についてシリーズ書いてしまって、なぜか最近になってはてなブログなどで有名な法華狼先生からお叱りを受けているのですが、実際わたし牟田先生の論文をまったく誤読してました。ほんとにお恥かしいのでどう誤読してたのか書いて反省します。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (6) 言語使用の適切さと道徳的な適切さは別よ

あともう蛇足っていうか、文章読みなおしたりするのも面倒なんでこれ以上書きたくないのですが、発話行為の言語学的というか、会話の上での適切さの基準と、その発話行為の道徳的な善悪の基準はまったく別です。会話の上、あるいは言語の使用においてはまったく問題ないけど、道徳的に悪徳的であるような発言はたくさんある。一方、言語使用において問題だったらそれそもそも(発語)行為として適切じゃないのでその道徳的な善悪とかあんまり言う意味がない。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (5) 瀬地山先生を非難するには

あとは北田先生の論文のなかで、私とはあんまり関係ないことについてちょっとだけコメントしておきたい。

どうもこの論文で、北田先生は瀬地山先生がいろいろ悪いこと(サイレンシングやトーンポリシング)をしているっていうのを立証したいように見えるんだけど、そういう道徳的な非難をするには、もっと周到な準備が必要だと思うんよね。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (4) どんなとき行為はパフォーマティヴ?

というわけで今回はまったくなにを怒られているのかわからなかったのですが、一つだけ収穫があったんですわ。「パフォーマティブな行為」。このなにげない表現から、いろんなことがわかった。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (3) 具体例がないとわからない

そもそも、北田先生の、バトラー様(や北田先生や小宮先生の)「準拠問題」(=問題設定?)を認めるとか精査するとか、そういうのっていうの抽象的にはよいことだと思うけど、具体的にどういうことなのか考えてみるとよいと思う。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (2) 「準拠問題」ってなんですか

これ、たずねられたり怒られたりしていることじゃないから書く必要ないのかもしれないけど、そもそもこの北田先生の論文で何回も使われてる「サイレンシング」とか「トーンポリシング」とか、いったいどういう概念で、ある人の発言や行動がサイレンシングだったりトーンポリシングだったりする基準はなんですか。それにそれは常に不正なことや悪いことなんですか。そういう説明なしに瀬地山先生は小説家や性暴力の訴え(?)をサイレンシングしている!それはバトラー様の準拠問題のもとでわかる!とかっての、ほんきですか。 続きを読む

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北田先生から怒られてしまった (1) パフォーマティヴってなんですか

『現代思想』のジュディス・バトラー特集号に載ってた、北田暁大先生の「彼女は東大を知らないから:実践のなかのジェンダー・トラブル」という論文で、私が日頃ツイッタやブログで適当にかきなぐってることについて怒られてしまったのでお返事しようかと思ったのですが、先生の論文はものすごく難しくて何を言ってるのか理解するのにとても時間がかかりました。けっこうがんばって読んだんだけど、結局よくわからなかった。バトラー様まわりはほんとうに時間ばっかりかかって人から憎まれるだけでなにもよいことがないので、泥沼みたいなのところにひきづりこむのやめてほしい。 続きを読む

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セックスの哲学マストハブ

入門書


古典アンソロジー & テキスト


現代アンソロジー

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若い女子はルソー先生や秋元康先生ではなくウルストンクラフト先生の言うことを聞いたほうがいいかもしれない

私の考えているセックスの哲学史では、あのふつうは偉大だとされているルソー先生はスケベなレイプ魔みたいな人なんですが、それはその次の世代の女性にははっきりわかっていたんですよね。

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MeToo本家の「はじまり」と「歴史とヴィジョン」を訳してみました

MeToo運動が一部で話題になっていて、まあ話題になるべきだと思うのですが、その運動の創始者たちがどういうことを考えているのか日本語で読めるものが少なかったので、おそらく元祖・本家であるところの https://metoomvmt.orgの文章を訳してみました。著作権とかクリアしていませんが、運動の宣言文なのであんまり文句は出ないだろうと判断しています。もちろん私はなんのクレジットも主張しませんので、誰か手を加えてまずいところ修正するなりして彼女たちに送ってもらえれば、日本語ページを作るときに役に立つかもしれませんし、立たないかもしれません。

まず創始者ダラナ・バーク先生による「そのはじまり」。力がある文章で正直感動しました。やはりかざりのない実感のこもった言葉には力があると思います。ぜひ読んでほしい。 https://metoomvmt.org/the-inception/

MeToo、そのはじまり

「Me Too運動」™[1]TMついてるんですね。は、私の魂のもっとも深く暗いところからはじまりました。

ユースワーカーとして、おもに黒人と非白人(of color)の子供たちを世話をするなかで、私は胸が引き裂かれるような物語を私なりに見聞きしてきました──崩壊家庭から、子供を虐待的する、あるいはネグレクトする親まで──そういうなかで、私は少女ヘブンに出会ったのです。

ユースキャンプでの女子だけのセッションのあいだ、クラスに参加した少女たちが、自分の人生についてごく内密な話をわかちあいました。その一部はごくふつうのティーンの不安についての話でしたが、なかにはとてもつらいものもありました。それ以前に何度もやっていたのと同じように、私は座ってその物語に耳を傾けました。そして、必要とするように少女たちをなだめました。そのセッションがおわったあと、大人たちが若い女子たちに、もし話すことが必要だったら、あるいはもし他のことが必要だったら連絡するように、とアドバイスしました──そして私たちはまた別々のことをしはじめたのです。

次の日、ヘブンは──ヘブンは前夜のセッションに参加していました──私にプライベートに話したいと言ってきました。ヘブンはかわいい顔をした少女で、キャンプのあいだ中私にまとわりついていました。しかし、ハイパーアクティブで時々怒りに満ちた彼女の振る舞いは、彼女の名前にも軽くてハイピッチの彼女の声にもふさわしくないもので、私はある種の場面ではよく彼女をふりはらってしまっていました。

その日彼女が私に話をしようとしたとき、彼女の目から、その会話はいつもとはちがったものになることがわかりました。彼女は深い悲しみをかかえていて告白したいと思っていて、私はそれをすぐによみとれたので、かかわりあいになりたくないと思いました。

しまいには、その日遅くに彼女は私をつかまえて、聞いてほしいとほとんど懇願するかのようでした。私はしぶしぶそれを認めました。そのあと数分間、このこども、ヘブンは、なんとかして私に「ステップダディ(義理のパパ)」──正確にいえば母親のボーイフレンド──が彼女の発育途中の体にあらゆるひどいことをしている、と伝えようとしたのです。私は彼女の言葉がこわくなり、私のなかの感情はあれくるいました。

私はもう聞くことができなくなるまで耳を傾けました/それは5分にも足りていませんでした。そして、彼女のそばで痛みをわかちあっているとき、私は彼女をつきはなしてしまい、すぐに、「もっとうまく助けることのできる」女性カウンセラーのところに行くように言ったのです。


私は彼女の表情を忘れることはぜったいにできないでしょう。

私は彼女の顔の表情を忘れることができないでしょう、それはずっと私につきまとっているのですから。私は彼女のことをいつも考えています。拒絶されたことのショック、傷を開いても突然むりやりそれをまた閉じられることの痛み──それが彼女の顔に表われていました。私は子どもたちをとても愛していて、子どもだちをとても気づかっているのですが、私は彼女がもっていた勇気をもつことができなかったのです。

私が彼女を愛していたのですが、私は、私が理解していること、私は彼女とつながっていること、私も彼女の痛みを感じることを使えるエネルギーをふるい起こすことができなかったのです。私は彼女の恥の感覚を解放することもできず、起こったことはなにも彼女のせいではないことを彼女に納得させることもできなかったのです。私は自分の頭のなかで何回も何回も鳴りひびいている言葉を声に出して言う強さをもっていなかったのです。彼女は自分が耐えていることを私に伝えようとしたのに。

私は彼女が私から歩き去るのをみました。彼女は自分の秘密を拾いなおして、またそれを隠れた場所にもどそうとしました。私は彼女がまた仮面を被りなおし、ひとりぼっちの世界に戻るのを見ました。そして私は一人でつぶやくことさえできなかったのです。「私もなのよ」と。

– Tarana Burke
Founder, The ‘me too.’ Movement

歴史とヴィジョン。https://metoomvmt.org/about/#history

歴史と展望

「MeToo」運動は、2006年に性暴力の被害者(サバイバー)、特に黒人女性と少女たち、そして他の恵まれないコミュウニティの非白人の若い女性たちが、回復への道を見つけるのを支援するためにはじめられました。そもそもののはじまりから、私たちのヴィジョンが向けられているのは、性暴力の被害者のためのリソース不足と、被害者自身たちによって主導される支援者のコミュニティを建設することでした。支援者たちは、いずれ自分たちのコミュニティでの性暴力を阻止する解決策を作りあげる最前衛で働くようになるでしょう。

6ヶ月にも満たないうちに、ウィルスのように広がった #metoo ハッシュタグのおかげで、性暴力についての活発な談論が、国をあげての対話へ入り込んでいきました。地元の草の根作業としてはじめられたこおが、被害者たちのあらゆる界隈でのグローバルなコミュニティへと届くまでに広がり、世界中でおこなわれている性的暴力の広範さと衝撃を表に出すことで、性暴力被害をサバイブするという行為のスティグマをとりはらう助けとなりました。

私たちの課題は、それを必要とする人々に、個人個人の回復のための入口を見つけること、そして、性暴力の世界的な増殖を生みだしているシステムを打破するために、サバイバーのための大規模基地にエネルギーを供給することに向けられています。

私たちのゴールは、幅広いスペクトラムのサバイバーたちの必要に答えるために、性暴力にまつわるグローバルな会話を再編成しつつ拡大することです。少年少女、クィア、トランス、障害者、黒人女性・少女、そしてすべての非白人(of color)コミュニティ。私たちは、加害者の責任が問われることを求めており、長期的な体系的な変化を維持できるような戦略を求めています。

「MeToo」運動は、性暴力の被害者とその連帯者を支援します。それは、被害者をリソースに結びつけ、コミュニティに組織化のためのリソースを提供し、「MeToo」政策のプラットフォーム建設に従事し、性暴力の研究者およびその研究を集積します。「MeToo」運動の作業は、性暴力を阻止する草の根の組織化と、被害者をリソースに結びつけるデジタルコミュニティーをブレンドしたものになります。

「MeToo」運動は、共感とコミュニティベースの行動を肯定するものであり、その作業は被害者主導によるもであり、各種のコミュニティの必要に応じて特定されたものになります。

タラナ・バークは「MeToo」運動を、貧困コミュニティー出身の黒人女性・少女とともにはじめました。彼女は、黒人コミュニティおよび広い範囲の社会のなかで性暴力についてディスカッションするため、その文化をふまえたカリキュラムを開発しました。同じように「MeToo」運動はそれぞれのコミュニティーで、そのコミュニティの特定の必要を満たそうと運動している人々を支援しようとします。たとえば、非白人で障害をもつトランスのサバイバーが、他の障害をもつトランスのサバイバーとのイベントをもったり、ツールキットを作ったり、そうしたことをするのを支援します。いっしょになれば、私たちは性暴力を阻止するグローバルな運動を強化するため、おたがいを励ましサポートすることができるのです。


こうして読んでみると、もちろんよく読めばコメントしたいことも出てくるのですが、がんばってほしいとも思います。また、現在日本のネットで流通している#MeTooの発想とのあるていどの距離も感じてしまうわけですが、それは専門家の人々がいろいろ検討しているところでしょうから、私がここでコメントするのはさしひかえたいと思います。

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References

References
1TMついてるんですね。

『犯罪学ハンドブック』を読もう!

やっぱり知らん分野はハンドブックとかから勉強する、っていうのが、私のような素人が他の分野の研究とかを鑑賞する(勉強するんじゃなくて鑑賞ですなあ)ときの王道だと思うのです。

最近『犯罪学ハンドブック』っての出てて、これアメリカのその分野の大学テキストの翻訳ですね。この翻訳は第2版をもとにしたものだけど、英語では第3版まで出てて、おそらく定評あるテキストなんだと思います。

修復的司法とかについてどういうふうに扱われているかというと、そうした話は第8章の「批判理論とフェミニズム理論」というところで扱われてます。あんまり好意的じゃないですね。

おそらく世界中で社会主義社会が崩壊したことが影響したと思われるが、Lilly, Cullen, & Ball (2011)は、至る所で葛藤理論が頓挫し、それが「仲裁犯罪学という形式に変化した」と述べている。仲裁犯罪学とは、近年急増する多数の犯罪学理論のなかでごく最近の理論であり、衰退したマルクス主義が包摂されている。まさにポストモダン様式であると断言できる。(pp.226-227、ちょっと語句いじってる)

とかそんな。

仲裁犯罪学の基本理念とは、1960年代のヒッピーの金言、Make Love, Not Warに共通しているが、性的含意はない。現況の「犯罪との戦争」という表現は考えただけでもぞっとするので、「犯罪における平和」を目指そうとしている。(p.227)

犯罪者を監禁するかわりに、平和構築犯罪学者らは修復的司法を提唱している。これは基本的に調停と紛争解決のシステムである。修復的司法とは主に犯罪によって生じた損害を修復することを目指し、そして基本的に関係する当事者が一堂に会し、被害者と加害者が、犯罪が起こる前の状態に「修復する」ために、双方にとって合意妥当な解決案に到達することである(Champion, 2005) (p.227)

みたいな紹介になる。

Lainier & Hennry (1998)は次のように指摘している。「ポストモダニズムは、次のような理由から主流派の犯罪学者に厳しく批判されてきた。(1)言語の問題ではなく、非常に理解が困難でであり、(2)虚無主義的かつ相対主義的で、善悪を判断する基準がなく、(3)被支配者層から見ると、非現実的で危険でさえある。(p.285) 平和構築犯罪学は、我々に犯罪における平和を構築するよう迫るが、一体これに何の意味があるのだろうか? 多数の評論家が指摘しているように、犯罪者に対して「紳士的である」ことが犯罪を止めさせることに十分効果的とはいえない。人間苦を低減させることや、犯罪を減少させる公正な社会を実現することは明らかに正しい。この立場に立つ主唱者はそこを目指して闘っている。しかしながら彼らは、「他罰的でなく、犯罪者の視点を理解すべきだ」という提言に一歩踏みこんで、どうやってそのような社会を実現できるかについては何の具体策も提供していない。(pp.229-230)

ずいぶん厳しいけど、主流派から見るとこうなのだな、ってところをふまえて、「それでもなお」って感じで話がはじまるのだと思う。だから研究者には実際の実践とか、その結果のデータとかが重要になるわけだし、私のような鑑賞者は、そういうのをどうやってくれるかに注目して鑑賞することになる。

フェミニスト犯罪学についてもおもしろいんですが、こっちはもうすこし好意的ですね。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(おわります)

もうしわけありませんが、途中だけどもう終ります。デイリー/カズンズ論争の紹介をしたかったのと、全体の構成その他についてちょっと書きたいことがあったのですが、どのページをひらいてもいやなものを見つけてしまって、もう私は心理的に耐えられないです。ずっとあれやこれや重箱の隅をつついているような感じになってしまう。でも本当に重要な箇所もそういうのが起こっていると思います。

たとえば、第5章第1節、p.165。

例えば、性暴力被害者のジョアンナ・ノディングはRJを通して「対話」に参加した。その中で、ノディングは加害者に「あなたを赦す」と宣言した。そして、「対話」の中で次のように語っている。

私は彼がしたことを許容することも、矮小化することも言いませんでした。なぜなら、私は自分自身を恨みの重荷から解放したかったし、彼にとって大事なことは、彼が自分自身について学び、行動し、赦すことを望むことだからです。(p.165, 下線江口)

下線部、なんかおかしいでしょ。この文献が https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story  これのことならば、原文は

“As the meeting was finishing I was asked if there was anything else I wanted to say, and I gave him what I’ve later come to think of as a ‘gift’. I said to him, ‘What I am about to say to you a lot of people would find hard to understand, but I forgive you for what you did to me. Hatred just eats you up and I want you to go on and have a successful life. If you haven’t already forgiven yourself, then I hope in the future you will.’

“I didn’t say it to excuse what he did, or to minimise it, but because I wanted myself to be free of that burden of grievance, and as importantly for me, I hoped Darren could learn, move on, and forgive himself.”

この部分だと思う。「私が「赦す」と言ったのは、彼がしたことについて免責するためでもないし、それを矮小化するためでもない。そうではなく、私自身を恨みの重荷から解放したかったからです。そして私にとって同じくらい重要だったのですが、私は、ダレン〔加害者か〕が学び、先に進み、そして彼自身を赦すことができるようになることを望んでいたのです。」

細かいように見えるけど、そうではないです。これも被害者が加害者に対して「赦します」と言い、それをあとでそれが「ギフト」であったのだ、と理解するという感動的な話ではあります。でもそれがわからん話にされちゃってる。私こういうの見つけるたびに「うっ」となってもう不快になってつらい。大事なことですが、これは英語能力の問題ではないと思う。

最後の章にデリダ先生が大々的に登場するのは象徴的で、ああしたむずかしくてなにを言ってるのかはっきりわからないこと言われてしまえばもう何も言えなくなるし。著者のまわりの人々にもそういうことは起こっていなかったろうか。

あとは専門に近い人や、性暴力やその対策に興味ある人が検討してほしい。でも本気で検討してほしい。特にジェンダー法学会関係者の人は本気で検討して、評価を教えてほしいです。あなたたちは本当にこの本を読みましたか?


(追記)このシリーズでは部分をかなりしぼって、一般読者にもわかりやすいと思われる誤訳の問題を中心にとりあげましたが、この本は事実確認、資料の扱い、そして全体の議論の構成など問題は多く、問題が性暴力とその被害に対する対処という重大な問題であるだけにいろいろ危惧しています。しかしそれらを検討することは私の仕事ではないとも思います。性暴力や性犯罪、その対策などは、各分野の人が協力してオープンな議論することによって改善されることを本当に願っています。(2018/11/12)

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(5)

  • これはちょっと細かいのですが。

私はまさしく彼が「聴くこと」を望んでいます。〔私が〕どんなに無力な状況に置かれ、ひどいトラウマを負ったのかを。彼が完全に〔私の苦しみを〕受けとめて理解すると期待しているわけでもありません。私の口から直接出てくる言葉を確かに彼に聞かせたいから、〔加害者に対して〕「〔私の声を〕聴け」と言いたいのです。私は加害者(すべての加害者)は、表面的なレベルでしか受け止められないとしても、〔性暴力被害者が〕何を感じていたのかを知る必要があると思います。私にとって重要なことは、少なくとも、直接的に私から〔加害者に自分の言葉に対して〕耳を傾けられる経験を得ることです。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(4)

    • 第4章第3節も見ておきたい。
    • p. 151に出てくる、Nodding (2011)という資料はどういうものかよくわからない。この団体 https://restorativejustice.org.uk  が出している冊子かもしれない。あるいはこれ https://restorativejustice.org.uk/resources/jos-story そのものか。そもそもこの団体がどういう性質のものかよくわからない。怪しい団体ではないとは思うのだが。
    • p.152に出てくるKeenan (2014) も最初見つけられず苦労したのだが、文献リストでは「報告書」として他の「外国語文献」とは別になっていた。「学会報告、講演」も別になっていて、上とあわせてその分類の基準がよくわからない。このKeenan (2014)もURLとかないので探すのけっこう苦労したけど、とりあえずこれ http://irserver.ucd.ie/bitstream/handle/10197/8355/Marie-Keenan-Presentation.pdf?sequence=1
    • この資料は、修復的司法を希望する、参加したい、加害者と対話したい、という人々30人に対するインタビューで、前の節のデイリーvsカズンズ論争が実際に修復的司法は効果があるか、という数字をつかったあるていど実証的なものであるのに対して被害者の願望を聞き取っているもの。話の順番が奇妙に感じられるが、それは問わないことにする。
    • この資料自体は、貴重な被害者の声をきんとひろっていて、非常に迫力があります。こういうの探してくるのは小松原先生すごくえらいと思いますね。
    • ただし小松原先生の参照のページがずれているようで、対応箇所を見つけるのを非常に苦労することが多い。これは多すぎるのであげきれない。
    • また、このKeenanの調査が、さまざまなタイプの被害者の特徴を示す記号がつけられて特定されていることなどにまったく触れられていないのが気になる。家族内レイプと路上レイプなどは経験その他がまったく違うと思われる。それに、小松原先生が同一人物をダブルにカウントしている箇所があるように思える。下では「VSSR」(Victims of stranger rape as an adult)と記述されてる人の発言が何度もでてくるが、これは同一人物である。しかし、小松原本ではどの発言がどの被害者のものかわからなくなっている。
    • p.154で「責任のメカニズムとして」という表現が出てくるが、これは説明しないとわからない。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(3)

  • デイリー先生の文章の引用

私は〈裁判による性暴力の問題解決〉より〈カンファレンスやそれに類するRJ〉がより一般的に用いられるとは思わない。〔しかしながら〕私は犯罪と被害へ、より洗練された対応をすること、そしてRJがその流れの中に位置づけられることについて考えることは、意義があると思っている。

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(2)

p.149

刑事司法制度の補完として、RJを取り入れる具体策としては、「有罪答弁」の改革をデイリーは挙げている。現行の刑事司法制度にも、加害者が自らの犯行を自白する「有罪答弁」は導入されている。しかしながら、デイリーによれば「有罪答弁」は「被害者の決まりきった質問に、加害者が棒読みで答えるという白々としたもの」である。それを「被害者が自分の経験を思いきり語り尽くし、加害者は率直に事件について吐露する場にする」のである。(p. 149, 強調江口)

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『性暴力と修復的司法』第4章の一部チェック(1)

小松原先生の『性暴力と修復的司法』の第4章は非常に問題が多いと思うので、すこしずつ指摘したいと思います。実は同内容の別の文書を書いてしまって、公開するべきかどうか実はかなり迷ったのですが、やっぱり見てしまった以上は書かざるをえないと思います [1] … Continue reading。ここではなるべく価値判断は避けて、事実だけ記載しなおしたいと思います。ジェンダー法学会の奨励賞を受賞していることからも問題の深刻さを考えさせられました。
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References

References
1この本は以前に読んで、問題があるな、とおもっただけでほうっておいたのですが、ツイッターで「第4章第2節ではエビデンスをもとにした、性暴力における修復的司法の議論を行っている」とおっしゃっていたので、どの程度エビデンスなるものを検討しているのか再読せざるをえなかった。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー

EUの女性に対する暴力の調査を日本でもやった先生たちの調査結果報告について[1]これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね、フェミニストの小松原織香先生が加えたコメントに、正体不明自称プログラマのuncorrelatted先生がコメントをつけて、ちょっと話題になってました。 続きを読む

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References
1これ、龍大のページではWORDのままで開けない人がいるかもしれないので、PDFにしておきますね

「メディアは現実を構成する」について調べてみた

どうでもいいつまらない話なんですが、時間とお金をつかったので記録だけしておきます。

(マス)メディアとジェンダーというテーマは、ジェンダー論やらフェミニズムやらの中心的なテーマの一つなわけですが、「実証的な調査はどういうものがあるのか」ってんで、私自身「そういや標準的にはどういうふうに信じられたり教えられたりしてるんだろうな」みたいな疑問をもってしまいました。

まあふつうはメディアに出てくる女性像やら男性像やらが、現実の女性やら男性やらの服装やらふるまいやらに影響を与えているので、メディアは注意深く見ないとなりません、みたいになっていて、実際私も今年度の前期のゼミでメディアリテラシーのまねごとしながら考えてたんですわ。ところが、標準的なジェンダー論とかのテキストなんかだと、その問題は指摘されてるけど、さほど実証的な裏付けには言及されないんですよね。

いろいろ見たんだけど、いちばんはっきりわかりやすかったのは、加藤秀一先生たちの『図解雑学ジェンダー』。これは優秀入門書、というか入門の入門。まあ「図解」を1ページまるごと引用させてもらえば、こんな感じ。まあ典型的な「ジェンダー論」って感じですよね。

ここの左のページには加藤先生自身が簡単な文章を書いているんですが、参照文献が諸橋泰樹先生の『ジェンダーの語られ方、メディアのつくられ方』だったのです。
実は10年ぐらい前にこの先生の本を読んでちょっといやなのを発見したりしているので、図書館で調べてみました。(昔私がリクエストして入れてもらった本だと思う。)

と、この『語られ方』の本は2002年出版ということもあって、相当古い情報にもとづいたものでした。

「能力、性別、らしさ、様ざまな特性はは生まれもったものではない、社会的・文化的に構築される」p.19

「男は人の話を聞かなくてよい」p.19

「女性/男性」という性別二分法自体が、もう人間の観念的な枠組み」p.20

「オオカミに育てられた子どもはずっとオオカミのまま……第二次性徴をはじめとするセクシュアリティも開花しない」「ことばがないとセクシュアリティが顕現せず」p.20

「虹の色はリベリアのバサ語では二色」、「ニューギニア高地人のチャンブリ族という部族」では「男性の性格は嫉妬深く、猜疑心が強く、噂話が大好きでショッピングが大好き、……お祭が大好きで、そのときはオスコンテストをする」p.23

生物学的な性別といわゆる性別役割分業の間に、直接の関係はありませんp.24

とか、まあここでは議論できませんが、古すぎますね。肝心のメディアが我々のジェンダーにどういう影響を与えるか、という実証的な議論は特に見つかりませんでした(どっかにあるかもしれないけど)。

もう1冊、『メディアリテラシーとジェンダー』という本もあったのでそっちも見たのですよ。こっちも実証的な議論は特になかったのですが、次のような記述はありました。

次の概念が、メディアリテラシーの内容を説明します。すなわち、(1)メディアは全て構成されたものである、(2) メディアは「現実」を構成する、(3)オーディエンスがメディアを解釈し、意味をつくり出す、(4) メディアは商売と密接な関係にある、(5)メディアはイデオロギーや価値観を伝えている、(6) メディアは社会的・政治的な意味をもつ、(7)メディアは独自の様式、芸術性、約束ごとをもつ、(8)クリティカルにメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを作り出すことにつながる。(pp. 21-22)

「メディアは「現実」を構成する」とか、いかにも社会構成主義とかそういう難しい立場のけっこう極端な立場のような気がするので、なにかしっかりした根拠があるのかと思ったのです。んで、参考文献としてあげられているカダナ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー』っていう本を入手してみたのです。

この本はメディアリテラシーの教育実践の本としては非常に優れてるのですが、上のような主張はリテラシー教育の上での作業上の仮説のようなもので、それの正当化とかなにもしてませんわ。まあ予想はしてたんですが。

まあこんなもん。まあこれくらいの意味なら「メディアは現実を構成する」って言われてもまあそうですね、ぐらいですね。こういうの参考文献にあげられても困ってしまう。まあ剽窃ではない、ということなんだろうと思うけど、この本入手できない人がみたら、「メディアは社会を構成する」ということになんか難しい根拠づけかなんかがされていると思いこむかもしれませんね。それに諸橋先生はなんで「「現実」」ってわざわざカッコに入れたんですかね。まあどうでもいいです。

他にも諸橋先生の本は「女性週刊誌は女性を思考停止させる」(大意)みたいな書き方で、なんか女性をバカにしている感じがして印象が悪かったです。

まあこういうのはどうでもいいんですが、入門レベルとはいえ、これくらいのちゃんの根拠づけとかできないままにメディアとジェンダーの関係とかそんな簡単には議論できないなあ、みたいな印象はもちました。もちろんメディアが我々の生活に大きな影響を与えているのはそうだと思うので、実際にどのように影響を与えているのか知りたいですね。そしてそういう研究はちゃんとあると思う。

↑にいちゃもんつけたけど、基本的に良書なので買ってあげてください。

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妊娠中絶は「10代女子の問題」ではありません

「10代女子が1日40人中絶する現実にも、アフターピルが広まらない理由」っていう記事がちょっと話題になってたんですが、この手の話が「十代女子の問題」であるとか、それが「男性優位社会」の問題だってっていうように誤解されちゃうかもしれないのでちょっとだけコメントしておきたいと思います。

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